《断章のデュエリスト》
第一部 学園・日本編

第4章 姉の影
| キャラクター | 年齢 | 学年 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 九条 蓮 | 17歳 | 高等部2年 | 主人公・ブレイカー |
| 氷室 アリア | 16歳 | 高等部2年 | 蓮と同級生・転入生 |
| 神楽 木葉 | 16歳 | 高等部1年 | 生徒会情報局 |
| 斎宮 朔夜 | 17歳 | 高等部2年 | 学園最強クラス |
| 水城 翠 | 17歳 | 高等部2年 | 蓮の幼馴染 |
| 佐伯 湊 | 17歳 | 高等部2年 | 蓮の友人 |
第1節「天音の古い写真」
放課後の空は、薄い茜色に染まっていた。
斎苑学園の校舎を出た九条蓮は、鞄を肩に掛け直しながら、スマートフォンの画面を見つめていた。
表示されているのは、神楽 木葉から届いた短いメッセージだった。
『昨日の図書館の件、もう少し調べてみるね! 九条家の古い記録、学園の資料、どこかに手がかりが残ってるはずだから!』
その下には、月の絵文字が三つ並んでいる。
「……相変わらず元気だな」
蓮は小さく笑い、返信を打ち込んだ。
『頼む。ただし、無理はするなよ』
すぐに既読がついた。
『はーい! 九条くんも、ひとりで危ないところに行かないこと!』
「……お前に言われたくないんだけどな」
そう呟きながらも、蓮はスマートフォンをポケットにしまった。
地下の《失われた図書館》で起きたことは、まだ頭から離れない。
《閲覧者》
《認識――完了》
そして、黒い本に記された自分の名前。
《この者、物語を生む者にして、物語を断つ者》
あの言葉は、本当に自分のことを指していたのだろうか。
物語を断つ力なら、蓮は知っている。
境界を見つけ、接続を断ち、異常が現実へ侵食するのを防ぐ。それが自分の役割なのだと思っていた。
けれど、物語を生むとはどういうことなのか。
自分が何かを生み出すことで、誰かの人生が変わるのだとしたら。
その力は、本当に自分の意思で扱えるものなのだろうか。
「……考えても、答えは出ないか」
蓮は息を吐いた。
今日は、エッジズの任務もない。
木葉との調査も、いったん明日に持ち越しだ。
久しぶりに、まっすぐ家へ帰る。
ただそれだけのことなのに、妙な違和感があった。
以前なら、放課後に何も予定がない日は、どこか得をした気分になったものだ。
友人と寄り道をしたり、家でゲームをしたり、読みかけの本を開いたり。
そんな何気ない時間が、いつの間にか遠くなっていた。
そして、ふと気づく。
普通の日常を過ごしていると、思い出す人がいる。
「……姉さん」
口にした名前は、誰にも聞かれることなく、夕暮れの街へ溶けていった。
*
九条家の玄関を開けると、静かな空気が蓮を迎えた。
「ただいま」
返事はない。
今は家族の帰宅時間が揃わないことも多い。だから、誰もいないこと自体は珍しくなかった。
蓮は靴を脱ぎ、廊下を歩いた。
居間を通り過ぎようとしたところで、壁際に置かれた古い時計が目に入る。
秒針が、規則正しく動いていた。
カチ。
カチ。
カチ。
その音を聞いていると、昔のことを思い出す。
まだ姉が家にいた頃。
蓮が小学生だった頃。
夕方になると、姉はよく居間で宿題をしていた。
「蓮、そこ違うよ」
「えっ、合ってるだろ?」
「合ってない。ほら、ここ」
「……あ、本当だ」
「もう。ちゃんと問題を読まないから」
「姉さんだって、たまに間違えるじゃん」
「私はいいの」
「なんでだよ!」
「お姉ちゃんだから!」
そんな理不尽な理屈に、蓮はいつも納得できなかった。
それでも、最後には二人で笑っていた。
あの頃の姉は、何でもできる人に見えた。
勉強もできた。
運動もできた。
困っている人を見つければ、迷わず手を差し伸べた。
そして、蓮が失敗して落ち込んでいると、必ずそばに来てくれた。
『失敗したっていいんだよ』
姉は、よくそう言った。
『大事なのは、そのあとどうするか。自分で考えて、もう一度やってみること』
あのときの蓮には、その言葉の意味がよく分からなかった。
ただ、姉がそう言うなら、もう一度頑張ってみようと思えた。
今になって、ようやく分かることがある。
姉は、いつも蓮に選ばせてくれたのだ。
答えを押しつけるのではなく、考える時間を与えてくれた。
自分で選び、自分で進むことを、信じてくれていた。
「……姉さん」
蓮は、もう一度その名を呟いた。
最後に姉と会ったのは、いつだっただろう。
声を聞いたのは。
顔を見たのは。
記憶をたどろうとすると、なぜか、いくつかの場面がぼやけてしまう。
失踪する直前の姉は、何を考えていたのか。
どんな顔をしていたのか。
蓮は、すぐには思い出せなかった。
まるで、記憶の一部分だけが、薄い霧に覆われているようだった。
「……なんでだよ」
蓮は眉を寄せた。
姉との思い出は、確かにある。
笑った顔も、怒った顔も、困ったように頬を膨らませた顔も。
けれど、最後の記憶だけが、どうしてもはっきりしない。
その違和感を抱えたまま、蓮は二階へ向かった。
*
自室に鞄を置いたあと、蓮は廊下の奥にある物置へ向かった。
九条家の古い荷物が保管されている場所だ。
姉がいなくなってから、ほとんど開けていない。
扉の前に立つと、少しだけ躊躇した。
ここには、姉が使っていたものも残っている。
見れば、何かを思い出せるかもしれない。
反対に、思い出したくないことまで浮かんでくるかもしれない。
「……別に、怖がることじゃないだろ」
自分に言い聞かせ、扉を開けた。
古い紙と木材の匂いがした。
段ボール箱。
使われなくなった家電。
古いアルバム。
整理されないまま積まれた書類。
窓の小さな物置には、夕方の光が細く差し込んでいた。
蓮は箱をひとつずつ確認していく。
「これは……昔の教科書か」
小学校の教科書。
運動会の記念品。
家族旅行のパンフレット。
どれも懐かしいものばかりだった。
その中に、少しだけ新しい箱があった。
箱の側面には、母の字でこう書かれている。
《天音のもの》
蓮の手が止まった。
「……姉さんの?」
箱は、ほかの荷物とは別に置かれていた。
蓋を開けると、衣類やノート、小さな文房具がきれいにまとめられていた。
姉が使っていた青いペン。
角の丸くなったノート。
小さなガラス玉。
どれも、記憶の中の姉らしいものだった。
蓮は、青いペンを手に取った。
キャップの端に、小さな傷がある。
昔、蓮が誤って落としてしまったときについた傷だった。
『あっ、ごめん!』
『大丈夫。壊れてないから』
『でも……』
『蓮がわざとやったわけじゃないでしょ?』
姉は、そう言って笑っていた。
怒られると思っていた蓮は、かえって申し訳なくなったものだ。
「……本当に、変わらないな」
ペンをそっと戻す。
その下に、一冊の小さなアルバムがあった。
表紙は淡い水色。
角は擦り切れているが、丁寧に保管されていたらしい。
蓮は、慎重にアルバムを取り出した。
「写真……」
表紙を開く。
最初のページには、家族で出かけたときの写真が貼られていた。
海辺で笑う姉。
隣でピースサインをする幼い蓮。
少し照れたような顔の父。
後ろで笑っている母。
ありふれた家族写真だった。
けれど、今の蓮には、その一枚がひどく眩しく見えた。
「……こんなに笑ってたんだな」
写真の中の姉は、今よりずっと幼い。
長い髪を風になびかせ、太陽に向かって笑っている。
蓮は、その笑顔を指先でそっとなぞった。
もちろん、写真の中の姉が振り向くことはない。
それでも、声が聞こえてきそうだった。
『蓮、こっち向いて!』
『待って、今、砂ついた!』
『そんなのいいから、早く!』
『姉さん、ちょっと待てって!』
次の写真には、砂浜で転んだ蓮を、姉が笑いながら助け起こしている姿が写っていた。
その後ろで、父がカメラを構えている。
写真の端には、母の手が少しだけ映り込んでいた。
何でもない一日。
特別な事件も、忘れられない記念日もない。
ただ、家族で海へ出かけた。
それだけの写真だった。
なのに。
「……戻ってきてくれよ」
蓮は、思わず呟いた。
誰に届くわけでもない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「姉さん……」
アルバムをめくる。
誕生日のケーキ。
庭で育てた朝顔。
夏祭りの帰り道。
姉が浴衣姿で、幼い蓮の手を引いている写真もあった。
『迷子になったら困るでしょ?』
『俺、もう子どもじゃないって!』
『はいはい。じゃあ、お姉ちゃんが迷子になったら助けてね』
『……それは、まあ』
『約束だよ?』
写真の中の姉は、いつも蓮の少し前を歩いていた。
引っ張っていくのではなく、振り返れば必ず目が合う距離で。
蓮が立ち止まれば、姉も立ち止まった。
蓮が走れば、姉も笑いながら走った。
その背中が、ずっと続いていくのだと思っていた。
姉がいなくなる日が来るなんて、考えもしなかった。
「……俺、何も知らなかったんだな」
蓮はアルバムを閉じかけて、ふと手を止めた。
最後のほうに、見覚えのない写真があった。
ほかの写真よりも少し古い。
白い縁取りのある、色褪せた一枚。
そこには、姉と父が並んで立っていた。
背景は、どこかの建物の前らしい。
姉は十代前半くらいだろうか。
今の写真より幼い顔立ちで、少し緊張したように微笑んでいる。
隣の父は、普段の家族写真では見せないような、真剣な表情をしていた。
「……こんな写真、あったのか?」
蓮は写真を裏返した。
何も書かれていない。
撮影した日付も、場所も分からない。
もう一度、表側を見た。
背景の建物には、見覚えがあった。
白い壁。
高いアーチ状の入口。
左右に並ぶ、細長い窓。
そして、入口の奥に見える暗い通路。
「……待てよ」
蓮は息を止めた。
その建物の構造には、覚えがある。
いや、正確には、実際に見たことがあるわけではない。
地下深く。
無数の本棚が並ぶ、あの場所。
《失われた図書館》。
その入口付近にあった、古いアーチ。
壁に刻まれた装飾。
そして、奥へ続く暗い通路。
写真の背景は、それらとよく似ていた。
「……そんなはず、ないだろ」
蓮は写真を顔に近づけた。
光の加減かもしれない。
似たような建物など、いくらでもある。
それに、この写真は姉がまだ幼い頃のものだ。
地下の図書館と関係があると決まったわけではない。
そう考えようとした。
だが、視線は背景から離れなかった。
写真の右端。
入口の壁に、小さな金属板が取り付けられている。
文字が刻まれているように見えた。
蓮は物置の窓辺へ移動し、夕方の光に写真をかざした。
「……読めない」
文字は小さく、ほとんど潰れている。
それでも、何かが刻まれていることだけは分かった。
そして、その金属板のすぐ下。
壁に、細い線が走っていた。
ひび割れのような線。
いや――。
「……裂け目?」
蓮の右手が、かすかに熱を帯びた。
「……っ!」
写真を持つ手に力が入る。
視界の端で、白い光が瞬いた。
ほんの一瞬。
右手の甲に、見慣れた文字が浮かび上がった。
《断章》
だが、すぐに消えた。
「今のは……」
蓮は自分の手を見つめた。
写真に反応した。
間違いない。
けれど、何に反応したのかは分からなかった。
写真そのものか。
背景の建物か。
それとも、そこに写っている姉か。
「……姉さんは、ここに行ったことがあるのか?」
問いかけても、写真は何も答えない。
蓮はアルバムを開き、前後の写真を確かめた。
その写真の前には、家族で出かけた公園の写真。
後ろには、姉が学校の制服を着ている写真。
年代は、おそらく数年ほど離れている。
しかし、問題の写真だけは、どこで撮影されたのかも分からない。
家族の誰かが撮ったのだろうか。
父が一緒に写っているのだから、母が撮影した可能性もある。
それなら、なぜ何の説明も残っていないのか。
「……父さんは、知ってるのか?」
蓮は呟いた。
九条家の古い記録。
地下の研究資料。
そして、この写真。
ばらばらだったはずのものが、少しずつつながり始めている。
だが、つながるほどに、分からないことも増えていった。
なぜ、九条家は断章に関わっていたのか。
なぜ、姉の名前が極秘の記録に残されているのか。
そして、なぜ姉は、あの日から戻ってこないのか。
蓮は写真を両手で持ち、しばらく見つめていた。
写真の中の姉は、笑っている。
その笑顔は、今も変わらない。
蓮が知っている姉の笑顔だった。
しかし、背景に写っている建物だけは、知らない場所だった。
知らないはずなのに、右手は反応した。
まるで、そこに何かを覚えているかのように。
*
「……蓮?」
背後から声がして、蓮は振り返った。
いつの間にか、玄関の開く音がしていたらしい。
廊下の向こうに、帰宅した母が立っていた。
「こんなところにいたの?」
「……ああ。ちょっと、昔のものを見てた」
母は物置の中を見回し、それから蓮の手元に目を留めた。
アルバム。
そして、一枚の写真。
その瞬間、母の表情がわずかに変わった。
「……それ」
「ん?」
「その写真、どこにあったの?」
「このアルバムの最後のほう。姉さんと父さんが写ってるやつ」
母は、ゆっくりと近づいてきた。
写真を見つめる。
そして、ほんの一瞬、目を伏せた。
「……そう」
「母さん、これ、どこで撮った写真か知ってる?」
母はすぐには答えなかった。
蓮は、その沈黙が気になった。
「……母さん?」
「ごめんなさい。はっきりとは覚えていないの」
「本当に?」
「ええ。ずいぶん昔の写真だから」
母は穏やかに微笑んだ。
けれど、その笑顔は、いつものものとは少し違っていた。
蓮には分かった。
母は、何かを思い出そうとしている。
そして、その何かを、簡単には口にできずにいる。
「……父さんなら、知ってるかな」
蓮が尋ねると、母は写真をもう一度見た。
「……そうね。お父さんに聞いてみるといいわ」
「母さんは、本当に何も知らない?」
「蓮」
母は、静かに彼の名を呼んだ。
「昔のことには、今の私たちが知らない事情もあるの。だから、何かを見つけたからといって、すぐに答えを決めないでね」
「……それ、どういう意味?」
「そのままの意味よ」
母は、蓮の手にある写真をそっと指さした。
「写真に写っているものが、すべてとは限らないでしょう?」
蓮は、息を呑んだ。
その言葉は、あまりにも自然だった。
しかし、今の蓮には、別の意味があるように聞こえた。
写真に写っているもの。
写真に写っていないもの。
記録されたもの。
記録から消されたもの。
そして、物語に書かれたことと、書かれなかったこと。
それらは、本当に別々なのだろうか。
「……母さん」
「なあに?」
「姉さんがいなくなった日のこと、覚えてる?」
母の表情が、わずかに曇った。
「……もちろんよ」
「姉さんは、何か言ってなかった? 出かける前とか、前の日とか」
「……どうして、急にそんなことを?」
「最近、姉さんのことを調べてるんだ。エッジズの記録にも、九条家の古い資料にも、姉さんの名前が出てくる」
母は、驚いたように目を見開いた。
「……エッジズ?」
「ああ。母さんも、知ってるのか?」
「……いいえ」
答えは早かった。
早すぎるほどに。
蓮は、母の顔を見つめた。
母は視線を逸らさなかった。
けれど、その指先が、わずかに震えていた。
「……ごめんなさい。今は、何も話せないわ」
「どうして?」
「まだ、あなたが知るべきではないこともあるから」
「……俺は、もう子どもじゃない」
「分かっているわ」
母は、蓮の頬にそっと手を添えた。
「あなたが、自分で考えて進もうとしていることも。でもね……」
言葉が途切れる。
母は、何かを言いかけて、やめた。
「……お母さんは、あなたまで失いたくないの」
その一言に、蓮は何も言えなくなった。
母の目には、確かな恐れがあった。
過去を思い出すことへの恐れ。
そして、これから起きるかもしれない何かへの恐れ。
蓮は、写真を握る手を緩めた。
「……分かった。今は、無理に聞かない」
「ありがとう」
「でも、いつか教えてほしい。姉さんのことも、九条家のことも」
母は、少しだけ目を伏せた。
「……ええ。いつか、きっと」
その約束が、いつ果たされるのか。
蓮には分からなかった。
ただ、母が何かを知っていることだけは、確かだった。
*
夜。
自室に戻った蓮は、机の上に写真を置いていた。
部屋の明かりを落とし、デスクライトだけを点ける。
写真をもう一度、じっくりと調べる。
姉の表情。
父の視線。
背景の建物。
そして、壁に刻まれた小さな金属板。
「……もう少し、はっきり見えればな」
スマートフォンで撮影し、拡大してみる。
だが、画質が粗く、文字は読み取れなかった。
それでも、金属板の上部に、何かの記号らしきものがある。
円を三本の線が横切るような、奇妙な模様。
蓮は、思わず身を乗り出した。
「……これ」
見覚えがある。
いや、正確には、完全に同じものではない。
《失われた図書館》の奥。
《読む》《断つ》《生む》と記された三本の柱があった部屋。
あの部屋の壁にも、よく似た意匠が刻まれていた。
円。
三本の線。
交わる部分に、小さな欠け。
偶然だろうか。
それとも、同じ場所に由来するものなのだろうか。
蓮は写真を机に置き、ノートを開いた。
記憶を頼りに、金属板の模様を描き写す。
線の角度。
円の大きさ。
中央の欠け。
できるだけ正確に再現した。
描き終えたとき、右手が再び熱を帯びた。
「……またか」
蓮は手を開いた。
今度は文字が現れなかった。
ただ、手のひらの奥に、何かが触れたような感覚が残っている。
それは、境界を切るときの感覚ではなかった。
何かを見つけたとき。
離れていたものが、つながりかけたとき。
そんな感覚に近かった。
「……この写真、姉さんが持っていたものなのか?」
蓮はアルバムを確かめた。
写真は、ほかの写真と同じように貼られていた。
特別な印もない。
裏側にも何も書かれていない。
けれど、これが単なる古い写真だとは思えなくなっていた。
姉は、この場所で何をしていたのか。
父は、なぜ一緒にいたのか。
母は、何を知っているのか。
そして、写真の背景に写った建物は、《失われた図書館》とどう関係しているのか。
疑問は尽きなかった。
蓮は、写真を丁寧にアルバムへ戻そうとした。
そのとき。
写真の端に、もうひとつのものが写り込んでいることに気づいた。
姉の肩の向こう。
入口の暗がり。
人影のようなものが立っている。
「……誰だ?」
蓮は写真を持ち上げた。
人影は、建物の奥にいるようだった。
輪郭はぼやけている。
顔も見えない。
ただ、その人物は、こちらを向いているように見えた。
写真を撮影した人を見ているのか。
それとも、カメラの向こうにいる誰かを見ているのか。
判断できなかった。
蓮は、拡大した画像をもう一度確認した。
すると、人影の足元に、白い線が見えた。
床に走る、細い亀裂のような線。
その線は、人影の足元から壁へ伸び、入口の向こうへ続いている。
蓮の右手が、強く熱を帯びた。
「……っ!」
今度は、はっきりと分かった。
この写真に写っているものは、単なる建物ではない。
少なくとも、自分の力は、そこに何かを感じ取っている。
蓮は、机の上に写真を置いた。
そして、スマートフォンを手に取る。
木葉に連絡しようか。
そう考えたが、指が止まった。
まだ、何が写っているのか分からない。
不確かな情報で、彼女を巻き込みたくなかった。
それに、この写真は九条家のものだ。
まずは、父に確認するべきなのかもしれない。
「……明日、聞いてみるか」
蓮は呟いた。
机の上で、写真が静かに光を反射している。
そこに写る姉は、笑っていた。
何も知らないように。
何も恐れていないように。
けれど、蓮には、もう以前と同じ写真には見えなかった。
姉の笑顔の向こうに、知らない場所がある。
知らない人影がある。
そして、知らない過去がある。
蓮が探しているのは、姉がどこへ行ったのかという答えだけではないのかもしれない。
姉が何を知り、何を選び、何を守ろうとしたのか。
その答えを知らなければ、姉を見つけても、何も分からないままかもしれない。
蓮は、写真をアルバムに戻さず、机の引き出しにしまった。
すぐに捨てたり、隠したりするつもりはなかった。
いつでも見返せるように。
姉の笑顔を、忘れないように。
そして、いつか、この写真に写る場所へたどり着くために。
「……待ってて、姉さん」
蓮は、静かに呟いた。
「今度は、俺が見つけるから」
その声は、誰にも届かなかった。
けれど、机の引き出しの中。
古い写真の表面に、ほんの一瞬、白い光が走った。
写真の背景に写る暗い入口。
その奥にあるはずのない文字が、かすかに浮かび上がる。
《閲覧者――未登録》
そして、すぐに消えた。
部屋は静まり返っている。
何も起きていない。
そう思えるほど、穏やかな夜だった。
ただ、蓮はまだ知らない。
姉が残した写真は、過去を記録しただけのものではない。
それは、九条家が隠してきた歴史と、失われた物語をつなぐ、最初の手がかりだった。
そして、写真の向こう側では。
誰も知らない物語が、今も静かに続いていた。
――第4章 第1節・了
第2節「九条家の過去」
翌朝。
九条蓮は、いつもより少し早く目を覚ました。
机の引き出しには、昨夜見つけた古い写真が入っている。
姉の天音と父が並んで写っていた、あの一枚。
背景にある見覚えのない建物。
入口の奥に立つ人影。
そして、写真に反応した自分の右手。
気になり始めると、何度考えても頭から離れなかった。
「……やっぱり、聞くしかないか」
蓮は制服に着替え、写真を鞄の内ポケットにしまった。
今日は父が朝から家にいると、昨夜、母から聞いていた。
写真のことを尋ねるなら、今しかない。
そう考えて階段を下りると、居間からコーヒーの香りが漂ってきた。
「おはよう」
「おう。早いな、蓮」
父は新聞を畳み、カップを手に取った。
いつもと変わらない朝。
その姿を見ていると、昨夜の母の表情が思い出された。
何かを知っているのに、話せない。
そんな顔だった。
「……父さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何だ?」
「昔の写真を見つけたんだ。父さんと姉さんが一緒に写ってるやつ」
その瞬間、父の手が止まった。
カップの縁に触れていた指が、わずかに動く。
「……どこで見つけた?」
「物置にあった、姉さんのアルバム」
「そうか……」
父はカップを置いた。
それだけだった。
けれど、蓮には分かった。
父は、その写真を覚えている。
「父さん。あの写真、どこで撮ったんだ?」
「……古い研究施設だ」
「研究施設?」
「ああ」
父は、少し間を置いてから答えた。
「昔、九条家が関わっていた施設のひとつだ」
蓮は息を呑んだ。
「……九条家が?」
「そうだ」
「何の研究をしてたんだ?」
父はすぐには答えなかった。
居間の時計が、カチリと音を立てる。
「……断章に関する研究だ」
蓮は、思わず鞄に手を伸ばした。
やはり、そうだった。
地下の図書館で見つけた記録。
九条家の名前。
《日本書紀異本》に残された欠落。
それらは、偶然つながっていたわけではなかった。
「父さん。九条家は、昔から断章に関わっていたのか?」
「昔から、というのは少し違う。少なくとも、今のような意味で断章と呼ばれるものを研究するようになったのは、ずっと後のことだ」
「じゃあ、最初は何を?」
「物語だ」
「……物語?」
「古い神話や伝承、各地に残された昔話。人から人へ語り継がれてきた物語を集め、記録し、研究していた」
父は、窓の外へ視線を向けた。
「九条家には、昔からそういうものを集める者がいた。文字に残された記録だけじゃない。土地に伝わる言い伝えや、誰かが口にした不思議な体験もな」
「それが、断章とどう関係するんだ?」
「……物語は、ただの言葉の集まりではないからだ」
父は、蓮を見た。
「同じ話でも、語る者によって表現が違う。聞く者によって、受け取り方も違う。何百年も語り継がれるうちに、物語には人々の願いも、恐れも、記憶も積み重なっていく」
「……」
「九条家の一部の人間は、そうした物語の中に、普通の人には分からない何かが残ることに気づいたんだ」
蓮の脳裏に、《失われた図書館》の光景がよみがえった。
無数の本。
読む者によって意味を変える記録。
そして、自分の名前を記した黒い本。
「……その何かが、断章だったのか?」
「そう考えられている」
「考えられている、って……父さん自身も、はっきり分かってないのか?」
父は苦笑した。
「昔の研究記録には、分かっていることと、推測にすぎないことが混在している。すべてが正しいとは限らないんだ」
その言葉に、蓮は少しだけ肩の力を抜いた。
父も、すべてを知っているわけではない。
それは意外だったが、同時に納得もできた。
もし父がすべてを知っているのなら、姉がいなくなった理由も、今まで説明してくれていたはずだ。
「……じゃあ、九条家は断章を作ったのか?」
「いや。少なくとも、そう断定できる記録はない」
「断章を見つけて、研究していた?」
「それもある。だが、研究だけでは説明できない記録も残っている」
「説明できない記録?」
父は答えず、立ち上がった。
「蓮。学校へ行く前に、少し時間を取れるか?」
「え?」
「見せたいものがある」
蓮は、思わず時計を見た。
まだ余裕はある。
「……分かった」
*
父に連れられて向かったのは、家の奥にある小さな書斎だった。
普段は鍵が掛かっている。
子どもの頃、蓮は一度だけ中に入ったことがあった。
そのときは、父にすぐに見つかって追い出された。
『ここは大人の資料を置いてある場所だ。勝手に触ってはいけない』
そう言われたのを覚えている。
「……ここ、まだ使ってたんだ」
「ああ。ほとんどは整理できていないがな」
父は鍵を開けた。
扉の向こうには、壁一面の本棚と、古い机があった。
机の上には書類が積まれ、棚には革張りの本やファイルが並んでいる。
窓辺には、使われなくなった古いランプ。
そして、部屋の奥に、小さな金庫が置かれていた。
「父さん。この部屋の資料って……」
「九条家に残されていたものだ。すべてが断章に関係するわけじゃない。家系の記録や、昔の調査報告もある」
父は本棚から一冊のファイルを取り出した。
表紙には、手書きでこう記されていた。
《九条家旧記録・研究関係資料》
「……これを見せてくれるのか?」
「全部ではない。今のお前に必要なところだけだ」
「必要なところって……」
「まずは、九条家が何をしていたのか。それを知っておいたほうがいい」
父はファイルを机に置いた。
中には、古い文書の複写や、手書きの報告書が挟まれていた。
紙は黄ばんでいる。
文字もところどころ薄れている。
だが、蓮には読める部分があった。
《物語資料収集記録》
《伝承内容の差異について》
《記録間に生じた不一致》
「……これ、学園の地下で見つけた資料と似てる」
「学園?」
父の目が鋭くなった。
「……斎苑学園の地下に、何かあったのか?」
蓮は一瞬、言葉に詰まった。
父にどこまで話すべきか。
エッジズのこと。
《失われた図書館》のこと。
自分の右手に起きている異常。
どれも、簡単に説明できるものではない。
「……古い研究区画を見つけたんだ。そこに、九条家の名前が残ってた」
父は、ファイルを押さえる手に力を込めた。
「……そうか」
「父さんは、知ってたのか?」
「学園に九条家が関係していたことは知っている。だが、どの程度の研究が行われていたかまでは、正確には知らない」
「じゃあ、父さんも調べてたのか?」
「昔、少しだけな」
父はファイルを開いた。
その中から、複写された古い報告書を一枚取り出す。
そこには、短い文章が記されていた。
――物語に蓄積された意味は、単なる記録として保存されるとは限らない。
――一定の条件下において、記憶・感情・認識が独立した情報構造を形成する可能性がある。
――本研究では、その構造を仮に「断章」と呼称する。
蓮は、思わず息を止めた。
「……これ、学園で見たものと同じだ」
「そうか」
「父さん。この記録、いつのものなんだ?」
「正確な年代は分からない。だが、かなり古い。少なくとも、今の斎苑学園が整備される前から、似た研究が行われていた可能性がある」
「……じゃあ、九条家は学園ができる前から断章を研究していたのか?」
「その可能性はある」
父は、別の紙を取り出した。
そこには、複数の人物名が並んでいた。
《九条宗一郎》
《九条澄江》
《九条真澄》
そして、名前の一部が黒く塗りつぶされた人物。
蓮は、思わず指を止めた。
「……宗一郎。澄江。真澄……」
地下の図書館で見た名前だった。
九条家の古い系譜。
物語資料の収集に携わった者。
口承の記録を残した者。
学園の地下研究に参加した者。
別々の記録に残されていた名前が、ここでも並んでいる。
「……みんな、断章に関わってたのか?」
「全員が直接、断章を扱っていたわけではない。だが、物語に関する研究や記録に関わった者は多かったようだ」
「じゃあ、俺たちの家は……」
蓮は言いかけて、口を閉じた。
九条家は、ただの研究者の家系だったのか。
それとも、断章と何か特別な関係を持っていたのか。
地下の図書館で見た文字が、頭の中によみがえる。
《継承者候補――九条蓮》
父に聞けば、何か分かるかもしれない。
そう思った。
しかし、その言葉を口にする前に、父が別の紙を差し出した。
「……蓮。これを読んでみろ」
紙の上には、短い一文があった。
――記録された物語と、現実に起きた出来事が一致しない事例について、継続調査を行う。
「……記録と現実が一致しない?」
「ああ」
「どういうことだ?」
「例えば、ある土地に伝わる昔話があるとする。複数の記録を比較すると、登場人物や出来事の順序が違っている。そこまでは珍しいことではない」
「語り継がれるうちに、内容が変わったんだろ?」
「普通なら、そう考える」
父は、別の資料を広げた。
「だが、九条家が調査した事例の中には、古い記録の時点ですでに矛盾が存在していたものがあった。どちらかが書き換えられたという証拠もない。最初から、異なる内容が同時に記録されていたように見えるんだ」
蓮は、眉を寄せた。
「……それって、《日本書紀異本》みたいな?」
父の表情が変わった。
「……その名前を、どこで?」
蓮は、しまったと思った。
あの本のことは、まだ詳しく話していない。
「……学園の資料に出てきたんだ」
「そうか……」
父は、しばらく黙っていた。
「《日本書紀異本》は、九条家の記録にも名前が残っている。ただし、現物を見た者は限られていたらしい」
「父さんは見たことがあるのか?」
「ない」
父は、首を横に振った。
「記録には存在する。だが、所在が分からない。複写も不完全で、内容を確かめることはできなかった」
「……俺たちは、その本を見つけた」
蓮が言うと、父は目を見開いた。
「現物を?」
「ああ。古い図書館の奥にあった」
父は、深く息を吐いた。
「……そうか。そこまで進んでいたのか」
「父さん、やっぱり何か知ってるんだな?」
「知っていることと、確かめられることは違う」
父は静かに答えた。
「古い記録を読むだけでは、何が起きたのか断定できない。記録が正しいのか、誰かが意図的に残したのか。それとも、記録そのものに何か異常があるのか」
「……」
「だから、蓮。見つけたものを、すぐに真実だと思い込まないでほしい」
その言葉は、昨日、母が言ったこととよく似ていた。
写真に写っているものが、すべてとは限らない。
記録されたものが、すべてとは限らない。
蓮は、無意識に右手を握りしめた。
「……父さん。九条家には、断章を扱う特別な能力があったのか?」
父は、しばらく蓮を見つめていた。
「……そういう記録もある」
「本当なのか?」
「物語に関する情報を、普通の人間より敏感に感じ取る者がいた。記録の矛盾に気づいたり、誰も読めない資料の一部を読み取ったり……。だが、それが血筋によるものなのか、訓練によるものなのか、あるいは別の理由なのかは分からない」
蓮は、自分の右手を見た。
断章を切る力。
図書館から認識されたこと。
自分の名前が記された黒い本。
それらは、九条家の過去と関係しているのだろうか。
「……俺も、その一人なのかな」
思わず口にした言葉だった。
父は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「お前が何を持っているのか、私にはまだ分からない」
「……そっか」
「だが、ひとつだけ言えることがある」
父は、蓮の目を見た。
「力があることと、その力の意味を知っていることは違う。まして、力があるからといって、その力を使う義務があるわけでもない」
蓮は、顔を上げた。
その言葉は、どこかで聞いたことがある気がした。
いや、同じ言葉ではない。
けれど、考え方は似ている。
幼い頃、姉が自分に話してくれたこと。
『自分で考えて、選んでいいんだよ』
姉の声が、記憶の奥からよみがえった。
「……姉さんも、そう言ってた」
蓮が呟くと、父の表情が少しだけ和らいだ。
「あいつは、昔からそういうところがあったな」
「父さんも、姉さんに同じことを言ってたのか?」
「いや。むしろ、私のほうが教えられたのかもしれない」
父は、少し寂しそうに笑った。
「天音は、自分が正しいと思ったことを、簡単には曲げなかった。誰かに言われたから従うのではなく、自分で考えて決める。そういう子だった」
「……うん」
「だからこそ、あの日も……」
父の言葉が止まった。
蓮は、顔を上げた。
「……あの日?」
「……いや」
父は視線を逸らした。
「昔の話だ」
「父さん。今、何を言いかけたんだ?」
「すまない。今は、まだ話せない」
「……姉さんがいなくなった日のことか?」
父は答えなかった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
*
学校へ向かう時間が迫っていた。
蓮は、ファイルを閉じる前に、もう一度、古い報告書へ目を落とした。
そのページの下部には、小さな文字が記されていた。
《物語資料研究に関する補足》
《記録を保存することと、物語を保存することは、必ずしも同義ではない》
その下は、紙が破れていて読めなかった。
「……父さん。この続きは?」
「残念だが、そこから先は失われている」
「ほかに記録はないのか?」
「探せば、何か見つかるかもしれない。ただ、九条家に残された資料だけでは限界がある」
「……学園の地下にある資料なら?」
「それは、お前が実際に見たものだろう。私が内容を決めつけることはできない」
父はファイルを閉じた。
「蓮。もし本当に調べるつもりなら、記録の出所と、書かれた時期を確かめるんだ。何が書かれているかだけじゃない。誰が、何のために残したのか。それも大切だ」
「……分かった」
「それから」
父は、蓮の肩に手を置いた。
「天音のことを調べるのなら、焦るな」
蓮は、父を見つめた。
「……姉さんは、生きてると思うか?」
その問いに、父はすぐには答えなかった。
窓の外では、朝の光が少しずつ強くなっている。
「……私は、あいつが生きていると信じている」
やがて、父はそう言った。
「だが、信じることと、確かめることは違う。お前が探すなら、真実を確かめてほしい」
「……ああ」
「そして、もし見つけたときには……」
父は、言葉を選ぶように間を置いた。
「天音が何を望んでいるのか、ちゃんと聞いてやってくれ」
蓮の胸が、締めつけられた。
姉を見つけたい。
それは、ずっと変わらない願いだった。
けれど、見つけたあと、どうするのか。
姉を連れ戻すことだけを考えていて、本当にいいのだろうか。
もし姉が、自分の意思で何かを選んでいたのだとしたら。
もし、帰れない理由があるのだとしたら。
蓮は、その理由を知ろうとしなければならない。
「……分かった」
蓮は、静かに頷いた。
*
玄関へ向かう途中、蓮はふと足を止めた。
「……父さん」
「何だ?」
「昨日、物置で古い写真を見つけたんだ。父さんと姉さんが一緒に写ってるやつ」
「……ああ」
「背景に、古い建物が写ってた。あれ、どこなんだ?」
父の表情が、わずかに強張った。
「……写真を持っているのか?」
「ああ」
「そうか……」
父は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「その建物については、私からも調べてみる。ただし、写真をほかの人間に見せるのは、少し待ってくれないか」
「どうして?」
「……まだ、確かめたいことがある」
「父さんも、あの場所を知ってるんだな?」
「……知っている、と言い切れるほどではない」
曖昧な答えだった。
けれど、父は嘘をついているようには見えなかった。
何かを隠している。
しかし、それは蓮を騙すためではなく、まだ説明できない何かを慎重に扱おうとしているようにも感じられた。
「……分かった。写真は持ってるけど、勝手に広めたりはしない」
「ありがとう」
父は、少しだけ笑った。
「学校へ遅れるぞ」
「……あっ、そうだった!」
蓮は慌てて靴を履いた。
「行ってきます!」
「ああ。気をつけてな」
玄関の扉を開ける。
朝の空気が、頬を撫でた。
いつもと変わらない通学路。
いつもと変わらない街。
けれど、蓮の中では、何かが確実に変わり始めていた。
九条家は、ただ昔話を集めていただけではない。
物語の中に蓄積された意味や記憶が、現実に影響する可能性を研究していた。
そして、その研究は、姉の天音とも関係している。
父は、すべてを知っているわけではない。
母も、まだ何かを語れずにいる。
九条家の過去には、記録されていない部分がある。
あるいは――記録されていたのに、失われた部分が。
蓮は、鞄の中にある写真の存在を確かめた。
写真の向こうにある、見知らぬ建物。
あの場所が何なのか、今はまだ分からない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
姉の失踪は、蓮が思っていたよりもずっと深い場所につながっている。
九条家の過去。
断章の研究。
そして、まだ知らない姉の選択。
それらは、ひとつの物語の中に存在しているのかもしれない。
蓮は前を向いた。
「……姉さん。今度こそ、ちゃんと知りたいんだ」
その言葉は、朝の街に静かに溶けていった。
そして、蓮の知らないところで。
九条家の書斎に残された古いファイルが、閉じた表紙の内側で、かすかに音を立てた。
――パラリ。
誰も触れていないページが、一枚だけめくられていた。
そこには、ほかの資料には見当たらない一文が、薄い墨で記されていた。
《九条家研究記録・閲覧制限資料》
《対象者――九条天音》
その下には、さらに小さな文字が続いていた。
《本人の意思による接続を確認》
だが、その先は、黒い線で塗りつぶされていた。
何が書かれていたのか。
誰が消したのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
第3節「レクイエムの記録」
放課後。
斎苑学園の旧校舎、その三階にある資料室には、夕暮れの光が細く差し込んでいた。
「……それで、九条くん。お父さんから聞いた話って、どこまで本当なの?」
机の向かいに座った神楽 木葉が、ノート端末を開きながら尋ねた。
「どこまで、って言われてもな。父さん自身、昔の研究について全部知っているわけじゃないらしい。ただ、九条家が断章の研究に関わっていたことは認めた」
「なるほど……。やっぱり、あの地下の資料は偶然じゃなかったんだね」
木葉は画面に視線を落とした。
先日、二人が《失われた図書館》で見つけた九条家の記録。
そこには、物語に蓄積された意味や記憶が、独立した情報構造を形成する可能性が記されていた。
そして、九条家の古い資料にも、よく似た研究記録が残されていたという。
「それに、これ」
蓮は鞄から一枚の写真を取り出した。
姉の天音と父が、見知らぬ建物の前で並んでいる古い写真だ。
木葉は身を乗り出した。
「例の写真だね。背景が図書館に似てるっていう……」
「ああ。父さんは、九条家が関わっていた古い研究施設だと言っていた。ただ、詳しい場所までは教えてくれなかった」
「お父さん、何か知っていそうだった?」
「……知っていることを、全部話してくれたわけじゃないと思う」
蓮は写真を見つめた。
母も、父も、何かを隠している。
しかし、それが蓮を遠ざけるためなのか、それとも、まだ話せない事情があるからなのかは分からなかった。
「それから、もうひとつ」
蓮は、父の書斎で見た記録を思い出した。
「九条家の研究資料に、姉さんの名前があったんだ」
「天音さんの?」
「ああ。最後に見た資料には、こう書かれていた」
蓮は、記憶を確かめるように言った。
「《対象者――九条天音》。それと、《本人の意思による接続を確認》」
木葉の表情から、笑みが消えた。
「……本人の意思による接続」
「何の接続なのかは分からない。でも、姉さんが何らかの形で断章に関わっていた可能性は高い」
「うん……。それなら、調べる場所を変えたほうがいいかもしれない」
「場所?」
木葉は端末の画面を蓮に向けた。
「九条家の資料と学園の地下資料。どちらも、昔の研究については分かる。でも、天音さんが実際に何をしていたのかまでは分からないよね」
「……そうだな」
「なら、天音さんが活動していた時期の記録を調べるべきだと思う」
木葉は、画面上にひとつの名前を表示した。
《レクイエム》
蓮の目が、その文字に止まった。
「……断章管理機構か」
「そう。断章の発生や暴走、関連する事件を管理・記録している組織。表向きには、危険な断章から人々を守るための機関として知られているけど……」
「表向きには?」
「内部の記録を全部読めるわけじゃないからね。管理する対象が増えるほど、記録の扱いも厳しくなる。特に、重大な暴走事件や極秘任務に関する資料は、閲覧権限が必要になるみたい」
木葉は指先で画面を操作した。
「天音さんが断章に関わっていたなら、レクイエムの記録に何か残っているかもしれない」
「……どうやって調べる?」
「まずは、閲覧できる記録から探す。私の情報局の権限で確認できる範囲もあるし、学園に保管されている組織間連携の資料なら、調べられる可能性がある」
「勝手に見て大丈夫なのか?」
「閲覧できるものを閲覧するだけなら問題ないよ。もちろん、権限のない資料に無理やり侵入するのは別だけど」
木葉は、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「私だって、何でも好き勝手に見られるわけじゃないんだからね?」
「……その言い方だと、普段はかなり見ているように聞こえるぞ」
「情報局だから!」
「便利な言葉だな、それ……」
いつもの調子に、蓮は少しだけ笑った。
だが、木葉が画面に表示した《レクイエム》の文字を見ると、その笑みはすぐに消えた。
姉の名前が、そこにあるかもしれない。
もし記録が見つかれば、姉が失踪する前に何をしていたのか、少しでも分かるかもしれない。
「……頼む。姉さんの記録を探してくれ」
「うん。一緒に探そう」
木葉は頷いた。
「ただし、見つけた記録が全部真実とは限らない。前に話したでしょ? 記録は、誰かが残したものだから」
「ああ。書いた人間がいる。書かなかったこともある」
「そういうこと。だから、書かれた内容だけじゃなくて、何が書かれていないのかも確かめよう」
その言葉に、蓮は静かに頷いた。
姉の過去を知るための調査が、始まろうとしていた。
*
翌日。
放課後の資料閲覧室。
木葉が手配したのは、斎苑学園とレクイエムの連携記録を確認できる端末だった。
学園には、断章に関係する事件の一部が、教育機関向けの安全資料として共有されている。
ただし、閲覧できるのは、危険性の低い事例や、一般的な管理手順に限られていた。
「これが、レクイエムの公開資料?」
蓮は画面をのぞき込んだ。
「正確には、学園向けに共有された記録だね。機構の内部資料そのものではないよ」
木葉は説明しながら、検索条件を入力していく。
「断章の暴走事例、境界異常の発生記録、過去の協力者名簿……。まずは、天音さんの名前が出てくるか確認してみる」
「九条天音、でいいんだな?」
「うん。漢字表記だけじゃなく、登録番号や別名義が使われている可能性もあるから、複数の条件で調べるよ」
画面に検索結果が表示された。
数件の一般資料。
断章の基礎管理に関する報告書。
過去の協力者一覧。
その中に、一件だけ、不自然な記録があった。
「……あれ?」
木葉の指が止まった。
「どうした?」
「この記録……」
画面には、短い項目が表示されている。
《レクイエム協力者登録記録》
《登録名――九条天音》
《登録区分――特別協力者》
《詳細情報――閲覧制限》
蓮は、画面に顔を近づけた。
「……姉さんの名前だ」
「うん。間違いないね」
木葉は、登録日時を確認した。
「この登録、かなり前のものだよ。天音さんが失踪する前の時期と重なっている」
「特別協力者って、何だ?」
「通常の職員とは違う形で、機構の任務に協力する人に付けられる区分……みたいだね。けど、登録区分だけでは、どんな仕事をしていたのか分からない」
「姉さんは、レクイエムの職員だったのか?」
「今の情報だけでは、そうとは言い切れない。協力者として登録されていたことは確かだけど、雇用関係や所属までは、この記録にはないから」
蓮は黙って画面を見つめた。
姉は、レクイエムに関わっていた。
しかも、普通の協力者ではない。
《特別協力者》。
その文字が、胸の奥に重く沈んだ。
「……俺、何も知らなかった」
「蓮くん……」
「家では、そんな話を一度も聞いたことがない。姉さんが何をしていたのかも、どこへ行っていたのかも……」
蓮は唇を噛んだ。
姉は、いつも身近にいた。
宿題を教えてくれた。
困ったときには助けてくれた。
家族の中で、誰よりも自分を理解してくれていると思っていた。
なのに。
姉には、自分が知らない顔があった。
知らない仕事があった。
知らない場所へ出入りしていた。
「……姉さんは、俺に何を隠していたんだ?」
その問いに、木葉はすぐには答えなかった。
慰めの言葉を口にすることはできる。
けれど、今はそれだけでは意味がない。
「……隠していたのか、それとも話せなかったのか。そこは、まだ分からないよ」
木葉は静かに言った。
「大切な人にだって、話せないことはある。話さないことが、その人を嫌っているという意味になるわけじゃないから」
「……分かってる」
「うん。でも、分かっていても、寂しいよね」
蓮は顔を上げた。
木葉は、いつもの笑顔を無理に浮かべてはいなかった。
ただ、蓮の気持ちを受け止めるように、そこに座っていた。
「……ああ」
蓮は小さく答えた。
「寂しいよ。姉さんが何を考えていたのか、少しでも知りたかった」
「なら、調べよう。記録が残っているなら、きっと何か分かる」
木葉は画面へ向き直った。
「ここから先は、閲覧制限が掛かっているみたい。けど、制限の理由と、管理部署くらいは確認できるかもしれない」
彼女が登録項目を開く。
画面に、新たな情報が表示された。
《管理区分――特別機密》
《参照可能部署――断章管理機構・任務記録部》
《関連記録――極秘任務管理番号 RQ-07》
「……極秘任務?」
蓮の声が低くなった。
木葉も、画面を見つめたまま動かなかった。
「任務管理番号が付いてる。しかも、通常の協力者記録とは別の管理区分……」
「姉さんは、極秘任務に参加していたってことか?」
「その可能性は高いと思う」
木葉は慎重に言った。
「ただ、任務の内容はまだ分からない。RQ-07が何を意味するのかも、この資料だけでは判断できないよ」
「……その記録は見られないのか?」
「今の権限では無理。任務記録部が管理している資料は、一般の連携端末からは開けないようになってる」
蓮は、画面の文字を見つめた。
《極秘任務管理番号 RQ-07》
姉の名前の横に、こんな記録が残っていた。
失踪者として扱われているだけだと思っていた。
けれど、レクイエムの記録では、姉は単なる失踪者ではなかった。
組織の任務に関わり、特別な管理対象として記録されている。
それは、何を意味するのか。
「……もっと調べられないか?」
蓮が尋ねると、木葉は少し考えた。
「正規の手続きで閲覧申請を出す方法はある。でも、任務の詳細が極秘指定されているなら、簡単には許可されないと思う」
「申請したら、姉さんのことを調べているって知られるんじゃないか?」
「その可能性はあるね」
「……」
「でも、別の手がかりもあるよ」
木葉は、検索画面に戻った。
「任務の詳細が見られなくても、任務に関連する記録が別の資料に残っているかもしれない。任務前の適性確認、装備の記録、出動日時、報告書の管理履歴……。内容そのものが隠されていても、周辺の記録まで全部消えているとは限らないから」
「……それを探すのか」
「そう。正面から開けない扉なら、まず扉の周りを調べる。情報収集の基本だよ」
「お前、本当に楽しそうだな……」
「だって、謎が増えたんだもん!」
「増えてるのは、俺の悩みなんだけどな」
「それは……ごめん」
木葉は少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「でも、ひとりで悩むよりは、一緒に調べたほうがいいでしょ?」
「……ああ」
蓮は頷いた。
今はまだ、何も分かっていない。
それでも、姉の足跡がひとつ見つかった。
その事実だけは、確かだった。
*
それから二人は、関連資料をひとつずつ確認していった。
特別協力者の登録規定。
過去の断章暴走事例。
極秘任務に関する管理手順。
閲覧できる資料の中に、天音の名前が再び現れることはなかった。
だが、ひとつだけ気になる項目が見つかった。
「……これ、見て」
木葉が画面を指さした。
《極秘任務記録の保全規定》
その中に、次の一文があった。
――重大な断章異常に関わる任務記録は、任務完了後も独立した保管区画に保存する。
――対象者の状態に変化が認められた場合、関連記録の閲覧権限を再審査する。
「対象者の状態に変化……?」
蓮は、文章を読み返した。
「どういう意味だ?」
「任務に関わった人の状態が変わったら、記録の閲覧権限を見直す、ということだと思う。でも、何のためにそんな規定があるのかまでは分からない」
「……姉さんの記録にも、これが適用されているのか?」
「可能性はある。ただし、天音さんの個別記録を見ない限り、確かなことは言えないよ」
木葉は、画面の隅に表示された資料番号を記録した。
「この規定の管理部署は、任務記録部。さっきのRQ-07と同じ部署だね」
「つまり、姉さんの任務記録は、今もそこに保管されているかもしれない……」
「うん。少なくとも、記録が正式に廃棄されたという情報は見つかっていない」
蓮は、深く息を吐いた。
姉の記録は、残っている。
しかし、読むことができない。
手が届きそうで、届かない。
そのもどかしさが、胸の奥に広がった。
「……レクイエムに直接問い合わせることはできないのか?」
「できるとは思う。でも、私たちだけで動くのは少し危険かもしれない」
「危険?」
「極秘任務の記録を探していることが、管理側に伝わる可能性があるから。もし天音さんの任務が今も何らかの理由で機密扱いされているなら、問い合わせたことで、こちらの動きが把握されるかもしれない」
「……誰に?」
「分からない。任務記録部なのか、レクイエムの上層部なのか。それとも、別の部署なのか」
木葉は端末を閉じなかった。
「ただ、ひとつ気になることがあるんだ」
「何だ?」
「天音さんの登録記録は残っているのに、任務の内容だけが閲覧制限されている。単純に機密だからという可能性もあるけど、任務の存在そのものを隠すのではなく、詳細だけを隠しているのが気になる」
「……どう違うんだ?」
「記録を完全に隠したいなら、一般の検索結果に名前を出さない方法もあるでしょ? なのに、天音さんの名前と特別協力者という区分は、普通の連携資料から確認できた」
蓮は考え込んだ。
「つまり……名前は残す必要があった?」
「そう。あるいは、名前を消せなかったのかもしれない」
その言葉に、蓮の右手がわずかに疼いた。
消せなかった。
記録から消すことができなかった。
その考えは、地下の図書館で見た《日本書紀異本》を思い起こさせた。
そこには、名前があるべき場所に空白があった。
記録されたはずなのに、失われた名前。
そして、今度は、記録を消されていない姉の名前。
何かがつながっている気がした。
しかし、まだ、確信は持てない。
「……木葉」
「うん?」
「もし、姉さんが極秘任務で何かを見つけていたとしたら……それが理由で、今も戻れないのかな」
木葉は、すぐには答えなかった。
「その可能性はあると思う。でも、逆に、誰かを守るために任務へ参加した可能性もある。今の段階では、どちらとも決められない」
「……そうだな」
「だからこそ、任務の記録が必要なんだよ。天音さんが何をしたのか、何を知ったのか。そして、何を選んだのか」
蓮は、静かに頷いた。
父が言っていた言葉がよみがえる。
――天音が何を望んでいるのか、ちゃんと聞いてやってくれ。
姉を見つけたい。
けれど、見つけることだけが目的ではない。
姉が自分の意思で何かを選んだのなら、その選択を知りたい。
姉が誰かを守ろうとしていたのなら、その理由を知りたい。
そして、もし姉が助けを必要としているのなら、今度こそ手を伸ばしたい。
「……絶対に、見つける」
蓮は小さく呟いた。
「姉さんの記録も、姉さん自身も」
「うん。私も手伝うよ」
木葉は、端末に資料番号を保存した。
「ただし、焦らないこと。今ある情報を整理してから、次の手を考えよう」
「分かった」
蓮は、画面に残った文字をもう一度見つめた。
《登録名――九条天音》
《登録区分――特別協力者》
《関連記録――極秘任務管理番号 RQ-07》
それは、姉が確かに何かをしていたという証拠だった。
けれど、その任務が何だったのか。
なぜ、閲覧が制限されているのか。
なぜ、今も記録が残されているのか。
肝心なことは、何ひとつ分かっていない。
*
資料閲覧室を出る頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「……今日は、ここまでかな」
木葉が端末を鞄にしまう。
「ああ。いろいろ分かったけど、肝心なところは全部隠されてたな」
「うん。でも、何も見つからなかったわけじゃないよ」
「……そうだな」
「天音さんがレクイエムの特別協力者として登録されていたこと。極秘任務の管理番号があること。そして、関連記録が今も保管されている可能性が高いこと」
木葉は、指を折りながら確認した。
「これは大きな手がかりだよ」
「……ああ」
蓮は、鞄の内ポケットに入れた古い写真を思い出した。
姉と父が並んで写る、あの写真。
背景にあった建物。
写真の奥に立つ、正体不明の人影。
そして、九条家の研究記録に残された《本人の意思による接続を確認》という言葉。
それらは、別々の謎ではないのかもしれない。
姉は、断章の研究に関わる場所へ行っていた。
レクイエムの特別協力者として登録されていた。
そして、極秘任務に参加していた可能性がある。
では、その任務は何だったのか。
何を目的としていたのか。
そして、姉は、そこで何を見つけたのか。
「……木葉」
「なあに?」
「もし、レクイエムの記録を直接調べられる機会があったら、俺は行く」
「うん。そう言うと思った」
「危険があっても?」
「危険があるかどうかは、ちゃんと調べてから判断しよう。でも、私も一緒に行くよ」
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
木葉は、いつものように明るく笑った。
その笑顔を見て、蓮は少しだけ気持ちが軽くなった。
ひとりではない。
姉の過去を知ろうとしているのは、自分だけではない。
それだけでも、前へ進む理由になった。
二人は廊下を歩き始めた。
そのとき。
蓮のスマートフォンが、短く震えた。
「……誰からだ?」
画面を確認する。
差出人は表示されていない。
ただ、一件の通知が届いていた。
添付されているのは、先ほど確認したレクイエムの登録記録と同じ形式の文書だった。
「……木葉、ちょっと待ってくれ」
「どうしたの?」
「知らないところから、資料が送られてきた」
「えっ?」
蓮は、慎重に画面を開いた。
文書の冒頭には、見覚えのある管理番号が記されていた。
《RQ-07》
その下には、閲覧制限を示す黒い帯。
だが、帯の下から、短い一文だけが読み取れた。
《対象者――九条天音》
蓮の呼吸が止まった。
「……姉さん」
木葉が画面をのぞき込む。
「待って。これ、どこから送られてきたの?」
「分からない。送信元も、リンク元も表示されてない」
「開くのは待って。まず、端末に何か仕掛けられていないか確認しよう」
木葉はすぐに端末を取り出し、蓮のスマートフォンの画面を確認した。
「……おかしいね。普通の添付ファイルじゃないみたい。文書の情報がほとんど読み取れない」
「どういうことだ?」
「作成日時も、送信元も、管理番号以外の情報も欠けている。まるで、必要な部分だけ残して、ほかを切り離したみたい……」
蓮の右手が、かすかに熱を帯びた。
画面の文字が、一瞬だけ揺らいだ。
《RQ-07》
その下に、別の文字が浮かび上がる。
《閲覧者――九条蓮》
「……っ!」
蓮は息を呑んだ。
次の瞬間、文字は消えた。
木葉も、それを見ていた。
「今の……見えた?」
「ああ。確かに、《閲覧者――九条蓮》って……」
二人は顔を見合わせた。
送られてきた文書は、ただの機密資料ではない。
少なくとも、蓮の右手が反応した。
まるで、文書のほうが蓮を認識したかのように。
「……これ、レクイエムから送られてきたのかな?」
木葉が慎重に尋ねた。
「分からない。でも、姉さんの任務記録に関係しているのは確かだと思う」
「送信元が分からない以上、断定はできないよ。レクイエムの内部からなのか、それとも別の誰かが記録を利用しているのか……」
「……ああ」
蓮は画面を見つめた。
文書の末尾には、まだ黒い帯が残っている。
その奥に何が書かれているのかは、分からない。
けれど、画面の最下部に、小さな文字が一行だけ表示されていた。
《任務記録――再照合待機》
そして、その下には。
《対象者の状態を確認せよ》
と記されていた。
「……対象者の状態?」
蓮が呟く。
木葉は、表情を引き締めた。
「これ、さっき見た保全規定と似ている……。対象者の状態が変化した場合、閲覧権限を再審査するって」
「じゃあ、姉さんの状態に何か変化があったのか?」
「まだ分からない。でも、この文書が今になって届いた理由は、調べる必要があるね」
蓮は、スマートフォンを握りしめた。
姉の名前がある。
任務の管理番号がある。
そして、対象者の状態を確認しろという指示。
それは、姉の記録が過去のものとして処理されていない可能性を示していた。
天音は、今もどこかで、レクイエムの管理対象になっているのだろうか。
それとも、記録を残した誰かが、姉の行方を追い続けているのだろうか。
答えは、まだない。
けれど、蓮の中で、ひとつの思いが強くなっていた。
姉は、ただ突然いなくなったわけではない。
姉が歩んだ道の先には、極秘任務があった。
断章の研究があった。
そして、今も誰かが隠し続けている記録がある。
「……姉さん。あの日、何があったんだ?」
蓮の呟きに、返事はなかった。
ただ、スマートフォンの画面に残った《RQ-07》の文字だけが、静かに光っていた。
その頃。
斎苑市の中心部から離れた場所にある、レクイエムの管理施設。
通常の職員が立ち入ることのできない記録保管区画で、一台の端末が自動的に起動していた。
画面に表示されたのは、古い任務記録だった。
《極秘任務管理番号 RQ-07》
《対象者――九条天音》
《任務状態――未完了》
そして、長く封鎖されていた項目に、ひとつの変化が生じていた。
《対象者反応――再検出》
その下に、新たな文字が浮かび上がる。
《関連人物――九条蓮》
《照合を開始します》
誰も操作していない端末の画面に、次々と記録が表示されていく。
だが、最後の一行だけは、何度読み込んでも表示されなかった。
《任務内容――》
その先は、深い黒に覆われていた。
まるで、そこに何が書かれているのかを、記録そのものが明かすことを拒んでいるかのように。
第4節「天音が参加した極秘任務」
画面に浮かぶ文字は、しばらくのあいだ消えなかった。
《極秘任務管理番号――RQ-07》
《対象者――九条天音》
《任務状態――未完了》
《対象者反応――再検出》
《関連人物――九条蓮》
《照合を開始します》
そして、その下には。
《任務内容――》
そこから先が、黒く塗り潰されたように読めなかった。
「……未完了、か」
蓮は、画面に映る姉の名前を見つめた。
三年前。
姉がいなくなったのも、三年前だった。
偶然だと考えるには、あまりにも多くのものが結びつきすぎている。
「木葉。これ、どういうことだと思う?」
隣で端末を操作していた神楽木葉は、いつもの明るい表情を消していた。
「正直に言うと、普通じゃないよ。任務が終わっていないなら、通常は未完了の理由と、現在の対応状況が記録されているはずなの」
「でも、理由がない」
「うん。それどころか、任務内容そのものが読めない。記録が壊れているのか、誰かが意図的に隠しているのか……」
木葉は画面を拡大した。
文字の周囲には、通常のデータ破損では見られない奇妙な乱れがあった。黒い帯が文字を覆っているわけではない。そこだけ、最初から情報が存在しなかったかのように、空白が続いているのだ。
「これ、削除された跡とは違う」
「どう違うんだ?」
「削除された記録には、たいてい何かしらの痕跡が残るの。削除した日時、権限を持つ人の識別情報、あるいは修正履歴。でも、これは……」
木葉は指先を止めた。
「最初から、読めるものがなかったみたい」
「そんなことがあるのか?」
「普通の記録なら、ないよ」
普通の記録なら。
その言葉が、蓮の胸に重く落ちた。
ここは普通の記録を扱う場所ではない。
断章を研究し、人間の記憶や物語に蓄積された意味を調べ、時には現実そのものに影響を与える異常を管理する場所なのだ。
そして姉は、その組織に特別協力者として登録されていた。
「三年前の任務記録を探そう」
蓮は言った。
「RQ-07。これが姉さんの任務番号なら、関連資料がほかにも残っているはずだ」
「賛成。でも、ここから先は閲覧権限が必要になると思う」
「じゃあ、権限を持っている人間を探す」
「……九条くん、そういうところは思い切りがいいよね」
「褒めてるのか?」
「半分はね。もう半分は、無茶をしないでって意味」
木葉はそう言って、小さく息を吐いた。
「まずは、今見えている記録からたどろう。何か手がかりがあれば、そこから先へ行けるかもしれない」
蓮は頷いた。
姉が何をしたのか。
なぜ任務が未完了なのか。
そして、なぜ三年も経った今になって、自分の名前が記録に現れたのか。
答えは、まだ何ひとつ見えていなかった。
*
木葉は、学園の旧記録とレクイエムの共有資料を照合し始めた。
過去三年間に発生した断章異常。
封印指定を受けた物語資料。
記録上、現場から回収されたものの、その後の所在が不明になっている断章。
検索条件を少しずつ変えながら、二人は膨大な資料を追っていった。
「……あった」
最初に声を上げたのは、木葉だった。
画面に表示されていたのは、三年前の任務一覧だった。
《任務記録・抜粋》
《管理番号――RQ-07》
《実施時期――三年前》
《任務区分――特別調査》
《対象――未分類断章》
《危険度――判定保留》
《目的――対象断章の性質調査、および必要に応じた封印措置》
蓮は思わず画面に顔を近づけた。
「危険度が判定保留……?」
「うん。普通は調査前でも、確認されている現象や過去の事例をもとに仮の危険度を設定するの。でも、この記録では判定保留になってる」
「危険かどうかもわからなかったのか」
「それとも、危険度を決めるための基準そのものが通用しなかったのかも」
木葉は次の項目を開いた。
《対象断章・仮称――《原初の頁》》
蓮の右手が、ぴくりと動いた。
「……今、反応した?」
木葉が尋ねる。
「ああ。名前を見た瞬間に、何かが……」
蓮は右手を握り込んだ。
痛みはない。
ただ、手の奥に沈んでいる何かが、目覚めかけたような感覚があった。
「《原初の頁》……聞いたことがない」
「私も。少なくとも、公開されている断章資料には載っていないと思う」
「原初って、最初という意味だよな」
「うん。何かの始まり。あるいは、物事の根本にあるもの」
木葉は名称の横にある説明欄を開いた。
そこには、短い文章が記されていた。
《対象断章は、既存の物語資料との対応関係を確認できず》
《複数の記録に類似する記述が存在する一方、いずれの物語にも完全には一致しない》
《対象断章の成立過程は不明》
「既存の物語に一致しない……?」
蓮は、その文章を読み返した。
「断章って、神話や伝説、昔話みたいな物語に蓄積された意味から生まれるんじゃなかったのか?」
「基本的にはね。でも、私たちが知っている物語が、すべてとは限らないでしょ?」
木葉は画面を見つめたまま答えた。
「誰にも記録されなかった話。伝えられる途中で忘れられた話。あるいは、同じ出来事を経験した人たちが、それぞれ違う物語として覚えていた場合……」
「それが、一つの断章になった?」
「可能性はある。でも、この記録だけではわからない」
木葉は一度、言葉を切った。
「ただ、ひとつ気になることがあるの」
「何だ?」
「ここ。対象の性質を説明する欄が、途中で途切れている」
画面の下部には、短い記述が残されていた。
《対象は、記録された物語に対して――》
その先は、空白だった。
蓮の胸に、嫌な予感が広がった。
以前、地下の図書館で見つけた《日本書紀異本》。
そこにあった、名前の抜け落ちた箇所。
そして、《物語創造者》の部屋で見た三つの役割。
読む者。
断つ者。
生む者。
それらの断片が、頭の中でばらばらに浮かんでは消える。
「……木葉。これ、姉さんが何かを封印したってことなのかな」
「任務目的には、封印措置の可能性が書かれている。でも、実際に封印したとは記録されていないよ」
「調査だけで終わった可能性もある?」
「そう。ただし、任務状態が未完了のまま残っていることを考えると、予定どおりに終わらなかった可能性は高いと思う」
木葉の声は慎重だった。
確かなことと、推測にすぎないことを、彼女はきちんと分けている。
だからこそ、蓮は彼女の言葉を信じることができた。
「続きを探そう」
「うん」
木葉は、画面の下に表示された関連資料の一覧を開いた。
その中に、一つだけ奇妙な項目があった。
《現地調査報告――参照制限》
通常の報告書とは異なり、作成者の名前も、閲覧可能な部署も表示されていない。
ただし、記録の作成日時だけは残っていた。
任務実施日の翌日。
「これだ」
蓮が言った。
「任務の翌日に作られている。なら、何かが起きた後の記録かもしれない」
「そうだね。でも、参照制限がかかってる」
「開けないのか?」
「今の権限じゃ無理。無理やり突破することも考えられるけど……」
木葉は蓮の顔を見た。
「やめておこう。記録そのものに断章が関わっている可能性がある。下手に触ったら、何が起こるかわからないから」
「……わかった」
蓮は不満を飲み込んだ。
姉の手がかりを目の前にして、何もできない。
そのもどかしさは、三年前からずっと胸の奥にあったものと、どこか似ていた。
ただ待つしかなかった日々。
誰も理由を教えてくれなかった時間。
そして、自分だけが何も知らないまま、姉のいない生活に慣れていったこと。
「九条くん」
木葉の声が、蓮を現実へ引き戻した。
「焦る気持ちはわかるよ。でも、記録を見つけることと、そこに書かれていることを理解することは別だから」
「……ああ」
「わからないことを、わからないままにしておくのも大事。勝手に答えを決めちゃうと、見落とすものがあるから」
蓮は、以前彼女が話した言葉を思い出した。
幻は嘘ではない。
誰かが本物だと思った瞬間、それは物語になる。
ならば、記録も同じなのかもしれない。
書かれたことだけが真実とは限らない。
書かれていないことにも、意味がある。
けれど、その空白に何があるのかを確かめるには、まだ手がかりが足りなかった。
*
そのとき、画面の右端に小さな通知が現れた。
《関連資料を検出》
木葉が目を見開く。
「え……? 今、何か検索した?」
「いや。俺は何も」
通知の下に、新しい項目が表示された。
《RQ-07/現地調査報告・補助記録》
《閲覧条件――対象者との関連性を確認》
「対象者との関連性……?」
木葉は眉をひそめた。
「さっきまで、こんな項目はなかったのに」
蓮の右手が熱を帯びた。
皮膚の下を白い光が走り、手の甲に文字が浮かび上がる。
《閲覧者――九条蓮》
「九条くん、手が……!」
「大丈夫。痛みはない」
蓮は光を見つめた。
文字は、まるで誰かが画面の向こうから彼を認識したことを示すように、静かに点滅している。
木葉が端末に手を伸ばした。
「待って。これ、私の権限で表示されたものじゃない。九条くんの反応に合わせて、記録側が閲覧条件を変えたんだとしたら……」
「俺に見せようとしているのか?」
「そう考えるのが自然だけど、断定はできないよ」
木葉は慎重に操作を進めた。
新しい項目を開く。
画面が一度暗転し、数秒後、古い報告書の画像が表示された。
文字はところどころかすれ、紙の端は黒く変色していた。撮影された資料そのものが、何らかの異常にさらされたようにも見える。
最初に読めたのは、報告書の表題だった。
《RQ-07 現地調査報告・補助記録》
《記録対象――未分類断章《原初の頁》》
《調査地点――旧管理区域・第七保管区》
《参加者――特別協力者・九条天音ほか》
「……姉さん」
蓮は息を呑んだ。
ついに、姉の名前が記された任務資料にたどり着いた。
その下には、当日の状況が箇条書きで残されていた。
《現地到着時、対象保管区画の封印機構に異常を確認》
《内部記録と外部記録の間に不一致あり》
《対象断章の位置を特定できず》
《調査班は保管区画内の記録資料を回収》
《九条天音より、対象の所在に関する追加情報あり》
蓮は、最後の一文に目を止めた。
「追加情報って、何だ?」
「その先を見て」
木葉が画面を拡大する。
次の項目は、半分ほど欠けていた。
《九条天音の報告によれば、対象は保管区画内ではなく――》
そこで、文字が途切れている。
「保管区画の中にはなかった……?」
蓮は呟いた。
「じゃあ、姉さんはどこにあると考えていたんだ?」
「それがわかれば、この先の記録も読めるかもしれないね」
木葉は画像の解像度を調整した。
しかし、欠けた部分は戻らない。
画面に残るのは、記録が存在していたという事実だけだった。
蓮は、かすれた文字を見つめた。
姉は任務に参加していた。
そして、ほかの調査員が知らなかった何かを知っていた。
その情報は、報告書に記録されていたはずなのだ。
それなのに、肝心な部分だけが読めない。
「……姉さんは、何を見つけたんだ」
問いかけても、答えは返ってこなかった。
*
報告書には、さらに数行の記録が続いていた。
《対象断章の反応を確認》
《現場周辺において、複数の物語資料との接続現象が発生》
《接続対象の特定に失敗》
《調査班は封印措置の実施を検討》
《ただし、既存の封印方式では対象の安定化が困難と判断》
木葉が静かに読み上げた。
「……封印方式が通用しなかったんだ」
「危険な断章だったってことか」
「危険だった可能性は高いと思う。でも、気になるのは『複数の物語資料との接続現象』という部分」
「どういう意味だ?」
「普通、断章が反応するときは、特定の物語や記録に結びついた現象が起きることが多いの。でも、複数の資料が同時に反応したなら……」
「一つの断章が、いくつもの物語につながっていた?」
「あるいは、いくつもの物語が、一つの断章を通してつながっていた」
蓮は目を見開いた。
どちらも、簡単には受け入れられない話だった。
断章は、物語に蓄積された意味や記憶が独立した構造を持ったもの。
ならば、それが複数の物語をつなぐことはあり得るのだろうか。
もしそうなら、《原初の頁》は、単に危険な力を持つ断章というだけではないのかもしれない。
「……それって、世界そのものに影響する可能性もあるのか?」
「断章が現実との境界に干渉するなら、可能性は否定できないよ。でも、この記録だけでそこまで判断するのは危険」
木葉は画面を閉じずに、慎重に続けた。
「わかっているのは、調査班が対象の場所を特定できなかったこと。封印の方法も決められなかったこと。そして、姉さんがほかの人より多くの情報を持っていたらしいこと」
「……姉さんは、どうしてそんなことを知っていたんだ」
「それを知るために、ここまで来たんでしょ?」
木葉の言葉は優しかった。
「一つずつ確かめよう。焦って全部をつなげると、間違った答えにたどり着くかもしれないから」
蓮は頷いた。
そのときだった。
報告書の最下部に、薄い文字が浮かび上がった。
《追記――任務終了直前、九条天音より単独行動の申し出あり》
蓮の呼吸が止まった。
「……単独行動?」
木葉も画面を凝視していた。
追記は、その一行で終わっていなかった。
《調査班は当初、申し出を却下》
《対象者は、追加情報の提示を条件として再度申請》
《協議の結果――》
その先は、長い空白だった。
蓮は、画面に手を伸ばしかけて止めた。
「姉さんが、一人で何かを引き受けた……?」
「まだ、そうとは言い切れないよ。単独行動の内容も、何を条件にしたのかもわからない」
「でも、任務の最後にこんな記録が残っているんだぞ」
「うん。だからこそ、続きを確認する必要がある」
木葉の声も、わずかに震えていた。
報告書の空白は、単なる文字の欠落とは思えなかった。
記録の途中までは、任務に参加した人々の行動が順番に残されている。
だが、姉が単独行動を申し出た瞬間から、記録は不自然に途切れていた。
その先に何が書かれていたのか。
姉は、何を引き受けようとしたのか。
そして、調査班はなぜ、それを認めたのか。
「……木葉。これ、削除されたのか?」
「わからない。けど、さっきの任務内容と同じだね。記録の終わりだけ、最初から存在しなかったみたいになってる」
「誰かが隠したんじゃないのか」
「その可能性はある。でも、もし誰かが意図的に隠したなら、どうして単独行動の申し出だけは残したんだろう?」
蓮は答えられなかった。
隠すつもりなら、最初からその一文も消せばよかったはずだ。
それなのに、姉が単独行動を望んだという事実だけが、記録の中に残されている。
まるで、その事実だけは忘れてはならないとでもいうように。
蓮の右手に、白い文字が浮かんだ。
《照合対象――九条天音》
続いて、別の文字が現れる。
《関連性――継続中》
「……継続中?」
蓮は呟いた。
姉は三年前に姿を消した。
それなのに、この記録は、姉との関連性が今も続いていると示している。
木葉は画面と蓮の手を交互に見た。
「九条くん。もしかしたら、任務そのものが終わっていないんじゃなくて……」
「姉さんが引き受けた何かが、まだ終わっていない?」
「うん。そう考えることもできる」
蓮は拳を握り締めた。
もし、姉が何かを守るために残ったのだとしたら。
もし、誰かを救うために一人で引き受けたのだとしたら。
姉は、まだどこかで戦っているのだろうか。
それとも、三年前のあの日から、帰ることさえできなくなっているのだろうか。
「……俺は、姉さんを連れ戻す」
蓮は、静かに言った。
「何があったのかも、何を引き受けたのかも、まだわからない。でも、姉さんが一人で抱えたままなら、今度は俺が一緒に考える」
木葉は、すぐには返事をしなかった。
やがて、小さく笑った。
「うん。それでいいと思う」
「いいのか?」
「ただし、何でも一人で解決しようとしないこと。九条くんが姉さんを探すなら、私も一緒に調べる」
「……ありがとう、木葉」
「どういたしまして。情報局の仕事だからね」
いつもの調子に戻った木葉の言葉に、蓮は少しだけ肩の力を抜いた。
だが、その瞬間。
端末の画面が、突然暗くなった。
「えっ?」
木葉が操作しても、反応しない。
次の瞬間、画面いっぱいに白い文字が浮かび上がった。
《RQ-07》
《任務記録・最終頁》
《閲覧者――九条蓮》
蓮の右手が、強く熱を帯びた。
そして、最後の一行が現れた。
《九条天音の単独行動に関する記録は、閲覧を許可されていません》
「……っ!」
蓮は画面を睨みつけた。
「誰が、こんなことを……!」
さらに、その下に文字が追加される。
《任務の再開条件――対象者の再接続》
木葉が息を呑んだ。
「再接続……?」
蓮の右手に、かすかな痛みが走る。
その奥で、何かが応えるように脈打った。
白い文字が、一瞬だけ別の形へ変わる。
《対象者反応――再検出》
そして、消えかけた画面の片隅に、姉の名前が浮かんだ。
《九条天音》
その文字は、まるで遠く離れた場所から届いた、かすかな呼び声のようだった。
蓮は、画面に向かって手を伸ばした。
「……姉さん?」
返事はない。
ただ、端末の奥から、紙をめくるような音が聞こえた。
ぱらり。
ぱらり。
誰も触れていないはずの記録が、何かに読まれるように、静かにページを進めていく。
最後に残ったのは、一行の文字だった。
《次回照合対象――第一級断章暴走》
蓮は、その言葉を見つめた。
木葉の表情から、笑みが消えていた。
「九条くん……これって」
「ああ」
蓮は、姉の名前が消えた画面を見つめたまま答えた。
「三年前の任務で、何かが起きたんだ」
その何かが、姉を奪った。
そして今も、終わっていない。
姉が単独で引き受けたもの。
記録から消された任務の結末。
そして、《原初の頁》と呼ばれる、どの物語にも完全には一致しない断章。
すべては、まだ一本の線ではつながらない。
けれど、蓮にはわかっていた。
この先にある記録を読み解かなければ、姉にはたどり着けない。
「行こう、木葉」
「うん。でも、次は慎重にね。今の記録、私たちが見ていること自体を、誰かが把握している可能性がある」
「……ああ。わかってる」
蓮は右手を握り締めた。
境界を切る力だけでは、届かない場所がある。
記録を読むだけでは、見つからない真実がある。
姉が何を守ろうとしたのか。
何を犠牲にしようとしたのか。
そして、なぜ自分との関連性が、今になって再び検出されたのか。
その答えを求めて、蓮は歩き出した。
まだ知らない。
三年前の任務が、単なる調査と封印で終わるはずのものではなかったことを。
そして、姉が最後に選んだ行動が、断章の暴走と深く結びついていることを。
記録の向こう側で、閉じられたはずの物語が、再びページを開こうとしていた。
――次に現れるのは、封印された断章の真実か。
それとも。
姉が、三年前に失ったものの正体なのか。
その答えは、まだ誰にも読めないままだった。
第5節「第一級断章暴走」
《次回照合対象――第一級断章暴走》
その文字を見てから、蓮はしばらく動けなかった。
端末の画面はすでに暗転している。
けれど、白い文字だけが目の奥に焼きついていた。
第一級。
断章暴走。
どちらも、これまでの調査で何度か目にしてきた言葉だ。
しかし、それらがひとつの事件名として並んでいるのを見たのは、初めてだった。
「木葉」
「うん」
「第一級断章暴走って、何なんだ?」
神楽木葉はすぐには答えなかった。
手元の端末を操作し、さきほどの任務記録をもう一度呼び出そうとしている。だが、画面には閲覧制限の表示しか出てこなかった。
「少なくとも、普通の断章暴走とは扱いが違うみたい」
「普通の断章暴走……」
「断章が不安定になって、周囲の現実に影響を及ぼす現象。たとえば、物語に登場するはずのない場所に、物語の風景が現れたり。記録にしか存在しない人物の姿が見えたり。ひどい場合には、断章の影響を受けた人が、自分の記憶と物語の内容を混同することもある」
蓮は眉を寄せた。
「記憶と物語を混同する?」
「うん。自分が経験していない出来事を、実際に経験したと思い込む。あるいは、自分が誰なのか、何をしてきたのか、わからなくなる。もちろん、すべての断章暴走で起こるわけじゃないよ」
「それでも、十分危険じゃないか」
「そうだね。でも、今回の記録にある《第一級断章暴走》は、もっと深刻なものとして扱われている可能性がある」
木葉は端末を閉じた。
「まずは、確認できる記録を探そう。名前だけで想像しても、何が起きたのかはわからないから」
「……わかった」
蓮は頷いた。
姉が参加した任務。
所在がわからない断章。
そして、単独行動の申し出。
そのすべてが、第一級断章暴走という言葉につながっている。
偶然であるはずがなかった。
*
翌日。
蓮と木葉は、斎苑学園の資料閲覧室にいた。
表向きは学園の研究資料を調べるための部屋だが、レクイエムと共有されている一部の安全管理記録にもアクセスできる。
ただし、閲覧できるのは一般公開された資料と、関係者向けに開示された記録だけだった。
RQ-07のような極秘任務の詳細は、通常なら表示すらされない。
「昨日の画面に出た《第一級断章暴走》っていう名称を、そのまま検索してみるね」
木葉が入力すると、検索結果が表示された。
最初に出てきたのは、断章管理機構が作成した用語資料だった。
《断章暴走》
《定義――断章と現実との接続が不安定化し、周辺環境または認識情報に異常を発生させる現象》
《主な兆候――局所的な物語現象の発生、記録と現実の不一致、記憶の混線》
「さっきの説明と同じだな」
「うん。ここまでは一般的な定義だね」
木葉はさらに下へスクロールした。
次の項目には、通常の断章暴走を管理する際の基本方針が記されていた。
《第一段階――対象断章の特定》
《第二段階――接続範囲の確認》
《第三段階――周辺環境からの隔離》
《第四段階――断章の安定化、または封印》
「なるほど。まず何が暴走しているのかを確認して、その影響が広がらないようにするんだな」
「そう。断章の接続範囲が限定されていれば、周囲を隔離して対処できる場合もあるの」
「じゃあ、第一級は?」
木葉は検索欄に、もう一度《第一級断章暴走》と入力した。
今度は、ひとつだけ結果が表示された。
だが、そこに書かれていたのは、短い注意書きだけだった。
《第一級断章暴走――特別危険事象》
《詳細定義――閲覧制限》
《本事象は、通常の断章暴走における危険度分類を適用できない可能性がある》
「……危険度分類を適用できない?」
蓮が読み上げる。
「どういうことだ。第一級って、危険度の段階じゃないのか?」
「普通ならそう考えるよね。でも、ここでは《危険度分類を適用できない可能性》って書いてある」
木葉は文章を拡大した。
「つまり、危険度が一番高いという意味だけじゃないのかもしれない」
「危険度を決めること自体ができない?」
「あるいは、危険という言葉だけでは説明できない現象だったのかも」
蓮は黙り込んだ。
もし断章が暴走して、建物を壊したり、人を傷つけたりするのなら、被害の規模を基準に危険度を判断できる。
だが、危険度を決めることそのものが難しいというのは、どういう状態なのだろう。
木葉が次の資料を開いた。
そこには、第一級断章暴走について、もうひとつだけ記述が残されていた。
《注意事項――対象範囲を物理的な空間に限定してはならない》
蓮は顔を上げた。
「物理的な空間に限定するな?」
「……ここが重要みたい」
木葉の指先が止まった。
「普通の断章暴走なら、どこからどこまで影響が広がっているのかを調べる。建物の中だけなのか、周囲の道路までなのか。それとも、一定の範囲にいる人間に影響するのか」
「でも、これは違う」
「うん。空間だけを調べても、影響範囲を把握できない可能性があるってことだと思う」
木葉は、別の資料を検索した。
今度は、断章暴走の対処記録だった。
通常の事例では、影響を受けた場所や、確認された異常の種類が記録されている。
しかし、《第一級断章暴走》の項目だけは、詳細が伏せられていた。
ただし、ひとつの関連記録に、短い文章が残されていた。
《影響範囲――周辺物語資料、および人間の認識情報に及ぶ可能性》
蓮は、その文字を見つめた。
「……人間の認識情報」
「うん」
「さっき、記憶と物語を混同することがあるって言ったよな」
「そう。でも、これはそれより広い意味かもしれない」
木葉の表情が、次第に険しくなっていく。
「記憶は、自分が過去に経験したことについての情報。でも、認識は、それだけじゃない。目の前にあるものを何だと思うか。誰かを誰だと思うか。何が本当で、何が違うと判断するか……そういうことも含まれるの」
「つまり、見えているものそのものが変わる?」
「それだけじゃない可能性もあるよ」
木葉は言葉を選びながら続けた。
「たとえば、本当はそこにいない人を、複数の人間が同時に見たとしたら。あるいは、誰も知らないはずの出来事を、何人もの人が同じ記憶として持っていたとしたら」
「……それが、断章の影響なのか?」
「可能性はある。でも、今の資料からは断定できない」
蓮は椅子の背にもたれた。
世界に異常が起きる。
それなら、まだ理解できる。
けれど、人間が世界をどう認識するかまで変わるのなら、何を根拠に異常を見つければいいのだろう。
異常を異常だと判断する、その基準自体が変わってしまうのなら。
「……怖いな」
思わず、蓮は呟いた。
木葉は静かに頷いた。
「うん。怖いと思う」
彼女は、無理に明るく振る舞わなかった。
「でも、怖いからこそ、何が起きたのかを調べないと。わからないままにしていたら、同じことが起きても気づけないかもしれない」
蓮は、再び画面に目を向けた。
そこには、第一級断章暴走についての説明が、数行だけ残されていた。
その数行だけで、姉が参加した任務が、どれほど異常なものだったのかが伝わってくる。
しかし、肝心なことは何ひとつわからない。
どこで起きたのか。
何が暴走したのか。
誰が巻き込まれたのか。
そして、姉はそのとき、何をしていたのか。
*
「……待って」
木葉が突然、声を上げた。
「何か見つけたのか?」
「うん。第一級断章暴走の関連資料に、RQ-07が紐づいてる」
画面の隅に、小さな管理番号が表示されていた。
《関連任務――RQ-07》
《関連事象――第一級断章暴走》
《事象発生時刻――記録不一致》
「記録不一致?」
蓮が聞き返す。
「普通なら、事象が発生した日時が記録されているはず。でも、これは……」
木葉は詳細を開いた。
《現地記録――三年前・任務実施日》
《管理記録――三年前・任務実施日前日》
《外部記録――該当時刻の照合不能》
蓮は画面を見つめた。
「一日ずれている……?」
「それだけじゃないよ。現地記録と管理記録で、発生日時が一致していない。しかも、外部記録では照合できないって」
「時計が壊れたとか、記録の入力ミスじゃないのか?」
「もちろん、その可能性もある。でも、これが一つの資料だけならともかく、複数の記録で同じような不一致が起きているなら、別の原因も考えないといけない」
木葉は関連資料を次々に開いた。
断章管理機構の記録。
任務の実施報告。
現地の設備記録。
いずれも、同じ日付を示していなかった。
しかも、そのずれ方には規則性がない。
任務の開始時刻が食い違っている資料もあれば、終了時刻だけが一致しない資料もある。
中には、任務そのものが記録されていない時間帯さえあった。
「……何なんだ、これ」
蓮は呟いた。
「同じ事件の記録なのに、どうしてこんなに違うんだ?」
「わからない。でも、もし記録を作った人たちが、同じ出来事を違うものとして認識していたら……」
「記録する段階で、内容が変わってしまった?」
「そう考えることもできる」
木葉は、ひとつの資料を開いた。
それは、任務当日に現地へ派遣された調査班の簡易報告だった。
《任務開始――対象断章の調査》
《現地到着――対象保管区画の異常を確認》
《調査班は対象の所在を特定できず》
《九条天音より、単独行動の申し出あり》
ここまでは、前日に見つけた記録とほとんど同じだった。
しかし、その次の一行が違っていた。
《九条天音は、調査班の制止を受け、現地から退避した》
「……え?」
蓮は思わず声を上げた。
「退避した? でも、前の記録では単独行動を申し出たって……」
「うん。しかも、こっちの記録では、申し出が却下されたとも、許可されたとも書かれていない」
「姉さんは、現地を離れたことになってるのか?」
「この資料だけを読むなら、そうなるね」
木葉は別の記録を開いた。
そこには、さらに異なる内容が記されていた。
《任務終盤――九条天音が単独で対象区域へ進入》
《調査班との通信――途絶》
《対象区域内の反応――急激に増大》
蓮は、息を呑んだ。
「こっちは、姉さんが一人で中へ入ったことになっている」
「うん……」
「同じ任務なのに、片方では退避して、もう片方では単独で進入している」
木葉は画面を見つめたまま、答えなかった。
それぞれの記録に、明らかな改ざんの痕跡があるわけではない。
記録した部署も、形式も、作成された時刻も違う。
それなのに、どちらも正式な管理番号を持ち、当時の資料として保存されている。
「どっちかが間違っているんじゃないのか?」
「普通なら、そう考えるよね。でも……」
木葉は、別の画面を表示した。
「ここを見て」
そこには、各資料の照合結果が並んでいた。
《記録の整合性――確認済み》
《改ざんの痕跡――検出されず》
《作成元――正規記録》
蓮は言葉を失った。
「どっちも正しいってことか?」
「そこまでは言えない。でも、少なくとも、今のシステムではどちらかを誤記として処理できていない」
「そんなことが……」
「あるいは、私たちが『どちらか一方が正しいはず』って考えていること自体が、間違っているのかもしれない」
木葉の言葉に、蓮は顔を上げた。
「どういう意味だ?」
「たとえば、断章の影響で、同じ出来事に対する認識が分かれてしまったとしたら。記録した人が見たものは、それぞれの人にとって本当に起きたことだったのかもしれない」
「でも、現実は一つだろ?」
「……そう思いたいよね」
木葉は、ゆっくりと息を吐いた。
「私にも、今は答えがない。でも、この不一致が《第一級断章暴走》と関係しているなら、記録の矛盾そのものが、事件の手がかりになる可能性がある」
蓮は、画面に表示された姉の名前を見つめた。
姉は逃げたのか。
それとも、危険な区域へ向かったのか。
誰かに止められたのか。
誰かを守るために、自ら進んだのか。
記録を読めば読むほど、答えは遠ざかっていく。
けれど、そのどれもが、完全な嘘だとは言い切れなかった。
*
「もうひとつ、気になることがあるの」
木葉は、別の資料を開いた。
《第一級断章暴走・事後評価》
その資料は、任務から数日後に作成されたものだった。
本文の大部分は閲覧制限がかかっていたが、冒頭の数行だけは読めた。
《事象発生後、現地周辺の複数の記録媒体に不一致を確認》
《目撃者の証言に、人物の有無および行動に関する相違が存在》
《一部の関係者について、事象発生以前の記憶との整合性が取れない》
《原因――未特定》
蓮は、その文章を何度も読み返した。
「目撃者の証言が違う……」
「うん。誰がいたのか、何をしていたのか。そこが一致していないみたい」
「姉さんについても?」
「この資料だけではわからない。でも、RQ-07の記録が矛盾していることを考えると、関係している可能性はあると思う」
木葉は、さらに下の欄を確認した。
そこには、ひとつの注意事項が記されていた。
《事象に関与した人物の証言は、単独で確定情報として採用しないこと》
《複数の記録との照合を必須とする》
蓮は眉をひそめた。
「関係者の証言を、そのまま信じるなってことか?」
「たぶんね。もちろん、誰かが嘘をついている可能性もある。でも、この注意書きは、単なる虚偽報告への対策とは違う気がする」
「認識そのものが変わっているかもしれないから?」
「うん。本人は本当のことを話しているつもりでも、覚えている内容が変わっていたら……」
木葉は、言葉を止めた。
蓮にも、その先はわかった。
誰かを疑えばいいという話ではない。
記憶が違っているのなら、本人に悪意がなくても、証言は食い違う。
それどころか、自分自身の記憶さえ、どこまで信じていいのかわからなくなる。
「……姉さんは、自分が何をしていたのか覚えているんだろうか」
蓮は、誰に向けるでもなく呟いた。
木葉はすぐには答えなかった。
「わからない。でも、もし姉さんが事件の中心にいたなら……覚えていることと、実際に起きたことが違っている可能性もある」
「じゃあ、姉さんが自分の意思で何かをしたのか、それとも断章の影響を受けていたのかも、わからないってことか」
「……そうだね」
その答えは、蓮が最も聞きたくないものだった。
姉が危険な断章に巻き込まれたのなら、助け出したい。
姉が誰かを守るために行動したのなら、その理由を知りたい。
だが、もし姉自身の認識さえ変えられていたのなら。
もし、姉が何かを守ろうとした記憶そのものが、断章によって作られたものだったとしたら。
何を信じればいいのだろう。
「……いや」
蓮は、ゆっくりと首を振った。
「まだ決めつけるのは早いな」
木葉が顔を上げた。
「九条くん?」
「記録が矛盾しているからって、姉さんが自分の意思で行動していなかったとは限らない。逆に、姉さんが一人で進んだ記録があるからって、それが誰かを守るためだったとも限らない」
蓮は、自分に言い聞かせるように続けた。
「今の俺たちには、わからないことが多すぎる」
木葉は、少しだけ目を細めた。
「……うん。それが、今の段階で一番正しいと思う」
「だから、答えを決めるのはやめよう。姉さんが何をしたのか、何を考えていたのか。ちゃんと確かめるまでは」
「そうだね」
木葉は、端末を閉じた。
「ただし、確かめるためには、もっと詳しい記録が必要。今の資料だけじゃ、事件の全体像が見えない」
「RQ-07の最終報告か」
「うん。それと、当時の調査班の証言。もし残っていれば、現地の記録も」
蓮は頷いた。
姉が巻き込まれたのか。
それとも、何かを守ろうとしたのか。
その答えを、今ここで決めるわけにはいかない。
わからないことを、わからないままにしておく。
それは、真実から目を背けることではない。
間違った答えで、姉の選択を塗り潰さないために必要なことだった。
*
資料閲覧室を出る直前、蓮の端末が震えた。
「……通知?」
画面に、差出人不明のファイルが届いていた。
件名はない。
添付された資料の名前だけが表示されている。
《RQ-07_最終確認記録》
「木葉、これ……」
「待って。開く前に送信元を確認して」
木葉が急いで調べたが、送信元の欄は空白だった。
通信経路も不明。
作成日時も記録されていない。
「またか……」
蓮は小さく呟いた。
以前届いた資料と同じだった。
誰かが意図的に送ってきたのか。
あるいは、何かの条件が満たされたことで、自動的に表示されたのか。
どちらなのかはわからない。
「開く?」
木葉が尋ねた。
蓮は、少しだけ迷った。
この資料を開けば、また何かが起きるかもしれない。
右手が反応する可能性もある。
けれど、ここまで来て、何も確かめずに帰ることもできなかった。
「……開こう。ただし、何か異常が起きたら、すぐに中断する」
「わかった。私も一緒に確認するね」
蓮がファイルを開く。
画面には、短い文章が表示された。
《RQ-07 最終確認記録》
《事象名――第一級断章暴走》
《対象断章――《原初の頁》》
《封印状況――確認不能》
《現地要員――帰還状況の照合不能》
蓮の指が止まった。
「帰還状況の……照合不能?」
「うん。普通なら、任務に参加した人が戻ってきたかどうかは確認されるはず。でも、これは確認できないって書いてある」
「帰還したかどうかさえ、わからないのか……」
その下には、さらに一行があった。
《九条天音――最終確認時刻、不一致》
蓮は、画面に顔を近づけた。
「最終確認時刻……」
姉が最後に確認された時刻。
それが、複数の記録で一致していない。
現地にいたという記録。
退避したという記録。
単独で対象区域へ進入したという記録。
どれが真実なのか、判断できない。
そのとき、画面にノイズが走った。
文章が一瞬乱れ、別の文字列が浮かび上がる。
《対象者――九条天音》
《状態――未確定》
《接続――継続》
蓮の右手が、強く脈打った。
「っ……!」
「九条くん!」
木葉が支えようと手を伸ばす。
だが、蓮は倒れなかった。
手の甲に浮かんだ白い文字を、ただ見つめていた。
《第一級断章暴走》
《認識侵食――進行状況不明》
そして、最後に。
《保護対象――判定不能》
蓮は息を呑んだ。
「……保護対象?」
その言葉は、何を意味しているのだろう。
天音が守るべき対象だったのか。
天音自身が、保護されるべき存在だったのか。
それとも、彼女が何かを守るために、対象の側へと進んでいったのか。
記録は、答えを示さなかった。
白い文字は、音もなく消えていく。
画面には、再び最初の四行だけが残った。
《事象名――第一級断章暴走》
《対象断章――《原初の頁》》
《封印状況――確認不能》
《現地要員――帰還状況の照合不能》
木葉は、しばらく何も言えなかった。
やがて、静かな声で口を開いた。
「……九条くん。私たち、まだ何もわかっていないんだね」
「ああ」
蓮は頷いた。
「でも、一つだけわかったことがある」
「何?」
「姉さんがいなくなった理由を、ただの失踪として片づけることはできない」
蓮は端末を握り締めた。
「三年前、何かが起きた。しかも、その事件は今も終わっていない可能性がある」
「……うん」
「だったら、俺たちがやることは一つだ」
蓮は顔を上げた。
「姉さんが最後に何を見たのか、確かめる」
木葉は、力強く頷いた。
「一緒に探そう。記録が食い違っているなら、食い違っている理由を探す。そこに、何か手がかりがあるはずだから」
夕方の光が、資料閲覧室の窓から差し込んでいた。
その光は、いつもと変わらない。
廊下からは、生徒たちの話し声が聞こえる。
誰もが、今日という一日を普通に過ごしている。
けれど、蓮の目には、日常の輪郭がわずかに違って見えていた。
人が何を見て、何を覚え、何を本当だと信じるのか。
その認識さえも侵食する断章が、三年前に存在していた。
姉は、その事件に巻き込まれたのかもしれない。
あるいは、誰かを守るために、自らその中へ入ったのかもしれない。
そのどちらも、まだ否定できない。
だからこそ、蓮は答えを急がなかった。
姉の選択を、知らない誰かの記録だけで決めつけたくなかった。
姉が何を守ろうとしたのか。
何を恐れていたのか。
そして、何を自分に伝えようとしていたのか。
その答えは、まだ記録の空白に閉じ込められている。
ただ一つ、確かなことがあった。
《第一級断章暴走》は、過去の事件ではない。
今もなお、誰かの記憶と認識の向こう側で、終わりを迎えていない物語なのだ。
そして、その物語の中に。
九条天音の名前が、消えずに残っていた。
第6節「天音の目撃情報」
姉は、生きているのだろうか。
九条蓮は、ここ数日、その問いを何度も繰り返していた。
三年前の極秘任務。
《原初の頁》。
そして、《第一級断章暴走》。
調べれば調べるほど、姉が失踪した理由に近づいている気がした。
しかし、肝心な部分にたどり着こうとすると、必ず記録が途切れる。
任務が終わったのかどうかもわからない。
姉が現地から退避したのか、それとも単独で対象区域へ進入したのかさえ、資料によって食い違っている。
それでも、蓮は諦められなかった。
姉が生きている可能性を、まだ捨てたくなかった。
「九条くん、そろそろ休憩しない?」
向かいの席から、神楽木葉が声をかけた。
「……もうそんな時間か?」
「うん。さっきから同じ資料を三回くらい読み返してるよ」
「そうだったか?」
「そうだったよ。しかも、三回とも最後にため息をついてた」
「……そんなにわかりやすかったか」
「すっごく」
木葉は苦笑した。
蓮は手元の資料を閉じた。
画面に並んでいるのは、三年前の任務記録と、第一級断章暴走に関する断片的な報告書。
どれも重要な資料ではあるが、姉が今どこにいるのかを示す情報は、ひとつもなかった。
「でも、ずっと同じ記録を見ていても、何も変わらないのは確かだね」
木葉は自分の端末を操作した。
「だから、少し違う方向から調べてみたの」
「違う方向?」
「うん。任務の記録そのものじゃなくて、任務現場の周辺に残っている情報」
「現場の周辺……」
「そう。レクイエムの公式記録に残っていない目撃情報や、当時の地域資料。事故や異常現象の報告に紛れて、何か残っているかもしれないと思って」
蓮は顔を上げた。
「何か見つかったのか?」
「まだ確定情報じゃないけど……ひとつ、気になる記録がある」
木葉が画面をこちらへ向けた。
そこには、三年前の日付とともに、短い報告が表示されていた。
《旧管理区域周辺・異常事象に関する聞き取り記録》
《対象日時――三年前・秋》
《関連事象――人物の目撃情報》
《特徴――銀色の光、女性の声、人物の有無について証言が一致しない》
蓮の目が、最後の一文に止まった。
「女性の声……?」
「うん。それと、人物の有無について証言が一致しないっていう部分」
木葉は画面を拡大した。
「この記録は、最初は地域の異常現象に関する聞き取り資料として作られたみたい。でも、後からRQ-07との関連が指摘されている」
「つまり、姉さんが参加した任務と関係があるかもしれないってことか」
「そう。ただ、資料には名前が書かれていないの。だから、最初から天音さんのことだと決めつけるわけにはいかない」
蓮は頷いた。
「それでも、調べる価値はある」
「そう思って、当時の聞き取りに関わった人を探してみたんだ」
木葉は少しだけ表情を引き締めた。
「一人、まだ連絡が取れる人がいたよ」
*
その日の午後。
蓮と木葉は、斎苑市の郊外にある小さな喫茶店を訪れていた。
店内は静かで、窓際の席からは住宅街の並木道が見える。
待ち合わせの相手は、三年前、旧管理区域の近くで設備管理の仕事をしていた男性だった。
名前は、相沢修一。
当時の異常事象に関する聞き取り資料に、協力者として名前が残っていた人物だ。
「……君たちが、あの件を調べている学生さんか」
相沢は、席に着くなり二人を交互に見た。
年齢は五十代半ばほど。落ち着いた口調だったが、三年前の話題が出た途端、その表情にわずかな緊張が走った。
「はい。僕は九条蓮です。こちらは神楽木葉さん」
「初めまして。お時間をいただいて、ありがとうございます」
木葉が丁寧に頭を下げる。
相沢も軽く会釈した。
「いや、構わないよ。あの頃のことを聞きたいんだろう?」
「はい。三年前、旧管理区域の近くで、女性を目撃したという記録が残っていました」
蓮は慎重に言葉を選んだ。
「その女性について、何か覚えていらっしゃいませんか?」
相沢は、すぐには答えなかった。
テーブルに置かれた水のグラスを見つめ、しばらく考え込んでいる。
やがて、低い声で言った。
「……あの女性なら、覚えているよ」
蓮の心臓が、大きく跳ねた。
「本当ですか?」
「ああ。ただし、君たちが探している人と同じかどうかはわからない」
相沢は蓮の顔を見た。
「その女性は、ひどく疲れているように見えた。服も汚れていたし、歩き方もおかしかった。誰かを探しているようにも見えたな」
「髪の色は、覚えていますか?」
「銀色だったと思う」
蓮は息を呑んだ。
銀色の髪。
それは、姉の特徴と一致していた。
「……ほかに、何か特徴はありませんでしたか?」
「そうだな。年齢は二十歳前後に見えた。少なくとも、子どもではなかった。顔は……」
相沢は、眉間にしわを寄せた。
「顔は、よく思い出せないんだ」
「思い出せない?」
「ああ。確かに見たはずなんだが、目や鼻の形を説明しようとすると、どうしても曖昧になる。髪の色や服装は覚えているのに、顔だけがはっきりしない」
木葉が静かに尋ねた。
「その女性は、人間だったと思いますか?」
相沢は不思議そうに彼女を見た。
「人間? そりゃあ、人間だっただろう。普通に歩いていたし、こちらに気づいて振り返りもした。少なくとも、私にはそう見えた」
「何か、普通ではないことは?」
「……ひとつだけ」
相沢の表情が曇った。
「声をかけようとしたんだ。大丈夫ですか、ってね。そうしたら、その女性がこちらを見て、何か言った」
「何と言ったんですか?」
「それが……」
相沢は、苦しそうに目を閉じた。
「声は覚えている。確かに聞いた。でも、何を言われたのか、どうしても思い出せないんだ」
蓮は身を乗り出した。
「一言もですか?」
「ああ。言葉を聞いた瞬間には、意味もわかっていたはずなんだ。なのに、後から思い出そうとすると、声の響きだけが残っていて、言葉が消えてしまう」
相沢は、グラスの水に視線を落とした。
「妙な話だろう?」
蓮は答えられなかった。
その症状は、第一級断章暴走の記録にあったものと似ていた。
目撃者の認識が食い違う。
記憶と現実の整合性が取れなくなる。
そして、記録に残そうとしても、肝心な部分だけが失われる。
「……その女性は、どちらへ向かったんですか?」
「旧管理区域のほうだよ」
相沢は、はっきりと答えた。
「私が見たとき、女性は区域の外にいた。でも、少し話したあと、入口のほうへ歩いていった。止めようとしたんだが……」
「止められなかった?」
「いや。追いかけようとした瞬間、目の前が暗くなったんだ」
「暗く?」
「ほんの一瞬だったと思う。気がついたら、女性はいなくなっていた。入口にも、周囲にも、誰もいなかった」
蓮は、拳を握り締めた。
姉だったのだろうか。
銀色の髪。
二十歳前後の女性。
旧管理区域へ向かった人物。
どれも、姉と一致している。
しかし、顔を思い出せないという証言が、蓮の心に小さな影を落とした。
「相沢さん」
蓮は、慎重に尋ねた。
「その女性が、誰かを守ろうとしているように見えましたか?」
相沢は、少し驚いたように蓮を見た。
「……どうして、そう思うんだい?」
「いえ。ただ、何かを探していたように見えたとおっしゃったので」
相沢はしばらく黙っていた。
やがて、記憶の奥を探るように、ゆっくりと口を開いた。
「そうだな……。確かに、何かを探していたようにも見えた。でも、それ以上に……」
「それ以上に?」
「誰かを、そこから出さないようにしている。そんなふうにも見えたんだ」
蓮の背筋に、冷たいものが走った。
「出さないように……?」
「ああ。女性は何度も入口のほうを振り返っていた。まるで、誰かが追いかけてくるのを待っているようにも、誰かが出てくるのを恐れているようにも見えた」
相沢は首を振った。
「ただ、今になって考えてみると、本当にそうだったのかはわからない。あのときの私は、確かにそう感じたんだがね」
木葉が、静かに言った。
「ありがとうございます。とても重要なお話です」
相沢は、二人を見比べた。
「君たちは、あの女性を知っているのか?」
蓮は一瞬、言葉に詰まった。
姉の名前を出すべきだろうか。
しかし、目撃された人物が本当に姉なのか、まだ確信はない。
蓮は、正直に答えた。
「……僕の姉に、よく似ているんです」
相沢の目がわずかに見開かれた。
「そうか……」
「三年前から、行方がわからなくなっています」
蓮は視線を落とした。
「もし、その人が姉だったなら……。何か、手がかりになるかもしれないと思って」
相沢は、すぐには返事をしなかった。
やがて、静かな声で言った。
「君の姉さんが、どこかで生きているといいな」
その言葉に、蓮は顔を上げた。
「……ありがとうございます」
それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
希望を持っていいのか。
まだ期待しないほうがいいのか。
その判断さえ、今の蓮にはできなかった。
*
喫茶店を出たあと、二人は近くの公園を歩いていた。
夕方の風が、並木の葉を揺らしている。
「……人間だった、か」
蓮は、相沢の言葉を繰り返した。
「九条くん」
木葉が隣を歩きながら言った。
「気持ちはわかるけど、まだ姉さんだと決まったわけじゃないよ」
「わかってる」
蓮は頷いた。
「銀色の髪で、年齢も近い。旧管理区域へ向かった。姉さんの可能性は高いと思う。でも、顔が思い出せないっていうのが……」
「うん。第一級断章暴走の影響を受けていた可能性はあるね」
「もし、姉さんがその影響を受けていたなら、あのとき何を見ていたのかも、本人の記憶と一致しているとは限らないのか」
「そうかもしれない。でも、相沢さんの証言が曖昧だからといって、目撃そのものが嘘だったとは限らないよ」
木葉は立ち止まった。
「ねえ、九条くん。ひとつ、考えてみてほしいことがあるの」
「何?」
「相沢さんは、あの女性を人間だと思っていた。顔は思い出せないけれど、声を聞いた記憶はある。そして、誰かを入口から出さないようにしているようにも見えた」
「ああ」
「もし、その女性が本当に天音さんだったなら。姉さんは、どうしてそこにいたんだろう?」
蓮は黙った。
「任務の記録では、姉さんは単独で対象区域へ進入したことになっている。でも、別の記録では、退避したことになっていた。今回の目撃情報も、姉さんが区域の外にいたという証言だよね」
「……ああ」
「つまり、少なくとも今の資料だけでは、姉さんがいつ、どこにいたのかを正確に決められない」
木葉は、慎重に言葉を続けた。
「姉さんが暴走に巻き込まれて、区域の外へ出てきたのかもしれない。誰かを守るために、自分から外へ出たのかもしれない。あるいは、誰かを中に残すために、入口を見張っていたのかもしれない」
「……どれも、あり得るってことか」
「うん。今は、どれも否定できない」
蓮は空を見上げた。
夕暮れの雲が、ゆっくりと流れている。
姉は、どんな気持ちであの場所にいたのだろう。
怖かったのだろうか。
誰かを助けようとしていたのだろうか。
それとも、自分が何をしているのかさえ、わからなくなっていたのだろうか。
答えは、どこにもなかった。
けれど、相沢の証言には、ひとつだけ確かなものがあった。
彼は、銀色の髪の女性を見た。
その女性は、確かにそこにいたと感じていた。
少なくとも、相沢の記憶の中では。
「……木葉」
「うん?」
「姉さんは、生きていると思うか?」
木葉は、すぐには答えなかった。
蓮の顔を見て、それから、ゆっくりと口を開いた。
「正直に言うね。今の情報だけでは、わからない」
「……そうか」
「でも、生きていないと決まったわけでもないよ」
蓮は顔を上げた。
「三年前の任務で何が起きたのか、まだわからない。姉さんがどうなったのかも、確定した記録はない。だから、可能性を捨てる理由も、今はないと思う」
木葉は、まっすぐに蓮を見つめた。
「ただし、希望だけで答えを決めないこと。生きていると信じたい気持ちと、実際にわかっていることは、分けて考えよう」
「……ああ」
蓮は、小さく笑った。
「木葉らしいな」
「えっ、何それ。褒めてる?」
「褒めてるよ」
「なら、よし!」
木葉はいつもの笑顔を見せた。
その笑顔に、蓮は少しだけ救われた気がした。
姉が生きていると断言することはできない。
けれど、死んだと決めつける必要もない。
それなら、今はまだ、探し続けていいのだ。
*
その夜。
蓮の端末に、木葉から新しい資料が送られてきた。
件名は、《目撃情報・追加資料》。
蓮はすぐにファイルを開いた。
そこには、相沢とは別の人物による証言が記録されていた。
《証言者――匿名》
《目撃場所――旧管理区域周辺》
《証言内容――女性の声を確認》
《人物の姿――確認できず》
蓮は眉をひそめた。
別の目撃者もいたのか。
記録を読み進める。
《証言者は、対象区域付近にて女性の声を聞いたと申告》
《声の方向――特定不能》
《内容――「大丈夫。ここから先は、私が引き受ける」》
蓮の指が止まった。
「……ここから先は、私が引き受ける?」
その言葉を、何度も読み返す。
声の主は、誰だったのだろう。
姉だったのか。
それとも、姉に似た誰かだったのか。
記録には、さらに続きがあった。
《証言者は、当該発言を聞いた直後、周辺の音が消失したと説明》
《その後、対象区域に関する記憶の一部が曖昧になった》
《声の主について、証言者は「誰かを守ろうとしていたように感じた」と述べている》
蓮は、端末を握り締めた。
相沢の証言と、どこかで重なっている。
誰かを入口から出さないようにしていた女性。
そして、姿は見えないのに、「ここから先は、私が引き受ける」と告げた声。
もし、それが姉だったなら。
姉は、何かを守ろうとしていたのだろうか。
それとも、何かを自分一人で背負わなければならないと、思い込まされていたのだろうか。
蓮は目を閉じた。
姉の顔が浮かぶ。
幼いころ、自分の頭を撫でてくれた手。
転んで泣いたとき、笑いながら助け起こしてくれた声。
そして、三年前から、どれだけ探しても見つからない背中。
「……姉さん」
蓮は、静かに呟いた。
その瞬間、右手が微かに熱を帯びた。
手の甲に、白い文字が浮かび上がる。
《対象者――九条天音》
《関連情報――更新》
蓮は息を呑んだ。
さらに、もう一行。
《声紋照合――未完了》
文字は、数秒後に消えた。
蓮は、しばらく右手を見つめていた。
声紋照合。
それは、姉の声がどこかに記録されているということなのだろうか。
あるいは、今聞いた証言の声と、姉の声を照合しようとしているのだろうか。
まだ、何もわからない。
けれど、蓮はもう、姉が生きている可能性を捨てられなかった。
もし姉が、あの場所で誰かを守ろうとしていたのなら。
もし姉が、今もどこかで何かを引き受け続けているのなら。
自分は、そこへたどり着かなければならない。
そして、姉に聞くのだ。
何があったのか。
何を守ろうとしたのか。
なぜ、一人で行ってしまったのか。
蓮は端末を閉じ、窓の外を見た。
夜の街は静かだった。
遠くの灯りが、ひとつ、またひとつと瞬いている。
そのどこかに、姉がいるのかもしれない。
あるいは、姉がいたという記憶だけが、今も誰かの中に残っているのかもしれない。
どちらなのかは、まだわからない。
それでも。
蓮は、もう一度、姉の名前を心の中で呼んだ。
――天音。
返事はなかった。
けれど、右手の奥で、何かがかすかに応えた気がした。
その感覚が、姉につながるものなのか。
それとも、《第一級断章暴走》が残した、ただの残響なのか。
蓮には、まだ判断できなかった。
ただひとつ。
三年前に途切れたはずの姉の物語は、まだ完全には閉じられていない。
そう思えたことだけが、今の蓮にとって、確かな希望だった。
第9節:天音VS蓮
黒い頁が、夕暮れの空を覆い尽くしていた。
無数の文字列が渦を巻き、建物の壁面を這い、道路の上に黒い染みを広げていく。
その中心に、ひとりの女性が立っていた。
銀色の髪。
白い肌。
見覚えのある顔。
九条蓮が、何年もの間、記憶の中で探し続けてきた女性――九条天音。
しかし、彼女の身体は完全な人間のものではなかった。
髪の一部は黒い紙片へと変わり、腕には文字列が絡みついている。胸元には白い頁が浮かび、その表面に刻まれた文字は、現れては消え、消えては書き換わっていた。
《任務――継続》
《接続――不安定》
《対象者――九条天音》
《認識状態――照合不能》
そして、その下に。
《保護対象――未確定》
「……姉さん」
蓮は、震える声で呼んだ。
返事はない。
天音の顔が、ゆっくりと蓮の方を向いた。
その瞳には、確かに彼が知っている姉の面影があった。
だが、そこに意思があるのかどうかは分からない。
蓮が一歩近づくと、天音の身体を覆う文字列が反応した。
黒い紙片が舞い上がり、彼女の背後に巨大な影を形作っていく。
まるで、天音の姿を借りた何かが、その内側から目を覚まそうとしているようだった。
「九条くん、下がって!」
神楽木葉の声が響いた。
「まだ、あの状態が何なのか分からない! さっきみたいに記憶を読み取られたら、今度は何が起こるか分からないんだよ!」
「……ああ」
「本当に分かってる!?」
「分かってるよ」
蓮は、天音を見つめたまま答えた。
「でも、俺は……」
言葉が途切れた。
何と言えばいいのだろう。
姉を見つけた。
ずっと探していた人が、目の前にいる。
それなのに、どうしてこんなことになっているのか。
どうすれば姉を助けられるのか。
何ひとつ分からない。
蓮は、自分の右手を見た。
そこには、白い文字が浮かんでいた。
《断章》
《接続》
《照合》
文字の一部は、黒く染まっている。
暴走体との接触によって、蓮自身の断章にも何らかの影響が及んでいるらしい。
「……神楽。今の俺と、あいつの接続状態は分かるか?」
「正確には分からない。端末の表示が安定しないから。でも、さっき触れたとき、九条くんの断章とあの存在の間に接続が生まれたのは確かだと思う」
「その接続を切ったら、どうなる?」
木葉は、すぐには答えなかった。
「……暴走を止められる可能性はある」
「可能性、か」
「でも、それだけじゃない」
木葉は画面を見つめた。
「九条くん。あの暴走体は、《原初の頁》に関係する存在だよね。三年前の記録も、今の反応も、そこにつながっている」
「ああ」
「もし、お姉さんがあの中にいるのなら……その接続が、お姉さんの意識をこの世界につなぎ留めている可能性もある」
蓮の指先が、ぴくりと動いた。
「……切ったら、姉さんまで消えるかもしれないってことか?」
「断言はできない。でも、その可能性は否定できない」
木葉は、苦しそうに唇を噛んだ。
「だから、今は不用意に切らない方がいいと思う。少なくとも、あの接続が何なのかを確かめるまでは」
「……分かった」
蓮は、ゆっくりと息を吐いた。
切れば、暴走を止められるかもしれない。
切れば、街を覆っている異常を収束させられるかもしれない。
けれど。
その刃が、姉の意識まで断ち切ってしまうのだとしたら。
蓮には、振るうことができなかった。
◇
天音が、ゆっくりと右手を持ち上げた。
指先に黒い文字が集まり、一本の長い刃を形作っていく。
刃というより、文字を束ねた細長い影だった。
その表面には、読めない文章が絶えず浮かび上がっている。
蓮は息を呑んだ。
「……姉さん、それは……」
天音が、一歩踏み出した。
次の瞬間。
黒い刃が、蓮に向かって振り下ろされた。
「っ!」
蓮は横へ飛び退いた。
刃が道路をかすめる。
しかし、地面は砕けなかった。
代わりに、道路に描かれていた白線が消えた。
アスファルトの表面から、白線が存在していたという情報だけが抜き取られたように。
「なっ……!」
蓮が振り返る。
天音は、無表情のまま立っていた。
黒い刃を握りしめ、再び構える。
「九条くん!」
木葉が叫んだ。
「攻撃が来る! 避けて!」
「分かってる!」
蓮は右手を前に出した。
「――《亀裂の刃》!」
白い文字が走る。
空中に、細い刃が生まれた。
蓮は天音の攻撃を受け止めようとした。
黒い刃と、白い刃が交差する。
キィンッ!
耳をつんざくような音が響いた。
衝撃で蓮の腕が弾かれる。
「ぐっ……!」
想像以上の力だった。
これまで戦ってきた断章使いたちとは、根本的に違う。
単純な出力だけではない。
天音の刃が振るわれるたび、周囲の空間から何かが失われていく。
道路の標識が消える。
建物の窓が、窓としての形を失う。
街灯が、そこに立っていたという記録ごと抜き取られる。
それは、物理的な破壊ではなかった。
世界を構成する情報そのものへの干渉。
そして、その力は、蓮の《亀裂の刃》とどこか似ていた。
「……どうして、こんな力を……」
蓮が呟く。
天音は答えない。
ただ、静かに歩み寄ってくる。
黒い刃が、再び振り上げられた。
「っ、姉さん!」
蓮は叫んだ。
「俺だ! 蓮だよ!」
刃が止まることはなかった。
天音の攻撃が、まっすぐに蓮へ迫る。
蓮は咄嗟に《亀裂の刃》を構えた。
白と黒が激突する。
衝撃が腕を駆け抜け、蓮の身体が後方へ吹き飛ばされた。
「ぐあっ!」
「九条くん!」
木葉の声が響く。
蓮は道路を転がり、なんとか膝をついた。
右手が痺れている。
息が苦しい。
それでも、視線だけは天音から離さなかった。
「……姉さん」
天音は、ゆっくりと近づいてくる。
その足取りには迷いがない。
まるで、蓮を倒すことだけが、彼女に与えられた役割であるかのように。
「……違う」
蓮は、歯を食いしばった。
「姉さんが、こんなことをするはずがない……!」
天音が、再び刃を振り上げる。
「っ!」
蓮は立ち上がり、横へ跳んだ。
黒い刃が、彼のすぐ脇を通過する。
その先にあった自動販売機が、一瞬で消失した。
金属が砕ける音も、破片が飛び散る音もない。
ただ、そこにあったものが、跡形もなく消えた。
蓮は背筋が凍るのを感じた。
このまま戦い続ければ、いずれ自分も同じように消されるかもしれない。
それでも。
彼は、天音に刃を向けることができなかった。
◇
「九条くん! 聞いて!」
木葉が、黒い文字列の隙間から叫んだ。
「そのままじゃ、持たないよ!」
「……分かってる!」
「分かってるなら、反撃して! 攻撃を止めるだけでもいい! このままじゃ、九条くんが危ない!」
「でも……!」
「お姉さんを助けたいんでしょ!?」
その言葉に、蓮は動きを止めた。
木葉は、真剣な表情で続けた。
「だったら、まずは自分が倒れないこと! 九条くんまで動けなくなったら、誰があの人を助けるの!?」
「……っ」
「私は、お姉さんを傷つけろなんて言ってない! でも、何もしないまま攻撃を受け続けることが、助けることになるとも思わない!」
蓮は、唇を噛んだ。
分かっている。
木葉の言うことは、正しい。
攻撃を避けるだけでは、いずれ限界が来る。
相手の動きを止めなければならない。
しかし、止めるためには、何らかの力を使わなければならない。
そして、蓮の力は――切る力だった。
断つ力。
接続を切り離し、物語と現実の境界に干渉する力。
今まで、何度もその力に救われてきた。
だが、今は違う。
切ることが、救いになるとは限らない。
切ることで、守りたいものを失ってしまうかもしれない。
「……どうすればいいんだよ」
蓮の声が漏れた。
「俺は……どうすれば……」
天音が、再び動いた。
黒い刃が、蓮へ向かって伸びてくる。
蓮は反射的に《亀裂の刃》を構えた。
白い刃が、黒い刃の根元へと走る。
そこには、天音の身体と武器を結びつけている接続が見えた。
今までなら、迷わず切っていたはずだ。
その接続を切れば、攻撃を止められる。
相手の力を無効化できる。
だが――。
刃を振るおうとした瞬間、蓮の脳裏に、あの声が蘇った。
『――逃げて』
姉の声。
苦しそうで、必死で。
自分を遠ざけようとしていた声。
そして、あの瞳。
蓮を見つめながら、何かを訴えていた瞳。
「……っ!」
蓮は、刃を止めた。
黒い刃が、肩をかすめる。
制服の布が裂け、赤い線が腕に走った。
「九条くん!」
木葉が叫ぶ。
蓮は、よろめきながらも立ち続けた。
「……切れない」
声が震えた。
「俺には……切れない……!」
天音は、再び刃を構えた。
今度は、両手に黒い文字が集まっている。
蓮は、その姿を見つめた。
姉の姿をした存在。
姉の声を宿した存在。
そして、姉の意識が残っているかもしれない存在。
その接続を切るということは、姉を救う可能性まで切り捨てることになるのではないか。
そんな考えが、頭から離れなかった。
◇
――昔、姉は言っていた。
『分からないことがあるなら、ちゃんと確かめればいい』
あの頃の天音は、いつもそう言っていた。
誰かが言ったことを、そのまま信じなくてもいい。
目の前にあるものが、すべて真実とは限らない。
だから、自分で考えるのだと。
何を信じたいのか。
何を守りたいのか。
蓮は、その言葉を思い出した。
自分は今、何を恐れているのだろう。
姉を傷つけることか。
姉を失うことか。
それとも、目の前にいる存在が姉ではなかったと知ることか。
どれも、恐ろしかった。
ずっと会いたかった人が、目の前にいる。
けれど、その人を本当に助けられるのか分からない。
もし、今の自分の判断が間違っていたら。
もし、刃を振るうことで、姉の意識まで消えてしまったら。
もう二度と、答えを聞くことはできないかもしれない。
蓮は、ゆっくりと拳を握りしめた。
「……姉さん」
小さく呼ぶ。
天音の動きが、一瞬だけ止まった。
ほんのわずかな時間だった。
だが、蓮は見逃さなかった。
「……今、止まった?」
木葉が目を見開いた。
「九条くん、もう一度呼んで!」
「……姉さん!」
蓮は、声を張り上げた。
「俺だよ! 九条蓮だ!」
天音の身体が、かすかに震えた。
黒い紙片が一枚、肩から剥がれ落ちる。
その奥から、白い肌が見えた。
「……っ!」
木葉が息を呑む。
「反応してる……! 今、確かに反応した!」
「姉さん! 聞こえてるのか!?」
蓮は、もう一歩踏み出した。
「俺はここにいる! 姉さんの弟の、蓮だ!」
天音の瞳が、揺れた。
黒い文字列が、彼女の顔を覆い尽くそうとする。
それでも、蓮は叫び続けた。
「昔、約束しただろ! 俺のことを忘れないって! どこにいても、俺のことを忘れないって……!」
声が、かすれた。
「俺、ずっと待ってたんだ……!」
胸の奥に押し込めていた言葉が、次々と溢れ出す。
「姉さんが帰ってくるのを、ずっと待ってた! いつか、いつもみたいに帰ってきて、ただいまって言ってくれるって……そう思ってたんだ!」
天音の手が、わずかに震えた。
「……だから……!」
蓮は、涙をこらえながら叫んだ。
「今度は俺が、姉さんを迎えに行く番だろ!?」
黒い紙片が、大きく揺れた。
その身体の中央に、白い光が走る。
文字列が一斉に乱れ、天音の胸元に浮かんでいた頁が明滅した。
《接続――不安定》
《認識対象――九条蓮》
《照合――再試行》
そして。
《対象者の呼びかけを検出》
「……っ!」
木葉が端末を見つめた。
「九条くん! 今の言葉に反応してる! あの存在の内部で、何かが動いている!」
「姉さん……!」
蓮は手を伸ばした。
今度は、天音の方も手を伸ばした。
指先が、ゆっくりと近づいていく。
だが、その瞬間だった。
天音の身体が、大きく反り返った。
黒い紙片が爆発するように広がり、彼女の周囲を覆い尽くす。
「うああああああっ!」
蓮の耳に、悲鳴のような音が響いた。
それは、天音の声に似ていた。
けれど、人間の声とは思えないほど複雑な音が重なっている。
無数の声。
無数の言葉。
無数の記憶。
それらが一斉に叫び、街全体を震わせた。
「九条くん、危ない!」
木葉が叫ぶ。
黒い文字列が、蓮に向かって殺到した。
蓮は反射的に《亀裂の刃》を振るった。
白い刃が、迫り来る文字列を捉える。
しかし、蓮は刃を振り切らなかった。
攻撃そのものではなく、文字列が自分へ向かってくる接続だけを切り離す。
白い光が走り、黒い文字列が軌道を失って散った。
「……っ、はあ……!」
蓮は息を吐いた。
今の一撃は、確かに違った。
切ったのは、天音の身体ではない。
天音の力そのものでもない。
攻撃が蓮へ届く、その繋がりだけだった。
完全に制御できたわけではない。
少しでも判断を誤れば、天音に刃が届いていたかもしれない。
それでも。
「……できた」
蓮は、自分の右手を見つめた。
今までとは違う使い方。
切ることだけではなく、何を切らずに残すのかを考えた使い方。
それが、ほんの一瞬だけ形になった。
「九条くん……!」
木葉が、驚いたように声を上げた。
「今の……!」
「ああ。俺にも、まだよく分からない」
蓮は、天音を見つめた。
「でも、全部を切らなくてもいいんだ」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるようだった。
「切る必要があるものだけを、見極めればいい……」
天音が、ゆっくりと顔を上げた。
黒い紙片の奥で、その瞳が蓮を捉える。
次の瞬間、彼女は再び動いた。
黒い刃が、蓮へと振り下ろされる。
蓮は身をかわし、白い刃で攻撃の軌道を逸らした。
黒と白が交差する。
衝撃が、何度も響く。
蓮は、天音の攻撃を受け止めるのではなく、必要な部分だけを切り離すように動いた。
刃を受け流す。
接続を断つ。
攻撃が成立する直前、その繋がりを切る。
しかし、天音の力は強大だった。
何度防いでも、次々と新しい攻撃が生まれてくる。
黒い文字列が、蓮の足元を這う。
背後から、別の刃が迫る。
蓮は振り返り、ぎりぎりで回避した。
「くっ……!」
身体が、限界に近づいていた。
右腕は痺れ、呼吸は乱れ、視界の端が暗くなっている。
それでも、蓮は攻撃を止めなかった。
正確には、攻撃を続ける天音から目を逸らさなかった。
倒すためではない。
勝つためでもない。
ただ、彼女の中に残っているものを、見失わないために。
◇
「九条くん! 右!」
木葉の声が飛ぶ。
蓮は反射的に身を屈めた。
頭上を黒い刃が通過する。
直後、左側から別の文字列が伸びてきた。
「っ!」
蓮は《亀裂の刃》を滑らせ、文字列と暴走体をつなぐ接続を断ち切った。
黒い文字が霧散する。
しかし、次の瞬間には、天音の背後から新たな文字列が生まれていた。
「……きりがない……!」
蓮が歯を食いしばる。
木葉もまた、焦りを隠せなかった。
「このままじゃ、いつか限界が来る……!」
彼女は端末を見つめた。
暴走体の情報は、相変わらず安定しない。
だが、ひとつだけ、繰り返し表示されている項目があった。
《対象者――九条天音》
《任務状態――未完了》
《保護対象――照合中》
「……そうか」
木葉が、小さく呟いた。
「九条くん!」
「何だ!?」
「今、気づいたことがあるの!」
「手短に頼む!」
「分かってる!」
木葉は息を吸った。
「さっきから、あの暴走体は《任務継続》という表示を繰り返している。つまり、あれはただ暴走しているだけじゃなくて、何かを完了させようとしている可能性がある!」
「何かを……?」
「そう! 三年前のRQ-07で、何らかの任務が未完了のまま残っている。あの存在は、その任務を続けようとしているのかもしれない!」
「じゃあ、姉さんは……」
「まだ分からない! でも、少なくとも、あの存在の行動には目的がある可能性が高い!」
木葉は、暴走体を見つめた。
「だから、九条くん。あの存在を止めるには、力だけじゃなくて、何をしようとしているのかを知る必要がある!」
「……何をしようとしているのか」
蓮は、天音の姿を見つめた。
彼女は、再び黒い刃を構えている。
その身体を覆う文字列の隙間から、銀色の光が漏れていた。
まるで、内側から何かが助けを求めているかのように。
「……姉さん」
蓮は、もう一度呼びかけた。
「何を守ろうとしてるんだ?」
天音の動きが、止まった。
ほんの一瞬。
だが、今度は明らかだった。
黒い刃が、空中で静止している。
天音の瞳が、揺れた。
「……姉さん。三年前、何があったんだ?」
蓮は、一歩踏み出した。
「《原初の頁》って何なんだ? どうして、任務が終わっていないんだ?」
言葉を重ねる。
「姉さんは、何を守ろうとしたんだ?」
天音の顔が、苦しげに歪んだ。
その口元が、かすかに動く。
声は、聞こえない。
しかし、蓮には分かった。
彼女は、何かを伝えようとしている。
言葉にならない何かを。
必死に。
何度も。
「……姉さん!」
蓮は、叫んだ。
「俺に教えてくれ! 俺は、もう子供じゃない! 何があったのか、ちゃんと知りたいんだ!」
天音の手が震えた。
黒い刃が、わずかに下がる。
その瞬間、彼女の胸元に浮かんでいた白い頁が、激しく明滅した。
《認識対象――九条蓮》
《照合――開始》
《対象者の呼びかけを検出》
《接続――再試行》
木葉が息を呑んだ。
「……九条くん! もう一度!」
「姉さん!」
蓮は、ありったけの声で呼んだ。
「俺だ! 蓮だよ!」
天音の瞳に、かすかな光が戻った。
黒い紙片が、彼女の頬から一枚、剥がれ落ちる。
その下に現れた顔は、間違いなく天音のものだった。
苦しそうに眉を寄せ、何かを伝えようとしている。
蓮は、息を止めた。
「……姉さん?」
天音の唇が動いた。
しかし、声になる前に、黒い文字が彼女の口元を覆い尽くした。
白い頁が、真っ黒に染まる。
《接続――不安定》
《任務――継続》
《対象者――再制御》
「……っ!」
天音の身体が、激しく震えた。
次の瞬間、彼女の瞳から、先ほどまでの光が消えた。
黒い刃が、再び持ち上がる。
「九条くん、避けて!」
木葉の叫びが響いた。
蓮は、反射的に身をかわした。
黒い刃が、地面を切り裂く。
道路に巨大な亀裂が走り、周囲の建物の輪郭が歪んだ。
「……姉さん……!」
蓮は、歯を食いしばった。
ほんの一瞬だった。
確かに、姉の意思が戻ったように見えた。
けれど、それは長く続かなかった。
何かが、彼女の意識を押し戻している。
何かが、彼女の言葉を封じている。
その正体は、まだ分からない。
ただ、蓮には確信があった。
姉は、完全に失われたわけではない。
あの中に、まだ何かが残っている。
ならば。
その何かを、取り戻さなければならない。
◇
黒い刃が、再び蓮へ向かってくる。
蓮は《亀裂の刃》を構えた。
白い光が、右手から腕へと広がる。
今なら、天音の攻撃を止められるかもしれない。
黒い刃と、天音の身体をつないでいる接続。
暴走体と《原初の頁》をつないでいる接続。
そのどれかを切れば、状況は変わるかもしれない。
だが、どれを切ればいいのか。
その先に何があるのか。
蓮には、まだ分からなかった。
「……くそっ!」
蓮は、歯を食いしばった。
戦いたくない。
姉と戦いたくなんてない。
できることなら、今すぐ手を伸ばして、あの人を抱きしめたい。
もう大丈夫だと。
今度こそ、自分がそばにいると。
そう伝えたい。
しかし、目の前の天音は、容赦なく刃を振るってくる。
その攻撃を受け続ければ、蓮自身が倒れてしまう。
そうなれば、姉を救うこともできなくなる。
「……俺は……」
蓮は、自分の右手を見た。
白い文字が、静かに明滅している。
《亀裂の刃》。
境界を断つ力。
接続を切る力。
今まで、自分はその力を使って、何度も危機を乗り越えてきた。
しかし、今は違う。
切るべきものが分からない。
切れば救えるのか。
切れば失うのか。
その答えが出ないまま、刃を振るうことはできなかった。
「……神楽」
蓮は、かすれた声で呼んだ。
「うん!」
「俺は、あいつを切りたくない」
「……うん」
「でも、何もしなければ、姉さんが……」
言葉が途切れる。
木葉は、蓮の隣で拳を握りしめた。
「……九条くん」
「……」
「今、無理に答えを出さなくてもいい」
木葉は、暴走体を見つめた。
「でも、ひとつだけ覚えておいて。九条くんの力は、ただ切るためだけの力じゃないんでしょ?」
「……え?」
「さっき、攻撃の接続だけを切ったよね。あれは、相手を傷つけずに、自分を守るための使い方だった」
蓮は、自分の右手を見た。
「……ああ」
「だったら、きっと他にも方法がある。今はまだ見つかっていないだけで」
木葉は、少しだけ笑った。
「九条くんは、いつもそうやって考えてきたじゃない。何を切るべきなのか。何を残すべきなのか」
「……」
「だから、今回も考えよう。どうすれば、お姉さんを傷つけずに助けられるのか」
蓮は、ゆっくりと息を吐いた。
その言葉は、簡単な答えではなかった。
今すぐ使える方法があるわけでもない。
天音を救える保証があるわけでもない。
それでも。
自分が何をしたいのかだけは、はっきりしていた。
「……そうだな」
蓮は、顔を上げた。
「俺は、姉さんを倒したいんじゃない」
黒い刃を構える天音を、まっすぐに見つめる。
「姉さんを、取り戻したいんだ」
その言葉を口にした瞬間、右手の白い文字が、わずかに輝いた。
今までとは違う光だった。
強く、激しく燃え上がるのではない。
静かに、確かな意思を宿すような光。
蓮は、ゆっくりと《亀裂の刃》を構え直した。
今度は、天音を切るためではない。
彼女の攻撃を受け止めるためでもない。
何を切り、何を残すべきなのか。
その答えを見つけるために。
「……姉さん」
蓮は、静かに呼びかけた。
「俺は、ここにいる」
天音の瞳が、かすかに揺れた。
黒い紙片の奥で、銀色の光が瞬く。
そして、彼女は再び刃を振り上げた。
蓮は逃げなかった。
ただ、刃を構え、彼女を見つめ続けた。
次に振るう一撃が、勝敗を決めるとは限らない。
けれど、その一撃の中に、姉へ届く何かがあるかもしれない。
蓮は、その可能性を信じた。
夕暮れの空を、黒い頁が覆い尽くす。
その中心で、二つの刃が再び交差しようとしていた。
白い刃と、黒い刃。
断つ者と、断たれる者。
そして、失われた姉と、姉を取り戻そうとする弟。
それは、勝者を決めるための戦いではなかった。
蓮が本当に戦っていたのは、目の前の姉ではない。
姉の意識を覆い隠す、正体の分からない何か。
そして、何も分からないまま、大切な人を失うことへの恐怖だった。
「……姉さん!」
蓮の声が、黒い頁の街に響いた。
返事は、まだない。
けれど、銀色の光は消えていなかった。
その小さな光が、確かにそこに残っていた。
第10節:天音の一瞬の自我
夕暮れが、消えていく。
空を覆っていた黒い頁は、街の上空でゆっくりと回転していた。
紙の端からこぼれ落ちる文字が、雪のように舞う。
けれど、それは決して美しい光景ではなかった。
文字が地面に触れるたび、道路の白線が消え、街灯の輪郭が歪み、建物の壁から窓の位置が失われていく。
世界が壊れているのではない。
世界を世界として成立させている情報が、少しずつ書き換えられているのだ。
その中心に、一人の女性が立っていた。
銀色の髪。
見覚えのある横顔。
幼いころ、何度も自分の頭を撫でてくれた手。
そして、ずっと探し続けていた人。
九条天音。
蓮の姉だった。
「……姉さん」
蓮は、震える声で呼びかけた。
右手には、《亀裂の刃》が浮かび上がっている。
白い文字で形作られた刃は、いつでも目の前の存在との接続を断ち切れる状態にあった。
けれど、蓮は動かなかった。
切れない。
切ってはいけない。
もし、あの身体の中に姉の意識が残っているのなら。
もし、姉と世界をつないでいるものが、この暴走体との接続そのものなのだとしたら。
ここで刃を振るうことは、姉を救う可能性まで断ち切ることになるかもしれない。
「蓮くん!」
背後から木葉の声が響いた。
「無理に近づかないで! まだ何が起きるか分からない!」
「分かってる!」
「分かってないよ! だって、さっきからずっと、攻撃できない顔してる!」
蓮は答えられなかった。
図星だった。
目の前にいるのは、世界を脅かす暴走体だ。
その危険性は理解している。
これまでの記録も、目撃証言も、第一級断章暴走という異常事象の恐ろしさも、調べてきた。
それでも。
蓮にとって、目の前の存在は単なる暴走体ではなかった。
何年も前に姿を消した姉。
もう一度会いたいと願い続けた家族。
そして、今もどこかで自分のことを覚えていてくれるかもしれない人だった。
「……俺は」
蓮は、唇を噛んだ。
「俺は、姉さんを見捨てない」
「蓮くん……」
「たとえ、今の姉さんが俺のことを覚えていなくても。俺の声が届かなくても。それでも、俺は……」
右手の刃が揺らいだ。
白い文字の輪郭が、今にも崩れそうになる。
「姉さんを、取り戻したいんだ」
その言葉が、黒い頁の舞う街に響いた。
直後。
暴走体の動きが止まった。
「……え?」
木葉が息を呑む。
黒い文字をまとっていた天音の身体が、ぴたりと静止していた。
空中で回転していた頁の動きも、一瞬だけ緩やかになる。
まるで、世界そのものが蓮の言葉に耳を傾けたかのようだった。
蓮は目を見開いた。
「姉さん……?」
天音の指先が、わずかに動いた。
黒い文字に覆われていた手が、何かを探すように宙をさまよう。
そして。
彼女の顔が、ゆっくりと蓮のほうを向いた。
銀色の髪が揺れる。
顔にかかっていた黒い文字が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていった。
その下から現れた瞳には、ほんのわずかだが、人間らしい光が宿っていた。
「……姉さん!」
蓮は一歩、前に出た。
「聞こえるのか? 俺の声が聞こえてるんだな!」
天音の唇が、かすかに動く。
声は聞こえなかった。
けれど、彼女は確かに何かを伝えようとしていた。
「お願いだ、もう一度……!」
蓮は右手を下ろした。
《亀裂の刃》を消す。
今は武器など必要なかった。
必要なのは、姉の言葉を聞くこと。
あの日からずっと、聞けなかった言葉を。
「姉さん。俺だよ。蓮だよ」
天音の瞳が揺れた。
「小さいころ、よく一緒に帰ったよな。雨の日に傘を忘れて、二人で走って帰ったこともあった。姉さん、あのとき俺のせいで靴までびしょ濡れになったのに、怒らなかったよな」
蓮は、必死に笑おうとした。
「それどころか、家に帰ったら母さんに怒られないようにって、俺の靴を先に乾かしてくれた」
天音の指が、ぴくりと動いた。
「俺、覚えてるよ。ちゃんと覚えてる。姉さんが何をしてくれたのか、どんな声で笑ってたのか、どんな顔で俺を叱ったのか……全部、覚えてるんだ」
言葉が止まらない。
今、話さなければ。
この一瞬が終わってしまう前に。
「姉さんがいなくなってから、何度も考えた。俺が何か悪いことをしたんじゃないかって。あの日、もっと話をしていればよかったんじゃないかって。俺が何も知らなかったから、姉さんを助けられなかったんじゃないかって……!」
「蓮くん、落ち着いて!」
木葉の声が飛んできた。
彼女もまた、目の前の変化を見逃してはいなかった。
天音を覆う黒い文字は消えていない。
身体の輪郭は時折、紙片のように崩れては再構成されている。
暴走が止まったわけではないのだ。
ただ、その奥にある何かが、ほんの一瞬だけ表面に現れている。
木葉は右手を胸元に押し当てた。
「……これ、暴走が弱まってるんじゃない」
「え?」
「違う。何かが……内側から、表に出てきてる」
彼女の視線が天音へと注がれる。
「蓮くんの呼びかけに反応して、暴走体の中にある情報が変化してる。もしかしたら……」
木葉は言葉を切った。
期待を口にするのが怖かった。
まだ、確かなことは何も分かっていない。
目の前にいる女性が、本当に九条天音本人なのか。
それとも、天音の記憶を取り込んだ暴走体が、蓮の言葉に反応しているだけなのか。
どちらも否定できなかった。
だが。
天音は、蓮を見ていた。
今、この瞬間だけは。
まるで、長い夢から目を覚ました人のように。
彼女の唇が、再び動いた。
「……れ……」
蓮は息を止めた。
「姉さん?」
「……れん……」
かすかな声だった。
風に吹かれれば消えてしまいそうなほど、弱い声。
それでも、蓮には聞こえた。
間違いようがなかった。
その声を、彼は知っている。
何度も名前を呼んでくれた声。
眠れない夜に、隣で絵本を読んでくれた声。
泣きじゃくる自分に、もう大丈夫だと囁いてくれた声。
そして、何年も聞けなかった声。
「……姉さん!」
蓮の目に涙が浮かんだ。
「俺だよ! 蓮だ! 分かるんだな? 俺のこと、分かるんだな!」
天音の瞳が、ほんの少しだけ細められた。
それは、微笑みに似ていた。
幼いころ、蓮が転んで泣いていたとき。
失敗して落ち込んでいたとき。
姉がいつも浮かべていた、あの優しい表情に。
蓮の胸が、強く締めつけられる。
「よかった……!」
涙が頬を伝った。
「よかった、姉さん……! ずっと、ずっと探してたんだ……!」
彼は一歩、また一歩と近づいた。
今度こそ手を伸ばせる。
今度こそ、姉に触れられる。
そう思った。
けれど。
天音の表情が変わった。
微笑みが消えたのではない。
その奥に、別の感情が浮かび上がったのだ。
恐怖。
焦燥。
そして、必死に何かを伝えようとする切迫した意志。
「……蓮」
今度は、はっきりと聞こえた。
姉が、自分の名前を呼んだ。
たった二文字。
けれど、その声には、何年もの空白を埋めるほどの重みがあった。
「姉さん……!」
蓮が手を伸ばす。
天音もまた、手を伸ばしかけた。
指先が、わずかに動く。
あと少し。
あと少しで、届く。
しかし、その瞬間だった。
天音の背後で、黒い頁が爆発するように広がった。
無数の文字が彼女の身体へと殺到する。
首筋に。
腕に。
頬に。
彼女の輪郭を塗り潰すように、黒い文字が再びまとわりついていった。
「っ……!」
天音の顔が歪んだ。
彼女の右手が、自分の胸元を押さえる。
まるで、身体の内側から何かに引き戻されているようだった。
「姉さん!?」
蓮は駆け寄ろうとした。
「来ないで!」
天音の声が響いた。
それまでの弱々しい声とは違う。
切実で、鋭く、必死な叫びだった。
蓮の足が止まる。
「……え?」
天音は、震える瞳で蓮を見つめていた。
その目には、確かに彼女自身の意志が宿っていた。
けれど、同時に。
その意志は、何か巨大な力に押し潰されようとしていた。
「逃げて」
天音が言った。
たった一言。
それだけで、蓮の身体が凍りついた。
「……姉さん?」
「逃げて、蓮!」
彼女は叫んだ。
「ここにいちゃ駄目……! 早く……!」
黒い文字が、彼女の口元まで這い上がる。
天音はそれを振り払おうとするように顔を歪めた。
「お願い……! 私から、離れて……!」
「嫌だ!」
蓮は即座に叫び返した。
「そんなことできるわけないだろ! やっと会えたんだ! やっと……姉さんの声が聞こえたんだ!」
「蓮……!」
「今度こそ助ける! 絶対に助けるから! だから、もう少しだけ……!」
「駄目……!」
天音の身体が大きく揺れた。
空中の頁が一斉に開き、無数の文字が周囲へと散らばっていく。
街の景色が歪んだ。
遠くにあった建物が、別の場所へ移動したように見える。
道路の向こうに、存在しないはずの階段が現れた。
聞き覚えのない声が、何重にも重なって響き始める。
『任務――継続』
『接続――維持』
『対象者――確認』
『保護対象――未確定』
機械的な文字列が、天音の周囲を巡っていた。
その一つひとつが、彼女の身体に鎖のように絡みついている。
蓮の右手が、激しく熱を帯びた。
白い文字が浮かび上がる。
《断章》
《接続》
《照合》
その下に、新たな表示が現れた。
《対象者――九条天音》
《自我反応――検出》
蓮は目を見開いた。
「自我反応……!」
表示は、すぐに点滅し始めた。
《接続状態――不安定》
《認識状態――照合不能》
《自我反応――低下》
「待てよ……!」
蓮は右手を握りしめた。
「消えるな! 姉さんの反応を消すな!」
文字は、彼の叫びに答えなかった。
代わりに、黒い頁がさらに増殖した。
「蓮くん、危ない!」
木葉が叫んだ。
地面から黒い文字の帯が伸び、蓮の足元へと迫ってきた。
木葉はすぐに両手を広げる。
「《竹取ノ幻影》!」
淡い光が広がり、竹林の幻影が二人の周囲に現れた。
無数の竹が、文字の帯と蓮の間に立ち塞がる。
しかし、黒い文字は竹の表面を滑るように伝い、幻影そのものの意味を塗り替えようとしていた。
「うそ……! 私の幻影まで侵食するの!?」
「木葉!」
「大丈夫! でも、長くは持たない!」
木葉は歯を食いしばった。
「蓮くん、聞いて! さっきの反応は本物だった可能性が高い!」
「可能性……?」
「断言はできない。でも、あの人は蓮くんの呼びかけに反応した! ただ記憶を再現しただけなら、あんなふうに自分から言葉を返せるかどうか……!」
「なら、姉さんは……!」
「まだ中にいるのかもしれない!」
その言葉が、蓮の胸に突き刺さった。
まだ、中にいる。
姉は消えていない。
完全に失われたわけではない。
けれど。
「……どうすればいいんだよ」
蓮の声が震えた。
「どうすれば、姉さんを助けられるんだ……!」
木葉は答えられなかった。
彼女も、知りたかった。
何が《原初の頁》なのか。
なぜ三年前の任務は未完了のままなのか。
なぜ九条天音は、暴走体の中心にいるのか。
そして、なぜ彼女は、蓮に向かって「逃げて」と叫んだのか。
記録をいくら調べても、答えは得られなかった。
今、目の前にいる天音自身でさえ、すべてを語ることはできないのだ。
黒い文字が、天音の顔を覆い尽くそうとしていた。
「姉さん!」
蓮は叫んだ。
「聞こえてるんだろ!? だったら、もう一度答えてくれ! どうすればいい!? 俺は何をすれば、姉さんを助けられるんだ!?」
天音の身体が、一瞬だけ止まった。
黒い文字の奥で、瞳が揺れる。
彼女は何かを伝えようとしていた。
口が動く。
けれど、声は出ない。
喉元から黒い文字が溢れ、言葉そのものを押し戻していく。
「姉さん……!」
蓮は手を伸ばした。
天音の指先が、わずかに動いた。
まるで、弟の手を取ろうとしているかのように。
だが、指先が触れ合うことはなかった。
彼女の手は、途中で止まった。
次の瞬間。
天音の瞳から、光が消えた。
いや。
正確には、消えたように見えただけだった。
瞳の奥にあった意志が、深い闇の底へと押し戻されたのだ。
彼女の首が、不自然な角度で傾く。
そして、ゆっくりと蓮を見据えた。
その顔には、先ほどまでの人間らしい表情は残っていなかった。
無数の黒い文字が、皮膚の上を這い回っている。
銀色の髪は、ところどころが紙片のように崩れ、空中へと散っていた。
右手が持ち上がる。
黒い文字が集まり、鋭い刃を形作った。
「……姉、さん?」
返事はない。
代わりに、頭上の頁が一斉に開いた。
『任務――継続』
『接続――再構築』
『対象者――制御状態へ移行』
蓮の右手に、警告が浮かぶ。
《自我反応――消失》
その文字を見た瞬間、蓮は息を呑んだ。
「……そんな」
さっきまで。
確かに、姉はそこにいた。
自分の名前を呼んでくれた。
逃げろと叫んでくれた。
それなのに。
「……嘘だろ」
黒い刃が振り下ろされた。
「蓮くん!」
木葉の幻影が崩れ、竹林の光が砕け散った。
蓮はとっさに右手を掲げる。
「《亀裂の刃》!」
白い刃が出現し、迫り来る攻撃と蓮の間に走った。
刃と刃が交差する。
その衝撃で、周囲の文字が弾け飛んだ。
しかし、蓮は反撃しなかった。
反撃できなかった。
目の前にいる存在が、姉の姿をしているからではない。
その姿の奥に、姉の意志が残っているかもしれないと知ってしまったからだ。
彼女を傷つけることが、彼女を救うことにつながるのか。
それとも、最後に残された自我まで消してしまうのか。
まだ分からない。
分からないまま、刃を振るうことはできなかった。
「蓮くん! 今は距離を取って!」
木葉が叫ぶ。
「でも……!」
「分かってる! 分かってるよ! 蓮くんが、お姉さんを置いていけないことくらい!」
木葉の声にも、焦りが滲んでいた。
「でも、ここで蓮くんまで倒れたら、誰が助けるの!?」
蓮は言葉を失った。
「お姉さんが『逃げて』って言ったのは、蓮くんに生きていてほしいからじゃないの!?」
「……っ!」
「まだ助けられるかもしれない! だったら、助ける方法を見つけようよ! ここで全部終わらせちゃ駄目だよ!」
蓮は天音を見た。
黒い文字に覆われた姉。
自分を攻撃しようとしている姉。
けれど、その少し前には、確かに自分の名前を呼んでくれた姉がいた。
あの声は、幻だったのだろうか。
記憶が作り出した、都合のいい夢だったのだろうか。
違う。
そう思いたくなかった。
たとえ、まだ証明できなくても。
たとえ、木葉にも断言できなくても。
蓮は、自分の聞いた声を信じたかった。
「……姉さん」
彼は小さく呟いた。
黒い刃を受け止めながら、もう一度、目の前の女性を見つめる。
「俺は、逃げない」
木葉が振り返った。
「蓮くん……!」
「でも、今のままじゃ駄目なんだな」
蓮は続けた。
「ただ名前を呼ぶだけじゃ、姉さんを取り戻せない。力任せに接続を切っても、きっと駄目だ」
右手の《亀裂の刃》が、淡く輝いた。
「何が姉さんを縛ってるのか。何を守ろうとしてるのか。何が、あの任務を終わらせないでいるのか……それを知らなきゃいけない」
天音の攻撃が、再び迫る。
蓮は刃を傾け、黒い文字の接続だけを断ち切った。
攻撃の軌道がずれ、道路の端へと逸れていく。
彼女自身には触れない。
その身体と、攻撃を形作る文字のつながりだけを切る。
前よりも、少しだけ正確に。
けれど、戦い方を理解することと、姉を救う方法を見つけることは、同じではなかった。
天音の身体は、再び黒い文字に包まれていく。
彼女の瞳に、人間らしい光は戻らない。
それでも蓮は、先ほどの一瞬を忘れなかった。
自分の名前を呼んだ声。
伸ばしかけた手。
そして、必死に伝えようとした言葉。
逃げて。
それは、暴走体の命令ではない。
少なくとも蓮には、そう思えた。
姉は、最後の瞬間まで自分を守ろうとしていた。
ならば。
彼女はまだ、そこにいるのかもしれない。
誰にも見つけられない深い場所で。
黒い文字に覆われた物語の奥底で。
今も、弟の名前を覚えているのかもしれない。
*
どれほどの時間が過ぎたのか、蓮には分からなかった。
黒い頁が街を覆い、文字が舞い、現実と断章の境界が揺らぎ続ける。
木葉とともに距離を取りながら、蓮は何度も天音に呼びかけた。
「姉さん!」
「九条天音!」
「聞こえてるなら、もう一度だけ……!」
しかし、彼女から返事が戻ることはなかった。
天音は暴走体の中心で、静かに立っていた。
黒い文字をまとい、表情を失い、まるで誰かに与えられた役割だけを演じているかのように。
その姿は、蓮の知っている姉とはあまりにも違っていた。
それでも。
蓮は、彼女から目を逸らさなかった。
やがて、遠くから警報音が聞こえてきた。
断章管理機構の監視装置が反応したのか。
それとも、別の組織が異常を察知したのか。
蓮には分からない。
ただ、木葉が顔を上げた。
「……まずい。ここに長くいたら、ほかの人たちも巻き込まれる」
「分かってる」
「蓮くん。いったん退こう。今は、情報を持ち帰ることも大切だよ」
蓮は拳を握った。
今すぐ姉を連れ帰りたい。
ここから連れ出して、家に帰りたい。
父と母のもとへ。
何事もなかったかのように、昔の生活へ。
けれど、それはできない。
目の前の姉は、蓮が知っている世界の中にいるのに、その世界に完全には属していなかった。
彼女を縛るものを知らなければ、救うこともできない。
「……分かった」
蓮は、ゆっくりと頷いた。
「一度、戻ろう」
木葉は、ほっとしたように息を吐いた。
「うん」
「でも、諦めたわけじゃない」
「……うん」
「俺は絶対に、姉さんを取り戻す」
木葉は、蓮の横顔を見つめた。
いつもの彼なら、こんなときに強がってみせることもあっただろう。
しかし、今の声には、単なる意地とは違うものがあった。
姉の声を聞いた。
姉の意志に触れた。
その事実が、蓮の中に新たな決意を生んでいた。
「だったら、私も一緒に探すよ」
木葉は言った。
「《原初の頁》のことも、RQ-07の記録も、まだ何も分かってない。だったら、調べられることは全部調べよう」
「……ありがとう、木葉」
「どういたしまして」
木葉は、いつものように笑おうとした。
けれど、その笑顔は少しだけぎこちなかった。
「ただし、次にお姉さんの声が聞こえても、いきなり飛び出さないこと!」
「……努力する」
「そこは約束してよ!」
「……約束する」
「本当に?」
「本当だ」
「よし!」
木葉は小さく頷いた。
いつもの調子を取り戻そうとしているのだろう。
その気遣いが分かって、蓮は少しだけ苦笑した。
「木葉」
「なに?」
「さっきのこと……俺の聞き間違いじゃないよな」
木葉は、すぐには答えなかった。
空を見上げる。
黒い頁は、まだ消えていない。
その向こうに立つ天音の姿も、はっきりと見えていた。
「……私は、蓮くんが聞いた声を否定しないよ」
「でも、確かな証拠はない」
「うん。証拠はない」
木葉は正直に答えた。
「記録も、照合結果も、今の段階じゃ何も保証してくれない。あれが本当にお姉さん本人の意識だったのか、私には断言できない」
「……そうか」
「だけどね」
木葉は蓮を見た。
「蓮くんの名前を呼んだあと、あの人は『逃げて』って言った」
彼女の声は、静かだった。
「自分がどうなるかも分からないような状態で、それでも蓮くんを逃がそうとした。少なくとも、あの瞬間には、誰かを守ろうとする意志があったんだと思う」
「……姉さん」
「それが本当にお姉さんの意志なら、まだ諦める理由はないよ」
蓮は目を閉じた。
胸の奥に、熱いものが込み上げてくる。
確証はない。
救う方法もない。
今すぐ姉を取り戻すこともできない。
それでも。
完全に失われたわけではない。
その可能性が、確かに残った。
「……帰ろう、木葉」
「うん」
二人は、ゆっくりと後退を始めた。
蓮は何度も振り返った。
天音は、動かなかった。
黒い頁の中心で、彼女はただ、こちらを見つめているように見えた。
その瞳に、もう自我の光はない。
けれど、蓮にはどうしても、先ほどの声が忘れられなかった。
――……蓮。
――逃げて。
あの二つの言葉が、胸の奥で繰り返される。
姉は、確かに自分を呼んだ。
そして、自分を守ろうとした。
それだけは、忘れない。
どれほど記録が食い違っても。
どれほど世界が彼女の存在を否定しても。
蓮は、自分が聞いた声をなかったことにはしない。
*
その夜。
斎苑学園地下、アーカイブ。
無数の資料が保管された施設の奥で、一台の端末が自動的に起動した。
誰も触れていないはずの画面に、文字が浮かび上がる。
《極秘任務管理番号――RQ-07》
《対象者――九条天音》
《任務状態――未完了》
《対象者反応――再検出》
《関連人物――九条蓮》
続いて、新たな項目が表示された。
《自我反応――一時的回復》
《呼びかけ対象――九条蓮》
《発話記録――部分取得》
その下に、短い言葉が記録される。
《……蓮》
《逃げて》
端末は、しばらく沈黙した。
やがて、最後の一行が浮かび上がる。
《任務再開条件――未確定》
画面が暗転した。
誰もいないアーカイブの奥で、古い本の頁が一枚だけめくれた。
そこに書かれていた文字は、すぐに消えてしまった。
けれど、その一瞬。
確かに、こう記されていた。
《九条天音――認識継続》
*
同じ頃。
アーカイブから遠く離れた、暗い部屋。
机の上には、古びた資料が積み重ねられていた。
壁には、三年前の異常事象に関する記録が貼られている。
その中央に、一枚の写真があった。
銀色の髪の女性。
旧管理区域の入口。
そして、写真の端に写り込んだ、黒い影。
影の正体は、分からない。
顔も、服装も、輪郭さえも曖昧だった。
ただ、その影の手元には、一冊の本らしきものが写っていた。
誰かが写真を手に取る。
指先が、女性の姿をなぞった。
「……見つかったか」
低い声が、暗闇に落ちた。
机の上に置かれた端末が点灯する。
そこには、新たな報告が表示されていた。
《対象者――九条天音》
《関連人物――九条蓮》
《接続反応――確認》
《認識状態――不安定》
画面を見つめていた人物は、しばらく黙っていた。
やがて、写真を伏せる。
「まだ、終わっていない」
その声には、安堵も、喜びもなかった。
ただ、長いあいだ待ち続けていた者だけが持つ、静かな確信があった。
「ならば……次は、彼が選ぶ番だ」
端末の光が消える。
暗闇の中で、何かが頁をめくる音がした。
*
翌朝。
蓮は、窓の外を眺めていた。
昨夜の出来事は、夢ではない。
姉の声を聞いた。
姉が自分の名前を呼んだ。
そして、逃げろと言った。
その事実だけが、胸の中に残っている。
救えなかった。
手を伸ばしたのに、届かなかった。
今も、姉は暴走体の中に囚われている。
そのことを思うと、胸が苦しくなる。
それでも。
「……姉さん」
蓮は、小さく呟いた。
「待っててくれ」
答えはない。
窓の向こうには、いつもと変わらない斎苑市の景色が広がっていた。
通学する生徒たち。
走り去る車。
駅へ向かう人々。
昨日、世界の境界が崩れかけたことなど、誰も知らない。
それでも、この世界のどこかに、姉はいる。
そして、自分の名前を覚えているかもしれない。
蓮は、右手を見つめた。
白い文字は、今は浮かび上がっていない。
だが、彼の中では何かが変わっていた。
これまで、蓮は《亀裂の刃》で何かを切ることばかり考えていた。
断章と現実のつながり。
異常と正常の境界。
自分を縛る、得体の知れない何か。
けれど、昨日は違った。
切れば終わるものばかりではない。
切ってはいけないものもある。
守らなければならないつながりもある。
姉を救うためには、ただ力を強くするだけでは足りない。
彼女を縛る物語を知らなければならない。
その物語が、どこから始まり、なぜ終わらなくなったのか。
そして、姉が最後まで守ろうとしたものは何だったのか。
「……今度は、俺が見つける」
蓮は、顔を上げた。
「姉さんを縛っているものも。あの日、何が起きたのかも。全部……俺が確かめる」
それは、誰かに与えられた任務ではなかった。
組織の命令でも、断章の導きでもない。
弟として、自分自身が選んだ道だった。
そのとき、机の上に置いてあったスマートフォンが震えた。
木葉からのメッセージだった。
『おはよう、蓮くん! 昨日の記録、少しだけ解析が進んだよ。まだ確定じゃないけど、気になることがあるの』
続けて、もう一通。
『RQ-07の記録に、ひとつだけ説明できない項目があった。任務対象の《原初の頁》とは別に、もうひとつ……何かが記録されているみたい』
蓮は、画面を見つめた。
『何が記録されてるんだ?』
すぐに返信する。
数秒後、木葉から答えが届いた。
『それが、まだ読めないんだよね。記録の名前も、内容も、全部欠落してる。ただ、ひとつだけ残ってる文字があった』
蓮の心臓が、わずかに強く打った。
『何て書いてあった?』
返信を待つ時間が、ひどく長く感じられた。
やがて、画面に新しいメッセージが現れた。
『《保護対象》』
蓮は息を呑んだ。
保護対象。
天音が、暴走の中で叫んだ言葉。
そして、RQ-07の記録に何度も現れていた言葉。
偶然なのか。
それとも。
天音は、誰かを守ろうとしていたのだろうか。
三年前の任務で。
暴走が始まったあの日に。
あるいは、今もなお、黒い文字の奥で。
蓮はスマートフォンを握りしめた。
「……姉さん」
窓から差し込む朝の光が、彼の手を照らす。
「今度は、俺が姉さんを守る」
その言葉は、まだ誰にも届かない。
それでも、蓮は確かに選んだ。
姉を救うこと。
失われた記録を探すこと。
そして、三年前に終わらなかった物語の続きを、自分の意志で確かめること。
その先に何が待っているのか、まだ分からない。
姉を取り戻せる保証もない。
自分が何者なのか、その答えさえ見つかっていない。
けれど。
もう、ただ謎を追いかけるだけではなかった。
蓮が探すのは、失われた家族の姿。
姉が守ろうとしたものの正体。
そして、誰かによって未完了のまま残された物語の結末だった。
窓の外で、風が吹いた。
どこか遠くで、紙の頁がめくれるような音がした気がした。
蓮は、静かに目を閉じる。
あの声を、忘れない。
――……蓮。
――逃げて。
姉の言葉は、絶望の中に残された、小さな希望だった。
まだ、終わっていない。
姉の物語も。
自分の物語も。
そして、三年前から続いている、あの任務も。
蓮は目を開けた。
今度は、自分の意志で前を向く。
姉を救うために。
真実を知るために。
そして、誰かが決めた結末ではなく、自分たちが生きる物語の続きを見つけるために。
――第4章・了。