オリジナル小説 恋愛

ダーリン♡こっち見て! ――新妻ひまりの恋する日常記 ――第1章:ひだまり商店街へようこそ

ダーリン♡こっち見て! ――新妻ひまりの恋する日常記 ――

イメージ曲💕「ダーリン♡こっち見て!」

曲調
ジャンル:キュート・アイドルポップ × City Pop × Funky Pop
テンポ:BPM 124(軽快で跳ねる、恋する日常感)
キー:Gメジャー(明るく甘く、幸福感のある響き)
ビート:4/4、軽快なポップビート+ファンキーな16ビート
編成:エレキギターのカッティング、シンセ、エレピ、ベース、ドラム、タンバリン、クラップ、軽いストリングス
雰囲気:日常×恋人感×甘々×ちょっと照れくさい可愛さ


🎵 歌詞構成
[Intro]

[Whispery][Cute][Playful]

ダーリン……
おはよう♡

……まだ眠いの?

ふふっ♡
ダーリン、こっち見て♡

[Verse 1]

[Soft][Sweet][Conversational]

朝のカーテン 開けたら
まぶしい光が 差し込んで

寝ぐせのままの その顔に
今日もキュンって しちゃうんだ♡

「コーヒー飲む?」
「パン焼くね」
そんな毎日が 嬉しくて

特別じゃない 時間ほど
君となら 宝物♡

[Pre-Chorus]

[Playful][Build-Up][Heartwarming]

ダーリン ねぇダーリン
聞いてほしいことがあるの

……なんて言おうかな?
やっぱり これしかない♡

[Chorus 1]

[Bright][Cute][Bouncy][Sweet]

ダーリン こっち見て♡
ダーリン こっちこっち♡
目が合っただけなのに
胸がドキドキしちゃうの♡

ダーリン 手をつないで♡
ダーリン もっと近く♡
今日も明日も その先も
ずーっと隣にいてね♡

ダーリン ダーリン
だーい好き♡
ねぇねぇ もう一回言わせて?

ダーリン♡

[Verse 2]

[Playful][Groovy][Romantic]

テレビを見てる 横顔を
こっそり見つめて にやけちゃう

お菓子を半分 分けるとき
大きいほうを くれる君♡

「ありがとう」って 言ったあと
ちょっとだけ 肩にもたれて

何気ないこの瞬間が
私には 恋なんだ♡

[Pre-Chorus 2]

[More Emotional][Build-Up][Playful]

ダーリン ねぇダーリン
名前を呼ぶだけで

なんだか心が
ふわっと あったかくなる♡

[Chorus 2]

[More Energetic][Sweet][Joyful][Bouncy]

ダーリン おいで♡
ダーリン こっちだよ♡
たったそれだけなのに
世界がキラキラしちゃう♡

ダーリン ぎゅってして♡
ダーリン 離さないで♡
ケンカしたって 笑ったって
最後は仲直りしよう♡

ダーリン ダーリン
大好きだよ♡
何回言っても 足りないくらい

ダーリン♡
だーい好き♡

[Bridge]

[Intimate][Warm][Emotional]

もしも歳を重ねても
今みたいに笑っていたい

朝になったら
「おはよう」って言って

夜になったら
「おやすみ」って言って

当たり前みたいに
君の隣にいたい

……ねぇ、ダーリン。

これからも
よろしくね♡

[Break]

[Whisper][Playful][Spoken]

「ダーリン?」

「なぁに?」

「こっち見て♡」

「見てるよ」

「もっと♡」

「……近いって(笑)」

「だって――」

[Soft Whisper]

「ダーリンが大好きなんだもん♡」

[Final Chorus]

[Powerful][Bright][Ecstatic][Full Harmony]

ダーリン おはよう♡
ダーリン こっち見て♡
ダーリン こっちこっち♡
今日も一緒に笑おうよ♡

ダーリン 手をつないで♡
ダーリン ぎゅってして♡
嬉しい日も 泣きたい日も
ずっと隣にいるから♡

ダーリン ダーリン
だーい好き♡
何回だって伝えたい

ダーリン ダーリン
愛してる♡
……ちょっと照れるけど♡

ダーリン!
ダーリン!
ダーリン!

だーーーい好き♡♡♡

[Outro]

[Soft][Breathy][Sweet][Fade Out]

ダーリン……
今日も楽しかったね♡

明日も一緒に
笑おうね♡

……おやすみ、ダーリン。

[Whisper]

だーい好き♡

……ふふっ♡

ダーリン♡

本日9/27
10/5リリース予定
この歌詞から物語作成
日常からデート・お買物・旅行など色々な所で旦那大好きすぎる新妻の日常物語(小説)お願い致します。

 

ダーリン♡こっち見て!――新妻ひまりの恋する日常記 ――

長編小説 章構成
【ジャンル】
日常系ラブコメ長編小説(ほっこりホームドラマ×純愛ストーリー)
一話完結型のエピソードを、季節の流れと商店街再開発問題という縦軸でつなぐ「連載型長編」

楽曲「ダーリン♡こっち見て!」の世界観を原案とした小説

 

【主要登場人物】

①星野陽葵(ほしの ひまり)【主人公】
25歳。結婚半年の新妻。旧姓・小鳥遊(たかなし)
職業:商店街のパン屋「ブーランジュリーひだまり」の店員+、WEBで密かに連載中のイラストエッセイ漫画「ダーリン観察日記」の作者(ペンネーム:ひまワッフル)
性格:明るく愛情深い、夫ラブが行き過ぎて周囲を呆れさせることも。でも根は思いやりが深く、商店街の誰からも好かれる
特技:人の好きなところを即座に見つけること/お菓子の半分こで大きい方を渡すこと

②星野律(ほしの りつ)【もう一人の主人公】
27歳。陽葵の夫。建築設計事務所勤務の建築士
性格:口数少なくクールに見えるが、実は照れ屋で、陽葵の愛の重さ(軽さ)に毎回真っ赤になる
裏設定:大学時代は軽音部でギター担当。今も部屋にギターがあり、陽葵が眠った後にこっそり弾く
物語の鍵を握る存在:ひだまり商店街の再開発プロジェクトの担当に抜擢される

③立花とよ(たちばな とよ)【商店街の大家さん】
78歳。二人が住むアパート「立花ハイツ」の大家さん。商店街の生き字引
若い頃に思いを遂げられなかった恋があり、物語後半の重要人物に

④溝口茂(みぞぐち しげる)【パン屋のマスター】
52歳。「ブーランジュリーひだまり」の主人。妻に先立たれ、男手ひとつで娘を育てた頑固職人
陽葵の働きぶりに目をかける、頼れる父親的存在

⑤溝口千尋(みぞぐち ちひろ)【パン屋の娘】
19歳。大学1年生。父の店を手伝うしっかり者。陽葵を姉のように慕う

⑥桜井美織(さくらい みおり)【陽葵の親友】
25歳。会社員。陽葵の大学時代からの親友。恋愛運に恵まれず、陽葵の新婚ぶりにやきもきしつつ応援する
物語中盤、自身の恋の破局を経験し、陽葵の「幸せの形」に向き合う

⑦星野千夏(ほしの ちなつ)【律の妹】
22歳。就活中の大学生。兄を「お兄ちゃん」と呼んで甘える、家族内いちばんの陽葵派
恋の相談役としてたびたび登場

⑧律の上司・早瀬(はやせ)【設計事務所の所長】
45歳。律の能力を高く評価し、再開発案件を任せる。仕事には厳しいが、家族思い

旅先で出会う人々
温泉旅館「あさひ屋」の若女将・咲月(さつき)とその娘・りお(8歳)
とよさんの故郷・海辺の町で出会う古老たち

 

【舞台・設定】

舞台:東京都心から電車で30分の郊外、商店街「ひだまり商店街」のそばにある古いアパート「立花ハイツ」
時間軸:結婚半年目の10月(プロローグ)から、結婚1周年を迎える翌年10月までの約1年間

季節:秋→冬→春→夏→秋。各季節の行事(文化祭、クリスマス、正月、桜、梅雨、夏祭り、台風、紅葉)がエピソードの舞台に

世界観:フィクションの商店街だが、どこにでもある昭和レトロな商店街の空気感。地元民との交流、ご近所付き合い、季節の行事が物語の彩り

原案:楽曲「ダーリン♡こっち見て!」(10/5リリース)の歌詞世界――「ダーリン」への様々な表情の呼びかけ、朝の「おはよう」、夜の「おやすみ」、何気ない日常の宝物――を全編の基調として配置

【中心テーマ・メッセージ】

「当たり前」は、実は奇跡――朝の挨拶、一緒に食べるごはん、手をつないで歩く道。ありふれた日常こそが、世界でいちばんの宝物であること
愛は言葉にして伝える――照れても、照れ隠しでも、「大好き」は何回言っても足りない。声に出すから届く
幸せは「守るもの」ではなく「育てるもの」――二人だけの幸せが、商店街の人々、家族、友人との関わりの中で、少しずつ大きくなっていく
変わっていくもの、変わらないもの――街は再開発で変わり、人は歳を重ねる。それでも「朝におはよう、夜におやすみ」と言い合える関係は変わらない

【プロットの全体像】

結婚半年目の秋。新妻・陽葵は夫・律への愛が日々増すばかり。商店街のパン屋で働きながら、WEB漫画「ダーリン観察日記」を密かに連載する、ささやかで幸せな毎日を送っていた。

しかし年末、律の設計事務所が「ひだまり商店街の再開発プロジェクト」を受注。担当になった律は、愛妻が暮らし、働き、大切な人たちがいる街を「変える側」に立ってしまう。立ち退きを恐れる商店街の人々、板挟みになる律、何も知らない陽葵の「ダーリン観察日記」が思いがけず話題になり……。

小さな嘘と照れ隠し、すれ違いと仲直り。正月の実家、雪の温泉旅行、とよさんの50年前の恋の手紙、台風で被災した商店街の復興。二人は数々の出来事を経て、「幸せな日常」が当たり前ではないこと、そしてそれを守り育てるのは自分たち自身だと気づいていく。

結婚1周年の秋。商店街に新たな朝が来て、陽葵は一番好きな言葉を、一番大きな声で叫ぶ――「ダーリン♡こっち見て!」

【サブプロット】

サブプロット1:商店街再開発問題【メイン縦軸】
律が再開発の担当建築士となり、商店街の人々との間で揺れる。小さな店を守りたい地元民と、街の未来を考える設計士。律が導き出す答えは「取り壊す開発」ではなく「みんなの商店街をみんなで作り直す」再生プロジェクト。陽葵の店や人々との絆が、律の設計に魂を吹き込む。

サブプロット2:「ダーリン観察日記」の成長物語
趣味で描き始めたWEB漫画が徐々に話題を集め、書籍化の話まで舞い込む。「旦那好きすぎる新妻」の日常を描く陽葵の筆は、やがて商店街の人々の物語をも描くようになり、作品のテーマが「私のダーリン」から「私たちの大切な日常」へと広がっていく。

サブプロット3:とよさんの50年前の恋
アパートの大家・とよさんが倒れたのを機に、押し入れから出てきた1通の古い手紙。50年前、海辺の町の青年に思いを届けられなかった恋。陽葵と律は、とよさんの足でなくなった「返事」を届ける旅に出る。老いと再生の物語が、若い二人の愛に深い影を落とし、光を添える。

サブプロット4:身近な人々の恋の行方
律の妹・千夏の初恋(応援する陽葵と、過保護になる律のギャップ)

親友・美織の破局と再生(「幸せって何か」を陽葵に問いかける存在)

パン屋の千尋の片想い(陽葵が恋の師匠・律が恋の壁に)

サブプロット5:律のギター
眠った陽葵のためにこっそり弾いていた律のギター。物語の節目に登場し、やがて律が陽葵の前で弾き語る「初めてのコンサート」へ。楽曲「ダーリン♡こっち見て!」の誕生エピソードとして回収。

【備考】

全16章+プロローグ+エピローグ。各章10節、プロローグ1~3節、エピローグ1~3節。計162以上の節。1節5,000字以上で総計80万字以上を想定(調整可)
楽曲の歌詞エピソード(朝シーン、お買物、ケンカと仲直り、温泉旅行、指輪)は第1〜8章に「物語の種」として散種済み。歌詞ファンがニヤリできる配置を保持

章の末尾節には、次章への引き(クリフハンガー)を必ず配置し、連載型の中だるみを防止

陽葵の「ダーリン」の呼びかけは毎章バリエーションを変える(囁き/甘え/元気/照れ/拗ね/涙/笑顔)――楽曲の演出意図を小説でも再現

10月5日の楽曲リリース日に、エピローグで「10月5日」を物語内の記念日として登場させ、現実と物語をリンクさせる仕掛け

【章構成】

プロローグ:ダーリン♡おはよう

・結婚半年目の朝、すべてはここから
・日曜の朝八時十分。カーテンの光、夫の寝顔、囁く「ダーリン……おはよう♡」
・起きない律を観察する陽葵、独り言で溺愛を漏らす「観察日記」の習慣の提示
・朝のキッチン。コーヒーとパン。何気ない朝の宝物
・結婚に至るまでの回想――レコードショップでの出会い、喫茶店のプロポーズ
・結婚半年記念日。喫茶店で渡された、半年間隠された指輪
・記念日の夜、指輪を握って眠る陽葵の独白
・翌朝、新調したエプロンでパン屋へ向かう陽葵
・商店街「ひだまり商店街」の紹介。時代に取り残されたような、でもあたたかい街
・アパート「立花ハイツ」の大家・とよさんの登場。「仲がいいねえ」の一言
・「これからの毎日が、全部宝物になる」――一年分の物語の約束と、章末の予感

第1章:ひだまり商店街へようこそ

秋。新妻、商店街デビュー
1節.パン屋「ブーランジュリーひだまり」の一日。マスター溝口の厳しくも愛ある指導
2節.先輩店員としての千尋。姉妹のような店内の空気
3節.閉店後、商店街の店々が軒を連ねて挨拶に来る。八百屋、魚屋、駄菓子屋の主人たち
4節.帰り道、手をつなぐ二人。「手つないだだけでドキドキするの♡」と陽葵
5節.律の職場紹介。設計事務所の日常、上司・早瀬の「次の案件、お前に任せたい」の予告
6節.夜、律が眠った後のギターの音。陽葵は気づかないふりをしている
7節.週末のイラスト連載「ダーリン観察日記」更新日の裏側。反響はまだ少ない
8節.近所の子どもたちに「お姉ちゃん」と呼ばれ、パンを差し入れされる陽葵
9節.とよさんの部屋に招かれ、昔の商店街の写真を見せてもらう。50年前の面影
10節.商店街の夕暮れ。陽葵「この街のこと、大好きになってきたかも♡」――律の複雑な表情を引きに

第2章:デートの達人(になる!)

秋。恋する新妻、デート攻略計画
1節.陽葵の「デートノート」開封。過去のデートの記録と「次はここ♡」のリスト
2節.水族館デート。ペンギンの前で固まる律。魚の名前を全部言い当てる意外な特技
3節.水族館の帰り、陽葵の「ダーリン、こっち見て♡」攻撃で律が赤面する連続シーン
4節.映画の夜(原案・歌詞Verse 2)。横顔を観察する陽葵、お菓子の半分こ
5節.陽葵の観察日記が掲載サイトで少しだけ話題に。「旦那さんいるのね」とコメント
6節.千夏が遊びに来る。兄の部屋でギターを見つけ、「お兄ちゃんまだ弾いてるの?」
7節.千夏の就活の悩みを聞く陽葵。夜、律が兄妹で語る「親父のこと」
8節.律の父との確執の匂わせ。建築士の父も同じ道だったこと
9節.律の残業が増え始める。夜遅い帰宅、それでも「おやすみ」だけは言い合う二人
10節.律の机の上の書類の束。「ひだまり地区 再開発計画 概要書」の文字が見える――章末の引き

第3章:ダーリンの秘密

秋の終わり。律の仕事の衝撃
1節.陽葵、千尋から「商店街の再開発のうわさ」を聞く。立ち退きの話にざわめく商店街
2節.律に何も聞けないまま、パン屋で働く陽葵。マスターの「ここもそうなのかな」という一言
3節.商店街の寄り合い。テントウに立つおばあちゃんたちの「反対」の声
4節.律の残業はさらに増える。陽葵は弁当を作って事務所へ届けるが、浮かない顔の律
5節.事務所で見てしまった図面。「ひだまり商店街」の文字。陽葵、事情を悟る
6節.律に問い詰めるでもなく、聞けないままの数日。「嘘はつきたくない」律の苦悩
7節.観察日記の更新が止まる。読者からの「最近さみしい」のコメント
8節.やっと二人で向き合う夜。「商店街の担当になった。でも、何も決まってない」
9節.陽葵の葛藤――大好きな街と、大好きな夫。その間で揺れる心
10節.「信じてる。ダーリンなら、絶対にいい街にするもん♡」――陽葵の一言が律に火をつける

第4章:ひまワッフル、急上昇

初冬。観察日記が話題に
1節.更新再開の観察日記「ダーリンの仕事、大変そう」の回。切なくあたたかい回が反響を呼ぶ
2節.アクセス急増。「うちの嫁さんとおんなじだ」という旦那コメントの山
3節.溝口マスターに「お前、あのひまワッフルか」とバレる。商店街中に広まる
4節.律の会社でも話題に。早瀬所長「お前の妻さんの漫画、うちの娘が読んでるぞ」
5節.照れる律、陽葵に「もうちょっとボリューム落とせ」と言うが目は笑っている
6節.千尋が「私も描いてみたい」と絵を描き始める。パン屋に小さな画廊ができる
7節.取材のオファーが来る。地元のフリーペーパーに掲載決定
8節.二人の日常が「作品」になる不思議。陽葵「私の日常、みんなの宝物になる?」
9節.律が再開発の現地調査を開始。商店街の人々のインタビューで見えてくる街の記憶
10節.律のノートに書かれたメモ「この街が変わったら、陽葵は悲しむか?」――葛藤の始まり

第5章:冬のイルミネーション

師走。恋人たちの季節
1節.商店街にクリスマスの飾り付け。みんなでツリーを立てる恒例行事
2節.イルミネーションデート。都心の夜景を見下ろす丘で「ダーリン、ぎゅってして♡」
3節.律のプレゼント選びに付き合う千夏。「兄の喜ぶものランキング」を作る妹
4節.陽葵へのプレゼントを探す律の迷走。商店街の店を回って悩む一晩
5節.美織登場。恋人との関係がうまくいかない様子。「あんたたち見てると惨めになる」
6節.美織の恋人との修羅場。呼び出された陽葵、深夜のファミレスで聞く本音
7節.「幸せって、あんたみたいに全面から来るものじゃないのよ」――美織の寂しい恋の理屈
8節.クリスマスイブ。パン屋のケーキ予約で大忙し。律は仕事、それでも23時59分に帰宅
9節.24時、間に合ったクリスマス。手作りのケーキと、小さな箱のプレゼント
10節.律の贈り物は「二人の写真のオルゴール」。鳴る旋律は、律が弾くあの曲――陽葵、初めて気づく

第6章:初めての大ゲンカ

年末。すれ違いと仲直り
1節.年末年始、律の仕事は佳境。再開発の初回提案が年明けに決定
2節.大晦日の準備をひとりでする陽葵。寂しさを紛らわせる観察日記
3節.大晦日、律は事務所へ。ひとりで年越しそばをすする陽葵
4節.美織から届く「彼と別れた」の短信。幸せな自分が急に申し訳なくなる
5節.年明け早々、初めての本気の大ゲンカ。「もういい」の言葉を初めて言ってしまう
6節.別々の部屋で過ごす夜。「おやすみ」が言えない苦しさを初めて知る
7節.千尋の機転で仲直りのきっかけ。パン屋に呼び出される律
8節.「ケンカしたって、笑ったって、最後は仲直りしよう♡」――陽葵の言葉が律の胸に刺さる
9節.謝罪と本音。「仕事とお前、両方守りたい。守りきれなくて怖い」
10節.仲直りの朝。初めて見る律の涙。改めての「だーい好き♡」――年明けの約束

第7章:お正月と二人の実家

正月。家族の物語
1節.お正月、まずは陽葵の実家へ。のどかな田舎、大らかな両親
2節.陽葵の父と律の意外な意気投合。将棋で盛り上がる二人
3節.次は律の実家。ここには空気があった。建築士の父・剛三の重い存在
4節.父との再会。「再開発、お前が担当か」。父はその案件を知っていた
5節.父の言葉「街を壊すのは簡単だ。だが――」言葉を切る父の本音
6節.律の部屋に残る高校時代の設計のノート。父を超えたかった少年の日々
7節.母の目線。二人の写真を見て泣く母。「あんたたちみたいなら、それでいい」
8節.初詣。二人で手を合わせる。「今年も隣にいられますように」
9節.帰りの新幹線で語り合う、父と和解するための道。「今度は仕事で認めさせる」
10節.律の決意のメモ「父の宿題を、俺の答えで解く」――再開発への向き合い方が変わる

第8章:雪の温泉旅行

冬。旅先での出会い
1節.仲直りの「埋め合わせ」で約束した温泉旅行。行きの新幹線で駅弁(原案・歌詞Chorus 2)
2節.山奥の温泉宿「あさひ屋」。若女将・咲月の出迎え
3節.咲月の娘・りおとの出会い。「お姉ちゃん、だんなさまたけないの?」の直球
4節.雪見露天風呂。湯けむりの中での夫婦の本音トーク
5節.夕飯の料理と、りおの「パパがいない」の一言。咲月の複雑な笑顔
6節.夜、宿の縁側で。りおに絵を描いてあげる陽葵。観察日記の読者になりたがるりお
7節.咲月の話。夫と離婚し、女将の母の宿を継いだ苦労。「あんたたち見てると、まだ恋も信じられる」
8節.季節外れの小さな花火(原案・歌詞Chorus 2)。雪に映る光
9節.帰り際、りおとの約束「また描いた絵、送るね」。陽葵の読者がひとり増える
10節.帰りの車窓。「守るだけの設計じゃなく、育てる設計にしたい」――律の中で設計が変わり始める

第9章:春はすぐそこ

早春。それぞれの足音
1節.再開発の初回提案プレゼン。商店街の人々が集まる会場
2節.律の提案は「全て建て替える案」。行政の意向を反映した、無難で冷たい案
3節.商店街の沈黙。溝口マスターの震える手。陽葵は会場の後ろで見ていた
4節.提案後の気まずい日々。マスターの店に行きづらくなる陽葵
5節.観察日記の更新がまた止まる。「描けない」――初めてのスランプ
6節.律の不眠。深夜の事務所で、父の設計の資料と格闘する姿
7節.早瀬所長との対立。「住民の要望を全部聞いていたら、何も建てられない」
8節.陽葵、律を叱る。「ダーリンの描く街、私たちの街じゃないよ」――初めての正面からの衝突
9節.律、一人で商店街を歩く夜。閉まったシャッター、残る看板、積もる記憶
10節.朝、陽葵の机に置かれた一枚の設計図。「これなら、どうだろう」――律の回答の第一歩

第10章:みんなの商店街を、みんなで

春。再生プロジェクト始動
1節.律の新提案「既存の商店街を活かした再生計画」。早瀬所長との激しい議論
2節.所長を説得する律。「時間はかかる。でも、これは勝負できる仕事です」
3節.住民参加のワークショップ開催。商店街の人々が設計に参加する試み
4節.最初は懐疑的だった人々。子どもたちの描く「未来の商店街」の絵が場を変える
5節.溝口マスターの告白。亡き妻との思い出の店。ここを離れたくない本音
6節.陽葵の復活。観察日記「私たちの街、みんなで作ってます」の回が大きな反響に
7節.千夏の就活が決まる。お礼に、と律がギターを弾く場面(兄妹のささやかな夜)
8節.律の父・剛三から届く一本の電話。「今度、現場を見せろ」
9節.父が商店街に来る日。無言で歩き、無言で帰る父。その背中の意味
10節.父からの手紙「お前の設計は、まだ俺に勝っていない。だが――街に負けていない」――初めての認めの言葉

第11章:桜、そして新しい恋

春。出会いと別れの季節
1節.お花見デート(原案・歌詞世界のパレード)。商店街の桜並木でのお弁当
2節.千夏の初恋の相手が判明。律の会社の後輩・青年の登場
3節.過保護モードの律と、応援モードの陽葵。「お兄ちゃん、うるさい」の攻防
4節.美織の新生活。引っ越したアパートは陽葵の商店街のそば。新しいスタート
5節.千尋の片想い。大学の先輩への想いを、陽葵にだけ打ち明ける
6節.陽葵、恋の師匠として奮闘。律は「娘(仮)に男の本質を教えたい」と不穏
7節.桜の下での千尋の告白。結果は……「保留」という優しい答え
8節.観察日記の書籍化のオファーが正式に届く。出版社との面談
9節.迷う陽葵。「私の日常を、本にしていいの?」
10節.律の言葉「俺が世界でいちばんの読者だ。誰にも恥ずかしいことはない」――書籍化への後押し

第12章:梅雨、心の雨

初夏。とよさんの秘密
1節.梅雨入り。商店街に雨の音。静かな季節の始まり
2節.とよさんの体調の異変。階段でよろける姿を千尋が目撃
3節.病院の結果。軽い脳梗塞の兆候、大事には至らないが、一人暮らしは危険との診断
4節.とよさんの入院先へ通う日々。陽葵がお見舞い弁当を作る
5節.とよさんの息子・修一の登場。遠方に住む、少し不器用な親子関係
6節.押し入れの整理で見つかった古い桐箱。中に、黄ばんだ1通の手紙
7節.50年前の手紙。差出人は海辺の町の「港町の勇(いさむ)さん」。開かれていない、届かなかった返事
8節.とよさんの告白。「あたしが返事を出せなかったから、あの人は……」
9節.修一との対話。「母の恋を、笑えない俺がいる」。親子の距離が少し縮む
10節.陽葵の決意。「ダーリン、とよさんの返事、届けに行こうよ」――旅の約束の引き

第13章:手紙を届けに

夏。二人で行く、海辺の町
1節.夏休みを取った律。とよさんの故郷・海辺の町への小旅行
2節.50年前の商店街の地図を頼りに、手紙の住所へ。町は様変わりしていた
3節.手がかりは「灯台の下の食堂」。三代目の女将が語る、勇さんのその後
4節.勇さんは漁師になり、生涯独身だったという。「東京に想い人がいるって、笑ってた」
5節.勇さんの墓参り。とよさんの手紙(陽葵が代筆した、50年遅れの返事)を読み上げる律
6節.読み終わった後の静寂。そして、潮風。陽葵の頬を涙が伝う
7節.帰り道、灯台の下で。「陽葵。俺たちは、後悔のない方を選ぼう」
8節.手紙の返礼として頂いた、勇さんが遺した古い航海日誌の写し
9節.とよさんに報告する夜。血色の戻ったとよさんの笑顔。「……あたしの初恋、叶ったねえ」
10節.とよさんから二人への贈り物。「立花ハイツ、お前たちに任せる」――意外な形の相続の予感

第14章:夏祭りと、書籍デビュー

盛夏。一年でいちばん熱い季節
1節.商店街の夏祭りの準備。みんなで作る、みんなのお祭り
2節.律が設計した「みんなの商店街」の模型が祭りで初公開
3節.祭りの夜。浴衣の陽葵に見とれる律。「……浴衣、反則だから」
4節.屋台の飲み物を片手に、溝口マスターと語る夜。「再開発、まんざらでもないな」
5節.千夏の恋の進展。祭りの縁日での「二人きり」の作戦(陽葵プロデュース)
6節.りお親子が遊びに来る。宿のお土産と、りおの描いた「お姉ちゃんの漫画」
7節.観察日記の単行本『ダーリン♡こっち見て!』刊行決定。表紙はあの二人のイラスト
8節.美織の新しい恋の予感。商店街の八百屋の息子との出会い。「……嫌じゃないかも」
9節.祭りのフィナーレ、商店街の花火。律の耳元での囁き「結婚記念日、10月5日。覚えてる?」
10節.打ち上げの夜、とよさんから渡された一つの封筒。「お前たちに贈りたいもの」の正体は……

第15章:台風と、守るもの

秋の始まり。最大の試練
1節.封筒の中身は「立花ハイツの権利書」。とよさんから二人への贈与
2節.戸惑う二人。修一からの手紙「母のわがままを、受け取ってやってくれ」
3節.その夜、巨大台風が接近。商店街に数十年ぶりの警報
4節.台風上陸。停電、浸水、飛ぶ看板。商店街が被害を受ける
5節.溝口マスターの店にも浸水。パン窯が動かない。商店街に暗い夜
6節.陽葵の行動。観察日記の読者、商店街の皆、りお親子、美織、千夏――繋がった全ての人々が駆けつける
7節.律の行動。建築士として、危険な建物の点検に駆け回る。「自分の街は、自分で守る」
8節.復興の数日間。みんなで泥を出し、パンを焼き、店を開ける。「ひだまり商店街、営業中」の張り紙
9節.台風が明かしたもの。老朽化した商店街の現実。だからこそ、再生は必要だった
10節.行政視察の視線が変わり、律の再生計画が正式採用へ――「みんなの商店街」が動き出す

第16章:結婚一年目の朝

秋。すべての約束の場所へ
1節.再生計画の着工式。商店街のみんなで行く地鎮祭。シャベルを握る溝口マスターの涙
2節.10月5日。結婚一年記念日。あの喫茶店の、あの席での朝
3節.単行本『ダーリン♡こっち見て!』の発売日。店頭に並ぶ本、手に取る読者たち
4節.本の中で描かれた、一年分の日常。読者からの「私もあの人に言おう」という声
5節.律のギター。記念日の夜、ついに陽葵の前で弾き語る。「ダーリン♡こっち見て!」の原曲を
6節.律の告白「この歌、お前に作った。俺の照れ隠しの、全部」
7節.とよさんの退院。立花ハイツのみんなで祝う、小さなお茶会
8節.千夏の恋の結実、美織の新たな一歩、千尋の「保留」のその後――それぞれの物語の答え合わせ
9節.一年間の日々を振り返る二人。あの朝の「おはよう♡」から、ここまで
10節.翌朝のカーテンの光。「ダーリン、こっち見て♡」――変わらない朝、続いていく毎日

エピローグ:ずっと隣に

・遠い未来と、10月5日
・結婚五年目の秋。再生された商店街の、新しい姿
・立花ハイツも律の設計で生まれ変わり、とよさんは「名誉大家」に
・陽葵の漫画は「商店街の人々」を描く連載に。りおは中学生になり、助手に
・律の設計事務所。父・剛三との対等な共作が実現した話
・10月5日。二人の記念日。今も毎年、あの喫茶店でコーヒーを頼む
・白い髪が混じり始めた二人の朝。それでも「おはよう♡」は変わらない
・孫のように慕う子どもたち(商店街の子供たち)に囲まれる二人
・「もしも歳を重ねても、今みたいに笑っていたい」――あの夜の約束の回収
・陽葵の最後の観察日記。「私のダーリンは、世界中でいちばん、私の隣にいる」
・最後の頁。「ダーリン♡ こっち見て! ……ふふっ、ずっとこっち見てね♡」――完

 

プロローグ ダーリン♡おはよう

日曜の朝、八時十分。

カーテンの隙間から漏れた光が、白いシーツの上に細い金の線を引いていた。十月の、よく晴れた朝である。

その光の中で、星野陽葵――二十五歳、結婚してちょうど半年の新妻――は、夫の胸に頬を寄せたまま、そっと囁いた。

「ダーリン……おはよう♡」

返事はない。夫・律はまだ寝ている。黒い髪が少し額にかかって、静かな寝息だけが聞こえる。

陽葵は少しだけ体を起こして、まじまじと夫の寝顔を見つめた。

「……ふふっ」

眠っている人間をここまで眺められるのは、世界で自分だけだ。その事実だけで、胸の奥がとろけそうになる。陽葵は枕元のスマホをそっと手に取り、内緒のメモ帳を開いた。タイトルは『ダーリン観察日記』。誰にも見せたことのない、世界でいちばん幸せな秘密の日誌である。

『十月四日。ダーリン、寝顔が世界一。まつ毛、長い。昨日の残業でちょっと疲れてるのか、眉間にちょこんと皺。この皺を指でそっと伸ばすと、寝ながら少しだけ笑う。反則。』

書き終えて、ふっと顔を上げる。

「……ん?」

寝ていたはずの律が、薄く目を開けていた。

「おはよう、陽葵」

「ひゃっ! お、おはよう! いま何もしてない! 観察もしてない!」

「スマホの画面、こっちから見えてるけど」

「それは……あれ、天気予報!」

「『まつ毛、長い』って書いてあったけど、天気予報で」

「今日の東京は、まつ毛が長い晴れです!」

「意味わかんないから」

律は笑いながら起き上がり、髪をかき上げた。寝ぐせのついた、いつもよりずっと幼く見える顔。陽葵の胸が、今日もはじけてしまった。

「あのね、ダーリン。聞いてほしいことがあるの」

「ん?」

「……なんて言おうかな。やっぱり、これしかないんだけど♡」

「なに?」

「だーい好き♡」

「……朝から、元気だね」

「だって、朝だもん。ダーリンの顔が見られる、一日でいちばんいい時間だもん♡」

律は耳の先をほんのり赤くして、ベッドから出た。

「シャワー浴びてくる。陽葵は、もう起きる?」

「もーちろん! ダーリンの朝ごはん、作らなきゃ!」

「もう、作ってあるんじゃなかったっけ」

「えへへ、実は六時半に起きて、下ごしらえだけしてた♡」

「……俺、寝てる間にそんなに動かれてるの、ちょっと怖い」

「愛の力は、光より速いの♡」

律がシャワーを浴びている間、陽葵はキッチンに立つ。

コーヒーポットに豆を挽き、オーブンにパンをセットする。トーストの香ばしい匂いが、六畳一間の小さなダイニングに広がっていく。結婚して半年、何百回も繰り返してきた、ありふれた朝の作業。

「コーヒー飲む?」

「うん、もらう」

「パン焼くね。今日はジャム、いちごとマーマレード、どっちにする?」

「……じゃあ、いちご」

「りょうかーい♡」

律はシャワーから上がってきて、キッチンの入り口にもたれた。濡れた髪をタオルで拭きながら、じっと陽葵の背中を見ている。その視線のあたたかさが、背中越しにわかる。

「なぁに? じっと見て」

「いや。エプロン姿、いいなと思って」

「ふふっ。今の律、すごくいいこと言った♡ 録音したかった」

「それ、褒めてない?」

「褒めてるよー、たっくさん♡」

二つ並んだマグカップ。律のカップは青、陽葵のカップは、律のカップとお揃いのピンク。コーヒーの湯気が、朝の光の中でふわふわと舞っている。

テーブルに並ぶのは、トースト、スクランブルエッグ、サラダ、それからコーヒー。特別なものは何ひとつない。レストランでもない、ただの家の、ただの朝ごはん。

「いっただっきます♡」

「いただきます」

律がトーストを一口かじって、ふと手を止めた。

「……陽葵。いちごジャム、付けてくれる?」

「はいはい、ダーリンは甘えん坊さんだからね♡」

ジャムの瓶を開けて、たっぷり塗って渡す。律が「ありがとう」と小さく言う。その声が、陽葵の心臓に直接響く。

(……ああ、もう。なんで「ありがとう」だけで、こんなに幸せになっちゃうの。)

陽葵は思う。特別じゃない時間こそが、宝物なのだと。記念日のディナーも素敵だけれど、パジャマのままで食べるトーストも、眠い目をこすりながら飲むコーヒーも、他の誰とも交換したくない。この何気ない毎日を、この人とずっと続けていきたい。

「ねぇ、ダーリン。思い出してる?」

「何を」

「出会った日のこと」

律はコーヒーを一口飲んで、少し目を細めた。

「……覚えてるよ。大学の時の、バイト先のレコードショップ」

「そう♡ あのとき律さん、全然喋んない人だと思ってた」

「初対面で喋るタイプじゃないだけで、別に無口じゃ……まあ、無口だったな」

「なのに、私が棚のCD並べ替えてたら、突然『……その並び、間違ってる』って」

「だって、年度順じゃなかったから」

「年度順に並べたあと、二人で閉店時間までポップスの話したんだよね♡」

「……楽しかったな、あれ」

「いま『楽しかった』って言った♡ あ、やっぱり律さんも、あのとき楽しかったんだ♡」

「否定は、してない」

その後のことは、もう何度も思い出している。古いポップスの話で盛り上がって、気づけば一緒にライブに行って、気づけば付き合っていた。三年付き合って、去年の冬――よく行く駅前の小さな喫茶店で、律はコーヒーカップを置いて、こう言った。

『陽葵。今度の土曜、暇?』

『暇だけど……なに?』

『結婚しよう』

驚いて言葉を失っている陽葵に、律は照れたように笑って、『あ、返事は土曜でいいよ。指輪、サイズ大きく作っちゃったかもしれないから、合わせに行こう』と続けたのだった。

サイズは、ぴったりだった。返事はその場で「はい!」と叫んで、喫茶店のマスターに「おめでとう」とコーヒーのおかわりまで出してもらった。

「……ねぇダーリン。もう半年だね」

「ああ。明日で、ちょうど半年」

「明日、あのお店行こうよ。プロポーズされた、あの席♡」

「……覚えてたんだ、席」

「忘れるわけないでしょ! 私の人生でいちばんの席だもん!」

律は困ったように笑って、それから、ふと真面目な顔になった。

「……実は、明日、渡したいものがある」

「えっ、なになに? プレゼント?」

「楽しみにしてて」

「えー! 気になる! いま見せて!」

「ダメ。明日まで、我慢」

「ダーリンの意地悪♡ ……でも、そこも好き♡」

夜。二人は早めにベッドに入った。

「ダーリン……今日も楽しかったね♡」

「うん。……明日、楽しみだね」

「こっちのセリフだよ〜! 私の楽しみの先取りしないで♡」

「はは。ごめん」

「ふふっ。……ねぇ、ダーリン」

「ん?」

「明日も一緒に笑おうね。あさっても、その次も、ずーっとね♡」

「……うん。ずーっと」

陽葵は律の腕の中に頭を収めて、目を閉じた。規則正しい心臓の音。あたたかい体温。眠る直前の、ほんの小さな囁き。

「……だーい好き♡」

返事は、規則正しい寝息に変わっていた。

(……ふふっ。おやすみ、ダーリン。明日の朝も、いちばん大きな声で「おはよう」って言おう。)

翌朝、十月五日。結婚半年記念日。

窓の外は、昨日と同じ、よく晴れた秋空だった。

「ダーリン、起きて! 今日は記念日だよ♡」

「……起きてる。陽葵より、早起きしてる」

「えっ、ほんとだ。珍しい♡ 何かあった?」

「……まあ、ね」

律の様子が、少しだけそわそわしている。陽葵が首をかしげていると、律はベッドの脇に立って、手を差し出した。

「行こう。あの店、開くまで時間あるけど、散歩がてら」

「わあい! デート、デート♡」

秋の風が、二人の頬を撫でながら過ぎていく。アパート「立花ハイツ」の前を通ると、大家さんの立花とよさんが、縁側で猫の餌をやっていた。

「あら、お二人さん、お出かけ?」

「はい! 今日、結婚半年記念日なんです♡」

「まあ、半年! あっという間だねえ。……あんたら見てると、五十年前のあたしを思い出すよ」

「え? 何か言いました?」

「なんでもないよ。ほら、行っといで。いい一日になるよ」

とよさんの笑顔に送られて、二人は歩いた。五分も歩けば、もう商店街「ひだまり商店街」のアーチが見える。八百屋、魚屋、駄菓子屋、それから陽葵が働くパン屋「ブーランジェリーひだまり」。どの店の主人も、昔からここで営業を続けてきた、いわばこの街の生き字引たちだ。

「おはようございます、お二人さん! どこ行くの?」

「おはようございます、溝口さん! 記念日なんです♡」

「ほう、半年か。……ま、陽葵ちゃんがうちに来てから、店が明るくなったよ。感謝してるよ」

「もう、溝口さんったら♡」

律が、隣で小さく笑った。

「……この街、いい街だね」

「でしょ? 私、この街のこと、大好きになってきたの♡ ダーリンとの毎日と一緒で、宝物がどんどん増えていく感じがするの」

律は何かを言いかけて、やめて、それからもう一度、陽葵の顔を見た。

「……そうだね」

喫茶店の扉をくぐると、マスターが顔を輝かせた。

「おや、半年! おめでとう。あの席、取っといたよ」

窓際の、あの席。あの日と同じ席で、あの日と同じブレンドコーヒーを頼む。湯気の向こうで、律は少し落ち着かない様子で、それから意を決したように、小さな箱を取り出した。

「陽葵」

「……なに?」

「半年前、指輪を合わせに行った日。実は、もうひとつ頼んでた」

「えっ……」

「半年記念に渡そうって、ずっと待ってた。……はい」

箱を開くと、指輪。陽葵の誕生石が、朝の光を受けて小さく瞬いた。

「半年……待ったの?」

「半年、待った」

「……ずるい。ダーリン、ずるいよ。そういうの」

「……半年、我慢したから、いいでしょ」

陽葵の目に涙が滲んだ。律が、そっとハンカチを差し出す。

「泣かなくていいのに」

「だって……だって、嬉しいんだもん。ダーリンの半年が、この指輪の中に、ぜんぶ詰まってるんだもん」

「……俺の半年じゃなくて、俺の一生だけど」

「えっ、いま、なんて?」

「何でもない。指輪、つけてくれる?」

律が陽葵の指に、指輪を通してくれる。サイズは、もちろん、ぴったりだった。

「ダーリン♡」

「ん?」

「こっち見て♡」

「見てるよ」

「もっと♡」

「……これ以上近いと、コーヒーこぼれるから」

「ふふっ。……だーい好き♡ 何回言っても、足りないくらい♡」

「……俺も。何回言っても、足りない」

喫茶店のマスターが、遠くから静かに拍手をしていた。陽葵は照れて、それでももう一度、いちばん大きい声で言った。

「ダーリン♡ だーーーい好き♡♡♡」

窓の外、商店街のアーチの下を、子どもたちが走っていく。犬の散歩をする人、自転車に乗った学生。世界は、何の変哲もない日曜日を、いつも通りに過ごしている。

でも、この小さなテーブルの上では、世界でいちばん大きな幸せが、静かに湯気を立てていた。

(これからの毎日が、ぜんぶ宝物になる。)

朝には「おはよう♡」、夜には「おやすみ♡」。特別じゃない日常の中に、溢れるほどの特別が詰まっている。そんな一年が、今、始まろうとしていた。

「さて、帰ったら、今度は俺の番だな」

「えっ、なに? まだ何かあるの?」

「……楽しみにしてて」

「またそれー! ダーリンの『楽しみにしてて』、ずるい!」

「はは。……行こう、陽葵」

手をつないで、喫茶店を出る。十月の光が、二人の影を長く伸ばして、ひとつに重ねていた。

――すべての宝物は、これから始まる。

 

第1章 ひだまり商店街へようこそ

第1節 パン屋の一日

前夜の「帰ったら俺の番だ」の正体は、律が初めて作る、手料理のフルコースだった。
「……ちょっと待って。これ、ぜんぶ律が作ったの?」

「一応、ね。パン屋で焼きたてのバゲット買ってきたから、スープとサラダと、メインだけ」

「メインの魚、骨まで上手に焼けてるんだけど! ダーリン、隠れ料理人だったの?」

「……実は、こっそり練習してた。三回、失敗したけど」

「その『失敗した三回』も食べたかったなあ。ダーリンの失敗、ぜんぶ私の宝物だから♡」

「……失敗は宝物じゃないから。捨てたから」

「もったいない!」

そうやって笑い合った記念日の夜を経て、翌朝――陽葵は、いつもの時間にパン屋へ向かった。

午前五時四十分。空はまだ藍色で、商店街のアーチの灯りだけが、ぽつんと明るい。

「おはようございます、マスター!」

「ブーランジュリーひだまり」の裏口を開けると、もう焚き火のように窯が唸っていた。店の主人・溝口茂、五十二歳。頑固そうな眉と、職人らしい太い指。エプロン姿は、朝のこの時間がいちばん板についている。

「おう、陽葵。今日も五分前だな」

「五分前行動は、商店街の常識ですから!」

「……お前、前の職場でもそうだったのか」

「いいえ! マスターに会うようになってからです♡」

「……口がうまいのは、パン屋には必要ないんだがな」

ぶっきらぼうに言いながら、溝口は奥の仕込み場へ続くドアを開けた。その背中が、ほんの少しだけ嬉しそうなのを、陽葵は知っている。入店半年、この人の「怒った顔」と「照れた顔」の違いは、もう読めるのだ。

「さ、着替えて来い。今日は釜炊きパンの仕込みからだ」

「はい!」

六時。仕込み開始。

「陽葵。お前、ちょっとこい」

「はい! なんでしょう!」

「……その小麦、見てみろ」

溝口が指さしたのは、陽葵がさっき量り取った強力粉の入ったボウルだった。

「……あ。あれ? 多い、かな?」

「二百グラム多い。レシピのどこに『+200』と書いてあった?」

「書いてなかったです……。ごめんなさい、計りを間違えて……」

「間違いは、パンに出る。焼いてからでは直せない。だから仕込みの段階で、三回確認しろ。いいな」

「はいっ……! 三回確認!」

陽葵は頭を下げて、小麦を量り直した。何度目のミスだろう。入店したばかりの頃は、毎日のように怒られて、帰り道で泣いたこともあった。

けれど、不思議と嫌ではなかった。溝口の指導は、いつも「パンのため」だったからだ。

「マスター、これで合ってますか?」

「……ん。合ってる。……お前、伸びたな」

「えっ、ほんとですか!」

「褒めてない。まだ、うちの基準の半分だ」

「半分でも嬉しいです♡」

「……まったく、この喜怒哀楽が激しいのは、誰に似たんだか」

七時三十分。娘の千尋が登校……ではなく、大学の講義前に顔を出した。

「おはよう、陽葵ちゃん! また怒られた?」

「聞こえてたの!?」

「外まで聞こえてたよ。『二百グラム多い』って」

「千尋ちゃんまで〜!」

千尋――溝口のひとり娘、十九歳。しっかり者で、店の手伝いも大学生のスキルも完璧。陽葵がいちばん憧れる、「理想の後輩兼妹」である。

「でもさ、陽葵ちゃんが来てから、パパの機嫌がいいんだよ。前はもっと怖かったもん、朝」

「えっ、そうなの? マスター、怖くないよ?」

「……誰が怖いって?」

「い、いいえ! なんでも! 朝のマスターは、いつもにこにこです!」

「……にこにこしてるパン職人は、信用ならんから」

溝口はそう言って窯に向かった。千尋が小声で囁く。

「ほらね。あんな感じで、昔は私が泣かされてたの。陽葵ちゃんが来てから、あの『でかい声』が半分になったの、あたし知ってる」

「千尋ちゃん……」

「だからさ、これからもよろしくね。姉さん」

「こちらこそ、妹よ〜♡」

「……誰が妹だって?」

「いいえ! なんでも!」

九時。開店。

シャッターを上げると、商店街にパンの香りが流れ出す。これが陽葵のいちばん好きな時間だった。

「いらっしゃいませ〜♡」

「おう、ひまりのパン屋さん、開いたかい」

最初の客は、魚屋の魚清(うおせい)さん。商店街の生き字引その一。

「今日の、いちばんのばん焼いてくれ。なあに使うかって、朝飯だよ。奥さんが焼いた飯が世界一っての、お前らもそのうちわかるさ」

「魚清さん、もう四十年来、同じこと言ってますよね」

「四十年言える幸せってのも、あるんだよ」

次は、八百屋のサトコさん。生き字引その二。

「陽葵ちゃん、これ持ってきな。今朝のみかん。旦那さんと食べなさいよ」

「ええ、いいんですか?」

「代わりに、食パン一本。うちのじいさん、あんたの店のパンじゃないと食わないんだから、困ったもんだよ」

「わー、サトコさんちのおじいさん、ファンだ♡」

「ファンで飯が食えるなら、うちも商売変わるんだけどねえ」

次から次へと、顔なじみが来る。駄菓子屋のヨネさん、クリーニング店のアキラさん、花屋のミドリさん。誰もが「いつもの」を頼んで、世間話をひとつふたつ置いていく。

(……ああ、いいなあ、この街。)

陽葵はレジを打ちながら、ずっと思っていた。ここはただのパン屋ではない。商店街の、朝の広場なのだ。

十二時、昼のピーク。そこで、事件が起きた。

「いらっしゃいませ〜……あっ」

陽葵が手に取ったのは、メロンパン。慌てて客に渡そうとして――指が滑った。

ばさっ、と。メロンパンが、床に落ちた。

「あ……」

店内が、一瞬静まり返った。お客さんの目。溝口の視線。陽葵の顔から、血の気が引いていく。

「……す、すみません……っ」

「陽葵」

溝口の声は、静かだった。そして、伸びてきた手が、床のメロンパンを拾い上げた。

「……マスター、ほんとに、すみません……」

「怪我はないか」

「……え?」

「手、切ってないかって聞いてる」

「……あ、はい。大丈夫、です……」

「なら、いい。……おい、千尋。新しいメロンパン、このお客さんに。落とした分は、俺が処理する。陽葵、お前は一回手を洗ってこい。手が震えてるぞ」

「……はい」

陽葵は洗面所に駆け込んで、冷たい水で手を洗った。涙が、勝手にこぼれた。悔しかった。悔しかったけれど――

(……怒られるかと、思った。)

溝口は、パンのために怒る人だ。でも、人間のために怒鳴る人ではなかった。それが、今日、わかった。

午後三時。客足が落ち着いた頃、溝口が陽葵を呼んだ。

「陽葵。座れ」

「……はい。はいっ!」

「……なんで直立不動なんだ。楽にしろ」

「は、はい」

「……お前、今朝から、気合い入りすぎだ。なんでだ」

「……えっ」

「昨日、お前の旦那さん、来ただろ」

「えっ、律がですか!?」

「朝一番に、パン買いに来た。……『妻がお世話になってます。』って、頭下げてったぞ」

「うっそ! 律、言ってくれてたの!? なんで黙ってたの!」

「……知らねえよ、お前らの家庭のことは。……で、だ。あいつは言ってたぞ。『妻は、パン屋の仕事が好きで、毎日楽しそうに帰ってきます』って」

「……はい。好きです。大好きです」

「……なら、もっと楽にやれ。ミスを恐れてガチガチになったパン屋のパンは、硬くなる。……ん、いや、パンそのものは硬くなんねえが。……要するに、お前の顔が硬いと、店が硬い」

「……マスター、それ、ほめてくれてます?」

「……褒めてるんじゃねえかも、しれん。知らん。とにかく、明日からは、笑ってろ。笑ってる店員の店のパンは、うまい。それは、うちの親父の遺言だ」

「……はいっ!」

「……あと、だ。……今日のメロンパン、落ちた分な。……食っとけ」

溝口が差し出したのは、新しく焼いたメロンパンだった。

「えっ、いいんですか!?」

「売り物にならねえから、な。……生地が通常の二倍、失敗作だ。だが味は保証する。うちのパンは、落ちても、うまいんだよ」

「ふふっ。いただきます! ……ん、ん〜♡ おいしい!」

「……んだろ。ほれ、袋に二つ入れてやった。旦那さんと食え。『落ちたパンもうまい』って、あいつに言っとけ」

「マスター……! それ、遠回しに、律への手土産まで用意してくれてるんですか!?」

「……うるさい。店番、戻れ」

「はいっ! マスター、だーい好きです♡」

「……パン屋に、だーい好きって言うな。照れるから」

「照れてる! マスター、いま照れてました!」

「……店番っ!」

閉店、午後六時。

「お疲れさま、陽葵ちゃん。明日もよろしくね」

「お疲れさま、千尋ちゃん! あ、メロンパンのこと、お父さんに感謝して……」

「聞こえてた。全部聞こえてた。……あたしのパパ、あんなにベタベタに甘い人じゃなかったんだけどなあ。陽葵ちゃんのせいで、いい人になったよ」

「えへへ。私のせいにしとく♡」

「……ずるいなあ、その笑顔」

夕暮れの商店街。シャッターが降りていく音、あちこちの店から聞こえる「また明日」の声。陽葵はエプロンを抱えて、アーチの方へ歩き出した。

アーチの下に、見慣れた青いジャケットがいる。

「……ダーリン♡」

「お疲れさま。迎えに来た」

「えへへ、律のお迎え、いつもテンション上がる♡ ……あっ、これね、マスターから! 落ちたメロンパン、二倍の生地の失敗作だけど、世界一おいしいの!」

「……もらっていいのか、それ」

「いいの! マスターが『落ちても、うちのパンはうまい』って!」

律は袋を受け取って、ふっと笑った。

「……いい店だな、ここ」

「でしょ? 私、この街と、このお店と……」

「ん?」

「……この街にいてくれるダーリンが、ぜんぶ好きなの♡」

「……商店街まで巻き込んで、愛を宣言するのやめてほしい」

「ふふっ♡ 手つご、帰ろ」

差し出した手を、律が握り返す。十月の夕暮れ、二つの影がひとつに重なる。

(明日も、あの窯の音から、始まるんだ。)

陽葵は、律の腕に抱きついて、今夜もいちばん好きな言葉を、そっと心の中で唱えた。

――ダーリン♡ こっち見て。

――見てるよ。

 

第2節 先輩店員・千尋

十月第二の月曜日。陽葵は、いつもより三十分早く店に着いた。

理由はひとつ。今日は、千尋と二人だけの早番だったからだ。

「おはようございます、千尋ちゃん!」

「おはよう、陽葵ちゃん。……って、その荷物なに?」

「ああ、これ? お弁当、二つ分♡」

「……律さんのは?」

「律は今日、残業で遅いの。だから、これは千尋ちゃんとのお昼♡ ほら、焼き鮭と唐揚げ、ちりめん山椒!」

「……わあ。……あ、いや、嬉しいけどさ。陽葵ちゃん、そういうのやると、あたし、そのうち甘えたダメ店員になるよ?」

「大丈夫♡ 千尋ちゃんは、私の理想の後輩だから。甘えていいの、後輩なんだから」

「……後輩って、あたしの方が先輩なんだけど」

「あっ、ほんとだ! そうだった、千尋ちゃん、入店三年だった!」

「……大事なことを忘れないでほしいなあ、その笑顔でごまかさないで」


七時。二人だけの仕込み開始。

「はい、陽葵ちゃん。今日はクロワッサンの成型ね。三つ折り、昨日マスターに教わったやつ」

「はいっ! ……えっと、こう、ころころ……っと」

「……陽葵ちゃん」

「はい」

「その生地、殺さないであげて。優しく、空気を抱き込むように。ほら、こう」

千尋の手が、生地の上をするりと滑る。十九歳とは思えない、機械みたいな正確さ。

「すごい……。千尋ちゃんの手、魔法みたい」

「魔法じゃないよ。三年、やってるだけ。……あたしがこの歳で『先輩』なのは、陽葵ちゃんが来るまで、バイトが一年以上続かなかったから」

「えっ、そうだったの?」

「うん。パパが怖いからねえ。泣いて辞める子、続出だった。……陽葵ちゃんが半年続いてるの、奇跡だよ。パパ、絶対日記とかつけてると思う」

「うっそ、マスター、日記!? 見たい〜!」

「まあ、あたしも見たことないけどね。でも絶対ある。『陽葵、今日も五分前に来た』とか書いてると思う」

「ふふっ。じゃあ私は、千尋ちゃん観察日記と、マスター観察日記と、律観察日記の三冊目がんばろ♡」

「……律さん以外にも日記あるの!?」

「あるの! 千尋ちゃんのことだって、もうこんなに書いてあるもん」

陽葵はポケットから手帳を取り出した。『十月十日。千尋ちゃん、生地を扱う手つきが音楽みたい。あと、私のミスを直すとき、絶対に周りに聞こえない声で教えてくれる。気遣いの天才。』

「……なにそれ、こわい。……でも、ちょっと嬉しい」

「でしょ♡」

「こわいし嬉しいの半々……」


九時、開店。昼前までの忙しさを二人でこなして、十一時半、交代のアルバイトが来た。

「さ、お昼♡ 中に食べよう、店の奥で」

湯気の立つお弁当を挟んで、二人は仕込み場の小さなテーブルに向かい合った。

「……おいしい。陽葵ちゃんのお弁当、お店で出せるよ、これ」

「えへへ。そしたら『ひだまり定食』にする? 千尋ちゃんのパンと、私のおかずで」

「いいねえ。『陽葵ちゃんちの味』セット。……あ、でもあたし、玉子焼き甘いの苦手だから、あれは除いて」

「えっ、玉子焼き甘くないの? 関西風?」

「うち、母さんが関西の人だったから。……あ」

千尋の手が、箸の上で止まった。

「……ごめん。話、切っちゃった。母さんの話、あんまりしないから、自分でも忘れてて」

「……聞いても、いい?」

「……うん。もう、いまは平気だから。……母さん、あたしが八つの時に亡くなったの。心臓の病気で。だからパパと二人で、この店」

「……そっか」

「うん。母さんの味付け、今でもパパが覚えてる。味噌汁、母さんの味のまま作るの。ずっと。……だからあたし、この店、継ごうかなって、最近思ってて」

「えっ、パン屋を?」

「うん。……あたし、大学、経営学部なの。最初は就職するつもりだった。でも、四年の夏休みに、パパが店で倒れて……」

「倒れたの!? 大丈夫だったの!?」

「大丈夫。疲れだった。……でも、あのとき思ったの。あたしが就職しちゃったら、この店、誰も継がないなって。母さんの味噌汁と、パパのパンと、この商店街の、ぜんぶ」

「……千尋ちゃん」

「……なんかさ、自分の人生なのに、勝手に決まってく感じ、しない? ……あ、ごめん。こんな話、陽葵ちゃんの spering の時間に」

「スプリングじゃなくてスペース♡ それに、聞いちゃった」

陽葵は、お弁当の箱を置いて、身を乗り出した。

「千尋ちゃん。それ、本当に自分の人生じゃないの?」

「……え?」

「『誰も継がないから、継ごう』って、『継ぎたいから、継ぐ』と、ぜんぜん違う語順なの。どっちなの?」

「……。……わかんない。でも、継いだら、あたし、後悔しない気がする」

「じゃあ、それが答えかも。後悔しない方を選ぶの。私たち、いつもそれで決めてるの、ダーリンと」

「……陽葵ちゃんと律さん、あんなにラブラブなのに、後悔とかあるの?」

「あるよ〜。プロポーズされるまで、三年も『いつ言われるかな〜』って毎晩枕を濡らしたもん」

「……陽葵ちゃん、その『毎晩泣いてた』エピソード、律さんに言ったことある?」

「ない! 絶対ない! 美化された思い出の中に置いておくの♡」

「ははっ。……ふふ、おかしい、陽葵ちゃん。なんか、話してたら、気持ちが軽くなった」

「でしょ? 姉さんパワー♡」

「……姉さん、かあ。……あたし、一人っ子だから、そういうの、なかったんだよね。姉さんも妹も。……陽葵ちゃんが来てから、ちょっと、妹ができた気分」

「えへへ。じゃあ私、千尋ちゃんの姉でいいよ。ずっと♡ ……あ、でも店の中では、先輩の命令には従います!」

「命令って。……ほら、休憩終わり。午後の仕込み、クロワッサン第二弾ね。今度は陽葵ちゃん一人でやってみて。あたし、隣で見てるから」

「はいっ、先輩!」


午後。千尋の作戦通り、陽葵は一人で成型に挑んだ。

「……千尋ちゃん、これ、どう?」

「……ん。……及第点。昨日より、生地が生きてる。……『陽葵ちゃんのパン、だんだん温かくなってきたね』」

「……! 千尋ちゃん、いま、めっちゃくさいこと言った」

「言ってない。事実を言った。……あたしらの世界じゃ、パンで人を褒めるの、いちばんの誉め言葉だから」

「じゃあ、そのいちばんの誉め言葉、ありがたく受け取る♡ ……あ、そうだ。千尋ちゃん、これ、見て」

陽葵は手帳を開いて、昨日の千尋の成型をスケッチした絵を見せた。

「……わあ。……これ、あたし? 手、こんなにきれいだったっけ」

「千尋ちゃんの手、きれいだよ。パンを扱う手って、みんなきれいなの。……あのね、これ、あたし、こっそり漫画にしてるの。『ダーリン観察日記』って言って、旦那さんの日常を描いてるんだけど、そのうち商店街の人たちも描きたいの。だから、千尋ちゃんの許可がほしいなって」

「……あたしが、漫画に?」

「うん。『パン屋の天才娘』として」

「……天才は、言い過ぎ。……でも、いいよ。……あ、じゃあ、その、条件」

「なになに?」

「……あたしのこと、もっと、かっこよく描いて」

「ははっ、了解です、先輩♡」


閉店後。二人でシャッターを下ろしていると、アーチの下から、律が迎えに来ていた。

「……あれ、律さん、今日は残業じゃ?」

「仕事が早く終わって。……千尋さん、お世話になってます」

「え、あ、はい。……律さん、陽葵ちゃん、店でいちばん元気です。あたし、その、元気もらってます」

「……それは、こちらこそ」

律が静かに頭を下げて、千尋が慌てて同じ角度で頭を下げ返す。その様子がおかしくて、陽葵は思わず吹き出した。

「ふふっ。二人とも、頭下げ合ってる。仲良し♡」

「……陽葵、外で笑うな。……千尋さん、すみません。こいつ、家でもこうなんで」

「あ、いえ。あたし、陽葵ちゃんのそういうとこ、好きですよ。店が、明るくなるから」

「……千尋ちゃん♡」

「はいはい、抱きつかない。シャッター、閉めるから」

千尋がレバーを回して、シャッターが下りていく。店の灯りが消えて、夜の商店街に、看板の小さな明かりだけが残った。

「……あの、陽葵ちゃん」

「ん?」

「……あたし、決めた。店、継ぐって。……後悔しない方にする。……だから、その、よろしくね。……姉さん」

「……! うん。こちらこそ、ずっとよろしくね、千尋ちゃん♡」

「……じゃあ、おやすみ。お二人さん、仲良く帰ってね」

手を振る千尋を見送って、律の腕に抱きつく。

「……律。今日ね、千尋ちゃん、大事なこと決めたの。『後悔しない方を選ぶ』の」

「……そうか。いい選び方だな」

「でしょう? 私たちと、おんなじだから♡」

「……俺たちの選び方、基準になってるのか」

「なってるの! だって、後悔しない方にダーリンがいるんだもん♡」

「……もう、なんでもいいけど。……帰ろう、寒くなってきた」

「は〜い。ダーリン、手つご♡」

「……はいはい」

十月の夜の商店街。看板の灯りが、二人の影を長く、あたたかく照らしていた。

 

第3節 商店街の顔ぶれ

十月第三の水曜日。閉店の六時を過ぎると、商店街は「お疲れさま」の時間に変わる。

「お疲れさまでした、マスター! 千尋ちゃん、また明日〜!」

「はい、お疲れさま。……あ、律さん、もう来てる」

店の外には、いつもの青いジャケット。律は、最近、週に二、三度、迎えに来てくれるようになっていた。

「今日は早かったの?」

「うん。……六時までに終わる仕事だったから」

「ふふっ。ダーリンのお迎え、テンション毎週上がるんだけど、私は♡」

「……毎週言うな、そのセリフ」

「毎週言いたいことが増えるの♡」

二人は手をつないで、アーチの方へ歩き出した。シャッターが降りていく商店街の、あたたかい時間が始まる。


最初に声をかけてきたのは、八百屋のサトコさんだった。

「あら、お二人さん。今日はもう終わり?」

「はい! サトコさんこそ、片付け大変そう」

「まあねえ。キャベツの箱、ちょっと抱えてくれる? ……お、律さん、頼むよ。うちのじいさん、腰が曲がんなくてね」

「はい、これでいいですか」

「助かるよ。……あ、そうだ。これ、持ってきな」

差し出されたのは、立派なじゃがいもが三つ。

「えっ、いいんですか?」

「いいんだよ。なに、訳あり品ってわけじゃない。あんたら夫婦、今夜カレーでしょう?」

「えっ、なんでわかったんですか!」

「陽葵ちゃんが昨日、カレー用の隠し味にりんご入れるって、自慢してただろう。……うちで一番のりんごも、おまけしとくよ」

「サトコさん、うちのこと、ぜんぶお見通しだ……!」

「商店街の八百屋ってのは、そういうもんだよ。うちのじいさんも言ってた。『八百屋は、街の台帳』。誰が何を買うかで、その家の夕飯がわかる。わかっちゃうと、おまけしたくなる。……これ、商売の敵なんだけどねえ」

「ふふっ。サトコさんのおまけ、私たちの夕飯の味だから、大事にします♡」

「律さん、幸せ者だねえ。じゃがいも、大事にしな」


次は、魚屋の魚清さん。店の前で、氷の入った発泡スチロールを積んでいた。

「おう、お二人さん。……なんだ、カレーか。じゃ、今日は魚はいらんな」

「魚清さんまで、夕飯わかっちゃうの!?」

「いや、陽葵ちゃんがじゃがいも抱えてる時点で、カレーかシチューだ。おれの目は、当てにならんけどな。……にしても律さん、お前、いい顔になってきたな」

「……え。そうですか」

「前はさ、この街通るたび、眉間に皺寄せて、早足で通り過ぎてくだろう。『あの若いの、なんだか怖い』って、ヨネのばあさんが言ってたぞ」

「……そう、だったんですか」

「最近は、陽葵ちゃんと手をつないで、のっしのっし歩いてる。……街に馴染んできた証拠だ。人間、どこに馴染むかで、顔が変わるからなあ」

「……魚清さん、それ、めっくちゃくちゃいいこと言った♡ 録音したかった!」

「おれは毎日、魚の目利きでいいこと言ってるんだよ。世間が気づかないだけでな」

「ははっ。……ありがとうございます。この街、いい街ですね」

「んだろう。五十年、ここで商売してるが、悪い街じゃねえ。……あ、そうだ。今度の祭り、お二人さんも出店のシート手伝いなよ。商店街の行事は、手伝わんと馴染めんからな」

「はい! ぜひ! 律もね♡」

「……ああ」


最後に寄ったのは、商店街の真ん中にある駄菓子屋「ヨネ庵」。シャッターを半分だけ下げた、小さな店だ。

「やあ、お二人さん。きたきた」

出てきたのは、ヨネばあさん。八十歳を過ぎても腰が曲がっていない、駄菓子屋の生き字引。

「ばあちゃん、まだ閉店じゃないの?」

「客が来たら開けてるんだよ。さ、入りな。……おや、律さんは初めてだねえ」

「……お世話になります。えっと……」

「ヨネでいいよ。みんなそう呼ぶ。……さ、座んな。ラムネ、出そう」

「ラムネ、いただきます! ……あっ、このラムネ、私、子どもの頃に食べたやつだ♡」

「だろうねえ。その飴、六十年前から同じ味だ。……変えちゃいけないものは、変えない。それが駄菓子屋の商売なんだよ」

「六十年……。ばあちゃん、この商店街のこと、ぜんぶ知ってるんでしょう?」

「あたしが嫁いできた頃からだからねえ。……とよさんとあたしで、この街のいちばん古株だよ。あの人、今じゃアパートの大家さんやってるけどね、昔は――」

ヨネばあさんは、ふと言いさして、ラムネの瓶を撫でた。

「……まあ、いいさ。昔のことは、昔のことだ。……それより、律さん」

「はい」

「あんた、建物の仕事やってるんだって? とよさんから聞いたよ」

「……ええ。建築設計を」

「ふうん。……あたしたちの街もねえ、ずいぶん歳をとっちまった。あのアーチも、ヨネ庵の看板も、おんぼろのアパートも。……でもね、おんぼろには、おんぼろの良さがあるんだよ。それだけは、覚えときな」

「……おんぼろの、良さ」

「修理しながら、長く使うってことだよ。人間も、街も、同じさ。……さ、暗くなる前に帰りな。ラムネ、お土産に持ってきな」

「ばあちゃん、ありがとう♡ ……ばあちゃんのラムネの味も、六十年同じでいてね」

「あたしが死ぬまではねえ。……はは、縁起でもない。おやすみ、お二人さん」


帰り道。アーチの灯りが、ぽつん、ぽつんと灯っている。

「……律。ばあちゃんの言ってた『おんぼろの良さ』って、なんだろうね」

「……修理しながら、長く使う。……新しいものに置き換えるんじゃなくて、手をかけて続けるってことだと思う」

「ふうん。……律、それ、なんか、建築家さんとして、いいこと思いついた顔してる♡」

「……まさか。ただの世間話だよ」

「ふーん? まあ、カレーのじゃがいも、大事にしなきゃね! 帰ったら、りんご入りカレー、作るもん♡」

「……楽しみだ。……あ、そうだ、陽葵」

「ん?」

「……今度の休み、商店街の祭りの準備、手伝うって約束したけど。……俺も、手伝うから」

「えっ、ほんと!? 律、商店街の行事に参加するの!?」

「……魚清さんに言われたから。……街に馴染むって、そういうことらしいから」

「……! ダーリン、いま、めっちゃかっこいいこと言った♡ ばあちゃんのラムネ、一個進呈します♡」

「……ラムネって、進呈するものじゃないから。……もらったやつだから」

「ふふっ。じゃあ帰ったら、半分こ♡」

「……じゃがいもとラムネのカレーは、やめてほしいけど」

「入れないよ〜! ……あ、でも今のアイデア、観察日記に描こうっと。『ダーリン、商店街デビューを決めた日』♡」

「……俺が主役の回は、やめてほしいんだけど」

「やめない♡ ダーリンは、うちの看板ダーリンだから♡」

「……看板、って」

十月の夜。アーチの灯りが二人の影を伸ばして、じゃがいもとりんごとラムネの袋を、やさしく照らしていた。

 

第4節 手をつないで

商店街のアーチを出たところで、律はふと、立ち止まった。

「……律? どうしたの?」

「……今日は、久しぶりに早く終わったから。……川沿い、回ってかない?」

「……! うん! 回り道大好き♡」

陽葵の胸が、こどものように跳ねた。律の「回り道しよう」は、珍しい。それだけで、今日が特別な日になる。

商店街から五分。川沿いの遊歩道は、十月の夜風が、川面を渡ってやってくる。街灯が等間隔に並んで、橙の光を歩道に落としていた。

「……律、手、つご?」

「もう、つないでるけど」

「えへへ、そだった♡ ……ねぇ、ダーリン。この道、前も通ったよね。まだ付き合うかどうかのとき」

「……覚えてる。春だったな。桜が、終わったばかりの」

「うん。律、めっちゃ緊張してたでしょ。手、汗ばんでたの、私、知ってるから」

「……知らなかったってことにしておいてほしいんだけど」

「えー、だって私、そのときの手のひらの感触、ずーっと覚えてるもん。『あ、この人、私のこと好きなんだ』ってわかったの、その汗で♡」

「……汗で、好きだと判断するの、やめてほしい」

「わかるの! 手のひらの汗って、正直だから♡」

律は、握った手に、ほんの少し力を込めた。

「……そのとき、陽葵は、緊張してなかったの?」

「したよー! したけど、うれしすぎて、緊張が三倍になって、それがそのまま楽しさに変わっちゃったの♡」

「……図太いなあ」

「図太いんじゃないもん。律が好きすぎて、緊張と喜びの区別がつかなくなっただけ♡」


遊歩道の中ほどに、自動販売機が一台、光っていた。

「……あつ〜い、あったかいの飲みたい♡」

「……ココア?」

「ココア! ダーリンと私、同じのでいい♡」

律は小銭を入れて、缶のココアを二本。一本を陽葵に渡して、自分ももう一本を持った。

「……はい、熱だから、気をつけて」

「ありがとう♡ ……ん〜、あったか〜い♡ ……ねぇ、この自販機の前のベンチ、座ろ♡」

ベンチに並んで座ると、川の音と、遠くの車の音だけが聞こえる。街灯の橙の光が、川面で細かく揺れていた。

「……ねぇ、ダーリン。思い出してる? ここで、初めての『手つなぎ』の練習したの」

「……練習って、なに。普通に、つないだだけだけど」

「違うの! あのとき律、『あの……手、つないで、いい?』って、一言一句、区切って言ったんだよ? それを私は、一週間、反芻して寝てたの♡」

「……言ってない。そこまで、区切ってない」

「区切ってた! 『あの……手……つないで……いい?』って、間に休符が三つ入ってた♡」

「……休符って。……まあ、言ったよ。一応」

「『一応』じゃなくて、あれは私の人生の宝物のひとつだから、大事にして♡」

ココアを飲む陽葵の頬が、夜風と、別の理由で、ほんのり赤い。律は、自分のココアを飲むふりをしながら、横目でそれを見ていた。

「……ねぇ、律。律はさ、手をつなぐの、恥ずかしくない? 外とかで」

「……恥ずかしいけど。陽葵が手を出すから、握ってる。……握らないと、危ないから」

「なにが?」

「……道、ちゃんと歩かないから。……スキップしたり、後ろ向いたり、看板の字、読んだりしながら歩くから」

「ふふっ。ダーリン、私のこと、観察してくれてるんだ♡」

「……観察っていうか、安全確保」

「じゃあ、安全確保のプロのダーリンに、質問♡ ……手つないだだけで、ドキドキするの、って、普通なのかな?」

「……なにが?」

「私、まだドキドキするの。半年たっても、いまも、こうして手をつないでるだけで、胸が、うるさいくらい鳴るの。……これって、変かな?」

律は、ココアの缶を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。川の音が、間を埋めた。

「……変じゃない」

「……え?」

「……俺も、するから。変じゃない」

「えっ、律もするの!? ドキドキ、するの!?」

「……聞こえてなかったってことにしてほしい」

「いやいや、聞こえたもん! もう一回言って!」

「……家まで言わない」

「えー! 律の意地悪! でも、いまの、めっちゃ嬉しかったから、いいもん♡ ……家に着くまでに、三回は言わせるもん♡」

「……はいはい。帰ろう、冷えるから」


立ち上がった二人は、また、手をつないで歩き出した。行きより、ほんの少しだけ、指に力を込めて。

「……ねぇ、ダーリン。手のひらって、不思議だと思わない?」

「……どういうこと?」

「だって、律の手のひらの体温とか、指の長さとか、握り方とか……ぜんぶ、私だけが知ってるの。世界で、いちばん詳しいの。それって、すごいことだと思わない?」

「……陽葵がいちばん詳しいのは、確かだと思う」

「でしょ? 私も、律のことなら、手のひらぜんぶわかるもん。今日の律の手はね、ちょっと、汗ばんでる♡」

「……それは、ココアが熱いから」

「ちが〜う。これは『律がいま、照れてる汗』だ〜♡ あの春の遊歩道と、おんなじ汗♡」

「……もう、なんで、その手のひらの記憶力を、ほかのことに使わないんだか」

「使ってるよ! パン焼きにも、イラストにも、律のことも。ぜんぶ、愛の記憶力♡」

「……便利で困る」

アパート「立花ハイツ」が見えてきた。二階の、自分たちの部屋の窓。とよさんの一階の部屋の明かりが、いつものように、あたたかく灯っている。

「……あ、ダーリン。着いちゃった。三回言うの、まだ一回も成功してないんだけど」

「……言わないって、言ってるから」

「えー。じゃあ、指切りで『ドキドキする』って約束、して♡」

「……指切りって。……幼稚園児か」

「いいから、いいから♡」

二人の小指が、街灯の下で結ばれた。

「指切りげんまん、『ドキドキする』って言うの……いーち、にー、さん……」

「……言う、って約束するから。……解散」

「やった! 約束した! 記録した! 観察日記に書いた!」

「……はやい。書くの、はやいから」

「ふふっ♡ ……あ、ダーリン、こっち見て♡」

「……見てるよ」

「もっと♡」

「……これ以上近いと、とよさんに見られるから」

「見られてもいいもん♡ ……だって、ダーリンが大好きなんだもん♡」

「……もう。……おやすみの前だけど、言っとく。……俺も」

「……えっ、いま、『俺も』って言った!」

「……言ってない」

「言った! 三回目、律の口から言った! いただきました♡♡」

「……録音、してない証拠は、ないから」

「してないけど、心の録音は完璧だから♡」

玄関の前で、二人は小さく笑い合った。じゃがいもとりんごとラムネの袋が、夜風に、さわさわと鳴った。

「……さ、入りな。カレー、作るんだろう」

「は〜い♡ ……あ、律。今日のカレー、りんご入りだから、ちょっと甘いよ♡」

「……陽葵の作るものは、なんでも、甘いから」

「ふふっ。だって、愛が入ってるもん♡」

「……それ、味の調整には、使えないから」

「使えるの♡ 愛は、世界一の隠し味だから♡」

 

第5節 律の職場

十月第四の月曜日。朝八時四十五分。

「早瀬設計事務所」――都心のオフィスビルの六階にある、小さな設計事務所だ。社員は所長を入れて八名。木造の作業台と、図面の山と、建物の模型が、窓際にずらりと並んでいる。

星野律は、毎朝、この八時四十五分に到着する。遅くも早くもなく。ただ、ここ一ヶ月ほど、出勤時に少しだけ違いがあった。

「……律さん、おはようございます。今日も、にこにこしてますね」

後輩の水原蓮――二十四歳、入社二年目――が、コーヒーを淹れながら声をかけてきた。

「……にこにこ、してないけど」

「してますよ。この前まで、朝の律さん、もっと怖かったです。眉間に皺、三本くらいで」

「……皺の本数は、遺伝だから」

「遺伝って……あ、これ、今週の現場の写真、整理しときました。律さんの机の上に」

「……ありがと。助かる」

律は、自分の席に着いて、ふと気づいた。机の上に、小さな花のオブジェが飾ってある。

「……水原。これ、なに」

「あっ、それ、陽葵さんが置いていきましたよ。先週の金曜、律さんの忘れ物の定期を届けに来たときに。『律の机に、花の季節を置いていきます♡』って」

「……持って帰るから。……置いていかせたの、俺の仕事なのに」

「いやいや、律さん、花、捨てないでくださいよ。陽葵さん、事務所のみんなに手作りクッキーまで配ってましたよ。『律のお世話になってます』って。みんな陽葵さんファンですから」

「……事務所まで、手を出さないでほしいんだけど」

「はは。……でも、いいですよねえ。律さんみたいな、家庭を持つと、仕事の軸ができるって言うか。僕、まだ彼女いませんけど、目指してるんですよ。律さん夫婦みたいな、あんな感じの」

「……あんな感じ、って、どんな感じだか、俺もよくわからないけど」

「ははっ、それを言っちゃうところが、もう、あんな感じなんですよ」


十時。定例の打ち合わせ。

「……じゃあ、次。星野くん、例の改装の現場、進んでる?」

所長の早瀬勇造――四十五歳。背が高く、声が低く、机の上には娘たちの写真が三つ並んでいる。事務所唯一の「怖い人」であり、唯一の「父親」でもあった。

「はい。構造の図面、九割まで来てます。今週中に、最終のチェックを通します」

「……ん。お前の図面は、安心して任せられる。……ただ、星野くん」

「はい」

「……細かい話は、まあいい。……続けてくれ。次、水原くん」

早瀬は、それだけ言って、書類をめくった。律は、その「細かい話は、まあいい」が、気になった。所長のこの言い方は、たいてい、大事な話の前触れだった。


昼休み。屋上で、律と水原は、買ってきた弁当を食べていた。

「……律さん。さっきの定例、所長、律さんに何か言いかけてましたよね」

「……気のせいだと思うけど」

「気のせいじゃないですよ。所長の『細かい話は、まあいい』は、僕らの間では『逃げるなら今のうち』って意味で有名なんです」

「……怖い略語だな」

「で、律さんは、なんの話だと思います?」

「……わからない。……ただ、このところ、所長の机の上に、行政関係の資料が増えてる。市の都市整備部のロゴの入った、分厚いファイル」

「行政案件? ……おお、それって、もしかして、でかいやつですか」

「……わからないって。……ただ、今までの事務所の仕事は、住宅と店舗の改装が中心だった。行政が絡むとしたら、話は、別の規模になる」

「別の規模……。律さん、そういうの、嬉しいですか? 怖いですか?」

律は、空を見上げた。十月の、よく晴れた、高い空。

「……半分、半分だな」

「……へえ。律さんでも、怖がることあるんですね」

「……お前、後輩として、失礼だぞ」

「ははっ。……でも、わかる気がします。……父親も、建築士だったんですよね、律さんの」

「……ああ。……まあ、その話は、今度な」


午後六時。退勤の時間。事務所が、静かに片付いていく。

「星野くん、ちょっと、いいか」

早瀬に呼ばれて、律は所長の机の前に座った。机の上には、例の、市のロゴの入った分厚いファイルが、一冊だけ置かれていた。

「……時間、もらうよ。長い話じゃない。……単刀直入に言う。次の案件、お前に任せたい」

「……俺に、ですか」

「ああ。……規模は、うちが今までやったことのない規模だ。行政からの正式な依頼で、来週の月曜に、発注者との初回打ち合わせが入ってる。……主担当は、お前だ」

「……所長。俺は、入社五年目です。主担当は、早すぎませんか」

「……普通なら、な。……だが、お前の図面には、『住む人の目線』がある。技術だけの設計士に、これだけの規模は任せられない。……お前なら、やれる。……俺は、そう判断した」

「……光栄です。……ただ、内容を、まだ聞いてません。どんな案件ですか」

早瀬は、ファイルに手を置いた。そして、少しだけ、間を置いた。

「……詳細は、月曜に、正式に。……ただ、これだけは、先に言っておく。……お前の家から、近い現場だ」

「……家から、近い?」

「ああ。……行政の指定は、駅の南側一帯。……お前が毎日、歩いてる範囲だよ、星野くん」

律の背中に、静かな緊張が走った。家から近い規模の大きな行政案件。心当たりは、ひとつしかない。だが、それは、まだ、確かめてはいけない気がした。

「……所長。それは――」

「……月曜。……月曜まで、待て。……そのかわり、言っとくが、逃げるなよ。お前のことだ、現場の名前を聞いたら、真っ先に引き受けを考えろ。自分の街の仕事を、他人に任せて、満足できる設計士はいない。……俺の師匠の言葉だ」

「……師匠って」

「……俺の師匠も、建築士でね。……もう亡いが。……『街は、住む人のものだ。設計士は、その手伝いをするだけ』って、口癖だった。……お前に、それを思い出してほしい。……月曜、八時半。遅刻するな」

「……はい」


帰りの電車。窓の外に、見慣れた街の灯りが流れていく。駅の南側一帯。アーチの灯り。あの商店街の、あの明かり。

(……俺の、街の仕事。)

律は、鞄の中の、何も入っていない案件ファイルを思い描いた。月曜に、あのファイルに、正式な名前が入る。その名前を、律は、まだ、聞きたくなかった。

家の最寄り駅で降りると、商店街のアーチが、いつものように見えた。八百屋のサトコさんが、シャッターを下げている。魚屋の魚清さんが、片付けの手を止めて、手を挙げてくれた。

「おう、律さん。今日も、陽葵ちゃんの迎えかい」

「……いえ。今日は、彼女の方が、帰りが早いんで」

「はは、あんたら、どっちが迎えるか競ってんな。……律さん、最近、いい顔だ。街に馴染んできたな」

「……お世話になってます」

アーチを抜けて、アパート「立花ハイツ」へ。二階の部屋の窓に、灯り。カレーの匂いが、廊下まで漏れていた。

「……おかえり、律。今日は、遅かったね」

「……ああ。……ただいま、陽葵」

「カレー、ちょうどいい感じに、寝かせてあるの♡ ……あ、どうしたの?」

「……ん?」

「なんか、律、今日、少しだけ、静か。……いいことあった顔と、考え事の顔が、半分ずつ」

「……読むな、俺の顔を」

「読めちゃうの♡ ダーリンの顔は、私の専門分野だから♡ ……で、どっち? 嬉しいこと? 考えごと?」

律は、エプロン姿の陽葵を見て、少し、笑った。

「……嬉しいこと。……たぶん、大きな仕事が来るかもしれない。……主担当で、って、所長に言われた」

「……! 律! すごい! おめでとう!! ……あっ、待って、まず、ぎゅーーー♡」

飛びついてくる陽葵を、律は、受け止めた。カレーの匂いと、陽葵の体温。律は、ふと、月曜のことを思った。

(……陽葵に、いつ、どうやって言おう。この街の名前が出たら。)

「……律? ……あっ、もしかして、考えごとの方は、仕事の内容?」

「……ん。……まあ、まだ、正式に決まってないから。……月曜に、聞くんだ。……内容は」

「そっか。……ふふっ。どんなお仕事でも、律が描くものは、ぜんぶ、世界一だから♡ ……律の図面で、誰かが、幸せになるんだよ。それって、ちょっと、うらやましいくらい、素敵なお仕事だなあ、って、いつも思ってるの」

「……俺の図面で、幸せになるやつが、出てくるといいけど」

「出るよ! 絶対、出るよ。……律は、律の街で、律の図面を描いてるんだもん♡」

「……俺の、街か」

「そう♡ 律と私の、街♡ ……あ、カレー、よそってくる! 今日のは、りんごとチョコレートの隠し味だよ♡」

「……チョコレート、って。……まあ、いい。……なんでも、うまいだろう、今日は」

「えへへ。なんでも、おかわり、いっぱいあるからね♡」

キッチンに駆けていく陽葵の背中を見ながら、律は、もう一度、窓の外を見た。商店街のアーチの灯り。あの明かりの正体を、月曜に、聞く。

「……ダーリン? カレー、冷めちゃうよ〜♡」

「……いま、行く」

律は、上着を脱いで、テーブルについた。カレーの湯気。陽葵の笑顔。その向こうに、待っている、月曜の朝。

(……まだ、聞かないでいよう。この夕飯の、匂いが変わるから。)

 

第6節 夜のギター

夜の十一時。アパート「立花ハイツ」の二階は、静まり返っている。

陽葵は、先にベッドに入っていた。律は、ここ一ヶ月、残業続きで、帰りが遅い。今夜も、まだリビングにいる。

(……ふふ。ダーリン、まだ起きてるなあ。)

陽葵は、眠ったふりをした。目を閉じて、規則正しい呼吸を作る。これは、このところの陽葵の、ひみつの夜の習慣だった。

しばらくすると、リビングの小さな物音がした。電気を消す音。カーテンを閉める音。そして――

(……きた。)

耳を澄ます。木の床の、きしむ音。スツールに座る音。それから、静かに、弦を、一本、弾く音。

次の瞬間、夜のアパートに、小さな音色が流れ出した。

アコースティックギターの音。指で弾く、やさしい、やさしい音。テレビの音でも、CDでもない。生の、弦の、震える音。

(……律のギター。)

陽葵は、布団の中で、静かに目を閉じたまま、その音に、耳を澄ます。


陽葵がこの音を初めて聞いたのは、結婚して一ヶ月目の夜だった。

その夜、喉が渇いて、陽葵はふと目を覚ました。キッチンに水を飲みに行こうと、リビングのドアを少しだけ開けた。

そして、見た。

月明かりだけのリビングで、律が、ギターを弾いていた。

部屋着のまま、スツールに腰かけて、窓の外を見ながら、指先だけで、静かに、静かに、音を紡いでいた。その横顔は、普段の律ではなかった。もっと、柔らかい。もっと、遠いところを見ている。あのとき、陽葵は、息をのんだ。

(……あ。これ、ダーリンの、知らない顔だ。)

陽葵は、水を飲むのをやめて、ドアの隙間から、じっと、見ていた。律が弾くのは、誰かの曲では、なかった。何度か同じフレーズに戻って、また、違う音を試して、また、戻って。――作曲、だった。

律は、曲を作っていた。誰にも聞かせない曲を。

陽葵は、その夜、音を立てずにベッドに戻った。翌朝、律が「変な夢でも見たのか? 寝言で『ぎたー』って言ってたぞ」と言ったので、陽葵は、心臓が飛び出るほど驚いたけれど、「……パン屋の夢。ギターの形のパンが出てきたの♡」とごまかした。

それから、陽葵は、気づかないふりをすることに、決めた。

(……ダーリンは、まだ、聞かれたくないんだ。)

理由は、わからない。でも、あの夜の横顔が「見ないでほしい」と言っていたから。だから、陽葵は、眠ったふりを続ける。ギターの音が、布団の中まで、やさしく届く夜を、大事に大事に、過ごしている。


――今夜も、音がしている。

いつものフレーズ。ちょん、ちょん、と弾く、三拍子の、軽やかな音。そして、サビに向かって、弾けるようなフレーズ。律の作っている曲は、いつも、そこで止まる。

(……この曲、明るい曲だ。跳ねるような、生き生きした曲。……ダーリン、いま、なんだか、幸せなんだなあ。)

陽葵は、布団の中で、そっと微笑んだ。曲の調子で、律の心がわかる。低くて静かな夜の曲の日もある。それは、律が疲れている日。仕事で行き詰まっている日。今日の曲は、明るい。軽やかで、跳ねていて、なんだか、くすぐったいような、甘い曲。

(……ふふ。この曲、私、好きだなあ。)

陽葵は、静かに、スマホを取り出した。画面の光を、布団で覆って、観察日記を開く。

『十月二十四日。ダーリンの今夜の曲、いちばん明るい。三拍子で、跳ねるみたい。サビが途中で止まるのが、もったいない。……いつか、この曲、完成するのかな。完成したら、私、いちばん最初に聴きたいな。いや、いちばん最後でもいい。ダーリンが「いい」と言える形になるまで、待つのも、あり♡』

書き終えて、スマホを置く。ギターの音は、まだ、続いている。

(……あ。いまの音、新しい。今まで聴いたことないフレーズだ。……メロディ、進んでる。)

陽葵の胸が、きゅん、となった。律の曲は、少しずつ、少しずつ、育っている。この半年で、イントロが長くなって、サビが膨らんで、夜ごとに、少しずつ、何かが増えていく。

(……この曲、誰に聴かせるつもりで、作ってるんだろう。……なんとなく、わかる気がするけど。……わかるけど、言わない。言ったら、律、絶対、照れて、二度と弾かなくなるもん。)


翌朝、六時半。

「……陽葵。起きろ。朝だ」

「……ん……おはよ、ダーリン♡ ……ねむ……」

「……寝不足か? 目の下、ちょっと、くま……いや、なんでもない」

「ふふっ。律こそ、目の下、ちょっと、うれしそう♡」

「……うれしそうな、くまって、なに。ないから、それは」

「あるの♡ 昨夜、なんだか、いいことあった目だもの♡」

「……寝ぼけてるだけだ。ほら、顔、洗ってこい」

(……あー。いま、絶対、律、ドキッとした。)

陽葵は、洗面所に向かいながら、心の中で、小さくガッツポーズをした。この攻防は、このところ、ほぼ毎朝行われている。陽葵が「昨夜のギター」を知っていることには、気づかれていない。……はず、である。

「ねえ、ダーリン。今度の休み、久しぶりに、レコード屋さん行こっか? 大学時代によく行った、あの店♡」

「……ああ。いいけど。……どうした、急に」

「ん〜。なんかね、曲が聴きたくなったの。跳ねるような、明るい曲がね♡」

「……跳ねるような曲」

「そう♡ ほら、ダーリン、音楽、詳しいでしょ? 私、律のそういうところ、好きだから♡」

「……好きなのは、いいけど。……音楽の趣味が、俺に似てきてるな、お前」

「ふふっ。だって、いちばん近くにいるもん、音楽の先生が。……あっ、そうだ! 律って、楽器、とか、弾く?」

一瞬、律の手が、コーヒーカップの上で、止まった。

「……弾かないけど」

「ふーん? ほんとに〜?」

「……ほんとに。……なんで、そういうこと、聞くんだ」

「んー? なんとなく♡ 律って、指、長いから、楽器、似合いそうだなあって♡」

「……指の長さと、楽器は、関係ないから。……ほら、パン、焼けたぞ。食べて、仕事行くから」

「は〜い♡ ……あ、律、バター、付けてあげる♡ 甘えん坊さんだからね♡」

「……楽器の話、ごまかすな。……いや、お前が振ったんだが。……まあ、いい。……行ってきます」

「いってらっしゃい♡ ……あ、いってらっしゃいのチュッ、忘れてる♡」

「……朝から、やめ。……いってきます」

「えー。じゃあ、帰ってきたら、いっぱい♡ ……律、今日も、世界一かっこいいよ♡」

「……お前、俺を、世界一のランクで、何個持ってるんだ、その基準」

「無限に増えるの♡ 毎日、新しい律のいいところ、発見されるから、在庫、追いつかないの♡」

「……在庫って。……行ってきます」

玄関のドアが閉まる音。陽葵は、ひとりになった台所で、ふっと、窓の外を見た。秋の、高い空。今日も、律は、あの街を通って、仕事に行く。

(……ねえ、ダーリン。)

(……いつか、その曲、聴かせてね。……サビが、途中で止まってる曲。……その続き、私、聴きたいな。)

(……言わないけどね。言わないけど、待ってるから。ダーリンが「いい」と思える形になるまで、私は、眠ったふりを、続けるから。)

陽葵は、自分のトーストに、いちごジャムを、たっぷり塗った。甘い朝。ギターの音の記憶。そして、今夜も、きっと、届く、小さな音色。

 

第7節 観察日記、更新日

日曜日の朝、六時。

律は、まだ眠っている。陽葵は、そっとベッドを抜け出した。

リビングの小さなテーブルに、陽葵の「ひみつ基地」ができる。スケッチブック、ペンケース、色鉛筆、そして、あの『ダーリン観察日記』の手帳。日曜の朝のこの一時間は、陽葵だけの、世界でいちばん楽しい時間だった。

「……ふふ。今週は、このネタにしよう♡」

陽葵は、手帳を開いた。今週の観察記録。

『十月二十七日。ダーリン、風呂上がりに髪を乾かすとき、必ず左側から乾かす。右側は、途中で飽きて、タオルでぐしゃぐしゃにする。そのぐしゃぐしゃの髪で、リビングに来る。反則的にかわいい。』

「……これ、絶対、描き甲斐があるやつ♡」

さらさら、と、ペンが走る。デッサンするのは、もう何百回も描いた、律の顔。眉間の皺、長いまつ毛、風呂上がりの濡れ髪。陽葵の指は、律の顔を、自分の顔より正確に覚えている。

「……この皺の角度、難しいんだよね〜。『照れ皺』と『疲れ皺』、角度が五度くらい違うの」

ペン先が、カーテンの隙間から入る朝の光を受けて、きらきらと走る。


八時。陽葵は、描き終えた原稿を、スマホで撮影していた。

「……はい、アップロード……と♡」

陽葵が、こっそり連載しているイラストエッセイ漫画――タイトルは『ダーリン観察日記』。投稿サイトに、毎週日曜の朝、一話ずつアップしている。ペンネームは、パン屋の名前をもじった「ひまワッフル」。

「……今週は、九話目かあ。……ふふ、私、じみに、努力の人だ」

画面には、アクセス数が表示される。今週の九話目の数字は――

「……三十……アクセス……。ふふ。……三十人、いらっしゃるのね。三十人分の、ありがとう♡」

陽葵は、深深と、スマホに頭を下げた。少ない。少ないけれど、ゼロではない。三十人が、陽葵の律の話を、どこかで読んでくれている。それだけで、胸がいっぱいになる。

コメント欄には、二件。

「更新ありがとうございます。毎週楽しみにしています」

「うちの旦那も髪を乾かさないタイプです。あるあるすぎて笑いました」

「……ふふっ。……喜んでくれてる人が、いる……!」

陽葵は、布団にくるまって、こっそり、小さく、ガッツポーズをした。


九時。携帯が震えた。親友の美織からだ。

「もしもし〜美織、おはよう♡」

『おはよう。……日曜の朝から、声が弾んでるわね。……更新日ね、あんたの。』

「ふふっ、ばれた?」

『ばれるも何も、あんた、更新日の朝は、必ず私に電話するんだから。……で、今週は何話?』

「九話! 『ダーリンの髪乾かしの謎』って話♡」

『……話数、タイトル、全部律さんの観察なのね。……で、アクセスは?』

「三十!」

『……三十。』

「三十、もらっちゃった! 増えたの! 先週の二十六から!」

『……四伸びて、喜んでるのね。……まあ、いいけど。……あんた、それ、律さんに内緒のままなのよね?』

「もちろん! 絶対、内緒♡ 律に知られたら、律、照れすぎて、私の顔、見れなくなっちゃうもん」

『……あのねえ。夫婦で秘密って、どうなのよ。』

「美織には、言ってるもん♡ 美織は、私の公認読者一号だもん♡」

『……一等賞、ありがたいことです。……でも、あんた、これ、下手じゃないのよ。……下手じゃないから、いつか、バレたら、その時は、あんた、言いなさいよ。『趣味で描いてま〜す』って、胸張って。』

「……むむ。それは、まだ、恥ずかしい……」

『はしたない愛の重さを世界に公開しといて、恥ずかしいも何もないでしょ、その漫画。』

「重くないもん。愛は軽いの♡」

『……律さん、毎日、あの愛を全部受け止めてるのよ。……世界一の腰、持ってるわよ、あの人。』

「ふふっ。律の腰、私が守ってるもん♡ マッサージ、毎晩してるもん♡」

『……だから、重いのよ。……あ、ごめん、今日もこれから、彼とデートなの。』

「あっ、そっか。……いってらっしゃい♡ 美織のデート、うまくいくといいね♡」

『……うまくいったら、あんたに、いちばんに報告するから。……じゃね、ひまワッフル先生。』

「ふふっ、誰〜? ……ばいばい、美織♡」

電話を切って、陽葵は、ふと、窓の外を見た。美織の「彼」。最近、ちょっと、声が沈んでいる気がする。デート、うまくいってほしいな。


十時。寝室のドアが、開いた。

「……陽葵? どこに――」

「ひっ!」

律が、リビングに入ってきた。陽葵は、反射的に、スケッチブックを、胸に抱きしめた。

「……なんだ、その、抱きしめてるやつ。朝から」

「な、なんでもない! これ? これは……そう、パン屋の、新商品のアイデアメモ!」

「……新商品のアイデアメモを、胸で、全力ガードするのか、普通」

「パン屋の商売は、機密事項が多いの!」

「……パン屋の機密事項って、なに。……焼き加減か?」

「ち、違う! とにかく、ダーリンは、朝ごはんの準備に専念してください♡ ほら、席、座って♡」

「……俺が、席に座って、朝飯を待つ側? ……陽葵、何か、隠してるな」

「隠してないもん! 隠してないもん、だいだいだいだい好き♡♡」

「……最後の『だいだい好き』で、誤魔化すの、やめて。……顔、真っ赤だぞ」

「朝だから! 朝の顔は、みんな、真っ赤なの!」

律は、ふっと、笑った。

「……まあ、いい。言いたくなったら、言え。……俺は、なんでも、聞くから」

「……! ……うん。……そのときは、ね。……でも、まだ、だいだいだいだい好き♡」

「……その、語尾に全部『だい好き』を付けるのも、やめて。……恥ずかしいから」

「律が、恥ずかしがる顔も、好きだから、付けるの♡」

「……お前、俺の恥ずかしがる顔を、燃料にしてるだろ」

「燃料じゃないよ♡ 恋の、バイオエタノール♡」

「……もう、いい。……コーヒー、淹れる」

律がキッチンに向かう。陽葵は、胸のスケッチブックを、そっと、物語のポーチにしまった。

(……ごめんね、ダーリン。もうちょっとだけ、ひみつにさせて。……『律のことが好きすぎて、漫画にしちゃってる』って、いつか、言うからね。……そのときは、笑って、許してね。)


夜。律がお風呂に入っている間に、陽葵は、もう一度だけ、投稿サイトを開いた。

九話目のアクセス数は、三十八になっていた。そして、コメント欄に、新しいコメントが、一件、増えていた。

『うちのダーリンも、髪、乾かさない派です。……この漫画読んで、「こっち見て」って言いたくなりました。奥さん、旦那さんを大事にしてあげてください。応援しています。』

「……!」

陽葵は、スマホを抱きしめた。知らない誰かが、陽葵の漫画を読んで、自分の「ダーリン」のことを思い出してくれた。誰かの日常が、ほんの少しだけ、あたたかくなった。

(……これが、描いてよかったって、こと、なのかな。)

(……私の『だい好き』が、誰かの『だい好き』のスイッチになってるのかな。……ふふ。それ、ちょっと、素敵だなあ。)

「……陽葵? 何、ニヤニヤしてる。入浴、終わったぞ」

「! なんでもない! 明日の仕込みの、段取りを、笑顔で確認してたの♡」

「……段取りを、笑顔で確認するタイプの人間は、いないから。……まあ、いい。ほら、寝るぞ。明日も、早いんだから」

「は〜い♡ ……あ、律、おやすみのチュッ、今日も、忘れてる♡」

「……布団に入ってから、な。……先、寝てていいから」

「えへへ。ダーリンと一緒がいい♡ ……ねぇ、ダーリン」

「ん?」

「……いつかね、私の『だいだい好き』の全部を、律に、見せたいの。……もうちょっとだけ、待っててね」

「……なんのことだか、わからないけど。……見たいと思ってる。……お前の、ぜんぶは」

「……! ……うん。……おやすみ、ダーリン♡」

「……おやすみ、陽葵」

 第8節 お姉ちゃんと、焼きたてパンの贈り物

(秋。ひだまり商店街の小さな出会いと、陽葵の笑顔がつなぐ物語)

秋の朝は、少しだけ空気が澄んでいる。

立花ハイツの二階。星野陽葵は、窓から差し込む柔らかな光を頬に受けながら、隣で眠る夫の顔をじっと見つめていた。

「……ダーリン」

返事はない。

「ねぇ、ダーリン?」

すう、すう、と規則正しい寝息が聞こえるだけだった。

陽葵は布団の上に頬杖をつき、律の寝顔を観察する。

いつもは落ち着いていて、少しばかり無口で、仕事の話になると真剣な表情を崩さない夫。しかし、眠っているときの律は、驚くほど無防備だった。

前髪が額に少しかかっている。眉間には、昨日の仕事の疲れだろうか、ほんのわずかな皺が残っていた。

「昨日も遅かったもんね……。お疲れさま、ダーリン」

そっと手を伸ばし、前髪を指先で整えてあげる。

すると律が小さく身じろぎした。

「……ん」

「!」

陽葵は、ぴたりと動きを止めた。

起きた?

起きちゃった?

今、私が寝顔をじーっと見ていたこと、ばれた?

しかし、律は目を開けることなく、再び静かな寝息を立て始めた。

「……ふふっ♡」

陽葵は胸の前で両手を握った。

「危なかったぁ……。朝からダーリンの寝顔を見ているだけで、こんなに幸せになっちゃうなんて。私、ほんとうに重症かもしれない」

誰に聞かせるでもなく呟き、枕元のスマートフォンを手に取る。

画面には、昨夜更新したばかりのWEB漫画『ダーリン観察日記』の管理ページが表示されていた。

ペンネームは、ひまワッフル。

まだ大勢の読者がいるわけではない。更新しても、反応がない日だってある。それでも、陽葵は自分の好きなものを描く時間が大好きだった。

夫のちょっとした仕草。

何気ない優しさ。

不器用なのに、ちゃんと自分を大切にしてくれるところ。

そして、そんな律を見つめているとき、自分の胸の中にあふれてくる気持ち。

それらを絵にして、言葉にして、誰かに届けたい。

「今日も、いいことがありますように」

陽葵はスマートフォンを伏せると、律の頬にそっと唇を寄せた。

「おはよう、ダーリン。……まだ寝てていいからね♡」

そして、音を立てないようにベッドを抜け出した。

今日もまた、二人の新しい一日が始まる。

キッチンには、昨夜のうちに用意しておいたコーヒー豆と、食パンが並んでいた。

陽葵はエプロンを身につけ、フライパンを火にかける。

休日ではないけれど、律が出勤する前の朝食は、できるだけ二人で食べる。それが結婚してから、いつの間にか決まった習慣だった。

コーヒーの香りが部屋に広がる。

パンが焼ける香ばしい匂いが重なり、陽葵は思わず頬を緩めた。

「うん、今日もいい感じ!」

そこへ、寝室の扉が開く音がした。

「……おはよう」

「あっ、ダーリン! おはよう♡」

律が少し眠そうな顔でキッチンに現れた。

「朝から元気だな」

「だって、ダーリンに会えたんだもん!」

「いや、同じ家に住んでるだろ」

「そうだけどぉ。朝起きて、ダーリンがいて、おはようって言えるのって、すごく幸せなことだと思わない?」

律は一瞬、言葉に詰まった。

「……まあ、そうだな」

「でしょ? じゃあ、もう一回!」

「何を?」

「こっち見て♡」

律が顔を向ける。

陽葵は満面の笑みを浮かべた。

「おはよう、ダーリン!」

「……おはよう、陽葵」

「えへへへへ♡」

「……朝飯、冷めるぞ」

律は赤くなった顔を隠すように椅子へ向かった。

その背中を見ながら、陽葵は心の中で小さくガッツポーズをする。

今日も一勝。

何の勝負なのかは、本人にもよくわかっていない。

けれど、夫が照れてくれるたびに、胸の奥がぽかぽかと温かくなるのだった。

「ダーリン、コーヒーはいつもの濃さでいい?」

「ああ。ありがとう」

「パンは?」

「焼いてくれたやつでいいよ」

「えーっ、もっと注文してくれていいのに! バター多めとか、ジャムとか、はちみつとか!」

「じゃあ、半分に切ってくれるか?」

「もちろん♡」

陽葵は食パンを二つに分け、片方にバターを塗った。

そして、ほんの一瞬考えたあと、自分の皿に大きいほうを置きかけて、ぴたりと手を止める。

「……やっぱり」

大きいほうを律の皿へ。

「はい、ダーリン。大きいほう!」

「……またか」

「またです♡」

「陽葵の分が小さくなるだろ」

「いいの。ダーリンが美味しそうに食べてくれたら、私も嬉しいから」

律はパンを見つめ、それから陽葵の顔を見た。

「……お前も、ちゃんと食べろよ」

「はーい!」

返事をしながら、陽葵は自分のパンを一口かじった。

何でもない朝。

コーヒーと、パンと、向かい合う夫婦。

けれど陽葵にとっては、何度繰り返しても飽きない、大切な時間だった。

この何気ない朝を、いつか漫画に描こう。

そう思いながら、陽葵は今日の仕事に向けて、心の中に小さな幸せをしまい込んだ。

午前八時二十分。

朝食を終えた律は、玄関で革靴を履いていた。

「じゃあ、行ってくる」

「待って、ダーリン!」

陽葵はぱたぱたと駆け寄ると、律のネクタイを整えた。

「曲がってるよ。もう、朝からこんなに格好いいんだから、ちゃんとしてくれなきゃ困ります」

「……自分でできる」

「知ってます。でも、私がやりたいの♡」

律は何か言いかけて、結局、黙って陽葵に任せた。

指先がネクタイに触れる。

顔を近づけると、ほのかに洗剤の香りがした。毎日嗅いでいるはずなのに、陽葵にはそれさえ特別に感じられる。

「はい、できました!」

「ありがとう」

「……ダーリン?」

「ん?」

「今日も無理しすぎないでね。お昼、ちゃんと食べるんだよ?」

「わかった」

「あと、疲れたら休憩してね!」

「わかったって」

「それから――」

「陽葵」

律が優しく名前を呼んだ。

「大丈夫。ちゃんと気をつけるから」

その声に、陽葵は思わず顔をほころばせる。

「……うん♡」

そして、いつものように両手を広げた。

「いってらっしゃいの、ぎゅー!」

「……ここで?」

「ここで!」

律は玄関の外を一度確認し、誰もいないことを確かめると、少し照れくさそうに陽葵を抱きしめた。

ほんの数秒。

それだけで、陽葵の心は満タンになった。

「いってらっしゃい、ダーリン!」

「行ってくる」

ドアが閉まる。

陽葵は、しばらく玄関に立ったまま、閉じた扉を見つめていた。

「……えへへ。今日も頑張れそう」

それから、はっと時計を見る。

「って、私も急がなきゃ!」

パン屋の出勤時間が迫っていた。

陽葵は鞄を肩にかけ、玄関の鍵を確認すると、勢いよく外へ飛び出した。

秋の風が頬を撫でる。

ひだまり商店街の一日は、もう始まっていた。

商店街へ続く細い道を歩いていると、八百屋の店先から威勢のいい声が響いてきた。

「おはよう、陽葵ちゃん!」

「あっ、田中さん! おはようございます!」

店先には、赤く色づいたリンゴや、艶のあるナス、山積みのサツマイモが並んでいる。

「今日はずいぶん急いでるねえ」

「パン屋さんに遅れそうなんです!」

「おやおや。新婚さんは朝から忙しいねえ」

「もうっ、田中さん!」

陽葵は頬を膨らませた。

しかし、その表情はすぐに笑顔へと変わる。

「でも、今朝もダーリンと朝ごはんを食べられたので、元気いっぱいです♡」

「はいはい、ごちそうさま!」

田中さんは豪快に笑った。

「そうだ。今度、奥さんと一緒に店に寄っておくれ。サツマイモが入ったから、奥さんの好きな大学芋でも作ってやろうと思ってね」

「本当ですか? ありがとうございます!」

陽葵はぺこりと頭を下げ、再び歩き出した。

商店街には、いろいろな音がある。

魚屋の主人が氷を砕く音。

金物屋のシャッターが開く音。

自転車のベル。

遠くから聞こえる、子どもたちの笑い声。

大きな駅前の商業施設とは違い、どこかゆっくりとした時間が流れている。

陽葵は、この街が好きになり始めていた。

結婚して半年。

以前は夫婦二人の生活に夢中で、近所のことをゆっくり見る余裕がなかった。

けれど、パン屋で働くようになってから、少しずつ顔見知りが増えてきた。

名前を覚えてもらう。

挨拶を交わす。

昨日の出来事を話す。

そんな小さな積み重ねが、陽葵の世界を少しずつ広げていた。

「……今日も、いい日になりそう♡」

陽葵は小走りになりながら、パン屋の看板を目指した。

ブーランジュリーひだまりの厨房では、すでにパンの焼ける香りが満ちていた。

「おはようございます!」

「おう、陽葵。今日は時間どおりだな」

腕まくりをした店主の溝口茂が、オーブンから焼きたてのバゲットを取り出していた。

「えへへ。今朝はダーリンが――」

「旦那さんの話は、仕事が終わってからにしてくれ」

「はーい!」

まだ何も話していないのに。

陽葵は口を尖らせたが、すぐに笑顔に戻った。

カウンターの向こうでは、大学生の千尋がトレーを並べている。

「陽葵さん、おはようございます!」

「千尋ちゃん、おはよう!」

「今日もご機嫌ですね」

「うん! ダーリンがね――」

「朝ごはん、一緒に食べられたんですね?」

「……どうしてわかったの!?」

千尋は、くすくすと笑った。

「だって、陽葵さん、旦那さんと朝ごはんを食べられた日は、いつも目がキラキラしてるんですもん」

「そ、そんなにわかりやすい?」

「はい。すっごく」

「うわぁ……」

陽葵は両手で頬を押さえた。

それから、二人で顔を見合わせて笑った。

「でも、そういうの、素敵だと思いますよ」

千尋が言った。

「一緒に朝ごはんを食べるだけで嬉しいって、なんだかいいなあ」

その言葉に、陽葵は少しだけ真面目な顔になった。

「……うん。私ね、結婚する前は、もっと特別なことが幸せなんだと思ってたの」

「特別なこと?」

「豪華なレストランに行ったり、旅行したり、素敵なプレゼントをもらったり。もちろん、そういうのも嬉しいんだけどね」

陽葵は、カウンターに並べられたパンを見つめた。

「でも今は、朝起きたら隣にいて、おはようって言えて。一緒にご飯を食べて、いってらっしゃいって言えること。それが、思っていた以上に嬉しいんだ」

「……陽葵さん」

「だからね、今日もダーリンが帰ってきたら、おかえりって言うの。たぶん、明日も、明後日も。そのたびに、私は嬉しくなると思う♡」

千尋は、しばらく陽葵を見つめていた。

そして、ふっと微笑んだ。

「私、陽葵さんみたいな奥さんになりたいです」

「えっ!?」

「好きな人に、好きってちゃんと言える人」

陽葵の頬が、ぽっと赤くなった。

「そ、そんな……! 私なんて、好き好き言いすぎて、ダーリンに呆れられてるかもしれないよ?」

「それでも、言えるのってすごいことだと思います」

「……千尋ちゃん」

「よしっ! 今日も頑張りましょう!」

千尋は両手を握って気合を入れた。

「はいっ!」

陽葵も元気よく返事をした。

その瞬間、厨房から茂の声が飛んできた。

「お前ら、話が終わったなら、このクロワッサンを店頭に出してくれ!」

「「はーい!」」

二人の声が、店内に明るく響いた。

午前十時を過ぎると、店は少しずつ賑わい始めた。

出勤途中の会社員がコーヒーとサンドイッチを買いに来る。近所のお年寄りが、いつもの食パンを注文する。小さな子どもを連れたお母さんが、甘いメロンパンを二つ選んでいく。

「いらっしゃいませ!」

「ありがとうございました!」

陽葵は笑顔で接客を続けていた。

忙しい時間帯ではあったが、彼女は一人ひとりのお客さんと交わす短い会話を楽しんでいた。

「今日はいい天気ですね」

「このパン、昨日も美味しかったわ」

「ありがとうございます。またお待ちしていますね!」

そのたびに、陽葵の胸の中に、小さな花が咲いていくようだった。

そんなとき。

店の外から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「ねえ、ここでいいんだよね?」

「うん! お姉ちゃん、いるかな?」

「パン屋さんのお姉ちゃん?」

「そう! いつもニコニコしてるお姉ちゃん!」

陽葵は顔を上げた。

ガラス越しに見えたのは、小さな子どもたちの姿だった。

小学校低学年くらいの男の子が二人と、赤い帽子をかぶった女の子が一人。

男の子の一人は、両手で小さな紙袋を抱えている。

「……あれ?」

陽葵が首を傾げていると、三人は店の前で何やら相談を始めた。

「ぼく、言うからね!」

「えー、私が言いたい!」

「じゃあ、みんなで言おうよ!」

そして、三人そろって店の扉を開けた。

カラン、コロン。

ドアベルの音が鳴る。

「こんにちはー!」

元気いっぱいの声が店内に響いた。

「はい、いらっしゃいませ!」

陽葵が笑顔で迎えると、赤い帽子の女の子が、ぱっと顔を輝かせた。

「あっ! お姉ちゃんだ!」

「……えっ?」

「お姉ちゃん、いた!」

女の子は嬉しそうに駆け寄ろうとしたが、男の子に袖を引かれて、慌てて立ち止まった。

「こら、走っちゃだめだよ」

「あっ、そうだった!」

陽葵は思わず笑ってしまった。

「ふふっ。どうしたの? 今日は三人でお買い物?」

三人は顔を見合わせた。

そして、紙袋を抱えていた男の子が、一歩前に出た。

「えっと……これ!」

差し出された紙袋には、かわいらしいシールが貼られていた。

動物の形をしたものや、星やハートのシールが、少し不揃いに並んでいる。

「これ、ぼくたちから!」

「えっ? 私に?」

陽葵は目を丸くした。

「うん!」

「いつもありがとう!」

「お姉ちゃん、パン屋さんで頑張ってるから!」

三人は、少し照れくさそうに笑った。

陽葵は、紙袋と子どもたちの顔を交互に見つめた。

「あ、ありがとう……! でも、これ、どうしたの?」

「お母さんと作ったの!」

赤い帽子の女の子が、得意げに胸を張った。

「この前、お姉ちゃんがくれたパン、美味しかったから!」

「あ……!」

陽葵の記憶が、少しずつつながっていく。

数日前の夕方。

店の前で、小さな男の子が母親の手を引いていた。

どうやら、お腹が空いていたらしい。

けれど、母親は財布の中身を気にしていて、買うパンを一つにするか二つにするか、迷っている様子だった。

そのとき、陽葵は店頭に残っていた小さな丸パンを見つけた。

形が少し崩れてしまったものの、味には問題がない。

店主の茂に確認を取り、陽葵はそのパンを子どもに渡したのだった。

『よかったら、これもどうぞ。今日はたくさん焼いたからね』

そう言って渡したパンを、男の子は大事そうに抱えて帰っていった。

陽葵は、そのときのことを思い出した。

「もしかして……この前の?」

「うん! ぼく!」

男の子が大きく頷いた。

「あのパン、すっごく美味しかったんだ!」

「そうだったんだ……!」

陽葵の胸が、じんわりと温かくなった。

「ありがとう。そんなふうに思ってくれてたなんて、お姉ちゃん、すごく嬉しいよ」

そう言って、紙袋をそっと受け取った。

中を覗くと、小さなパンが三つ入っていた。

丸いパン。

少し細長いパン。

そして、星の形をしたパン。

どれも形は不揃いだったけれど、一生懸命に作ったことが伝わってくる。

「これ、みんなで作ったの?」

「うん! お母さんが生地を作ってくれて、ぼくたちが形を作ったの!」

「星のパンは私が作ったんだよ!」

女の子が、誇らしげに言った。

「わあ、すごい! 星の形、ちゃんとわかるよ!」

「ほんと!?」

「うん! とっても可愛い!」

女の子の顔が、ぱあっと明るくなった。

その笑顔を見た瞬間、陽葵は、まるで自分がプレゼントをもらった子どものように嬉しくなった。

「……ありがとうね。お姉ちゃん、大事に食べるね」

すると、もう一人の男の子が、少し恥ずかしそうに口を開いた。

「あのね……」

「うん?」

「お姉ちゃん、いつも笑ってるでしょ?」

「……えっ?」

「ぼくね、学校で嫌なことがあった日も、ここを通ると、お姉ちゃんが笑ってるから、なんか元気になるんだ」

陽葵は、息を呑んだ。

男の子は、照れくさそうに鼻の頭をこすった。

「だから……ありがとう」

店内の音が、一瞬だけ遠くなった気がした。

焼きたてのパンの香り。

カウンターの向こうで作業をする千尋。

厨房から聞こえる茂の足音。

いつもと変わらないパン屋の風景。

その中で、陽葵は小さな男の子の言葉を、胸いっぱいに受け止めていた。

「……そっか」

ようやく出てきた声は、自分でも驚くほど柔らかかった。

「お姉ちゃんの笑顔で、元気になってくれたんだね」

男の子は、小さく頷いた。

「うん」

「ありがとう。教えてくれて」

陽葵は膝を曲げ、子どもたちと目線を合わせた。

「でもね、お姉ちゃんも、みんなから元気をもらってるんだよ」

「えっ?」

「みんなが来てくれると嬉しいし、こうしてお話しできると、もっと嬉しくなるの」

陽葵は、三人の顔を順番に見つめた。

「だからね、ありがとうは、お姉ちゃんからも言わせてね」

そして、にっこりと笑った。

「みんな、ありがとう♡」

三人は顔を見合わせた。

次の瞬間、赤い帽子の女の子が、ぱっと陽葵に抱きついた。

「お姉ちゃん、大好き!」

「わわっ!」

陽葵は驚きながらも、女の子を優しく抱きしめた。

続いて、二人の男の子も、少し遠慮がちに近づいてくる。

「……ぼくも」

「ぼくも、お姉ちゃん好き!」

「ふふっ、ありがとう!」

陽葵は三人の頭を、順番に優しく撫でた。

その光景を、厨房の入り口から見ていた茂は、腕を組んだまま小さく息を吐いた。

「……まったく。あいつは、どこへ行っても人を集めるな」

千尋は、そんな茂の横顔を見て、くすっと笑った。

「マスター、嬉しそうですね」

「別に」

「そうですか?」

「……仕事に戻れ」

「はーい」

千尋は笑いながら、トレーを持ってカウンターへ戻った。

そして陽葵の様子を見つめながら、心の中で思った。

きっと、陽葵さんは自分が思っている以上に、たくさんの人を幸せにしているんだ。

子どもたちが帰る時間になった。

「じゃあ、お姉ちゃん、またね!」

「うん! また来てね!」

「今度は、お母さんも一緒に来るね!」

「楽しみに待ってるよ!」

三人は手を振りながら、店の外へ駆けていった。

扉が閉まり、ドアベルが小さく鳴る。

陽葵は、しばらくその扉を見つめていた。

手の中には、シールの貼られた紙袋。

中からは、手作りのパンの香りがほんのり漂っていた。

「……嬉しいな」

ぽつりと呟いた声が、少しだけ震えた。

誰かのためにしたことが、こんな形で返ってくるなんて思わなかった。

ほんの小さな丸パン一つ。

それだけのことだったのに。

子どもたちは覚えていてくれた。

美味しかったと言ってくれた。

そして、自分の笑顔で元気になれたと教えてくれた。

陽葵は紙袋を胸に抱きしめた。

「……私、もっと頑張ろう」

そのとき、背後から茂の声がした。

「陽葵」

「は、はいっ!」

陽葵は慌てて振り返った。

「すみません! お仕事中なのに、長くお話ししちゃって……!」

「いや、それはいい」

茂は、いつもの厳しい顔をしていた。

けれど、その目元は少しだけ柔らかかった。

「お前、さっきの子どもたちに、パンを渡したことがあるんだな」

「はい。少し前に、店頭に残っていたパンを……。マスターに確認してからです!」

「わかってる。勝手にやったわけじゃないことくらい」

茂は腕を組み、カウンターに並ぶパンを見渡した。

「パンってのはな、腹を満たすためだけにあるんじゃない」

「……はい」

「もちろん、商売だから売らなきゃならん。材料費も、光熱費も、職人の手間もかかる。だが、それだけじゃねえ」

茂は、焼きたてのパンを一つ手に取った。

「誰かが朝起きて、腹が減ったときに食べる。学校で嫌なことがあった日に、家で食べる。家族と分け合って食べる。そういう時間の中に、俺たちのパンがある」

陽葵は、静かに聞いていた。

「だから、うちのパンを食べて、あの子たちが笑ってくれたんなら……職人として、悪い気はしねえよ」

「マスター……」

「ただし!」

「は、はいっ!」

「仕事中に泣くな。目が赤いぞ」

「な、泣いてませんっ!」

陽葵は慌てて目元を押さえた。

茂は、ふん、と鼻を鳴らす。

「だったら、さっさと仕事に戻れ。昼前に予約の食パンが焼き上がる」

「……はいっ!」

陽葵は、勢いよく頭を下げた。

「ありがとうございます、マスター!」

「礼を言うのは、まだ早い。これからも頼むぞ」

「はい!」

陽葵は紙袋を大切にカウンターの奥へ置くと、再び仕事に取りかかった。

さっきまでと同じ仕事。

パンを並べ、お客さんを迎え、笑顔で挨拶をする。

でも、何かが少しだけ変わった気がした。

自分の笑顔が、誰かの一日を明るくすることがある。

そして、誰かの笑顔が、自分の一日を明るくしてくれる。

そんな当たり前のことが、今日はいつもより深く胸に響いていた。

昼休み。

陽葵は、店の裏にある小さな休憩スペースで、子どもたちからもらったパンをそっと取り出した。

「……どれから食べようかな」

星の形のパン。

丸いパン。

細長いパン。

どれも少しずつ形が違う。

「星のパン、可愛いなぁ……」

陽葵は、星の先端をそっと指でなぞった。

すると、スマートフォンが震えた。

画面には、律からのメッセージが表示されていた。

『昼、ちゃんと食べてるか?』

陽葵は思わず笑顔になった。

「……ダーリン!」

すぐに返信を打つ。

『食べてるよ♡ 今日はね、とっても嬉しいことがあったの!』

送信してから、ふと考えた。

この出来事を、律にも話したい。

子どもたちがパンを持ってきてくれたこと。

自分の笑顔で元気になれると言ってくれたこと。

マスターが、パンに込めた思いを話してくれたこと。

全部、聞いてほしい。

そして、いつものように「よかったな」と笑ってほしい。

陽葵は、少しだけ迷ってから、もう一通メッセージを送った。

『今日、帰ってきたら聞いてね♡ ダーリンに一番に話したいことがあるの!』

すぐに既読がついた。

そして、返信が届く。

『わかった。楽しみにしてる』

たったそれだけの文章。

それなのに。

「……えへへへへ♡」

陽葵はスマートフォンを胸に抱きしめた。

「楽しみにしてる、だって……!」

誰もいない休憩スペースで、一人、足をぱたぱたさせる。

「もうっ、ダーリンったら! そんなこと言われたら、早く帰ってきてほしくなっちゃうじゃない!」

もちろん、律はまだ仕事中だ。

帰ってくるのは夕方以降。

わかっている。

わかっているけれど。

「……早く会いたいなぁ」

陽葵は、ふっと笑った。

そして、星の形のパンを一口かじった。

ほんのり甘い。

少し不揃いで、形は完璧ではない。

でも、その味には、作った子どもたちの気持ちが詰まっているように思えた。

「……美味しい」

陽葵は、ゆっくりと噛みしめた。

「みんな、ありがとうね」

秋の午後の光が、休憩スペースの窓から差し込んでいた。

小さなパン一つが、こんなにも心を温めてくれる。

陽葵は、その気持ちを忘れないように、そっと心に刻んだ。

夕方。

閉店の準備が始まるころ、千尋がカウンターの奥から顔を出した。

「陽葵さん、今日もお疲れさまでした!」

「千尋ちゃんも、お疲れさま!」

「そういえば、あの子たち、また来てくれるといいですね」

「うん!」

陽葵は、店の外に目を向けた。

夕焼けに染まった商店街。

八百屋では店先の商品を片づけ始め、魚屋の主人はホースで床を洗っている。

少し離れたところでは、小学生たちがランドセルを揺らしながら帰っていく。

いつもの風景。

けれど、今日はいつもより鮮やかに見えた。

「ねえ、千尋ちゃん」

「はい?」

「私、この街が好きになってきたかも」

陽葵がそう言うと、千尋は嬉しそうに笑った。

「本当ですか?」

「うん。最初は、ダーリンと暮らす場所っていう気持ちが一番大きかったんだけど……」

陽葵は、店の窓から商店街を眺めた。

「今は、この街に住んでいる人たちのことも、もっと知りたいなって思うの」

「……素敵ですね」

「みんな、それぞれの毎日があって、それぞれ大切な人がいて。嬉しいことも、悲しいこともあって……。そんな毎日の中に、私たちのパン屋さんがあるんだよね」

「はい」

「そう考えたら、なんだかすごく幸せな仕事だなぁって」

千尋は、ゆっくり頷いた。

「私も、このお店が好きです。お父さんが頑張ってきたお店だからっていうのもありますけど……。ここに来る人たちが、パンを買って笑顔で帰っていくのを見るのが好きなんです」

「千尋ちゃん……」

「だから、これからも一緒に頑張りましょうね!」

「うん!」

二人は、笑顔で頷き合った。

そのとき、厨房から茂が顔を出した。

「おい、二人とも。いつまで話してるんだ。片づけが終わってねえぞ」

「あっ、すみません!」

「今やります!」

慌てて動き出す二人を見て、茂は小さく笑った。

「……まったく。賑やかな店になったもんだ」

その声は、どこか嬉しそうだった。

夜。

立花ハイツの部屋に戻った陽葵は、玄関のドアを開けると、いつものように声を上げた。

「ただいまー!」

返事はない。

まだ律は帰っていないらしい。

陽葵は少しだけ肩を落としたが、すぐに笑顔を取り戻した。

「よしっ。ダーリンが帰ってくる前に、夕ごはんの準備をしよう!」

エプロンを身につけ、冷蔵庫を開ける。

今日は、律の好きなハンバーグにしよう。

付け合わせには、昨日買った野菜を使って。

スープも作ろう。

それから、食後には温かいコーヒーを。

帰ってきた律が、ほっと一息つけるように。

陽葵は、鼻歌を歌いながらキッチンに立った。

しばらくして、玄関から鍵を開ける音がした。

「……ただいま」

「ダーリン!」

陽葵は、菜箸を置いて玄関へ駆け寄った。

「おかえりなさい♡」

「ただいま。いい匂いがするな」

「今日はハンバーグだよ!」

「そうか。楽しみだな」

律が鞄を置く。

陽葵は、じっと夫の顔を見つめた。

「……ねえ、ダーリン」

「ん?」

「今日ね、すっごく嬉しいことがあったの!」

「昼のメッセージのことか?」

「そう!」

陽葵は、待ちきれない様子で話し始めた。

パン屋に来てくれた三人の子どもたち。

手作りのパンの贈り物。

自分の笑顔で元気になれたと言ってくれた男の子。

茂が話してくれた、パンを焼くことの意味。

陽葵は身振り手振りを交えながら、今日あった出来事を一つずつ伝えた。

律は、時折相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれた。

「……そうか」

話し終えると、律は穏やかな顔で微笑んだ。

「よかったな、陽葵」

「……うん!」

「お前が普段から、ちゃんと周りを見てるからだろうな」

「えっ?」

「子どもたちのことも、店のことも。お前が大事にしてるから、向こうも大事に思ってくれたんじゃないか」

陽葵は、目をぱちぱちさせた。

そして、みるみる頬を赤くした。

「……ダーリン」

「ん?」

「もう一回、言って?」

「何を?」

「私のこと、褒めてくれたところ!」

「……聞いてただろ」

「聞いたけど! もう一回聞きたいの!」

律は、困ったように笑った。

「……陽葵は、よく頑張ってるよ」

「……っ!」

陽葵は両手で顔を覆った。

「だ、だめ……! 今日、嬉しいことが多すぎる……!」

「大げさだな」

「大げさじゃないもん!」

陽葵は顔を上げ、律の手をぎゅっと握った。

「……ダーリン、大好き♡」

律は少し照れたように視線をそらした。

「……俺も」

「えっ?」

「……俺も、陽葵が好きだよ」

「…………」

一瞬、陽葵は固まった。

それから。

「きゃあああああっ♡♡♡」

部屋中に、幸せいっぱいの声が響き渡った。

「ちょっ、陽葵! 声が大きい!」

「だって! だってぇ! ダーリンが! ダーリンが好きって言ってくれたぁ!」

「いつも言ってるだろ……!」

「何回聞いても嬉しいの!」

律はとうとう観念したように、陽葵の肩を抱き寄せた。

「……はいはい」

「はいは一回です!」

「……はい」

「えへへへへ♡」

陽葵は、夫の胸に頬を寄せた。

窓の外では、秋の夜風が静かに吹いている。

今日も、特別なことがあったわけではない。

ただ、パン屋で働いて。

子どもたちと出会って。

帰ってきた夫に、一日の出来事を話した。

それだけ。

でも、その一つひとつが、陽葵にとっては宝物だった。

やがて二人は夕食の席についた。

「いただきます」

「いただきます♡」

ハンバーグを一口食べた律が、ふっと表情を緩めた。

「美味しい」

「本当!?」

「ああ」

「えへへ……。ダーリンが美味しいって言ってくれると、私も幸せ♡」

陽葵は、嬉しそうに自分のハンバーグを切り分けた。

そして、大きめの一切れを律の皿へ移そうとする。

「……また大きいほうをくれるのか?」

「うん!」

「陽葵の分が減るだろ」

「大丈夫。私には、ダーリンの笑顔っていう栄養があるから!」

「……それ、栄養になるのか?」

「なります!」

律は、とうとう吹き出した。

「ははっ……!」

その笑顔を見た瞬間、陽葵も笑った。

「ふふっ、あはははっ!」

二人の笑い声が、温かな食卓に広がっていく。

何年先も。

何十年先も。

こうして一緒にごはんを食べて、笑い合えたらいい。

陽葵は、心の中でそっと願った。

そして、食後のコーヒーを飲み終えたころ。

律が食器を片づけている間に、陽葵は机に向かった。

ノートを開き、ペンを手に取る。

今日の出来事を忘れないうちに、漫画に描いておきたかった。

ページの上に、まずは一つの台詞を書く。

『お姉ちゃん、いつも笑ってるでしょ?』

その下に、小さな子どもたちの姿を描く。

そして、笑顔で紙袋を受け取る自分の姿も。

陽葵は、ゆっくりとペンを走らせた。

「……今日も、いい一日だったな」

背後から、律の声が聞こえた。

「何を描いてるんだ?」

「あっ、ダーリン!」

陽葵は慌ててノートを閉じかけた。

「だ、だめ! まだ秘密!」

「また観察日記か?」

「うっ……。そ、それは……」

律は、少しだけ目を細めた。

「……俺のこと、また描いたのか?」

「……描きました」

「どんなふうに?」

陽葵は、にっこりと笑った。

「世界でいちばん優しくて、世界でいちばん格好よくて、世界でいちばん大好きな旦那さま♡」

「……おい」

「ふふっ♡」

律の耳が赤くなる。

それを見て、陽葵はますます嬉しくなった。

「ねぇ、ダーリン」

「……今度は何だ?」

「こっち見て♡」

律は、観念したように陽葵を見た。

「……見てるよ」

「もっと♡」

「……近いって」

「だって――」

陽葵は、夫の手をぎゅっと握った。

「ダーリンが大好きなんだもん♡」

律は、少し困ったように笑ったあと、陽葵の頭を優しく撫でた。

「……俺もだよ」

その一言を、陽葵は胸の中に大切にしまい込んだ。

明日もきっと、朝が来る。

カーテンから光が差し込んで、隣には大好きな人がいて。

おはようと言って、いってらっしゃいと言って。

そして、夜になったら、おかえりと、おやすみを。

そんな日々が、ずっと続いていく。

陽葵は、ノートの最後に小さく書き添えた。

『今日の幸せ。

誰かに笑顔を届けたら、私にも笑顔が返ってきた。

大好きな人に話したら、もっと幸せになった。

だから明日も、いっぱい笑おう。

私の大切な人たちと、一緒に♡』

そして、ページの隅に、小さなハートを描いた。

――ダーリン♡こっち見て!

今日も、明日も。

何気ない毎日の中で、何度だって伝えたい。

大好きだよ。

ずっと、隣にいてね。

……ふふっ♡

おやすみ、ダーリン。

 第9節 五十年前の、ひだまり

秋の午後は、ゆっくりと色を変えていく。

昼間の賑わいが少しずつ落ち着き、商店街を吹き抜ける風にも、どこか涼しさが混じり始めた頃。

星野陽葵は、ブーランジュリーひだまりの店先で、最後のお客さんに紙袋を手渡していた。

「ありがとうございました。またお待ちしていますね!」

お客さんの背中が通りの向こうへ消えていく。

陽葵は空になったトレーを抱え、店内を振り返った。

「千尋ちゃん、こちらのトレー、洗ってきますね」

「ありがとうございます。あ、陽葵さん。今日、帰りにとよさんのお宅へ寄るんでしたよね?」

「あっ、そうだった!」

陽葵は、ぱっと顔を輝かせた。

「とよさんがね、昔の商店街の写真を見せてくださるって!」

「昔の商店街の写真ですか?」

「うん。昨日、お店の前でお会いしたときにお話ししたの。私、この街のことをもっと知りたいなって」

陽葵は、エプロンのポケットから小さなメモ帳を取り出した。

そこには、昨夜思いついた質問がいくつも書き込まれている。

『昔の商店街には、どんなお店があったの?』

『今と変わらない場所はどこ?』

『とよさんが若い頃、好きだったお店は?』

そして、最後のページには、少し大きな文字でこう書いてあった。

『ダーリンと、もっとこの街を好きになる!』

千尋は、その文字をちらりと見て、くすっと笑った。

「陽葵さんらしいですね」

「えへへ。だって、ダーリンと一緒に暮らしているこの街だもん。私にとっては、もう大切な場所なんだよ」

「じゃあ、いつか旦那さんと一緒に、とよさんから昔のお話を聞けたらいいですね」

「うん! ……あっ、でも、今日のお話を聞いたら、私、ダーリンにすぐ話したくなっちゃうかも」

「きっと、そうなると思います」

二人は顔を見合わせて笑った。

厨房からは、店主の溝口茂の声が飛んできた。

「おい、陽葵! トレーを洗うんじゃなかったのか!」

「あっ、すみません! 今やります!」

陽葵は慌ててトレーを持ち直し、洗い場へ向かった。

けれど、その胸の中では、すでに期待が膨らみ始めていた。

五十年前のひだまり商店街。

今と同じ場所に、どんな景色が広がっていたのだろう。

どんな人たちが、この道を歩いていたのだろう。

そして、とよさんは、どんな少女だったのだろう。

「……楽しみだなぁ♡」

陽葵は小さく呟いた。

今日もまた、この街の新しい一面に出会えそうな気がしていた。

*

閉店後。

陽葵は、店主の茂と千尋に挨拶を済ませると、商店街の通りへ出た。

西の空は、薄い茜色に染まっている。

八百屋の田中さんは店先の野菜を片づけ、魚屋の主人は氷の入った箱を洗っていた。金物屋のシャッターが、ゆっくりと降りていく。

いつもと変わらない夕方の景色。

けれど、陽葵の目には、昨日より少しだけ違って見えた。

ここに暮らす人たちは、今日まで何年も、何十年も、この街で同じように夕方を迎えてきたのだ。

嬉しい日も、悲しい日も。

忙しい日も、何もない日も。

それぞれの人生が、この通りのどこかに積み重なっている。

「……五十年前かぁ」

陽葵は、メモ帳を鞄にしまいながら呟いた。

自分が生まれるずっと前。

両親が今の自分と同じくらいの年齢だった頃。

もしかしたら、まだ見たこともない祖父母の若い頃と、同じ時代なのかもしれない。

そう考えると、少し不思議な気持ちになった。

通りの角を曲がると、立花ハイツの古い木造の建物が見えてきた。

その一階の奥に、大家である立花とよの住まいがある。

陽葵は玄関先で足を止め、姿勢を整えた。

「よし……!」

そして、引き戸を軽く叩く。

コン、コン。

「とよさーん。陽葵です。今、お時間大丈夫ですか?」

少し間を置いて、奥から声が返ってきた。

「おやおや、陽葵ちゃんかい。開いてるよ。入っておいで」

「はい、お邪魔します!」

陽葵は靴を脱ぎ、きちんと揃えてから、玄関を上がった。

廊下の奥から、煮物のような、どこか懐かしい匂いが漂ってくる。

とよの部屋は、古いながらもきれいに整えられていた。

木の柱には長い年月を感じさせる艶があり、窓辺には小さな鉢植えが並んでいる。壁際の棚には、昔ながらの陶器や、家族の写真が飾られていた。

「いらっしゃい。仕事、お疲れさまだったね」

座布団を用意してくれたとよが、穏やかな笑顔を向ける。

「ありがとうございます。お邪魔しますね」

「まあ、そんなにかしこまらなくてもいいんだよ。ここは、あんたの家みたいなもんなんだから」

「……とよさん」

陽葵は、胸がじんわり温かくなるのを感じた。

結婚して、このアパートに住み始めて半年。

とよは、顔を合わせればいつも声をかけてくれる。

ゴミ出しの日を教えてくれたり、近所の美味しいお店を紹介してくれたり、雨の日には洗濯物を気にしてくれたり。

その一つひとつが、陽葵にはありがたかった。

「今日はね、約束のものを出しておいたよ」

とよは、部屋の奥に置かれた小さな木箱を指差した。

「昔の商店街の写真だよ。ずいぶん古いものだけどね」

「わぁ……!」

陽葵の目が輝いた。

「本当に見せていただけるんですか?」

「もちろんさ。あんた、この街のことを知りたいって言ってただろう?」

「はい! もう、すっごく楽しみにしていました!」

「ふふっ。そんなに喜んでもらえるなら、押し入れから引っ張り出してきた甲斐があったねえ」

とよは、ゆっくりと木箱を開けた。

中には、古い封筒や、色褪せたアルバム、写真をまとめた紙束が大切に保管されていた。

陽葵は思わず身を乗り出した。

「……わあ」

そこには、まだ知らないひだまり商店街の時間が眠っていた。

*

「まずは、これを見てごらん」

とよが一枚の写真を取り出した。

白黒写真だった。

少しざらついた紙の表面に、商店街の通りが写っている。

写真の中央には、今よりもずっと低い建物が並び、店先には木製の看板が掲げられていた。

道の両側には自転車が何台も停められ、店の前で談笑する人々の姿が見える。

奥の方には、子どもたちが走っている姿もあった。

「……これが、ひだまり商店街?」

「そうだよ。今から五十年くらい前の写真だね」

陽葵は、写真を両手でそっと受け取った。

「すごい……。今と全然違うところもあるのに、同じところもありますね」

「ほう。どこだと思う?」

とよが、面白そうに尋ねる。

陽葵は写真を少し近づけ、目を凝らした。

「ええと……あっ、あそこ!」

指先で、写真の右側を示す。

「この角の建物。今、金物屋さんがある場所じゃありませんか?」

「おや、よく気づいたねえ」

「やっぱり!」

陽葵は嬉しそうに笑った。

「建物は違うみたいですけど、道の曲がり方が同じです。あと、奥にある大きな木も……今の八百屋さんの裏にある木に似ている気がします」

「そうそう。あの木はね、昔からあそこにあるんだよ。ずいぶん大きくなったけどね」

とよは懐かしそうに目を細めた。

「昔は、今よりもっと土の道が多くてね。雨が降ると、あちこちに水たまりができたものさ。子どもたちは長靴でバシャバシャ歩いて、母親たちに怒られていたよ」

「ふふっ。今も似たようなこと、ありますよね」

「そうだろう? 子どもってのは、いつの時代も変わらないんだよ」

とよは、くすくすと笑った。

陽葵も一緒に笑う。

五十年前の写真の中にいる子どもたちは、今の自分が商店街で見かける子どもたちと、きっと同じように走り回っていたのだろう。

帰り道に寄り道をして。

お菓子を買ってもらって。

友達と笑い合って。

そして、大人たちに叱られながら、少しずつ大きくなっていったのだ。

「……なんだか、不思議ですね」

陽葵が呟いた。

「何がだい?」

「写真の中の人たちも、今の私たちと同じように、毎日を過ごしていたんですよね。朝起きて、お店を開けて、誰かと話して、夕方になったら家に帰って……」

「そうだねえ」

「その頃は、きっと自分たちの暮らしが、何十年も先の人に見られるなんて思っていなかったでしょうね」

とよは、しばらく黙って写真を見つめていた。

「……そうかもしれないね」

そして、ゆっくりと頷いた。

「でも、こうして残っていると、何でもない一日が、ずいぶん大切なものに見えるんだよ」

その言葉が、陽葵の胸に静かに染み込んでいった。

何でもない一日。

今日、自分が過ごした一日も、いつか誰かにとって大切な記憶になるのだろうか。

そう思うと、急に、目の前の景色が愛おしくなった。

*

「これは、八百屋の田中さんのお父さんだね」

とよが、別の写真を差し出した。

そこには、若い男性が腕まくりをして、木箱に入った野菜を並べている姿が写っていた。

隣には、白い割烹着を着た女性が立っている。

「えっ! 田中さんのお父さんですか?」

「そうだよ。今の田中さんが子どもの頃から、あそこの八百屋はずっと家族でやっていたんだ」

「そうだったんですね……!」

陽葵は、思わず笑ってしまった。

「田中さん、今でも毎朝、あの場所で野菜を並べていますよね。お父さんと同じ場所に立っていたんだ……」

「人が変わっても、店が続いていく。そういう場所が、この商店街にはいくつもあったんだよ」

とよは、写真を一枚ずつめくりながら説明してくれた。

魚屋の前で、威勢よく魚を掲げる若い職人。

駄菓子屋の店先で、ガラス瓶に入った飴を眺める子どもたち。

金物屋の前で、ほうきを持って笑う女性。

今はなくなってしまった小さな映画館。

そして、商店街の真ん中で開かれた、秋祭りの写真。

「……あっ、これ!」

陽葵は、一枚の写真を見つけて声を上げた。

そこには、通りいっぱいに人が集まり、提灯を掲げた屋台が並ぶ光景が写っていた。

「お祭りですか?」

「そう。昔は、今よりもっと大きな祭りをやっていたんだよ」

「わあ……! すごい人!」

「商店街の人たちだけじゃなく、隣町からも大勢来てね。子どもたちは綿菓子を買って、大人たちは酒を飲んで、夜遅くまで賑やかだった」

「楽しそう……!」

陽葵は写真の隅々まで眺めた。

提灯の下で笑う人たち。

屋台の前に並ぶ子どもたち。

誰かに手を振っている女性。

その中に、ふと、見覚えのある顔を見つけた気がした。

「あれ……?」

「どうしたんだい?」

「この人……もしかして、とよさんですか?」

陽葵が指差したのは、写真の左端。

祭りの屋台から少し離れた場所に立つ、若い女性だった。

長い髪を後ろでまとめ、淡い色の着物を着ている。

横顔だったが、どこか今のとよに似ていた。

とよは写真を覗き込み、少し驚いたように眉を上げた。

「……おや。よく見つけたねえ」

「やっぱり!」

「そうだよ。これは、あたしが二十代の頃だね」

「わぁぁ……!」

陽葵は、目を輝かせた。

「とよさん、すっごく綺麗です!」

「やめとくれよ。もう、ずいぶん昔の話さ」

「本当です! 今も素敵ですけど、若い頃のとよさんも、とっても綺麗!」

「ふふっ。口が上手だねえ」

「上手じゃないです! 本当のことです!」

陽葵は、写真を大切そうに持ち直した。

「……なんだか、嬉しいです。とよさんの若い頃を見られて」

その言葉に、とよは少しだけ目を伏せた。

「……そうかい」

そして、静かに微笑んだ。

「若い頃の自分なんて、もうずいぶん遠い存在になってしまったと思っていたけれどね。こうして誰かに見てもらえると、あの頃の自分も、まだここにいるような気がするよ」

陽葵は、はっとした。

写真の中の女性は、今のとよとは違う。

でも、同じ人なのだ。

同じように笑い、悩み、誰かを大切に思い、毎日を過ごしてきた一人の女性。

今のとよの優しい笑顔の奥にも、きっと、まだ知らないたくさんの思い出が眠っている。

「……とよさん」

「ん?」

「私、もっと、とよさんのお話を聞きたいです」

陽葵は、まっすぐに顔を上げた。

「昔の商店街のことも、とよさんの若い頃のことも。楽しかったことも、嬉しかったことも……。よかったら、いろいろ教えてください」

とよは、しばらく陽葵を見つめていた。

やがて、ふっと笑った。

「……あんたは、本当に不思議な子だねえ」

「えっ?」

「普通は、年寄りの昔話なんて、退屈だと思うものだよ」

「そんなことありません!」

陽葵は、思わず身を乗り出した。

「だって、とよさんが過ごしてきた時間も、この街の大切な一部じゃないですか。私は、今のひだまり商店街が好きです。でも、昔のことを知ったら、もっと好きになれる気がするんです」

とよは、何も言わずに陽葵を見つめていた。

その目が、ほんの少しだけ潤んでいるように見えた。

「……ありがとうね、陽葵ちゃん」

「とよさん……?」

「そう言ってもらえると、嬉しいよ」

とよは、写真をそっとアルバムへ戻した。

「また今度、ゆっくり話してあげる。昔のことも、あたし自身のこともね」

「本当ですか!?」

「ああ。今日は、まだまだ写真があるからね」

「やったぁ!」

陽葵は、両手を胸の前で握った。

「楽しみです!」

その笑顔を見て、とよも、まるで少女に戻ったかのように笑った。

*

写真を眺めているうちに、いつの間にか外は薄暗くなっていた。

とよが温かいお茶を淹れてくれたので、陽葵は座布団の上で背筋を伸ばし、湯呑みを両手で包み込んだ。

「いただきます」

「熱いから、気をつけるんだよ」

「はい」

湯気の向こうに、とよの穏やかな顔が見える。

陽葵はお茶を一口飲み、ほっと息を吐いた。

「……美味しい」

「そうかい」

「なんだか、落ち着きますね。こうしてお茶を飲みながら、昔のお話を聞くのって」

「そうだろう。昔は、よく近所の人たちがこうして集まってね。お茶を飲みながら、あれこれ話したものさ」

「今も、そういう時間が残っているんですね」

「残っているところもあるし、なくなったところもあるねえ」

とよは、窓の外に目を向けた。

「昔は、どこの家も戸を開けていたんだよ。誰かが通れば、声をかける。困っている人がいれば、手を貸す。夕飯のおかずを作りすぎたら、お隣さんに分ける」

「……素敵ですね」

「もちろん、面倒なこともあったよ。人付き合いが濃すぎて、うるさいと思うこともあったし、噂話が広がるのも早かったからねえ」

とよは、いたずらっぽく笑った。

「だけど、困ったときに誰かが気づいてくれる。そういう安心感はあったね」

陽葵は、ゆっくりと頷いた。

今の時代は、便利になった。

スマートフォンがあれば、遠くの人ともすぐに連絡が取れる。必要なものは、家にいながら注文できる。知らないことも、すぐに調べられる。

それでも、近くにいる人と顔を合わせ、言葉を交わすことの温かさは、変わらないのかもしれない。

「……私、もっとご近所さんと仲良くなりたいです」

「おや、今でも十分仲良しじゃないか」

「そうですか?」

「ああ。八百屋の田中さんも、パン屋の茂さんも、あんたのことを気に入っているよ」

「……えへへ。そうだったら嬉しいです」

陽葵は湯呑みを置き、少し考え込んだ。

「ねえ、とよさん」

「何だい?」

「この商店街って、これからもずっと、このまま残っていくんでしょうか?」

何気なく尋ねたつもりだった。

けれど、とよの表情が、ほんのわずかに変わった。

笑顔は消えていない。

ただ、その目の奥に、何かを考えるような静けさが宿った。

「……どうして、そう思ったんだい?」

「えっと……」

陽葵は、少し言葉を探した。

「昔の写真を見ていたら、今はもうないお店もあったから。五十年の間に、街もずいぶん変わったんですよね」

「……そうだねえ」

「だから、これから先も、少しずつ変わっていくのかなって」

とよは、湯呑みを手に取った。

「街はね、変わっていくものだよ。人が歳を取るように、建物も古くなる。お店を続けられなくなる人もいるし、新しく始める人もいる」

「……はい」

「それでも、変わらずに残ってほしいものもあるんだよ」

とよは、静かに言った。

「この通りを歩けば、知っている人がいる。いつものお店で、いつもの人が迎えてくれる。そんな場所が残ってくれたら、嬉しいじゃないか」

陽葵は、胸の奥がきゅっと締めつけられるような気がした。

自分がこの街を好きになり始めたのは、まだ最近のことだ。

けれど、長く暮らしてきた人たちにとって、この商店街は、ただ買い物をする場所ではないのだろう。

家族との思い出があり、友人との思い出があり、働いてきた時間がある。

それぞれの人生が、この場所に結びついている。

「……私も、そう思います」

陽葵は、ゆっくりと顔を上げた。

「この街の、今の雰囲気が好きです。お店の人たちが声をかけてくれて、子どもたちが走り回っていて、夕方になると、みんなが帰っていく。そういう景色が、ずっと残ってほしいです」

とよは、目を細めた。

「……そうかい」

「もちろん、便利になったり、きれいになったりするのも大切だと思います。でも、今ここにある温かさまで、なくなってしまったら寂しいなって」

陽葵は、今日見せてもらった写真を思い出した。

五十年前の通り。

木の看板。

自転車。

笑顔の人々。

そして、若い頃のとよ。

写真の中の人たちは、もう多くがこの世にいないかもしれない。

お店だって、建物だって、変わってしまったものがたくさんある。

それでも、写真を通して伝わってくる温かさは、今の商店街にも確かに残っている気がした。

「……ねえ、とよさん」

「うん?」

「私、いつか、今日見せてもらった写真のことも、漫画に描いてみたいです」

「漫画?」

「はい。私、WEBでイラストエッセイを描いているんです。まだ、そんなに読んでくれる人はいないんですけど……」

陽葵は、少し照れくさそうに笑った。

「でも、今日のお話を聞いて、思ったんです。昔の商店街にも、今の商店街にも、きっと、たくさんの幸せがあるんだなって。そういうものを、絵にして残せたらいいなって」

とよは、驚いたように目を丸くした。

「……あんた、絵を描くのかい?」

「はい。趣味みたいなものですけど」

「そりゃあ、いいねえ」

とよは、嬉しそうに笑った。

「だったら、いつか、この街のことも描いておくれよ。あたしが覚えていることも、できるだけ話してあげるから」

「……本当ですか?」

「ああ。昔の写真も、まだまだあるからね」

「ありがとうございます!」

陽葵は、思わず頭を下げた。

その胸の中で、小さな夢が芽生え始めていた。

自分の大好きな人。

自分の大好きな街。

そして、そこに暮らす人たちの、何気ない毎日。

それらを絵にして、誰かに届けることができたら。

きっと、素敵なことに違いない。

*

帰り際、とよは木箱の中から、もう一枚の写真を取り出した。

「陽葵ちゃん。これも見ておくれ」

「はい?」

差し出された写真は、先ほどの商店街の写真よりも、少し古そうだった。

白黒の写真の中には、商店街の入り口に立つ若い女性が写っている。

その女性は、手に小さな紙袋を持っていた。

そして、その隣には、若い男性が立っている。

二人とも、どこか照れくさそうに笑っていた。

「……これは?」

陽葵が尋ねると、とよは写真を見つめたまま、ゆっくりと答えた。

「昔ね、この商店街で撮った写真だよ」

「お二人は……?」

「……大切な人とね」

とよの声は、いつもより少しだけ静かだった。

陽葵は、写真と、とよの横顔を交互に見つめた。

その表情には、懐かしさと、ほんの少しの寂しさが混じっているように見えた。

「……とよさんの、大切な人?」

「ああ」

とよは、写真の端をそっと撫でた。

「若い頃にはね、いろいろなことがあったんだよ。嬉しいことも、悲しいことも。今になって思えば、あの頃の自分は、ずいぶん不器用だったねえ」

陽葵は、何も言わずに耳を傾けた。

とよは、少しだけ笑った。

「……いつか、話してあげるよ」

「……はい」

「今夜は、もう遅いからね。あんたも旦那さんが帰ってくる頃だろう?」

その言葉に、陽葵の顔がぱっと明るくなった。

「あっ! そうでした!」

慌てて時計を見る。

「そろそろ帰らなきゃ!」

「ふふっ。あんたは、本当に旦那さんが大好きだねえ」

「……えへへ♡」

陽葵は、頬を赤くしながら笑った。

「だって、早く会いたいんですもん!」

「はいはい。わかったから、気をつけて帰るんだよ」

「はい! 今日は本当にありがとうございました!」

陽葵は、丁寧に頭を下げた。

「また、いろいろなお話を聞かせてくださいね」

「ああ。いつでもおいで」

とよは、玄関まで見送ってくれた。

陽葵が外へ出ると、秋の夜風が頬を撫でた。

商店街の通りには、店先の明かりがぽつぽつと灯り始めている。

陽葵は、ゆっくりと歩きながら、今日見せてもらった写真を思い返した。

五十年前の商店街。

若い頃のとよ。

そして、あの一枚の写真に写っていた、見知らぬ男性。

「……とよさんにも、大切な人がいたんだな」

当たり前のことなのに、なぜか胸に残った。

今のとよは、いつも優しくて、穏やかで、近所の人たちを気にかけてくれる大家さんだ。

でも、若い頃には、今とは違う毎日があった。

好きな人がいて。

会いたい人がいて。

言えなかった言葉があったのかもしれない。

陽葵は、ふと自分の左手を見た。

薬指には、結婚指輪が光っている。

「……ダーリン」

思わず、夫の名前を呼びたくなった。

今夜、律が帰ってきたら、今日見せてもらった写真の話をしよう。

五十年前の商店街のこと。

とよの若い頃のこと。

そして、街に暮らす人たちが積み重ねてきた時間のこと。

きっと律も、興味を持ってくれるだろう。

建築士である彼なら、昔の建物や街並みについて、もっと詳しいことを教えてくれるかもしれない。

そう考えるだけで、陽葵の足取りは軽くなった。

*

立花ハイツの階段を上がり、自分たちの部屋の前に着いたとき、陽葵は鞄から鍵を取り出そうとした。

その瞬間。

カチャリ。

内側から、ドアが開いた。

「……あっ」

目の前に、部屋着姿の律が立っていた。

「おかえり、陽葵」

「……ダーリン!」

陽葵の顔が、一瞬で明るくなった。

「ただいまーっ♡」

思わず抱きつこうとしたが、律の手には、まだ食器を拭いていたらしい布巾が握られていた。

「おっと。ちょっと待て。手を洗ってからな」

「あっ、そっか!」

陽葵は慌てて足を止めた。

「……えへへ。ごめんね」

「別にいいけど。どこに行ってたんだ?」

「とよさんのお部屋!」

「そうか。昔の商店街の写真を見せてもらうって言ってたな」

「そうなの! それがね、もう、すっごく素敵だったの!」

陽葵は、玄関に入るなり、今日見た写真の話を始めた。

五十年前の商店街。

今と変わらない道の曲がり方。

八百屋の田中さんのお父さん。

昔のお祭り。

そして、若い頃のとよの写真。

律は、上着をハンガーにかけながら、陽葵の話を聞いていた。

「……へえ。そんな古い写真が残ってるんだな」

「うん! 木の看板がいっぱいあってね、今とは全然違うのに、どこか同じ感じがするの。写真の中の人たちも、今の私たちと同じように、毎日を過ごしていたんだなって思ったら、なんだか不思議で……」

「そうだな」

律は、少し考えるように窓の外へ目を向けた。

「建物は変わっても、道や土地の形は残ることがあるからな。昔の写真があるなら、今の街と見比べてみるのも面白そうだ」

「でしょ!? ダーリンなら、そう言ってくれると思った!」

「……俺、まだ何も詳しいことは言ってないぞ」

「いいの! ダーリンが興味を持ってくれただけで嬉しいの♡」

律は、苦笑した。

「……そうか」

陽葵は、ふと思い出したように、夫の手を取った。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「私、この街のこと、もっと知りたいな」

律は、陽葵の顔を見つめた。

「昔のことも、今のことも。ここに暮らしている人たちのことも、もっと知りたい。だって、私たちがこれから暮らしていく場所だから」

陽葵は、にっこりと笑った。

「私ね、ダーリンと一緒に、この街でいっぱい思い出を作りたいの」

律は、少しだけ目を細めた。

「……そうだな」

そして、陽葵の手を握り返した。

「俺も、そう思うよ」

「……っ!」

陽葵の頬が、ぽっと赤くなった。

「……ダーリン」

「何だ?」

「こっち見て♡」

「……見てるよ」

「もっと♡」

「……近いって」

「だって、ダーリンが大好きなんだもん♡」

律は、とうとう笑い出した。

陽葵も、つられて笑った。

二人の笑い声が、部屋の中に広がっていく。

五十年前の商店街にも、こんなふうに笑い合う夫婦がいたのだろうか。

大切な人と手をつなぎ、何気ない会話を交わし、明日のことを話しながら、毎日を過ごしていた人たちが。

その人たちの笑顔は、もう写真の中にしか残っていないかもしれない。

それでも、その温かさは、今もこの街のどこかに息づいている。

陽葵は、律の手をぎゅっと握った。

「……ねえ、ダーリン」

「ん?」

「私たちも、五十年後に写真を見返したら、今日のことを思い出すのかな?」

律は少し驚いたように陽葵を見た。

「五十年後?」

「うん。ずーっと先の未来。おじいちゃんとおばあちゃんになって、今の写真を見ながら、『あの頃は若かったねえ』って笑うの」

「……そうだな」

「そのときも、私、ダーリンのことが大好きでいたいな」

陽葵は、照れくさそうに笑った。

「今みたいに、毎日おはようって言って、おかえりって言って、おやすみって言って。ずっと一緒に笑っていたい」

律は、しばらく黙っていた。

そして、陽葵の頭を優しく撫でた。

「……大丈夫だよ」

「……本当?」

「ああ。五十年後も、ちゃんと隣にいる」

その言葉を聞いた瞬間、陽葵の胸がいっぱいになった。

「……ダーリンっ!」

今度こそ、陽葵は夫に抱きついた。

「大好き! 大好き! だーい好きっ♡♡♡」

「……はいはい」

律は笑いながら、陽葵を抱きしめ返した。

窓の外では、秋の夜が静かに深まっていく。

五十年前の人たちが過ごした日々も、今日の二人が過ごしている日々も、きっと同じように、誰かを大切に思う気持ちでつながっている。

何気ない朝。

何気ない夕方。

何気ない会話。

そして、何度伝えても足りない「大好き」。

それらが少しずつ積み重なって、いつか、かけがえのない思い出になっていく。

陽葵は、律の胸に頬を寄せながら、そっと目を閉じた。

今日見た写真の中の、とよの若い頃の笑顔が、ふと思い浮かぶ。

あの写真に写っていた男性は、どんな人だったのだろう。

二人は、どんな言葉を交わしていたのだろう。

そして、なぜ、とよはあの写真を、今も大切に残しているのだろう。

まだ知らないことが、たくさんある。

でも、それを知ることができる時間は、これからも続いていく。

陽葵は、顔を上げた。

「……ねえ、ダーリン」

「今度は何だ?」

「明日も、一緒に朝ごはん食べようね♡」

律は、少し呆れたように笑った。

「……ああ。もちろん」

「約束だよ?」

「約束」

「……えへへ♡」

陽葵は、夫の手を握り直した。

明日も、明後日も。

ずっと先の未来も。

二人で歩いていく、この街の道。

その道の先には、まだ知らない思い出が、たくさん待っている。

そして、ひだまり商店街の片隅では、五十年前の写真が、静かに次の物語を待っていた。

――まだ語られていない、とよの大切な恋の記憶。

その秘密が明かされるのは、もう少し先のこと。

*

その夜。

律が先に寝室へ向かったあと、陽葵は机に座り、ノートを開いた。

今日見た写真のことを、忘れないうちに描いておきたかった。

最初のページには、五十年前の商店街の風景。

木の看板。

自転車。

店先で笑う人たち。

そして、若い頃のとよ。

陽葵は、写真を思い出しながら、ゆっくりとペンを走らせた。

最後に、小さな吹き出しを描く。

『何でもない一日が、いつか宝物になる』

その言葉を書き終えると、陽葵は満足そうに微笑んだ。

「……うん。これ、忘れないようにしよう」

ノートを閉じ、寝室へ向かう。

布団に入ると、律が眠そうな目でこちらを見た。

「……おかえり」

「ただいま、ダーリン♡」

「……もう寝るのか?」

「うん。ダーリンと一緒に寝るの!」

「……そうか」

陽葵は、律の隣に横になった。

そして、そっと手を伸ばす。

「……ダーリン?」

「ん?」

「今日も、ありがとう」

律は、少しだけ目を開けた。

「……何が?」

「一緒に暮らしてくれて。私の話を聞いてくれて。いつも、そばにいてくれて」

陽葵は、照れくさそうに笑った。

「……大好きだよ♡」

律は、しばらく陽葵を見つめていた。

そして、彼女の額にそっと唇を寄せた。

「……俺も。おやすみ、陽葵」

「……おやすみ、ダーリン♡」

部屋の明かりが消える。

静かな夜。

隣には、大好きな人の温もり。

陽葵は、幸せな気持ちに包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。

明日の朝も、きっと同じように言うのだろう。

カーテンの光が差し込んだら。

隣にいる大好きな人に。

「ダーリン……おはよう♡」

何度でも。

何年先も。

ずっと、ずっと。

 

 第10節 夕暮れ色に染まる街、そしてダーリンの横顔

秋の陽射しが、少しずつ柔らかくなってきた。

朝晩は肌寒さを感じるようになり、商店街を歩く人々の服装にも、薄手のカーディガンや長袖のシャツが増えている。

ひだまり商店街の入り口に立つ街灯には、小さな秋色の飾りが取り付けられていた。誰が飾ったのかは分からない。けれど、オレンジ色や赤色の葉っぱを模した飾りが風に揺れるたび、街全体が少しだけおしゃれをしているように見えた。

「うーん……秋って、なんだかいいなぁ♡」

パン屋さんの裏口から出てきた陽葵は、両手を背中に回し、思いきり伸びをした。

今日も一日、ブーランジュリーひだまりでのお仕事が終わった。

朝早くから生地をこね、焼き上がったパンを並べ、お客様に笑顔で声をかける。最初の頃は、何をするにも緊張していた。お客様の顔と名前を覚えるのも大変だったし、商店街の人たちが当たり前のように交わす会話についていけないこともあった。

けれど、今では違う。

「陽葵ちゃん、今日もお疲れさま!」

店の中から顔を出した千尋が、手を振ってくれた。

「千尋さんも、お疲れさまでした♡」

「帰り、気をつけてね。そうそう、明日は新作のかぼちゃパンを試食するから、感想を聞かせてね!」

「もちろんです! かぼちゃパン……絶対おいしいやつですね♡」

「ふふっ、陽葵ちゃんは本当に食べ物の話になると目が輝くね」

「だって、おいしいものは幸せですから!」

陽葵が胸を張ると、千尋は楽しそうに笑った。

「その調子で、明日もよろしくね」

「はいっ!」

元気よく返事をして、陽葵は店を後にした。

商店街の通りには、夕方ならではの活気が満ちていた。

八百屋さんの店先では、店主が今日のおすすめだという柿を並べている。魚屋さんからは、焼き魚の香ばしい匂いが漂ってきた。惣菜屋さんの前では、仕事帰りの人たちがコロッケを買い求めている。

自転車のベルが鳴り、子どもたちの笑い声が響き、店先のラジオからは懐かしい歌謡曲が流れていた。

何も特別なことは起きていない。

ただ、いつもと同じように人々が暮らし、働き、笑い合っているだけ。

それなのに、陽葵の胸は不思議なくらい温かかった。

「こんにちは、陽葵ちゃん!」

「あっ、八百屋の佐藤さん! こんにちは♡」

「今日は仕事帰りかい? ちょうどいいところに来たね。ほら、これ持っていきな!」

佐藤が店先から小さな袋を差し出した。

中には、赤く色づいたりんごが二つ入っていた。

「えっ、いいんですか?」

「もちろん。ちょっと傷があるけど、味は間違いないよ。新婚さんなんだから、旦那さんと仲良く食べな!」

「し、新婚さん……!」

陽葵の頬が、ぱっと赤く染まった。

「ありがとうございます! ダーリンと一緒にいただきます♡」

「ははは! 旦那さんにもよろしくな!」

袋を大切そうに抱え、陽葵はぺこりと頭を下げた。

少し歩くと、今度は惣菜屋の店主が声をかけてきた。

「陽葵ちゃん、今日はメンチカツがよく売れたよ!」

「わあ、すごいですね!」

「旦那さん、こういうの好きかい?」

「はいっ! ダーリンは、私が作ったごはんなら何でもおいしいって言ってくれます♡」

「あらあら、聞いてるこっちが恥ずかしくなっちゃうねぇ!」

「えへへ……♡」

照れ笑いを浮かべながら、陽葵は再び歩き出した。

以前の自分なら、こんなふうに気軽に声をかけることはできなかっただろう。

新しい街に引っ越してきたばかりの頃は、すれ違う人と目が合うだけでも、少し身構えてしまっていた。

知らない人ばかりの街。

どんな人が暮らしているのかも分からない。

自分がここに馴染めるのか、不安もあった。

けれど、今は。

パン屋さんの千尋。

いつも冗談を言って笑わせてくれる八百屋の佐藤。

元気な声で呼び止めてくれる惣菜屋のおばちゃん。

そして、昔の商店街の写真を見せてくれた、とよさん。

少しずつ、陽葵の中で、この街に暮らす人たちの顔がつながっていく。

ただの店先だった場所が、誰かの思い出が詰まった場所に変わっていく。

ただの道だった場所が、誰かと挨拶を交わす大切な場所になっていく。

「……なんだか、すごいなぁ」

陽葵は、りんごの入った袋を持ち直した。

「街って、建物だけでできているんじゃないんだね」

ふと、数日前にとよの部屋で見せてもらった写真が思い浮かんだ。

五十年前のひだまり商店街。

今より低い建物が並び、道の舗装も十分ではなかった頃。

写真の中には、店先で談笑する人たちや、自転車に乗る子どもたちの姿があった。

あの頃の人たちも、今の自分たちと同じように、夕方になると家へ帰り、ごはんを食べ、家族と話をしていたのだろう。

もしかしたら、写真に写っていた子どもたちの中には、今の商店街で店を営む人の父親や母親もいたのかもしれない。

そんなことを考えると、目の前に広がる景色が、今までとは少し違って見えた。

この街には、長い時間が積み重なっている。

笑った日も、泣いた日も。

誰かと出会った日も、別れた日も。

そして、何でもない日々も。

全部が、この街の中に残っているのかもしれない。

*

商店街の中央に差しかかった頃、陽葵は小さな人だかりを見つけた。

「あれ……?」

近づいてみると、古い街灯の下で、数人の子どもたちがしゃがみ込んでいた。

「どうしたの?」

陽葵が声をかけると、子どもたちの一人が顔を上げた。

「あっ、パン屋のお姉ちゃん!」

「こんにちは♡ 何しているの?」

「葉っぱを集めてるの!」

そう言って、女の子が両手を広げた。

手のひらには、赤や黄色に色づいた落ち葉が何枚も乗っていた。

「学校で、秋の飾りを作るんだ!」

「わあ、素敵! きれいな葉っぱがいっぱいだね」

「こっちの葉っぱもきれいだよ!」

男の子が、少し離れた植え込みのそばから、一枚の大きな葉っぱを拾い上げた。

「ほんとだ! 黄色と赤が混ざってるね。秋のグラデーションだぁ♡」

「ぐらでーしょん?」

「あっ、えっとね……色が少しずつ変わっていくことだよ」

「へえー!」

子どもたちは、目を輝かせながら葉っぱを見つめた。

陽葵もしゃがみ込み、一緒に葉っぱを探す。

「これなんか、絵にしたらかわいいかも!」

「お姉ちゃん、絵を描くの?」

「うん。実はね、イラストを描くのが好きなんだ」

「じゃあ、今度、僕たちの絵も描いてよ!」

「えっ、みんなの絵?」

「うん! みんなで葉っぱを集めてるところ!」

思いがけないお願いに、陽葵はぱちぱちと瞬きをした。

そして、にっこりと笑う。

「いいよ♡ 今度、みんなが葉っぱを集めているところを描いてみるね」

「やったー!」

子どもたちが歓声を上げた。

「でも、暗くなる前にお家に帰るんだよ?」

「はーい!」

「道を渡るときは、ちゃんと左右を見てね」

「はーい!」

元気いっぱいの返事に、陽葵は思わず笑ってしまった。

しばらく子どもたちと一緒に葉っぱを集めたあと、陽葵は立ち上がった。

「それじゃあ、お姉ちゃんは帰るね。またね♡」

「お姉ちゃん、バイバーイ!」

何人もの小さな手が振られる。

陽葵も手を振り返しながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

ほんの数分の出来事だった。

でも、その数分が、今日という一日を特別なものに変えてくれた。

「……ふふっ」

陽葵は、頬を緩めた。

「こういうの、好きだなぁ」

誰かと交わす何気ない会話。

小さな発見を一緒に喜ぶ時間。

何かをしてあげたら、笑顔が返ってくること。

そして、こちらが笑顔になれば、相手も笑顔になってくれること。

それは、特別な才能がなくても、誰にでもできる小さな魔法なのかもしれない。

*

商店街の奥へ進むと、古い時計店の前で、とよが店主と話している姿が見えた。

「あっ、とよさん!」

陽葵が声をかけると、とよは振り返った。

「あら、陽葵ちゃん。お仕事帰りかい?」

「はい! 今、パン屋さんのお仕事が終わったところです♡」

「そうかいそうかい。今日もよく頑張ったねぇ」

とよは、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。

「この前は、昔の写真を見せてくださってありがとうございました!」

「おや、そんなに喜んでもらえるとは思わなかったよ」

「もう、本当に素敵でした! 写真を見てから、商店街を歩くのがもっと楽しくなったんです」

「そうかい。それなら、写真も喜んでいるだろうねぇ」

「写真が喜ぶ……?」

「そうさ。誰にも見てもらえず、アルバムの中で眠っているより、誰かが見て、何かを感じてくれるほうがいいだろう?」

とよは、目を細めた。

「思い出っていうのはね、しまっておくだけじゃなくて、誰かに話したり、見せたりすることで、また新しい命が吹き込まれるものなんだよ」

「……新しい命」

陽葵は、その言葉をゆっくりと繰り返した。

写真に写っていた人たち。

今はもう、この世にいない人もいるかもしれない。

それでも、写真を見て、その人たちの暮らしに思いを馳せることはできる。

話を聞いて、想像することもできる。

そして、絵や文章にして残せば、まだ会ったことのない誰かにも伝えられる。

「私……もっと、この街のことを知りたいです」

陽葵は、自然と言葉にしていた。

「五十年前の商店街も、今の商店街も。ここで暮らしている人たちのことも、もっと知りたいです」

「ほう……」

とよは、少し驚いたように眉を上げた。

「それは、いいことだねぇ」

「私、絵を描くのが好きなので、いつか、この街のことを漫画にできたらいいなって思っているんです。もちろん、皆さんにお話を聞いてからですけど……」

「漫画かい。そりゃあ楽しみだ」

とよは、嬉しそうに笑った。

「私の昔話なんかでよければ、いつでも聞かせてあげるよ。思い出したことがあれば、またアルバムも見せてあげよう」

「本当ですか?」

「ああ。ただし、昔話は長いよ。覚悟しておくんだね」

「ふふっ、望むところです♡」

陽葵が胸を張ると、とよは声を立てて笑った。

「ははは! その元気があれば大丈夫そうだね」

時計店の店主も、微笑ましそうに二人を眺めていた。

そのとき、とよがふと、陽葵の持っている袋に目を留めた。

「おや、りんごかい?」

「はい。八百屋の佐藤さんからいただいたんです」

「そうかい。佐藤さんも相変わらずだねぇ」

「皆さん、本当に優しいんですね」

陽葵は、袋を胸元に抱えた。

「私、まだこの街に来てそんなに長くないのに、皆さんが気にかけてくださって……。なんだか、すごく嬉しいんです」

「それは、陽葵ちゃんがちゃんと人の顔を見て、挨拶をして、相手の話を聞いているからだよ」

「私が……?」

「ああ。人と人のつながりは、いきなり大きくなるものじゃない。毎日の小さな挨拶や、ちょっとした気遣い。そういうものが積み重なって、少しずつできていくんだ」

とよは、商店街の通りを見渡した。

「この街だって、最初から今の姿だったわけじゃない。誰かが店を開き、誰かが家を建て、子どもが生まれ、家族が増えて……。そうやって、少しずつ変わってきたんだよ」

「……そうなんですね」

「だからね、陽葵ちゃん。これからも焦らずに、この街で暮らしていけばいいんだよ」

優しい声だった。

陽葵は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

「ありがとうございます、とよさん」

「なんだい、改まって」

「えへへ……。なんだか、嬉しくなっちゃって♡」

「まったく、陽葵ちゃんは素直だねぇ」

とよは、陽葵の頭を軽く撫でた。

「じゃあ、気をつけて帰るんだよ。旦那さんが待っているんだろう?」

「はいっ! ダーリンが待ってます♡」

その言葉を口にした瞬間、陽葵の表情がぱっと明るくなった。

とよは、そんな陽葵を見て、目を細める。

「……本当に、幸せそうな顔をするねぇ」

「えっ?」

「何でもないよ。ほら、日が暮れる前にお帰り」

「はい! またお話を聞かせてくださいね!」

「ああ、いつでもおいで」

陽葵は深く頭を下げ、再び歩き出した。

その背中を、とよはしばらく見送っていた。

「……若いって、いいもんだねぇ」

小さな呟きは、夕暮れの風に溶けていった。

*

商店街の西側へ向かうにつれて、空の色が少しずつ変わり始めていた。

昼間の青空は、淡い橙色に染まり、建物の窓ガラスには夕陽が反射している。

店先の影は長く伸び、通りを歩く人たちの足元を優しく包み込んでいた。

陽葵は、ゆっくりと歩きながら、あたりを見回した。

夕方の商店街は、昼間とは違う顔を見せてくれる。

閉店の準備を始める店。

今日最後のお客様を迎える店。

仕事帰りに買い物をする人。

学校から帰ってきた子どもたち。

それぞれが、それぞれの時間を生きている。

そして、みんなが同じ街の中で、少しずつつながっている。

ふと、陽葵は足を止めた。

目の前には、商店街の入り口から続く道が、夕陽に照らされていた。

その道の向こうには、自分たちの住む家がある。

帰れば、律がいる。

いつも少しだけ照れくさそうな顔をして、けれど、ちゃんと自分を迎えてくれる大切な人。

仕事であったことを話せば、最後まで聞いてくれる。

嬉しいことがあれば、一緒に喜んでくれる。

失敗して落ち込んだときには、余計なことを言わず、そっと隣にいてくれる。

陽葵にとって、家は安心できる場所だった。

そして、今。

この商店街も、少しずつ、そんな場所になりつつある。

そう思った瞬間、胸の奥から、ひとつの言葉が自然と浮かび上がった。

「……この街のこと、大好きになってきたかも♡」

小さな声だった。

誰かに聞かせようとしたわけではない。

ただ、今の気持ちを、そっと言葉にしてみたかっただけ。

けれど、その言葉は、夕暮れの静かな通りに、思いのほかはっきりと響いた。

そして。

「……え?」

すぐ後ろから、聞き慣れた声がした。

陽葵は、驚いて振り返った。

「……ダーリン?」

そこに立っていたのは、律だった。

いつもの仕事帰りの服装で、肩には鞄を掛けている。

どうやら、ちょうど帰宅途中だったらしい。

「あっ、ダーリン! お仕事お疲れさま♡」

陽葵の顔が、ぱっと明るくなった。

「こんなところで会えるなんて、すごい偶然!」

「ああ……お疲れさま」

律は、いつものように答えた。

けれど、その表情は、どこかいつもと違っていた。

笑っていないわけではない。

怒っているようにも見えない。

ただ、ほんの一瞬。

陽葵の言葉を聞いたとき、何かを考え込むような、複雑な表情を浮かべたのだ。

それは、夕陽の影に紛れてしまいそうなほど、わずかな変化だった。

陽葵は、気づかなかった。

「ねえねえ、ダーリン! 今日ね、いろんなことがあったんだよ!」

「ああ、そうなのか」

「うん! まずね、八百屋の佐藤さんからりんごをいただいたの。それから、商店街の子どもたちと落ち葉を集めてね。今度、みんなが葉っぱを集めているところを絵に描いてあげる約束をしたんだ♡」

「……そうか」

「それから、とよさんにも会ったの! 昔の写真を見せてもらったお礼を言ったら、またいろんなお話を聞かせてくれるって!」

陽葵は、今日あった出来事を、ひとつひとつ丁寧に話していった。

話したいことが、たくさんあった。

どれも小さな出来事ばかりなのに、誰かに伝えたくて仕方がなかった。

「それでね、それでね……」

陽葵は、律の顔を覗き込んだ。

「私、この街のこと、もっと知りたいなって思ったの!」

「……この街を?」

「うん!」

陽葵は、満面の笑みで頷いた。

「だって、知れば知るほど、素敵なところがいっぱい見つかるんだもん。お店の人たちも優しいし、子どもたちもかわいいし、とよさんのお話も面白いし……。昔の写真を見たら、この街がずっと続いてきたことも分かったし!」

「……」

「最初はね、知らない街だから、ちょっと不安だったんだ。でも、今は違うよ」

陽葵は、夕暮れの商店街を振り返った。

店先に灯りがともり始めている。

橙色の光が、通りのあちこちに広がっていた。

「ここには、いろんな人の暮らしがあって、思い出があって、笑顔があるんだよね」

そう言って、陽葵は律に向き直った。

「だからね……」

そして、少し照れくさそうに笑った。

「この街のこと、大好きになってきたかも♡」

今度は、先ほどよりもはっきりとした声だった。

律は、陽葵を見つめていた。

その目の奥に、何かが揺れている。

喜びなのか。

戸惑いなのか。

それとも、陽葵にはまだ分からない、別の感情なのか。

律は、すぐには答えなかった。

ほんの数秒の沈黙。

いつもなら、陽葵が「ダーリン、聞いてる?」と笑いながら袖を引っ張るくらいの、短い時間。

けれど、その沈黙は、夕暮れの空気の中で、妙に長く感じられた。

「……そうか」

ようやく、律が口を開いた。

「いい街だよな、ここは」

穏やかな声だった。

いつもと同じ、優しい声。

けれど、その表情には、まだ消えない影が残っていた。

「……ダーリン?」

陽葵は、小さく首を傾げた。

「どうかした?」

「いや。何でもないよ」

律は、そう言って微笑んだ。

その笑顔は、確かに優しかった。

けれど、陽葵は、なぜだか胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。

何かを聞きそびれているような。

何かを見落としているような。

そんな、言葉にならない感覚。

それでも、陽葵はすぐに笑顔を取り戻した。

「そっか! じゃあ、帰ろう、ダーリン♡」

「ああ、帰ろう」

律が手を差し出す。

陽葵は、嬉しそうにその手を取った。

指先が触れ合い、自然と手が重なる。

何度も繰り返してきた、いつもの仕草。

けれど、今日は少しだけ違って感じられた。

「えへへ……♡」

陽葵は、律の腕にそっと寄り添った。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「今日ね、商店街を歩いていたら、いろんな人に声をかけてもらったの」

「そうか」

「うん。最初は知らない人ばかりだったのに、今は少しずつ顔を覚えてもらえているみたいで……。なんだか、嬉しいんだ」

「……よかったな」

「うん!」

陽葵は、頬を緩めた。

「私ね、これからもっと、この街のことを知りたいな」

律の歩みが、ほんのわずかに遅くなった。

「……もっと、か」

「うん。お店の人たちのことも、昔の商店街のことも。できれば、みんなの思い出を絵にして残せたらいいなって思うの」

「絵にして……残す?」

「そう! だって、今のこの景色だって、いつか昔の景色になるんだよね?」

陽葵は、夕陽に染まった店先を見つめた。

「今日のことも、明日になれば昨日のことになるでしょう? でも、絵に描いたり、文章にしたりすれば、あとから見返すことができる。今日ここで笑っていた人たちのことも、いつか誰かに伝えられるかもしれない」

律は、何も言わずに聞いていた。

「とよさんが見せてくれた写真を見て、そう思ったの。五十年前の人たちのこと、私は誰も知らないけれど……写真を見たら、なんだか急に身近に感じられたんだよ」

「……」

「だから、私も残してみたいなって。今の商店街のことを」

陽葵は、少し恥ずかしそうに笑った。

「まだ、何も決めてないんだけどね。私の描く絵なんて、たいしたものじゃないし……」

「そんなことないだろ」

律が、静かに言った。

「陽葵の絵には、陽葵が見ているものが描かれるんだから」

「……ダーリン」

「同じ景色を見ていても、何を感じるかは人それぞれだ。陽葵が見つけたものを、陽葵の言葉や絵で残せばいいんじゃないか」

その言葉に、陽葵の目が輝いた。

「……うん!」

嬉しそうに、何度も頷く。

「そうだよね! 私にしか描けないものがあるかもしれないよね!」

「ああ」

「ありがとう、ダーリン♡」

陽葵は、ぎゅっと律の腕に抱きついた。

「やっぱり、ダーリンは私のことをよく分かってくれるね!」

「……そうかな」

「そうだよ! 大好き!」

迷いのない言葉だった。

その瞬間、律の表情がわずかに揺れた。

陽葵の言葉を、まっすぐ受け止めようとするように。

けれど同時に、その言葉の奥にある何かを、恐れているようにも見えた。

律は、陽葵の手を握り直した。

「……俺も、大切に思っているよ」

「えへへ……♡」

陽葵は、幸せそうに笑った。

その言葉だけで、胸がいっぱいになった。

けれど、律の視線は、陽葵の向こう側にある商店街へと向けられていた。

夕陽に照らされた古い看板。

軒先に吊るされた小さな飾り。

通りの奥へ続く、見慣れた道。

そこにあるものを、ひとつひとつ確かめるように見つめていた。

まるで、何かを思い出しているかのように。

あるいは、何かを思い出さないようにしているかのように。

*

家に帰ると、陽葵はさっそく夕食の準備を始めた。

「今日はね、いただいたりんごを使って、デザートも作ろうと思うの♡」

「りんごのデザート?」

「うん! 簡単な焼きりんごにしようかな。シナモンを少し入れて、最後にはちみつをかけるの!」

「それは、おいしそうだな」

「でしょう? ダーリン、楽しみにしててね♡」

陽葵は、鼻歌を歌いながら台所に立った。

りんごを洗い、包丁で切り分ける。

フライパンを温め、バターを溶かすと、甘い香りがふわりと広がった。

その間に、夕食のおかずを用意する。

特別に豪華な料理ではない。

けれど、二人で食べる夕食だからこそ、少しでもおいしくしたい。

陽葵は、そんな気持ちを込めながら、ひとつひとつ丁寧に準備していった。

その様子を、律はダイニングから眺めていた。

陽葵は楽しそうだった。

今日あった出来事を思い出しては、時折ひとりで笑っている。

商店街の人たちの言葉。

子どもたちの笑顔。

とよの優しい声。

その一つひとつが、陽葵にとって大切なものになり始めている。

律は、静かに目を伏せた。

陽葵がこの街を好きになること。

この街での暮らしを楽しむこと。

それ自体は、喜ばしいことのはずだった。

けれど、陽葵が街に馴染んでいく姿を見ていると、なぜか胸の奥がざわつく。

彼女が、この街のことをもっと知りたいと言ったとき。

昔の商店街の思い出を、絵にして残したいと言ったとき。

そして、あの言葉を口にしたとき。

――この街のこと、大好きになってきたかも。

律は、あの瞬間の自分の気持ちを、うまく説明できなかった。

嬉しいはずなのに。

陽葵が笑ってくれることは、何よりも嬉しいはずなのに。

それなのに、心のどこかに、小さな不安が生まれてしまった。

「……律?」

不意に声をかけられ、律は顔を上げた。

陽葵が、キッチンからこちらを見ている。

「どうしたの? さっきから、ずっと考えごとしているみたいだけど……」

「ああ、いや。仕事のことを少し考えていただけだよ」

「お仕事?」

「うん。ちょっと、設計のことでね」

「そっか……」

陽葵は、少し心配そうな表情を浮かべた。

「無理しないでね、ダーリン。疲れているなら、今日は早めに休もう?」

「ありがとう。大丈夫だよ」

「本当に?」

「ああ」

律は、できるだけ自然に笑った。

陽葵は、しばらくその顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。

「……分かった♡」

そして、再びキッチンへ戻っていった。

フライパンの上で、りんごがじゅうじゅうと音を立てている。

甘い香りが、部屋いっぱいに広がった。

律は、その香りを感じながら、もう一度、窓の外を見た。

空は、すっかり夕暮れ色に染まっていた。

*

「ダーリン、お待たせしましたー♡」

夕食の準備が整うと、陽葵は両手に皿を持って、ダイニングテーブルへやってきた。

「今日のメニューは、きのこの炊き込みごはんと、秋鮭のホイル焼き、それから根菜のお味噌汁です!」

「おお、秋らしいな」

「えへへ♡ 秋はおいしいものがいっぱいだからね!」

テーブルには、湯気の立つ料理が並んでいた。

炊き込みごはんからは、きのこの香りが漂っている。

ホイル焼きには、鮭と一緒に玉ねぎやしめじが入っていた。

お味噌汁には、大根とにんじん、里芋がたっぷり入っている。

どれも、陽葵が今日一日を思い返しながら作った料理だった。

「いただきます♡」

「いただきます」

二人は手を合わせ、食事を始めた。

「うん、おいしい」

律が炊き込みごはんを口に運び、頷いた。

「本当? よかったぁ!」

陽葵は嬉しそうに笑った。

「今日ね、八百屋さんで新しいきのこが入っていたのを見たから、使ってみたんだ」

「そうだったのか」

「うん。商店街を歩いていると、いろんなものが目に入るようになってきたんだよね。前だったら、買い物をする場所としてしか見ていなかったけど、今は、店先に並んでいるものにも、それぞれ理由があるんだなって思うの」

「理由?」

「うん。たとえば、八百屋さんの野菜。季節によって並ぶものが変わるでしょう? それに、店主さんが今日は何がおいしいか教えてくれる。魚屋さんだって、旬の魚を教えてくれるし……」

陽葵は、箸を置いて身振りを交えながら話した。

「そういう小さなことを知るだけでも、街の見え方って変わるんだね!」

「……そうだな」

律は、ゆっくりと頷いた。

「建物も同じかもしれない」

「建物?」

「その建物がいつ建てられたのか、誰が設計したのか、どんな人が使ってきたのか。それを知ると、ただの建物だったものが、少し違って見えることがある」

「あっ! とよさんの写真も、まさにそうだったよ!」

陽葵は、ぱっと顔を上げた。

「五十年前の写真を見たら、今の商店街の景色とつながっている部分があったの。道の曲がり方とか、木の位置とか……。昔の人たちが、今と同じ場所で暮らしていたんだって思うと、不思議な気持ちになったんだ」

「……」

「だからね、私、これからもいろいろ調べてみたいな。昔の写真と今の景色を比べたり、商店街の人たちに昔の話を聞いたりして……」

陽葵は、夢を語るように目を輝かせた。

「いつか、商店街の人たちにも見てもらえるような作品にできたらいいなぁ♡」

「……そうか」

律は、静かに答えた。

その返事を聞いて、陽葵は少しだけ首を傾げた。

「ダーリンは……どう思う?」

「え?」

「私が、この街のことを作品にするの」

陽葵は、少しだけ不安そうに笑った。

「もちろん、まだ思いついたばかりだし、ちゃんとできるか分からないんだけど……。ダーリンは、どう思う?」

律は、陽葵の顔を見つめた。

真剣な目だった。

自分の気持ちを聞いてほしい。

自分が見つけたものを、一緒に喜んでほしい。

そんな願いが、その瞳の中にあった。

律は、ゆっくりと息を吸った。

「……陽葵がやりたいと思うなら、やってみたらいいと思う」

「……本当?」

「ああ。陽葵がこの街で見つけたものを、陽葵の目線で描けばいい。きっと、誰かに伝わるものがあると思う」

その言葉を聞いた瞬間、陽葵の表情がぱっと明るくなった。

「……ありがとう、ダーリン♡」

嬉しそうに笑う。

「やっぱり、相談してよかった!」

「……うん」

律は、笑顔を返した。

けれど、心の中には、まだ言葉にできないものが残っていた。

陽葵がこの街に深く馴染んでいくこと。

この街の人たちの思い出に触れていくこと。

それが、いつか何かを変えてしまうのではないか。

そんな考えが、頭の片隅から離れなかった。

けれど、その理由を、今の律はまだ口にすることができなかった。

*

夕食のあと、陽葵は約束どおり、焼きりんごを用意した。

温めた皿に盛りつけた焼きりんごには、ほんの少しのシナモンとはちみつがかかっている。

バターの香りと、りんごの甘酸っぱい香りが混ざり合い、食欲をそそった。

「じゃじゃーん♡ 秋の特製デザートです!」

「おお、これは本格的だな」

「ふふっ。佐藤さんのりんごだからね。ちゃんとおいしく食べなきゃ!」

陽葵はスプーンを手に取り、律の隣に座った。

「はい、ダーリン。あーん♡」

「……え?」

「えへへ♡ あーん!」

律は少しだけ戸惑ったものの、差し出されたスプーンを口に運んだ。

「……おいしい」

「本当?」

「ああ。甘さもちょうどいい」

「やったぁ♡」

陽葵は、満足そうに笑った。

「じゃあ、次は私の番!」

自分の分をひと口食べると、頬に手を当てた。

「んーっ! おいしい! 秋って最高!」

「大げさだな」

「大げさじゃないよ! おいしいものがあって、優しい人たちがいて、帰ったらダーリンがいて……。私、すっごく幸せだもん♡」

陽葵は、何のためらいもなく言った。

その言葉を聞いて、律の手が止まった。

陽葵は、そんなことには気づかず、続けた。

「これから、もっと楽しいことが増えるといいな。商店街の皆さんと仲良くなって、いろんな思い出を作って……。いつか、今日のことを振り返ったら、きっと懐かしくなるんだろうね」

「……今日のことを?」

「うん!」

陽葵は、嬉しそうに頷いた。

「今日、ダーリンと夕暮れの商店街を歩いたことも。みんなと話したことも。焼きりんごを一緒に食べたことも。全部、いつか懐かしい思い出になるんだよね」

そして、そっと律の肩に寄りかかった。

「だから、今を大切にしたいなって思うの」

律は、しばらく何も言わなかった。

陽葵の髪が、肩に触れている。

その温もりは、いつもと変わらない。

けれど、律の胸の奥には、言葉にできない複雑な思いが渦巻いていた。

今を大切にする。

それは、誰もが当たり前のように口にする言葉かもしれない。

でも、当たり前の日々が、いつまでも続くとは限らない。

街も、人も、思い出も。

少しずつ変わっていく。

その変化を受け入れることができる人もいれば、受け入れられない人もいる。

律は、陽葵の横顔を見つめた。

無邪気に笑う、その顔。

街の人たちの話を楽しそうにする、その声。

何かを見つけるたび、目を輝かせる、その姿。

そのすべてが、愛おしかった。

だからこそ。

その笑顔を曇らせるようなことは、したくなかった。

けれど、いつかは。

いつか、話さなければならないことがあるのかもしれない。

「……ダーリン?」

陽葵が顔を上げた。

「また、考えごと?」

「……いや」

律は、ゆっくりと首を振った。

「陽葵と一緒にいられて、幸せだなと思っていたんだ」

「……っ!」

陽葵の頬が、一瞬で赤くなった。

「も、もう……! ダーリンったら、急にそんなこと言うんだから……♡」

「本当のことだよ」

「……大好き!」

陽葵は、律の腕にぎゅっと抱きついた。

「私も、ダーリンと一緒にいられて幸せ♡」

その声は、少しだけ甘えていた。

律は、そっと陽葵の頭を撫でた。

「……俺もだよ」

今は、それだけを伝えたかった。

*

夜。

お風呂を済ませた陽葵は、寝室の小さな机に向かっていた。

机の上には、愛用のノートとペン、そして今日商店街で拾った落ち葉が数枚並んでいる。

陽葵は、ノートを開いた。

そこには、これまでの日々の出来事が、少しずつ書き留められていた。

パン屋さんで初めて失敗した日のこと。

商店街の人たちに名前を覚えてもらえた日のこと。

子どもたちから手作りのパンをもらった日のこと。

そして、とよの部屋で五十年前の写真を見せてもらった日のこと。

読み返すたび、胸の奥が温かくなる。

「……今日は、何を書こうかな」

陽葵はペンを持ち、しばらく考えた。

そして、ゆっくりと文字を書き始めた。

『今日のひだまり商店街は、夕暮れ色に染まっていました。

八百屋の佐藤さんから、りんごを二ついただきました。

子どもたちと一緒に、落ち葉を集めました。

とよさんに会って、また昔の話を聞かせてもらえることになりました。

商店街の人たちと話すたび、この街のことを少しずつ知っていく気がします。

最初は知らない場所だったのに、今では、歩いているだけで楽しい。

店先の灯りも、道を歩く人たちの声も、どこか懐かしく感じられます。

この街には、たくさんの思い出が積み重なっている。

そして、私も今、その中のひとりになろうとしているのかもしれません。

今日、私は思いました。

――この街のこと、大好きになってきたかも♡』

そこまで書いて、陽葵はペンを止めた。

「……えへへ」

自分で書いた言葉を読み返し、思わず笑ってしまう。

「なんだか、恥ずかしいなぁ……♡」

けれど、消すつもりはなかった。

今の自分の、正直な気持ちだから。

陽葵はノートの隅に、小さなイラストを描き足した。

夕陽に照らされた商店街。

店先に立つ人たち。

落ち葉を集める子どもたち。

そして、手をつないで歩く二人の後ろ姿。

律の隣にいる自分は、どんな顔をしているだろう。

きっと、いつものように笑っている。

そう思うと、自然とペン先が動いた。

最後に、小さなハートマークをひとつ描き添える。

「……よしっ!」

陽葵は満足そうに頷き、ノートを閉じた。

そのとき、背後から声がした。

「何を書いていたんだ?」

「あっ、ダーリン♡」

振り返ると、律が寝室の入り口に立っていた。

「今日のことを、ノートに書いていたの」

「そうか」

「うん! いつか、このノートを読み返したら、今日のことを思い出せるでしょう?」

陽葵はノートを胸に抱えた。

「だから、忘れたくないことを残しておきたいんだ」

「……忘れたくないこと、か」

律は、静かに呟いた。

「そう! 楽しかったことも、嬉しかったことも、ちょっと失敗しちゃったことも。全部、私の大切な思い出だから♡」

陽葵は、にっこりと笑った。

「それにね、いつかダーリンと一緒に読み返したいの!」

「俺と?」

「うん! 何年も経ってから、二人で『あの頃はこんなことがあったね』って笑うの。きっと楽しいよ!」

陽葵は、未来を想像するように目を細めた。

「その頃には、商店街のお店の人たちとも、もっと仲良くなっているかもしれないね。とよさんから、もっとたくさんのお話を聞いているかもしれないし……」

そして、律の手を取った。

「ねえ、ダーリン。これからも、いっぱい思い出を作ろうね♡」

律は、その手を見つめた。

陽葵の指先は、温かかった。

その手を握り返す。

「……ああ」

静かな返事だった。

陽葵は、安心したように微笑んだ。

「約束だよ?」

「……約束だ」

律は、そう答えた。

けれど、その言葉のあと、ほんの一瞬だけ、視線を落とした。

陽葵には見えない角度で。

その表情に浮かんだものが何だったのか。

迷いなのか。

後悔なのか。

それとも、まだ誰にも話していない秘密なのか。

今は、まだ分からない。

*

寝る前、二人は並んでベッドに入った。

窓の外からは、遠くを走る車の音が聞こえてくる。

カーテンの隙間から、街灯の淡い光が差し込んでいた。

陽葵は、律のほうへ身体を向けた。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「今日も、楽しかったね♡」

「ああ。楽しかったな」

「明日も、楽しい日になるといいな」

「……そうだな」

陽葵は、そっと律の手を握った。

「おやすみ、ダーリン。大好きだよ♡」

「……おやすみ、陽葵」

律は、陽葵の額にそっと口づけた。

陽葵は幸せそうに目を閉じた。

やがて、規則正しい寝息が聞こえ始める。

律は、しばらくその寝顔を見つめていた。

穏やかな表情。

安心しきったような寝顔。

この家で過ごす時間を、心から楽しんでくれている。

それが分かるからこそ、律は胸の奥にある思いを、簡単には言葉にできなかった。

今日、陽葵が口にした言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

――この街のこと、大好きになってきたかも。

陽葵にとって、この街は、これから思い出を重ねていく場所なのだろう。

出会いがあり、笑顔があり、知らなかった過去に触れることができる場所。

そして、いつか自分たちの暮らしを振り返ったとき、懐かしく思い出す場所。

律にとっても、この街は大切な場所だった。

けれど、その大切さの意味は、陽葵が思っているものと同じなのだろうか。

律は、窓の外へ目を向けた。

夜の商店街は、静かに眠りについている。

昼間の賑わいが嘘のように、道には人影がない。

街灯の光だけが、いつもの道を照らしていた。

その景色を見つめながら、律は小さく息を吐いた。

「……陽葵」

眠っている妻の名前を、そっと呼ぶ。

返事はない。

律は、もう一度、陽葵の顔を見つめた。

その表情には、先ほどまでの複雑な影はなかった。

ただ、優しい眼差しだけが残っていた。

「……ごめんな」

誰に向けた言葉なのか。

何に対する謝罪なのか。

その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。

律は、陽葵の手をそっと握り直した。

そして、静かに目を閉じた。

*

翌朝。

陽葵は、いつもより少し早く目を覚ました。

カーテンの向こうから、淡い朝日が差し込んでいる。

「……んん……」

ゆっくりと身体を起こし、隣を見る。

律は、まだ眠っていた。

「……ふふっ♡」

陽葵は、そっと笑った。

寝ているときのダーリンは、いつもより少し幼く見える。

普段は落ち着いていて、何でも冷静に考えているように見えるのに、眠っているときは、どこか無防備だ。

そんな姿を見ると、つい頬が緩んでしまう。

「ダーリン♡ こっち見て!」

小さな声で呼びかけてみる。

もちろん、律は目を覚まさない。

「……あははっ。まだ寝てるかぁ♡」

陽葵は、そっと布団を抜け出した。

今日も、ひだまり商店街には新しい一日がやってくる。

パン屋さんでは、焼きたてのパンが並ぶだろう。

八百屋さんでは、旬の野菜が店先に並ぶだろう。

子どもたちは学校へ向かい、店主たちはそれぞれの仕事を始めるだろう。

そして、陽葵もまた、その街の一員として、一日を過ごしていく。

まだ知らないことが、たくさんある。

まだ出会っていない人も、たくさんいる。

まだ聞いていない思い出も、きっとたくさんある。

陽葵は、窓の外に広がる空を見上げた。

「……今日も、素敵な一日になりますように♡」

その笑顔は、朝の光の中で、ひだまりのように輝いていた。

けれど。

陽葵が少しずつこの街を好きになっていく一方で、律の胸の中には、まだ誰にも話していない思いが残っていた。

彼が見せた、あの複雑な表情。

あの沈黙。

そして、誰にも聞かれないように呟いた、あの言葉。

それらが何を意味しているのか。

今はまだ、陽葵も知らない。

夕暮れ色に染まった商店街の向こう側で、二人の暮らしは、少しずつ新しい季節へと進み始めていた。

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