オリジナル小説 恋愛

ダーリン♡こっち見て! ――新妻ひまりの恋する日常記 ――第2章

ダーリン♡こっち見て! ――新妻ひまりの恋する日常記 ――第2章

イメージ曲💕「ダーリン♡こっち見て!」

曲調
ジャンル:キュート・アイドルポップ × City Pop × Funky Pop
テンポ:BPM 124(軽快で跳ねる、恋する日常感)
キー:Gメジャー(明るく甘く、幸福感のある響き)
ビート:4/4、軽快なポップビート+ファンキーな16ビート
編成:エレキギターのカッティング、シンセ、エレピ、ベース、ドラム、タンバリン、クラップ、軽いストリングス
雰囲気:日常×恋人感×甘々×ちょっと照れくさい可愛さ


🎵 歌詞構成
[Intro]

[Whispery][Cute][Playful]

ダーリン……
おはよう♡

……まだ眠いの?

ふふっ♡
ダーリン、こっち見て♡

[Verse 1]

[Soft][Sweet][Conversational]

朝のカーテン 開けたら
まぶしい光が 差し込んで

寝ぐせのままの その顔に
今日もキュンって しちゃうんだ♡

「コーヒー飲む?」
「パン焼くね」
そんな毎日が 嬉しくて

特別じゃない 時間ほど
君となら 宝物♡

[Pre-Chorus]

[Playful][Build-Up][Heartwarming]

ダーリン ねぇダーリン
聞いてほしいことがあるの

……なんて言おうかな?
やっぱり これしかない♡

[Chorus 1]

[Bright][Cute][Bouncy][Sweet]

ダーリン こっち見て♡
ダーリン こっちこっち♡
目が合っただけなのに
胸がドキドキしちゃうの♡

ダーリン 手をつないで♡
ダーリン もっと近く♡
今日も明日も その先も
ずーっと隣にいてね♡

ダーリン ダーリン
だーい好き♡
ねぇねぇ もう一回言わせて?

ダーリン♡

[Verse 2]

[Playful][Groovy][Romantic]

テレビを見てる 横顔を
こっそり見つめて にやけちゃう

お菓子を半分 分けるとき
大きいほうを くれる君♡

「ありがとう」って 言ったあと
ちょっとだけ 肩にもたれて

何気ないこの瞬間が
私には 恋なんだ♡

[Pre-Chorus 2]

[More Emotional][Build-Up][Playful]

ダーリン ねぇダーリン
名前を呼ぶだけで

なんだか心が
ふわっと あったかくなる♡

[Chorus 2]

[More Energetic][Sweet][Joyful][Bouncy]

ダーリン おいで♡
ダーリン こっちだよ♡
たったそれだけなのに
世界がキラキラしちゃう♡

ダーリン ぎゅってして♡
ダーリン 離さないで♡
ケンカしたって 笑ったって
最後は仲直りしよう♡

ダーリン ダーリン
大好きだよ♡
何回言っても 足りないくらい

ダーリン♡
だーい好き♡

[Bridge]

[Intimate][Warm][Emotional]

もしも歳を重ねても
今みたいに笑っていたい

朝になったら
「おはよう」って言って

夜になったら
「おやすみ」って言って

当たり前みたいに
君の隣にいたい

……ねぇ、ダーリン。

これからも
よろしくね♡

[Break]

[Whisper][Playful][Spoken]

「ダーリン?」

「なぁに?」

「こっち見て♡」

「見てるよ」

「もっと♡」

「……近いって(笑)」

「だって――」

[Soft Whisper]

「ダーリンが大好きなんだもん♡」

[Final Chorus]

[Powerful][Bright][Ecstatic][Full Harmony]

ダーリン おはよう♡
ダーリン こっち見て♡
ダーリン こっちこっち♡
今日も一緒に笑おうよ♡

ダーリン 手をつないで♡
ダーリン ぎゅってして♡
嬉しい日も 泣きたい日も
ずっと隣にいるから♡

ダーリン ダーリン
だーい好き♡
何回だって伝えたい

ダーリン ダーリン
愛してる♡
……ちょっと照れるけど♡

ダーリン!
ダーリン!
ダーリン!

だーーーい好き♡♡♡

[Outro]

[Soft][Breathy][Sweet][Fade Out]

ダーリン……
今日も楽しかったね♡

明日も一緒に
笑おうね♡

……おやすみ、ダーリン。

[Whisper]

だーい好き♡

……ふふっ♡

ダーリン♡

本日9/27
10/5リリース予定
この歌詞から物語作成
日常からデート・お買物・旅行など色々な所で旦那大好きすぎる新妻の日常物語(小説)お願い致します。

 

ダーリン♡こっち見て!――新妻ひまりの恋する日常記 ――

長編小説 章構成
【ジャンル】
日常系ラブコメ長編小説(ほっこりホームドラマ×純愛ストーリー)
一話完結型のエピソードを、季節の流れと商店街再開発問題という縦軸でつなぐ「連載型長編」

楽曲「ダーリン♡こっち見て!」の世界観を原案とした小説

 

【主要登場人物】

①星野陽葵(ほしの ひまり)【主人公】
25歳。結婚半年の新妻。旧姓・小鳥遊(たかなし)
職業:商店街のパン屋「ブーランジュリーひだまり」の店員+、WEBで密かに連載中のイラストエッセイ漫画「ダーリン観察日記」の作者(ペンネーム:ひまワッフル)
性格:明るく愛情深い、夫ラブが行き過ぎて周囲を呆れさせることも。でも根は思いやりが深く、商店街の誰からも好かれる
特技:人の好きなところを即座に見つけること/お菓子の半分こで大きい方を渡すこと

②星野律(ほしの りつ)【もう一人の主人公】
27歳。陽葵の夫。建築設計事務所勤務の建築士
性格:口数少なくクールに見えるが、実は照れ屋で、陽葵の愛の重さ(軽さ)に毎回真っ赤になる
裏設定:大学時代は軽音部でギター担当。今も部屋にギターがあり、陽葵が眠った後にこっそり弾く
物語の鍵を握る存在:ひだまり商店街の再開発プロジェクトの担当に抜擢される

③立花とよ(たちばな とよ)【商店街の大家さん】
78歳。二人が住むアパート「立花ハイツ」の大家さん。商店街の生き字引
若い頃に思いを遂げられなかった恋があり、物語後半の重要人物に

④溝口茂(みぞぐち しげる)【パン屋のマスター】
52歳。「ブーランジュリーひだまり」の主人。妻に先立たれ、男手ひとつで娘を育てた頑固職人
陽葵の働きぶりに目をかける、頼れる父親的存在

⑤溝口千尋(みぞぐち ちひろ)【パン屋の娘】
19歳。大学1年生。父の店を手伝うしっかり者。陽葵を姉のように慕う

⑥桜井美織(さくらい みおり)【陽葵の親友】
25歳。会社員。陽葵の大学時代からの親友。恋愛運に恵まれず、陽葵の新婚ぶりにやきもきしつつ応援する
物語中盤、自身の恋の破局を経験し、陽葵の「幸せの形」に向き合う

⑦星野千夏(ほしの ちなつ)【律の妹】
22歳。就活中の大学生。兄を「お兄ちゃん」と呼んで甘える、家族内いちばんの陽葵派
恋の相談役としてたびたび登場

⑧律の上司・早瀬(はやせ)【設計事務所の所長】
45歳。律の能力を高く評価し、再開発案件を任せる。仕事には厳しいが、家族思い

旅先で出会う人々
温泉旅館「あさひ屋」の若女将・咲月(さつき)とその娘・りお(8歳)
とよさんの故郷・海辺の町で出会う古老たち

 

【舞台・設定】

舞台:東京都心から電車で30分の郊外、商店街「ひだまり商店街」のそばにある古いアパート「立花ハイツ」
時間軸:結婚半年目の10月(プロローグ)から、結婚1周年を迎える翌年10月までの約1年間

季節:秋→冬→春→夏→秋。各季節の行事(文化祭、クリスマス、正月、桜、梅雨、夏祭り、台風、紅葉)がエピソードの舞台に

世界観:フィクションの商店街だが、どこにでもある昭和レトロな商店街の空気感。地元民との交流、ご近所付き合い、季節の行事が物語の彩り

原案:楽曲「ダーリン♡こっち見て!」(10/5リリース)の歌詞世界――「ダーリン」への様々な表情の呼びかけ、朝の「おはよう」、夜の「おやすみ」、何気ない日常の宝物――を全編の基調として配置

【中心テーマ・メッセージ】

「当たり前」は、実は奇跡――朝の挨拶、一緒に食べるごはん、手をつないで歩く道。ありふれた日常こそが、世界でいちばんの宝物であること
愛は言葉にして伝える――照れても、照れ隠しでも、「大好き」は何回言っても足りない。声に出すから届く
幸せは「守るもの」ではなく「育てるもの」――二人だけの幸せが、商店街の人々、家族、友人との関わりの中で、少しずつ大きくなっていく
変わっていくもの、変わらないもの――街は再開発で変わり、人は歳を重ねる。それでも「朝におはよう、夜におやすみ」と言い合える関係は変わらない

【プロットの全体像】

結婚半年目の秋。新妻・陽葵は夫・律への愛が日々増すばかり。商店街のパン屋で働きながら、WEB漫画「ダーリン観察日記」を密かに連載する、ささやかで幸せな毎日を送っていた。

しかし年末、律の設計事務所が「ひだまり商店街の再開発プロジェクト」を受注。担当になった律は、愛妻が暮らし、働き、大切な人たちがいる街を「変える側」に立ってしまう。立ち退きを恐れる商店街の人々、板挟みになる律、何も知らない陽葵の「ダーリン観察日記」が思いがけず話題になり……。

小さな嘘と照れ隠し、すれ違いと仲直り。正月の実家、雪の温泉旅行、とよさんの50年前の恋の手紙、台風で被災した商店街の復興。二人は数々の出来事を経て、「幸せな日常」が当たり前ではないこと、そしてそれを守り育てるのは自分たち自身だと気づいていく。

結婚1周年の秋。商店街に新たな朝が来て、陽葵は一番好きな言葉を、一番大きな声で叫ぶ――「ダーリン♡こっち見て!」

【サブプロット】

サブプロット1:商店街再開発問題【メイン縦軸】
律が再開発の担当建築士となり、商店街の人々との間で揺れる。小さな店を守りたい地元民と、街の未来を考える設計士。律が導き出す答えは「取り壊す開発」ではなく「みんなの商店街をみんなで作り直す」再生プロジェクト。陽葵の店や人々との絆が、律の設計に魂を吹き込む。

サブプロット2:「ダーリン観察日記」の成長物語
趣味で描き始めたWEB漫画が徐々に話題を集め、書籍化の話まで舞い込む。「旦那好きすぎる新妻」の日常を描く陽葵の筆は、やがて商店街の人々の物語をも描くようになり、作品のテーマが「私のダーリン」から「私たちの大切な日常」へと広がっていく。

サブプロット3:とよさんの50年前の恋
アパートの大家・とよさんが倒れたのを機に、押し入れから出てきた1通の古い手紙。50年前、海辺の町の青年に思いを届けられなかった恋。陽葵と律は、とよさんの足でなくなった「返事」を届ける旅に出る。老いと再生の物語が、若い二人の愛に深い影を落とし、光を添える。

サブプロット4:身近な人々の恋の行方
律の妹・千夏の初恋(応援する陽葵と、過保護になる律のギャップ)

親友・美織の破局と再生(「幸せって何か」を陽葵に問いかける存在)

パン屋の千尋の片想い(陽葵が恋の師匠・律が恋の壁に)

サブプロット5:律のギター
眠った陽葵のためにこっそり弾いていた律のギター。物語の節目に登場し、やがて律が陽葵の前で弾き語る「初めてのコンサート」へ。楽曲「ダーリン♡こっち見て!」の誕生エピソードとして回収。

【備考】

全16章+プロローグ+エピローグ。各章10節、プロローグ1~3節、エピローグ1~3節。計162以上の節。1節5,000字以上で総計80万字以上を想定(調整可)
楽曲の歌詞エピソード(朝シーン、お買物、ケンカと仲直り、温泉旅行、指輪)は第1〜8章に「物語の種」として散種済み。歌詞ファンがニヤリできる配置を保持

章の末尾節には、次章への引き(クリフハンガー)を必ず配置し、連載型の中だるみを防止

陽葵の「ダーリン」の呼びかけは毎章バリエーションを変える(囁き/甘え/元気/照れ/拗ね/涙/笑顔)――楽曲の演出意図を小説でも再現

10月5日の楽曲リリース日に、エピローグで「10月5日」を物語内の記念日として登場させ、現実と物語をリンクさせる仕掛け

【章構成】

プロローグ:ダーリン♡おはよう

・結婚半年目の朝、すべてはここから
・日曜の朝八時十分。カーテンの光、夫の寝顔、囁く「ダーリン……おはよう♡」
・起きない律を観察する陽葵、独り言で溺愛を漏らす「観察日記」の習慣の提示
・朝のキッチン。コーヒーとパン。何気ない朝の宝物
・結婚に至るまでの回想――レコードショップでの出会い、喫茶店のプロポーズ
・結婚半年記念日。喫茶店で渡された、半年間隠された指輪
・記念日の夜、指輪を握って眠る陽葵の独白
・翌朝、新調したエプロンでパン屋へ向かう陽葵
・商店街「ひだまり商店街」の紹介。時代に取り残されたような、でもあたたかい街
・アパート「立花ハイツ」の大家・とよさんの登場。「仲がいいねえ」の一言
・「これからの毎日が、全部宝物になる」――一年分の物語の約束と、章末の予感

第1章:ひだまり商店街へようこそ

秋。新妻、商店街デビュー
1節.パン屋「ブーランジュリーひだまり」の一日。マスター溝口の厳しくも愛ある指導
2節.先輩店員としての千尋。姉妹のような店内の空気
3節.閉店後、商店街の店々が軒を連ねて挨拶に来る。八百屋、魚屋、駄菓子屋の主人たち
4節.帰り道、手をつなぐ二人。「手つないだだけでドキドキするの♡」と陽葵
5節.律の職場紹介。設計事務所の日常、上司・早瀬の「次の案件、お前に任せたい」の予告
6節.夜、律が眠った後のギターの音。陽葵は気づかないふりをしている
7節.週末のイラスト連載「ダーリン観察日記」更新日の裏側。反響はまだ少ない
8節.近所の子どもたちに「お姉ちゃん」と呼ばれ、パンを差し入れされる陽葵
9節.とよさんの部屋に招かれ、昔の商店街の写真を見せてもらう。50年前の面影
10節.商店街の夕暮れ。陽葵「この街のこと、大好きになってきたかも♡」――律の複雑な表情を引きに

第2章:デートの達人(になる!)

秋。恋する新妻、デート攻略計画
1節.陽葵の「デートノート」開封。過去のデートの記録と「次はここ♡」のリスト
2節.水族館デート。ペンギンの前で固まる律。魚の名前を全部言い当てる意外な特技
3節.水族館の帰り、陽葵の「ダーリン、こっち見て♡」攻撃で律が赤面する連続シーン
4節.映画の夜(原案・歌詞Verse 2)。横顔を観察する陽葵、お菓子の半分こ
5節.陽葵の観察日記が掲載サイトで少しだけ話題に。「旦那さんいるのね」とコメント
6節.千夏が遊びに来る。兄の部屋でギターを見つけ、「お兄ちゃんまだ弾いてるの?」
7節.千夏の就活の悩みを聞く陽葵。夜、律が兄妹で語る「親父のこと」
8節.律の父との確執の匂わせ。建築士の父も同じ道だったこと
9節.律の残業が増え始める。夜遅い帰宅、それでも「おやすみ」だけは言い合う二人
10節.律の机の上の書類の束。「ひだまり地区 再開発計画 概要書」の文字が見える――章末の引き

第3章:ダーリンの秘密

秋の終わり。律の仕事の衝撃
1節.陽葵、千尋から「商店街の再開発のうわさ」を聞く。立ち退きの話にざわめく商店街
2節.律に何も聞けないまま、パン屋で働く陽葵。マスターの「ここもそうなのかな」という一言
3節.商店街の寄り合い。テントウに立つおばあちゃんたちの「反対」の声
4節.律の残業はさらに増える。陽葵は弁当を作って事務所へ届けるが、浮かない顔の律
5節.事務所で見てしまった図面。「ひだまり商店街」の文字。陽葵、事情を悟る
6節.律に問い詰めるでもなく、聞けないままの数日。「嘘はつきたくない」律の苦悩
7節.観察日記の更新が止まる。読者からの「最近さみしい」のコメント
8節.やっと二人で向き合う夜。「商店街の担当になった。でも、何も決まってない」
9節.陽葵の葛藤――大好きな街と、大好きな夫。その間で揺れる心
10節.「信じてる。ダーリンなら、絶対にいい街にするもん♡」――陽葵の一言が律に火をつける

第4章:ひまワッフル、急上昇

初冬。観察日記が話題に
1節.更新再開の観察日記「ダーリンの仕事、大変そう」の回。切なくあたたかい回が反響を呼ぶ
2節.アクセス急増。「うちの嫁さんとおんなじだ」という旦那コメントの山
3節.溝口マスターに「お前、あのひまワッフルか」とバレる。商店街中に広まる
4節.律の会社でも話題に。早瀬所長「お前の妻さんの漫画、うちの娘が読んでるぞ」
5節.照れる律、陽葵に「もうちょっとボリューム落とせ」と言うが目は笑っている
6節.千尋が「私も描いてみたい」と絵を描き始める。パン屋に小さな画廊ができる
7節.取材のオファーが来る。地元のフリーペーパーに掲載決定
8節.二人の日常が「作品」になる不思議。陽葵「私の日常、みんなの宝物になる?」
9節.律が再開発の現地調査を開始。商店街の人々のインタビューで見えてくる街の記憶
10節.律のノートに書かれたメモ「この街が変わったら、陽葵は悲しむか?」――葛藤の始まり

第5章:冬のイルミネーション

師走。恋人たちの季節
1節.商店街にクリスマスの飾り付け。みんなでツリーを立てる恒例行事
2節.イルミネーションデート。都心の夜景を見下ろす丘で「ダーリン、ぎゅってして♡」
3節.律のプレゼント選びに付き合う千夏。「兄の喜ぶものランキング」を作る妹
4節.陽葵へのプレゼントを探す律の迷走。商店街の店を回って悩む一晩
5節.美織登場。恋人との関係がうまくいかない様子。「あんたたち見てると惨めになる」
6節.美織の恋人との修羅場。呼び出された陽葵、深夜のファミレスで聞く本音
7節.「幸せって、あんたみたいに全面から来るものじゃないのよ」――美織の寂しい恋の理屈
8節.クリスマスイブ。パン屋のケーキ予約で大忙し。律は仕事、それでも23時59分に帰宅
9節.24時、間に合ったクリスマス。手作りのケーキと、小さな箱のプレゼント
10節.律の贈り物は「二人の写真のオルゴール」。鳴る旋律は、律が弾くあの曲――陽葵、初めて気づく

第6章:初めての大ゲンカ

年末。すれ違いと仲直り
1節.年末年始、律の仕事は佳境。再開発の初回提案が年明けに決定
2節.大晦日の準備をひとりでする陽葵。寂しさを紛らわせる観察日記
3節.大晦日、律は事務所へ。ひとりで年越しそばをすする陽葵
4節.美織から届く「彼と別れた」の短信。幸せな自分が急に申し訳なくなる
5節.年明け早々、初めての本気の大ゲンカ。「もういい」の言葉を初めて言ってしまう
6節.別々の部屋で過ごす夜。「おやすみ」が言えない苦しさを初めて知る
7節.千尋の機転で仲直りのきっかけ。パン屋に呼び出される律
8節.「ケンカしたって、笑ったって、最後は仲直りしよう♡」――陽葵の言葉が律の胸に刺さる
9節.謝罪と本音。「仕事とお前、両方守りたい。守りきれなくて怖い」
10節.仲直りの朝。初めて見る律の涙。改めての「だーい好き♡」――年明けの約束

第7章:お正月と二人の実家

正月。家族の物語
1節.お正月、まずは陽葵の実家へ。のどかな田舎、大らかな両親
2節.陽葵の父と律の意外な意気投合。将棋で盛り上がる二人
3節.次は律の実家。ここには空気があった。建築士の父・剛三の重い存在
4節.父との再会。「再開発、お前が担当か」。父はその案件を知っていた
5節.父の言葉「街を壊すのは簡単だ。だが――」言葉を切る父の本音
6節.律の部屋に残る高校時代の設計のノート。父を超えたかった少年の日々
7節.母の目線。二人の写真を見て泣く母。「あんたたちみたいなら、それでいい」
8節.初詣。二人で手を合わせる。「今年も隣にいられますように」
9節.帰りの新幹線で語り合う、父と和解するための道。「今度は仕事で認めさせる」
10節.律の決意のメモ「父の宿題を、俺の答えで解く」――再開発への向き合い方が変わる

第8章:雪の温泉旅行

冬。旅先での出会い
1節.仲直りの「埋め合わせ」で約束した温泉旅行。行きの新幹線で駅弁(原案・歌詞Chorus 2)
2節.山奥の温泉宿「あさひ屋」。若女将・咲月の出迎え
3節.咲月の娘・りおとの出会い。「お姉ちゃん、だんなさまたけないの?」の直球
4節.雪見露天風呂。湯けむりの中での夫婦の本音トーク
5節.夕飯の料理と、りおの「パパがいない」の一言。咲月の複雑な笑顔
6節.夜、宿の縁側で。りおに絵を描いてあげる陽葵。観察日記の読者になりたがるりお
7節.咲月の話。夫と離婚し、女将の母の宿を継いだ苦労。「あんたたち見てると、まだ恋も信じられる」
8節.季節外れの小さな花火(原案・歌詞Chorus 2)。雪に映る光
9節.帰り際、りおとの約束「また描いた絵、送るね」。陽葵の読者がひとり増える
10節.帰りの車窓。「守るだけの設計じゃなく、育てる設計にしたい」――律の中で設計が変わり始める

第9章:春はすぐそこ

早春。それぞれの足音
1節.再開発の初回提案プレゼン。商店街の人々が集まる会場
2節.律の提案は「全て建て替える案」。行政の意向を反映した、無難で冷たい案
3節.商店街の沈黙。溝口マスターの震える手。陽葵は会場の後ろで見ていた
4節.提案後の気まずい日々。マスターの店に行きづらくなる陽葵
5節.観察日記の更新がまた止まる。「描けない」――初めてのスランプ
6節.律の不眠。深夜の事務所で、父の設計の資料と格闘する姿
7節.早瀬所長との対立。「住民の要望を全部聞いていたら、何も建てられない」
8節.陽葵、律を叱る。「ダーリンの描く街、私たちの街じゃないよ」――初めての正面からの衝突
9節.律、一人で商店街を歩く夜。閉まったシャッター、残る看板、積もる記憶
10節.朝、陽葵の机に置かれた一枚の設計図。「これなら、どうだろう」――律の回答の第一歩

第10章:みんなの商店街を、みんなで

春。再生プロジェクト始動
1節.律の新提案「既存の商店街を活かした再生計画」。早瀬所長との激しい議論
2節.所長を説得する律。「時間はかかる。でも、これは勝負できる仕事です」
3節.住民参加のワークショップ開催。商店街の人々が設計に参加する試み
4節.最初は懐疑的だった人々。子どもたちの描く「未来の商店街」の絵が場を変える
5節.溝口マスターの告白。亡き妻との思い出の店。ここを離れたくない本音
6節.陽葵の復活。観察日記「私たちの街、みんなで作ってます」の回が大きな反響に
7節.千夏の就活が決まる。お礼に、と律がギターを弾く場面(兄妹のささやかな夜)
8節.律の父・剛三から届く一本の電話。「今度、現場を見せろ」
9節.父が商店街に来る日。無言で歩き、無言で帰る父。その背中の意味
10節.父からの手紙「お前の設計は、まだ俺に勝っていない。だが――街に負けていない」――初めての認めの言葉

第11章:桜、そして新しい恋

春。出会いと別れの季節
1節.お花見デート(原案・歌詞世界のパレード)。商店街の桜並木でのお弁当
2節.千夏の初恋の相手が判明。律の会社の後輩・青年の登場
3節.過保護モードの律と、応援モードの陽葵。「お兄ちゃん、うるさい」の攻防
4節.美織の新生活。引っ越したアパートは陽葵の商店街のそば。新しいスタート
5節.千尋の片想い。大学の先輩への想いを、陽葵にだけ打ち明ける
6節.陽葵、恋の師匠として奮闘。律は「娘(仮)に男の本質を教えたい」と不穏
7節.桜の下での千尋の告白。結果は……「保留」という優しい答え
8節.観察日記の書籍化のオファーが正式に届く。出版社との面談
9節.迷う陽葵。「私の日常を、本にしていいの?」
10節.律の言葉「俺が世界でいちばんの読者だ。誰にも恥ずかしいことはない」――書籍化への後押し

第12章:梅雨、心の雨

初夏。とよさんの秘密
1節.梅雨入り。商店街に雨の音。静かな季節の始まり
2節.とよさんの体調の異変。階段でよろける姿を千尋が目撃
3節.病院の結果。軽い脳梗塞の兆候、大事には至らないが、一人暮らしは危険との診断
4節.とよさんの入院先へ通う日々。陽葵がお見舞い弁当を作る
5節.とよさんの息子・修一の登場。遠方に住む、少し不器用な親子関係
6節.押し入れの整理で見つかった古い桐箱。中に、黄ばんだ1通の手紙
7節.50年前の手紙。差出人は海辺の町の「港町の勇(いさむ)さん」。開かれていない、届かなかった返事
8節.とよさんの告白。「あたしが返事を出せなかったから、あの人は……」
9節.修一との対話。「母の恋を、笑えない俺がいる」。親子の距離が少し縮む
10節.陽葵の決意。「ダーリン、とよさんの返事、届けに行こうよ」――旅の約束の引き

第13章:手紙を届けに

夏。二人で行く、海辺の町
1節.夏休みを取った律。とよさんの故郷・海辺の町への小旅行
2節.50年前の商店街の地図を頼りに、手紙の住所へ。町は様変わりしていた
3節.手がかりは「灯台の下の食堂」。三代目の女将が語る、勇さんのその後
4節.勇さんは漁師になり、生涯独身だったという。「東京に想い人がいるって、笑ってた」
5節.勇さんの墓参り。とよさんの手紙(陽葵が代筆した、50年遅れの返事)を読み上げる律
6節.読み終わった後の静寂。そして、潮風。陽葵の頬を涙が伝う
7節.帰り道、灯台の下で。「陽葵。俺たちは、後悔のない方を選ぼう」
8節.手紙の返礼として頂いた、勇さんが遺した古い航海日誌の写し
9節.とよさんに報告する夜。血色の戻ったとよさんの笑顔。「……あたしの初恋、叶ったねえ」
10節.とよさんから二人への贈り物。「立花ハイツ、お前たちに任せる」――意外な形の相続の予感

第14章:夏祭りと、書籍デビュー

盛夏。一年でいちばん熱い季節
1節.商店街の夏祭りの準備。みんなで作る、みんなのお祭り
2節.律が設計した「みんなの商店街」の模型が祭りで初公開
3節.祭りの夜。浴衣の陽葵に見とれる律。「……浴衣、反則だから」
4節.屋台の飲み物を片手に、溝口マスターと語る夜。「再開発、まんざらでもないな」
5節.千夏の恋の進展。祭りの縁日での「二人きり」の作戦(陽葵プロデュース)
6節.りお親子が遊びに来る。宿のお土産と、りおの描いた「お姉ちゃんの漫画」
7節.観察日記の単行本『ダーリン♡こっち見て!』刊行決定。表紙はあの二人のイラスト
8節.美織の新しい恋の予感。商店街の八百屋の息子との出会い。「……嫌じゃないかも」
9節.祭りのフィナーレ、商店街の花火。律の耳元での囁き「結婚記念日、10月5日。覚えてる?」
10節.打ち上げの夜、とよさんから渡された一つの封筒。「お前たちに贈りたいもの」の正体は……

第15章:台風と、守るもの

秋の始まり。最大の試練
1節.封筒の中身は「立花ハイツの権利書」。とよさんから二人への贈与
2節.戸惑う二人。修一からの手紙「母のわがままを、受け取ってやってくれ」
3節.その夜、巨大台風が接近。商店街に数十年ぶりの警報
4節.台風上陸。停電、浸水、飛ぶ看板。商店街が被害を受ける
5節.溝口マスターの店にも浸水。パン窯が動かない。商店街に暗い夜
6節.陽葵の行動。観察日記の読者、商店街の皆、りお親子、美織、千夏――繋がった全ての人々が駆けつける
7節.律の行動。建築士として、危険な建物の点検に駆け回る。「自分の街は、自分で守る」
8節.復興の数日間。みんなで泥を出し、パンを焼き、店を開ける。「ひだまり商店街、営業中」の張り紙
9節.台風が明かしたもの。老朽化した商店街の現実。だからこそ、再生は必要だった
10節.行政視察の視線が変わり、律の再生計画が正式採用へ――「みんなの商店街」が動き出す

第16章:結婚一年目の朝

秋。すべての約束の場所へ
1節.再生計画の着工式。商店街のみんなで行く地鎮祭。シャベルを握る溝口マスターの涙
2節.10月5日。結婚一年記念日。あの喫茶店の、あの席での朝
3節.単行本『ダーリン♡こっち見て!』の発売日。店頭に並ぶ本、手に取る読者たち
4節.本の中で描かれた、一年分の日常。読者からの「私もあの人に言おう」という声
5節.律のギター。記念日の夜、ついに陽葵の前で弾き語る。「ダーリン♡こっち見て!」の原曲を
6節.律の告白「この歌、お前に作った。俺の照れ隠しの、全部」
7節.とよさんの退院。立花ハイツのみんなで祝う、小さなお茶会
8節.千夏の恋の結実、美織の新たな一歩、千尋の「保留」のその後――それぞれの物語の答え合わせ
9節.一年間の日々を振り返る二人。あの朝の「おはよう♡」から、ここまで
10節.翌朝のカーテンの光。「ダーリン、こっち見て♡」――変わらない朝、続いていく毎日

エピローグ:ずっと隣に

・遠い未来と、10月5日
・結婚五年目の秋。再生された商店街の、新しい姿
・立花ハイツも律の設計で生まれ変わり、とよさんは「名誉大家」に
・陽葵の漫画は「商店街の人々」を描く連載に。りおは中学生になり、助手に
・律の設計事務所。父・剛三との対等な共作が実現した話
・10月5日。二人の記念日。今も毎年、あの喫茶店でコーヒーを頼む
・白い髪が混じり始めた二人の朝。それでも「おはよう♡」は変わらない
・孫のように慕う子どもたち(商店街の子供たち)に囲まれる二人
・「もしも歳を重ねても、今みたいに笑っていたい」――あの夜の約束の回収
・陽葵の最後の観察日記。「私のダーリンは、世界中でいちばん、私の隣にいる」
・最後の頁。「ダーリン♡ こっち見て! ……ふふっ、ずっとこっち見てね♡」――完

 

 第2章:デートの達人(になる!)秋。恋する新妻、デート攻略計画

第1節 陽葵の「デートノート」開封♡

土曜日の朝。

カーテンの隙間から差し込んだ秋の光が、部屋の床に細長い帯を作っていた。

平日の朝なら、陽葵は目覚まし時計が鳴るより少し前に起きることも多い。

パン屋の仕事がある日は、眠気を抱えながらも布団から飛び出して、律の朝食を用意し、自分の支度をして、ブーランジュリーひだまりへ向かう。

けれど、今日は違う。

お休みの日だ。

しかも、律も休み。

つまり――。

「……ふふ♡」

陽葵は布団の中で、にやにやしていた。

隣では、律がまだ眠っている。

少し乱れた髪。

閉じたまぶた。

枕に半分埋もれた頬。

普段はクールに見える夫の、完全に無防備な寝顔だった。

「……かわいい」

小さな声が漏れる。

「寝てるダーリンも、かわいい……♡」

陽葵は、そっと身体を起こした。

そして、律の顔を覗き込む。

「ダーリン……」

反応なし。

「……おはよう♡」

反応なし。

「ダーリン?」

やっぱり反応なし。

陽葵は少し考えた。

そして、口元を緩める。

「……こっち見て♡」

当然ながら、律は眠ったままだった。

「ふふっ。寝てるから無理かぁ♡」

陽葵は残念そうに呟いた。

そのまま律の頬をつつこうとして――。

やめた。

「……起きてからにしよう♡」

いたずら好きな笑顔を浮かべる。

そして、そっとベッドを抜け出した。

今日、陽葵にはやることがある。

それは――。

「デート計画の、見直しですっ♡」

寝室の外へ出ると、陽葵は小さくガッツポーズをした。

*

キッチンでコーヒーを淹れ、トーストを焼く。

休日の朝は、平日より少しだけ時間がゆっくり流れる。

パンの焼ける香り。

コーヒーの香り。

窓から入ってくる秋の風。

そして、まだ寝室から聞こえてこない律の気配。

陽葵は、マグカップをテーブルに置くと、冷蔵庫から牛乳を取り出した。

「今日は……何をしようかなぁ」

そう呟いたところで、背後から声がした。

「何か考えてるのか?」

「ひゃっ!」

陽葵が振り返る。

そこには、髪を少し寝癖で跳ねさせた律が立っていた。

「ダーリン!?」

「おはよう」

「お、おはよう♡」

陽葵は一瞬で笑顔になった。

「起きたんだ!」

「今起きた」

「そっかぁ♡」

陽葵は嬉しそうに律へ近づく。

「ダーリン、おはようのぎゅーは?」

「……朝から?」

「朝だから♡」

「……」

律は少しだけ困った顔をした。

けれど、陽葵が両手を広げて待っているのを見ると、諦めたように肩をすくめた。

「……はい」

「わーい♡」

陽葵は律の胸元に飛び込んだ。

ぎゅっ。

「おはようございます、ダーリン♡」

「おはよう、陽葵」

「ふふっ♡」

それだけで、陽葵は満足そうだった。

「じゃあ、朝ごはん食べよう!」

「うん」

二人で向かい合って朝食を食べる。

何でもない朝。

けれど、陽葵にとっては、この時間も大切なデートの一部だった。

食べ終わって、律がコーヒーを飲んでいる間。

陽葵は、そわそわしていた。

「……?」

律が気づく。

「どうした?」

「ううん♡」

「何かあるだろ」

「……ある」

陽葵は、少しだけ意味深に笑った。

「ダーリン、今日の予定って決まってる?」

「特には決めてないな」

「……!」

陽葵の目が輝いた。

「じゃあ……」

「?」

「今日は、ちょっとだけ私に時間をください♡」

律は眉を上げた。

「時間?」

「うん!」

陽葵は、立ち上がった。

「ちょっと待っててね!」

「陽葵?」

返事をする代わりに、陽葵は寝室へ駆けていった。

ばたばた。

引き出しを開ける音。

何かを探している音。

そして――。

「……あったぁ♡」

嬉しそうな声。

数秒後。

陽葵は、一冊のノートを胸に抱えて戻ってきた。

表紙は、少しクリーム色。

角には小さな花柄のシール。

そして中央には、手書きで大きく文字が書かれている。

『ダーリン♡デートノート』

その下には、小さなハートマーク。

律は、しばらくその表紙を見つめた。

「……何、それ」

「見て分からない?」

「いや、分かるけど……」

「じゃーん♡」

陽葵はノートをテーブルの上に置いた。

「私たちのデート記録です!」

「……デート記録」

「そう!」

陽葵は、得意げに胸を張った。

「結婚する前から今まで、ダーリンと行った場所を全部書いてあるの♡」

「全部?」

「全部!」

「……本当に?」

「本当!」

陽葵は、ノートを大切そうに撫でた。

「今日はこれを開封します」

「開封って……」

「デートノート反省会兼、次回デート攻略会議です♡」

「……そんな大げさな」

「大げさじゃないよ!」

陽葵は真剣だった。

「夫婦になって半年。ここから先も、いっぱいデートしたいでしょう?」

「まあ……」

「だったら、今までのデートを振り返って、次のデートをもっと楽しくするの!」

「……なるほど」

「名付けて――」

陽葵はペンを掲げた。

「『ダーリン♡デート攻略計画』!」

律は、しばらく黙った。

「……攻略されるの、俺?」

「もちろん♡」

「……」

「逃げちゃダメだよ?」

「逃げないよ」

律は苦笑した。

「ただ……」

「ただ?」

「陽葵が楽しそうだから、それでいい」

「……!」

陽葵の頬が赤くなる。

「ダーリン……」

「何?」

「そういうこと、さらっと言うの反則……♡」

「何が?」

「もうっ!」

陽葵は照れながらノートを開いた。

「では、会議を始めます!」

*

最初のページには、日付が書かれていた。

そして、その下には――。

『初デート』

という文字。

陽葵は、懐かしそうに笑った。

「これ……覚えてる?」

「もちろん」

「レコードショップだよね」

「ああ」

陽葵は、そのページを指でなぞった。

二人が出会った場所。

プロローグで語られた、二人の始まり。

レコードショップの店内。

たまたま同じレコードを手に取ったこと。

そこから会話が始まったこと。

初めて会ったときの律は、今と同じように口数が少なかった。

対して陽葵は、最初からよく喋った。

音楽の話。

好きな曲の話。

ジャケットのデザインの話。

気づけば、予定していたよりずっと長い時間、その店にいた。

そして、店を出たあと。

「このあと、喫茶店行かない?」

陽葵から誘った。

律は少し驚いた顔をしてから、

「……いいよ」

と答えた。

そのときのことまで、陽葵は細かく覚えていた。

「見て」

陽葵はノートの文章を読み上げる。

「『初デート。レコードショップで待ち合わせ。律くん、待ち合わせの五分前に到着。私より早い。ポイント高い』」

「……そんなことまで書いたのか」

「もちろん♡」

「ポイント制だったの?」

「今作った」

「今?」

「うん♡」

陽葵は楽しそうに笑った。

「続きね。『レコードの話になると、律くんの目が少しだけ優しくなる。普段はクールなのに、好きなものの話になると楽しそう。かわいい』」

「……」

律の耳が赤くなった。

「ダーリン、赤くなってる♡」

「なってない」

「なってるよ♡」

「気のせい」

「じゃあ、もう一個読むね」

「……いい」

「『帰り際、律くんが私の好きな曲を覚えてくれていた。嬉しかった。たぶん、この日から――』」

陽葵はそこで言葉を止めた。

律が静かにこちらを見ていた。

「……この日から?」

「うん」

「何て書いてあるんだ?」

陽葵は少し恥ずかしそうに笑った。

「『この人のこと、もっと知りたいと思った』って」

律は、何も言わなかった。

ただ、少しだけ目を細めた。

「……俺も」

「え?」

「陽葵のこと、もっと知りたいと思った」

「……!」

陽葵の顔が一気に赤くなる。

「もう……! 今日のダーリン、なんかずるい♡」

「何が?」

「私を照れさせることばっかり言う!」

「普通のことしか言ってないけど」

「それがずるいの!」

二人の笑い声が、休日の朝の部屋に響いた。

*

次のページ。

『二回目のデート』

そこには、映画館のチケットが貼られていた。

「映画……!」

陽葵の目が輝く。

「これ、覚えてる?」

「ああ」

「私、映画よりダーリンの横顔を見てた日♡」

「……それは忘れてほしい」

「絶対忘れない♡」

陽葵は、楽しそうに笑った。

映画が始まる前、二人で買ったポップコーン。

上映中、陽葵がこっそり律の横顔を見ていたこと。

スクリーンの光が律の頬を照らしていたこと。

真剣な表情で映画を見ている横顔が、いつもより少し大人っぽく見えたこと。

そして、上映中に食べていたお菓子を半分に分けたこと。

その中で、一番大きいほうを律が陽葵に渡した。

「……これ」

陽葵は、そのページを指差した。

「覚えてる?」

「覚えてる」

「なんで大きいほうくれたの?」

「陽葵が好きそうだったから」

「……もう♡」

陽葵は胸元を押さえた。

「そういうところなんだよ……」

「何が?」

「ダーリンを好きになっちゃうところ♡」

律は何も言わず、コーヒーを飲んだ。

耳だけが赤い。

陽葵は、それを見逃さなかった。

「ポイント追加!」

「何の?」

「照れ隠しポイント♡」

「いらない」

「一万点!」

「多すぎるだろ」

二人で笑う。

そして陽葵は、ページの端に書かれた小さなメモを見つけた。

『次は、映画だけじゃなくて、一日中一緒に遊べる場所に行きたい』

「……あ」

陽葵の目が止まった。

「これ、私が書いたんだ」

「そうみたいだな」

「一日中……」

陽葵はページを見つめた。

その言葉が、今になって妙に胸に響いた。

「私、昔からそう思ってたんだね」

「何を?」

「ダーリンと、もっと長く一緒にいたいって」

「……」

律は、少しだけ笑った。

「今も変わってないな」

「うん♡」

陽葵は即答した。

「むしろ、もっと一緒にいたくなってる♡」

「……そうか」

「ダーリンは?」

「俺も」

「……!」

また赤くなる陽葵。

「もう……今日どうしたの?」

「何が?」

「いっぱい好きって言ってくれる……」

「いつも言ってるだろ」

「心の中では言ってるかもしれないけど、声に出すのは少ないもん♡」

「……そうだった?」

「そうです!」

陽葵は指を一本立てた。

「だから、今日のダーリンは高得点!」

「何点?」

「……百点満点で」

少し考えて。

「一万点♡」

「さっきも一万点だっただろ」

「愛情は加算式なの!」

「なるほど」

律は笑った。

*

ページをめくる。

『三回目のデート』

今度は、少し遠くの公園。

秋の写真が貼られていた。

黄色く色づいた銀杏。

ベンチ。

二人の手。

そして、写真の端に小さく写り込んだ陽葵の髪。

「これ、懐かしい……」

陽葵は写真を見ながら笑った。

まだ付き合っていた頃。

休日に二人で歩いた公園。

その日は、特に予定を決めていなかった。

ただ、一緒に歩いて。

途中でコンビニに寄って。

ベンチに座って。

買った飲み物を飲んで。

それだけだった。

「でも……」

陽葵は写真を見つめた。

「私、この日がすごく好きだった」

「どうして?」

「何も予定がなかったから」

「?」

「予定がないのに、楽しかったの」

陽葵は、ゆっくりと言葉を選んだ。

「どこに行くかじゃなくて、誰といるかなんだなって思ったの」

律は黙って聞いている。

「もちろん、水族館とか映画とか旅行も楽しい。でも……ダーリンとなら、コンビニまで歩くだけでも楽しい」

「……それは、分かる」

「本当?」

「ああ」

「じゃあ、今度コンビニデートしよう♡」

「それはデートなのか?」

「デートです!」

陽葵は即答した。

「近所を歩いて、コンビニでアイス買って、ベンチで食べるの!」

「……それなら、今週でもできるな」

「ほんと!?」

「うん」

「やったぁ♡」

陽葵は嬉しそうに両手を上げた。

「デート追加!」

ノートの『次はここ♡』リストに、さっそく書き込もうとする。

しかし――。

「ちょっと待って」

律が止めた。

「まだあるの?」

「もちろん♡」

陽葵はページをめくった。

*

そこには、いくつもの場所が並んでいた。

『水族館』

『遊園地』

『紅葉狩り』

『夜景』

『動物園』

『海』

『温泉』

『美術館』

『パン屋さん巡り』

『カフェはしご』

『一泊旅行』

そして――。

『二人で料理教室』

『陶芸体験』

『手作りアクセサリー』

『星を見る』

『お弁当持って公園』

『知らない駅で降りてみる』

『朝から夜まで街歩き』

『一緒に写真をいっぱい撮る』

律は、ページを見ながら唖然とした。

「……多くない?」

「少ないくらいだよ♡」

「これ、全部やるつもり?」

「もちろん!」

「……一年で?」

「一年じゃ足りないかも」

陽葵は真剣だった。

「だって、ダーリンと行きたい場所、まだいっぱいあるんだもん」

「……」

「日本中にも行きたいし、いつか海外にも行ってみたい」

「海外……」

「うん!」

陽葵は目を輝かせた。

「海がきれいなところとか、ヨーロッパの古い街並みとか、北欧の街とか……」

「急にスケールが大きくなったな」

「だって、新婚旅行もまだちゃんとできてないでしょう?」

「……まあ」

二人は結婚して半年。

結婚生活は始まっている。

毎日の朝食。

仕事。

買い物。

夕食。

お風呂。

おやすみ。

そういう日常は、確かに幸せだった。

けれど、結婚式や新婚旅行らしい大きなイベントは、まだ十分にはできていない。

「だからね」

陽葵は、ノートを抱えた。

「これから少しずつ、二人の思い出を増やしたいの」

「……うん」

「結婚したからって、デートが終わるわけじゃないでしょう?」

「もちろん」

「むしろ、これからが本番だと思うの!」

陽葵は、にっこり笑った。

「恋人だった頃とは違うデートができるんだよ」

「どう違う?」

「朝起きて、『今日どこ行く?』って相談できる」

「それは恋人のときもできる」

「帰ってきたら、『今日は楽しかったね』って言える」

「それもできる」

「じゃあ――」

陽葵は、少し照れながら言った。

「デートのあと、一緒のお家に帰れる♡」

律は、一瞬黙った。

それから、ふっと笑った。

「それは確かに、結婚してからしかできないな」

「でしょう?」

「うん」

陽葵は嬉しそうに頷いた。

*

そして。

ノートの最後のページ。

そこには、大きな文字で書かれていた。

『次はここ♡』

その下に、まだ何も貼られていないページがある。

「ここは?」

律が聞く。

陽葵は、にっこり笑った。

「秘密です♡」

「秘密?」

「うん」

「何で?」

「ダーリンに、サプライズしたいから」

「……嫌な予感がする」

「ひどい!」

陽葵は頬を膨らませる。

「でも、楽しみにしててね♡」

「分かった」

「絶対だよ?」

「ああ」

陽葵は満足そうにノートを閉じた。

「よしっ!」

「会議終了?」

「ううん」

「まだあるの?」

「ここからが本番!」

陽葵は立ち上がった。

「今日のデートを決めます!」

「今日?」

「うん!」

陽葵はホワイトボードを持ってきた。

そこには、昨日の夜から書いていたらしい。

『休日デート候補』

① 水族館

② 映画

③ 紅葉

④ カフェ巡り

⑤ 商店街食べ歩き

⑥ 何もしない

⑦ 全部

「……⑦?」

「全部♡」

「無理だろ」

「じゃあ①!」

「切り替えが早いな」

「だって……」

陽葵は、水族館の文字を指差した。

「ここ、ずっと行きたかったの」

「水族館?」

「うん!」

「どうして?」

「ペンギンがいるから♡」

「……」

「あと、クラゲも見たい」

「クラゲ」

「うん。ふわふわしていて、きれいだから」

「なるほど」

「それに――」

陽葵は、少しだけ照れた。

「暗い館内で、ダーリンと手をつなぎたい♡」

「……」

律の顔が赤くなる。

「どうしたの?」

「いや……」

「もしかして、もう照れてる?」

「照れてない」

「耳赤いよ♡」

「……陽葵」

「はい♡」

「朝から飛ばしすぎ」

「だって、デートだもん♡」

陽葵は嬉しそうに笑った。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「今日、水族館行こう?」

律は、少しだけ考えた。

そして。

「……行こうか」

「ほんと!?」

陽葵の顔がぱっと輝いた。

「やったぁぁ♡」

「そんなに嬉しい?」

「嬉しいよ!」

陽葵は、その場で小さく跳ねた。

「デート! 水族館デート!」

「落ち着いて」

「落ち着けないよぉ♡」

「まだ出かける準備もしてないだろ」

「そうだった!」

陽葵は慌てて時計を見る。

「わっ、もうこんな時間!」

「だから言っただろ」

「ダーリン、服選んで!」

「自分で選べるだろ」

「今日はダーリンに選んでほしい♡」

「……」

「お願い♡」

陽葵が両手を合わせる。

律は少し困った顔をした。

「じゃあ……その白いニット」

「白いニット?」

「うん。秋っぽいし、似合うと思う」

陽葵は、ぱちぱちと瞬きをした。

「……ダーリン」

「何?」

「ちゃんと私のこと見てるんだね♡」

「そりゃ見るよ」

「……」

今度は陽葵が黙った。

頬が赤い。

「どうした?」

「……ダーリンが、かっこよすぎる」

「意味が分からない」

「もうっ♡」

陽葵は笑いながら寝室へ走っていった。

「着替えてくるねー!」

「走るなよ」

「はーい♡」

その声を聞きながら、律は苦笑した。

そして、テーブルの上に残された『デートノート』を見つめた。

そっと表紙を撫でる。

『ダーリン♡デートノート』

その文字の隣には、小さなハート。

律は少しだけ笑った。

「……本当に、よく覚えてるな」

ページには、二人の時間が詰まっている。

初めて出会った日。

初めて二人で歩いた日。

初めて映画を見た日。

何も予定を決めずに公園へ行った日。

その一つ一つが、陽葵にとっては宝物なのだろう。

そして――。

これから作る思い出も。

きっと、このノートに増えていく。

律はノートを閉じた。

そのとき。

「ダーリン!」

寝室から陽葵の声が飛んできた。

「見てー!」

律が振り返る。

白いニットに、秋色のスカート。

髪を少し整え、鏡の前でくるりと一回転した陽葵が立っていた。

「どう?」

「……似合ってる」

「本当?」

「ああ」

「かわいい?」

「かわいいよ」

「……!」

陽葵の顔が一気に赤くなる。

「もう一回言って♡」

「かわいい」

「もう一回♡」

「……かわいい」

「えへへ♡」

陽葵は嬉しそうに笑った。

「じゃあ、私も言う!」

「何を?」

陽葵は、律の前まで歩いていく。

そして、にっこり笑った。

「今日のダーリンも、かっこいい♡」

「……ありがとう」

「大好き♡」

「うん」

「もっと大好き♡」

「……うん」

「だーい好き♡」

「分かったって」

「ふふっ♡」

陽葵は律の手を取った。

「じゃあ、行こう!」

「水族館へ?」

「うん!」

玄関へ向かう。

靴を履き、鍵を確認する。

陽葵は最後に、デートノートを鞄へ入れた。

「それ、持っていくの?」

「もちろん♡」

「水族館に?」

「今日のデートも記録するから!」

「なるほど」

「今日の一番好きな瞬間、あとで書くんだ♡」

律は少しだけ笑った。

「じゃあ、今日もいい一日にしないとな」

「うん!」

陽葵は、ぎゅっと手を握った。

「ダーリン!」

「ん?」

「今日はいっぱい楽しもうね♡」

「……ああ」

二人は玄関を出た。

秋の風が、ふわりと二人の間を通り抜ける。

商店街には、いつもの朝の景色が広がっていた。

八百屋の店先。

パン屋の看板。

古い時計店。

少し色づいた街路樹。

陽葵は、その景色を見ながら歩いた。

昨日までとは、少しだけ違って見える。

自分たちの街。

自分たちの暮らし。

そして、その中で増えていく思い出。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「この街を出る前に、パン屋さんに寄ってもいい?」

「もちろん」

「千尋さんに、水族館行くって言ってこよう♡」

「わざわざ?」

「だって、デートなんだもん♡」

「……陽葵らしいな」

二人は笑った。

そして、手をつないだまま、商店街を抜けていく。

その手には、昨日より少しだけ強い力が込められていた。

これから始まるのは、水族館デート。

けれど――。

陽葵の「デート攻略計画」は、まだ始まったばかりだった。

水族館。

映画。

紅葉。

夜景。

温泉。

旅行。

まだまだページは空いている。

そして、その空白のページには、これから二人で過ごす「今日」が、一つずつ書き込まれていく。

陽葵は歩きながら、鞄の中のノートをそっと撫でた。

「……いっぱい増やそうね♡」

「何を?」

「思い出」

律は一瞬だけ黙った。

そして。

「……ああ」

優しく答えた。

陽葵は笑った。

秋の青空の下。

二人の休日は、始まったばかりだった。

――けれど、この日の水族館で。

陽葵は、まだ知らない。

普段は何を考えているのか分かりにくい夫・律が、実は魚や海の生き物について、驚くほど詳しいことを。

そして、ペンギンの前で見せる、意外すぎる「固まった顔」を。

それを見た陽葵が、どんな勢いで「ダーリン♡こっち見て!」を連発することになるのかも――。

次のページには、まだ何も書かれていない。

だからこそ。

二人だけの新しい思い出が、そこに描かれる余白は、まだたっぷり残っている。

陽葵のデートノート、その最初の「新しい一ページ」が。

今、始まろうとしていた。

 

 第2節 ペンギンの前で固まった♡

「ダーリン♡ 今日は水族館デートです!」

「……朝から元気だな」

「だって水族館だよ!?」

秋の休日。

陽葵は、朝からずっと浮かれていた。

昨日、デートノートを開いたことで火がついてしまった「恋する新妻」のデート熱は、今朝になってもまったく冷めていない。

むしろ――。

さらに燃え上がっていた。

白いニットに秋色のスカート。

髪もいつもより少しだけ丁寧に整えている。

肩から下げたバッグの中には財布、スマートフォン、ハンカチ。

そして、一番大切なもの。

『ダーリン♡デートノート』

今日の思い出を書き込むためのノートだ。

「忘れ物ない?」

律が尋ねる。

「ないよ!」

「本当に?」

「うん!」

「デートノートは?」

「ある♡」

陽葵はバッグをぽんぽんと叩いた。

「今日の思い出、いっぱい書くんだから!」

「そんなに書くことあるかな」

「あるよ!」

陽葵は即答した。

「水族館なんだよ?」

「それは分かってる」

「ペンギンがいるんだよ?」

「それも分かってる」

「クラゲもいるんだよ?」

「……分かってる」

「イルカも?」

「分かってる」

「じゃあ、行こう!」

「話が飛んでないか?」

「飛んでないよ♡」

陽葵は律の手を取った。

「さあ、ダーリン。出発です!」

「はいはい」

二人は家を出た。

商店街を抜ける。

秋の空は高く、風は少しひんやりしている。

歩きながら陽葵は、何度も律の横顔を見た。

「……?」

律が気づく。

「どうした?」

「ううん♡」

「さっきからこっちを見るけど」

「だって、今日のダーリン、かっこいいなぁと思って」

「……いつもと同じだろ」

「違うよ」

「どこが?」

「デートの日のダーリンは、いつもよりかっこいい♡」

「それは気のせいだと思う」

「じゃあ、私の目がおかしいのかな?」

「……」

「ダーリンしか見えないんだけど♡」

「陽葵」

「はい♡」

「朝から飛ばしすぎ」

「だって、デートだから♡」

陽葵は嬉しそうに笑った。

*

電車を乗り継ぎ、二人は水族館へ向かった。

休日ということもあって、駅から水族館までの道には、家族連れやカップルが多い。

子どもたちは水族館の袋を持ち、大人たちはスマートフォンで写真を撮っている。

陽葵は、そんな人たちを眺めながら歩いていた。

「みんな楽しそう♡」

「そうだな」

「私たちも負けないくらい楽しもうね」

「勝ち負けなのか?」

「もちろん!」

「何に?」

「デート満足度♡」

「そんな大会ないだろ」

「私の中では開催中です!」

「そうか」

律が苦笑する。

やがて、水族館の建物が見えてきた。

「……わあ」

陽葵の足が止まった。

大きな看板。

青い海をイメージした装飾。

入口の近くには、魚やペンギンの写真が並んでいる。

「ダーリン!」

「ん?」

「着いたよ!」

「見れば分かる」

「でも言いたいの!」

陽葵は嬉しそうに律の腕を引っ張った。

「水族館デート、スタートです♡」

*

館内に入ると、少し暗い照明に変わった。

青い光が壁や床に反射し、水の中にいるような雰囲気を作っている。

陽葵は、入った瞬間から目を輝かせた。

「すごい……!」

目の前には、大きな水槽。

色とりどりの魚たちが、ゆっくりと泳いでいる。

「きれい……♡」

陽葵は水槽の前に立った。

青い光が頬を照らす。

その横顔を、律は静かに見つめた。

「ダーリン?」

「ん?」

「どうしたの?」

「いや」

律は視線を水槽へ戻した。

「陽葵が楽しそうだなと思って」

「……!」

陽葵の顔が赤くなる。

「もう……♡」

「何?」

「そういうの、急に言わないでよ」

「本当のことだよ」

「今日のダーリン、本当にどうしたの……♡」

陽葵は照れながら水槽へ向き直った。

「ねえねえ、あの魚、何ていうのかな?」

「クマノミ」

「え?」

「クマノミ」

「……え?」

陽葵は律を見た。

律は、何でもないような顔をして水槽を見ている。

「分かるの?」

「うん」

「なんで?」

「特徴を見れば分かる」

「へえ……」

陽葵は再び水槽を見る。

オレンジ色と白の模様。

小さな魚が、岩の間を泳いでいる。

「じゃあ……あっちは?」

「チョウチョウウオ」

「こっちは?」

「ナンヨウハギ」

「えっ?」

「その奥はルリスズメダイ」

「えっ、えっ?」

陽葵の目が丸くなる。

「ダーリン……?」

「何?」

「魚、詳しいの?」

「少し」

「少しじゃないよ!」

陽葵は興奮した。

「名前、全部分かってるじゃん!」

「全部ではない」

「でも、私には全部分かってるように見える!」

「……そうかな」

律は平然としている。

しかし、陽葵は気づいた。

さっきまでの穏やかな表情とは少し違う。

魚を見ている律の目は、どこか楽しそうだった。

「ダーリン……」

「ん?」

「もしかして、魚好き?」

「……」

一瞬。

律が黙った。

「好きなの?」

「……嫌いではない」

「それ、好きってことだよね?」

「まあ……」

「わーっ♡」

陽葵は嬉しそうに笑った。

「知らなかった!」

「言ってなかったからな」

「なんで教えてくれなかったの?」

「聞かれなかったから」

「じゃあ、今日聞いてよかった♡」

陽葵は律の腕にそっと寄り添った。

「ダーリンの新しい一面、発見!」

「大げさだな」

「大げさじゃないよ!」

陽葵はデートノートを取り出した。

「メモしなきゃ!」

「今?」

「今!」

陽葵はページを開いた。

『本日の発見① ダーリン、魚に詳しい。かなり詳しい。』

その下に、さらに書き足す。

『普段より目が輝いている。かわいい♡』

「……陽葵」

「なに?」

「それ、書く必要ある?」

「あります♡」

「……」

律は諦めたように水槽を見る。

陽葵は嬉しそうに笑った。

*

二人は次の水槽へ進んだ。

そこには、大きな魚が泳いでいた。

「わあっ!」

陽葵が声を上げる。

「大きい!」

「ジンベエザメだな」

「……」

陽葵は律を見る。

「また分かった」

「見れば分かるだろ」

「いや、これは私でも分かるけど!」

陽葵は笑った。

「じゃあ、あの魚は?」

「マンボウ」

「……!」

「あっちはエイ」

「……!」

「その奥にいるのは……」

律が水槽をじっと見る。

「トラフザメ」

「……」

陽葵は、完全に固まった。

「……ダーリン」

「何?」

「すごい」

「そう?」

「すごいよ!」

陽葵は目を輝かせた。

「何でそんなに知ってるの!?」

「昔、少し調べてた」

「昔?」

「ああ」

「図鑑とか?」

「図鑑も見たし、写真も見た」

「……かわいい」

「何が?」

「魚に詳しいダーリン♡」

「……」

律は少しだけ視線を逸らした。

その仕草を見て、陽葵は笑った。

「照れてる♡」

「照れてない」

「照れてるよ♡」

「……」

「かわいい♡」

「陽葵」

「はい♡」

「魚を見よう」

「はーい♡」

陽葵は素直に水槽へ向き直った。

けれど、その口元はずっと笑っていた。

*

そして。

館内をしばらく進んだところで――。

二人は、目的の場所へたどり着いた。

ペンギンエリア。

「……!」

陽葵の目が大きく見開かれる。

「ダーリン!」

「ん?」

「あそこ!」

水槽の向こう。

小さなペンギンが歩いている。

一羽が水へ飛び込み、勢いよく泳いでいく。

「かわいいぃぃぃ♡」

陽葵はガラスの前へ駆け寄った。

「見て! 見てダーリン!」

「……」

「泳いでる!」

「……」

「今、こっち見た!」

「……」

「ダーリン?」

返事がない。

陽葵が振り返る。

「……ダーリン?」

律は。

固まっていた。

完全に。

「…………」

「…………」

「ダーリン?」

律は、ペンギンを見つめたまま動かない。

「……」

「……?」

陽葵は首を傾げた。

「どうしたの?」

律は答えない。

「ダーリン?」

もう一度呼ぶ。

それでも動かない。

陽葵は律の顔の前で、手をひらひらさせた。

「ダーリン?」

「……」

「もしもーし?」

「……」

「ダーリン、こっち見て♡」

ようやく。

律の目が、ゆっくりと陽葵へ向いた。

「……」

「……」

陽葵は、思わず吹き出した。

「ぷっ……!」

「……何?」

「だって……!」

陽葵は笑いをこらえようとする。

「ダーリン、すごい顔してる!」

「どんな顔だよ」

「完全に固まってた!」

「……」

「もしかして……」

陽葵は、ペンギンを見る。

それから律を見る。

「ペンギン、好き?」

「……」

律は答えなかった。

「好きなんだ♡」

「……別に」

「好きなんだね♡」

「……嫌いじゃない」

「またそれ!」

陽葵は笑った。

「それ、ダーリンの『好き』の言い方なんだ!」

「……」

「じゃあ、魚より好き?」

「……比較するものじゃないだろ」

「じゃあ、私とどっちが好き?」

「……」

律が陽葵を見る。

陽葵は期待に満ちた顔で見つめている。

「……陽葵」

「はい♡」

「何を言わせたいんだ?」

「ダーリンの本音♡」

律は、少しだけ困ったように笑った。

「……陽葵が一番だよ」

「……!」

今度は陽葵が固まった。

「……え」

「何?」

「……ずるい」

「何が?」

「急にそれ言うの、ずるいよ……♡」

顔が真っ赤になる。

律は小さく笑った。

「ペンギン見てたんじゃなかったのか?」

「見てるよ!」

陽葵は慌ててペンギンへ視線を戻した。

「でも今はダーリン見ちゃう!」

「忙しいな」

「だって好きなんだもん♡」

二人は並んでペンギンを眺めた。

一羽が水へ飛び込む。

もう一羽が後を追う。

小さな羽をぱたぱたさせながら、よちよちと歩く。

「かわいいねぇ……♡」

「……うん」

「ダーリン、やっぱり好きでしょう?」

「……うん」

「認めた!」

「……」

陽葵は、にこにこしている。

「デートノートに書こうっと」

「また?」

「もちろん!」

陽葵はノートを開いた。

『本日の発見② ダーリンはペンギンが好き。かなり好き。』

その下に大きく。

『ペンギンの前で固まる。かわいい♡』

律が覗き込む。

「……それは消して」

「やだ♡」

「陽葵」

「記録です!」

「……」

「未来の私が読んだら、絶対笑うもん♡」

「未来の俺も読むのか?」

「もちろん!」

「……」

「夫婦なんだから♡」

律は何も言えなかった。

ただ、少しだけ笑っていた。

*

ペンギンエリアを離れたあとも、律の魚博士ぶりは止まらなかった。

大きな水槽では、

「マダラトビエイ」

「ホホジロザメ」

「アカシュモクザメ」

と次々に名前を当てる。

熱帯魚のコーナーでは、

「ハナミノカサゴ」

「タテジマキンチャクダイ」

「ツノダシ」

と、またまた即答。

陽葵は途中から、魚を見るより律を見るほうが楽しくなっていた。

「……ダーリン」

「ん?」

「すごいね」

「何が?」

「魚の名前、全部言える」

「全部じゃないって」

「私には全部!」

「……」

「ねえ、何でそんなに覚えてるの?」

「名前を知ると、見方が変わるから」

「見方?」

「ああ」

律は水槽を見ながら話した。

「ただ『魚』として見るより、名前が分かると、その生き物の特徴にも目が行くようになる」

「……なるほど」

「同じ魚でも、泳ぎ方や体の形、色の違いが分かると面白い」

陽葵は、その言葉を聞いて、ふっと笑った。

「それ、私と同じだね」

「陽葵と?」

「うん」

「どうして?」

「商店街と同じ」

陽葵は水槽を見た。

「最初は、ただの商店街だったの。でも、八百屋さんの佐藤さんとか、千尋さんとか、とよさんとか、名前を知って、話をして、少しずつその人のことを知っていったら、街の見え方が変わった」

「……」

「だから、名前を知るって、すごく大切なんだね」

律は、少し驚いたように陽葵を見た。

「そうかもしれないな」

「ダーリンが魚の名前を全部覚えている理由、なんとなく分かった気がする」

「……そんな大した理由じゃないよ」

「ううん」

陽葵は笑った。

「ダーリンらしいと思う♡」

律は、少し照れたように目を逸らした。

「……そうかな」

「そうだよ」

陽葵は、そっと律の手を握った。

「私、もっとダーリンのことも知りたい」

「……」

「好きな魚も、好きな食べ物も、昔好きだったものも。子どもの頃のことも。知らないこと、まだいっぱいあるでしょう?」

「ああ」

「だから、教えてね♡」

「……分かった」

「約束?」

「ああ、約束」

陽葵は嬉しそうに笑った。

*

昼が近づいてきた。

二人は館内のカフェへ向かった。

「何食べようかなぁ♡」

メニューを眺めながら、陽葵が悩む。

「私は……イルカの形のクッキー!」

「昼食じゃないだろ」

「じゃあ、カレー!」

「急に普通になったな」

「デザートはペンギンアイス♡」

「……」

「ダーリンは?」

「サンドイッチでいい」

「じゃあ、半分こしよう」

「いいよ」

料理が運ばれてくる。

陽葵はペンギンの形をしたアイスを見つめ、嬉しそうに写真を撮った。

「かわいい……♡」

「食べないの?」

「写真撮ってから!」

「溶けるぞ」

「分かってる!」

急いで何枚か撮影する。

「よし!」

スプーンを入れようとしたところで、陽葵が止まった。

「……ダーリン」

「ん?」

「これ……」

ペンギンアイスを指差す。

「食べられない」

「……」

「かわいすぎる」

「食べないと溶けるよ」

「でも……」

「陽葵」

「うぅ……」

律は少し考えた。

そして。

「じゃあ、俺が食べようか?」

「えっ」

「陽葵が食べられないなら」

「……ダーリンが食べるの?」

「ああ」

「……」

陽葵は少し考えて。

「……じゃあ、一緒に食べよう♡」

「どうやって?」

「半分こ!」

「アイスを?」

「うん♡」

結局、二人で一口ずつ食べることになった。

「おいしい♡」

「うん」

「でも、ちょっと寂しい」

「何で?」

「ペンギンがいなくなっちゃった……」

「食べたからな」

「うぅ……」

「また次に来ればいい」

「……!」

陽葵の目が輝いた。

「また来る?」

「ああ」

「約束?」

「約束」

「じゃあ、次はペンギンに会いに来ようね♡」

「うん」

陽葵は、幸せそうに笑った。

*

午後。

館内を一通り見終えた二人は、出口近くのお土産コーナーへ向かった。

陽葵の目が、また輝く。

「わああ……!」

ペンギンのぬいぐるみ。

イルカのキーホルダー。

魚の図鑑。

海をイメージしたアクセサリー。

「ダーリン!」

「何?」

「見て!」

陽葵が抱えていたのは、小さなペンギンのぬいぐるみだった。

「かわいい♡」

「……かわいいな」

「お家に連れて帰りたい」

「いいんじゃない?」

「本当?」

「ああ」

「じゃあ――」

陽葵はぬいぐるみを胸に抱えた。

「この子、今日から家族です♡」

「家族?」

「うん!」

「名前は?」

「……」

陽葵は真剣に考え始めた。

「ペンちゃん」

「普通だな」

「じゃあ……ダーリン二号」

「それはやめて」

「ふふっ♡」

陽葵は笑った。

「じゃあ、ペンちゃんにしよう」

「うん」

「ダーリンと私の水族館デート記念です♡」

「そうだな」

二人はレジへ向かった。

*

帰り道。

夕方の空は、淡いオレンジ色に染まっていた。

電車の窓から見える景色も、少しずつ夕暮れへ変わっていく。

陽葵は、購入したペンギンのぬいぐるみを膝の上に置いていた。

「今日は楽しかったね♡」

「ああ」

「すっごく楽しかった!」

「それならよかった」

「ペンギンかわいかったし、魚もいっぱい見られたし……」

陽葵は律を見る。

「何より、ダーリンの知らなかった一面が見られた♡」

「魚のこと?」

「うん!」

「そんなに珍しいかな」

「珍しいよ!」

陽葵は笑った。

「私、ダーリンのこと、もっと知りたくなった」

「……」

「だから、これからもデートしようね」

「もちろん」

「いろんな場所に行って、いろんなものを見て、いろんな話をしよう」

「ああ」

「そして――」

陽葵は、デートノートを取り出した。

今日のページを開く。

そこには、すでにいくつもの文字が並んでいた。

『本日の発見① ダーリン、魚に詳しい』

『本日の発見② ダーリン、ペンギンが好き』

『本日の発見③ ペンギンの前で固まる。かわいい』

そして、その下に新しく書き込む。

『本日の感想』

陽葵はペンを走らせた。

『今日のデートは、とても楽しかった。

水族館は、魚やペンギンを見る場所だけじゃなくて、ダーリンの知らなかった一面を見る場所にもなりました。

魚の名前を次々に言い当てるダーリン。

ペンギンの前で固まるダーリン。

どっちも、私の知らなかったダーリン。

でも、どっちも大好き。

そして、今日思ったこと。

デートって、行った場所を覚えるだけじゃない。

一緒に何を見て、何を感じて、どんな顔をしたのか。

それを覚えておくことなのかもしれない。

今日のダーリンの顔。

絶対に忘れない♡』

最後に、小さなハートを描いた。

そして、律を見る。

「……ダーリン」

「ん?」

「今日のデート、何点?」

律は少し考えた。

「……百点」

「えっ!」

陽葵の目が輝く。

「百点!?」

「ああ」

「じゃあ、私のデート攻略、大成功?」

「大成功」

「やったぁ♡」

陽葵は嬉しそうに笑った。

「じゃあ次は、もっと高得点を狙います!」

「百点より上?」

「もちろん!」

「……どうするつもり?」

「秘密♡」

陽葵は、いたずらっぽく笑った。

「次のデートノートに書くから、お楽しみに!」

「分かった」

夕暮れの電車が、二人を乗せて走っていく。

陽葵の膝の上には、小さなペンギン。

そして、その隣には律の手。

陽葵は、その手をそっと握った。

律も握り返した。

何も言わなくても、それだけで嬉しかった。

*

家に帰る頃には、すっかり日が暮れていた。

玄関に入ると、陽葵はペンギンのぬいぐるみを抱えたまま叫んだ。

「ただいまー♡」

「……ただいま」

誰もいない家なのに、二人で「ただいま」と言う。

それが、陽葵には嬉しかった。

靴を脱いで、ペンギンをリビングのソファへ座らせる。

「今日からここが君の席ね♡」

「……」

「ダーリン、見て!」

「ん?」

「ペンちゃん、ちゃんと座ってる♡」

「うん」

「かわいい……♡」

陽葵は満足そうに笑った。

そして、ふと律を見る。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「今日、ペンギンの前で固まったときの顔……」

「……」

「写真撮ればよかった♡」

「それはやめて」

「ふふふっ♡」

「本当にやめて」

「じゃあ、私の記憶にだけ残しておくね♡」

「それならいい」

「大切な思い出にします♡」

「……そうか」

陽葵は笑った。

そして、律の前へ歩いていく。

「ダーリン♡」

「ん?」

「今日はありがとう」

「何が?」

「デートしてくれて」

「俺も楽しかったよ」

「……本当?」

「ああ」

「じゃあ……」

陽葵は、少しだけ背伸びをした。

「今日の締めくくり♡」

「……?」

ちゅっ。

頬に、小さなキス。

「……」

律が固まった。

「……ダーリン?」

「……今度は俺が固まる番か」

「ふふっ♡」

陽葵は笑った。

「今日、一番かわいかったのはペンギンじゃなくて――」

律を見る。

「ダーリンでした♡」

「……」

「ダーリン♡こっち見て!」

律は、ゆっくり陽葵を見た。

「……見てるよ」

「えへへ♡」

二人の笑い声が、静かな家の中に響いた。

ソファでは、買ってきたばかりのペンギンが、二人のことを見守っている。

そしてテーブルの上には、今日の思い出が書き込まれたデートノート。

ページは、また一枚増えた。

まだ空白のページはたくさんある。

水族館の次は、どこへ行こう。

何を見よう。

何を食べよう。

どんな顔で笑おう。

そして――。

どんな新しい「ダーリン」を、陽葵は発見するのだろう。

秋の休日。

二人のデート攻略計画は、まだ始まったばかりだった。

第3節 ダーリン♡こっち見て!攻撃、発動中♡

「ダーリン♡ こっち見て!」

「……見てるよ」

「ほんと?」

「ほんと」

「じゃあ、もう一回♡」

「何を?」

「こっち見て!」

水族館からの帰り道。

駅へ向かう歩道を並んで歩きながら、陽葵は夫の顔を下からのぞき込んだ。

律はいつもどおり、落ち着いた表情をしている。

片手には、今日の水族館デートで買った小さなペンギンのぬいぐるみが入った紙袋。もう片方の手は、陽葵の手をしっかり握っていた。

秋の夕暮れは少しずつ深まり、街路樹の葉がオレンジ色に染まっている。

水族館で魚たちを眺め、ペンギンの前で珍しく夢中になっていた律を見て、陽葵は新しい発見をいくつもした。

そして、帰り道になってから気づいたことが、もうひとつある。

――ダーリンって、照れた顔も絶対にかわいい。

そう。

陽葵の胸の中で、ある作戦が静かに始動していた。

「ダーリン♡」

「ん?」

「こっち見て♡」

律が顔を向ける。

陽葵は、にこぉっと笑った。

「えへへ♡」

「……何?」

「ううん♡ ダーリンのお顔が見たかっただけ!」

「さっきからずっと隣にいるだろ」

「隣にいるのと、ちゃんとお顔を見るのは違うの!」

「そういうものか?」

「そういうものです♡」

陽葵は握った手を小さく揺らした。

「だってね、今日は水族館で、ダーリンの知らなかったところをいっぱい見つけちゃったんだもん!」

「魚に詳しいこと?」

「うん!」

「ペンギンが好きなこと?」

「それも!」

「ほかには?」

「えっとねぇ……」

陽葵はわざと考えるように、空いている手の人差し指を頬に当てた。

「ペンギンを見ているとき、周りの声が聞こえなくなっちゃうところ♡」

「……そこは忘れてくれ」

「やだ♡」

「陽葵」

「だって、かわいかったんだもん!」

「かわいくはないだろ」

「かわいいよ?」

「……」

「ダーリン♡ こっち見て!」

律が反射的に顔を向けた瞬間、陽葵はとびきりの笑顔を見せた。

「大好き♡」

「――っ!」

律の足が、ぴたりと止まった。

陽葵も立ち止まる。

ほんの一瞬。

夕焼けに照らされた律の頬が、じわじわと赤くなっていく。

「……陽葵」

「はい♡」

「急に言うな」

「急じゃないよ? ずっと思ってたもん♡」

「そういう意味じゃなくて……」

「じゃあ、どういう意味?」

「……」

律は口を開きかけて、結局何も言わなかった。

陽葵はその横顔を見つめ、心の中で小さくガッツポーズをした。

――第一回、ダーリン赤面チャレンジ!

成功です♡

しかも、思った以上の効果。

水族館でペンギンに夢中になっていたときは、あんなに真剣な顔をしていたのに。

今は、陽葵のひと言で視線をそらしている。

そのギャップが、たまらなく愛おしかった。

「ねえ、ダーリン♡」

「……今度は何だ」

「もう一回、こっち見て?」

「さっき見ただろ」

「うん。でも、もう一回♡」

「……」

「お願い?」

律はため息をついた。

けれど、握っている手は離さない。

それどころか、陽葵の指をきゅっと握り直した。

「……ほら」

ゆっくりと、律がこちらを見る。

陽葵は満足そうに笑った。

「えへへ♡ 今日もかっこいい!」

「……もう行くぞ」

「あっ、待って待って! ダーリン、耳まで赤いよ?」

「赤くない」

「赤いもん♡」

「夕日のせいだ」

「えー? じゃあ、夕日がなくなったら元に戻っちゃうの?」

「……そうだな」

「じゃあ、夕日がなくなる前にいっぱい見ておこうっと♡」

「何をだ」

「赤いダーリン!」

「陽葵!」

律の少し大きくなった声に、陽葵は思わず笑い声を上げた。

その笑顔を見た律は、困ったように目を細める。

しかし、結局は自分も小さく笑ってしまうのだった。

*

駅に着くと、ホームには帰宅途中の人たちが集まっていた。

電車が来るまで、あと五分。

陽葵はベンチに座り、隣に律を招いた。

「ダーリン、ここ座ろう♡」

「うん」

律が隣に腰を下ろす。

陽葵は紙袋の中をのぞいた。

「ペンちゃん、無事かな?」

「大丈夫だろ。そんなに揺らしてないし」

「今日からお家の仲間だもんね♡」

「仲間……」

「そう! ペンちゃんは、私たちの家族です!」

「家族が増えたな」

「うん♡ これから三人で仲良く暮らそうね!」

「……三人?」

「私とダーリンと、ペンちゃん♡」

「ペンちゃんは何も話さないぞ」

「そんなことないよ。夜になったら、こっそりお話ししてるかもしれないもん!」

「そうなのか?」

「そうだよ! ダーリンが寝たあとに、今日の水族館の思い出を語り合うの♡」

「……俺も混ぜてくれ」

律が真顔で言ったので、陽葵は一瞬きょとんとした。

それから、ぱあっと顔を輝かせる。

「もちろん! ダーリンも一緒だよ♡」

「ならよかった」

「ふふっ。もう、ダーリンってば♡」

陽葵は紙袋を膝に置き、律の肩にこつんと頭を寄せた。

そのまま、そっと顔を上げる。

「ダーリン♡」

「ん?」

「こっち見て♡」

「……またか」

「またです♡」

律は周囲をちらりと見た。

ホームには人がいる。

電車を待っている人もいれば、スマートフォンを見ている人もいる。

その中で、妻がこちらを見上げて、期待に満ちた瞳を向けていた。

「……何?」

「ううん。ダーリンの横顔、好きだなぁって思って♡」

「……」

「お仕事してるときの真剣なお顔も好き。ご飯を食べてるときのお顔も好き。眠そうなお顔も好き。私のお話を聞いてくれるときのお顔も好き!」

「陽葵」

「あとね、ペンギンを見てるときのお顔も好き♡」

「……それはもういい」

「えーっ! どうして?」

「……思い出すから」

「何を?」

「自分がどれだけ夢中だったかを」

「ふふふっ♡ かわいい!」

「かわいくない」

「かわいいよぉ♡」

陽葵は律の袖をつまんだ。

「ねえ、ダーリン。私ね、今日、すごく嬉しかったの」

「水族館が楽しかったから?」

「それもあるけどね……」

陽葵は少しだけ声を落とした。

「ダーリンの知らなかったところを、またひとつ知れたから」

律がこちらを見る。

今度は、陽葵から「こっち見て」と言わなくても。

「魚の名前をいっぱい知ってることも、ペンギンが大好きなことも。いつもは落ち着いてるダーリンが、夢中になると周りが見えなくなっちゃうことも」

「……最後のは余計だ」

「ふふっ。でもね、そういうところも、もっと知りたいなって思ったの」

陽葵は、握った手に少し力を込めた。

「結婚して半年くらい経ったけど、まだまだ知らないことがあるんだね♡」

「……そうだな」

「だから、これからもいっぱいデートしようね?」

「うん」

「知らないダーリンを、いっぱい見つけたい!」

律はしばらく陽葵を見つめていた。

そして、そっと彼女の頭に手を置く。

「俺も、陽葵の知らないところを見つけたいよ」

「……え?」

「まだ知らないこと、たくさんあるだろ」

今度は陽葵が固まった。

予想していなかった返事だった。

「……ダーリン?」

「何?」

「こっち見て……?」

「見てるよ」

「……もう一回、言って?」

「何を?」

「今の……」

律は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「陽葵のこと、もっと知りたいって」

「――っ!」

陽葵の頬が、一気に熱くなった。

さっきまで夫の赤面を楽しんでいたのに。

今度は自分が、真正面から攻撃を受けている。

「だ、ダーリン……!」

「ん?」

「そ、そういうのは……急に言わないでぇ……!」

「急じゃないよ。ずっと思ってた」

「~~~っ♡」

陽葵は両手で顔を覆った。

律はその様子を見て、静かに笑った。

「……耳まで赤いぞ」

「それは夕日のせいですっ!」

「もう日が沈みかけてるけど」

「夕日の余韻ですっ!」

「そうか」

「そうですっ!」

ホームに電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。

陽葵は顔を隠したまま、律の腕にぎゅっとしがみついた。

――第二回、ダーリンの反撃チャレンジ!

まさかの大成功。

そして、陽葵は悟った。

自分ばかりが攻撃しているつもりでも、ダーリンにはダーリンの強力な武器がある。

それは、飾らない言葉。

普段は口数が多くないからこそ、時々まっすぐに伝えてくれる気持ちが、胸の奥まで届いてしまうのだ。

*

電車に乗ると、二人は並んで座れた。

陽葵は窓側、律はその隣。

夕暮れの街が、窓の外をゆっくりと流れていく。

陽葵はデートノートを取り出した。

「よーし♡ 本日の記録を追加します!」

「帰ってから書くんじゃなかったのか?」

「忘れないうちに書くのが大事なの!」

「なるほど」

陽葵はペンを走らせる。

『本日の発見④ ダーリンは、褒められると赤くなる』

『本日の発見⑤ ダーリンは、ペンギンの前で固まる』

『本日の発見⑥ ダーリンは、ときどき反撃してくる。しかも強い』

「……おい」

「ん?」

「今、何を書いた?」

「今日の大切な思い出♡」

「見せて」

「えっ、だめぇ!」

陽葵はノートを胸に抱え、身体を反対側に向けた。

律が手を伸ばす。

「どうして?」

「だって、ダーリンの赤面記録がいっぱいなんだもん!」

「そんな記録は必要ないだろ」

「必要です! 私にとっては重要資料です!」

「何の資料だよ」

「ダーリン観察日記です♡」

「……俺はいつから観察対象になったんだ」

「結婚した日から?」

「最初からか」

「うん♡」

陽葵は悪びれもせずに笑った。

律は困ったように息を吐いたが、怒っている様子はない。

むしろ、陽葵がノートを抱きしめている姿を、どこか楽しそうに見ていた。

「……そんなに俺のことを見ていて、飽きないのか?」

「飽きないよ?」

陽葵は即答した。

「だって、毎日違うんだもん」

「毎日?」

「うん。朝のダーリンと、夜のダーリンは違うし。お仕事の日とお休みの日も違うし。疲れてるときも、嬉しいときも、ちょっと困ってるときも、全部違うでしょ?」

「……まあ、そうだな」

「だから、もっと見たいの♡」

陽葵はノートを閉じた。

「私ね、ダーリンと一緒に暮らし始めてから、何でもない日が特別になったの」

律は黙って聞いている。

「朝ごはんを一緒に食べることも、お仕事に行くダーリンを見送ることも、帰ってきたダーリンに『おかえり』って言えることも。前は、こんなに嬉しいって思わなかった」

窓の外に、住宅街の明かりがひとつ、またひとつと灯り始める。

「でも、今はね……」

陽葵は律の肩に頭を預けた。

「ダーリンが隣にいるだけで、今日はいい日だったなって思えるの♡」

律の手が、そっと陽葵の頭を撫でた。

「……俺もだよ」

「……ほんと?」

「うん」

「お仕事で疲れて帰ってきても?」

「うん」

「私がいっぱいお話ししても?」

「……それは、少し疲れるときもある」

「えええーっ!?」

陽葵が勢いよく顔を上げた。

律は真面目な顔をしていた。

「でも、嫌じゃない」

「……ダーリン♡」

「陽葵が楽しそうに話してるのを聞くのは好きだから」

「……っ!」

陽葵は、またしても言葉を失った。

そして、ゆっくりと律の腕にしがみつく。

「……ずるい」

「何が?」

「ダーリン、ずるいよぉ……!」

「そうか?」

「そうです! 私が攻撃してたのに、いつの間にか私が赤くなってるんだもん!」

「攻撃って……」

「『ダーリン♡こっち見て!』作戦です!」

「作戦名まであるのか」

「あります!」

「……知らなかった」

「今、発表しました♡」

律はとうとう、声を出して笑った。

陽葵はその笑顔を見て、ぱちぱちと瞬きをした。

「……あ」

「ん?」

「ダーリン、今、笑った!」

「笑ったけど」

「声を出して笑った!」

「そんなに珍しいか?」

「珍しいっていうか……大好き!」

「……」

「ダーリン♡ こっち見て!」

「はいはい」

律がこちらを向く。

陽葵は彼の頬に、そっと自分の頬を寄せた。

「その笑顔、私だけにいっぱい見せてね♡」

律の耳が、また赤くなった。

陽葵は心の中で小さく叫んだ。

――第三回、赤面チャレンジ!

成功です♡

しかし。

「……陽葵」

「はい♡」

「俺だけに見せてほしいものもあるんだけど」

「……え?」

律は陽葵の耳元に顔を近づけ、声を落とした。

「陽葵の笑顔」

「……っ!?」

「俺の前で、これからもいっぱい笑ってて」

陽葵の顔が、みるみる赤くなった。

「……だ、ダーリン……!」

「何?」

「……こっち見て、って言ったのは私なのに……!」

「見てるよ」

「……もうっ♡」

陽葵は律の胸元に顔をうずめた。

律は、そんな妻をそっと抱き寄せる。

電車の揺れに合わせて、二人の肩が小さく触れ合った。

陽葵は顔を隠したまま、心の中で認めた。

――ダーリンの反撃は、威力が強すぎます。

*

最寄り駅に着いたころには、空はすっかり夜になっていた。

駅前の商店街には、夕食の買い物を終えた人たちが行き交っている。

いつものパン屋さんの前を通ると、店先の明かりが温かく道を照らしていた。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「今日のデート、何点?」

陽葵はデートノートを胸に抱え、期待に満ちた目で律を見上げた。

「何点って?」

「デートノートの評価です♡ 水族館デート、百点満点で何点でしょう?」

「……百点」

「えっ!?」

陽葵は目を丸くした。

「ひゃ、百点!? 本当に!?」

「うん」

「だって、ペンギンの前でダーリンが固まったり、私がいっぱい『こっち見て』って言ったり、帰りの電車で顔が真っ赤になったり……」

「……それは評価項目なのか?」

「もちろんです♡」

「じゃあ、百点」

律は当たり前のように言った。

「楽しかったから」

「……」

「陽葵と一緒だったから」

「…………」

「それじゃ、足りない?」

陽葵はノートをぎゅっと抱きしめた。

「……足りないどころか、百点満点じゃ足りないよぉ……!」

「なら、何点にする?」

「一億点!」

「ずいぶん増えたな」

「だって、ダーリンがそんなこと言うんだもん♡」

陽葵は嬉しそうに笑った。

それから、ふと思いついたように律の前に回り込む。

「ダーリン♡ こっち見て!」

「……はい」

「今日も一日、ありがとう♡」

今度の声は、からかうような響きではなかった。

真っすぐで、優しくて、少しだけ甘えた声。

「一緒に水族館に行ってくれてありがとう。魚のことを教えてくれてありがとう。ペンギンの前で夢中になってくれてありがとう。帰り道も、いっぱいお話ししてくれてありがとう」

陽葵は律の手を両手で包み込んだ。

「それから……私のこと、もっと知りたいって言ってくれてありがとう♡」

律はしばらく黙っていた。

そして、陽葵の手を握り返す。

「……こちらこそ」

「えへへ♡」

「次はどこに行こうか」

「えっ、もう次のデート!?」

「デートノートに、まだ行きたい場所がたくさん書いてあるだろ」

「……うん!」

陽葵はノートを開き、ぱらぱらとページをめくった。

「水族館は今日行ったでしょ? 次は紅葉狩りもいいし、動物園もいいし、夜景も見たいし……あっ、パン屋さん巡りもしたい!」

「パン屋さん巡りは、仕事でもしてるんじゃないか?」

「違うの! ダーリンと一緒に行くパン屋さん巡りは、特別なの♡」

「そうか」

「うん! ダーリンが選んだパンを半分こしたり、知らないパンを一緒に食べたり……。あっ、食べ歩きもいいね!」

「食べ過ぎないようにな」

「むぅ……ダーリンはすぐそういうこと言うんだから!」

「おいしいものをたくさん食べるのはいいけど、無理はしないように」

「……もう♡」

陽葵は不満そうに頬を膨らませたあと、すぐに笑った。

「そういうところも好き!」

「……はいはい」

「はいは一回です♡」

「はい」

「よろしい♡」

陽葵は満足そうにうなずいた。

それから、ふと足を止める。

「……あのね、ダーリン」

「うん?」

「今日、私ばっかり『こっち見て』って言ってたでしょ?」

「そうだったな」

「だからね……」

陽葵は少しだけ照れくさそうに、つま先をそろえた。

「今度は、ダーリンからも言ってほしいな♡」

「……何を?」

「『陽葵、こっち見て』って」

律は瞬きをした。

「……俺から?」

「うん♡」

「どうして?」

「だって……」

陽葵は小さな声で続けた。

「ダーリンに見てほしいのは、私だけじゃないから」

「……」

「私も、ダーリンに見つけてほしいの。新しいお洋服を着たときも、髪型を変えたときも、嬉しいことがあったときも……。ちょっと落ち込んだときも」

陽葵は、少しだけ視線を落とした。

「私ね、ダーリンに『こっち見て』って言うと、ちゃんと私を見てくれるでしょ? それがすごく嬉しいの」

律は静かに聞いていた。

「だから、ダーリンからも……私を見たいって思ってもらえたら、もっと嬉しいなって」

ほんの少し、夜風が吹いた。

陽葵の髪が頬にかかる。

律はその髪を指先でそっと払った。

「……陽葵」

「……はい」

「こっち見て」

「……え?」

陽葵が顔を上げる。

律は、いつもの落ち着いた表情で彼女を見つめていた。

「……今日も、かわいいよ」

「――っ!?」

陽葵は完全に固まった。

数秒前まで、律の赤面を楽しんでいたはずなのに。

今は自分の頬が熱くて、熱くて、どうしようもない。

「……だ、だ、だ、ダーリン……!」

「ん?」

「い、今……!」

「うん」

「私が言ってほしいって言ったから……?」

「それもあるけど」

律は少しだけ笑った。

「本当に、そう思ったから」

「~~~~っ♡」

陽葵はその場でしゃがみ込みそうになった。

慌てて律の腕にしがみつく。

「だめぇ……! ダーリン、それは反則ですぅ……!」

「反則?」

「私が赤くなっちゃうもん!」

「……俺も、さっき赤くなってたと思うけど」

「それは……!」

陽葵は顔を上げ、律を見つめた。

「……それは、私が見たいからいいの♡」

「自分勝手だな」

「新妻の特権です♡」

「そんな特権があるのか」

「あります!」

陽葵はきっぱりと言い切った。

律は笑いながら、彼女の手を握る。

「じゃあ、俺にも特権をひとつ」

「……特権?」

「陽葵が照れてる顔を、もう少し見ていたい」

「――っ!?」

陽葵は再び顔を覆った。

「ダーリンのばかぁ……!」

「ばか?」

「そうです! 優しくて、かっこよくて、時々ずるくて……!」

「ずいぶん褒められてる気がするけど」

「褒めてないもん!」

「そうか」

「……褒めてるけどぉ……!」

律は、とうとうこらえきれずに笑った。

陽葵はその笑い声を聞きながら、彼の腕に顔を寄せる。

自分が夫を赤面させるつもりだったのに。

最後には、すっかり自分のほうが振り回されてしまった。

でも、それでいい。

こうして笑い合えることが、何より嬉しいのだから。

*

家に帰ると、陽葵は玄関で靴を脱ぐなり、ペンちゃんの紙袋を大事そうに抱えた。

「ただいま、ペンちゃん♡」

「まだ袋の中だぞ」

「分かってます! 今、出してあげるからねぇ♡」

リビングに入ると、陽葵はペンギンのぬいぐるみを取り出し、ソファの真ん中にちょこんと座らせた。

黒と白の小さな身体。

丸い目。

ちょっとだけ上を向いたくちばし。

「……かわいい♡」

「気に入ったみたいだな」

「うん! ダーリンと一緒に選んだんだもん。大切にするね♡」

陽葵はペンちゃんの頭を優しく撫でた。

「ペンちゃん、今日ね、ダーリンがすごかったんだよ!」

「……俺に聞こえてるけど」

「聞こえるように話してるの♡」

「なるほど」

「お魚の名前をいっぱい知っててね、ペンギンのところで夢中になっちゃってね、それからね……」

陽葵は、今日一日の出来事をもう一度話し始めた。

水族館で見た魚。

大きな水槽の青い光。

ペンギンたちのよちよち歩き。

カフェで食べたアイス。

そして、帰り道に律が見せてくれた、照れた顔。

「……それでね、ダーリンが『本当にそう思ったから』って……♡」

「陽葵」

「はい♡」

「そこは、もういいだろ」

「だめ! 大切なところだから、何回でもお話しするの!」

「……ペンちゃんが困ってるぞ」

「ペンちゃんも聞きたいよねぇ?」

陽葵はぬいぐるみを律のほうへ向けた。

もちろん、ペンちゃんは何も答えない。

律はその様子を見て、肩を揺らして笑った。

「……本当に、楽しそうだな」

「うん♡」

陽葵は笑顔でうなずいた。

「だって、今日もダーリンと一緒だったから!」

その言葉を聞いた律の表情が、ふっと柔らかくなる。

彼は陽葵の隣に座り、彼女の肩を抱き寄せた。

「……俺も楽しかったよ」

「……ダーリン♡」

「また行こうな」

「うんっ♡ 絶対!」

陽葵は律の胸に頬を寄せた。

そして、いつもの言葉を口にする。

「ダーリン♡ こっち見て!」

律は、今度はすぐに顔を向けた。

「……はい」

「えへへ♡」

「何?」

「大好き!」

「……俺も」

「……っ♡」

陽葵の頬が、また赤くなる。

律はその様子を見て、少しだけ得意そうに笑った。

「……今度は、俺の勝ちかな」

「ええっ!?」

「陽葵も赤くなったから」

「そ、それは……!」

「俺ばっかり赤くなるのは不公平だろ」

「……ダーリン、覚えてたの!?」

「もちろん」

陽葵は悔しそうに唇を尖らせた。

しかし、すぐににっこりと笑う。

「……じゃあ、明日はもっといっぱい『こっち見て』って言うもん♡」

「明日も?」

「明日も、明後日も、その次の日も!」

「……大変だな」

「嫌?」

陽葵は、少しだけ不安そうに律を見上げた。

律はすぐに首を横に振った。

「嫌じゃないよ」

「……ほんと?」

「うん。何回でも見る」

「……っ♡」

陽葵は、またしても言葉を失った。

そして、今度は自分から律の胸に飛び込んだ。

「……もう、ダーリン、大好きぃ……!」

律は笑いながら、彼女を優しく抱きしめる。

「俺も大好きだよ、陽葵」

窓の外では、秋の夜が静かに深まっていく。

ソファの真ん中には、今日から家族になったペンちゃん。

その隣には、くっついて離れない新婚夫婦。

陽葵は律の腕の中で、今日のデートを思い返した。

水族館で見つけた、新しいダーリン。

帰り道で見つけた、照れたダーリン。

そして、家に帰ってから見つけた、優しいダーリン。

どれも同じ人なのに、ひとつ知るたび、もっと好きになる。

「……ねえ、ダーリン」

「ん?」

「明日も、私のこと見てくれる?」

「もちろん」

「明後日も?」

「うん」

「ずーっと先も?」

律は少し考えてから、陽葵の額にそっと唇を寄せた。

「……ずっと見るよ」

「……っ♡」

陽葵は、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。

「……じゃあ、私もずっとダーリンを見るね♡」

「それは、もう十分見られてる気がするけど」

「まだまだです!」

「そうか」

「だって、ダーリンは私の大好きな人だもん♡」

陽葵は顔を上げた。

「ダーリン♡ こっち見て!」

「……はい」

「えへへ♡ 大好き!」

「……俺も」

また、陽葵の頬が赤くなる。

律も、少しだけ赤くなる。

二人は顔を見合わせて、同時に笑った。

――明日も、明後日も。

きっと陽葵は言うだろう。

大好きな夫に向かって、何度でも。

「ダーリン♡ こっち見て!」

そして律は、何度でも振り向く。

愛する妻の笑顔を、ちゃんと見つめるために。

今日のデートノートの最後に、陽葵はこう書き加えた。

『本日のまとめ♡』

『ダーリンは、ペンギンの前でも固まるけど、私の「大好き♡」でも固まる』

『そして私は、ダーリンの「俺も大好きだよ」で、何回でも固まる』

『結論――好きな人を見つめるのは、何度だって楽しい♡』

陽葵はノートを閉じ、表紙を優しく撫でた。

「……明日は、どんなダーリンが見つかるかな♡」

隣では、律がペンちゃんをソファの端から真ん中へと移動させていた。

「……ペンちゃん、そこだと落ちるぞ」

「……!」

陽葵は、その小さな気遣いを見逃さなかった。

夫は、ぬいぐるみにまで優しい。

今日の新発見、追加。

陽葵はこっそりノートを開き、最後の一行を書き足した。

『追加発見⑦ ダーリンは、ペンちゃんにも優しい♡』

そして、顔を上げる。

「ダーリン♡ こっち見て!」

「……またか」

「うん♡ 何回でも!」

律は小さく笑い、陽葵を見た。

「……はいはい。こっち見てるよ」

その声は、呆れているようで。

その目は、どこまでも優しかった。

陽葵は、今日も思う。

結婚してよかった。

この人と一緒にいられてよかった。

そして、明日もきっと――。

「ダーリン♡ こっち見て!」

そう言いながら、世界でいちばん大好きな人の顔を、何度でも見つめるのだ。

第4節 映画の夜、ダーリンの横顔に恋をする♡

土曜日の午後、星野家のリビングには、秋の柔らかな日差しが差し込んでいた。

窓の外では、どこかの家の庭から金木犀の香りが漂ってくる。

洗濯物を取り込んで、夕食の下ごしらえも済ませた陽葵は、ソファの前に正座していた。

目の前にあるのは、一冊のノート。

表紙には、ピンク色のペンで大きく書かれている。

**『ダーリン♡デートノート』**

「うーん……」

陽葵は、ページをめくりながら唸った。

「水族館デートは大成功だったし、次は紅葉狩りもいいし、パン屋さん巡りもしたいし……。あっ、夜景も見たいなぁ♡」

ノートのあちこちには、行きたい場所や、やってみたいことがぎっしりと書かれている。

水族館。

遊園地。

紅葉狩り。

夜景。

動物園。

海。

温泉。

美術館。

パン屋さん巡り。

カフェのはしご。

その下には、陽葵らしい小さな文字で、さらに付け足されていた。

『知らない駅で降りてみる♡』

『二人でお弁当を作って公園に行く♡』

『一緒に写真をいっぱい撮る♡』

『ダーリンの好きなものをもっと知る♡』

「……うん。最後のは、絶対に外せないよね!」

陽葵は満足そうに頷いた。

先日の水族館デートでは、魚の名前を次々に教えてくれる律の意外な一面を知った。

そして、ペンギンの前で夢中になっていた姿も。

帰り道には、何度も「ダーリン♡こっち見て!」と呼びかけて、真っ赤になる顔を堪能した。

……つもりだったのだが。

最後には、律からの不意打ちの「今日も、かわいいよ」によって、自分まで真っ赤になってしまった。

「うぅ……思い出しただけで、にやけちゃう……♡」

陽葵はノートを胸に抱きしめた。

結婚して半年。

毎日一緒に暮らしているのに、律のことを考えると、いまだに胸が弾む。

朝、寝ぼけた顔で「おはよう」と言ってくれること。

仕事から帰ってきて「ただいま」と玄関を開けてくれること。

一緒にご飯を食べて、今日あったことを話して、夜には隣で眠ること。

どれも、結婚する前には想像することしかできなかった日常だ。

それが今は、目の前にある。

「……えへへ♡ 幸せだなぁ」

陽葵がひとりで頬を緩めていると、玄関のほうから物音がした。

「ただいま」

「……っ!」

聞き慣れた声に、陽葵はぱっと顔を上げた。

「ダーリン!?」

「うん。ただいま」

仕事帰りの律が、リビングの入り口から顔をのぞかせていた。

今日は土曜日。

午前中だけ、職場に確認したい資料があって出かけていたのだ。

律は上着を脱ぎながら、ソファの前に座っている妻を見た。

「何してるんだ?」

「デートノートを見てたの♡」

「またデートの計画?」

「また、じゃないよ! 大切な作戦会議です!」

「作戦会議か」

「そうです♡」

陽葵はノートを抱えたまま、にっこりと笑った。

「ねえ、ダーリン。今夜、予定ある?」

「特にないけど」

「お仕事の資料は?」

「ひとまず確認できた。急ぎのものはないよ」

「じゃあ……!」

陽葵の目が、きらきらと輝いた。

「今夜は、お家で映画を観ませんか♡」

律は少しだけ考えたあと、頷いた。

「いいね」

「やったぁ♡」

陽葵はソファから立ち上がり、律の前まで駆け寄った。

「映画の夜だよ、ダーリン!」

「うん」

「お部屋をちょっと暗くして、飲み物を用意して、お菓子をいっぱい並べて……。二人でくっついて映画を観るの♡」

「……お菓子は、いっぱいなのか?」

「いっぱいです!」

「夕食は?」

「ちゃんと食べます!」

「ならいいけど」

「もうっ、ダーリンってば♡」

陽葵は笑いながら、律の腕に抱きついた。

そして、いつもの言葉を口にする。

「ダーリン♡ こっち見て!」

「見てるよ」

「えへへ♡ 今夜は、ずーっと一緒だね!」

「そうだな」

「……大好き♡」

律の頬が、ほんの少しだけ赤くなった。

陽葵は見逃さなかった。

――よし。

今夜も、いい予感がします♡

*

午後六時。

夕食を終えた二人は、映画を観るための準備を始めていた。

陽葵はキッチンで飲み物を用意し、律はリビングのテーブルを片づけている。

「ダーリン、飲み物は何がいい?」

「温かいコーヒーにしようかな」

「了解です♡ 私はミルクティー!」

「お菓子は?」

「もちろん、あります!」

陽葵は戸棚から、いくつかのお菓子を取り出した。

チョコレート。

バタークッキー。

小さな袋に入ったポテトチップス。

それから、先日商店街のお菓子屋さんで買っておいた、季節限定の栗のクッキー。

「じゃーん!」

陽葵はテーブルの上にお菓子を並べた。

「映画館みたいにしたかったの♡」

「ずいぶん充実してるな」

「映画館だと、好きなときに好きなお菓子を食べられないでしょ?」

「まあ、そうだな」

「お家なら、途中でお茶を飲んでもいいし、トイレに行ってもいいし、眠くなったら休憩してもいいし……」

陽葵は、そこで少しだけ声を落とした。

「……ダーリンに、くっついてもいいし♡」

「……それが一番の目的じゃないのか?」

「……ばれた?」

「最初から分かってたよ」

「えへへ♡」

陽葵は悪びれずに笑った。

律は呆れたように息を吐いたものの、その目元は優しかった。

「で、何を観る?」

「それがね、候補が三つあるの!」

陽葵はテレビの前に立ち、リモコンを手にした。

「一つ目は、笑えるラブコメ!」

「うん」

「二つ目は、ちょっと泣ける感動映画!」

「うん」

「三つ目は……」

陽葵は、わざとらしく間を置いた。

「ダーリンが選んだ映画♡」

「……それ、候補に入ってるのか?」

「入ってます!」

「俺が選ぶと、陽葵が観たい映画にならないかもしれないぞ」

「いいの!」

陽葵は、きっぱりと言った。

「ダーリンの好きなものも、一緒に楽しみたいんだもん♡」

律は一瞬、返事に迷ったようだった。

それから、少しだけ笑った。

「じゃあ、今日は陽葵が選んでいいよ」

「ええっ!?」

「三つとも陽葵が選んだんだろ?」

「そうだけど……」

「俺は、陽葵と一緒に観られれば何でも楽しいから」

「……っ♡」

陽葵は、リモコンを持ったまま固まった。

――待って。

映画が始まる前から、胸がいっぱいなんですけど!?

「……ダーリン」

「ん?」

「そういうこと、さらっと言うの、ずるいよぉ……♡」

「そうか?」

「そうです!」

陽葵は顔を隠した。

律は小さく笑い、ソファに腰を下ろした。

「それで、何を観る?」

「……ラブコメにします!」

「分かった」

「笑って、ドキドキして、最後は幸せな気持ちになれるやつ♡」

「陽葵らしいな」

「……もうっ!」

陽葵は照れながら、映画を再生した。

部屋の明かりを少し落とす。

テレビの光が、リビングを柔らかく照らした。

ソファには、二人分のクッション。

テーブルには、温かい飲み物とお菓子。

そして、その真ん中には、今日も家族の一員として参加しているペンちゃんが座っていた。

「ペンちゃんも、映画鑑賞だよ♡」

「……ペンちゃんは観られるのか?」

「もちろん! 今日は三人で楽しもうね!」

「俺たちとペンちゃんか」

「そうです♡」

陽葵はペンちゃんの位置を整えてから、律の隣に座った。

「じゃあ、映画スタート!」

*

映画が始まって、十分ほど。

陽葵は、すでに一つの問題に直面していた。

映画が面白い。

主人公の女の子は明るくて、少しおっちょこちょい。

相手役の男性は、普段はクールなのに、彼女の前では時々不器用になる。

まるで、どこかの夫婦を思い出すような組み合わせだった。

……なのに。

陽葵の視線は、画面から少しずつ横へとずれていた。

隣に座っている律。

テレビの光に照らされた横顔。

すっと通った鼻筋。

映画を観ているときの、少しだけ真剣な目。

ときどき、面白い場面でわずかに緩む口元。

そして、片手でマグカップを持ち上げる仕草。

「…………」

陽葵は、じーっと見つめた。

……かっこいい。

いや、知ってる。

結婚する前から知っている。

でも。

こうして隣に座って、同じ画面を見つめている横顔は、何度見ても新鮮だった。

普段、仕事に出かけるときの律は、きちんと身支度を整えている。

家に帰ってきても、落ち着いた表情を崩さないことが多い。

けれど、今は違う。

部屋着で、ソファに座って、コーヒーを片手に映画を観ている。

誰にも見せる必要のない、家の中だけの顔。

その隣に自分がいる。

そう思っただけで、陽葵の胸はぽかぽかと温かくなった。

「……えへへ♡」

思わず、口元が緩む。

すると、画面を見ていた律が、ふいにこちらを向いた。

「……陽葵?」

「……っ!」

陽葵は慌ててテレビに視線を戻した。

「な、なあに?」

「さっきから、何か言いたそうだけど」

「な、何でもないよ?」

「そう?」

「うん!」

律は不思議そうに首を傾げた。

「映画、面白くない?」

「面白いよ! すっごく面白い!」

「ならいいけど」

律は再び画面に目を向けた。

陽葵は、そっと息を吐いた。

危なかった。

あと少しで、心の中の声が口から飛び出してしまうところだった。

――ダーリンの横顔が好きすぎます♡

そんなことを言ったら、映画どころではなくなってしまう。

……いや。

それはそれで、楽しいかもしれない。

「……ふふっ♡」

陽葵は、再び律の横顔を盗み見た。

目が合わないように。

気づかれないように。

こっそり、こっそり。

しかし、隣にいるのは、ほかでもない夫の律だった。

「……陽葵」

「ひゃいっ!?」

思わず、変な声が出た。

律が、ゆっくりとこちらを向く。

「……何でそんなに驚くんだ?」

「な、何でもないです!」

「……」

「映画、観てます!」

「うん。俺も観てるよ」

「……はい!」

律は少し考えたあと、口元を緩めた。

「……もしかして、俺の顔を見てた?」

「――っ!?」

陽葵の頬が、一気に熱くなった。

図星。

大正解。

逃げ場なし。

「……ち、違うよ?」

「違う?」

「……ちょっとだけ、です」

「ちょっとだけ?」

「……いっぱい、です」

最後は、消え入りそうな声になった。

律は目を丸くしたあと、ふっと笑った。

「……そっか」

「……怒らないの?」

「どうして?」

「だって、映画を観てるのに……」

「陽葵が俺を見てたんだろ?」

「……うん」

「なら、別にいいよ」

「……っ♡」

陽葵は、クッションを抱きしめた。

――何、この人。

優しすぎない?

こっそり見ていたことを怒るどころか、別にいいと言ってくれるなんて。

しかも、そんなに自然に。

「……ダーリン」

「ん?」

「……こっち見て♡」

律は、今度はすぐに顔を向けた。

「見てるよ」

「……えへへ♡」

陽葵は笑った。

今度は、隠さずに。

「やっぱり、かっこいい♡」

「……映画の感想じゃないな」

「私にとっては、今日の大切な感想です!」

「そうか」

律は少しだけ耳を赤くしながら、テレビへと視線を戻した。

陽葵は、その横顔を見て、またにやけてしまった。

――本日の発見。

ダーリンは、横顔を褒められると、少しだけ耳が赤くなる。

これは、デートノートに書いておかなければ。

*

映画が中盤に差しかかったころ。

画面の中では、主人公の二人が、ようやくお互いの気持ちに気づき始めていた。

何度もすれ違い、何度も言いかけては言葉を飲み込む。

それでも、相手を大切に思う気持ちだけは、少しずつ伝わっていく。

「……ああ、もう!」

陽葵は、思わず小さな声を上げた。

「そこで素直に言えばいいのに!」

「……言えないんだろ」

律が、落ち着いた声で答えた。

「好きだからこそ、失敗したくないんじゃないかな」

「……そっか」

陽葵は画面を見つめた。

好きだから、言葉にするのが怖い。

好きだから、相手の反応が気になる。

好きだから、ほんの少しのことでも嬉しくなったり、不安になったりする。

……なんだか、分かる気がする。

「でもね、ダーリン」

「うん?」

「私は、好きって何回でも言いたいな♡」

律がこちらを向いた。

「……どうして?」

「だって、言わないと伝わらないこともあるでしょ?」

陽葵は、指先でクッションの端をなぞった。

「私がダーリンのことを大好きなのは、もう知ってると思うけど……。それでも、毎日言いたくなるの」

「……うん」

「朝、おはようって言うみたいに。夜、おやすみって言うみたいに。大好きって言うのも、私たちの毎日の一部にしたいんだ♡」

律は、しばらく黙っていた。

テレビの中では、主人公の女性が、ようやく男性に自分の気持ちを伝えようとしていた。

その場面を見つめながら、律がぽつりと言った。

「……俺も、言うようにしてるよ」

「……え?」

「陽葵が、いつも言ってくれるから」

律は少しだけ照れくさそうに、視線を落とした。

「……俺も、ちゃんと言葉にしたいと思ってる」

陽葵は、息を呑んだ。

「……ダーリン」

「うん?」

「……大好き♡」

「……うん。俺も」

「……えへへ♡」

陽葵は、そっと律の肩に頭を預けた。

律は何も言わず、そのまま受け止めてくれた。

テレビから流れる音楽が、二人の間を優しく満たしていく。

しばらくして、陽葵が小さな声で尋ねた。

「……重くない?」

「何が?」

「私の頭」

「大丈夫」

「……じゃあ、もうちょっとだけ、こうしててもいい?」

「もちろん」

「……ありがとう♡」

陽葵は、目を細めた。

画面の中では、恋人たちがようやく手をつないでいた。

けれど、陽葵にとっては、今ここにある温もりのほうが、ずっと胸に響いていた。

特別な台詞がなくてもいい。

大げさな演出がなくてもいい。

ただ、好きな人の肩に寄りかかって、同じ映画を観ている。

それだけで、心が満たされていく。

――何気ないこの瞬間が、私には恋なんだ♡

陽葵は、心の中でそっと呟いた。

*

映画が終わるころには、テーブルの上のお菓子も、だいぶ少なくなっていた。

「……面白かったぁ!」

陽葵は、ぱちぱちと小さく拍手した。

「最後、よかったね!」

「うん。ちゃんと気持ちが伝わってよかった」

「ね! あそこで勇気を出してよかったよね!」

陽葵は感動の余韻に浸りながら、テーブルの上に目を向けた。

残っているのは、栗のクッキーが二枚と、チョコレートがいくつか。

「あっ!」

陽葵は、栗のクッキーを見つめた。

「ダーリン、見て!」

「ん?」

「栗のクッキー、あと二枚だよ!」

「そうだな」

「これね、私が好きなお菓子屋さんの季節限定なの♡」

「言ってたな」

「うん! 栗の香りがして、甘すぎなくて、おいしいの!」

陽葵は、クッキーを一枚手に取った。

それから、もう一枚を律に差し出す。

「はい、ダーリン♡」

「ありがとう」

二人は、それぞれクッキーを手にした。

……と思ったら。

律は、自分のクッキーを半分に割った。

そして、その片方を陽葵の手元に置いた。

「……はい」

「……え?」

「こっちも食べる?」

陽葵は、目を丸くした。

「……いいの?」

「うん。陽葵、好きなんだろ?」

「……うん!」

「なら、半分こしよう」

律は、当たり前のように笑った。

陽葵は、自分のクッキーを見つめた。

それから、律が差し出してくれた半分を見つめた。

ほんの少しだけ、律のほうが大きい。

……いや。

よく見ると、律は自分の分を小さく割って、陽葵に少し大きいほうを渡してくれていた。

「……ダーリン」

「ん?」

「……こっち、大きいよ?」

「そう?」

「うん。私のほうが大きい!」

「……なら、よかった」

「……っ♡」

陽葵の胸が、きゅうっと締めつけられた。

もちろん、クッキーの大きさなんて、ほんのわずかな違いだ。

それでも。

律は、陽葵が栗のクッキーを好きだと言ったことを覚えていてくれた。

そして、自分の分を分けてくれた。

しかも、少しだけ大きいほうを。

――どうして、この人は。

こんな小さなことまで、幸せにしてくれるんだろう。

「……ダーリン」

「うん?」

「……ありがとう♡」

陽葵は、クッキーを大事そうに受け取った。

「……大切に食べるね」

「いや、普通に食べていいよ」

「だってぇ……!」

陽葵は、少しだけ頬を膨らませた。

「ダーリンがくれたんだもん♡」

「同じクッキーだろ?」

「違うの!」

「……何が?」

「ダーリンがくれたクッキーは、特別なの!」

律は、困ったように笑った。

「……そうか」

「そうです♡」

陽葵は、クッキーをひと口かじった。

栗の優しい香りが、口の中に広がる。

「……おいしい♡」

「よかった」

「ダーリンも食べて?」

「うん」

律も、自分の分を口に運んだ。

その様子を見て、陽葵は再び、じっと横顔を見つめた。

……ああ。

やっぱり、好き。

クッキーを食べるときの、少しだけ緩んだ口元。

おいしいものを食べたときの、ほんのわずかな表情の変化。

自分が「おいしいね」と言うと、律も「うん」と返してくれる。

そんな小さなやり取りが、たまらなく愛おしい。

「……ふふっ♡」

「……また笑ってる」

「だってぇ……」

陽葵は、クッキーを持ったまま、律の肩にそっと寄りかかった。

「ダーリンと半分こすると、いつものお菓子がもっとおいしくなるんだもん♡」

「……そうなのか?」

「そうなの!」

「なら、また買ってこようか」

「……えっ?」

「陽葵が好きなら、また一緒に買いに行こう」

「……っ♡」

陽葵は、とうとうクッキーを持つ手を止めた。

胸の奥が、いっぱいだった。

お菓子がなくなったら、また買えばいい。

そう言ってくれること。

次も一緒に行こうと、自然に約束してくれること。

それは、ただクッキーを食べるだけの話ではない。

これからも一緒に、同じ時間を過ごしていこう。

そんな気持ちが、言葉の中に隠れているように思えた。

「……ダーリン♡」

「ん?」

「……私ね、今、すごく幸せ」

律は陽葵の顔を見た。

「……うん」

「すっごく、すっごく幸せなの♡」

陽葵は、笑いながら目を細めた。

「映画も楽しかったし、お菓子もおいしいし、ダーリンは優しいし……。こんな普通の夜が、ずっと続いたらいいなぁって思っちゃう」

律は少しだけ目を伏せたあと、陽葵の頭を優しく撫でた。

「……続けていこうよ」

「……え?」

「こういう夜を、これからも」

陽葵は、息を止めた。

「……ダーリン」

「映画を観たり、好きなお菓子を買ったり。何でもない話をしたり」

律は、照れくさそうに笑った。

「……俺も、そういう時間が好きだから」

「…………」

陽葵は、クッションをぎゅっと抱きしめた。

そして、ついに耐えきれなくなった。

「……ダーリン、大好きぃぃぃ♡♡♡」

「……っ!」

律が、思わず目を見開いた。

その頬が、みるみる赤くなっていく。

「……陽葵、声が大きい」

「だって! だってぇ!」

陽葵は律の腕に抱きついた。

「そんなこと言われたら、もっと大好きになっちゃうもん!」

「……もう十分、好きだろ」

「まだまだです!」

「……まだ?」

「まだまだ、いっぱい好きになる予定です♡」

律は、とうとう顔をそむけた。

「……そうか」

「……あっ!」

陽葵は、にやりと笑った。

「ダーリン、赤くなってる♡」

「……赤くない」

「赤いよぉ♡」

「……クッキーのせいだ」

「クッキーで赤くなるの!?」

「……ならないな」

「ふふふっ♡ 認めちゃった!」

「……陽葵」

「はい♡」

「……こっち見て」

「……えっ?」

今度は、陽葵が固まる番だった。

律は、少しだけ照れくさそうにしながら、こちらを見つめていた。

「……俺も、大好きだよ」

「――――っ♡」

陽葵は、顔を覆った。

「だ、だ、だ、ダーリン……!」

「ん?」

「……急に反撃しないでぇ……!」

「……さっきから、陽葵にばかり言われてるから」

「……っ!」

「たまには、俺からも言いたいだろ」

陽葵は、完全に言葉を失った。

そして、ゆっくりと顔を上げた。

「……ダーリン」

「うん?」

「……もう一回、言って?」

「……大好きだよ」

「……っ♡♡♡」

陽葵は、勢いよく律に抱きついた。

「……もう、好きぃ……! 大好きぃ……!」

「……はいはい」

「はいは一回ですっ♡」

「……はい」

二人の笑い声が、夜のリビングに広がった。

*

しばらくして。

お菓子を食べ終えた陽葵は、テーブルの上を片づけ始めた。

律がマグカップをキッチンへ運び、陽葵は空になったお菓子の袋をまとめる。

「ダーリン、コーヒーおいしかった?」

「うん」

「ミルクティーもおいしかったよ♡」

「よかった」

「次は、何の映画にしようかなぁ……」

陽葵は、もう次のことを考えていた。

「今度は感動する映画もいいし、ちょっと冒険する映画もいいし……。あっ、昔の映画を二人で観るのも楽しそう!」

「陽葵が観たいものを選んでいいよ」

「……ダーリンも選んでね?」

「うん」

「約束♡」

「約束」

陽葵は小指を差し出した。

律は少し笑って、その小指に自分の小指を絡めた。

「……指切りなんて、久しぶりだな」

「そう?」

「うん」

「じゃあ、これからいっぱいしようね♡」

「……そんなに約束することがあるのか?」

「あるよ!」

陽葵は、指を絡めたまま笑った。

「次の映画も、一緒にお菓子を買いに行くことも、紅葉狩りも、パン屋さん巡りも……。それから、ずーっと一緒にいることも!」

律は、少しだけ目を見開いた。

それから、絡めた小指に、そっと力を込めた。

「……うん。約束」

「……えへへ♡」

陽葵は、満面の笑みを浮かべた。

その後、二人はソファに戻り、映画の感想を話し始めた。

主人公の女の子が可愛かったこと。

男性役が不器用だけど優しかったこと。

最後の場面で、思わず胸が熱くなったこと。

そして、陽葵が途中から映画よりも律の横顔を見ていたこと。

「……やっぱり、あれは気づいてたの?」

陽葵が尋ねると、律は頷いた。

「うん」

「いつから?」

「……最初のほう」

「えええっ!?」

陽葵は、ソファの上で飛び上がりそうになった。

「そ、そんなに早く!?」

「うん」

「じゃあ、私がこっそり見てたの、全部ばれてたの!?」

「……全部かは分からないけど」

「……っ!」

陽葵はクッションを抱え、顔を埋めた。

「……恥ずかしいぃ……!」

律は、そんな妻を見て笑った。

「……でも、嬉しかったよ」

「……え?」

陽葵が顔を上げる。

「陽葵が俺のことを見てくれてるって、分かったから」

「……ダーリン」

「……俺も、陽葵のことを見てたし」

「…………」

陽葵は、また固まった。

「……み、見てたの?」

「うん」

「……私を?」

「そう」

「……映画じゃなくて?」

「映画も観てたよ」

「……じゃあ、私も?」

律は、少しだけ笑った。

「……陽葵が笑ってるのを見てた」

陽葵の胸が、きゅうっとなった。

自分だけが、こっそり夫を観察していたつもりだった。

けれど、律もまた、隣にいる妻の表情を見ていたのだ。

映画の面白い場面で笑う顔。

主人公の言葉に感動する顔。

お菓子を半分こして、嬉しそうに頬を緩める顔。

そして、自分の何気ない言葉に、真っ赤になってしまう顔。

お互いに、相手のことを見ていた。

それだけのことが、陽葵にはたまらなく嬉しかった。

「……ダーリン♡」

「ん?」

「……こっち見て?」

律は、優しく顔を向けた。

「見てるよ」

陽葵は、にっこりと笑った。

「……大好き♡」

「……俺も、大好きだよ」

今度は、陽葵も赤くなったけれど、顔を隠さなかった。

大好きな人に、大好きだと伝える。

大好きな人から、大好きだと返してもらう。

その繰り返しが、二人の日常を少しずつ、温かくしていく。

*

夜も更け、寝る前の時間。

陽葵は寝室へ向かう前に、リビングのテーブルに置いてあったデートノートを手に取った。

「……今日も、書かなくちゃ♡」

ソファに座り、ペンを持つ。

今日の出来事を、ひとつずつ思い出していく。

映画を選んだこと。

部屋を暗くしたこと。

テレビの光に照らされた律の横顔。

こっそり見つめていたら、気づかれてしまったこと。

そして、お菓子を半分こしたこと。

陽葵は、丁寧に文字を書き始めた。

『第4回・お家映画デート♡』

『本日の発見①』

『ダーリンは、映画を観ているときの横顔もかっこいい』

『本日の発見②』

『こっそり見ていたつもりだったのに、最初からばれていた』

『本日の発見③』

『栗のクッキーを半分こしたら、大きいほうをくれた♡』

『本日の発見④』

『ダーリンも、私の笑顔を見ていたらしい』

『本日の発見⑤』

『「俺も大好きだよ」は、何回聞いても心臓に悪い♡』

「……えへへ♡」

陽葵は、書き終えたページを眺めた。

それから、最後に小さなハートを描き足した。

『本日のまとめ♡』

『映画の内容も面白かったけれど、隣にいるダーリンの横顔が気になって仕方なかった』

『お菓子を半分こするとき、大きいほうをくれる優しさが嬉しかった』

『何気ない夜なのに、何度も恋をした』

『結論――特別なことをしなくても、ダーリンと一緒なら、普通の夜が最高のデートになる♡』

陽葵はノートを閉じた。

そして、胸にそっと抱きしめる。

「……明日も、いい日になりますように♡」

そのとき、寝室のほうから律の声がした。

「陽葵、そろそろ寝る?」

「あっ、はーい♡ 今行くね!」

陽葵はノートをしまい、ぱたぱたと寝室へ向かった。

律はベッドの端に腰かけ、こちらを見ていた。

「……何を書いてたの?」

「今日のデートノート♡」

「……また俺のこと?」

「もちろんです!」

「……何を書かれたんだろうな」

「秘密です♡」

「見せてくれないのか?」

「だーめ♡」

陽葵はベッドに入り、律の隣に潜り込んだ。

そして、そっと彼の腕に寄りかかる。

「……ねえ、ダーリン」

「うん?」

「今日、楽しかったね♡」

「うん。楽しかった」

「また、映画観ようね?」

「もちろん」

「次は、ダーリンが選んでね?」

「分かった」

「お菓子も半分こしようね♡」

「うん」

陽葵は、満足そうに笑った。

それから、少しだけ顔を上げる。

「……ダーリン♡ こっち見て」

律は、優しくこちらを向いた。

「……何?」

「……おやすみの前に、もう一回だけ♡」

「……もう一回?」

「うん」

陽葵は、頬を赤くしながら囁いた。

「……大好き♡」

律は、彼女の額にそっとキスをした。

「……俺も。大好きだよ、陽葵」

「……えへへ♡」

陽葵は、幸せそうに目を細めた。

そして、律の胸元に顔を寄せる。

映画の夜は、もう終わった。

お菓子も、飲み物も、すっかりなくなった。

それでも、今日の思い出は消えない。

テレビの光に照らされた横顔。

半分こした栗のクッキー。

大きいほうを譲ってくれた、さりげない優しさ。

そして、何度伝えても足りない「大好き」の言葉。

それらはきっと、明日になっても、明後日になっても、二人の心の中に残っている。

陽葵は、眠りに落ちる直前、心の中でそっと呟いた。

――何気ないこの瞬間が、私には恋なんだ♡

隣では、律が静かに目を閉じている。

陽葵は、その横顔をもう一度だけ見つめた。

「……ダーリン」

小さな声で呼びかける。

律は目を閉じたまま、優しく返事をした。

「……なぁに?」

「……明日も、こっち見てね♡」

律は、うっすらと目を開けた。

そして、陽葵のほうを向き、微笑んだ。

「……明日も見るよ」

「……約束?」

「約束」

「……えへへ♡」

陽葵は、満足そうに目を閉じた。

明日の朝には、また「おはよう」が待っている。

その次の日にも、そのまた次の日にも。

特別な記念日でなくても。

遠くへ旅行に出かけなくても。

高価なプレゼントがなくても。

大好きな人が隣にいて、同じものを見て、同じお菓子を分け合って、笑い合える。

それだけで、毎日はこんなにも愛おしい。

そして明日もきっと、陽葵は言うのだろう。

大好きな夫の横顔を見つめながら。

世界でいちばん嬉しそうな声で。

「ダーリン♡ こっち見て!」

その声に、律はきっと振り向く。

少し照れながら。

でも、いつだって優しい笑顔で。

――二人の映画の夜は、そんな幸せな約束と一緒に、静かに幕を閉じた。

第5節 『ダーリン観察日記』、小さな話題になる♡

月曜日の朝。

カーテンの隙間から差し込む光が、寝室の壁を淡いオレンジ色に染めていた。

「……んん……」

陽葵は、布団の中でもぞもぞと動いた。

隣には、まだ眠っている律。

いつもは落ち着いている夫も、寝起きだけは少しだけ無防備だ。

枕に頬を押しつけ、目を閉じている。

陽葵は、そっと顔を近づけた。

「……ダーリン♡」

返事はない。

「……ダーリン、朝だよぉ」

「……ん……」

律が、わずかに眉を動かした。

それだけで、陽葵の胸はきゅんとする。

――ああ、もう。

朝から、かわいいんですけど♡

陽葵は笑いをこらえながら、いつものように小さく囁いた。

「ダーリン♡ こっち見て!」

「……あと五分……」

「えーっ! こっち見てくれないの?」

「……見てる……」

「目、閉じてるよ?」

「……心の目で……」

「ふふっ! 何それぇ♡」

陽葵は、とうとう声を出して笑ってしまった。

その笑い声につられるように、律もゆっくりと目を開けた。

「……おはよう、陽葵」

「おはよう、ダーリン♡」

寝ぼけた顔のまま、律が微笑む。

陽葵は思わず、両手で頬を押さえた。

「……だめだぁ。朝から幸せすぎるぅ……♡」

「……何が?」

「ダーリンが、おはようって言ってくれたこと!」

「毎朝言ってるだろ」

「毎朝言ってくれるから、毎朝嬉しいの♡」

「……そうか」

律は少しだけ照れたように笑った。

陽葵は、その表情をしっかりと目に焼きつける。

そして、心の中で決めた。

――今日、絶対に描こう。

この朝のダーリンも。

映画の夜のダーリンも。

そして、私が毎日見つけている、小さな幸せも。

*

その日の午後。

仕事を終えて帰宅した陽葵は、夕食の準備を始める前に、自分の机へ向かった。

机の上には、タブレットとペン。

横には、いつもの『ダーリン♡デートノート』。

その隣には、創作用の小さなノートが置かれていた。

表紙に書かれているタイトルは――。

**『ダーリン観察日記』**

「よーしっ♡」

陽葵は椅子に座り、腕をぐっと伸ばした。

「今日こそ、映画の夜を漫画にするぞー!」

『ダーリン観察日記』は、陽葵が趣味で描いているWEB漫画だった。

結婚してから気づいたこと。

夫のちょっとした仕草。

何気ない会話。

ときどき赤くなる頬。

そして、何度伝えても足りない「大好き」という気持ち。

そんな日常の断片を、短いエッセイ漫画にしている。

主人公は、少しおっちょこちょいで、好きな人を見るとすぐに顔が緩んでしまう新妻。

その隣には、普段は落ち着いているのに、ときどき不意打ちの言葉で妻を真っ赤にしてしまう夫がいる。

……つまり。

「ほとんど、私たちだよねぇ♡」

陽葵は、ひとりで頷いた。

もちろん、漫画として読みやすくするために、台詞や表情は少し変えている。

それでも、描いていると、あの日の光景が鮮やかによみがえってくる。

映画を観ていた律の横顔。

こっそり見つめていたら、あっさり気づかれてしまったこと。

栗のクッキーを半分こしたこと。

そして、大きいほうを自分にくれた、さりげない優しさ。

「……あれは、反則だったなぁ♡」

陽葵は、ペンを走らせた。

最初のコマ。

ソファに座り、映画を観ている夫の横顔。

その隣で、妻がちらちらと視線を送っている。

吹き出しには、こんな台詞を入れた。

『映画を観ているだけなのに、隣のダーリンが気になって仕方ない♡』

「うんうん! いい感じ!」

二つ目のコマ。

妻の視線に気づいた夫が、ふいにこちらを向く。

『……さっきから、俺の顔を見てた?』

妻は真っ赤になって、クッションに顔を埋めている。

『ち、ちょっとだけです……!』

「ふふっ♡ あのとき、本当にこんな感じだった!」

陽葵は、思い出し笑いをしながら描き進めた。

三つ目のコマ。

栗のクッキーを半分に割る夫。

大きいほうを妻へ差し出す。

『陽葵、好きなんだろ?』

そして、妻の胸の中の言葉。

『こういう小さな優しさに、何度でも恋をしてしまう』

「……うん」

陽葵の手が、そこで少しだけ止まった。

画面に描かれた二人は、まだ漫画の中の人物だ。

でも、その気持ちは本物だった。

高価な贈り物をもらったわけでもない。

特別な場所に連れていってもらったわけでもない。

ただ、一緒に映画を観て。

同じお菓子を食べて。

好きな人の横顔を眺めて。

そんな時間の中で、何度も「この人と結婚してよかった」と思った。

「……この気持ち、ちゃんと伝わるといいな」

陽葵は、最後のコマに文字を入れた。

『何気ないこの瞬間が、私には恋なんだ♡』

そして、画面の端に小さなハートを描き足す。

「……できたぁ!」

陽葵は椅子の背もたれに寄りかかった。

完成した漫画を最初から見直す。

夫の横顔。

赤くなる妻。

半分こしたクッキー。

最後に、寄り添う二人。

短い四コマ漫画だったけれど、陽葵には、映画の夜の思い出がぎゅっと詰まっているように感じられた。

「よしっ。掲載サイトに投稿しよう♡」

タイトルは、分かりやすく。

『ダーリン観察日記⑫ 映画の夜は、恋が増える♡』

本文には、短いコメントを添えた。

『お家で映画を観た夜のお話です。

映画の内容も楽しかったけれど、隣にいる人の横顔が気になって仕方なかったり、お菓子を半分こしてもらったり。

特別なことがなくても、好きな人と過ごす時間は宝物ですね♡』

陽葵は、投稿ボタンの上で指を止めた。

「……よし」

小さく深呼吸する。

「投稿!」

画面が切り替わり、漫画が掲載された。

「……えへへ♡」

陽葵は、満足そうに笑った。

これで、ひとつの思い出が形になった。

あとは、いつものように、読んでくれる人がいたら嬉しい。

そんな気持ちだった。

まさか、この小さな漫画が、いつもとは少し違う反応を呼ぶことになるとは。

このときの陽葵は、まだ知らなかった。

*

投稿から、三十分後。

陽葵はキッチンで夕食の準備をしていた。

野菜を切り、鍋に火をかけ、冷蔵庫から食材を取り出す。

その途中、机の上に置いていたスマートフォンが、短く震えた。

ピコン。

「……ん?」

陽葵は手を止めた。

掲載サイトからの通知だった。

『あなたの作品にコメントが届きました』

「……えっ?」

陽葵は、手を拭いてスマートフォンを手に取った。

いつもなら、投稿してすぐにコメントがつくことは、それほど多くない。

閲覧数が少しずつ増えて、数時間後、あるいは翌日になってから、感想が届くこともある。

だから、三十分で通知が来たことに、少し驚いた。

「……誰だろう?」

画面を開く。

そこには、ひとつのコメントが表示されていた。

『こういう何気ない時間、いいですね。大きいほうを自然にくれる旦那さん、優しいなあ』

「…………」

陽葵は、画面を見つめた。

そして、じわじわと頬が緩んでいく。

「……読んでくれたんだ♡」

たった一つのコメント。

でも、自分が描いたものを、誰かが読んでくれた。

そして、漫画の中の小さな仕草に気づいてくれた。

それが、とても嬉しかった。

「えへへ……。そうなの。ダーリン、優しいんだよぉ♡」

思わず口に出してから、陽葵ははっとした。

「……あっ。お返事、お返事!」

返信欄を開く。

『読んでくださってありがとうございます♡ 大きいほうをくれたのが嬉しくて、つい漫画にしちゃいました!』

送信。

すると、またスマートフォンが震えた。

「……えっ、もう!?」

今度は、別の読者からだった。

『奥さんの「好き」がいっぱい伝わってきて、読んでいるこっちまで笑顔になりました!』

「……っ♡」

陽葵は、スマートフォンを胸に抱きしめた。

「うれしいぃ……!」

自分の中にあった気持ちが、画面の向こうにいる誰かにも伝わった。

それは、陽葵にとって、思っていた以上に大きな喜びだった。

自分の漫画は、特別な技術を使った作品ではない。

派手な展開があるわけでもない。

大きな事件が起こるわけでもない。

ただ、好きな人と一緒に過ごした時間を描いているだけ。

それなのに。

その何気ない時間を、誰かが「いいですね」と言ってくれる。

「……漫画にして、よかったなぁ♡」

陽葵は、もう一度コメントを読み返した。

すると、三つ目の通知が届いた。

ピコン。

今度のコメントは、少しだけ違っていた。

『旦那さんいるのね』

「…………え?」

陽葵は、スマートフォンを持ったまま固まった。

たった一行。

短い言葉。

でも、そこには、これまでとは少し違う興味が感じられた。

――旦那さん、いるのね。

ということは。

この読者は、陽葵の漫画を読んで、主人公のモデルが実際の夫婦なのではないかと思ったのだろうか。

それとも、これまでの漫画を読んでいて、今になって気づいたのだろうか。

「……えええっ!?」

陽葵は、思わず声を上げた。

「もしかして……私、結婚してるって、ばれちゃった!?」

いや。

漫画の中には、夫婦を思わせる描写がたくさんある。

手をつないだり、一緒に暮らしていたり。

旦那さんと呼んでいたり。

そもそも、タイトルからして『ダーリン観察日記』だ。

「……そりゃ、気づくよねぇ……!」

陽葵は、自分で自分に突っ込んだ。

でも、少しだけ不思議だった。

今までにも、夫婦の日常を描いた漫画は投稿していた。

それなのに、今回は、こうして直接「旦那さんいるのね」とコメントが届いた。

単なる作品の感想ではなく、描いている自分自身に興味を持ってもらえたような気がしたのだ。

「……うーん」

陽葵は、返信欄を開いた。

そして、少し考えたあと、丁寧に文字を打ち込んだ。

『読んでくださってありがとうございます♡ はい、夫がいます! 普段の何気ない出来事を、漫画にして楽しんでいます』

送信。

投稿者として、どこまで自分のことを話すか。

陽葵は、少しだけ迷った。

でも、漫画に描いているのは、誰かに隠したいような出来事ではない。

大好きな人と過ごす、普通の日常。

自分にとって、かけがえのない時間。

それを読んで、誰かが笑顔になってくれるなら。

少しずつ、届けてみてもいいのかもしれない。

「……ふふっ♡」

陽葵は、スマートフォンをそっと置いた。

そのとき、玄関から音がした。

「ただいま」

「……っ!」

聞き慣れた声。

大好きな声。

「ダーリン、おかえりーっ♡」

陽葵は、キッチンから顔を出した。

律が靴を脱ぎ、こちらを見て微笑む。

「ただいま。……何か、嬉しそうだな」

「えっ!? 分かる?」

「分かるよ」

「……えへへ♡」

陽葵は、にこにこと笑った。

「実はね、今日、いいことがあったの!」

「何があった?」

「ご飯のあとでお話しするね♡」

「分かった」

律は上着を脱ぎ、手を洗いに向かった。

その後ろ姿を見送りながら、陽葵は胸の前で両手を握った。

――早く話したい。

私の漫画を読んでくれた人がいたこと。

コメントをくれた人がいたこと。

そして。

「旦那さんいるのね」って、言ってもらえたこと。

何だか、自分の大切な人の存在を、誰かに見つけてもらえたような気がしたのだ。

*

夕食の時間。

テーブルには、温かいご飯と、野菜たっぷりのスープ、鶏肉の照り焼きが並んでいた。

「いただきます♡」

「いただきます」

陽葵は、食事をしながらも、ついにやにやしてしまう。

律は、そんな妻の顔を見ていた。

「……陽葵」

「はい♡」

「さっきの、いいことって?」

「……あっ!」

陽葵は、箸を置いた。

「そうだった! 聞いて、ダーリン!」

「うん」

「今日、WEB漫画を投稿したの!」

「『ダーリン観察日記』?」

「そう! この前の映画の夜のエピソード♡」

律は、少しだけ目を丸くした。

「もう描いたんだ」

「うん! 映画を観ているダーリンの横顔とか、お菓子を半分こしたところとか!」

「……俺、横顔を見られてたんだな」

「もちろんです♡」

「……そうか」

律は、どこか照れくさそうに笑った。

陽葵は、さらに身を乗り出す。

「それでね、投稿したら、コメントが来たの!」

「へえ。よかったな」

「うん! 最初はね、『何気ない時間がいいですね』って!」

「いい感想だね」

「でしょう? それから、『読んでいるこっちまで笑顔になりました』って!」

「……それも、嬉しいな」

陽葵は、何度も頷いた。

「そうなの! 私たちの普通の時間が、誰かにとっても、ちょっと嬉しい時間になったのかもしれないって思って……!」

律は、静かに微笑んだ。

「……陽葵が、楽しそうに描いてるからじゃないかな」

「……え?」

「自分が楽しかったことを描いてるんだろ?」

「うん」

「なら、その気持ちが伝わったんだと思うよ」

「…………」

陽葵は、じっと律を見つめた。

まただ。

また、この人は。

自分が嬉しかったことを、もっと嬉しくしてくれる。

「……ダーリン♡」

「ん?」

「……こっち見て!」

律は、箸を置いて陽葵を見た。

「見てるよ」

「……大好き♡」

「……うん。俺も」

「……えへへ♡」

陽葵は幸せそうに笑った。

けれど、まだ話には続きがあった。

「……それでね」

「うん?」

「もう一つ、ちょっとびっくりしたコメントがあったの」

「どんな?」

陽葵は、スマートフォンを手に取った。

そして、画面を律に見せた。

「これ!」

そこには、短いコメントが表示されている。

『旦那さんいるのね』

律は、その文字を読んだ。

数秒ほど、黙っていた。

「……うん」

「……うん?」

「旦那さん、いるね」

「……えええっ!?」

陽葵は、思わず声を上げた。

「そ、そういうことじゃなくてぇ!」

「……違った?」

「違わないけど! そうじゃなくて!」

律は、くすっと笑った。

「……陽葵の漫画を読んで、そう思ったんだろうね」

「うん……。私、今までも夫婦の日常を描いてたんだけど、こういうコメントは初めてで……」

「……嬉しかった?」

陽葵は、少しだけ考えた。

「……うん。嬉しかった」

「そっか」

「何だかね……。私の大好きな人のことを、誰かが気にしてくれたんだなって思ったの」

陽葵は、スマートフォンを胸元に置いた。

「もちろん、私たちのことを全部知ってもらいたいわけじゃないよ? 二人だけのことも、大切にしたいし」

「うん」

「でも、私が幸せだなって思ったことを描いて、それを読んだ人が『いいな』って思ってくれたら……。それって、すごく素敵なことだよね♡」

律は、少しだけ考えたあと、頷いた。

「……そうだね」

「……ダーリンは、どう思う?」

「何が?」

「私が、こうやって二人の日常を漫画にすること」

陽葵は、少しだけ真剣な顔になった。

「……嫌じゃない?」

律は、すぐには答えなかった。

その代わり、テーブルの上に置かれた陽葵の手に、自分の手を重ねた。

「……陽葵」

「……はい」

「俺たちの生活を、全部そのまま描く必要はないと思う」

「……うん」

「二人だけの思い出もあるし、俺にも、陽葵にも、外に出さなくていいことはあるだろ?」

「うん。そうだね」

「でも……」

律は、優しく笑った。

「陽葵が嬉しかったことや、楽しかったことを、漫画にして誰かに届けたいなら、俺は応援したいよ」

「……っ」

「陽葵が描いたものを読んで、誰かが笑顔になるなら。俺たちの何気ない時間が、誰かの一日を少し明るくするなら……それは、いいことだと思う」

陽葵は、目を見開いた。

そして、じわじわと頬を赤くしていった。

「……ダーリン……」

「うん?」

「……やっぱり、私の旦那さん、最高ですぅ……♡」

「……それはどうも」

「もうっ! もっと喜んでよぉ!」

「嬉しいよ」

「……っ♡」

陽葵は、とうとう両手で顔を覆った。

律は、そんな妻を見て、楽しそうに笑った。

「……また赤くなってる」

「だってぇ……!」

陽葵は指の隙間から、律を見た。

「そんなこと言われたら……もっと、もっと、ダーリンのこと描きたくなっちゃうもん♡」

「……ほどほどにな」

「えへへ♡ 頑張ります!」

陽葵は、再びスマートフォンを手に取った。

そして、コメント欄をもう一度開いた。

そこには、少しずつ、新しい言葉が増え始めていた。

*

翌日の昼休み。

陽葵は、職場の休憩時間にスマートフォンを開いた。

朝から仕事が忙しく、なかなか確認できなかった『ダーリン観察日記』のコメント欄。

どんな反応があっただろう。

少しだけ期待しながら、画面をタップする。

「……えっ?」

陽葵は、思わず声を漏らした。

昨日の夜には、数件だったコメントが、少しずつ増えていた。

閲覧数も、いつもより多い。

ランキングのような大きな場所に載ったわけではない。

サイト全体で話題になっているわけでもない。

それでも、普段の投稿より、明らかに多くの人が読んでくれていた。

「……こんなに……?」

陽葵は、画面をスクロールした。

『旦那さんいるのね』

『あ、実際の夫婦のお話なんだ。なんだかほっこりする』

『大きいほうのお菓子をくれるの、地味に嬉しいですよね』

『何気ない日常を幸せって思えるの、素敵だなあ』

『旦那さん、優しそう』

『奥さんが旦那さんのこと大好きなのが伝わってくる!』

『こういう夫婦、いいな』

『読んでいたら、誰かとお菓子を半分こしたくなりました』

「…………」

陽葵は、しばらく画面を見つめていた。

コメントの一つひとつは、短い。

けれど、その中には、それぞれの読者の気持ちがあった。

お菓子を半分こした経験を思い出した人。

優しくしてくれた誰かを思い出した人。

自分もこんな関係を築けたらいいな、と感じた人。

そして、ただ、読んでほっこりしたと言ってくれる人。

「……すごいなぁ」

陽葵は、小さく呟いた。

自分にとっては、いつもの夜だった。

映画を観て、お菓子を食べて、夫と話しただけ。

でも、その中にある小さな幸せを漫画にしたことで、知らない誰かが、自分の思い出を重ねてくれたのかもしれない。

「……漫画って、面白いね」

陽葵は、スマートフォンを見つめながら笑った。

もちろん、すべての人が同じように感じてくれるわけではない。

誰かにとっては何でもない話かもしれない。

それでも。

誰か一人でも、読んで笑顔になってくれたなら。

描いてよかったと思える。

「……よーし♡」

陽葵は、心の中で決めた。

これからも、無理をせず。

自分たちの大切な時間を守りながら。

自分が本当に好きだと思える瞬間を、少しずつ描いていこう。

*

その日の夜。

律が帰宅すると、陽葵は玄関まで迎えに出た。

「ダーリン、おかえりなさーい♡」

「ただいま。……今日は、いつも以上に元気だね」

「ふふふっ♡ 実はね、今日もいいことがあったの!」

「また漫画?」

「正解!」

陽葵は、律の腕に抱きついた。

「昨日の漫画ね、いつもよりたくさん読んでもらえたの!」

「……そうなんだ」

「うん! コメントも増えてたの!」

「よかったな」

「……うん♡」

陽葵は、嬉しそうに頷いた。

それから、少しだけ考えたあと、こう続けた。

「でもね、私、思ったの」

「何を?」

「コメントをもらうのも嬉しいけど……」

陽葵は、律を見上げた。

「やっぱり、一番嬉しいのは、ダーリンと一緒にいる時間なんだなって♡」

律は、目を丸くした。

「……どうして?」

「だって、漫画の中に描けるのは、過ぎた時間だけでしょ?」

「……そうだね」

「でも、今この瞬間は、まだこれからも続いていくんだもん」

陽葵は、律の手を握った。

「だから、漫画を描くことも大切だけど、これからもダーリンと、いっぱい思い出を作りたいの♡」

律は、少しだけ目を細めた。

「……うん。そうしよう」

「映画も観るし、お菓子も半分こするし、デートもするし……」

「うん」

「それから、何でもない日も、大切にする!」

「……それが一番、陽葵らしいな」

「えへへ♡」

陽葵は笑った。

そして、いつものように顔を上げる。

「ダーリン♡ こっち見て!」

律は、すぐにこちらを向いた。

「見てるよ」

「……大好き♡」

「……俺も」

「……えへへ♡」

陽葵は、律の胸元にそっと頬を寄せた。

その瞬間も、きっと漫画に描けるだろう。

でも、今はまだ、描かなくてもいい。

この温もりは、二人だけのもの。

陽葵は、しばらくそのまま、夫の腕の中にいた。

*

数日後。

陽葵は、次の『ダーリン観察日記』を描き始めていた。

机の上には、タブレットとペン。

そして、参考にするための『ダーリン♡デートノート』。

前回の漫画への反応は、少し落ち着いてきていた。

でも、陽葵の中には、まだあのときの嬉しさが残っていた。

「……次は、どうしようかなぁ♡」

陽葵は、ノートをめくった。

水族館デート。

映画の夜。

お菓子を半分こしたこと。

どれも、思い出すだけで頬が緩んでしまう。

「……あっ!」

陽葵は、あるページで手を止めた。

そこには、水族館から帰ってきた日の記録があった。

『ダーリンは、魚に詳しい』

『ダーリンは、ペンギンが好き』

『ダーリンは、褒められると赤くなる』

『私も、ダーリンに褒められると赤くなる』

「……ふふふっ♡」

陽葵は、思わず笑った。

「これも漫画にしたら、面白いかも!」

ペンを持ち、ラフを描き始める。

今度は、夫婦の何気ない会話を中心にした短いエピソード。

妻が「こっち見て」と言うたび、夫が振り向く。

夫が何気なく褒めるたび、妻が真っ赤になる。

そして、最後には二人で笑う。

「……うん。これなら、描けそう♡」

陽葵は、夢中でペンを動かした。

自分が幸せだと思うこと。

大好きな人と過ごす時間。

その中にある、小さな笑い。

そうしたものを、これからも形にしていきたい。

いつか、誰かが落ち込んだ日に。

疲れて帰ってきた夜に。

何となくスマートフォンを開いたときに。

『ダーリン観察日記』を読んで、少しだけ笑ってくれたら。

そして、ふと思ってくれたら。

――自分にも、こんな小さな幸せがあるかもしれない。

陽葵は、最後のコマに文字を入れた。

『今日も、ダーリンを観察中♡』

その下に、小さく付け足す。

『大好きな人のことは、何年一緒にいても、新しい発見がある』

そして、いつものハートを描いた。

「……完成!」

陽葵は、満足そうに笑った。

今度は、どんな反応があるだろう。

また誰かが読んでくれるだろうか。

どんな言葉を届けてくれるだろうか。

少しだけ期待しながら、陽葵は投稿画面を開いた。

でも、その前に。

ふと、隣の部屋から聞こえてきた声に、顔を上げた。

「陽葵、お茶飲む?」

「……っ♡」

律が、マグカップを二つ持って立っていた。

その姿を見た瞬間、陽葵は思った。

――ああ。

やっぱり、今日も描きたいことが見つかった。

大好きな人が、何気なくお茶を淹れてくれること。

自分の分だけじゃなく、私の分も用意してくれること。

そして、当たり前のように「一緒に飲む?」と聞いてくれること。

そんな、何でもない優しさ。

「……ダーリン♡」

「ん?」

「……こっち見て!」

律は、少し不思議そうにしながらも、陽葵のほうを向いた。

「……見てるよ」

陽葵は、満面の笑みを浮かべた。

「……大好き♡」

「……俺も、大好きだよ」

律の頬が、ほんの少しだけ赤くなる。

陽葵の頬も、同じように赤くなる。

そして二人は、いつものように笑い合った。

その様子を、ペンちゃんがソファの上から見守っている。

窓の外では、秋の夜が静かに深まっていた。

陽葵は、これからも描いていくだろう。

大好きな夫のこと。

二人で過ごす何気ない日々のこと。

そして、その中にある、小さな幸せのこと。

誰かに見せるためだけではなく。

自分たちの思い出を、大切に残すために。

その思い出が、いつか誰かの心にも届くように。

――『ダーリン観察日記』。

小さな漫画の中で、陽葵と律の日常は、今日も少しずつ形になっていく。

そして、そのページを開いた誰かの心に、小さな笑顔が生まれる。

そんな、ささやかで温かな奇跡が。

今、静かに始まりかけていた。

第6節「お兄ちゃん、まだ弾いてるの?」

日曜日の午前十時。

ひだまり商店街の通りから少し離れたマンションの一室に、いつもより弾んだ声が響いていた。

「お姉ちゃーん! 来たよー!」

「千夏ちゃん! いらっしゃい♡」

玄関のドアを開けた陽葵は、両手を広げて律の妹を迎えた。

千夏は高校一年生、十六歳。

肩の少し下まで伸ばした髪を揺らしながら、にこにこと笑っている。片手には大きなトートバッグ。もう片方の手には、駅前のケーキ屋さんの紙袋を持っていた。

「はい、これ。駅前で買ってきたよ。お兄ちゃん、甘いもの食べるでしょ?」

「ありがとう! わあ、ここのケーキ、おいしいんだよね♡」

「でしょ? 私も食べたかったから、自分の分も買ってきた!」

「ふふっ、千夏ちゃんらしい♡」

陽葵が笑っていると、リビングの奥から律が顔を出した。

「お、来たのか」

「来たよ、お兄ちゃん。相変わらず、出迎えがあっさりしてるねえ」

「わざわざ大げさに出迎える必要もないだろ」

「普通は『よく来たな、千夏』とか、『元気だったか?』とか言うんじゃないの?」

「元気そうだな」

「雑!」

千夏が即座に突っ込む。

そのやり取りを見て、陽葵は思わず吹き出した。

「あはははっ! 千夏ちゃん、律の扱いが上手だね!」

「だって、昔からこうだもん。お兄ちゃん、必要なことしか言わないんだから」

「必要なことは言ってる」

「そういうところ!」

「はいはい」

「はいは一回!」

「……はい」

「ふふっ!」

千夏は満足そうにうなずいた。

陽葵は、そんな二人の姿を眺めながら胸の中でつぶやいた。

――かわいい。

普段の律は、落ち着いていて、あまり多くを語らない。

でも、千夏と話しているときの律は、いつもより少しだけ表情が柔らかい。遠慮のない言葉を返しながらも、妹の話をちゃんと聞いている。

夫の知らなかった一面。

それを見られるのは、なんだか特別なことのように思えた。

「さあさあ、千夏ちゃん。荷物を置いて、ゆっくりしていってね♡ 今日はいっぱいおしゃべりしよう!」

「うん! 私、お姉ちゃんと話したいこといっぱいあるんだ!」

「えっ、なになに? 恋バナ? 学校の話? 好きな人できた?」

「ちょっ、お姉ちゃん! いきなりそこ!?」

「えへへ♡ 気になるんだもん!」

「もう! お兄ちゃんの前でそういう話するの恥ずかしい!」

「俺は聞いてないから、好きに話せばいい」

「そういう問題じゃないの!」

千夏が頬を膨らませる。

律は肩をすくめてキッチンへ向かった。

「コーヒーでいいか?」

「私は紅茶がいいな♡」

「千夏は?」

「私も紅茶! あ、ミルクも!」

「わかった」

「お兄ちゃん、砂糖もお願い!」

「自分で入れろ」

「ケチ!」

「はいはい」

「だから、はいは一回!」

再び千夏の声が響く。

陽葵は笑いながら、テーブルの上にお菓子とお皿を並べた。

今日は、千夏が遊びに来ると聞いて、朝から少し張り切っていたのだ。

ケーキを買ってきてくれることは予想していなかったけれど、せっかくだから一緒に食べようと思って、クッキーも焼いてある。

リビングのテーブルには、三人分のカップと、色とりどりのお菓子。

その光景を見て、陽葵は小さく笑った。

――家族が増えるって、こういう感じなのかな。

血のつながりがあるわけではない自分も、律の家族の一員になっていく。

そう思うと、胸の奥がじんわり温かくなった。

*

「ところで、お姉ちゃん」

「ん? なあに?」

紅茶をひと口飲んだ千夏が、テーブルの上にスマートフォンを置いた。

「この前、送ってくれた漫画、見たよ!」

「あっ! 『ダーリン観察日記』?」

「そうそう! 映画を見ながら、お兄ちゃんがお菓子の大きいほうをくれるやつ!」

「きゃーっ、見てくれたの!? ありがとう♡」

「うん! なんか、すっごくお姉ちゃんらしかった!」

「えっ、私らしい?」

「うん。お兄ちゃんのこと、めちゃくちゃ好きなんだなあって!」

「……っ!」

陽葵の頬が、みるみる赤くなる。

「そ、そんなに伝わってる?」

「伝わるよ! だって、四コマの最後、ハートいっぱいだったじゃん!」

「だって、ダーリンが優しいんだもん♡」

「うわあ、出た! ダーリン!」

「えへへ♡」

千夏は両手で頬を押さえ、わざとらしく身をよじった。

「新婚さんって感じ! 甘い! 甘すぎる!」

「えーっ、そうかなあ?」

「そうだよ! お兄ちゃん、昔はあんなに無愛想だったのに!」

「千夏」

キッチンから、律の低い声が飛んできた。

「何?」

「余計なことを言うな」

「えー? 事実じゃん!」

「紅茶、冷めるぞ」

「話をそらした!」

千夏はけらけらと笑った。

陽葵は、思わず身を乗り出す。

「ねえねえ、千夏ちゃん。昔の律って、どんな感じだったの?」

「聞きたい?」

「聞きたいっ♡」

「お姉ちゃん、あとで後悔しない?」

「えっ?」

「お兄ちゃんの恥ずかしい話、いっぱいあるよ?」

「……千夏」

「わあ、怖い声!」

千夏は楽しそうに笑った。

「でもね、お兄ちゃん、昔から口数は少なかったけど、好きなことにはすっごく夢中になる人だったんだよ」

「好きなこと……?」

「うん。建物とか、設計とか。それから……」

千夏はそこで言葉を切り、何かを思い出したように目を輝かせた。

「そうだ! ねえ、お兄ちゃん。あれ、まだ持ってる?」

「何の話だ?」

「ほら、昔から持ってるやつ!」

「だから、何だよ」

「ギター!」

その言葉に、陽葵はぱちりと目を瞬いた。

「……ギター?」

律はカップをテーブルに置いた。

「持ってるけど」

「えっ、まだあるの!?」

「あるよ」

「ええーっ! まだ捨ててなかったんだ!」

「捨てる理由がないだろ」

「だって、お兄ちゃん、最近ぜんぜん弾いてないじゃん!」

「最近は、な」

その返事に、陽葵の目がきらりと光った。

ギター。

律がギターを弾く。

その情報は、陽葵にとって初耳だった。

――待って。

――うちのダーリン、ギター弾けるの!?

陽葵の頭の中で、何かが弾けた。

いつも落ち着いている律が、ギターを抱えて音楽を奏でる姿。

少し伏せた目。

弦を押さえる長い指。

静かな部屋に響く、柔らかな音色。

想像しただけで、胸がどきどきする。

「……ダーリン」

「何だ?」

「ギター、弾けるの?」

「少しな」

「少しって、どのくらい!?」

「普通に弾けるくらい」

「普通って何!?」

「普通は普通だろ」

「もう! そういうところだよ、ダーリン!」

陽葵は思わず立ち上がった。

「見たい! 私、ダーリンがギター弾いてるところ、見たいっ♡」

「いや、今は弾いてないからな」

「今まで弾いてたんでしょ? だったら見たい!」

「話が飛躍してるぞ」

「飛躍してないもん! 私の知らないダーリンの一面だよ!? 妻として、知る権利があると思います!」

「何の権利だ」

「ダーリン観察権!」

「そんな権利はない」

「あります!」

「ない」

「ありますっ!」

千夏は二人のやり取りを見て、腹を抱えて笑った。

「あはははっ! お姉ちゃん、最高! お兄ちゃん、完全に押されてるじゃん!」

「千夏、笑ってないで説明しろ」

「何を?」

「ギターの話だ」

「あ、そうだった!」

千夏は急に真面目な顔になった。

そして、にやりと笑う。

「じゃあ、見せてもらおっか!」

「お前まで……」

「だって、私も久しぶりに見たいもん!」

律は、ひとつため息をついた。

けれど、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。

*

「こっちだ」

律が案内したのは、リビングの隣にある小さな書斎だった。

仕事用のデスク。

建築関係の資料が並ぶ本棚。

設計図やスケッチをまとめたファイル。

窓際には小さな観葉植物が置かれ、壁にはシンプルな時計が掛かっている。

普段、陽葵が入ることはあっても、仕事中の律を邪魔しないように、長居することは少ない部屋だった。

「わあ……! ダーリンのお仕事部屋だ♡」

「大げさだな」

「だって、ここでダーリンが建物の設計をしてるんでしょ?」

「そうだけど」

「なんか、かっこいい……♡」

「机と本棚しかないぞ」

「ダーリンがいるから、かっこいいの!」

「……そうか」

律は小さく咳払いをした。

千夏がすかさず指をさす。

「あっ、お兄ちゃん、照れてる!」

「照れてない」

「照れてるよね、お姉ちゃん!」

「うんっ♡」

「二人とも、適当なことを言うな」

そう言いながら、律は本棚の横に置かれた収納スペースへ向かった。

そこには、黒いケースが立てかけてあった。

ケースの表面には、細かな傷がいくつもついている。

長い年月を一緒に過ごしてきたことがわかる、使い込まれたケースだった。

「あっ!」

千夏が声を上げた。

「それ、それ!」

律がケースを取り出す。

床にそっと置き、留め具を外した。

ぱちん。

小さな音とともに、ケースが開く。

中には、深い茶色の木目が美しいアコースティックギターが収まっていた。

陽葵は息をのんだ。

「……わあ」

木の表面には、柔らかな光が反射している。

弦は少し古びているものの、きちんと手入れされていた。ネックの端には小さな傷があり、ボディの隅には、何かにぶつけたような跡もある。

新品のような輝きではない。

けれど、そのギターには、長く大切にされてきたものだけが持つ温かさがあった。

千夏はギターを見つめながら、懐かしそうに笑った。

「うわあ……。本当にまだ持ってたんだね」

「だから、持ってるって言っただろ」

「だって、実物を見るの、久しぶりなんだもん」

千夏はギターの近くにしゃがみ込んだ。

「お兄ちゃん、まだ弾いてるの?」

その問いに、律は少しだけ視線を落とした。

「……たまにな」

「たまにって、どのくらい?」

「気が向いたとき」

「それ、ほとんど弾いてないってことじゃない?」

「そうとも言うな」

「認めた!」

千夏は笑った。

陽葵はギターから目を離せないまま、そっと尋ねた。

「ねえ、ダーリン。これ、いつから持ってるの?」

「高校生のころだよ」

「高校生!?」

「うん。父さんに頼んで買ってもらった」

「えっ、じゃあ、ずっと大切にしてるんだね……」

「まあな」

律はギターのボディをそっと撫でた。

その手つきが、いつもの仕事道具に触れるときとは違って見えた。

図面を扱うときの正確さとは違う。

もっと静かで、懐かしいものを確かめるような手つきだった。

「最初は、全然弾けなかったよ」

「えっ、そうなの?」

「そりゃそうだろ。初めて触ったんだから」

「でも、ダーリンって、何でも器用にできそうなイメージがあるもん」

「できないこともある」

「たとえば?」

「料理」

「えっ?」

「千夏に聞けばわかる」

「うん! お兄ちゃん、昔、目玉焼きを焦がしてたよ!」

「それは昔の話だ」

「あと、卵の殻が入ったまま焼いたこともある!」

「……それは一度だけだ」

「一度でもすごいよ!」

「千夏!」

陽葵はとうとう吹き出した。

「あはははっ! ダーリン、そんなこともあったんだ!」

「陽葵まで笑うのか」

「ごめんね、ダーリン♡ でも、かわいい!」

「かわいいで済ませるな」

「済ませちゃう♡」

律は何も言い返さず、ギターをケースから取り出した。

その動作は、思った以上に自然だった。

片手でネックを支え、もう片方の手でボディを抱える。

椅子に腰掛け、ギターを膝の上に置く。

陽葵は、すぐそばでその姿を見つめた。

――うそ。

――本当に、弾くんだ。

いつも見ている夫なのに、まるで知らない人のように見えた。

いや、知らない人ではない。

自分がまだ知らなかった、律の一部分。

彼が二十七歳になるまでに過ごしてきた時間の中に、自分がいなかった頃の彼が確かに存在している。

その当たり前のことが、なぜかとても愛おしかった。

「……何だ、その顔」

律がこちらを見た。

「えっ?」

「ずっと見てる」

「だって……」

陽葵は両手を胸の前で握りしめた。

「ダーリンが、かっこいいんだもん……♡」

「まだ何も弾いてないぞ」

「ギターを持ってるだけで、もうかっこいいの!」

「そうか」

「うんっ♡」

千夏が、すかさず口を挟む。

「お姉ちゃん、もう完全にファンじゃん!」

「ファンです!」

「即答!?」

「だって、私のダーリンだもん♡」

「はいはい、ごちそうさま!」

千夏はわざとらしく両手を合わせた。

「お兄ちゃん、愛されてるねえ」

「……そうだな」

律の返事は小さかった。

けれど、陽葵には聞こえた。

そして、ほんの少しだけ赤くなった耳も。

*

「ねえ、お兄ちゃん」

千夏が床に座り、両手を膝に置いた。

「久しぶりに、何か弾いてよ」

「急に言われてもな」

「えーっ! いいじゃん!」

「指が動くかわからない」

「昔は毎日弾いてたじゃん!」

陽葵は、その言葉に反応した。

「毎日!?」

「うん!」

千夏は、待ってましたとばかりに話し始めた。

「高校生のころのお兄ちゃん、けっこう夢中だったんだよ。学校から帰ってきたら、部屋でギター弾いてることが多くてさ」

「そうなの……?」

「うん。最初は音が変だったんだけど、毎日練習してたら、だんだん上手になっていって」

「へえ……!」

「夜遅くまで弾いて、お母さんに『もう少し静かにしなさい』って怒られてたこともあったよね」

「……あったな」

律が苦笑した。

「お兄ちゃん、同じところばっかり練習してたんだよ。何回も、何回も」

「難しいところがあったからな」

「それで、うまく弾けるようになったら、すっごく嬉しそうな顔するの!」

千夏は、兄の顔を見つめた。

「私、あの顔、けっこう好きだったんだよね」

その言葉に、律は少し驚いたようだった。

「……そうか?」

「うん。いつもは、何を考えてるかわかんない顔してるのに、好きなことをしてるときだけ、すごく楽しそうなんだもん」

千夏の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

「だから、私もお兄ちゃんがギター弾いてるの、好きだった」

陽葵は、二人のやり取りを静かに聞いていた。

妹の記憶の中には、自分の知らない律がいる。

うまく弾けなくて悔しそうにする律。

何度も練習して、ようやく弾けるようになって喜ぶ律。

好きなことに夢中になって、時間を忘れる律。

今の律にも、きっとその一面は残っている。

ただ、仕事や生活に追われるうちに、ギターを手に取る時間が少なくなっただけなのかもしれない。

「……ダーリン」

「ん?」

「私も、聴きたいな」

陽葵は、まっすぐに律を見つめた。

「昔のダーリンが夢中になっていた音を、今のダーリンが奏でるところ。私、見てみたいし、聴いてみたい」

律は少し黙った。

それから、ギターの弦に目を落とした。

「……たいした曲じゃないぞ」

「うん」

「昔、練習してた曲だからな。今は忘れてるところもある」

「うん」

「途中で間違えるかもしれない」

「それでもいいよ♡」

陽葵は笑った。

「完璧な演奏が聴きたいんじゃないの。ダーリンが弾いてくれる音が聴きたいの」

その言葉に、律は何も言わなかった。

ただ、ギターを抱える腕に、ほんの少し力がこもった。

「……わかった」

「本当!?」

「一曲だけな」

「やったあっ♡」

「お兄ちゃん、私が頼んだときより、あっさり引き受けたんだけど!」

「お前は騒がしいからな」

「ひどっ!」

「事実だ」

「お姉ちゃーん! お兄ちゃんがひどい!」

「ふふっ。律、千夏ちゃんにも優しくしてあげて♡」

「十分優しくしてる」

「どこが!?」

三人の笑い声が、小さな書斎に広がった。

*

律は背筋を軽く伸ばし、左手をネックに添えた。

指先が弦を押さえる。

右手が、そっと弦に触れる。

そして――。

ぽろん。

小さな音が、部屋に響いた。

陽葵は思わず息を止めた。

続いて、ぽろん、ぽろん、と音が重なる。

最初はゆっくりとした、確かめるような音だった。

けれど、数秒もすると、律の指は少しずつ滑らかに動き始めた。

弦を押さえる左手。

リズムを刻む右手。

木のボディから響く、温かな音。

それは、派手な演奏ではなかった。

大きな音を出すわけでも、難しい技巧を見せるわけでもない。

ただ、静かで、優しい旋律だった。

まるで、秋の午後に窓から差し込む光のような。

遠い日の記憶を、そっと呼び起こすような。

陽葵は、目を細めた。

――ああ。

――こんな音を、ダーリンは好きだったんだ。

律の横顔は、いつもと少し違っていた。

仕事のことを考えているときの、集中した表情。

建物の構造を見つめるときの、鋭い眼差し。

それともまた違う。

もっと柔らかくて、どこか懐かしそうな顔。

彼は、弾きながら小さく口ずさんでいた。

歌詞は聞き取れない。

けれど、メロディーに合わせて動く唇を見ているだけで、陽葵の胸はいっぱいになった。

――知らなかった。

――私、まだまだダーリンのことを知らないんだ。

結婚して半年。

毎日一緒に暮らして、食事をして、眠って、笑って。

何気ない日常を積み重ねてきた。

それでも、まだ知らないことがある。

子どものころに好きだったもの。

学生時代に夢中になっていたこと。

悔しかったこと。

嬉しかったこと。

自分と出会う前の、二十七年間の物語。

その一つひとつを、これから少しずつ知っていける。

そう思ったら、陽葵はとても幸せな気持ちになった。

やがて、最後の音が静かに消えた。

ぽろん……。

余韻が、部屋の中に溶けていく。

陽葵は、しばらく何も言えなかった。

「……お姉ちゃん?」

千夏が隣から顔をのぞき込む。

「どうしたの?」

「……すごい」

「え?」

「すごいよ……!」

陽葵は、両手を胸の前でぎゅっと握った。

「ダーリン、すごく素敵だった……!」

「いや、久しぶりだから、かなり忘れてたぞ」

「そんなことないよ!」

「途中、コードを間違えた」

「わかんなかったもん!」

「俺にはわかる」

「じゃあ、私にはわからないから大丈夫♡」

「そういう問題か?」

「そういう問題ですっ!」

陽葵は満面の笑みを浮かべた。

「もう一回聴きたい!」

「一曲だけって言っただろ」

「ええーっ!」

「今日は一曲だけだ」

「じゃあ、次のお休みは二曲!」

「交渉するな」

「三曲でもいいよ♡」

「増えてるぞ」

「だって、もっと聴きたいんだもん!」

律は困ったように眉を寄せた。

しかし、その口元には笑みが浮かんでいた。

千夏は、そんな兄をじっと見つめていた。

「……お兄ちゃん」

「何だ?」

「まだ、弾けるんだね」

律の手が、ギターの弦の上で止まった。

千夏は、少しだけ目を細めた。

「なんか、嬉しいな」

「……そうか」

「うん」

千夏は、にこっと笑った。

「私、お兄ちゃんがギター弾いてるところ、久しぶりに見たかったんだ」

律は妹を見つめた。

そして、静かにうなずいた。

「……そうか」

それだけだった。

でも、千夏には十分だったらしい。

「よし! じゃあ、今日はお兄ちゃんのギター記念日!」

「何だ、それ」

「久しぶりにギターを弾いた記念日!」

「毎回記念日を作るな」

「いいじゃん! お姉ちゃん、漫画に描いてよ!」

「えっ、漫画!?」

陽葵の目が輝いた。

「描いていいの!?」

「もちろん! タイトルはね……」

千夏は少し考え、ぱっと顔を上げた。

「『お兄ちゃん、まだ弾いてるの?』!」

「そのまんまだな」

「いいの! わかりやすいから!」

陽葵は、両手を合わせた。

「それ、すっごくいいかも……♡」

「陽葵」

律が、少しだけ警戒した声を出す。

「何だ?」

「その顔、何か企んでるだろ」

「企んでないよ?」

「嘘だな」

「えへへ♡ だって、漫画にしたいんだもん!」

「やっぱりな」

「でも、安心して! ダーリンのかっこいいところを、いーっぱい描くから!」

「……それが一番心配なんだが」

「大丈夫! かっこよく描くから!」

「そういう話じゃない」

「ふふっ!」

千夏は、また大笑いした。

*

リビングに戻ると、三人は改めてケーキを囲んだ。

陽葵は、さっそくスマートフォンのメモを開いている。

「えっと……今日の出来事は……」

「もう記録してるの?」

千夏が目を丸くした。

「うん! 忘れないうちにね♡」

「すごいなあ。お姉ちゃん、本当にお兄ちゃんのこと、よく見てるんだね」

「だって、毎日新しい発見があるんだもん!」

陽葵は画面に文字を打ち込んだ。

『本日の発見① ダーリンは高校生のころからギターを弾いていた』

『本日の発見② 好きなことには、何度でも挑戦する人』

『本日の発見③ ギターを弾く横顔が、とんでもなくかっこいい♡』

『本日の発見④ まだまだ知らないダーリンがいる』

「……④は余計だろ」

律が、隣から画面をのぞいた。

「えっ、どうして?」

「知らないことがあるのは普通だ」

「そうだけど、これから知っていくのが楽しみなんだよ♡」

陽葵はスマートフォンを胸に抱えた。

「だって、ダーリンのこと、もっと知りたいもん」

その言葉に、律は少しだけ視線をそらした。

「……そうか」

「うん♡」

「……じゃあ、今度、昔の曲も教えるよ」

「えっ!?」

陽葵は、勢いよく顔を上げた。

「本当!?」

「ああ。忘れてなければな」

「やったあああっ♡」

思わず立ち上がりそうになった陽葵を、千夏が笑いながら見つめた。

「お姉ちゃん、よかったね!」

「うんっ! すっごく嬉しい!」

「じゃあ、私も次は聴きに来ようかな」

「いつでも来いよ」

律が自然に答えた。

千夏は一瞬、驚いたように目を丸くした。

それから、にやっと笑った。

「……あれ? お兄ちゃん、なんか優しくない?」

「いつも優しいだろ」

「ええー? 昔はもっと無愛想だったのに」

「昔の話を何度もするな」

「だって、おもしろいんだもん!」

千夏は笑いながらケーキをひと口食べた。

「でも、よかった」

「何が?」

陽葵が尋ねる。

千夏はフォークを置き、二人を交互に見た。

「お兄ちゃん、楽しそうだから」

その言葉に、律はわずかに目を見開いた。

「……そうか?」

「うん。前より、笑うことが増えた気がする」

千夏は、少し照れくさそうに笑った。

「お姉ちゃんといるときのお兄ちゃん、なんか柔らかいんだよね」

「……っ」

今度は律が、はっきりと耳を赤くした。

「千夏」

「何?」

「ケーキ、食べろ」

「話をそらした!」

「食べないなら、俺がもらうぞ」

「食べるよ! 私のケーキだもん!」

「あはははっ!」

陽葵は笑った。

けれど、胸の奥には、千夏の言葉が残っていた。

――前より、笑うことが増えた。

自分と一緒にいることで、律が少しでも楽しくなっているのなら。

自分が作る何気ない時間が、彼にとって心地よいものになっているのなら。

それは、何より嬉しいことだった。

陽葵はテーブルの下で、そっと律の手に触れた。

律がこちらを見る。

「……何だ?」

「ううん」

陽葵は、小さく首を振った。

「大好きだなあって思っただけ♡」

「……そうか」

「うん♡」

律は、少し困ったように笑った。

そして、テーブルの下で陽葵の手を握り返した。

その仕草を、千夏は見逃さなかった。

「……わあ」

「千夏?」

「お兄ちゃん、手、握ってる!」

「見なくていい」

「えーっ! いいじゃん! 仲良し夫婦!」

「千夏」

「はいはい、見ませんよーだ!」

千夏は両手で目を覆った。

しかし、指の隙間から、しっかり二人を見ている。

「……見てるだろ」

「見てないもん!」

「見てるぞ」

「お兄ちゃんのケチ!」

「ケーキ、もう一個食べるか?」

「食べる!」

「現金だな」

「お兄ちゃんのおごりなら、いくらでも食べる!」

「一個だけだ」

「えーっ!」

陽葵は笑いながら、二人のやり取りを見つめた。

今日という一日は、きっと忘れられない日になる。

千夏が遊びに来てくれたこと。

律の高校時代の話を聞けたこと。

そして、初めて夫のギターを聴いたこと。

何気ない休日。

特別な予定があったわけではない。

けれど、知らなかった一面を知るたびに、好きという気持ちが少しずつ深くなっていく。

陽葵は、スマートフォンのメモに、最後の一文を付け加えた。

『本日の発見⑤ ダーリンの過去も、これからの未来も、もっと知りたい♡』

*

午後、千夏が帰る時間になった。

「お姉ちゃん、今日はありがとう!」

「こちらこそ! 遊びに来てくれて嬉しかったよ♡」

「また来るね!」

「うん! いつでも来てね!」

玄関で靴を履きながら、千夏は律のほうを振り返った。

「お兄ちゃん」

「何だ?」

「ギター、また弾いてね」

律は、少しだけ驚いたように妹を見た。

「……ああ」

「今度は、もっといろいろ聴きたい!」

「気が向いたらな」

「もう! 素直じゃないんだから!」

千夏は笑い、それから陽葵に小さく耳打ちした。

「お姉ちゃん、お願いね。お兄ちゃん、好きなことでも自分からはなかなか動かないから」

「……うん」

陽葵は、そっと微笑んだ。

「任せて♡」

「ふふっ。じゃあね!」

「気をつけてね!」

千夏が手を振り、玄関のドアが閉まった。

静かになった部屋。

陽葵は、律を振り返った。

「ダーリン♡」

「何だ?」

「今日は、ありがとう」

「何が?」

「ギター、聴かせてくれたこと」

律は少し考えてから、肩をすくめた。

「大した演奏じゃなかったよ」

「そんなことないもん」

陽葵は一歩近づいた。

「私ね、今日、またダーリンのことを好きになっちゃった♡」

「……毎日好きになってるな」

「うん! 毎日更新中です!」

「更新?」

「そう! 昨日より今日、今日より明日、もっともっと大好きになるの♡」

陽葵は、にっこり笑った。

「だから、これからもいろんなダーリンを見せてね?」

律は、しばらく彼女を見つめていた。

やがて、そっと手を伸ばし、陽葵の髪を撫でた。

「……わかった」

「えへへ♡」

「その代わり、陽葵のことも、もっと教えてくれよ」

「えっ?」

「好きなことも、昔のことも。俺が知らない陽葵のこと、まだあるだろ」

陽葵は、目を丸くした。

そして、ゆっくりと笑顔になった。

「……うんっ♡」

自分だけが夫のことを知りたいと思っていたわけではない。

律もまた、自分のことを知りたいと思ってくれている。

そう気づいた瞬間、胸の奥が温かくなった。

「じゃあ、まずは……」

陽葵は、いたずらっぽく笑った。

「私の初恋の話から聞きたい?」

「……それは、少し気になるな」

「えっ!? 気になるの!?」

「自分から言ったんだろ」

「きゃーっ♡ ダーリンが私の初恋に興味を持ってくれた!」

「声が大きい」

「だって嬉しいんだもん!」

陽葵は、律の腕にぎゅっと抱きついた。

「ダーリン♡ こっち見て!」

律が彼女を見つめる。

陽葵は、いつものように笑った。

「大好き♡」

「……俺も、大好きだよ」

静かなリビングに、二人の笑い声が響いた。

書斎の片隅には、ケースに戻されたギターがある。

長いあいだ、出番を待っていた楽器。

その音色は、今日、もう一度誰かの心に届いた。

そして陽葵は、まだ知らない。

律が昔、ギターを弾きながら、どんな未来を思い描いていたのか。

なぜ音楽から少しずつ離れていったのか。

そして、彼が今も心の奥にしまっている、ある曲のことを。

それは、いつか二人の新しい思い出になるかもしれない。

陽葵は、そっと律の手を握り直した。

――ダーリンのこと、もっと知りたい。

――これからも、ずっと。

秋の午後。

何気ない休日に、新しい物語のページが、また一枚増えた。

第7節「千夏の迷い、そして親父のこと」

日曜日の午後。

窓から差し込む秋の光が、リビングの床にゆっくりと伸びていた。

テーブルの上には、飲みかけのミルクティーと、食べ終えたケーキのお皿。

律は書斎で仕事の資料を整理していて、リビングには陽葵と千夏の二人が残っていた。

「ねえ、お姉ちゃん」

「ん? なあに、千夏ちゃん?」

ソファに座った千夏は、クッションを抱きしめながら、スマートフォンの画面をじっと見つめていた。

さっきまで兄のギターの話で盛り上がっていたのに、今はどこか元気がない。

陽葵は、そんな千夏の横顔を見て、そっと首をかしげた。

「……どうしたの? さっきから、ちょっと静かだね」

「えっ? そうかな?」

「うん。何か考えごとしてる顔」

「……そんなにわかる?」

「わかるよ♡ 私、ダーリン観察歴半年以上だもん!」

「それ、お兄ちゃん限定じゃないの?」

「あっ、そうだった!」

二人は顔を見合わせて笑った。

けれど、千夏の笑顔は、すぐに少しだけ曇った。

「……実はね、お姉ちゃん。ちょっと相談してもいい?」

「もちろん!」

陽葵はすぐに姿勢を正した。

「どうしたの? 何でも話してね」

「……進路のことなんだけど」

「進路?」

「うん」

千夏はクッションの端を指先でいじりながら、小さく息を吐いた。

「私、今、高校一年生じゃん?」

「うん」

「学校でもさ、将来のことを考えようって話が増えてきたんだよね。進学するのか、どんな勉強をしたいのか、将来どんな仕事に就きたいのか……」

「そっかあ」

「もちろん、今すぐ全部決めなきゃいけないわけじゃないって、先生も言ってるんだけど」

千夏はスマートフォンをテーブルに伏せた。

「でも、友達の中には、もう行きたい大学が決まってる子もいるし、将来やりたい仕事がある子もいるの。看護師になりたいとか、保育士になりたいとか、デザインの勉強をしたいとか」

「うん、うん」

「そういう話を聞くたびに、すごいなあって思うんだ。自分が何をしたいか、ちゃんとわかってるんだもん」

千夏は、膝の上で両手を握った。

「私なんて、好きなことはいろいろあるけど、それを将来の仕事にしたいのかって聞かれたら、よくわからなくて……」

「好きなこと、いろいろあるんだ?」

「うん。絵を描くのも好きだし、音楽を聴くのも好き。友達と出かけるのも好きだし、スマホで動画を見るのも好き。最近は、写真を撮るのもちょっと楽しいなって思ってる」

「素敵じゃない♡」

「でもね、好きなことを仕事にするって、難しそうじゃない?」

千夏は少しだけ顔を上げた。

「好きだからって、仕事にできるとは限らないし。仕事にしたら、好きじゃなくなっちゃうかもしれないし……。それに、将来ちゃんと生活できるのかなって考えると、急に怖くなるんだよね」

最後の言葉は、ほとんどつぶやきだった。

陽葵は、すぐには答えなかった。

ただ、千夏の隣に座り直し、彼女の顔をゆっくりとのぞき込んだ。

「……千夏ちゃん」

「うん?」

「今、いちばん不安なのは、何だと思う?」

「えっ?」

「将来の仕事が決まっていないこと? それとも、好きなことを仕事にしていいのかわからないこと?」

千夏は、しばらく考えた。

「……両方、かな」

「そっか」

「あとね……」

千夏は、少しだけ声を小さくした。

「お兄ちゃんみたいに、ちゃんと自分の道を歩けるのかなって思うこともあるんだ」

「律みたいに?」

「うん。お兄ちゃんは建築の仕事をしてるでしょ。自分が勉強してきたことを仕事にして、設計した建物が実際に形になっていくんだよね」

千夏は、書斎のほうへ目を向けた。

「今日、お兄ちゃんのギターを見て、思ったんだ。お兄ちゃんって、昔から好きなことをちゃんと続けてきたんだなって」

「……うん」

「私には、そういうものがあるのかなって」

千夏の声が、少し震えた。

「何かに夢中になれるものがあって、それを大切にして、いつか自分の仕事につなげられたら素敵だなって思う。でも、私はまだ何も決まってなくて……」

言い終えた千夏は、困ったように笑った。

「ごめんね。なんか、暗い話になっちゃった」

「どうして謝るの?」

陽葵は、そっと千夏の手に触れた。

「悩んでることを話してくれたんだよ? 謝らなくていいよ」

「……お姉ちゃん」

「それにね、千夏ちゃん」

陽葵は、少しだけ身を乗り出した。

「好きなことがたくさんあるって、すごく素敵なことだと思う」

「……そうかな?」

「うん♡」

陽葵は、にっこり笑った。

「だって、今の千夏ちゃんには、まだいろんな可能性があるってことでしょ?」

「可能性……?」

「そう! 絵を描くのが好きなら、絵を描くことをもっと知ってみてもいいし、写真が好きなら、写真を撮りながら、どんなところが楽しいのか考えてみてもいい。音楽が好きなら、演奏する人だけじゃなくて、曲を作る人や、音楽を届ける人だっているよね」

「……うん」

「もちろん、好きなことを仕事にしなくてもいいんだよ。好きなことは好きなこととして大切にして、別の仕事を選ぶ生き方もあるんだから」

千夏は、目をぱちぱちさせた。

「好きなことを、絶対に仕事にしなくてもいいの?」

「うん!」

陽葵は、力強くうなずいた。

「好きなことを仕事にできたら、もちろん素敵だと思う。でも、仕事にしないからって、その好きな気持ちが無駄になるわけじゃないよ」

「……無駄じゃない?」

「うん。絵を描くのが好きなら、仕事で疲れた日に絵を描いて元気になれるかもしれない。音楽が好きなら、つらいときにお気に入りの曲に救われるかもしれない。好きなことって、人生を楽しくしてくれる大切なものだと思うんだ」

陽葵は、自分の胸に手を当てた。

「私も、日常の出来事を漫画にするのが好きでしょ?」

「うん! 『ダーリン観察日記』!」

「そうそう♡ でも、漫画を描いている時間が楽しいのは、誰かに評価してもらえるからだけじゃないんだよ。今日あった嬉しいことを思い出したり、何気ない瞬間をもう一度大切にできたりするから」

千夏は、じっと陽葵を見つめた。

「……お姉ちゃん、漫画を描くのが本当に好きなんだね」

「うん。大好き!」

陽葵は、少し照れくさそうに笑った。

「でも、私だって、最初から何でもわかっていたわけじゃないよ。やってみて、失敗して、あれ? 思っていたのと違うなって思うこともあるし」

「そうなの?」

「そうだよ。だから、千夏ちゃんも、今すぐ一つに決めなくていいんじゃないかな」

陽葵は、千夏の手を優しく握った。

「いろんなものを見て、いろんな人の話を聞いて、少しずつ自分の好きなことを知っていけばいいと思う」

「……でも、周りのみんなは、どんどん決めてる気がするんだよね」

「うん。そう感じると、焦っちゃうよね」

「うん……」

「でも、みんなが決めているように見えても、本当は迷っている子もいるかもしれないよ。自信満々に見える子だって、心の中では不安を抱えていることがあると思う」

千夏は、ゆっくりとうなずいた。

「……そうかもしれない」

「それに、進路を決めることって、一度決めたら絶対に変えちゃいけない、っていうものでもないと思うんだ。もちろん、学校や仕事によって準備が必要なことはあるけれど、学びながら考えが変わることもあるし、新しく好きなことが見つかることだってあるよ」

「……うん」

「だからね、今の千夏ちゃんにできることは、将来を完璧に決めることじゃなくて、これからの自分のために、少しずつ選択肢を増やしていくことなんじゃないかな」

千夏は、しばらく黙っていた。

そして、ふっと肩の力を抜いた。

「……なんか、ちょっと楽になった」

「本当?」

「うん。私、将来のことが決まってない自分は、何もしてないみたいに思ってたのかもしれない」

「そんなことないよ♡」

「まだ知らないことがいっぱいあるから、いろんなものを見てみればいいんだよね」

「うん!」

陽葵は、嬉しそうに笑った。

「それに、千夏ちゃんには、まだまだ時間があるんだもん。焦らずに、自分のペースで探していこう?」

「……お姉ちゃん」

「なあに?」

「ありがとう」

千夏は、ぎゅっと陽葵に抱きついた。

「お姉ちゃんに相談してよかった」

「わあっ♡ もちろんだよ!」

陽葵も、千夏を優しく抱きしめ返した。

「いつでも話してね。進路のことでも、友達のことでも、好きな人のことでも!」

「……最後のは、絶対聞きたいだけでしょ!」

「えへへ♡ ちょっとだけ!」

「もう、お姉ちゃんったら!」

二人は笑った。

窓の外では、秋の風が街路樹を揺らしていた。

千夏の悩みが、たった今すべて消えたわけではない。

明日になれば、また友達の進路の話を聞いて、焦ってしまうかもしれない。

それでも、今は少しだけ、前を向ける気がした。

答えが出ていない自分を、無理に否定しなくてもいい。

まだ知らない未来を、怖がるだけでなく、楽しみにしてみてもいい。

千夏は、陽葵の肩に頭を預けながら、小さく笑った。

「……私、もうちょっと、いろんなことをやってみる」

「うん♡ いいと思う!」

「写真も、もっと撮ってみたいし。絵も、ちゃんと描いてみたい。あと、音楽も……」

千夏は、そこでふと思いついたように顔を上げた。

「ねえ、お姉ちゃん」

「ん?」

「お兄ちゃんのギター、また聴いてもいいかな?」

「もちろん! 私も聴きたい!」

「じゃあ、今度来たときにお願いしようっと」

「ふふっ。きっと律、また『気が向いたら』って言うよ」

「言いそう!」

二人は、また笑った。

その笑い声を、書斎の中で律が聞いていたことを、陽葵たちはまだ知らなかった。

*

夕方。

千夏が帰ったあと、陽葵はキッチンで夕食の準備をしていた。

律は書斎で仕事を終え、机の上の資料を片づけている。

いつもの日曜日。

いつもの家。

けれど、今日の律は、どこか考え込んでいるようだった。

千夏が進路について悩んでいたこと。

好きなことが仕事につながるのか、不安に感じていたこと。

そして、陽葵が千夏の話を真剣に聞いてくれていたこと。

書斎のドア越しに聞こえてきた会話を、律は思い返していた。

――まだ、いろんなことをやってみる。

千夏がそう言ったとき、律は胸の奥が少しだけ温かくなった。

妹が、自分の未来について真剣に考えている。

それは嬉しいことだった。

同時に、ふと思い出す。

自分が千夏と同じくらいの年齢だったころ。

将来のことを、どれだけ真剣に考えていただろう。

建築という道を選んだ理由。

ギターに夢中になっていた時間。

そして、父親と交わした言葉。

律は、収納スペースに目を向けた。

そこには、先ほどギターをしまったケースがある。

高校生のころ、父親に買ってもらったギター。

あのとき、父親は何と言っただろう。

律は、静かに目を閉じた。

――好きなことを見つけたなら、簡単に手放すな。

あの言葉は、今でも覚えている。

けれど、その言葉の意味を、当時の自分は本当に理解していたのだろうか。

「ダーリン、ご飯できたよー♡」

リビングから陽葵の声が響いた。

「今行く」

律は立ち上がり、書斎のドアを閉めた。

今夜は、千夏が帰ったあとも、どこか落ち着かない気持ちが残っていた。

父親のことを、久しぶりに思い出していたからかもしれない。

*

夕食のあと。

陽葵は食器を片づけ、律はリビングのソファで温かいお茶を飲んでいた。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「今日、千夏ちゃんと進路の話をしたんだ」

「……そうか」

「うん。まだ将来やりたいことが決まってなくて、ちょっと不安みたい」

陽葵は、向かいの椅子に座った。

「でもね、好きなことがいっぱいあるんだって。絵を描くのも、音楽を聴くのも、写真を撮るのも好きなんだって」

「千夏らしいな」

「うん♡ だから、いろんなことを試してみたらいいんじゃないかなって話したの」

「……そうだな」

律はカップを見つめた。

「千夏は、昔から興味があちこちに向くところがあったからな」

「ふふっ。そうなんだ?」

「ああ。小さいころは、絵を描いていたかと思えば、急に工作を始めたり、音楽に合わせて踊りだしたり」

「かわいい……♡」

「そのたびに、材料や道具が増えていった」

「それもかわいいよ!」

「俺は片づけを手伝わされていた」

「あはははっ!」

陽葵は笑った。

律も、小さく笑った。

けれど、会話が途切れたあと、律はまた少しだけ黙り込んだ。

陽葵は、その様子に気づいた。

「……ダーリン?」

「ん?」

「何か、考えごと?」

律はすぐには答えなかった。

カップをテーブルに置き、窓の外へ目を向ける。

「……親父のことを思い出してた」

その言葉に、陽葵は静かに目を瞬いた。

「お義父さんのこと……?」

「ああ」

律は、小さくうなずいた。

「千夏が将来のことを悩んでるって聞いて、昔の自分を思い出したんだ」

「律も、進路で悩んだことがあったの?」

「もちろん。建築の道に進むことは、早い段階で決めていたけど……それが本当に自分のやりたいことなのか、迷った時期もあった」

「そうだったんだ……」

「親父は、俺が何かを決めるとき、いつも簡単には答えをくれなかった」

律は、少しだけ苦笑した。

「『お前はどうしたいんだ』って、何度も聞いてきた」

「……お義父さんらしい言葉なのかな?」

「そうかもしれないな」

律はカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。

「俺がギターを欲しがったときも、すぐには買ってくれなかったんだ」

「えっ、そうなの?」

「ああ。何日か考えてから、『本当に続けるつもりがあるのか』って聞かれた」

律の視線が、書斎のほうへ向いた。

「俺は、続けるって答えた。そしたら、買ってくれた」

「……素敵だね」

「どうだろうな。当時は、早く買ってほしくて必死だっただけだよ」

「でも、ちゃんと考えてくれてたんだね」

「……そうだな」

律は、少しだけ微笑んだ。

「親父は、俺がギターを弾いていると、たまに部屋の前で立ち止まっていたんだ」

「えっ?」

「中に入ってくるわけじゃない。ただ、少しだけ聞いて、何も言わずに行ってしまう」

「……聴いてくれてたんだ」

「ああ。俺は気づいていたけど、何も言わなかった」

「どうして?」

「……照れくさかったんだろうな」

律は、困ったように笑った。

「今思えば、一曲くらい聴かせてやればよかった」

陽葵は、その言葉を静かに受け止めた。

律の声には、後悔だけではない、懐かしさのようなものが混じっていた。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「今日、ギターを弾いてくれたでしょ?」

「ああ」

「すごく素敵だったよ」

「……ありがとう」

「だからね、もしまた弾きたい曲があったら、聴かせてね。昔の曲でも、新しい曲でも」

陽葵は、柔らかく笑った。

「私、ダーリンが好きなものを知るのが好きなんだ♡」

律は、しばらく彼女を見つめていた。

そして、そっと手を伸ばした。

「……そうだな。今度、もう少し練習してみるよ」

「本当!?」

「ああ」

「やったあ♡」

陽葵は嬉しそうに笑った。

その笑顔を見て、律はふと思った。

もし、あのころの自分に、こんなふうに音楽を聴いてくれる人がいたら。

父親が部屋の前で立ち止まっていたとき、自分から声をかけていたら。

何かが変わっていたのだろうか。

答えは、わからない。

けれど、今からでも遅くはないのかもしれない。

自分の好きなものを、もう一度、大切にしてみてもいいのかもしれない。

*

その夜、千夏から律にメッセージが届いた。

『お兄ちゃん、今日はギター聴かせてくれてありがとう!』

律は、ソファに座ったままスマートフォンを見つめた。

続けて、もう一通。

『私、進路のこと、まだよくわからないけど、いろいろやってみることにした!』

そして、三通目。

『あとね、昔のこと思い出したんだけど、お兄ちゃんが高校生のころ、ギターで同じ曲ばっかり練習してたの、覚えてる?』

律は、指を止めた。

『あの曲、なんていう曲だったっけ? 私、メロディーだけ少し覚えてるんだよね』

律は、スマートフォンを見つめたまま、しばらく動かなかった。

あの曲。

高校生のころ、何度も何度も練習していた曲。

指が痛くなっても、うまく弾けなくても、繰り返し挑戦していた曲。

千夏が、まだ幼かったころ。

リビングで宿題をしていた妹が、いつの間にか手を止めて、音楽に耳を傾けていた。

そして、父親が部屋の前で足を止めていた。

あの曲には、二人の記憶が重なっていた。

律は、ゆっくりと返信を打った。

『覚えてるよ』

送信。

少し考えてから、もう一通。

『今度、ちゃんと教える』

千夏から、すぐに返事が届いた。

『ほんと!? 約束だからね!』

律は、小さく笑った。

そのとき、隣から陽葵が顔をのぞき込んだ。

「ダーリン、誰とメッセージしてるの?」

「千夏だよ」

「何のお話?」

「昔、練習していた曲のこと」

「……えっ!?」

陽葵の目が輝いた。

「ギターの曲!?」

「ああ」

「どんな曲なの? 私も知りたい!」

「今度、教えるよ」

「本当!? 絶対だよ!?」

「わかった」

陽葵は、嬉しそうに律の腕に抱きついた。

「やったあ♡ ダーリンの昔の曲、楽しみ!」

律は、彼女の頭をそっと撫でた。

「……陽葵」

「ん?」

「今日、千夏の話を聞いてくれて、ありがとう」

陽葵は、きょとんとした。

「えっ? どうして?」

「千夏、少し気持ちが軽くなったみたいだったから」

「……そっか」

陽葵は、照れくさそうに笑った。

「私も、千夏ちゃんとお話しできて嬉しかったよ。これからも、いっぱい相談してほしいな」

「ああ」

律は、静かにうなずいた。

「千夏にとって、陽葵は話しやすい相手なんだと思う」

「……そうだったら嬉しいな♡」

陽葵は、律の肩に頭を預けた。

部屋の中は静かだった。

窓の外には、秋の夜空が広がっている。

律は、ふと、書斎に置いたギターのことを思い出した。

あの曲を、もう一度弾いてみよう。

今度は、途中で間違えてもいい。

完璧に弾けなくてもいい。

ただ、昔の自分が夢中になっていた音を、もう一度確かめてみたい。

そして、いつか。

千夏にも、陽葵にも。

あの曲を、最後まで聴かせてやりたい。

律は、そっと目を閉じた。

その胸の奥には、父親と過ごした時間が、静かによみがえっていた。

*

翌朝。

陽葵が朝食の準備をしていると、律が書斎から一冊の古いノートを持ってきた。

「陽葵」

「ん? どうしたの?」

「これ、見てみるか?」

差し出されたのは、少し色あせたノートだった。

表紙の端は擦れていて、角が丸くなっている。

「……これ、何?」

「昔のノートだよ」

律は、テーブルに置いた。

「ギターの練習をしていたころのもの」

「えっ! 見たい!」

陽葵は、そっとノートを開いた。

中には、コードの押さえ方や、練習した日付、曲の一部分を写したメモなどが残っていた。

ところどころ、鉛筆で書いた文字が薄くなっている。

ページの端には、何度も消して書き直した跡もあった。

「わあ……。こんなに練習してたんだね」

「最初は、全然弾けなかったからな」

「ふふっ。今のダーリンからは想像できないかも♡」

「何でも最初はそんなものだろ」

陽葵はページをめくった。

そして、一番最後のページで手を止めた。

「……あれ?」

「どうした?」

「ここだけ、字が違う」

最後のページには、練習内容とは違う文字が書かれていた。

少し大きな字。

律のものよりも、整った筆跡。

そこには、短い一文が残されていた。

『好きな音を、忘れるな。』

陽葵は、ゆっくりと顔を上げた。

「……これ、誰が書いたの?」

律は、しばらくノートを見つめていた。

そして、静かに答えた。

「……親父だよ」

陽葵は、もう一度、その文字を見つめた。

短い言葉だった。

けれど、そこには何か、大切なものが込められているように思えた。

「……お義父さん、こんなことを書いてくれてたんだね」

「ああ。いつ書いたのか、正確には覚えていないけどな」

律は、ノートの端を指でなぞった。

「俺がギターを練習していたころ、親父はあまり褒めてくれなかった。でも、ちゃんと見てくれていたんだと思う」

陽葵は、そっと微笑んだ。

「……素敵な言葉だね」

「……そうだな」

律はノートを閉じた。

それから、書斎のほうを振り返った。

「今度、千夏が来たら、あの曲をもう一度弾いてみるよ」

「うん♡ 私も聴きたい!」

「まだ、ちゃんと弾けるかわからないぞ」

「大丈夫! ダーリンが弾いてくれるなら、どんな音でも嬉しいもん♡」

律は、少しだけ笑った。

陽葵は、ノートを大切そうに両手で包んだ。

――好きな音を、忘れるな。

その言葉は、ギターのためだけのものではないのかもしれない。

自分が大切にしたいもの。

夢中になれるもの。

誰かと分かち合いたいもの。

それを忘れずにいることが、きっと人生を豊かにしてくれる。

千夏が探している未来も、律がもう一度向き合おうとしている過去も。

いつか、どこかでつながるのかもしれない。

陽葵は、そっと律の手を握った。

「ダーリン♡」

「ん?」

「今度、その曲を聴かせてくれるとき、私も一緒に歌っていい?」

「……歌えるのか?」

「えっ!? そこ!?」

「いや、聞いただけだ」

「歌えるもん! たぶん!」

「たぶんか」

「もう! ダーリン、意地悪!」

陽葵は頬を膨らませた。

律は笑いながら、彼女の手を握り返した。

秋の朝。

まだ知らない音楽と、まだ決まっていない未来。

そして、家族が交わしてきた言葉。

それらは少しずつ、今を生きる三人の心をつないでいく。

ギターのケースの中で、古い弦が静かに光を受けていた。

次にその音が響くとき、きっとまた、新しい思い出が生まれる。

そしてその日、律はまだ知らなかった。

千夏が覚えていたあの曲には、父親がかつて口ずさんでいた、もう一つのメロディーが重なっていたことを。

それを知ったとき、自分が父親から受け取っていたものの意味を、もう一度考えることになるのだと。

第8節「父の設計図、忘れられないメロディー」

日曜日の午後。

リビングの窓から差し込む光が、テーブルの上に置かれた古いノートを照らしていた。

『好きな音を、忘れるな。』

最後のページに残された、父親の文字。

陽葵は、その一文をもう一度眺めてから、向かいに座る律を見上げた。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「この言葉、お義父さんが書いてくれたんだよね?」

「ああ」

「ギターのことだけじゃなくて、何かほかの意味もあるのかなって思っちゃった」

律は、すぐには答えなかった。

カップに残っていたお茶をひと口飲み、窓の外へ目を向ける。

「……どうだろうな」

「ダーリン?」

「親父は、あまり自分の気持ちを言葉にする人じゃなかったから」

律は、ノートの表紙をそっと撫でた。

「何を考えていたのか、今でもわからないことがある」

その声には、懐かしさと、少しだけ距離を置くような響きが混じっていた。

陽葵は、すぐに質問を重ねなかった。

知りたいことはたくさんある。

律が高校生だったころのこと。

ギターを夢中で練習していた理由。

父親と過ごした時間。

そして、今の律が、ときどき見せる複雑な表情の意味。

けれど、夫が自分から話してくれるまで、待ちたい気持ちもあった。

「……ねえ」

律が、ふいに口を開いた。

「千夏が覚えていた曲、気になるんだ」

「うん! 私も!」

陽葵はぱっと顔を上げた。

「千夏ちゃん、メロディーを少し覚えてるって言ってたもんね。どんな曲なんだろう?」

「俺も、ずっと忘れていた部分があったからな。あいつが覚えているなら、手がかりになるかもしれない」

「じゃあ、今度、千夏ちゃんに聞いてみようよ♡」

「ああ」

「それで、ダーリンがまたギターを弾くの!」

「そんなに簡単に弾けるとは限らないぞ」

「大丈夫! 私が応援するから!」

「……応援だけなら、ありがたいな」

「えっ? それ、どういう意味!?」

「練習中に『かっこいい♡』って連呼されたら、集中できないだろ」

「きゃーっ♡ じゃあ、集中できなくなるくらい褒めちゃおうかな!」

「やめてくれ」

「やだ♡」

陽葵は笑いながら、律の腕にそっと寄り添った。

律も、困ったように笑った。

その笑顔を見て、陽葵は思った。

夫には、まだ知らない過去がある。

でも、その過去を知ることは、必ずしも悲しいことばかりではないはずだ。

自分が知らなかった律の好きなものを、これから一緒に楽しめるかもしれない。

そう考えると、少しだけ胸が弾んだ。

*

翌週の土曜日。

律は、久しぶりにギターをケースから取り出した。

書斎の窓を少しだけ開けると、秋の風がカーテンを揺らした。

机の上には、あの古い練習ノート。

隣には、スマートフォン。

千夏にメッセージを送ると、ほどなくして返事が届いた。

『お兄ちゃん! あの曲、思い出したかも!』

律は画面を見つめた。

『サビのところ、こんな感じだったと思う!』

続けて、短い音声メッセージが届く。

再生ボタンを押すと、少し恥ずかしそうな千夏の声が聞こえてきた。

「えっと……たぶん、こんな感じ! 音程、合ってるかわかんないけど!」

そのあとに続いたのは、鼻歌だった。

短いフレーズ。

音が少し揺れていて、最後の部分は曖昧になっている。

けれど。

「……あ」

律の指が止まった。

そのメロディーを、覚えていた。

忘れたと思っていた。

何年も弾いていなかった。

それなのに、最初の数音を聞いただけで、頭の奥に眠っていた記憶がゆっくりと浮かび上がってきた。

高校生のころ。

部屋の窓から見える夕焼け。

机の上に広げたノート。

何度も押さえ直したコード。

そして、廊下の向こうから聞こえた父親の足音。

律は、ギターを抱え直した。

「……そうだ。これだ」

左手の指を弦に添える。

記憶を頼りに、コードを押さえた。

ぽろん。

音が、ひとつ響く。

もう一度。

ぽろん、ぽろん。

最初は、ぎこちなかった。

指先が思うように動かない。

昔は簡単にできたはずの運指も、今では少しずつ確かめなければならなかった。

律は、苦笑した。

「……ずいぶん鈍ったな」

それでも、やめなかった。

千夏の鼻歌を頭の中で繰り返しながら、音を探す。

少し違う。

もう一度。

今度は、近い。

あと少し。

何度も繰り返すうちに、途切れ途切れだった旋律が、少しずつつながり始めた。

そして、ある瞬間。

指先から流れ出した音が、記憶の中のメロディーと重なった。

律は、思わず目を閉じた。

――ああ。

――この曲だった。

高校生のころ、何度も弾いた曲。

うまく弾けなくて、悔しくて、夜遅くまで練習した曲。

誰かに聴かせたいと思いながら、結局、最後まで聴かせられなかった曲。

律は、ゆっくりと息を吐いた。

そのとき、書斎のドアが控えめにノックされた。

「ダーリン?」

陽葵の声だった。

「入っていい?」

「ああ」

ドアが開く。

陽葵は、手にマグカップを二つ持っていた。

「お茶、持ってきたよ♡」

「ありがとう」

テーブルにカップを置いた陽葵は、ギターを見て目を輝かせた。

「わあ! 練習してたの?」

「千夏が、曲のメロディーを送ってくれたんだ」

「えっ! じゃあ、思い出せたの!?」

「少しな」

「聴きたい!」

陽葵は、椅子を引き寄せて座った。

「ねえ、お願い♡」

律は苦笑した。

「まだ練習中だぞ」

「うん。だからこそ、聴きたいの!」

「……わかった」

律は、もう一度ギターを構えた。

今度は、先ほどより少しだけ落ち着いて弦を弾く。

短いメロディーが、書斎に流れた。

陽葵は、静かに耳を傾けた。

派手な曲ではない。

明るく弾けるような旋律でもない。

どこか懐かしく、少し切ない。

まるで、遠くにいる誰かへ、言葉の代わりに気持ちを届けようとしているような曲だった。

最後の音が消える。

陽葵は、しばらく黙っていた。

「……素敵」

「そうか?」

「うん。なんだか、懐かしい気持ちになるね」

陽葵は、胸の前で両手を重ねた。

「この曲、ダーリンが作ったの?」

「いや。昔、練習していた曲だよ」

「そっか……」

陽葵は、もう一度、ギターを見つめた。

「でも、ダーリンが弾くと、ダーリンの思い出が詰まってるみたいに聴こえる」

律の指が止まった。

「……思い出、か」

「うん♡」

陽葵は笑った。

「私には、どんなことを考えて弾いていたのか、まだわからないけどね。いつか教えてくれたら嬉しいな」

律は、彼女を見つめた。

何かを言いかけて、やめる。

その表情に、陽葵は気づいた。

けれど、今は何も聞かなかった。

代わりに、そっと手を差し出した。

「ダーリン」

「ん?」

「もう一回、聴かせて♡」

律は、少しだけ笑った。

「……ああ」

そして、もう一度、弦を弾いた。

*

その日の夕方、千夏から電話がかかってきた。

「お兄ちゃん! どうだった? 曲、思い出せた?」

「ああ。お前の鼻歌のおかげでな」

「やったー!」

電話の向こうで、千夏が嬉しそうに声を上げた。

「よかった! 私、なんとなくしか覚えてなかったから、間違ってたらどうしようって思ってたんだ」

「大丈夫だったよ。ちゃんと思い出せた」

「ねえ、弾けたの?」

「少しな」

「聴きたい!」

「今度、来たときにな」

「えーっ! 今、電話で聴かせてよ!」

「電話じゃ、音がうまく伝わらないだろ」

「いいの! 聴きたいの!」

「……わかったよ」

律は、スマートフォンをギターの近くに置き、短いフレーズを弾いた。

電話の向こうで、千夏が息をのむ音がした。

「……あっ!」

少し間があって、千夏が笑った。

「それ! それだよ、お兄ちゃん!」

「覚えていたんだな」

「うん! なんか、懐かしい……」

千夏の声が、少しだけ小さくなった。

「昔、お兄ちゃんが弾いてると、私、よく隣の部屋で聴いてたんだよ」

「ああ」

「お父さんも、ときどき聴いてたよね」

律は、黙った。

電話の向こうで、千夏が続ける。

「……お父さん、あの曲、好きだったのかな」

律は、ギターの弦を見つめた。

「……どうだろうな」

「でも、いつも廊下で立ち止まってたよ」

「ああ。俺も気づいてた」

「お兄ちゃん、知ってたんだ?」

「……まあな」

千夏は、少しだけ笑った。

「じゃあ、やっぱり好きだったのかもね」

その言葉に、律は返事をしなかった。

好きだったのか。

それとも、ただ、何かを言おうとしていたのか。

父親の気持ちは、もう本人に聞くことができない。

律は、しばらく黙ったあと、静かに口を開いた。

「……千夏」

「なあに?」

「今度、うちに来たとき、もう一度この曲を弾くよ」

「ほんと!?」

「ああ」

「絶対だよ! 約束だからね!」

「わかってる」

電話の向こうで、千夏が嬉しそうに笑った。

「ありがとう、お兄ちゃん!」

通話が終わる。

律はスマートフォンを置き、ギターを抱え直した。

父親が、あの曲を好きだったのかどうか。

今となっては、確かめようがない。

それでも、千夏が覚えていたメロディーは、確かにあのころの家族をつないでいた。

律は、もう一度、最初の音を弾いた。

ぽろん。

静かな音が、部屋に響いた。

*

数日後。

律は、仕事の打ち合わせを終え、事務所から帰る途中だった。

駅前の大通りを抜け、少し古い建物が並ぶ通りへ入る。

見慣れた街並み。

長く使われた建物の外壁。

何度も補修された階段。

新しい店と、昔から続く店。

律は、歩きながら、ふと一軒の建物を見上げた。

築年数の経った小さなビルだった。

外壁の一部は塗り直され、窓枠も新しいものに交換されている。けれど、建物全体の輪郭には、古い時代の設計思想が残っていた。

――こういう建物、親父も好きだったな。

その考えが浮かんだ瞬間、律の足が止まった。

父親も、建築士だった。

いや、正確に言えば、父親は建築の世界で長く仕事をしてきた人だった。

設計事務所に勤め、やがて独立し、住宅から小さな商業施設まで、さまざまな建物を手がけた。

図面を引くときの手つき。

模型を組み立てるときの集中した横顔。

完成した建物を前にしても、決して大げさに喜ばず、ただ静かに細部を確かめる姿。

律が建築に興味を持ったのは、父親の影響が大きかった。

子どものころ、父親の事務所に連れていってもらったことがある。

大きな製図台。

紙の上に並ぶ線。

定規と鉛筆。

そして、まだ何もない土地に、建物が立ち上がっていく過程を描いた図面。

律は、その光景に夢中になった。

何もない場所に、誰かの暮らしが生まれる。

窓から光が差し込み、人が集まり、帰る場所になる。

建物は、ただ壁と屋根を組み合わせたものではない。

そこで過ごす人の時間を、そっと支えるものなのだ。

父親は、そんなことをよく話していた。

だから律も、建築の道を選んだ。

けれど――。

律は、目を閉じた。

思い出したくないわけではない。

ただ、思い出すたびに、胸の奥に小さな痛みが残る。

父親と同じ道を歩いている。

それなのに、父親と同じ考え方をしているわけではない。

その違いが、二人の間に少しずつ溝を作っていった。

律は、ゆっくりと歩き始めた。

*

その夜。

陽葵は、リビングでWEB漫画の下書きをしていた。

ノートには、ギターを弾く律の横顔が描かれている。

まだ線は荒い。

けれど、弦を押さえる指や、少し伏せた目の形は、できるだけ丁寧に描いた。

「……うーん」

陽葵は鉛筆を止めた。

「もう少し、指を長くしたほうがいいかな……?」

「何を悩んでるんだ?」

背後から声がした。

「わあっ!」

振り返ると、律が立っていた。

「ダーリン! いつからいたの!?」

「さっきから」

「もう! 声をかけてよ!」

「集中していたみたいだからな」

律は、陽葵のノートをのぞき込んだ。

「……ギターか」

「うん♡ この前のダーリン、すっごくかっこよかったから、漫画に描こうと思って!」

「また描いてるのか」

「だって、忘れたくないんだもん」

陽葵は、少し照れくさそうに笑った。

「ダーリンがギターを弾いてくれたことも、その音を聴いたときの気持ちも。ちゃんと残しておきたいの」

律は、ノートを見つめた。

「……そうか」

「うん♡」

陽葵は鉛筆を置き、夫の顔を見上げた。

「ねえ、ダーリン。お義父さんも、建築士だったんだよね?」

律の表情が、わずかに変わった。

「……ああ」

「この前、昔のことを思い出してたって言ってたでしょ?」

「そうだったな」

「もしかして、建築のことも、お義父さんから教わったの?」

律は、しばらく黙っていた。

それから、ゆっくりとソファに腰を下ろした。

「……最初は、そうだったよ」

「最初は?」

「親父の仕事を見て、建築って面白いなと思った。何もない場所に建物ができて、そこに人が暮らすようになる。そういう仕事に、憧れていたんだ」

「……うん」

「親父も、俺が興味を持っていることは知っていた。だから、図面の見方を教えてくれたり、建築現場に連れていってくれたりした」

律は、少しだけ笑った。

「子どものころは、親父が何でも知っているように見えたよ」

「素敵なお父さんだったんだね」

「……そうだな」

その返事は、いつもより少しだけ遅かった。

陽葵は、そっと律の隣に座った。

「でも……何かあったの?」

律は、すぐには答えなかった。

テーブルの上には、陽葵が描いていたギターのスケッチがある。

その隣には、開いたままのノート。

そして、書斎には、父親の筆跡が残された古い練習ノートが置かれている。

律は、それらを見つめていた。

「……建築士になりたいって言ったとき、親父は喜んでくれた」

「うん」

「でも、俺が自分で設計を考えるようになってから、少しずつ意見が合わなくなったんだ」

陽葵は、静かに耳を傾けた。

「親父には、親父の考えがあった。長く仕事をしてきた人だから、経験も知識もある。俺は、そこから学ぶことがたくさんあった」

「……うん」

「だけど、俺には俺の考えがあった」

律は、手のひらを見つめた。

「建物を使う人の暮らしを、もっと細かく考えたいと思っていた。図面の上ではきれいでも、実際に暮らしてみたら不便なことだってある。だから、設計する側の都合だけで決めたくなかった」

「……律らしいね」

「そうか?」

「うん。ダーリン、いつも建物のことを考えるとき、そこに住む人のことも考えてるもん」

律は、少しだけ目を見開いた。

「……そう見えるのか」

「見えるよ♡」

陽葵は、にっこり笑った。

「私、ダーリンが仕事の話をしてくれるとき、すごく好きなんだ。難しいことはわからないけど、建物の向こうにいる人のことまで考えてるんだなって思うから」

律は、何も言わなかった。

ただ、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。

「……親父は、違う考え方をすることもあった」

「うん」

「長く残る建物を作ること。安全であること。予算の中で、確実に完成させること。そういうことを、とても大切にしていた」

「それも、大切なことだね」

「ああ。俺も、それが間違っているとは思っていない」

律は、窓の外へ目を向けた。

「でも、あるとき……俺が考えた設計について、親父と大きく意見がぶつかったんだ」

陽葵は、思わず息を止めた。

「……何があったの?」

律は、唇を結んだ。

少しの沈黙。

それから、低い声で答えた。

「……まだ、うまく説明できない」

陽葵は、すぐにうなずいた。

「そっか」

「悪い」

「どうして謝るの?」

陽葵は、律の手にそっと触れた。

「話したくないこともあるよ。今、全部話さなくてもいいんだよ」

「……陽葵」

「私は、ダーリンのことをもっと知りたい。でも、ダーリンが話せるときに、話せる分だけ聞かせてくれたら嬉しいな♡」

律は、妻の顔を見つめた。

陽葵は、いつものように笑っていた。

無理に聞き出そうとはしない。

けれど、知らないことを怖がって、遠ざけようともしない。

ただ、そこにいてくれる。

律は、その温かさに、胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。

「……ありがとう」

「えへへ♡」

陽葵は、そっと肩を寄せた。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「お義父さんも、ギターの音を聴いてくれてたんだよね」

「ああ」

「じゃあ、いつかまた、その曲を弾いてみようよ」

律は、目を伏せた。

「……ああ」

「お義父さんに聴かせることは、もうできないけど」

陽葵は、少しだけ言葉を選んだ。

「でも、その曲を覚えている千夏ちゃんがいて、今、もう一度弾こうとしているダーリンがいる。それって、すごく大切なことだと思うんだ」

律は、ゆっくりと顔を上げた。

「……そうだな」

その声は、かすかに揺れていた。

陽葵は、何も言わずに手を握った。

しばらくして、律が小さく笑った。

「……今度、千夏が来たら、ちゃんと最後まで弾けるように練習しておくよ」

「うん♡ 私も聴きたい!」

「陽葵は、練習中に騒がないこと」

「ええーっ!?」

「約束できるか?」

「……たぶん!」

「たぶんじゃ困る」

「じゃあ、頑張ります♡」

二人は笑った。

けれど、その夜、律はいつもより少し長く、妻の手を握っていた。

*

深夜。

陽葵が眠ったあと、律は一人で書斎に入った。

机の上には、仕事で使う設計資料が積まれている。

その隣に、古い練習ノート。

律は椅子に腰掛け、ノートを開いた。

『好きな音を、忘れるな。』

父親の文字。

何度見ても、短い言葉だった。

けれど、今夜は、その下に書かれていない言葉まで、見えてくるような気がした。

好きなものを大切にしろ。

自分の考えを持て。

誰かの期待に応えるためだけに、道を選ぶな。

それとも――。

父親が本当に伝えたかったのは、もっと別のことだったのだろうか。

律は、ノートを閉じた。

書斎の隅にあるギターケースを見つめる。

高校生のころ、父親と意見がぶつかった日のことが、ふいによみがえった。

設計図の上に置かれた父親の手。

自分の考えを説明しようとした声。

そして、返ってきた言葉。

――お前は、何もわかっていない。

律は、目を閉じた。

あのとき、自分は何と答えたのだったか。

記憶の中では、言葉が途切れている。

ただ、父親の表情だけは、はっきりと覚えていた。

怒っていた。

失望していた。

それとも、何かを心配していたのだろうか。

今となっては、もうわからない。

律は、ギターをケースから取り出した。

膝の上に置き、弦に指を添える。

千夏が送ってくれたメロディーを、ゆっくりと奏で始めた。

ぽろん。

ぽろん、ぽろん。

音が、静かな部屋に広がる。

あのころと同じ旋律。

けれど、今は少し違って聴こえる。

昔は、ただ上手に弾けるようになりたかった。

父親に認められたかったのかもしれない。

自分の考えをわかってほしかったのかもしれない。

あるいは、言葉では伝えられない何かを、音楽に託そうとしていたのかもしれない。

律は、最後の音を弾いた。

そして、静かに息を吐いた。

「……親父」

誰もいない部屋で、その言葉だけが小さく響いた。

「俺は……」

続きは、声にならなかった。

律は、ギターを見つめた。

建築士になった今も、父親の影響は、自分の中に残っている。

建物を使う人のことを考える。

何十年先まで残るものを作ろうとする。

目に見える部分だけでなく、その奥にある構造を確かめる。

それらは、自分自身が選んだ考え方だと思っていた。

けれど、もしかしたら。

父親から受け取ったものを、自分なりに解釈し直してきただけなのかもしれない。

それでもいい。

そう思えるようになるまでには、まだ時間が必要だった。

律は、ギターをケースに戻した。

そして、机の上のノートを閉じる前に、もう一度、父親の文字を見た。

『好きな音を、忘れるな。』

律は、小さくうなずいた。

「……忘れてないよ」

誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

父親に向けたのか。

昔の自分に向けたのか。

それとも、今の自分に向けたのか。

ただ、その言葉を口にしたとき、胸の奥にあった痛みが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。

*

翌朝。

陽葵が目を覚ますと、隣のベッドはすでに空になっていた。

「あれ……ダーリン?」

リビングへ向かうと、律がキッチンでコーヒーを淹れていた。

「おはよう、ダーリン♡」

「おはよう」

「早いねえ。何時に起きたの?」

「いつもと同じくらいだよ」

「そっかあ」

陽葵は、眠そうに目をこすりながら、律の背中にそっと抱きついた。

「……ん?」

「ダーリン、充電中♡」

「朝からか」

「朝だからだよ♡」

律は苦笑しながら、彼女の手に自分の手を重ねた。

「……コーヒー、飲むか?」

「うん! お願い♡」

陽葵はテーブルに座った。

律がカップを持ってきてくれる。

その横顔を見ながら、陽葵はふと思った。

昨夜、律は書斎に長くいた。

ギターを弾いていたのだろうか。

それとも、父親のことを考えていたのだろうか。

聞いてみたい気持ちはあった。

けれど、今朝の律は、いつもと変わらない穏やかな表情をしている。

だから陽葵は、まず笑顔を向けた。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「今日も、ギター練習する?」

「……少しだけな」

「やったあ♡」

「まだ、うまく弾けないぞ」

「いいの! 私、応援係だから!」

「応援係は、静かにするんじゃなかったのか?」

「……あっ!」

陽葵は口元を押さえた。

「そ、そうでした!」

「本当にできるのか?」

「で、できます! たぶん!」

「また、たぶんか」

二人は顔を見合わせて笑った。

窓の外では、秋の朝日が街を照らしていた。

律の過去には、まだ語られていないことがある。

父親との間に生まれた溝。

同じ建築士の道を選びながら、すれ違ってしまった二人の思い。

そして、あの曲に込められていた、言葉にならない気持ち。

それらは、まだ簡単には解けない。

けれど、千夏が覚えていたメロディーを手がかりに、律はもう一度、過去と向き合い始めた。

その音を聴く人がいる。

そばで見守ってくれる人がいる。

だから、今度は最後まで弾いてみようと思えた。

陽葵は、コーヒーをひと口飲み、にっこり笑った。

「ダーリン♡ 今日も大好き!」

「……俺もだよ」

律は、穏やかな声で答えた。

そして、心の中で、もう一度だけ父親に語りかけた。

――親父。

――俺は、俺のやり方で、建物を作っているよ。

――でも、あんたから教わったことまで、全部忘れたわけじゃない。

その言葉は、まだ誰にも伝えられていない。

それでも、いつか。

律自身が、自分の中に残る父親の思いを、きちんと言葉にできる日が来るのかもしれない。

書斎の隅では、ギターケースが静かに朝の光を受けていた。

そして、その中には、まだ弾き終えていない曲が眠っていた。

 

第9節:午前零時の「おやすみ」と、父の設計図

最初に変化に気づいたのは、月曜日の夕方だった。

「ダーリン、今日の晩ごはんはね、ハンバーグだよ♡」

キッチンから顔を出した陽葵は、両手を腰に当てて、少しだけ得意げに笑った。

テーブルの上には、付け合わせのブロッコリーとにんじん、湯気の立つスープ。ハンバーグの上には、陽葵お手製のデミグラスソースがたっぷりとかかっている。

新婚生活も、もうすぐ半年。

最初の頃は、何を作るにもレシピを確認していた陽葵も、最近では少しずつ手際がよくなっていた。とはいえ、時々とんでもない失敗をすることもある。先週は砂糖と塩を間違えかけて、律に味見を頼んだところ、彼が一口食べた瞬間に無言で水を飲み干した。

そのときの顔を思い出すと、今でも笑ってしまう。

「今日は自信作なんだからね。ちゃんと味わって食べてね?」

「いつも味わってるだろ」

「そうだけど、今日は特別なの♡」

「じゃあ、期待しておく」

律はネクタイを緩めながら、食卓についた。

いつもと変わらない、二人の夕食。

陽葵にとっては、それだけで十分に幸せな時間だった。

「いただきます♡」

「いただきます」

ハンバーグを一口食べた律は、ゆっくりと咀嚼してから頷いた。

「うまい」

「本当?」

「ああ。ソースもいいな」

「えへへ♡ 実はね、隠し味を入れたんだよ!」

「何?」

「秘密!」

「……食べてわからないなら、隠し味として成功してるんじゃないか」

「ちょっと! そこは気になってよ、ダーリン!」

陽葵が頬を膨らませる。

律は小さく笑った。

そんな、何でもないやり取り。

けれど、その日の律は、いつもより少しだけ時計を気にしていた。

スマートフォンがテーブルの端で震えるたび、画面を確認する。メッセージを読むと、眉間に薄い皺が寄った。

「お仕事?」

陽葵が尋ねると、律は一瞬だけ迷ってから頷いた。

「設計の修正が入った。明日の午前中までに、一度まとめておきたいらしい」

「明日の午前中?」

「そう。今日中に片づけておけば、明日は少し楽になると思う」

「そっか……」

陽葵は、それ以上聞かなかった。

建築士の仕事が、図面を描いて終わりではないことくらい、彼女も知っている。

依頼主との打ち合わせ。現場との調整。安全性の確認。予算の見直し。設計した建物が実際に形になるまでには、目に見えない仕事がたくさんある。

律は普段、仕事の愚痴をあまり口にしない。

忙しくても、疲れていても、帰宅すればいつもの落ち着いた顔で「ただいま」と言う。

だからこそ、陽葵は彼がどれだけ疲れているのか、時々わからなくなる。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「無理はしないでね?」

律は箸を置き、陽葵を見た。

「わかってる」

「本当に?」

「本当に」

「……約束だよ?」

「約束」

そう答えた律の声は、いつもと同じだった。

だから陽葵も、いつもと同じように笑った。

「じゃあ、明日もおいしいごはんを作って待ってるね♡」

「ああ。楽しみにしてる」

そのときは、まだ思っていた。

明日も、明後日も、二人の生活はいつもどおりに続いていくのだと。

けれど、翌日から少しずつ、二人の夜は変わり始めた。

*

火曜日。

律から帰宅時間の連絡が届いたのは、午後七時を少し過ぎた頃だった。

『今日は遅くなる。先に食べていてくれ』

短いメッセージ。

陽葵は、夕食の準備をしながら画面を見つめた。

「そっか。お仕事、忙しいんだね……」

誰もいないリビングで、ぽつりと呟く。

テーブルには二人分の食器を並べていたが、律の分だけラップをかけて冷蔵庫に入れることにした。

自分の分を食べ終えると、陽葵は洗い物を済ませ、ソファに腰を下ろした。

テレビをつけても、あまり内容が頭に入ってこない。

スマートフォンを手に取り、律とのトーク画面を開く。

最後のメッセージは、午後七時の『今日は遅くなる』。

それだけだった。

「……ダーリン、今頃何してるのかな」

仕事をしているに決まっている。

そんなことはわかっている。

それでも、普段なら隣にいるはずの人がいない夜は、思っていた以上に静かだった。

陽葵はソファの端に置いてあったペンギンのぬいぐるみを抱き寄せた。

「ペンちゃん。今日はダーリンがいないね」

当然、返事はない。

「……うん。お仕事だもんね。仕方ないよね」

自分で自分に言い聞かせるように、ぬいぐるみの頭を撫でる。

時計の針が午後十時を回った。

十一時を回った。

その間、陽葵はデートノートを開き、次の休日に行きたい場所を考えていた。

秋の公園。

少し遠くのパン屋さん。

夜景のきれいな展望台。

そして、まだ行けていない動物園。

ノートには、行きたい場所がいくつも並んでいる。

けれど、どれも一人で行きたい場所ではなかった。

「……次のお休み、いつになるのかな」

小さな声が、部屋の中に落ちた。

そのとき、スマートフォンが震えた。

『今から帰る。遅くなって悪い』

陽葵は、ぱっと顔を上げた。

「帰ってくる!」

思わず立ち上がりかけて、すぐに時計を見る。

午後十一時四十二分。

「……って、もうこんな時間!」

慌ててキッチンに向かい、冷蔵庫から律の夕食を取り出す。

電子レンジで温め、スープも鍋に戻して温め直した。

その間に、玄関の鍵が回る音がした。

「ただいま」

「おかえりなさい、ダーリン♡」

陽葵は玄関へ駆けていった。

律は少し驚いた顔をした。

「まだ起きてたのか」

「うん。おかえりって言いたかったから♡」

「……そっか」

律は靴を脱ぎながら、ほんの少しだけ表情を緩めた。

けれど、目の下には薄い疲れが浮かんでいた。

「お仕事、お疲れさま」

「ありがとう」

「ごはん、温めてあるよ。食べられそう?」

「ああ。少し食べる」

「じゃあ、すぐ持ってくるね!」

陽葵は嬉しそうにキッチンへ戻った。

律が食事をしている間、彼女は向かい側に座り、今日あった出来事を話した。

商店街で新しいパン屋さんを見つけたこと。

八百屋のおじさんに柿を一つおまけしてもらったこと。

ペンちゃんの写真を撮ろうとしたら、ぬいぐるみがソファから転がり落ちてしまったこと。

律は相槌を打ちながら、時々小さく笑った。

「それでね、柿を持って帰ったら、ペンちゃんにも見せてあげたの!」

「ぬいぐるみに?」

「そう! 秋の味覚だよって♡」

「ペンちゃんは食べられないだろ」

「気持ちが大事なの!」

「……そうだな」

律は笑った。

その笑顔を見て、陽葵の胸が少しだけ温かくなる。

疲れていても、ちゃんと笑ってくれる。

それだけで、今日は十分だと思えた。

食事を終えた律が食器を持ち上げようとすると、陽葵は慌てて立ち上がった。

「片づけは私がやるから!」

「自分の分くらいは――」

「ダーリンは今日、いっぱいお仕事したんでしょ?」

「……まあ」

「じゃあ、今日は奥さんに甘えてください♡」

陽葵は食器を受け取り、にっこり笑った。

「はい、決定!」

「……わかった」

律は抵抗するのをやめた。

その夜、二人が寝室に入ったのは、日付が変わる少し前だった。

ベッドに横になった律は、すぐに目を閉じようとした。

陽葵は隣に潜り込み、そっと彼の袖をつまんだ。

「ダーリン」

「ん?」

「……今日も、おかえりって言えてよかった」

律が目を開けた。

陽葵は笑っていた。

けれど、その目には少しだけ眠気と寂しさが混じっていた。

「ただいま、陽葵」

「うん♡」

「待っていてくれて、ありがとう」

「……うん」

律は布団の中で手を伸ばし、陽葵の頭を軽く撫でた。

「おやすみ」

「おやすみなさい、ダーリン♡」

その夜、二人はいつもより短い会話で眠りについた。

それでも、最後の言葉だけは、いつもと同じだった。

*

水曜日。

木曜日。

金曜日。

律の帰宅は、少しずつ遅くなっていった。

午後九時。

午後十時半。

午後十一時を過ぎる日もあった。

朝はいつもどおりに起き、出勤する。

帰宅すると食事をとり、シャワーを浴び、翌日の仕事に備えて眠る。

会話の時間は、少しずつ短くなっていった。

それでも律は、帰宅の連絡を忘れなかった。

『今から帰る』

『今日はもう少しかかりそうだ』

『先に寝ていていいからな』

陽葵も返事をした。

『了解です、ダーリン♡』

『ごはんは温めれば食べられるよ!』

『無理しすぎちゃダメだからね?』

最後には必ず、ハートを一つ添えた。

けれど、スマートフォンを置いたあと、陽葵は何度もトーク画面を見返してしまう。

会いたい。

顔を見たい。

今日あったことを話したい。

ほんの少しでいいから、隣で笑ってほしい。

そんな気持ちが、胸の中に少しずつ溜まっていった。

ある日の夜。

陽葵は、デートノートを開いていた。

最後に二人で出かけたのは、水族館。

ペンギンの前で固まった律。

大きな水槽の前で、魚の名前を次々に教えてくれた律。

帰りの電車で、肩が触れ合うたびに嬉しくなった自分。

ページをめくると、映画の夜の記録もあった。

お菓子を半分こしたこと。

大きいほうをくれたこと。

隣で映画を見ている律の横顔が好きだったこと。

どれも、少し前の出来事なのに、ずいぶん遠い日のことのように感じられた。

「……ダーリン」

陽葵は、空いているページに鉛筆を置いた。

次のデートの予定を書こうと思ったのだ。

けれど、何も浮かばなかった。

正確には、行きたい場所ならいくらでもある。

ただ、今はどこかへ出かけることよりも、家で一緒に過ごしたかった。

夕食を食べて。

テレビを見て。

くだらないことで笑って。

お風呂に入る順番を相談して。

寝る前に、今日も一日お疲れさまと言い合う。

そんな、当たり前の時間が欲しかった。

「……欲張りかな」

自分で呟いて、陽葵は苦笑した。

仕事が忙しいのはわかっている。

律が頑張っていることも知っている。

だから、寂しいなんて言ったら、困らせてしまうかもしれない。

疲れて帰ってきた彼に、さらに気を遣わせたくなかった。

陽葵はノートの端に、小さく書き込んだ。

『次のデートは、おうちデート♡』

その下に、さらに一行。

『何もしなくてもいいから、ダーリンと一緒にいたい』

書き終えると、陽葵はノートを閉じた。

ちょうどそのとき、玄関の鍵が回る音がした。

「ただいま……」

午後十一時五十八分。

律の声は、いつもより少しかすれていた。

「おかえりなさい、ダーリン♡」

陽葵は、いつものように玄関へ向かった。

律は彼女を見ると、申し訳なさそうに眉を下げた。

「遅くなって悪い」

「ううん。お疲れさま」

「夕飯は?」

「ちゃんと食べたよ。ダーリンの分もあるからね」

「ありがとう」

律は上着を脱ぎ、鞄を置いた。

その動作一つひとつに、疲れがにじんでいた。

陽葵は、彼の顔を見つめた。

本当は聞きたいことがあった。

お仕事、そんなに大変なの?

何か困っていることはない?

私にできることはある?

でも、口から出たのは、別の言葉だった。

「……お風呂、沸いてるよ♡」

「助かる」

「ゆっくり入ってね」

「ああ」

律が浴室へ向かう。

陽葵はその背中を見送りながら、そっと息を吐いた。

言えなかった。

寂しい、と。

もう少し一緒にいたい、と。

そんな気持ちを、今は言葉にできなかった。

*

その頃、律の職場では、一つの設計案件が大きな転換点を迎えていた。

駅から少し離れた住宅街に建てる、小規模な複合施設。

一階には地域の人が利用できる小さな店舗と交流スペース、二階には事務所が入る予定だった。

依頼主が望んでいたのは、地域の人が気軽に立ち寄れる場所。

高齢者も、子ども連れも、仕事帰りの人も。

誰もが特別な用事がなくても立ち寄れる、街の小さな居場所。

律は、そのコンセプトに惹かれていた。

建物は、完成した瞬間がゴールではない。

そこで人が過ごし、時間が積み重なり、やがて街の風景の一部になる。

誰かが初めて訪れる場所になるかもしれない。

誰かが何年も通い続ける場所になるかもしれない。

そういう建物を設計したいと、律は思っていた。

しかし、最初の案を提出した翌週、状況が変わった。

「九条くん、修正案なんだけど」

上司が図面を机の上に広げた。

「ここ、もう少し詰められないかな」

「……通路幅ですか?」

「そう。共用部分を少し整理すれば、店舗の面積を広げられる。依頼主から、もう少し収益性を上げたいという話が来ていてね」

律は図面を見つめた。

確かに、通路を狭めれば店舗部分を広げられる。

建築基準や必要な避難経路を満たすことと、日常的に使いやすいことは、必ずしも同じではない。

法令上の条件を満たしていても、車椅子がすれ違うときに窮屈だったり、買い物袋を持った人と子ども連れが行き交うときに気を遣ったりすることはある。

律は当初から、その点を考えて余裕を持たせていた。

「ここを詰めると、ベビーカーと車椅子がすれ違うときに、少し不便になると思います」

「その可能性はあるね。ただ、今回の規模だと、面積にも限界がある。店舗の売り場を確保できなければ、運営そのものが厳しくなるかもしれない」

「……」

「利用者の快適さは大切だよ。でも、施設が長く運営できなければ、その快適さも維持できない。清掃や修繕にかかる費用も含めて、現実的な案にする必要がある」

上司の言葉は、もっともだった。

律も、それを理解している。

建物は、思いやりだけでは建てられない。

予算がある。

工期がある。

安全基準がある。

使い続けるための維持管理費もある。

どれか一つを無視すれば、完成したあとに別の誰かが苦労することになる。

「一度、検討します」

律はそう答え、図面を受け取った。

席に戻り、修正箇所を確認する。

通路幅。

柱の位置。

店舗の面積。

出入口の位置。

数字を変えれば、ほかの数字も変わる。

一つの変更が、別の場所に影響を及ぼす。

それが設計という仕事だった。

律は画面に向かい、図面を修正し始めた。

けれど、何度線を引き直しても、どこかに小さな違和感が残った。

その違和感は、図面の中にあるのではなかった。

もっと昔。

まだ自分が、父親の仕事を間近で見ていた頃。

あの日の言葉が、頭の奥からよみがえってきた。

『お前は、何もわかっていない』

律の手が止まった。

*

父親と衝突したのは、律が建築を学び始めて、まだ間もない頃だった。

当時の律は、父親の設計事務所を訪れることが好きだった。

机いっぱいに広げられた図面。

壁に貼られた建築写真。

模型の並ぶ棚。

製図用の道具と、使い込まれた定規。

そこには、自分の知らない世界が広がっていた。

父親は口数の多い人ではなかった。

仕事について質問しても、長々と説明してくれることは少ない。

「図面をよく見ろ」

「数字を確認しろ」

「建物は、見た目だけでは成り立たない」

そんな短い言葉が返ってくることが多かった。

それでも律は、父親の背中を見ていた。

現場から連絡が入れば、すぐに図面を確認する。

小さな寸法の違いにも気づく。

予算の変更があれば、必要な安全性を損なわないように別の方法を考える。

何年も使う建物をつくるために、目に見えない部分まで気を配る。

子どもの頃の律には、それが格好よく見えた。

父親のような建築士になりたい。

いつか自分も、人が安心して暮らせる建物を設計したい。

そう思っていた。

けれど、成長するにつれて、律の中に別の疑問が生まれた。

図面の数字は正しくても、そこで過ごす人にとって使いにくい建物だったら?

安全で、頑丈で、予算どおりに完成したとしても、毎日そこで過ごす人が窮屈さを感じるのなら?

建物は、人を守るためにある。

でも、人がそこで生きることを忘れてはいけない。

律はそう考えるようになった。

そして、ある設計案について父親と意見を交わしたとき、二人の考えは正面からぶつかった。

律は、実際にその場所を使う人たちの動線や、日々の暮らしやすさを優先した案を提案した。

父親は、構造の合理性や維持管理、予算、そして長期的な安全性を重視した。

どちらか一方が、明らかに間違っていたわけではない。

しかし、当時の律は、自分の考えを譲れなかった。

「ここは、もっと使う人のことを考えたほうがいいと思う」

そう言った律に、父親は静かに図面を見せた。

「では、その変更で何が起きる?」

「……何が、って?」

「工事費はどうなる。維持管理はどうする。将来、修繕が必要になったとき、誰が負担する?」

「それは、別の部分を調整すれば――」

「その調整で、別の条件が崩れたらどうする」

律は言葉に詰まった。

父親は続けた。

「建物を使う人のことを考える。それは大切だ。だが、使いやすさだけを追い求めて、建物そのものが長く持たなければ意味がない」

「使いやすさだけなんて言ってない!」

思わず声が大きくなった。

「俺は、ここで暮らす人が毎日どう感じるかまで考えたいんだ。図面の数字だけじゃなくて、実際にそこで生活する人のことを!」

父親の表情が、わずかに変わった。

「数字だけで設計しているつもりはない」

「でも、父さんは――」

その先を言った瞬間、取り返しがつかなくなるような気がした。

それでも、当時の律は止まれなかった。

「父さんは、完成した建物のことばかり考えてる。そこで暮らす人が、毎日どんな気持ちで過ごすか、本当に考えてるの?」

沈黙が落ちた。

父親は、しばらく律を見ていた。

怒鳴り返すことはなかった。

ただ、ひどく疲れたような顔をした。

そして、あの言葉を口にした。

『お前は、何もわかっていない』

その言葉が何を意味していたのか。

律には、今でもわからない。

自分の経験不足を指摘したのか。

建物をつくる責任の重さを教えようとしたのか。

それとも、自分が大切にしてきたものを、息子に否定されたと思ったのか。

父親は、その後、議論を続けなかった。

律も、謝ることができなかった。

それ以来、二人は仕事の話を深く交わさなくなった。

父親の設計事務所に行くことも、少しずつ減っていった。

今思えば、あのときの自分は、父親の考えを理解しようとする前に、自分の正しさを証明しようとしていたのかもしれない。

けれど。

それでも、あの言葉だけは、どうしても胸に残っていた。

何もわかっていない。

その一言が、自分の考えも、これまで積み重ねてきたものも、すべて否定されたように聞こえたから。

*

「九条くん?」

上司の声で、律は我に返った。

「大丈夫か。少し休んだほうがいいんじゃないか」

「……すみません。考え込んでいました」

「例の修正案?」

「はい」

上司は律の画面を見て、椅子を引いた。

「通路を広げたい理由はわかるよ。実際に使う人のことを考えているんだろう?」

「……はい」

「でも、広げることだけが正解とも限らない。予算が足りなければ、別のところで無理が出る。利用者のために考えたことが、長い目で見ると別の負担になる場合だってある」

律は黙って聞いていた。

「大切なのは、最初の案に固執することじゃない。何を守りたいのかを整理して、そのために何を変えられるのか考えることだと思う」

「何を守りたいのか……」

「そう。依頼主が求めているものも、実際に使う人のことも、どちらも簡単には切り捨てられないからね」

上司はそう言うと、机の上の資料を揃えた。

「今日は一度帰って休みなさい。明日の朝、もう一度一緒に考えよう」

「ですが、まだ――」

「考え続ければ、必ずいい案が出るとは限らないよ。疲れているときは、見えるものも見えなくなる」

その言葉に、律は返事ができなかった。

疲れている。

それは間違いなかった。

けれど、仕事だけが理由ではないことも、自分ではわかっていた。

父親のことを思い出すたびに、あの頃の自分が何を見落としていたのか、考えずにはいられなかった。

父親が大切にしていたもの。

自分が守りたいと思っているもの。

二つは、本当に対立するしかないのだろうか。

律は図面を保存し、パソコンを閉じた。

時計は、午後十時四十分を指していた。

*

家に帰ると、リビングの明かりがついていた。

律は玄関の扉を静かに開けた。

「ただいま」

ソファから、ぱっと顔が上がる。

「おかえりなさい、ダーリン♡」

陽葵だった。

膝の上にはデートノート。

隣にはペンちゃん。

テーブルには、温かいお茶が二つ用意されていた。

「……まだ起きてたのか」

「うん。今日はね、ダーリンが帰ってきたら一緒にお茶を飲もうと思って♡」

「もう遅いぞ」

「うん。だから、ちょっとだけ!」

陽葵は指で小さな隙間を作って見せた。

「ほんのちょっとだけ、一緒にいよう?」

律は、その笑顔を見つめた。

仕事で何度も図面を見直していたせいか、目の奥が重い。

頭の中では、まだ通路幅の数字や修正案が巡っている。

それでも、陽葵の隣に座ると、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。

「……わかった。ちょっとだけな」

「やった♡」

陽葵は嬉しそうにカップを差し出した。

「はい、ダーリン。今日はカフェインが少ないお茶にしたよ。夜遅いからね」

「ありがとう」

二人は並んでお茶を飲んだ。

テレビはつけなかった。

陽葵も、いつものように次から次へと話題を出すことはしなかった。

律が疲れていることに気づいていたからだ。

ただ、隣に座っている。

それだけだった。

「……今日、仕事でちょっと考えることがあってな」

律が口を開いたのは、お茶を半分ほど飲んだ頃だった。

陽葵は、すぐには問い返さなかった。

彼が自分から話し始めるのを待った。

「今、地域の人が使う施設を設計しているんだ。店舗と、交流スペースがあるような建物で」

「うん」

「使いやすさを優先したい部分がある。でも、そのために別の部分を削ると、予算や維持管理に影響が出る」

「そっか……」

「どちらかだけを考えればいいなら、簡単なんだけどな」

律はカップを見つめた。

「使う人にとっていい建物にしたい。でも、建物を維持する人の負担も考えないといけない。予算を超えれば、そもそも計画自体がなくなるかもしれない」

「うん」

「……難しいよ」

最後の言葉は、独り言のようだった。

陽葵は、そっと彼の横顔を見た。

普段の律は、落ち着いていて、物事を冷静に考える。

何か問題が起きても、すぐに慌てることはない。

だから、彼が「難しい」と口にするのは、珍しかった。

「ダーリンは、どうしたいの?」

「……どうしたい、か」

「うん。お仕事のこと、私は詳しくないから、正しい答えはわからないけど」

陽葵は少しだけ身を寄せた。

「でも、ダーリンが何を大切にしたいと思ってるのかは、聞きたいな」

律は、彼女を見た。

「何を大切にしたいか……」

「うん♡」

陽葵は頷いた。

「おいしいごはんだってね、味だけじゃなくて、食べる人のことを考えるでしょう? でも、おいしく作ろうとして材料を使いすぎたら、毎日続けるのは大変になっちゃう」

「……料理の話か?」

「そう! 私の場合はね!」

陽葵は胸を張った。

「毎日ハンバーグばっかり食べていたら、ダーリンも飽きちゃうかもしれないし、私のお財布も大変だし!」

「ハンバーグは好きだけどな」

「えっ、本当? じゃあ、明日もハンバーグに――」

「いや、別のものにしてくれ」

「もう! 今の流れでそうなるの!?」

律が笑った。

陽葵も笑った。

その小さな笑いが落ち着いたあと、彼女は真面目な顔に戻った。

「でもね。おいしいものを作りたいって気持ちと、無理なく続けたいって気持ち。どっちも大事だと思うの」

「……」

「だから、ダーリンが考えてることも、どっちかを諦めるんじゃなくて、両方を大切にできる方法が見つかったらいいね」

律は、すぐには答えなかった。

陽葵は建築の専門家ではない。

構造の計算も、法規の細かい条件も、工事費の調整もわからない。

それでも、彼女の言葉には、律が見失いかけていたものがあった。

何を守るために、考えているのか。

誰かのためにと思って選んだことが、別の誰かを苦しめるなら。

そこで立ち止まり、もう一度考えればいい。

「……そうだな」

律は、小さく頷いた。

「ありがとう、陽葵」

「えへへ♡ どういたしまして!」

陽葵は、いつもの笑顔を見せた。

「私、ダーリンのお仕事を手伝うことはできないけど、応援することならできるからね!」

「十分だよ」

「本当?」

「ああ」

律は少し迷ってから、陽葵の頭に手を置いた。

「……助かってる」

その言葉を聞いて、陽葵の胸がじんわりと温かくなった。

もっと話したいことは、たくさんあった。

最近、寂しかったこと。

次の休日がいつになるのか、気になっていること。

本当は、一緒にお茶を飲む時間がもう少し長ければいいと思っていること。

けれど、今夜はそれを言わなかった。

律が、自分の気持ちを少しだけ話してくれた。

それだけでも、嬉しかったから。

「……ダーリン」

「ん?」

「今日は、もう寝よう?」

「ああ。そうしよう」

「明日もお仕事、頑張ってね。でも、無理はしないこと!」

「わかった」

「約束だよ♡」

「約束」

二人はカップを片づけ、寝室へ向かった。

ベッドに入ると、律はいつものように陽葵のほうを向いた。

少しだけ疲れた顔。

けれど、ちゃんとこちらを見てくれている。

陽葵は、そっと微笑んだ。

「ダーリン♡ こっち見て!」

「……見てるだろ」

「もっと!」

「これ以上?」

「うん♡」

律は、仕方がないというように息を吐いた。

それから、彼女の顔をまっすぐ見つめた。

「……これでいいか?」

「うん♡ 大好き!」

「……俺も」

陽葵は、彼の手を握った。

「おやすみなさい、ダーリン♡」

「おやすみ、陽葵」

短い言葉。

それでも、二人は今日も、互いの声を聞いてから目を閉じた。

*

翌日からも、律の仕事は続いた。

設計案を見直し、複数の条件を整理し、上司や関係者と話し合う。

当初の案をそのまま通すことはできなかった。

しかし、通路をただ狭めるのではなく、共用スペースの形状や収納の配置、出入口周辺の動線を見直すことで、店舗の面積を確保しながら、利用者が行き交いやすい空間を残せる可能性が見えてきた。

律は、図面を引き直した。

数値だけではなく、実際に人が歩く姿を思い浮かべる。

荷物を抱えた人。

ベビーカーを押す人。

誰かを待っている人。

休憩しながら、ゆっくりと歩く人。

そして、その場所を管理し、長く使い続けるために働く人。

それぞれの立場から考え、どこを変え、どこを残すべきなのかを探っていった。

簡単ではなかった。

修正するたびに、新しい問題が見つかった。

それでも、最初の案に固執することはやめた。

自分の考えが正しいと証明することよりも、実際に使える建物をつくること。

それが今の自分にできる、設計という仕事なのだと思った。

その一方で、頭の片隅には、父親の言葉が残っていた。

『お前は、何もわかっていない』

あのとき、父親が本当に伝えたかったことは何だったのだろう。

安全性を守ること。

予算の範囲で完成させること。

長く使える建物にすること。

どれも、建築士として無視できないものだ。

父親は、それらを誰よりも真剣に考えていた。

だからこそ、律には譲れないものがあったのかもしれない。

けれど、もしそうなら。

父親は、なぜあのとき、もっと説明してくれなかったのだろう。

なぜ、あんな言葉だけを残したのだろう。

律は、答えの出ない問いを胸の奥にしまった。

*

その週の土曜日。

律は、珍しく午後六時前に帰宅した。

玄関の扉が開くと、キッチンから陽葵の声が聞こえた。

「ダーリン!? おかえりなさい♡」

ぱたぱたと足音が近づいてくる。

「えっ、今日は早いね!」

「ああ。今日はここまでにした」

「……本当に?」

「本当だ」

「えええっ、やったぁ♡」

陽葵は両手を上げた。

まるで、何かの記念日でも迎えたような喜びようだった。

「じゃあ、今日は一緒にごはんが食べられるね!」

「ああ」

「テレビも見られるね!」

「そうだな」

「ペンちゃんとも遊べるね!」

「……ペンちゃんは、いつもそこにいるだろ」

「違うの! ダーリンと三人で過ごすの!」

「三人なのか……」

「もちろん♡」

律は笑った。

陽葵は彼の鞄を受け取ろうとして、ふと手を止めた。

「……ダーリン」

「ん?」

「顔、ちょっと疲れてるね」

律は一瞬だけ黙った。

「そうか?」

「うん。でも、いつもより少しだけ、ほっとした顔もしてる♡」

「……そんなにわかるか?」

「わかるよ。だって、ダーリンのこと、毎日見てるもん!」

陽葵は胸を張った。

「ダーリン観察日記の作者ですから♡」

「その日記に、俺の疲れた顔まで記録されているのか?」

「もちろん! でも、疲れた顔はあんまり描きたくないかな」

「どうして?」

「だって、ダーリンには笑っていてほしいから」

あまりにもまっすぐな言葉だった。

律は、返事をするまでに少し時間がかかった。

仕事では、どんな条件を満たせばいいのかを考え続けていた。

何を優先し、何を調整し、どこに折り合いをつけるのか。

正解がわからないときは、もう一度図面を見直した。

けれど、陽葵の言葉には、何かを証明する必要がなかった。

ただ、笑っていてほしい。

ただ、一緒にいたい。

その気持ちが、彼女の中にはある。

「……ありがとう」

律は、そう言って彼女の頭を撫でた。

陽葵は、嬉しそうに目を細めた。

「えへへ♡ どういたしまして!」

そして、思い出したように顔を上げる。

「ねえ、ダーリン!」

「何?」

「今日は、おうちデートにしよう!」

「……おうちデート?」

「そう! お出かけしなくてもいいの。おいしいごはんを食べて、映画を見て、お菓子を半分こして、それからいっぱいおしゃべりするの♡」

「それは、デートなのか?」

「デートです!」

「……そうか」

「そうです!」

陽葵は、にっこりと笑った。

「だって、好きな人と一緒に過ごすんだもん♡」

律は、彼女の言葉を聞きながら、ゆっくり頷いた。

「……じゃあ、今日はデートだな」

「やったぁ♡」

陽葵は、嬉しそうに彼の腕に抱きついた。

その夜、二人は久しぶりに同じテーブルで夕食を食べた。

食後には、陽葵が選んだ映画を見た。

途中で彼女が何度も律の顔を覗き込むので、律は「映画を見ろ」と小声で注意した。

それでも、陽葵は笑いながら、彼の肩に頭を預けた。

映画の終盤、律は少しだけ目を閉じた。

疲れていたのだろう。

陽葵は気づいたけれど、起こさなかった。

代わりに、彼の肩にそっと毛布をかけた。

画面の中では、物語の登場人物たちが、長い旅の末に再会していた。

陽葵は、その映像を眺めながら思った。

大切な人と一緒にいられる時間は、当たり前ではない。

だからこそ、何でもない一日を、大事にしたい。

そして、できることなら。

律がどんなことを考えていても、どんなに忙しくても。

帰ってきたときに、ほっとできる場所でありたい。

陽葵は、眠ってしまった律の横顔を見つめた。

「……ダーリン♡」

返事はない。

「今日は、ゆっくり寝てね」

そう囁いて、彼女は小さく微笑んだ。

*

日曜日の朝。

律が目を覚ますと、陽葵はすでに起きていた。

リビングから、かすかな音が聞こえる。

ギターの音だった。

律は、しばらくベッドの中で耳を澄ませた。

陽葵が弾いているわけではない。

彼女はギターを弾けない。

それは、昨夜、律が自分で弦を確かめたときに鳴らした音を、スマートフォンで再生しているのだろう。

あの古い曲。

父親が廊下で立ち止まって聴いていたかもしれない曲。

律はゆっくりと起き上がり、リビングへ向かった。

陽葵はソファに座り、スマートフォンから流れる短いメロディーを聞いていた。

隣には、ペンちゃん。

膝の上には、デートノートではなく、白いメモ帳が開かれている。

「……何してるんだ?」

「あっ、ダーリン♡ おはよう!」

陽葵は慌ててスマートフォンを止めた。

「えっとね、昨日、ダーリンが弾いてた曲が気になって……」

「俺の?」

「うん。すごく懐かしい感じがしたの。知らない曲なのに、なんだか、ずっと前から知ってるみたいな気がして」

律は、ソファの背に手を置いた。

「……そうか」

「それでね、少しだけメロディーを覚えておこうと思って。ダーリンがまた弾いてくれたら、一緒に聞きたいなって♡」

陽葵は、照れくさそうに笑った。

「勝手に聞いちゃってごめんね」

「いや……別にいい」

律は、彼女の隣に腰を下ろした。

テーブルの上には、古いギターのノートが置かれていた。

昨夜、律がケースから取り出し、そのままリビングに置いていたものだ。

開かれたページには、練習していた曲のコードが並んでいる。

そして、ページの端には、父親の文字があった。

『好きな音を、忘れるな。』

律は、その一文を見つめた。

「ねえ、ダーリン」

陽葵が静かに尋ねた。

「お父さんは、どうしてこの曲を知っていたのかな?」

「……わからない」

「そっか」

「俺が練習しているのを、聞いていたのかもしれない」

「廊下で?」

「ああ」

律は、少しだけ視線を落とした。

「昔、よく立ち止まっていたんだ。俺がギターを弾いていると、部屋の前で」

「お部屋には入ってこなかったの?」

「……一度も」

陽葵は、すぐには何も言わなかった。

律は、ギターのノートを手に取った。

父親が残した言葉。

あの曲。

廊下に立ち止まっていた背中。

それぞれは、別々の記憶のはずだった。

けれど、今は、何か一つのものにつながっているような気がした。

父親は、ただ音が聞こえたから立ち止まっていたのだろうか。

それとも。

何かを言おうとして、結局、言葉にできなかったのだろうか。

律は、まだ答えを見つけられなかった。

「……いつか、もう一度、ちゃんと弾けるようになりたいな」

ぽつりと口にすると、陽葵はぱっと顔を上げた。

「本当!?」

「ああ。まだ、指が思うように動かないけどな」

「じゃあ、私、聞きたい!」

陽葵は両手を握りしめた。

「ダーリンのギター、ちゃんと聞きたい♡ 最初から最後まで!」

「……練習しないと無理だぞ」

「待つよ!」

陽葵は即答した。

「何日でも、何週間でも。ダーリンが弾けるようになるまで待つ!」

「そんなにかかるとは限らないだろ」

「じゃあ、弾けるようになるまで、いっぱい応援する♡」

律は、思わず笑った。

「……ありがとう」

「えへへ♡」

陽葵は、ギターのノートをそっと閉じた。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「お仕事も、ギターも、焦らなくていいと思うよ」

律は彼女を見た。

「うまくいかないときは、ちょっと休んでもいいし。別の方法を考えてもいいし。誰かに相談したっていいんだもん」

「……」

「それにね。ダーリンが何を大切にしてるのか、私はちゃんと知りたい」

陽葵は、少しだけ頬を赤くした。

「全部じゃなくてもいいの。今は話せないことがあってもいい。でも、いつか話したくなったときは、私にも聞かせてほしいな」

律は、しばらく黙っていた。

仕事のこと。

父親のこと。

あのとき言い返してしまったこと。

そして、今も胸に残る、あの一言。

簡単には話せない。

自分でも整理できていない感情を、どう説明すればいいのかわからない。

それでも。

陽葵は、答えを急がせなかった。

ただ、隣にいてくれた。

「……いつか、話すよ」

律は、ゆっくりと言った。

「ちゃんと、自分の中で整理できたら」

「うん♡ 約束ね」

「ああ。約束」

陽葵は嬉しそうに頷いた。

それから、いつもの調子で身を乗り出す。

「じゃあ、今は――」

「今は?」

「ダーリン♡ こっち見て!」

律は、思わず笑ってしまった。

「……はいはい」

「はいは一回!」

「はい」

「よろしい♡」

陽葵は満足そうに微笑んだ。

律も、彼女の顔を見つめ返した。

忙しい日々の中で、二人の時間は少しずつ短くなっていた。

それでも、なくなったわけではない。

おかえりと言うこと。

ただいまと返すこと。

同じテーブルで食事をすること。

寝る前に、おやすみと言い合うこと。

そして、言葉にできない気持ちを抱えたままでも、隣にいること。

そうした小さな時間が、二人の暮らしをつないでいた。

律は、窓の外を見た。

秋の空は、少しずつ高くなっている。

仕事の設計案は、まだ完成していない。

父親との記憶にも、答えは出ていない。

ギターの曲も、最後まで弾けるようにはなっていない。

けれど、今はそれでいいのかもしれない。

途中で立ち止まってもいい。

わからないことを、わからないまま抱えていてもいい。

いつか、もう一度考えればいい。

律は、ギターのノートに手を伸ばした。

ページの端に残された父親の文字を、もう一度見つめる。

『好きな音を、忘れるな。』

父親は、なぜこの言葉を書いたのだろう。

律がギターをやめないように?

自分の好きなものを、大切にするように?

それとも、あの曲を最後まで弾いてほしかったのだろうか。

答えは、まだ見つからない。

けれど、あの日、廊下で立ち止まっていた父親の背中を思い出すと、胸の奥が少しだけ痛んだ。

もし、あのとき。

部屋の扉を開けていたら。

もし、「聞いていたの?」と尋ねていたら。

もし、父親が何かを言おうとしていたのだとしたら。

自分は、その言葉を聞くことができたのだろうか。

「……親父」

律は、誰にも聞こえない声で呟いた。

その先は、まだ言葉にならなかった。

隣では、陽葵がスマートフォンを手に、次の休日の予定を考えている。

「ダーリン、今度のお休み、何がしたい?」

「……そうだな」

「お出かけでも、おうちでもいいよ♡」

律は、少し考えてから答えた。

「家で、ギターを弾こうかな」

「本当!?」

「ああ。まだ練習中だけど」

「やったぁ♡ じゃあ、私、特等席で聞く!」

「……観客は一人だけだな」

「世界一の観客です!」

陽葵は胸を張った。

「ダーリンのギターを聞くためなら、何時間でも待てます♡」

「それは心強いな」

二人は笑った。

その笑い声が、静かなリビングに広がる。

窓から差し込む朝の光が、ギターの木目を柔らかく照らしていた。

まだ完成していない曲。

まだ解けていない親子の確執。

そして、これからも続いていく二人の日常。

すべてが、途中だった。

だからこそ、続きをつくることができる。

律は、ギターをそっと手に取った。

弦を押さえ、短いメロディーを奏でる。

まだ指は少しぎこちない。

音も、ところどころ途切れる。

それでも、あの頃に弾いていた旋律が、少しずつ形を取り戻していく。

陽葵は、声を出さずに聞いていた。

その曲が終わったとき、彼女は静かに拍手をした。

「……素敵だったよ、ダーリン♡」

「まだ途中だ」

「うん。でも、途中でも素敵だよ」

陽葵は微笑んだ。

「続きが聞けるの、楽しみにしてるね」

律は、ギターを抱えたまま頷いた。

そして、もう一度、最初の音を鳴らした。

今度は、ほんの少しだけ、音がまっすぐに響いた。

その音を聞いた陽葵は、ふと、あることを思った。

いつか、この曲を最後まで弾ける日が来たら。

そのとき、律は父親のことを、今より少しだけ話せるようになるのだろうか。

廊下で立ち止まっていた父親は、本当は何を伝えたかったのだろう。

そして、あの古い曲の最後には、どんな音が待っているのだろう。

陽葵は、その答えを急がなかった。

ただ、隣でギターを弾く律の肩に、そっと寄り添った。

今日も、二人の一日は始まったばかりだった。

そして今夜もきっと、二人は眠る前に、同じ言葉を交わすだろう。

「おやすみ、陽葵」

「おやすみなさい、ダーリン♡」

たとえ一緒に過ごせる時間が短くても。

たとえ、まだ話せないことがあっても。

その一言が、二人を明日へとつないでいく。

まだ誰にも聞かせていない、父親の思いが隠されたメロディーとともに。

律の指先から、次の音が静かに生まれた。

 

 

第10節:机の上の概要書、ひだまりの未来

日曜日の午後。

リビングには、窓から差し込む柔らかな秋の日差しが広がっていた。

「ダーリン、コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

「コーヒーを頼む」

「はーい♡ お砂糖は?」

「いつもどおりでいい」

「了解です!」

陽葵は、鼻歌を歌いながらキッチンに向かった。

鼻歌のメロディーは、最近、律が練習している古いギターの曲だった。

まだ歌詞も知らないし、曲の正式なタイトルもわからない。それでも、何度か聴いているうちに、陽葵は短い旋律を覚えてしまった。

最初は、どこか懐かしい曲だと思った。

けれど、律がギターを弾く姿を見るたびに、その印象は少しずつ変わっていった。

楽しそうなのに、どこか寂しそう。

懐かしそうなのに、思い出すことを怖がっているようにも見える。

まるで、途中まで書かれた手紙の続きを探しているみたいだった。

「……ダーリン、今日も弾いてくれるかな♡」

コーヒーを淹れながら呟く。

もちろん、無理にお願いするつもりはない。

律が弾きたいと思ったときに、弾いてくれればいい。

陽葵はそう考えながら、二つのカップをトレーに載せた。

リビングに戻ると、律はソファではなく、ダイニングテーブルに座っていた。

ノートパソコンを開き、画面には設計図が表示されている。

その横には、何枚もの書類が広がっていた。

「……あれ?」

陽葵は、トレーを持ったまま足を止めた。

「ダーリン、お休みじゃなかったっけ?」

「ああ。休みだよ」

「お仕事してるように見えるんだけど……?」

「少しだけ、先週の続きを確認している」

「少しだけ?」

「少しだけ」

律はそう答えたものの、画面から目を離さなかった。

陽葵は頬を膨らませた。

「むぅ……」

「何だ?」

「せっかくのおうちデートなのに」

律の指が止まった。

彼は画面から顔を上げ、陽葵を見た。

「……悪い」

「あっ、責めてるわけじゃないよ!」

陽葵は慌ててトレーを置いた。

「お仕事があるのはわかってるし、ダーリンが頑張ってるのも知ってるから。でもね、せっかく一緒のお休みだから、ちょっとだけ一緒にお茶したいなって♡」

「……そうだな」

律はパソコンを閉じた。

「コーヒー、冷める前に飲もう」

「やったぁ♡」

陽葵は、ぱっと笑顔になった。

二人は向かい合って座った。

コーヒーを一口飲んだ律は、カップを置いて、ふと窓の外に目を向けた。

休日の住宅街は静かだった。

遠くから子どもの笑い声が聞こえ、近所の家の庭では洗濯物が風に揺れている。

どこにでもある、穏やかな午後。

律は、こうした風景が好きだった。

特別な建物ではなくてもいい。

誰かが暮らし、誰かが帰ってきて、誰かの笑い声が聞こえる。

建物の中には、図面には描ききれない生活がある。

その生活を守れる設計をしたい。

そう思って、建築士になった。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「今、何を考えてたの?」

「……建物のこと」

「お仕事?」

「そうだな」

「そっか」

陽葵は、カップを両手で包んだ。

「ダーリンって、建物のことを考えるとき、いつも真剣な顔になるよね」

「そうか?」

「うん。設計図を見てるときなんて、話しかけても気づかないことがあるもん」

「それは……悪かった」

「ふふっ。いいの♡」

陽葵は笑った。

「でもね、私は、ダーリンがどんな建物を作りたいのか、いつかもっと聞いてみたいな」

「……どんな建物?」

「うん!」

陽葵は少し考えてから、指を一本立てた。

「まず、帰ってきたときに、ほっとできるおうち!」

「ほう」

「それから、家族が一緒にごはんを食べられる場所があって、疲れたときにはゆっくり休めて、嬉しいことがあったら、誰かに話したくなるような場所!」

「……ずいぶん具体的だな」

「だって、毎日暮らす場所だもん♡」

律は、思わず笑った。

「なるほど」

「それにね、商店街みたいに、いろんな人が集まれる場所も好き!」

その言葉に、律の視線がわずかに動いた。

「……商店街?」

「うん! ひだまり商店街!」

陽葵は嬉しそうに頷いた。

「お魚屋さんのおじさんも、八百屋さんのおじさんも、お肉屋さんのおばちゃんも、みんな優しいでしょう? とよさんのお店だって、行くとなんだか落ち着くし」

「そうだな」

「買い物をするだけじゃなくて、ちょっとおしゃべりしたり、困ったときに助けてもらったり。そういう場所って、すごく素敵だと思うの」

律は、黙って聞いていた。

「だからね、建物を作る人って、すごいなって思うんだ。そこに、誰かの生活が生まれるんだもん」

陽葵は、照れくさそうに笑った。

「……って、私、建築のことは全然わからないんだけどね!」

「いや」

律は、静かに首を振った。

「大事なことだと思う」

「本当?」

「ああ。建物を作るとき、そこにどんな生活が生まれるかを考えることは、必要だから」

「えへへ♡ じゃあ、私も少しだけ建築士さんのお仕事に貢献できたかな?」

「少しどころじゃないかもしれないな」

「やったぁ♡」

陽葵は、嬉しそうにカップを持ち上げた。

その笑顔を見て、律は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

父親との間に残った言葉。

自分の設計に対する考え方。

仕事で悩んでいたこと。

それらは、まだ簡単には整理できない。

けれど、陽葵の言葉は、律が何のために建築を学び、何のために設計しているのかを、改めて思い出させてくれた。

建物を作ることが目的なのではない。

建物の中で、人が生きていく。

その当たり前のことを、忘れたくなかった。

*

午後三時。

律は再びパソコンを開いた。

今度は、先ほどよりも落ち着いた表情で図面を見つめている。

陽葵はソファに座り、WEB漫画の下書きを描いていた。

ペンちゃんを隣に置き、時々、律の様子を窺う。

画面の中では、線が引かれ、寸法が修正され、いくつもの案が比較されていた。

律は、先週から取り組んでいる複合施設の設計を見直していた。

店舗の面積を確保する。

利用者の動線を守る。

維持管理の負担を減らす。

それぞれの条件を一つずつ整理していく。

以前なら、使いやすさを優先した自分の案を守ることに意識が向いていたかもしれない。

しかし、今は違った。

自分の案のどこが優れているのかだけでなく、どこに無理があるのかも考える。

予算を抑えるために削るべき部分と、削ってはいけない部分。

見た目ではわかりにくいが、長期的な安全性に関わる部分。

そして、建物を使う人が、毎日の生活の中で不便を感じないために必要な余裕。

それらを整理しながら、律は父親の言葉を思い出していた。

『工事費はどうなる。維持管理はどうする。将来、修繕が必要になったとき、誰が負担する?』

当時の律は、その問いを、自分の考えを否定するためのものだと思っていた。

父親は自分の案を認めたくないのだと。

自分の考え方こそが正しいと、押し通そうとしているのだと。

けれど、今なら少し違う見方ができる。

建物を使う人のことを考えるのなら、その建物を維持する人のことも考えなければならない。

目の前の利用者だけではない。

何年も先に、その建物を使う人。

修繕費を工面する人。

設備を点検する人。

清掃をする人。

そして、予算の都合で計画そのものが立ち行かなくなった場合に、困ることになる人たち。

父親は、そうした人たちのことまで考えていたのだろうか。

そうだとしたら。

あのとき、自分は父親の何を見落としていたのだろう。

「……そういうことだったのか?」

律は、小さく呟いた。

けれど、すぐに首を振った。

まだ決めつけることはできない。

父親の考えを理解し始めたからといって、過去の衝突がなかったことになるわけではない。

あの言葉で傷ついたことも、自分の意見を伝えたかったことも、事実だった。

ただ、父親にも父親の譲れない理由があったのかもしれない。

そう思えるようになっただけだった。

律は、図面の一部を拡大した。

通路の幅を変えるのではなく、収納スペースの位置を調整する。

出入口の周辺に余裕を持たせながら、店舗の奥行きを確保する。

設備の配置を整理し、将来の点検や修繕に必要な空間を確保する。

何度も試し、何度も戻しながら、少しずつ案をまとめていった。

そのとき、リビングから声が聞こえた。

「ダーリン!」

「ん?」

「お茶、飲む?」

「……ああ。頼む」

「はーい♡」

陽葵が立ち上がる。

その足音を聞きながら、律は画面に向き直った。

仕事はまだ終わらない。

けれど、さっきまでとは違う気持ちで、もう一度考えられる気がした。

*

数日後。

律は、修正した設計案を上司に提出した。

図面には、前回の案とは異なる工夫が盛り込まれていた。

店舗の面積を確保しながら、利用者がすれ違いやすい動線を残す。

設備の点検スペースを確保し、維持管理の負担を軽減する。

将来的な修繕を想定して、交換が必要になる部分へのアクセスも考慮する。

見た目の華やかさだけではなく、長く使い続けるための仕組みを整える。

上司は図面を一通り確認すると、しばらく黙っていた。

律は、その沈黙を待った。

「……なるほど」

やがて、上司が口を開いた。

「前回より、全体のバランスがよくなったね」

「ありがとうございます」

「店舗の面積も確保できているし、動線も整理されている。設備の点検スペースまで考えてあるのか」

「はい。後から修繕が必要になったときに、利用者の動線を大きく塞がずに作業できるようにしたいと思いました」

「いい視点だと思う」

上司は図面を机の上に置いた。

「もちろん、これで全部決まるわけじゃない。依頼主や施工側とも調整が必要になるだろう。でも、話し合うための案としては十分にまとまっている」

律は、ほっと息を吐いた。

「……ありがとうございます」

「九条くん」

「はい」

「今回、ずいぶん悩んでいたね」

「……そうですね」

「でも、最初の案を守ることだけにこだわらなかった。それはよかったと思う」

上司は、柔らかく笑った。

「設計は、自分の理想を図面に描くことだけじゃないからね。理想を、実際に建てられる形にしていく仕事でもある」

律は、その言葉を静かに受け止めた。

理想を、実際に建てられる形にする。

それは、父親がずっとやってきたことなのかもしれない。

安全性を守り、予算を調整し、長く使える建物を作る。

そのために、父親は何度も妥協し、何度も考え直してきたのだろう。

それを、当時の自分は知らなかった。

知ろうともしなかったのかもしれない。

律は、机の上の図面を見つめた。

「……まだ、勉強が足りませんね」

「建築に終わりはないよ」

上司は笑った。

「何年やっても、初めて気づくことがある」

律は頷いた。

父親のことを、すべて理解できたわけではない。

あの言葉が正しかったと、簡単に認められるわけでもない。

それでも、自分が知らなかった父親の一面が、少しだけ見えた気がした。

父親は、ただ厳しかっただけではないのかもしれない。

その可能性を、初めて素直に考えられた。

*

その日の夜。

律が帰宅すると、陽葵はリビングでスマートフォンを見ていた。

「ただいま」

「おかえりなさい、ダーリン♡」

陽葵は顔を上げ、すぐに立ち上がった。

「今日はどうだった?」

「……設計案、ひとまずまとまったよ」

「本当!?」

「ああ。まだ調整はあるけど、前よりはいい案になったと思う」

「やったぁ♡」

陽葵は、自分のことのように喜んだ。

「おめでとう、ダーリン!」

「ありがとう」

「頑張ったね!」

「……ああ」

「いっぱい頑張ったね♡」

陽葵は、律の腕にそっと抱きついた。

「今日は、お祝いに何か好きなものを作ろうか?」

「そうだな……」

「ハンバーグ?」

「この前も食べたな」

「じゃあ、オムライス?」

「それもいいな」

「ケーキも買っちゃう?」

「……それは、仕事の成果と関係があるのか?」

「あるよ! 頑張った人には、ご褒美が必要です♡」

律は笑った。

「じゃあ、ケーキも頼もうかな」

「やったぁ♡」

陽葵は、さっそくスマートフォンで近所のケーキ屋さんを調べ始めた。

律は、その横顔を見つめた。

自分の仕事がうまくいったことを、こんなにも喜んでくれる人がいる。

それだけで、心が軽くなる。

「……陽葵」

「ん?」

「ありがとう」

「えっ? 何が?」

「いろいろ」

律は、少しだけ視線を逸らした。

「……家に帰ると、落ち着くから」

陽葵は、ぱちぱちと瞬きをした。

それから、頬を赤くした。

「……も、もう!」

「何だ?」

「急にそんなこと言わないでよぉ……!」

陽葵は両手で頬を押さえた。

「ダーリン、そういうところ、ずるい!」

「そうか?」

「そうです!」

それでも、彼女の口元には笑みが浮かんでいた。

「……私も、ダーリンが帰ってくるおうちが大好きだよ♡」

律は、彼女の頭をそっと撫でた。

その夜、二人は久しぶりに少し遅めの夕食を楽しんだ。

食後には、小さなショートケーキを半分ずつ食べた。

陽葵は大きいほうを律に渡そうとしたが、律はそれを半分に切り直して、今度は彼女の皿に少し大きいほうを置いた。

「……ダーリン?」

「何だ?」

「これ、私のほうが大きくない?」

「気のせいだろ」

「絶対、気のせいじゃないよ!」

「なら、食べて確かめればいい」

「むぅ……。そういうところも大好きだけど♡」

陽葵は笑いながら、ケーキを口に運んだ。

何でもない夜。

けれど、律にとっては、忘れたくない時間だった。

*

週末。

千夏が、久しぶりに二人の家を訪ねてきた。

「こんにちはー!」

「千夏ちゃん、いらっしゃい♡」

陽葵が玄関で迎えると、千夏は紙袋を持ち上げた。

「これ、駅前で買ってきたお菓子。お兄ちゃんと食べて!」

「わあ、ありがとう!」

「お兄ちゃんは?」

「今、手を洗ってるよ。もうすぐ来ると思う」

「ふーん」

千夏はリビングに入ると、以前と同じように部屋の中を見回した。

ソファの上には、ペンちゃん。

テーブルには、陽葵のデートノート。

そして、壁際には、ケースから出された古いギターが立てかけられていた。

「あっ……」

千夏は、ギターを見つけて足を止めた。

「お兄ちゃん、また弾いてるんだ」

「うん。最近、少しずつ練習してるんだよ」

「そっか……」

千夏は、ギターの近くまで歩いていった。

「ねえ、お義姉ちゃん」

「なあに?」

「この前、お兄ちゃんが弾いてた曲、覚えてる?」

「うん。あの、ちょっと懐かしい感じのする曲だよね?」

「そう、それ!」

千夏は、少し考えるように首を傾げた。

「私ね、あの曲について、思い出したことがあるんだ」

「思い出したこと?」

「うん。小さい頃のことなんだけど……」

千夏はソファに座り、膝の上で手を組んだ。

「私、まだ小学生になる前だったと思う。お兄ちゃんが、よくギターを弾いてた時期があったの」

「うん」

「その頃、お父さんも、よく家にいたんだよね。仕事が忙しくても、夜には帰ってきてた」

陽葵は、静かに頷いた。

「それでね……ある夜、私、喉が渇いて目が覚めたの」

千夏の視線が、少し遠くを向いた。

「廊下に出たら、お兄ちゃんの部屋からギターの音が聞こえてきたんだ。まだ下手だったけど、何度も同じところを練習してて」

「……うん」

「それで、廊下の向こうに、お父さんがいたの」

陽葵は、思わず息を止めた。

「お父さんが?」

「うん。お兄ちゃんの部屋の前で、立ち止まってた」

千夏は、ゆっくりと言葉を続けた。

「私、最初は、お兄ちゃんを怒りに来たのかと思ったんだ。夜遅くまで音を出してるから、早く寝なさいって」

「……そう思うよね」

「でも、違ったの」

千夏は、少しだけ眉を下げた。

「お父さんね、ドアの前で、何かを持っていたんだよ」

「何か?」

「うん。たぶん、紙だったと思う。白くて、細長い紙。くるくる巻いてあったような気がする」

陽葵は、黙って聞いていた。

「お父さん、しばらくそこで曲を聞いてたの。それから、お兄ちゃんの部屋に入ろうとして……」

千夏は、そこで言葉を切った。

「……入ろうとして?」

「うん。ドアの取っ手に手をかけたんだよ」

陽葵は、そっと身を乗り出した。

「でも、結局、入らなかったの?」

「そう。手を離して、そのまま行っちゃった」

千夏は、少し困ったように笑った。

「私、子どもだったから、何があったのかはわからなかった。でも、そのときのお父さんの顔が、ずっと頭に残ってるんだ」

「どんな顔だったの?」

「……うまく言えないけど」

千夏は、しばらく考えた。

「怒ってる顔じゃなかった。悲しい顔とも、ちょっと違う。なんだか……すごく、迷ってるような顔だった」

陽葵の胸が、小さく鳴った。

迷っている顔。

律が話してくれた、父親との衝突。

廊下で立ち止まっていた背中。

ギターのノートに残されていた言葉。

『好きな音を、忘れるな。』

それらが、少しずつつながっていくようだった。

「……千夏ちゃん」

陽葵は、できるだけ穏やかな声で尋ねた。

「そのとき、お父さんが持っていた紙って、どんなものだったか覚えてる?」

「うーん……。本当に小さい頃だから、はっきりとは覚えてないんだけど」

千夏は眉を寄せた。

「白くて、細長くて……。端っこに、何か線が描いてあった気がする」

「線?」

「うん。黒い線が何本もあって、その上に小さい文字があったような……」

千夏は、そこで目を見開いた。

「……あっ!」

「どうしたの?」

「もしかしたら、楽譜だったのかも!」

陽葵は、思わず口元を押さえた。

「楽譜……?」

「うん! 私、音楽の授業で楽譜を見たとき、何となく似てるって思ったことがあるんだ。でも、あの頃は楽譜なんてよく知らなかったから、気にしなかったの」

千夏は、ギターのほうを見た。

「……お父さん、音楽なんて好きだったのかな」

その声には、驚きと戸惑いが混じっていた。

千夏の記憶の中の父親は、仕事に厳しく、あまり感情を表に出さない人だった。

音楽の話をした記憶もない。

ギターを弾いていた姿も、見たことがなかった。

それなのに、律の部屋の前で、楽譜らしきものを持っていた。

そして、ドアの取っ手に手をかけながら、結局、入らなかった。

「……お兄ちゃんに、聞いてみようかな」

千夏が呟いたとき、洗面所から律が戻ってきた。

「何の話だ?」

千夏は、兄の顔を見上げた。

「お兄ちゃん。昔、お兄ちゃんがギターを弾いてた頃のことなんだけど」

「……ギター?」

「うん。私が小さい頃、お父さんが、お兄ちゃんの部屋の前で立ち止まってたことがあったの」

律の表情が変わった。

「……親父が?」

「うん。お兄ちゃんが弾いてるのを、ずっと聞いてた。それで、ドアを開けようとしてたんだけど、結局、入らなかったの」

律は、何も言わなかった。

「そのとき、お父さん、何か紙を持ってたんだよね。もしかしたら、楽譜だったのかもしれない」

千夏は、兄の顔を窺った。

「お兄ちゃん、何か知らない?」

律は、しばらく黙っていた。

やがて、ゆっくりと首を振った。

「……知らない」

「そっか」

「そんなことがあったなんて、初めて聞いた」

律は、ギターのほうを見た。

父親が廊下で立ち止まっていたことは、知っている。

何度も、何度も、その姿を見かけていた。

けれど、父親が何かを持っていたことは知らなかった。

ドアを開けようとしていたことも。

まして、楽譜だったかもしれないものを持っていたことなど、考えたこともなかった。

もし、本当に楽譜だったのなら。

父親は、何をしようとしていたのだろう。

自分に曲を渡そうとしていたのか。

それとも、何か別のことを伝えようとしていたのか。

律には、わからなかった。

「……千夏」

「うん?」

「その話、もう少し詳しく聞かせてくれないか」

律の声は、いつもより静かだった。

千夏は、兄の顔を見つめた。

それから、ゆっくりと頷いた。

「うん。覚えてること、全部話すね」

陽葵は、二人の様子を見守りながら、そっとお茶を淹れ直した。

父親のことを話す律の顔には、まだ戸惑いがあった。

けれど、以前のように、すぐに話を終わらせようとはしなかった。

それだけでも、少しずつ変わっているのかもしれない。

*

千夏が帰ったあと、律は一人でリビングに残っていた。

陽葵はキッチンで食器を洗っている。

水の流れる音を聞きながら、律はギターのケースを開いた。

古いノートを取り出す。

ページの端に残された父親の文字。

『好きな音を、忘れるな。』

律は、その一文を指先でなぞった。

父親は、あの曲を知っていたのだろうか。

もし、楽譜を持っていたのなら。

あの曲を弾いていたのなら。

自分が知らないだけで、父親にも、好きな音があったのだろうか。

律は、父親がギターを弾いている姿を思い浮かべようとした。

けれど、何も浮かばなかった。

仕事机に向かう姿。

図面を広げる姿。

現場から帰ってきて、疲れた顔で夕食を食べる姿。

思い出せるのは、そんな姿ばかりだった。

音楽について話した記憶もない。

好きな歌について尋ねたこともない。

父親がどんな音楽を聴き、どんな曲を好きだったのか。

律は、知らなかった。

「……俺は、何も聞いていなかったんだな」

その言葉は、自分を責めるようでもあり、父親に問いかけるようでもあった。

父親のことを、厳しい人だと思っていた。

何を考えているのかわからない人だと思っていた。

けれど、自分だって、父親が何を考えていたのか、知ろうとしなかったのではないか。

あの日、設計の話で衝突したとき。

自分の意見を伝えることに必死で、父親の言葉の続きを聞こうとしなかった。

父親が何を守ろうとしていたのか。

なぜ、あんなにも厳しい言葉を口にしたのか。

自分が傷ついたことばかりに気を取られて、その奥にあるものを考えなかった。

もちろん、今でも、あの言葉が正しかったとは思えない。

傷ついた気持ちが、簡単に消えるわけでもない。

それでも。

父親もまた、何かを伝えられずにいたのかもしれない。

律は、ギターを抱えた。

指先で弦を押さえ、あの曲の最初の音を鳴らす。

少し震えた音が、リビングに響いた。

二つ目の音。

三つ目の音。

まだ途中までしか弾けない旋律。

その先に、父親が知っている音があるのだろうか。

律は、何度も繰り返した。

そして、ふと気づいた。

自分が練習していたのは、いつも同じ部分だった。

その先に進もうとすると、指が止まる。

譜面が残っていないからだ。

子どもの頃、父親からもらったわけでもなく、どこかで正式な楽譜を手に入れたわけでもない。

ただ、耳で覚えた旋律を繰り返し弾いていた。

それでも、父親は廊下で立ち止まっていた。

もし、あのとき。

父親が本当に楽譜を持っていたのなら。

自分が知らない曲の続きを、持っていたのなら。

律は、弦から指を離した。

「……親父。あの曲は……」

言葉は、そこで途切れた。

答えてくれる人は、ここにはいない。

けれど、今なら、あの頃とは違う問いを投げかけられる気がした。

父親の考えを否定するためではなく。

自分の正しさを証明するためでもなく。

ただ、知りたい。

父親が何を考え、何を伝えようとしていたのか。

そして、あの曲の続きを。

*

その夜。

陽葵は、リビングのテーブルでデートノートを開いていた。

新しいページには、今日の出来事が書かれている。

『本日の発見① 千夏ちゃんは、お父さんの意外な記憶を覚えていた』

『本日の発見② ダーリンのお父さんは、ギターの曲を知っていたのかもしれない』

『本日の発見③ まだ知らないことが、たくさんある』

最後の行を書き終えると、陽葵はペンを置いた。

律は、寝室で仕事の資料を確認している。

最近は少しずつ残業が落ち着いてきたものの、まだ完全に余裕ができたわけではない。

それでも、以前よりは一緒に夕食を食べられる日が増えた。

夜遅くなった日も、寝る前には必ず声をかけ合う。

おやすみ。

その一言が、二人の生活をつないでいる。

陽葵はノートを閉じ、寝室へ向かった。

「ダーリン、まだお仕事?」

「いや。今、終わったところだ」

「お疲れさま♡」

律は資料をまとめ、机の端に置いた。

陽葵は、その隣に座った。

「ねえ、ダーリン」

「ん?」

「今日、千夏ちゃんが話してくれたこと……気になる?」

「……ああ」

律は、正直に答えた。

「親父が楽譜を持っていたのかもしれないって話。もし本当なら、どうして俺に渡さなかったのか、気になる」

「うん……」

「それに、あの曲を知っていたのなら、どこで知ったのかもわからない」

律は少しだけ視線を落とした。

「……聞いておけばよかったな」

「お父さんに?」

「ああ」

陽葵は、彼の手にそっと触れた。

「今からでも、知ることはできるかもしれないよ」

「……そうだな」

「急がなくてもいいと思う。ダーリンが知りたいって思ったことを、一つずつ調べていけばいいんじゃないかな」

律は、陽葵を見た。

「……ありがとう」

「えへへ♡」

陽葵は笑った。

「それに、私も気になるもん。あの曲の続き!」

「そこか」

「そこです!」

陽葵は、胸を張った。

「だって、ダーリンが弾いてる曲だもん。最後まで聞きたいよ♡」

律は、小さく笑った。

「ああ。いつか、最後まで弾けるようにする」

「約束ね♡」

「約束」

陽葵は、彼の肩に頭を預けた。

窓の外では、秋の夜風が木々を揺らしている。

穏やかな夜だった。

けれど、律の中では、何かが少しずつ動き始めていた。

父親の言葉。

ギターの旋律。

廊下で立ち止まっていた背中。

そして、千夏が覚えていた、楽譜らしきものを持つ父親の姿。

まだ、すべてがつながったわけではない。

それでも、過去を見つめ直すための、小さな手がかりが見つかった。

「……そろそろ寝るか」

律が言うと、陽葵は頷いた。

「うん♡」

二人は寝室へ向かった。

ベッドに入ると、陽葵はいつものように律のほうを向いた。

「ダーリン♡ こっち見て!」

「……はいはい」

「はいは一回!」

「はい」

「よろしい♡」

陽葵は満足そうに笑った。

律も笑い返した。

「おやすみ、陽葵」

「おやすみなさい、ダーリン♡」

今日も、二人は同じ言葉を交わして目を閉じた。

明日も、きっと何かがある。

仕事が忙しい日も、少し寂しい夜も、笑い合える朝も。

そんな日常を、二人で重ねていく。

それが、今の律にとって、何より大切なことだった。

*

翌週の月曜日。

律は、いつもより少し早く出勤した。

前日にまとめた設計資料を確認し、必要な書類を整理するためだった。

机の上には、先週提出した設計案と、打ち合わせ用の資料が並んでいる。

その中に、見慣れない封筒が一つあった。

「……何だ、これ」

律は封筒を手に取った。

社内便のラベルが貼られている。

差出人の欄には、関連部署の名前が記されていた。

中には、数十枚の書類がまとめられていた。

地域の現状。

土地の利用状況。

既存建築物の調査資料。

今後の事業計画。

律は、何気なく一枚目をめくった。

そこには、見覚えのある地名が記されていた。

そして、二枚目。

三枚目。

ページをめくる手が、少しずつ遅くなっていく。

地図の上に、赤い線が引かれていた。

いくつもの建物が、調査対象として色分けされている。

道路の幅。

建物の築年数。

土地の所有状況。

公共施設の配置。

律は、地図を見つめた。

知っている場所だった。

何度も歩いた道。

休日に陽葵と買い物をした商店街。

八百屋の店先に並ぶ野菜。

魚屋の大きな声。

とよさんのお店。

そして、陽葵が「この街のこと、大好きになってきたかも♡」と笑った場所。

律の指先が止まった。

書類の表紙には、太い文字でこう記されていた。

『ひだまり地区 再開発計画 概要書』

その下には、事業の目的、対象区域、今後の検討事項が並んでいた。

律は、ゆっくりと表紙を見直した。

「……ひだまり地区?」

声が、かすれた。

概要書には、老朽化した建物の更新、防災性の向上、歩行空間の整備、地域のにぎわいの創出といった言葉が並んでいる。

どれも、建築士としては理解できる目的だった。

安全性を高めること。

古くなった建物を見直すこと。

街を長く維持できるようにすること。

そこに暮らす人たちのために、必要な計画なのかもしれない。

けれど、ページをめくるたびに、律の胸には別の感情が広がっていった。

地図に描かれた対象区域。

既存建築物の一覧。

今後、調査や協議が必要とされる区画。

その中には、陽葵が毎日のように通う商店街も含まれていた。

律は、椅子の背にもたれた。

まだ、計画の詳細はわからない。

この概要書だけで、何が決まっているのかを判断することはできない。

再開発が実施されるのか。

どの建物が対象になるのか。

商店街の人たちに、どのような影響があるのか。

今の段階では、何も断言できなかった。

ただ一つ、確かなことがあった。

この計画は、陽葵が大切にしている場所に関わっている。

そして、律自身の仕事にも。

彼は、概要書の次のページをめくった。

そこには、事業の検討体制と、設計・調査に関する今後の予定が記されていた。

関係部署の一覧。

協力会社の候補。

計画の検討に関わる担当者。

律は、文字を追いながら、ある名前のところで目を止めた。

見覚えのある名前だった。

忘れたくても、忘れられない名前。

かつて、建築士としての自分の原点にいた人。

そして、今も、答えを見つけられずにいる人。

律の呼吸が、わずかに浅くなった。

「……嘘だろ」

机の上には、設計案の図面が広がっていた。

その隣に、ひだまり地区の地図。

窓の外からは、いつもと変わらない朝の光が差し込んでいる。

けれど、律には、もう昨日までと同じ景色には見えなかった。

陽葵が笑っていた商店街。

父親が設計士として歩んできた道。

そして、自分がまだ理解できずにいる、あの日の確執。

それらが、今、一枚の書類の上で交わろうとしていた。

律は、概要書を閉じた。

表紙の文字が、もう一度目に入る。

『ひだまり地区 再開発計画 概要書』

その下に記された、計画関係者の一覧。

律は、もう一度、その名前を確かめた。

そして、誰もいない執務室で、静かに呟いた。

「……親父?」

返事はなかった。

ただ、机の上の書類だけが、これから始まる物語を告げるように、静かにそこにあった。

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