オリジナル小説 ミステリー・ホラー

赤い糸電話 ―七番目の同級生―第一章・第二章

備考:赤い糸電話シリーズ案

 案①『赤い糸電話 ―午前零時の留守番電話―』

舞台:現代のマンション/都市伝説

主人公は、事故物件を調査する28歳の女性ライター。

深夜0時、取り壊し予定のマンションの一室で、赤い糸でつながれた二つの紙コップを発見する。耳を当てると、まだ起きていない失踪事件について、誰かが話している。

調べるほど、過去の住人たちが残した証言が食い違い、ある住人は「その部屋には最初から誰も住んでいなかった」と主張する。

謎の中心: 誰が電話をかけているのか。なぜ未来の事件を知っているのか。

恐怖:音・記録・証言の矛盾。第1部とは違う、都市型の心理ホラー。

 

案②『赤い糸電話 ―終電の向こう側―』

舞台:廃線寸前のローカル線/駅の怪談

主人公は、地方鉄道の廃線記録を撮影する26歳の男性カメラマン。

最終列車が通過した後、無人駅の待合室で赤い糸電話が鳴る。紙コップの向こうから聞こえるのは、何十年も前にその駅で起きた事故の目撃証言だった。

ところが、証言の内容は毎晩少しずつ変化する。最後には、主人公自身の名前が呼ばれる。

謎の中心: 鉄道事故は本当に事故だったのか。証言者はなぜ真実を語れないのか。

恐怖:夜の駅、消えた乗客、時刻表に存在しない列車。映像的な演出に向く物語。

 

案③『赤い糸電話 ―七番目の同級生―』・・・第2部に採用

舞台:廃校になった小学校/記憶と失踪の謎

主人公は、母校の取り壊しを記録する29歳の女性教師。

古い教室の机から、赤い糸電話と一冊の出席簿が見つかる。そこには六人の児童の名前しかない。ところが、糸電話の向こうからは、毎晩必ず七人目の児童が返事をする。

卒業アルバムにも、集合写真にも、七人目の姿はない。それなのに、元同級生たちは全員、その子と遊んだ記憶を持っていた。

謎の中心: 七人目は誰なのか。なぜ全員の記憶から、その子の存在だけが消されているのか。

恐怖:記憶の食い違い、消えた名前、隠された過去。ミステリーを強く打ち出せる案。

 

赤い糸電話 ―七番目の同級生―

シリーズ第2部|心理ホラー × 本格ミステリー × 人間ドラマ

1. 作品の基本設定

項目 企画内容
仮タイトル 『赤い糸電話 ―七番目の同級生―』
ジャンル 心理ホラー・本格ミステリー・人間ドラマ
舞台 山あいの地方都市にある、閉校予定の小学校
時代 現代
主人公 29歳の女性・学校資料の整理を請け負う記録調査員
主要人物 6〜8人
事件の核 存在しないはずの「七人目の児童」
物語のテーマ 記憶と記録、罪と沈黙、誰かの存在を認めること

第1部の「間戸」や高瀬美咲たちの物語を知らなくても、まったく問題なく読める構成にします。

共通するのは、赤い糸電話が、人の記憶や言葉に関わる不可解な現象を引き起こすという部分だけ。第2部では第1部の登場人物を出さず、独立した事件として完結させます。

2. 主人公と主要登場人物

① 水瀬 紗季(みなせ さき)

29歳・主人公

学校や自治体の古い資料を整理・保存する記録調査員。冷静で観察力があり、怪談を信じていない。証言よりも記録、記憶よりも物証を重視する。

閉校予定の小学校から古い資料の整理を依頼され、奇妙な出席簿と赤い糸電話を発見する。

人物の秘密: 幼少期にこの町を離れており、学校にまつわる記憶の一部が曖昧。本人は七人目の児童を知らないと思っているが、ある歌だけは理由もなく口ずさめる。

② 黒田 佳代(くろだ かよ)

63歳・元担任教師

問題のクラスを受け持っていた元教師。七人目の話を聞くと、必要以上に強く否定する。

「そんな子はいませんでした」と断言する一方、古い教室の場所や机の配置について、記録と一致しない説明をする。

③ 三上 亮(みかみ りょう)

31歳・元児童

かつて問題のクラスにいた男性。現在は地元で働いている。

「七人目なんて知らない」と話すが、酒に酔うと「ごめん、あの日は……」と繰り返す。事件の重要な目撃者であり、罪悪感から記憶を避けている。

④ 小野寺 真琴(おのでら まこと)

30歳・地方紙記者

閉校の記事を書くために学校を訪れる。卒業アルバムに不自然な修正跡があることを知っている。

紗季の協力者だが、最初は記事になる真相を優先し、情報をすべて共有しない。

⑤ 佐伯 修造(さえき しゅうぞう)

72歳・元用務員

校舎の構造と、閉鎖された旧校舎のことを知る人物。記録にない通路や、壁の中に残された物品の存在をほのめかす。

事件の真相をすべて知っているように見えるが、彼自身も一つだけ説明できない音を聞いている。

⑥ 白石 奈津子(しらいし なつこ)

54歳・現校長

閉校作業を急ぎ、古い資料の調査を打ち切ろうとする。学校の評判を守ることが最優先に見える。

ただし、単純な悪人ではない。過去の大人たちが残した嘘を引き継ぎ、真実を公表することで新たな傷を生むことも恐れている。

⑦ 七瀬 小夜(ななせ さよ)

事件の中心にいる「七人目」

20年前、問題のクラスにいたとされる少女。出席簿にも卒業アルバムにも名前がない。

紗季が赤い糸電話を耳に当てると、少女は必ずこう尋ねる。

「ねえ、わたしの席……まだある?」

彼女は本当に亡くなった少女なのか。それとも、誰かが作り上げた記憶なのか。

3. 事件の全体像と真相

ここが第2部の最重要部分です。謎を深くするために、超常現象と人間が隠した真実を二層に分ける構成にします。

表向きの事件

閉校準備中の旧・月影小学校で、紗季は古い出席簿を発見する。

ある学級の机は六人分しか記録されていない。ところが、机の裏には七人分の名前が鉛筆で刻まれている。

そのうち六人は確認できる名前だが、七つ目だけが削り取られている。

さらに、卒業アルバムの集合写真には、六人の子どもの間に、誰か一人分の不自然な空白がある。写真の端には、赤い糸が写り込んでいた。

そして夜、閉鎖された教室から電話の音がする。

人間の手で隠された真相

20年前、六年生のクラスには、本当に七瀬小夜という少女がいた。

小夜は家庭の事情から周囲との関わりが少なく、同級生たちと赤い糸電話で遊ぶようになった。しかし、ある雨の日、放課後の旧校舎で事故が起きる。

小夜は、立ち入り禁止になっていた旧校舎の奥で重傷を負い、その後亡くなった。

事故には、老朽化した設備を放置した学校側の責任と、子どもたちが危険な場所へ入った経緯が関係していた。

当時の学校関係者は、責任問題や学校の存続への影響を恐れ、記録の一部を改変した。小夜の存在を知る大人たちは、児童たちにも「そんな子はいなかった」と言い続けた。

ただし、全員が同じ理由で沈黙したわけではない。

  • 担任は、自分が危険を防げなかったことを隠したかった。

  • 児童の一人は、事故の直前に小夜を一人で行かせたことを悔やんでいた。

  • 用務員は、事故の危険を以前から知っていたが、修理を強く求めなかったことを後悔していた。

  • 学校側は、記録を訂正すれば責任を問われることを恐れた。

それぞれの小さな嘘が積み重なり、少女は記録の上から消されていった。

では、赤い糸電話の怪異とは?

ここが、本格ミステリーと心理ホラーをつなぐ部分です。

赤い糸電話は、かつて小夜と六人の児童が遊んでいた手作りの道具でした。事故のあと、誰かが片方の紙コップを旧校舎に残したまま、もう片方を隠しました。

現在、紗季がその紙コップを耳に当てると、過去の会話としか思えない声が聞こえます。ところが、録音しても声が残る場合と、雑音しか残らない場合がある。

声の中には、当時の人間なら知っているはずの情報だけでなく、誰も説明できない言葉も混ざっています。

人間の嘘は証拠によって暴ける。しかし、紙コップの向こうから聞こえる声が本当に小夜なのかは、最後まで断定しきれない。

この余韻を残すことで、読者に「すべては人間の仕業だった」とも「すべては怪異だった」とも言い切れない恐怖を届けます。

4. 謎を解くための手がかり

本格ミステリーとして成立させるため、終盤で突然真相を説明するのではなく、序盤からフェアな手がかりを配置します。

手がかり 初めて見たとき 真相判明後の意味
机の裏の七つ目の名前 子どものいたずら 小夜が実在した物証
集合写真の不自然な空白 写真の劣化 人為的な修正の痕跡
元担任の記憶違い 高齢による曖昧さ 隠したい出来事への反応
旧校舎の鍵の記録 管理上の不備 事故当日の出入りを示す証拠
六人の元児童が覚える同じ歌 共通の思い出 小夜と共有した記憶の残存
七人目の席だけに残る赤い糸 怪異の兆候 小夜の存在と最後の会話を結ぶ象徴
紙コップの声と証言の食い違い 超常現象の不気味さ 人間の記憶と記録の不確かさ

大切なのは、読者が真相を知ったあとに、序盤の場面を読み返したくなることです。手がかりはすべて、物語の中で意味を持つようにします。

5. 章構成案

第1部と同じく、各章5節構成を基本にします。全6章・全30節とし、各節は3,000字以上を目標に、謎・人物・恐怖・感情のいずれかを必ず進展させます。

第1章「七人目の席」

目的:怪異の発見と最初の謎

  1. 閉校前の記録整理

  2. 六人しかいない出席簿

  3. 机の裏の七つ目の名前

  4. 夜の教室から聞こえる声

  5. 「わたしの席、まだある?」

章末の引き: 紗季が翌朝教室へ行くと、昨日までなかった七つ目の机が置かれている。

第2章「存在しない同級生」

目的:証言の矛盾と調査の拡大

  1. 元児童・三上亮

  2. 消された集合写真

  3. 元担任の拒絶

  4. 六人が口ずさむ同じ歌

  5. 出席簿にない名前

章末の引き: 六人の元児童全員が、小夜と遊んだ記憶を持ちながら、その顔だけを思い出せない。

第3章「赤い糸の証言」

目的:本格ミステリーの推理を深める

  1. 紙コップの録音

  2. 旧校舎の鍵

  3. 用務員が隠した記録

  4. 事故当日の雨

  5. 七人目が残した言葉

章末の引き: 紗季は、事故当日の校舎にいた人物の証言が、時刻の点で成立しないことに気づく。

第4章「雨の日の空白」

目的:事件の再構成と主人公の揺らぎ

  1. 閉ざされた旧校舎

  2. 誰も語らなかった事故

  3. 六人の記憶が戻る

  4. 元担任の告白

  5. 事故のあとに消えた記録

章末の引き: 小夜の死を隠したのは一人ではなく、複数の大人の沈黙だったと判明する。

第5章「七瀬小夜」

目的:真相の解明と怪異の核心

  1. 本当の名前

  2. 七人目の証言

  3. 事故を招いた嘘

  4. 最後の糸電話

  5. 「わたしを、いたことにして」

章末の引き: 紗季は小夜の存在を示す記録を復元する。しかし、紙コップから聞こえた最後の言葉だけは、誰も知らないはずの内容だった。

最終章「七人目の卒業」

目的:事件の決着と感情の余韻

  1. 公表される記録

  2. 六人が語る記憶

  3. 誰もいない教室

  4. 最後の紙コップ

  5. 赤い糸電話

最終場面: 閉校式のあと、紗季は空になった教室に一度だけ戻る。七つ目の席はもうない。それでも、紙コップの向こうから小さな声が聞こえる。「……みんな、卒業できた?」

6. 第2部の結末

第2部では、事件の真相を明らかにしたうえで、感情面の決着もつけます。

紗季は、隠されていた資料と関係者の証言を整理し、小夜が実在したことを公的な記録に残します。

元担任や元児童たちは、長年避けてきた事実を語り始めます。全員が同じように許されるわけではありません。責任を取るべき人は責任を負い、失われた命は戻らない。それでも、少女の存在を否定し続ける必要はなくなります。

最後に、紗季は赤い糸電話を旧校舎に残すか、記録資料として保管するかを選びます。

彼女が紙コップを耳に当てると、小夜の声が聞こえます。

「わたし、ここにいたんだよね?」

紗季は答えます。

「うん。ちゃんと、ここにいたよ」

その瞬間、糸電話は静かになります。

ところが、数か月後。別の町の古い学校から、紗季宛てに資料が届きます。

箱の中には、赤い糸でつながれた二つの紙コップ。

そして、差出人の名前がない手紙が一枚。

『今度は、わたしの話を聞いて』

――ここで第2部は完結。第3部につながる余韻を残します。

7. 執筆時に守りたいルール

このシリーズを長く続けるなら、次の5点を共通ルールにすると強いです。

  1. 主人公は毎回変える。 年齢、職業、性格、抱える問題も変え、異なる視点から怪異を描く。

  2. 赤い糸電話は便利な謎解き装置にしない。 いつ、誰の声が聞こえるかは限定し、都合よく真相を教えてくれないようにする。

  3. 人間の謎と超常の謎を分ける。 犯人や記録改ざんは証拠で解き、怪異の正体には解釈の余地を残す。

  4. 恐怖の奥に人間の感情を置く。 罪悪感、孤独、後悔、見捨てられる恐怖などを事件と結びつける。

  5. 各部で物語を完結させる。 続編を読まなくても満足できる結末にし、共通アイテムだけでシリーズをつなぐ。

最終

この第2部は、タイトルを『赤い糸電話 ―七番目の同級生―』とし、「存在した人間が、記録から消される恐怖」を中心に据えるのが最も効果的だと思います。

第1部が「忘れられた少女を救う物語」なら、第2部は「忘れたことにされた少女の存在を証明する物語」です。

ただし、執筆に入る前に一つだけ大切な点があります。現状の企画では「小夜の死を大人たちが隠した」という部分を真相として置いていますが、実際の長編では、記録改ざんの方法や事故当日の行動を具体的に組み立て、矛盾がないようにする必要があります。

 

 

 『赤い糸電話 ―七番目の同級生―』第1章「七人目の席」

第1節「閉校前の記録整理」

その小学校には、来年の春が来ない。

水瀬紗季が初めて月影小学校を訪れた朝、正門の脇には、白い紙に黒い文字で書かれた看板が立っていた。

閉校記念事業のお知らせ。

その下には、長年地域の子どもたちを見守ってきた学校への感謝と、最後の卒業生を送り出す行事の日程が記されていた。

校舎は、山あいの町を見下ろす小高い場所に建っていた。

灰色の外壁。色褪せた校章。校庭の隅に残る古い鉄棒。風に揺れる桜の枝。

どれも珍しいものではない。

けれど、門をくぐった瞬間、紗季は妙な違和感を覚えた。

静かすぎるのだ。

閉校が決まった学校なら、もっと慌ただしくてもよさそうだった。引っ越し業者が出入りし、教室から机が運び出され、先生たちが最後の整理に追われていてもおかしくない。

しかし、校舎の窓はほとんど閉じられ、校庭には誰もいなかった。

まるで、学校そのものが、誰かに見つからないよう息を潜めているようだった。

「水瀬さん、ですね?」

玄関前で待っていた女性が声をかけた。

月影小学校の校長、白石奈津子だった。五十代半ばほどの、背筋の伸びた女性である。紗季の姿を見ると、丁寧に頭を下げた。

「本日は遠いところ、ありがとうございます。資料の整理をお願いするのは初めてですが、教育委員会から、たいへん仕事が正確な方だとうかがっています」

「いえ、こちらこそ。よろしくお願いいたします」

紗季も頭を下げた。

紗季は、自治体や学校から依頼を受け、古い公文書や写真、台帳などを整理・保存する仕事をしている。

破損した資料を分類し、記載内容を確認し、保存すべきものと廃棄できるものを分ける。必要があれば、年代の異なる資料を照合し、記録の欠落や不一致を報告する。

派手な仕事ではない。

けれど、紗季は気に入っていた。

人の記憶は、時間が経つにつれて変わる。

昨日まで確かに覚えていたことを忘れることもあれば、実際には経験していない出来事を、経験したように思い込むこともある。

その点、記録は違う。

紙は嘘をつかない。

少なくとも、誰かが書き換えない限りは。

紗季はそう考えていた。

「今回お願いしたいのは、主に旧校舎の資料です。創立以来の学校日誌や出席簿、卒業写真などが、まだかなり残っていまして」

「かなり、というと?」

「百年分近くあります。すべてを保存するわけにはいきませんので、重要な資料を選んでいただきたいんです」

「承知しました。まずは保管場所と、現在の資料目録を確認させてください」

「ええ。こちらです」

白石に案内され、紗季は校舎へ入った。

廊下には、児童たちの作品が飾られていた。色紙で作った花、習字の半紙、遠足の絵。どれも数年前のものらしい。

その中に、一枚だけ、妙に古びた写真があった。

教室の前で撮影された集合写真。

子どもたちが横一列に並び、その後ろに教師が立っている。

写真の下には、手書きの説明が添えられていた。

――平成十六年度六年一組。

紗季は足を止めた。

「こちらは、展示用ですか?」

白石が振り返る。

「ああ、それですか。古い写真ですが、卒業生の方からお借りしたものなんです。閉校前に、昔の学校の様子を知ってもらおうと思いまして」

「平成十六年度……」

紗季は写真を見た。

子どもたちは、六人。

いや、正確には、六人の顔が確認できる。

写真の右端には、少し不自然な空白があった。誰かがそこに立っていたようにも見えるが、背景の壁が写っているだけとも考えられる。

古い写真には珍しくないことだ。

撮影時に子どもが動いたのかもしれない。現像の過程で傷が入った可能性もある。

紗季は特に気に留めず、先へ進んだ。

「資料室は、こちらです」

白石が開けた扉の向こうには、段ボール箱と金属製の書架が並んでいた。

窓は小さく、部屋の奥まで自然光が届かない。空気には、紙と埃、それから古い木材の匂いが混ざっていた。

「電気はこちらです。空調は少し調子が悪いので、必要なら事務室にお申しつけください」

「分かりました」

「それから、奥の棚は、まだ確認できていない資料が多いんです。無理にすべてを整理しなくても構いません。時間の都合もありますので」

そう言いながら、白石は部屋の奥へ視線を向けた。

ほんの一瞬だった。

けれど紗季には、その視線が、何かを避けるように見えた。

「奥に、特別な資料があるんですか?」

「いいえ。古いものばかりですから。破損しているものもありますし、先に手前から進めていただければ」

「承知しました」

白石はそれ以上説明せず、職員室へ戻っていった。

紗季は荷物を机に置き、ノートパソコンを開いた。

作業の基本は、現物の状態を確認し、資料番号を付け、目録と照合することだ。

年代、資料名、作成者、保管状態。

一つずつ確認していく。

最初の数時間は、何事もなかった。

昭和初期の学校日誌。戦後の児童名簿。校舎の改築記録。卒業証書の授与台帳。

古い資料には、時代ごとの書式の違いや、表記の揺れがある。旧字体と新字体が混在し、同じ人物の名前が資料によって異なることもあった。

紗季はそれらを一つずつ記録した。

午後になり、段ボール箱の底から、黒い表紙の帳簿が出てきた。

背表紙には、白いラベルが貼られている。

平成十六年度 児童出席簿。

紗季は手袋を着け、慎重に表紙を開いた。

その年度の六年生の記録だった。

最初のページには、学級編制と児童名簿が記載されている。

一組。

男子三名、女子三名。

合計六名。

紗季はページをめくった。

出席番号一番から六番まで、児童の氏名と生年月日が並んでいる。毎日の出欠欄には、出席を示す丸印や、欠席理由を示す記号が記入されていた。

特に変わったところはない。

次のページも、その次のページも。

ところが、五月の終わりに差しかかったところで、紗季の手が止まった。

ある一日の出席欄に、妙な記載があったのだ。

六人全員が出席している。

その右側、備考欄の端に、小さな鉛筆の文字が残っていた。

――七人目、早退。

「……七人目?」

紗季は呟いた。

印刷された欄ではない。誰かが余白に書き込んだものらしい。

文字は薄く、かなり古い。

鉛筆で書かれた文字は、消しゴムで消されかけていた。けれど、完全には消えていない。

紗季は角度を変えて、文字を確認した。

確かに「七人目」と読める。

その下には、もう一つ文字があるようだった。

しかし、何度見ても判別できない。

紗季は記録用のカメラで撮影し、備考欄の記載をメモした。

こうした書き込み自体は、珍しくない。

児童数の訂正、転入・転出の記録漏れ、集計時のメモ。

考えられる理由はいくつもある。

ただし、この帳簿には転入者の記録がない。

年度途中で転入した児童がいたなら、通常は転入日や前籍校などの記録が残るはずだ。

紗季は、同じ年度の学校日誌を取り出した。

四月から順に、記録を照合していく。

学級編制の変更なし。

転入・転出の記載なし。

児童数の変更なし。

六月の職員会議の記録にも、該当する児童はいない。

それなのに、出席簿には「七人目」と書かれている。

紗季は、もう一度そのページを見た。

書き込まれた文字の上には、薄い擦過痕があった。

鉛筆で何かを書き、その上から消したような跡。

消された文字が「七人目」だったのか。

それとも、別の名前だったのか。

今の時点では判断できない。

紗季は付箋を貼り、確認事項の一覧に追加した。

午後四時を過ぎたころ、資料室の扉がノックされた。

「お仕事中、すみません」

入ってきたのは、六十代くらいの男性だった。

作業着の上に薄手のジャンパーを羽織り、腰には鍵束を下げている。

「こちらの用務をしております、佐伯です。何かお困りのことはありませんか?」

「ありがとうございます。今のところ大丈夫です」

紗季は出席簿を閉じた。

「佐伯さんは、こちらの学校に長くお勤めなんですか?」

「ええ。もう四十年以上になりますね。昔は児童も多かったんですが、今ではずいぶん減りました」

「平成十六年度のことも、ご存じですか?」

その質問をした瞬間、佐伯の表情が変わった。

ほんのわずかに。

目元が強張り、鍵束を持つ手が止まる。

「……十六年度?」

「はい。この年度の出席簿を確認していたんですが、備考欄に『七人目、早退』という記載がありまして」

佐伯は、紗季の机に目を落とした。

閉じられた出席簿。

その表紙を見ているようだった。

「それは……」

彼は何かを言いかけた。

しかし、すぐに口を閉じた。

「古い資料ですからね。書き間違いじゃないですか」

「そうかもしれません。ただ、児童数の記録と合わないので、念のため確認したいんです」

「……そうですか」

佐伯は鍵束を握り直した。

「昔のことは、覚えているようで覚えていないものです。記録を見ても、思い出せないこともありますから」

「確かにそうですね」

「では、何かあれば職員室に声をかけてください」

佐伯はそう言って、資料室を出ていった。

扉が閉まる。

紗季は、しばらくその方向を見つめていた。

彼は「知らない」とは言わなかった。

「書き間違いじゃないか」と言っただけだ。

それは、単なる言い回しの違いかもしれない。

けれど。

出席簿を見たときの、あの表情。

あれは、本当に何も知らない人間の反応だっただろうか。

紗季はノートパソコンに向き直った。

感情や印象だけで結論を出してはいけない。

まずは、資料を確認する。

写真。

学校日誌。

児童名簿。

そして、ほかの年度の記録。

すべてを照合すれば、何か分かるかもしれない。

作業を続けているうちに、窓の外が暗くなっていた。

紗季は腕時計を確認した。

午後六時二十分。

今日はここまでにしよう。

資料を元の箱に戻そうとしたとき、出席簿の後ろに、薄い紙が一枚挟まっていることに気づいた。

表紙と最後のページの間。

半分に折られた、古い便箋だった。

紗季は手袋を着け直し、そっと開いた。

子どもの字だった。

鉛筆で書かれた、丸みのある文字。

短い文章が、紙の中央に記されている。

――あしたは、七人であそぼうね。

その下には、赤い線が一本引かれていた。

便箋の端には、小さな穴が二つ並んでいる。

紙コップに糸を通すときにつけるような、細い穴だった。

紗季は便箋を裏返した。

何も書かれていない。

名前もない。

日付もない。

ただ、紙の裏側に、鉛筆で何度もなぞったような跡が残っていた。

光に透かすと、薄い文字が浮かび上がる。

――さよ。

紗季は、息を止めた。

さよ。

それが名前なのか、文章の一部なのかは分からない。

けれど、さっきの出席簿にあった「七人目」という文字が、頭の中で重なった。

紗季は便箋を撮影し、出席簿とは別の資料番号を仮に付けた。

そのときだった。

資料室の奥から、かすかな音がした。

カラン。

小さな、乾いた音。

紗季は顔を上げた。

扉は閉まっている。

窓も閉まっている。

机の上には、出席簿と便箋、撮影用のカメラがあるだけだ。

もう一度。

カラン。

今度は、はっきり聞こえた。

音は、部屋の奥からした。

紗季は立ち上がった。

書架の間を進み、段ボール箱が積まれた一角を確認する。

何もない。

棚の下にも、箱の隙間にも、音の原因になりそうなものは見当たらなかった。

それでも、確かに聞こえた。

カラン。

まるで、空の紙コップが、どこかにぶつかったような音だった。

「……誰か、いますか?」

紗季は自分でも驚くほど小さな声で尋ねた。

返事はない。

しばらく待ったが、物音も気配もなかった。

紗季は自分の行動を少し恥ずかしく思った。

古い建物だ。

木材が収縮したのかもしれない。配管の音かもしれない。

そう考え、机へ戻ろうとした。

そのとき、段ボール箱の陰に、白いものが見えた。

紙コップだった。

古い紙コップが、床に横倒しになっている。

縁は少し潰れ、側面には薄い埃が積もっていた。

しかし、その底には。

赤い糸が結ばれていた。

紗季は動けなくなった。

糸は紙コップから伸び、書架の裏へと続いている。

その先は壁だった。

壁の向こうに部屋はない。建物の設計図を見たわけではないが、ここは校舎の端にあたるはずだ。

紗季はしゃがみ込み、紙コップを観察した。

糸は古びているのに、赤い色だけが妙にはっきりしていた。

紙コップの側面には、鉛筆で小さな文字が書かれていた。

――さよ。

紗季は、先ほどの便箋を思い出した。

偶然だろうか。

古い学校には、子どもの工作が残されていることもある。

誰かが作った糸電話が、資料室に紛れ込んでいたとしても不思議ではない。

けれど。

この紙コップは、なぜ書架の裏に隠されていたのだろう。

そして、なぜ今、音がしたのだろう。

紗季は手袋を着けたまま、紙コップをそっと持ち上げた。

軽い。

中には何も入っていない。

耳を近づけるつもりはなかった。

ただ、底に結ばれた糸の状態を確認しようとしただけだった。

そのとき。

紙コップの内側から、声がした。

「……もしもし?」

紗季の手が止まった。

子どもの声だった。

幼い女の子の、かすれた声。

遠くから話しかけているようなのに、すぐ耳元で囁かれたようにも聞こえた。

紗季は紙コップを床に落としかけた。

しかし、声は続かなかった。

沈黙。

自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。

紗季は紙コップを見つめた。

「……誰?」

答えはない。

声が聞こえたのは、一度だけ。

録音機器も動かしていなかった。周囲に誰かが隠れている可能性も、完全には否定できない。

けれど、声が聞こえた瞬間、紗季は確かに感じた。

この紙コップは、自分に話しかけたのだと。

紗季は紙コップを元の場所へ戻した。

それ以上、触れる気にはなれなかった。

資料室を出る前に、彼女は机の上の便箋をもう一度確認した。

――あしたは、七人であそぼうね。

子どもの字。

赤い一本の線。

そして、名前らしき文字。

さよ。

紗季は資料を封筒に入れ、仮の保管番号を記入した。

帰り際、職員室にいた白石校長に、紙コップのことを尋ねようと思った。

だが、廊下へ出ると、校舎はすでに暗くなっていた。

職員室の扉は閉じられ、明かりも消えている。

玄関へ向かう途中、紗季は掲示板の前を通った。

朝、見かけた集合写真。

平成十六年度六年一組。

紗季は足を止めた。

暗い廊下の中、非常灯の光が写真の表面を照らしている。

六人の子どもたち。

その右端の、不自然な空白。

紗季は、なぜかそこから目を離せなかった。

写真の中の子どもたちは、みな正面を向いて笑っている。

けれど。

右端の空白だけが、妙に暗かった。

そこに誰かが立っていたのだとしたら。

その子は、どこへ行ったのだろう。

紗季は自分の考えを打ち消すように、首を振った。

資料の調査は、明日も続く。

今日聞いた声のことも、紙コップのことも、まずは事実として記録すればいい。

そう思い、玄関の扉を開けた。

外は雨だった。

いつの間に降り始めたのだろう。

細い雨が、校庭を濡らしている。

紗季は傘を開き、駐車場へ向かった。

車に乗り込んでから、ふと、鞄の中の封筒に目を落とした。

便箋は、確かに封筒に入れた。

資料番号も記入した。

それなのに。

封筒の口から、赤い糸が一本、覗いていた。

紗季は息を呑んだ。

糸は、封筒の内側へ続いている。

引っ張るべきではない。

そう思った。

けれど、指先は勝手に動いていた。

赤い糸を、そっとつまむ。

その瞬間。

どこからか、あの声が聞こえた。

「……ねえ」

紗季は顔を上げた。

車内には、誰もいない。

雨音だけが、窓を叩いている。

「わたしの席……」

声は、今度ははっきりと聞こえた。

「まだ、ある?」

紗季は赤い糸を離した。

封筒が、膝の上に落ちる。

彼女はしばらく、身動きひとつできなかった。

やがて、震える手でエンジンをかけた。

帰らなければ。

明日になれば、もう一度確認できる。

紙コップを調べ、出席簿を照合し、関係者に話を聞けばいい。

きっと、何か理由が見つかる。

そう自分に言い聞かせながら、紗季は車を発進させた。

雨の向こうに、月影小学校の校舎が遠ざかっていく。

最後まで、二階の窓だけは、暗いままだった。

その窓辺に。

誰かが立っていたように見えた。

白い服を着た、小さな女の子。

紗季がバックミラーを確認したときには、もう何も見えなかった。

翌朝。

紗季は、昨日の記録を確認するため、いつもより早く月影小学校へ向かった。

校門をくぐり、玄関を開ける。

廊下には、誰もいない。

掲示板の集合写真も、昨日と同じ場所に掛かっていた。

六人の子どもたち。

右端の、不自然な空白。

紗季は資料室へ向かった。

扉を開ける。

机の上には、昨日整理した出席簿が置かれていた。

その隣に。

白い紙コップが、ひとつ。

紗季は立ち止まった。

昨日、紙コップを置いたのは、書架の裏だった。

確かに、そこへ戻したはずだ。

しかし、今は机の中央に置かれている。

紙コップの底からは、赤い糸が伸びていた。

糸は、閉じられた出席簿の上を通り、最初のページへ続いている。

紗季は、ゆっくりと出席簿を開いた。

児童名簿のページ。

一番から六番まで、六人の名前が並んでいる。

その下。

昨日までは空白だったはずの七番目の欄に、鉛筆で文字が書き加えられていた。

七瀬小夜。

その横には、小さな丸印。

そして、出席欄には――。

出席。

紗季は、声も出せずに、その文字を見つめた。

背後で。

カラン、と音がした。

紙コップの向こうから、幼い少女の声が聞こえた。

「おはよう、紗季ちゃん」

紗季は振り返った。

誰もいない。

けれど、机の上の出席簿には、確かに七人目の名前があった。

その文字は、まだ書かれたばかりのように、鉛筆の黒い粉を紙の上に残していた。

第2節「六人しかいない出席簿」

七瀬小夜。

出席簿に浮かび上がった七つ目の名前を、紗季は何度も読み返した。

七瀬小夜。

その横には、確かに出席を示す丸印がある。

昨日までは、何もなかった欄だ。

紗季は自分の記憶を疑った。

昨日の作業は、決して短くなかった。平成十六年度の出席簿を確認し、児童数を記録し、余白に書き込まれた「七人目、早退」という文字を撮影した。そのあと、便箋を発見した。

そして、赤い糸でつながれた紙コップ。

あの声。

――わたしの席、まだある?

昨夜の出来事を思い出すたび、胸の奥が冷たくなった。

だが、今は恐怖を整理している場合ではない。

目の前に、確認できる証拠がある。

紗季は机の上にカメラを置き、出席簿のページを撮影した。続いて、ページ番号、紙の状態、記載された文字の濃さを確認する。

七瀬小夜。

鉛筆で書かれた文字は、周囲の印刷文字とは明らかに異なっていた。

しかし、単に誰かがいたずらで書き加えた可能性もある。

丸印も同様だ。

それだけでは、小夜という児童が実在した証拠にはならない。

紗季はページをめくった。

次のページには、昨日までと同じ六人の名前が並んでいた。

七瀬小夜の名前はない。

日々の出欠欄にも、彼女の名前は見当たらなかった。

不自然なのは、最初のページだけだった。

紗季は、出席簿の背表紙を調べた。

糸綴じの一部が傷んでいる。けれど、ページを抜き取ったような新しい痕跡は見られない。

七人目の欄が、もともと存在していたのか。

それとも、誰かがあとから書き込んだのか。

紙の繊維を傷めずに鉛筆の文字だけを消すことはできる。逆に、古い紙に新しい文字を書き加えることも難しくない。

見た目だけでは判断できない。

紗季は小さく息を吐いた。

まず、記録を照合しよう。

児童数の集計記録。

学校日誌。

学級編制表。

この三つに食い違いがあれば、何が起きたのかを絞り込めるはずだった。

*

午前八時半。

職員室には、白石校長の姿があった。

「おはようございます、水瀬さん。昨日は遅くまでお疲れさまでした」

「おはようございます。少し確認したいことがありまして」

紗季は資料室から持ってきた複写資料を机に広げた。

「平成十六年度の六年一組についてですが、当時の児童数は六名で間違いないでしょうか」

「ええ。記録上はそうなっています」

「年度途中での転入や転出も、なかったのでしょうか」

「少なくとも、こちらに残っている記録ではありませんね」

白石は手元の書類を見ながら答えた。

紗季は、出席簿の余白にあった書き込みについて説明した。

「実は、備考欄に『七人目、早退』という文字が残っていました。それから、今朝、児童名簿の空白に『七瀬小夜』という名前が書き加えられていたんです」

白石の手が止まった。

ペン先が紙の上で動かなくなる。

「……七瀬小夜?」

「ご存じですか?」

「いいえ」

返事は早かった。

早すぎる、と紗季は思った。

「ただ、古い資料ですから。誰かが後から書いたのではありませんか」

「その可能性はあります。ですが、書き込みの経緯が分からないので、記録上の異常として報告する必要があります」

「報告……ですか」

白石は、紗季の手元にある資料を見た。

「その名前を、教育委員会にも伝えるおつもりですか?」

「記録の整合性が確認できない場合は、調査結果として記載します。現時点では、名前が書き加えられたという事実だけですが」

「そうですか」

白石は微笑んだ。

しかし、その笑顔はどこか硬かった。

「水瀬さん。昔の学校の記録には、今の基準では考えられないような不備があるものです。すべてを問題にしていては、整理が進みません」

「もちろん、すべてを問題視するつもりはありません。ただ、児童名簿に関わることですので」

「……ええ。分かりました」

白石はそれ以上、何も言わなかった。

紗季が資料をまとめようとしたとき、白石がふと口を開いた。

「ところで、水瀬さんは、こちらの町にお住まいだったことがあるんですか?」

「子どものころ、少しだけ。小学校に上がる前だったと思います」

「そうでしたか」

白石は、紗季の顔を見つめた。

「では、月影小学校にも来たことがあるかもしれませんね」

「……そうでしょうか」

「昔は、地域の子どもたちがよく遊びに来ていましたから」

何気ない会話のようだった。

けれど、白石は紗季の返事を待っているように見えた。

紗季は首を傾げた。

「残念ながら、学校の記憶はほとんどないんです」

「そうですか」

白石は視線を落とした。

その表情には、安堵とも失望ともつかないものが浮かんでいた。

紗季は、それを見逃さなかった。

*

資料室へ戻ると、紗季はまず学級編制表を探した。

平成十六年度の職員配置表と、児童数の集計表。

学級編制表には、六年一組の担任として黒田佳代の名前が記されていた。

児童数は六名。

男子三名、女子三名。

その数字は、出席簿と一致している。

次に、学校日誌を開いた。

五月二十七日。

特別な行事はない。授業は通常どおり行われ、放課後には職員会議があったと記録されている。

六月三日。

校庭の遊具点検。

六月十日。

地域清掃。

どのページにも、七瀬小夜という名前はない。

しかし、紗季はあることに気づいた。

五月二十七日の記録だけ、文章の途中に不自然な空白がある。

その日の記録は、次のようになっていた。

――六年一組、午後の授業終了後、児童の一名について保護者へ連絡。詳細は別紙。

その下には、細い横線が引かれていた。

別紙。

通常なら、添付された文書の番号や、連絡内容を示す記載があるはずだ。

ところが、何もない。

紗季は資料目録を調べた。

平成十六年度の学校日誌には、添付資料の一覧が残っていた。保護者への連絡記録や事故報告書、行事の計画書などが記載されている。

五月二十七日の添付資料は、一覧に見当たらなかった。

つまり、別紙が最初から存在しなかったのか、後から失われたのか、あるいは一覧の記載自体が不完全なのか。

まだ断定はできない。

紗季は該当箇所を撮影した。

次に、職員会議の議事録を開く。

五月二十七日の議題には、校庭の遊具点検と、翌月の地域清掃についての記載がある。

最後の行に、短い一文があった。

――旧校舎東側の使用について、再度確認すること。

紗季はその文字を見つめた。

旧校舎東側。

今の校舎は、東側の一部が倉庫として使われているだけで、児童が立ち入るような場所ではない。

しかし、当時は違ったのだろうか。

紗季は学校の古い配置図を探した。

昭和末期に作られた図面には、現在の校舎のほかに、木造の旧校舎が描かれていた。

旧校舎は、現在の倉庫の裏手に接続していたらしい。

平成十六年度の改修工事で、その一部が取り壊されている。

工事完了日は、六月十八日。

五月二十七日から、三週間ほど後だった。

紗季はノートに日付を書き込んだ。

五月二十七日。

六月十八日。

その間に、何があったのだろう。

*

昼休みが終わるころ、紗季は学校日誌を閉じた。

机の上には、三つの資料が並んでいる。

出席簿。

学校日誌。

改修工事の記録。

それぞれ単独では、特に珍しいものではない。

だが、並べて見ると、一つの疑問が浮かび上がってくる。

なぜ、五月二十七日の記録にだけ、別紙への言及があるのか。

なぜ、その日の会議で旧校舎東側の使用について確認する必要があったのか。

そして、なぜ、児童名簿には七人目の名前が書かれていたのか。

紗季は、改修工事の記録をもう一度確認した。

工事の概要には、旧校舎東側の一部解体と、床板の撤去、壁面の補修が記載されている。

添付された写真は三枚。

一枚目は、解体前の外観。

二枚目は、床板を撤去した室内。

三枚目は、補修後の壁面。

紗季は二枚目の写真を拡大した。

床板が剥がされた室内に、古い机が一つ置かれている。

廃棄予定の備品だろう。

その机の天板に、何かが書かれていた。

写真が粗いため、はっきりとは読めない。

けれど、文字の下に、赤い線のようなものが見えた。

紗季は画面を拡大した。

赤い線は、机の脚へと伸びている。

そして、その先には、小さな白いものが写っていた。

紙コップのように見える。

紗季は椅子から立ち上がった。

旧校舎東側。

今の倉庫の裏手。

現場を確認する必要がある。

*

校舎の外へ出ると、雨は上がっていた。

紗季は建物の東側へ回った。

そこには、古い倉庫が建っていた。外壁は塗装が剥がれ、窓には板が打ちつけられている。

入口には鍵がかかっていた。

紗季は、昨日会った佐伯に声をかけた。

「すみません、佐伯さん。東側の倉庫を確認したいのですが」

佐伯は、手にしていた道具を置いた。

「倉庫ですか?」

「はい。平成十六年度の改修工事の資料に、旧校舎東側の解体記録がありまして。工事前の配置を確認したいんです」

佐伯はしばらく黙っていた。

「……あそこは、もう使っていませんよ」

「中に入る必要はありません。外側だけでも確認できれば」

「そうですか」

佐伯は鍵束を取り出した。

倉庫の鍵を選び、扉を開ける。

中には古い机や椅子、壊れた教材が積まれていた。

紗季は入口から室内を見渡した。

床はコンクリートで、壁には棚が並んでいる。

特に異常はない。

ただ、奥の壁だけ、色が違っていた。

新しい板で塞がれたような長方形の部分がある。

「こちらは?」

紗季が尋ねると、佐伯は視線を逸らした。

「古い出入口です。改修のときに塞いだんですよ」

「出入口?」

「昔の校舎につながっていました。今は、その向こうに部屋はありません」

「部屋があったんですか?」

「……倉庫のような場所だったと思います」

佐伯の答えは曖昧だった。

紗季は壁を観察した。

板の端には、釘を抜いた跡が残っている。

さらに、床の隅には、細い赤い繊維が引っかかっていた。

紗季はしゃがみ込んだ。

赤い糸。

昨日、紙コップに結ばれていたものと似ている。

しかし、ここで結論を出すのは早い。

「この倉庫は、いつから使われなくなったんですか?」

「改修工事のあとです」

「平成十六年の六月ごろでしょうか」

佐伯は答えなかった。

代わりに、壁の板を見つめた。

「水瀬さん」

「はい」

「古い建物には、いろいろなものが残ります。使わなくなった部屋も、壊したはずの壁も。ですが、残っているからといって、すべてを調べる必要があるとは限りません」

「資料の整理を依頼された以上、記録と現物に食い違いがあれば確認する必要があります」

「……そうですね」

佐伯は小さく頷いた。

そして、倉庫の扉を閉めた。

「ただ、あまり遅くまで残らないほうがいい」

「どうしてですか?」

佐伯は鍵をかけながら答えた。

「夕方になると、あの子が帰ってくることがあるからです」

紗季は息を止めた。

「……あの子?」

佐伯は、しまったというように口を閉じた。

鍵束が、かすかに鳴った。

「今のは、忘れてください」

「佐伯さん。あの子というのは、七瀬小夜さんのことですか?」

佐伯の顔から、血の気が引いた。

その反応だけで、紗季には十分だった。

彼は、その名前を知っている。

少なくとも、聞いたことがある。

佐伯は紗季を見た。

何かを言おうとして、やめた。

「……私は、何も知りません」

そう言って、彼は倉庫を離れた。

紗季は、その背中を見送った。

*

午後三時。

資料室へ戻った紗季は、今までに確認した記録を時系列に並べた。

平成十六年五月二十七日。

学校日誌に「児童の一名について保護者へ連絡」と記載。

同日、職員会議で「旧校舎東側の使用について、再度確認すること」と記録。

六月十八日。

旧校舎東側の一部解体と補修工事が完了。

そして、現在の出席簿には、七瀬小夜という名前がない。

だが、余白には「七人目、早退」と書かれていた。

便箋には「七人であそぼうね」。

さらに、紙コップ。

赤い糸。

佐伯の言葉。

――夕方になると、あの子が帰ってくることがある。

紗季はペンを置いた。

ここまでの情報を整理すれば、七瀬小夜が単なる書き間違いである可能性は低くなっている。

ただし、まだ小夜が実在したと断定するには足りない。

必要なのは、独立した記録だ。

児童の転入・転出に関する書類。

保護者への連絡記録。

事故報告書。

あるいは、当時の児童が書いた作文や絵。

紗季は資料目録を開いた。

平成十六年度の保管資料には、児童作品のファイルが登録されていた。

番号は、十六―六年一組―作品。

そのファイルは、まだ確認していなかった。

紗季は棚の奥から、薄い青色のファイルを取り出した。

中には、児童たちが書いた作文や絵が綴じられていた。

遠足の感想。

将来の夢。

家族の紹介。

六人分の作品が並んでいる。

紗季は一枚ずつ確認した。

六人。

やはり六人しかいない。

最後のページには、学級全員で描いたという絵があった。

教室の中に、子どもたちが並んでいる。

机が六つ。

椅子も六つ。

黒板には、日付が書かれていた。

平成十六年五月。

絵の右端には、小さな赤い線が描かれていた。

その下に、鉛筆で文字が添えられている。

――さよちゃんのいす。

紗季は、絵を持つ手に力が入るのを感じた。

椅子は描かれていない。

絵の中には、六つの机と椅子しかない。

それなのに、誰かが「さよちゃんのいす」と書いている。

紗季は、作品の裏側を確認した。

作者名の欄は空白だった。

その部分だけ、紙が薄くなっている。

何度も消しゴムで擦られたような跡があった。

紗季は、資料を机に置いた。

誰かが、この作品から名前を消した。

けれど、絵に添えられた言葉までは消しきれなかった。

さよちゃんのいす。

七瀬小夜。

七人目。

ばらばらだった手がかりが、少しずつつながり始めていた。

そのとき。

机の上の紙コップが、かすかに揺れた。

紗季は顔を上げた。

紙コップは、昨日と同じ白い紙コップだった。

赤い糸は、机の端から床へ垂れ下がっている。

風はない。

窓も閉じている。

それなのに、紙コップはゆっくりと回転した。

カラン。

乾いた音が、資料室に響いた。

紗季は動かなかった。

紙コップの内側から、幼い声が聞こえた。

「……みつけた?」

紗季は、唇を結んだ。

「誰を?」

思わず問い返していた。

しばらく沈黙が続いた。

それから、声が答えた。

「わたしの、なまえ」

紗季の背筋を、冷たいものが走った。

名前は見つかった。

七瀬小夜。

出席簿には、確かにその名前が書かれていた。

しかし、声の主は、まだ満足していないようだった。

「……でも」

声が続いた。

「わたし、ここにいないことになってるの」

紙コップが、もう一度鳴った。

カラン。

その瞬間、紗季の手元にあった児童作品のファイルが、ひとりでに閉じた。

最後のページから、細い赤い糸が一本、滑り落ちた。

糸の先には、小さな紙片が結ばれていた。

紗季は震える指で、それをほどいた。

紙片には、子どもの文字で、こう書かれていた。

――七人目は、わたしじゃない。

紗季は、その一文を見つめた。

七人目は、わたしじゃない。

では、七瀬小夜とは誰なのか。

そして、出席簿に書かれた名前は、本当に七人目の児童のものなのだろうか。

資料室の奥で、誰かが笑った。

小さな、子どもの笑い声だった。

紗季は振り返った。

誰もいない。

ただ、書架の隙間から、赤い糸が一本だけ伸びていた。

その糸は、昨日まで何もなかった壁の一点へ向かっている。

まるで、壁の向こうに誰かが立っていて、こちらへ糸を引いているかのように。

紗季は、机の上の資料を見下ろした。

六人しかいない出席簿。

七人目の名前。

存在を示す絵。

そして、「七人目は、わたしじゃない」という言葉。

彼女は、初めて思った。

自分が探しているのは、単に記録から消された少女ではないのかもしれない。

七瀬小夜という名前そのものが、何かを隠すために使われているのではないか。

赤い糸電話は、真実を教えてくれる道具ではない。

むしろ、誰かが隠したものを、別の何かが語り直しているのだ。

その声を信じれば、真実に近づくとは限らない。

紗季は、出席簿を閉じた。

窓の外では、雨が再び降り始めていた。

その雨音に混じって、紙コップから最後の声が聞こえた。

「ねえ、紗季ちゃん」

声は、昨日よりも近かった。

「七人目を、さがして」

カラン。

赤い糸が、暗い書架の奥へと、ゆっくり引き込まれていった。

第3節 机の裏の七つ目の名前

「七人目を、さがして」

白い紙コップから聞こえた声は、それきり途絶えた。

紗季は、しばらく受話器を耳から離せなかった。

校舎の窓の外では、風に揺れた木々が乾いた音を立てている。夕方の光は廊下の床を斜めに照らし、古いワックスの剥がれた部分を、まるで水に濡れた跡のように浮かび上がらせていた。

七人目を探す。

その言葉を、紗季は頭の中で繰り返した。

出席簿には七瀬小夜という名前が現れた。しかし、その名前が記されているのは最初のページだけだった。日々の出欠記録には、彼女の痕跡がない。

学級日誌には、児童の一名について保護者に連絡したと書かれている。けれど、誰についての連絡だったのかを示す別紙は失われていた。

六人の机しか描かれていない教室の絵には、「さよちゃんのいす」という言葉が残っている。

そして、机の裏に貼られていたらしい紙片には、こう書かれていた。

――七人目は、わたしじゃない。

小夜が自分自身を否定したのか。

それとも、別の誰かの存在を訴えたのか。

紗季には、まだわからなかった。

ただ、あの声が本当に小夜のものだったとしても、彼女の言葉をそのまま事実として受け取ることはできない。声が聞こえたことと、その声が語った内容が真実であることは、同じではないのだ。

記録整理の仕事をしてきた紗季は、そう自分に言い聞かせた。

記録は嘘をつく。

しかし、記録を作った人間が嘘をつくのだ。

紙そのものが、自分の意思で何かを隠すわけではない。

そう考えていなければ、目の前で起きていることを調べ続けることなどできなかった。

紗季は紙コップを棚の上に戻した。

赤い糸は、壁の穴へと消えている。

引っ張ってみたいという衝動が、指先をかすめた。

糸の先に何があるのか。

壁の向こうに空間があるのか。それとも、ただ古い配線や断熱材に絡まっているだけなのか。

確かめることはできる。

けれど、今はやめておこうと思った。

この電話が何なのかを調べるよりも先に、七人目の正体を確かめる必要がある。

紗季はノートを開き、中央に大きく「七人目」と書いた。

その下に、今まで見つけたものを一つずつ並べていった。

七瀬小夜。

さよちゃんのいす。

七人目は、わたしじゃない。

そして、七人目を、さがして。

書き終えたところで、紗季はペンを止めた。

机の裏。

ふいに、その言葉が頭に浮かんだ。

教室の絵に残された「さよちゃんのいす」。あの絵は、誰かが実際に教室で見たものを描いたのではないか。

もしそうなら、描かれた六つの机とは別に、もう一つの机があった可能性がある。

その机が、どこかに残されているとしたら。

紗季は立ち上がった。

*

翌朝、紗季は校舎に入ると、まず六年一組が使っていた教室へ向かった。

閉校が決まってから、教室の備品は少しずつ運び出されている。壁には掲示物を剥がした跡が残り、窓際には、処分を待つ古い椅子が二脚重ねられていた。

教室の中央には、整理作業のために残された机が四つ並んでいる。

どれも天板には細かな傷があり、脚の金属部分には錆が浮いていた。

紗季は一つ目の机を引き寄せ、しゃがみ込んだ。

裏側には、鉛筆で書かれた数字や、意味のない線がいくつも残っている。

丸が三つ並んだ落書き。

消しかけの名前。

定規で引いたような直線。

子どもたちが授業中に、教師の目を盗んで書いたものだろう。

紗季は懐中電灯を当てながら、天板の裏を端から端まで調べた。

二つ目。

三つ目。

四つ目。

どの机にも、七瀬小夜という名前はなかった。

そもそも、この机が平成十六年度に使われていたものかどうかもわからない。脚の裏に貼られた備品管理シールには、購入年度が平成二十年と記されているものもあった。

探す場所が違うのかもしれない。

紗季は顔を上げ、教室の奥を見た。

窓際に、もう一つ机がある。

ほかの机よりも古く、天板の角が大きく欠けていた。脚の一本には、白い塗料が何度も塗り重ねられている。

処分対象の備品をまとめた一覧表には、その机の番号がなかった。

管理番号がないのではなく、最初から一覧表に記載されていないのだ。

紗季は机に近づき、天板の縁を指でなぞった。

ざらりとした木の感触。

欠けた角に、何かが引っかかった。

細い赤い繊維だった。

紗季は息を止めた。

繊維は、机の縁にできた小さな割れ目から伸びている。赤い糸電話の糸と同じ色に見えたが、これだけで同じものだと断定することはできない。

紗季は手帳から透明な保護シートを取り出し、繊維を傷つけないようにそっと覆った。

それから、机の下に潜り込んだ。

天板の裏側には、無数の傷があった。

鉛筆で書かれた文字。刃物で刻まれたような線。何かを貼り付けていたらしい四角い跡。

その中央より少し右側に、黒ずんだ文字が見えた。

紗季は懐中電灯の角度を変えた。

最初は、ただの傷にしか見えなかった。

しかし、光を横から当てると、木の表面に刻まれた文字の輪郭が浮かび上がった。

――ななせ。

その下には、少し小さな字で、

――さよ。

と刻まれていた。

紗季は動けなくなった。

七瀬小夜。

その名前が、出席簿や学級日誌のような公式の記録ではなく、子どもが自分の机に刻んだ文字として残っている。

これは、誰かが後から出席簿に書き加えた名前とは違う。

少なくとも、机に刻まれた傷は、紙に書かれた文字よりも簡単には差し替えられない。

紗季はスマートフォンを取り出し、机全体と名前の部分を撮影した。定規を添え、文字の大きさがわかる写真も残す。

そして、さらに懐中電灯を動かした。

名前のすぐ下に、別の文字があった。

こちらは、かなり深く刻まれている。

――みずの。

水野。

紗季はその文字を見つめた。

七瀬小夜の名前の下に、なぜ別の名字があるのだろう。

同じ机を使った別の児童が、自分の名前を刻んだのかもしれない。あるいは、小夜が誰かの名前を残したのかもしれない。

文字の周囲には、何度も削ろうとしたような跡があった。

刃物で表面を削り、その上から鉛筆で何かを書き、また消したようにも見える。

けれど、「みずの」という文字は完全には消えていなかった。

紗季はその下を調べた。

すると、さらに小さな文字が見つかった。

――あき。

水野あき。

そう読めた。

紗季は、手帳に名前を書き写した。

七瀬小夜。

水野あき。

二つの名前が、一つの机に残されている。

その瞬間、紗季は昨日の紙片を思い出した。

――七人目は、わたしじゃない。

もし、机に刻まれた名前が二人分あるのなら。

七瀬小夜は、本当に「七人目」だったのだろうか。

あるいは、七人目と呼ばれていたのは、水野あきという別の子どもだったのではないか。

その仮説を裏付けるものは、まだ何もない。

だが、少なくとも、調べるべき名前が一つ増えた。

紗季は机の脚に貼られた古い紙片を見つけた。

剥がれかけたシールには、かすかに「六年一組」と読める文字が残っている。

その下の数字は、半分が削れていた。

六。

それとも、七。

紗季が紙片に触れようとしたとき、背後で声がした。

「何をしているんですか」

紗季は勢いよく振り返った。

教室の入口に、白石校長が立っていた。

*

「古い机の確認です」

紗季は、できるだけ平静な声で答えた。

「処分する備品と、保存する備品を分ける必要がありますから」

「その机は、もう使っていないはずです」

白石校長は教室に入ってきた。

彼女の視線は、紗季ではなく、窓際の机に向けられていた。

「管理台帳にも載っていませんでした。備品番号がないんです」

「古いものですから。記録が残っていないのでしょう」

「いつからここにあるんですか?」

「さあ……。私が赴任したときには、すでにあったと思います」

校長の返事は滑らかだった。

けれど、彼女は机に近づこうとしなかった。

紗季は、そのことに気づいていた。

「裏側に名前が刻まれていました」

白石校長の表情が、ほんのわずかに変わった。

「名前?」

「七瀬小夜。それから、水野あき」

沈黙が落ちた。

校長の唇が、わずかに開いた。

しかし、彼女は何も言わなかった。

「ご存じですか?」

「……七瀬小夜という名前は、先日も聞きましたね」

「はい。出席簿にもありました」

「水野あきという子は、記憶にありません」

校長はそう言ってから、初めて紗季を見た。

「紗季さん。記録整理の仕事は、古いものをすべて掘り起こすことではありません」

「どういう意味でしょうか」

「保存すべきものを残し、必要のないものを整理する。それが今回の仕事です。記録の中には、個人情報もありますし、すでに役割を終えたものもあります」

「この机も、必要のないものですか?」

「そうは言っていません」

「では、なぜ台帳にないんでしょう」

校長は答えなかった。

教室の外から、廊下を歩く音が聞こえた。

誰かが近づいてくる。

白石校長は、入口のほうへ顔を向けた。

「この机については、私が確認しておきます。写真も、整理資料に入れる前に見せてください」

「写真を見て、何を確認されるんですか?」

「記録として残してよいものかどうかです」

その言い方が、紗季には引っかかった。

机に刻まれた名前を、記録として残してよいかどうか。

まるで、その名前が存在していること自体に、何か不都合があるかのようだった。

「わかりました。ただ、写真は作業記録として保存します」

「紗季さん」

校長の声が少し低くなった。

「この学校には、いろいろな事情がありました。今になって、誰かを傷つけるようなことになってほしくないんです」

「誰かを傷つける?」

「昔のことを、今の人間がすべて理解できるとは限りません」

「理解できないことと、なかったことにするのは違います」

言ってから、紗季自身が驚いた。

校長は、すぐには返事をしなかった。

やがて、机の刻み傷を見ないまま、小さく言った。

「……そうですね」

それは同意にも、諦めにも聞こえた。

校長が教室を出ていくと、紗季はしばらく動けなかった。

彼女は何かを知っている。

少なくとも、七瀬小夜という名前を聞いたときの反応は、単なる初耳のものではなかった。

けれど、何を知っているのかはわからない。

小夜の存在そのものなのか。

水野あきという名前なのか。

それとも、二人の名前が同じ机に刻まれている理由なのか。

紗季は、もう一度机の裏を見た。

名前の横に、細い線が一本刻まれている。

その線は、文字を区切るように斜めに走り、端のほうで小さな丸になっていた。

紗季は目を細めた。

これは、ただの落書きではない。

何かの印かもしれない。

しかし、意味を判断するには材料が足りなかった。

紗季は机を元の位置に戻し、教室を出た。

*

昼休み、紗季は職員室で、平成十六年度の児童名簿をもう一度確認した。

六年一組の在籍児童は六人。

そのうち、転校した児童は一人もいない。

卒業名簿にも、六人の名前しかなかった。

ところが、卒業アルバムの注文数を記録した古い帳簿には、気になる数字があった。

児童用アルバムの注文数、六。

教職員用、二。

予備、二。

合計、十冊。

六人しかいないクラスなら、児童用六冊という数は不自然ではない。

だが、予備が二冊もある。

しかも、別の年度の帳簿を調べると、予備の数はほとんどが一冊だった。

紗季は、アルバムの保管場所を確認した。

棚には、平成十六年度の卒業アルバムが七冊並んでいた。

児童用と教職員用の区別はない。

表紙はどれも同じで、名前も書かれていなかった。

七冊。

注文帳簿の予備を含めれば、説明はつく。

それでも、紗季は七冊目から目を離せなかった。

六人の児童しかいなかったはずのクラスに、七冊の卒業アルバムが残っている。

偶然だろうか。

予備の一冊が、何らかの理由で使われなかっただけかもしれない。

紗季は七冊を一冊ずつ確認し、ページをめくった。

どのアルバムにも、六年一組の集合写真が載っていた。

六人の子どもたち。

担任の黒田佳代。

教室の後ろには、花紙で飾られた掲示物がある。

しかし、写真の右端には、妙な余白があった。

児童たちは整列しているのに、そこだけ不自然に空いている。

紗季は、最初に見た廊下の写真を思い出した。

右端の空白。

あの写真だけでは、撮影時に誰かが立ち位置を外したのだと思っていた。

けれど、アルバムの写真も同じだった。

別のページには、運動会の写真があった。

六人が校庭で並び、その後ろに担任が立っている。

こちらにも、列の端に不自然な空きがある。

そして、学芸会の写真。

舞台の上には六人の子どもたち。

背景の幕には、七つの星が描かれていた。

紗季はページをめくる手を止めた。

星は七つある。

子どもは六人しかいない。

舞台の飾りとして星を七つ描いただけかもしれない。

だが、写真の下に印刷された説明文が目に入った。

『六年一組 星の約束』

紗季は、写真を机の上に置いた。

星の約束。

その言葉に、理由もなく胸がざわついた。

彼女は、アルバムの最後のページを開いた。

そこには、卒業生一人ひとりの短い言葉が載っていた。

六人分。

どれも、将来の夢や学校生活の思い出を綴ったものだった。

しかし、最後のページの右下に、印刷のかすれた部分があった。

紙を傾けて光に当てると、消し残された文字のようなものが浮かび上がった。

――みんなで、また。

その後ろは、破れたように欠けていた。

紗季はページを指で押さえ、角度を変えた。

文字の下には、薄い鉛筆の跡が残っている。

消された言葉は、まだ続いていた。

――七人で。

紗季は、思わず息をのんだ。

誰が書いたのだろう。

卒業生の一人が、印刷原稿に書き加えたのか。

それとも、もともと七人分の言葉があり、何らかの理由で一人分だけが削られたのか。

確かめるには、原稿や印刷会社の記録が必要だ。

紗季はアルバムの表紙を閉じ、七冊を並べ直した。

そのとき、いちばん奥の一冊だけ、背表紙の下端に赤い点があるのに気づいた。

インクの染みかと思い、近づいてみる。

赤い点は、細い糸で縫い留められた跡だった。

背表紙の布の内側に、赤い繊維が一本、挟まっている。

紗季は指を止めた。

また、赤い糸だ。

偶然にしては、繰り返しすぎている。

出席簿に挟まれた紙片。

古い机の縁。

そして、卒業アルバムの背表紙。

赤い糸は、学校のあちこちに残っている。

しかし、どれも同じ一本の糸につながっているとは限らない。

紗季は、糸に触れず、写真だけを撮った。

その直後、背後で電話が鳴った。

職員室の固定電話だった。

紗季が顔を上げると、誰も受話器を取ろうとしなかった。

二度目の呼び出し音が鳴る。

職員室にいた教員たちは、互いに目を合わせた。

三度目。

ようやく、事務職員の女性が受話器を取った。

「はい、月影小学校です」

短い沈黙。

「……え?」

女性の顔から、血の気が引いていった。

「いえ、こちらには、そのような児童は……」

そこで、彼女は言葉を切った。

受話器を握る手が震えている。

「すみません。もう一度、お名前をお願いします」

紗季は立ち上がった。

女性は、何かを聞いている。

そして、ゆっくりと紗季を見た。

「水野……あきさん、ですか?」

職員室の空気が凍った。

受話器の向こうから、何かが聞こえている。

女性は、何度も頷いた。

「はい。ですが、卒業生の名簿には……」

その言葉を口にした瞬間、電話が切れた。

女性は受話器を戻せずにいた。

紗季は、彼女のそばに駆け寄った。

「今の電話、誰からですか?」

「わかりません。名乗らなかったんです」

「何と言っていました?」

女性は首を横に振った。

「古い卒業アルバムについて、確認したいことがあるって……」

「水野あきさんの名前を言っていましたよね」

女性は、ためらいながら頷いた。

「『自分の名前が、まだ残っているか』と聞かれました」

紗季は、背中に冷たいものが走るのを感じた。

「声は、どんな声でしたか?」

「若い女性……だと思います。でも、電話が少し遠くて。最後に、こう言ったんです」

女性は唇を湿らせた。

「『今度こそ、七人で卒業したい』って」

*

その日の作業を終えた紗季は、校舎を出る前に、もう一度だけ六年一組の教室に戻った。

夕方の光はすでに弱まり、窓ガラスには教室の中がぼんやりと映っている。

紗季は窓際の古い机の前に立った。

水野あき。

名前を口にすると、どこかで聞いたことがあるような気がした。

けれど、記憶をたどろうとすると、頭の奥に薄い霧がかかる。

小学校時代の記憶は、もともと曖昧だ。

誰と同じクラスだったのか。誰と遊んだのか。何を怖がり、何を好きだったのか。

覚えていることもあれば、忘れてしまったこともある。

それでも、名前だけは残ることがある。

名前は、誰かが誰かを呼ぶためのものだ。

呼ぶ人がいなくなれば、名前は記録の中に閉じ込められる。

記録からも消されてしまえば、その人を知っている誰かの記憶だけが、最後の居場所になる。

紗季は机の下に潜り、もう一度、刻まれた文字を見た。

七瀬小夜。

水野あき。

その二つの名前の間には、細い線が刻まれている。

今朝は気づかなかったが、線の先には小さな文字があった。

傷が浅く、読み取りにくい。

紗季は懐中電灯を当て、角度を変えた。

そこに書かれていたのは、短い一文だった。

――あきちゃんのぶんも、あけておいて。

紗季は、ゆっくりと立ち上がった。

小夜は、誰のために席を空けていたのだろう。

水野あきのためか。

それとも、まだ名前のわからない、別の誰かのためか。

机の横に置かれた椅子を引くと、床に細い傷が伸びているのが見えた。

椅子を何度も動かした跡だ。

その傷は、机の前から少し離れた場所まで続いていた。

さらに、もう一つ。

床には、別の椅子が置かれていたような四角い跡がある。

紗季は、二つの跡を見比べた。

ここには、少なくとも一つ、今は存在しない椅子があったのかもしれない。

いや、椅子だけではない。

この教室には、記録に残らなかった誰かの席があったのだ。

紗季は教室を出ようとした。

そのとき、廊下の奥から、子どもの足音が聞こえた。

とん。

とん。

とん。

一定の間隔で、こちらへ近づいてくる。

紗季は入口を見た。

誰もいない。

足音は、廊下の曲がり角で止まった。

そして、教室の外から、女の子の声がした。

「ねえ」

紗季は返事をしなかった。

「ねえ、紗季ちゃん」

声は、確かに自分の名前を呼んでいた。

紗季は、ゆっくりと入口へ向かった。

廊下には、誰もいない。

窓の向こうに、校庭の遊具が見える。

ブランコが、風もないのに小さく揺れていた。

紗季は、教室へ戻った。

古い机の天板の裏に、赤い糸が垂れている。

朝には、なかったはずだ。

糸の先には、小さな紙片が結びつけられていた。

紗季はそれを外した。

紙片には、子どもの字で名前が一つ書かれていた。

――みずの あき。

その下には、もう一行。

――わたしのこと、まだおぼえてる?

紗季は紙片を握りしめた。

その瞬間、教室の後ろで椅子が床を擦る音がした。

ぎい、と。

振り返る。

窓際の机の隣に、椅子が一脚置かれていた。

さっきまで、そこには何もなかった。

椅子の背もたれには、赤い糸が結ばれている。

その糸は、机の裏を通り、教室の壁際へと伸びていた。

そして、床に残る四角い跡の中央で、ぷつりと途切れていた。

紗季は息を止めた。

椅子の座面に、白い紙コップが置かれている。

赤い糸が、底の小さな穴を通っていた。

紙コップの側面には、震えるような字で、こう書かれていた。

――あき。

紗季は近づかなかった。

それでも、紙コップの奥から、小さな声が聞こえた。

「もしもし……」

それは、昨日聞いた声とは違っていた。

泣くのをこらえているような、かすれた声だった。

「小夜ちゃんは、まだいる?」

紗季は答えられなかった。

紙コップの向こうで、女の子が息を吸う音がした。

「ねえ……」

声が、少しだけ近くなる。

「小夜ちゃんが、七人目だったことにしないで」

紗季の手から、手帳が落ちた。

床に開いたページには、彼女が朝から書き続けていた二つの名前が並んでいた。

七瀬小夜。

水野あき。

その間に、赤い糸のような一本の線が、いつの間にか引かれていた。

紗季は、線を見つめた。

誰が引いたのか。

いつ引かれたのか。

わからない。

ただ、線の先には、もう一つの空白があった。

名前を書くための、細長い空白。

紗季がそれを見つめていると、紙コップから最後の言葉が聞こえた。

「七人目の名前は……まだ、そこにあるよ」

直後、教室の照明が消えた。

暗闇の中で、椅子が一脚、ゆっくりと床を引きずる音がした。

ぎい。

ぎい。

そして、紗季のすぐ後ろで、誰かが囁いた。

「紗季ちゃんの席も、あけてあるからね」

紗季は振り返らなかった。

暗闇の向こうで、子どもたちが一斉に笑った気がした。

けれど、その笑い声は、すぐに消えた。

残ったのは、机の裏に刻まれた二つの名前と、まだ誰のものでもない空白だけだった。

 

第4節 夜の教室から聞こえる声

「紗季ちゃんの席も、あけてあるからね」

その声が消えたあとも、紗季はしばらく動けなかった。

教室の照明は落ちたままだった。

窓の外には、山の稜線に沈みかけた夕日が残っている。赤黒い光が床に細長く伸び、机や椅子の脚を影絵のように浮かび上がらせていた。

さっきまで、確かに聞こえていた。

子どもの声。

椅子を引く音。

そして、紙コップの奥から呼びかけてきた、誰かの声。

紗季は息を整えながら、手探りで壁のスイッチを押した。

明かりが戻る。

教室には、誰もいなかった。

窓際の古い机。その隣に置かれていた椅子も、白い紙コップも、赤い糸も、すべて消えていた。

最初から何もなかったかのように。

ただ、紗季の手には、一枚の小さな紙片が残っていた。

――みずの あき。

紙片を握りしめた指先が、じっとりと汗ばんでいる。

紗季は、床に落ちた手帳を拾った。

ページには、七瀬小夜と水野あきという二つの名前が並んでいる。二つの名前をつなぐように引かれていた赤い線は、もうなかった。

だが、鉛筆で書いた覚えのない文字が、その下に増えていた。

――六人で、かえった。

紗季は、何度もその文字を読み返した。

誰が帰ったのか。

どこから帰ったのか。

そして、誰が帰らなかったのか。

問いを重ねても、答えは見つからない。

紗季は手帳を閉じ、教室の扉を開けた。

廊下には、いつもの古い校舎の匂いが漂っていた。埃と木材と、長い間使われていない部屋にこもる湿気の匂い。

職員室へ向かう途中、紗季は何度も後ろを振り返った。

誰もいない。

それでも、背後から視線を向けられているような感覚が消えなかった。

校門を出たとき、空はすっかり暗くなっていた。

車に乗り込み、エンジンをかける。

その瞬間、後部座席から、かすかな音がした。

こつん。

何かが窓を叩いたような音だった。

紗季は振り返った。

後部座席には、仕事用の鞄しかない。

窓の外にも、誰もいなかった。

彼女はすぐに車を発進させた。

バックミラーに映る月影小学校は、暗い山の麓に沈み込んでいた。

校舎の二階。

六年一組の教室だけに、明かりがついているように見えた。

紗季はブレーキを踏みかけた。

けれど、次の瞬間には、その窓は真っ暗になっていた。

見間違いだったのだろうか。

紗季は、もう一度アクセルを踏んだ。

今度は、振り返らなかった。

*

翌朝、紗季はいつもより早く学校に着いた。

昨日の出来事を、夢だったことにしたかった。

疲労と緊張が重なり、古い校舎の薄暗さに気持ちが引きずられただけ。

紙コップから声が聞こえたのも、照明が消えたのも、何か理由があるはずだ。

そう考えようとした。

しかし、鞄から取り出した手帳には、昨日の夜に見た文字が残っていた。

――六人で、かえった。

紗季は、そのページを開いたまま、しばらく動けなかった。

自分で書いた覚えはない。

筆跡も、いつもの自分の字とは違っていた。

文字は丸く、ところどころ線が震えている。小学生が鉛筆で書いたような字だった。

紗季は、スマートフォンでページを撮影した。

その後、机の裏で撮影した写真を開き、刻まれた文字を拡大する。

七瀬小夜。

水野あき。

どちらも、昨日見たとおりだった。

写真のデータは残っている。

少なくとも、机に名前が刻まれていたことは、自分の思い込みではない。

紗季は、仕事用のノートに昨日の出来事を時系列で書き出した。

午後三時過ぎ、古い机の裏に二つの名前を発見。

その後、白石校長が現れ、机について質問。

昼休み、平成十六年度の卒業アルバムを確認。

夕方、六年一組の教室で紙コップの声を聞く。

照明が消えたあと、椅子と紙コップが消失。

最後に、手帳に覚えのない文字が出現。

記録を整理することで、感情と事実を切り離そうとした。

けれど、書けば書くほど、奇妙なことに気づかされる。

紙コップは、昨日だけでも何度も現れている。

しかし、現れるたびに、言葉が違った。

最初は「もしもし」。

次に「みつけた?」

そして、「わたしの、なまえ」。

さらに「七人目を、さがして」。

最後には、「七人目の名前は、まだそこにあるよ」。

それらは、質問に答えるというより、紗季の行動を見ている誰かが、その都度、短い言葉を置いていくようだった。

まるで、こちらが何を見つけるかを待っているように。

紗季はノートを閉じた。

今日、調べるべきことは決まっていた。

水野あき。

七瀬小夜。

この二人が、実際に月影小学校に在籍していたのかどうか。

そして、なぜ六人しかいないはずのクラスに、七人目の席があったのか。

*

午前九時、紗季は事務室で、白石校長に面会を申し込んだ。

校長は、来客用の机に二冊のファイルを置いていた。

「昨日の机のことですね」

紗季が口を開く前に、校長は言った。

「はい。水野あきという名前について、確認したいことがあります」

「昨日も申し上げましたが、その名前には心当たりがありません」

「では、平成十六年度の児童名簿を、もう一度確認させてください」

校長はわずかに眉を寄せた。

「すでに確認したのでは?」

「確認しました。ただ、名簿に名前がないことと、その児童が存在しなかったことは同じではありません」

「……どういう意味ですか」

「転校や転入、長期欠席、記録の訂正など、名簿に名前が残らない理由はいくつも考えられます。卒業アルバムの注文数も、予備を含めて十冊でした。机の裏には、二人分の名前が刻まれていました」

紗季は、スマートフォンの画面を校長に向けた。

机の裏の写真。

七瀬小夜。

水野あき。

白石校長は、写真を見た。

ほんの数秒だった。

それでも、紗季にはわかった。

校長は、「水野あき」という名前を初めて見た人の反応をしていなかった。

彼女は画面から目を逸らし、ゆっくりと息を吐いた。

「古い学校には、いろいろなものが残っています。子どもたちの落書きも、その一つです」

「落書きとして処分するのですか?」

「そういう意味ではありません」

「では、何として残すべきでしょうか」

校長は答えなかった。

紗季は続けた。

「校長先生は、昨日、昔のことを掘り起こしても、誰かを傷つけるだけかもしれないとおっしゃいました」

「ええ」

「それは、誰のことですか?」

校長の目が、紗季を見た。

「……昔の児童たちです」

「七瀬小夜さんですか。それとも、水野あきさんですか」

沈黙。

校長は、机の上に置かれたファイルを閉じた。

「紗季さん。あなたは、どうしてそこまで知りたいのですか」

逆に問われ、紗季は少し考えた。

「記録を整理するためです」

「それだけですか?」

「それだけでは、ないのかもしれません」

紗季は、正直に答えた。

「誰かがいたのに、いなかったことになっている。それが、どうしても気になるんです」

校長は、目を伏せた。

「……そういうことは、あります」

「あります、というのは?」

「記録から名前が消えても、その人が生きていた事実まで消えるわけではありません」

校長の声は静かだった。

しかし、そこには、これまでの説明とは違う重さがあった。

「校長先生は、七瀬小夜さんを知っているんですね」

紗季が尋ねると、校長はすぐには否定しなかった。

やがて、彼女は窓の外に目を向けた。

「私は、平成十六年には、この学校にいませんでした」

「はい。着任されたのは、その後ですね」

「だから、当時のことを直接知っているわけではありません」

「では、なぜ……」

「記録を引き継いだからです」

校長は、机の引き出しから薄い封筒を取り出した。

封筒の表には、鉛筆で「旧校舎・平成十六年度」と書かれている。

「これは、私が前任者から受け取ったものです。正式な引き継ぎ資料には含まれていませんでした。閉校が決まったとき、整理しておこうと思っていました」

封筒を開くと、中には数枚の紙が入っていた。

古い校内連絡票。

建物の修繕に関する書類。

そして、折り畳まれた一枚の手紙。

紗季は、連絡票の文字を追った。

平成十六年五月二十七日。

六年一組。

児童の一名について、保護者と連絡。

詳細は別紙参照。

学級日誌に残っていた記述と同じだった。

しかし、連絡票には、学級日誌にはなかった欄がある。

「連絡対象児童」の欄だ。

その部分には、何かが貼り付けられていた。

紙片を剥がした跡が、四角く残っている。

「この連絡票は、どこから?」

「旧校舎の書庫です。前任者が、処分せずに残していたようです」

「貼られていたものは?」

「わかりません。剥がした跡だけが残っています」

紗季は連絡票を持ち上げ、裏面を確認した。

何も書かれていない。

しかし、紙の中央に、筆圧によるわずかな凹凸が残っていた。

上に別の紙を重ねて書いたときにつく、文字の跡だ。

紗季は、斜めから光を当てた。

すべてを読むことはできない。

それでも、文字の一部が浮かび上がった。

――ななせ。

その下に、もう一つ。

――みずの。

紗季は、校長を見た。

「この二人の名前が、同じ書類に書かれていた可能性があります」

校長は、返事をしなかった。

封筒の中には、まだ手紙が残っている。

紗季は、そちらに目を向けた。

「こちらは?」

「前任者が残したものです。私も、まだ読んでいません」

「読んでもよろしいですか?」

校長は、少し迷ってから頷いた。

手紙の紙は黄ばんでいた。

宛名はない。

差出人の名前もない。

本文は、短かった。

『あの日のことを、これ以上、子どもたちに話さないでください。

あの子たちは、もう十分に苦しみました。

七人いたことを認めれば、誰かが責任を取らなければならなくなります。

だから、六人で卒業したことにしてください。

あの子の名前は、もう書かないでください。

お願いします。』

紗季は、手紙を読み終えても、すぐには顔を上げられなかった。

七人いたことを認めれば、誰かが責任を取らなければならない。

六人で卒業したことにしてください。

あの子の名前は、もう書かないでください。

これは、誰かの記憶違いではない。

誰かが、意図的に七人目を消そうとしていた。

「校長先生」

紗季は、手紙を机に置いた。

「この手紙は、誰が書いたのでしょうか」

「わかりません」

「前任者は、何も言っていなかったんですか?」

「何も。ただ、処分せずに残すようにと言われました」

「なぜ、これを私に見せてくださったんですか?」

校長は、しばらく紗季を見つめた。

「あなたが、もう見つけてしまったからです」

その言葉は、紗季の胸に重く落ちた。

見つけてしまった。

まるで、見つけるべきではなかったものを見つけたかのように。

*

午後、紗季は学校の記録を確認するため、旧校舎の書庫へ向かった。

白石校長から預かった封筒のほかに、当時の修繕記録や備品台帳を調べる必要があった。

書庫は、校舎の北側にある。

窓が小さく、昼間でも薄暗い。

棚には、古い出席簿や学級日誌、職員会議の記録が年度別に並んでいた。

紗季は平成十六年度の箱を取り出した。

箱の側面には、「保存期間満了・廃棄候補」と書かれている。

その中から、修繕記録の束を見つけた。

旧校舎東側の使用制限。

廊下の床板交換。

教室の壁面補修。

そして、六月十八日付の工事完了報告書。

前に見た記録と同じだった。

紗季は、その前後の書類を一枚ずつ確認した。

工事の見積書。

作業員の名簿。

使用した資材の一覧。

建物の簡単な見取り図。

その見取り図を見たとき、紗季は手を止めた。

現在の校舎とは、部屋の配置が違っている。

東側の廊下の突き当たりに、小さな部屋が描かれていた。

部屋の名前は書かれていない。

ただ、そこには四角い枠と、出入口を示す線がある。

紗季は、現在の校舎の見取り図を取り出して重ねた。

その場所は、今では壁になっている。

旧校舎の一部が改修された際に、出入口が塞がれたのだろう。

だが、工事完了報告書には、その部屋の存在が記されていなかった。

図面にはあるのに、報告書にはない。

紗季は、見取り図を裏返した。

裏面に、鉛筆で書かれた文字が残っていた。

――机、一脚。

その下に、小さく数字が書かれている。

七。

紗季は、書類を机の上に置いた。

机が一脚。

数字は七。

これが何を意味するのかは、まだわからない。

ただ、あの古い机が、ここにあった可能性は高い。

そして、六人しかいないはずの教室とは別に、もう一つの部屋が存在していた。

その部屋に、誰かが座っていたのだろうか。

紗季は、見取り図をスマートフォンで撮影した。

そのとき、書庫の奥から音がした。

かたん。

棚のどこかで、ファイルが倒れたような音だった。

紗季は顔を上げた。

「誰かいますか?」

返事はない。

書庫には、紗季以外の人間はいないはずだった。

彼女は懐中電灯を手に取り、棚の間を進んだ。

奥の棚の前に、一冊のファイルが落ちていた。

背表紙には、何も書かれていない。

紗季が拾い上げると、表紙の内側に小さな紙片が挟まっていた。

紙片には、子どもの字で、こう書かれていた。

――夜になったら、七人であつまろう。

紗季は、紙片を見つめた。

その下には、日付が書かれている。

平成十六年五月二十七日。

学級日誌に、児童の一名について保護者へ連絡したと記されていた日だった。

紗季は、ファイルを開いた。

中身は、古い児童作品の保管記録だった。

図工の作品。

作文。

学級新聞。

しかし、どの記録にも、作者の名前は六人分しかない。

最後のページに、一枚の写真が貼られていた。

教室の床に、七つの椅子が円形に並べられている。

椅子の中央には、白い紙コップが一つ。

その底から、赤い糸が伸びている。

写真の裏には、短い説明があった。

――六年一組 放課後の遊び。

作者の欄は、空白だった。

紗季は写真を裏返した。

裏側の隅に、鉛筆で小さな文字が書かれていた。

――ひとりだけ、帰れなかった。

その瞬間、書庫の奥から、はっきりと声が聞こえた。

「先生」

紗季は息をのんだ。

子どもの声だった。

「先生、まだ、みんな来てないよ」

棚の向こうに、誰かが立っている気配がした。

紗季は声を出せなかった。

「七人そろわないと、はじめられないの」

声は、少し不満そうだった。

まるで、友達との約束を待っている子どもが、遅れている誰かを気にしているようだった。

紗季は、ゆっくりと棚の角を回った。

そこには、誰もいなかった。

床には、古いファイルが一冊、開いたまま落ちている。

そのページには、六人の子どもの名前が並んでいた。

七番目の欄だけが、白く空いている。

紗季が目を落とした瞬間、その空白に、鉛筆で書いたような文字が浮かび上がった。

――水野あき。

紗季は後ずさった。

文字は、ゆっくりと薄くなり、やがて消えた。

残ったのは、何も書かれていない空白だけだった。

*

その日の夕方、紗季は佐伯を訪ねた。

校舎の裏手にある管理人室は、古い物置を改装した小さな部屋だった。

佐伯は、窓際の椅子に座り、湯飲みを両手で包んでいた。

「水野あきという子を、ご存じですか」

紗季が尋ねると、佐伯の指が止まった。

湯飲みの中で、茶が小さく揺れた。

「……また、その名前ですか」

「また?」

佐伯は、すぐに口を閉じた。

「誰かが、その名前を探しているんですか?」

「私が調べています」

「どうして」

「この学校に、いたかもしれないからです」

佐伯は、長い間、何も言わなかった。

やがて、窓の外に目を向けた。

「名前を探すのは、簡単です」

「え?」

「紙に書いてあるものを見つければいい。古い名簿でも、机の裏でも、誰かの手帳でも」

佐伯は、湯飲みを置いた。

「でも、その名前を呼んだとき、誰が返事をするかは、わからない」

紗季は、背筋が冷たくなるのを感じた。

「佐伯さんは、何を知っているんですか」

「何も知りません」

「では、どうしてそんなことを?」

佐伯は、紗季の目を見た。

その目には、疲れ切った人間の諦めがあった。

「昔、ここで働いていた人から聞いたんです。名前を呼んではいけない子がいる、と」

「七瀬小夜ですか。それとも、水野あきですか」

佐伯は答えなかった。

紗季は、もう一歩踏み込んだ。

「平成十六年五月二十七日、何があったんですか」

佐伯の顔から、表情が消えた。

「その日付を、どこで?」

「学級日誌に記録がありました。児童の一名について、保護者へ連絡したと」

「……そうですか」

「その日のことを、ご存じなんですね」

「知りません」

「では、どうして今、そんな顔をするんですか」

佐伯は、唇を噛んだ。

窓の外では、夕日が山の向こうに沈みかけていた。

「私は、あの日、学校にいました」

ようやく、佐伯は言った。

紗季は息を止めた。

「ただし、何が起きたのか、全部を見たわけではありません」

「何を見たんですか」

「子どもたちが、走っていたんです」

佐伯の声は、かすれていた。

「放課後でした。六人……いや」

そこで、彼は言葉を切った。

「何人でしたか?」

紗季が尋ねると、佐伯は目を閉じた。

「覚えていません」

「六人ですか。七人ですか」

「覚えていないんです」

佐伯は、両手で顔を覆った。

「ただ、一人だけ、戻ってこなかった」

部屋の中が、静まり返った。

紗季は、声を出すことができなかった。

「それが、誰だったのかも?」

やがて、紗季は尋ねた。

佐伯は首を横に振った。

「私は、名前を聞かなかった」

「どうしてですか」

「聞けば、忘れられなくなると思ったからです」

その答えは、紗季には理解できなかった。

名前を聞かなければ、忘れられるのだろうか。

いなかったことにすれば、罪は消えるのだろうか。

「佐伯さん。あの子は、どうなったんですか」

佐伯は、ゆっくりと顔を上げた。

「わかりません」

その声には、嘘をついている人間の強さはなかった。

ただ、何十年も同じ場所に立ち続けた人間の、深い疲労があった。

「でも、夜になると……」

佐伯は、窓の外を見た。

「教室から、声が聞こえることがあるんです」

紗季の心臓が、強く打った。

「どんな声ですか」

「子どもたちが、出席を取っている声です」

佐伯は、唇を震わせた。

「六人の名前を呼ぶんです」

「それから?」

「最後に、もう一人の名前を呼ぶ」

紗季は、机の上に置いた手帳を握りしめた。

「その名前は?」

佐伯は答えなかった。

代わりに、管理人室の古い時計が、五時を告げた。

その音に重なるように、校舎の奥から、かすかな声が聞こえた。

「……七瀬小夜さん」

紗季は、顔を上げた。

声は、遠い廊下から聞こえている。

続いて、別の声がした。

「……はい」

返事は、確かに聞こえた。

佐伯が立ち上がった。

湯飲みが床に落ち、乾いた音を立てて割れた。

「帰ってください」

彼は、紗季の腕をつかんだ。

「今すぐ、ここを出てください」

「でも、今の声は……」

「聞いてはいけない!」

佐伯の声が、部屋に響いた。

彼は、自分の声に驚いたように口を閉じた。

それから、ほとんど聞き取れないほど小さな声で言った。

「今夜は、七人そろってしまう」

*

紗季は、管理人室を出た。

校門へ向かう廊下を歩きながら、何度も背後を振り返った。

教室の窓は、すべて暗かった。

校庭にも、人影はない。

それなのに、校舎の奥から声が聞こえた。

「一番」

子どもの声だった。

「はい」

別の声が返事をする。

「二番」

「はい」

「三番」

「はい」

声は、規則正しく続いていく。

四番。

五番。

六番。

紗季は、歩みを止めた。

七人目の返事がない。

静寂が落ちた。

そして、誰かが言った。

「七番、七瀬小夜さん」

返事はなかった。

もう一度、名前が呼ばれた。

「七番、七瀬小夜さん」

今度は、違う声が答えた。

「……ちがうよ」

紗季の背中が凍りついた。

「わたしじゃない」

声は、泣きそうだった。

「わたしは、七番じゃない」

その瞬間、校舎のすべての窓に、明かりが灯った。

紗季は、走り出した。

校門を出て、車に乗り込む。

エンジンをかけようとしたとき、助手席の足元に、白い紙コップが置かれていることに気づいた。

底には、赤い糸が通っていた。

紙コップの側面には、子どもの字で名前が書かれていた。

――みずの あき。

紗季は、手を伸ばせなかった。

紙コップの奥から、小さな声がした。

「もしもし」

それは、今まで聞いたどの声とも違っていた。

幼いのに、ひどく疲れている。

長い間、誰にも名前を呼ばれなかった人間の声だった。

「ねえ、紗季ちゃん」

紗季は、唇を噛んだ。

「わたしの名前、見つけてくれた?」

返事をすることはできなかった。

すると、紙コップの向こうで、女の子が小さく笑った。

「ありがとう」

その声は、少しだけ明るかった。

けれど、次の言葉は、紗季の心を凍らせた。

「でもね……」

赤い糸が、紙コップの底で、かすかに揺れた。

「小夜ちゃんを、七人目にしちゃだめだよ」

紗季は、震える手で紙コップを持ち上げた。

その底には、見覚えのない小さな文字が刻まれていた。

――七人目は、まだ学校にいる。

その瞬間、校舎の二階から、子どもの声が響いた。

「八番!」

紗季は、顔を上げた。

声は、暗い教室から聞こえていた。

「……はい」

誰かが、返事をした。

それは、紗季自身の声だった。

第5節 わたしの席、まだある?

それは、紗季自身の声だった。

そうとしか思えなかった。

高くも低くもない、少し息の混じった声。驚いたときに語尾がかすれる癖まで、自分の声にそっくりだった。

けれど、紗季は返事をしていない。

車の中で紙コップを持ったまま、声を失っていたのだ。

では、誰が答えたのか。

校舎の二階から聞こえた「八番!」という呼びかけに、誰が「……はい」と返事をしたのか。

紗季は、フロントガラス越しに月影小学校を見つめた。

暗い校舎の窓が、いくつも並んでいる。

そのうちの一つ。

六年一組の教室の窓に、白いものが浮かんでいた。

人の顔のようにも見えた。

窓ガラスに紙を貼りつけているだけなのかもしれない。外灯の光が反射して、何かの形を作っているだけなのかもしれない。

そう思おうとした。

だが、白いものは、ゆっくりと横に動いた。

まるで、教室の中から、こちらを見ている誰かが首を傾けたように。

紗季は、紙コップを助手席の足元に置いた。

すぐに車のドアをロックする。

エンジンをかけ、アクセルを踏んだ。

校門を離れるまで、バックミラーを見なかった。

見てしまえば、また何かが映る気がした。

誰かが立っている。

誰かが手を振っている。

あるいは、あの窓に浮かんでいたものが、今度は車の後部座席に座っている。

そんな光景を想像してしまう自分が、何よりも怖かった。

家に着くと、紗季は玄関の明かりをつけ、鍵を二度確認した。

鞄を床に置き、靴も脱がずに壁にもたれかかった。

心臓が、まだ速く打っている。

仕事の疲れだけではない。

あの声を聞いた瞬間から、何かが自分の中に入り込んできたような感覚があった。

それは、声の記憶だった。

自分の声を、誰かに聞かれた。

いや。

自分の声を、誰かに使われた。

そう考えたほうが近い。

紗季は洗面所へ行き、蛇口をひねった。

水を手ですくい、顔を洗う。

鏡の中には、疲れた顔の自分が映っていた。

当然だ。

そこにいるのは、二十九歳の自分だ。

小学生でもなければ、平成十六年の教室にいた子どもでもない。

紗季は、鏡に映る自分の顔を見つめた。

「……はい」

小さく声に出してみる。

自分の声だった。

けれど、さっき聞いた返事と同じなのかどうか、自信が持てなかった。

声は、録音すれば客観的に確かめられる。

そう考え、紗季はスマートフォンを取り出した。

録音アプリを開き、もう一度「はい」と言った。

再生する。

聞き慣れた声が、部屋の中に流れた。

それを二度、三度と繰り返す。

違いはわからない。

だが、あの返事を聞いたときに感じた違和感だけは、消えなかった。

紗季は録音を止めた。

そのとき、スマートフォンの画面に通知が表示された。

保存した覚えのない音声ファイルが、一つ増えていた。

ファイル名は、数字だけだった。

「0527」。

紗季は息を止めた。

平成十六年五月二十七日。

学級日誌に、児童の一名について保護者へ連絡したと記されていた日。

そして、書庫で見つけた子どもの紙片に、「夜になったら、七人であつまろう」と書かれていた日付。

紗季は、指先を動かし、音声ファイルを開いた。

再生時間は、わずか八秒。

迷った末に、再生ボタンを押した。

最初に聞こえたのは、椅子を引く音だった。

ぎい。

続いて、机を叩くような音。

とん、とん。

そのあと、誰かが言った。

『一番』

少し離れたところから、子どもの声が返事をする。

『はい』

『二番』

『はい』

紗季は、画面を見つめたまま固まった。

録音の中では、出席確認が続いていた。

三番。

四番。

五番。

六番。

そこで、音が途切れた。

短い沈黙。

そして、聞こえた。

『八番』

その呼びかけに、誰かが答えた。

『……はい』

紗季はスマートフォンを落としかけた。

聞き間違いではない。

声の質も、息の混じり方も、返事の前のわずかな間も、先ほど校舎で聞いたものと同じだった。

録音の最後に、別の声が重なった。

『七番は?』

すると、誰かが答えた。

『いないよ』

そこで音声は終わった。

紗季は、すぐにもう一度再生した。

今度は、最後の部分だけを繰り返し聞いた。

『七番は?』

『いないよ』

誰の声なのか、判別できない。

声は複数あるようにも聞こえるし、一人の声が重なっているようにも聞こえた。

だが、一つだけ確かなことがあった。

七番が呼ばれていない。

八番が呼ばれているのに、七番だけが抜けている。

それは、今まで紗季が調べてきた記録と、奇妙なほど一致していた。

六人しかいない出席簿。

七人目の名前が書かれた机。

七つの椅子が並んだ写真。

そして、七人目を探せという声。

誰かが、七番の存在を隠している。

あるいは、七番という番号そのものが、何かを意味している。

紗季は、音声ファイルの詳細を確認した。

作成日時は、今日の午後五時二十七分。

紗季が校舎を出て、車に乗っていた頃だった。

しかし、ファイルの保存先は、紗季が仕事で使っているフォルダではなかった。

スマートフォンの録音アプリに、自動保存された形跡もない。

誰が作成したのか。

どうやって端末に保存されたのか。

紗季にはわからなかった。

それでも、音声を削除する気にはなれなかった。

彼女はファイルを別の場所に複製し、念のため、パソコンにも保存した。

そのあと、もう一度だけ再生ボタンを押した。

今度は、八秒の音声が終わったあとも、再生バーが動き続けた。

画面には、再生時間「00:09」と表示されている。

録音の長さは八秒のはずだった。

紗季は息を止めた。

九秒目。

何も聞こえない。

十秒目。

小さなノイズが入った。

そして、十一秒目。

かすれた声が聞こえた。

『……紗季ちゃん』

再生バーが止まった。

紗季は、スマートフォンを伏せた。

もう聞きたくなかった。

しかし、聞こえてしまったものを、なかったことにはできない。

誰かが自分の名前を知っている。

それだけなら、学校の名簿や仕事の書類を見ればわかる。

だが、あの声は、紗季を知っている人間が呼ぶような親しさを含んでいた。

まるで、ずっと昔からの友達に話しかけるように。

まるで、長い間、会えなかった相手を見つけたように。

紗季は、ゆっくりとスマートフォンを手に取った。

音声ファイルの名前を変更しようとして、指を止めた。

ファイル名の末尾に、見覚えのない文字が追加されていたからだ。

「0527_7」

七。

その数字を見つめているうちに、紗季の頭に、ふと一つの考えが浮かんだ。

七人目は、七瀬小夜でも水野あきでもないのかもしれない。

そもそも、七人目という呼び方が間違っているのではないか。

六人の子どもがいて、その外側に一人がいた。

その一人を七人目と呼んでいる。

だが、もし七人目が消されたのではなく、最初から番号を与えられていなかったのだとしたら。

あるいは、七番目の席に座る人間が、何度も入れ替わっていたのだとしたら。

紗季は、考えるのをやめた。

推測だけで結論を出してはいけない。

そう自分に言い聞かせ、音声ファイルを閉じた。

しかし、その夜、紗季はほとんど眠れなかった。

*

翌朝。

紗季は、いつもより三十分早く家を出た。

空は曇っていた。

山の上には低い雲がかかり、校舎の屋根が灰色の空に溶け込んでいる。

月影小学校の正門は、まだ閉じられていた。

紗季は鍵を使って門を開け、敷地内に入った。

校庭には、誰もいない。

ブランコも、鉄棒も、滑り台も、昨日と同じ場所にある。

ただ、校舎の窓だけが、妙に暗く見えた。

紗季は玄関の鍵を開け、廊下を進んだ。

昨日、子どもの声が聞こえた場所。

六年一組の教室。

そこへ向かう足取りは、自然と遅くなった。

扉の前に立つ。

中からは何も聞こえない。

紗季は、深く息を吸い、扉を開けた。

そして、立ち尽くした。

教室の中央に、机が並んでいた。

一つ。

二つ。

三つ。

四つ。

五つ。

六つ。

そして、その隣に。

七つ目の机が置かれていた。

紗季は、すぐには近づけなかった。

昨日まで、そこには何もなかった。

少なくとも、昨日の夕方、紗季が最後に教室を出たとき、七つ目の机は存在していなかった。

古い机は窓際に一つあったが、それとは別の机だった。

今、教室の中央に置かれている机は、ほかの六つと同じ大きさで、同じ色をしていた。

天板には、目立った傷がない。

脚にも錆が浮いていない。

まるで、誰かが昨日の夜に運び込み、丁寧に磨き上げたかのようだった。

紗季は教室の入口を振り返った。

廊下には誰もいない。

窓の鍵は、すべて閉まっている。

机を運び込むとすれば、玄関から入るしかない。

だが、昨日の夜、校舎の鍵を管理していたのは佐伯のはずだ。

紗季は、スマートフォンを取り出し、机の写真を撮った。

全体。

正面。

側面。

そして、天板の裏。

そのとき、机の側面に、小さなシールが貼られているのに気づいた。

備品管理用の番号ではない。

白いシールに、黒い文字で、数字が一つだけ書かれている。

――7。

紗季は、指先でシールに触れた。

紙は新しかった。

端も剥がれていない。

しかし、数字の七だけは、何度も書き直したように線が重なっていた。

紗季は、机の下を覗き込んだ。

そこには、鉛筆で書かれた名前があった。

七瀬小夜。

その下に、水野あき。

さらに、その下に、もう一つの名前が刻まれていた。

紗季は、息を止めた。

――みなせ さき。

自分の名前だった。

水瀬紗季。

どうして。

なぜ、自分の名前が、こんなところにあるのか。

紗季は、机から手を離した。

その名前は、明らかに古い傷の中に刻まれていた。

新しい鉛筆で書かれたものではない。

木の表面には、何年も前からそこにあったかのような黒ずみがある。

だが、紗季はこの学校に通ったことがない。

少なくとも、彼女の記憶にはない。

生まれ育った町も違う。

小学生の頃、月影という地名を聞いた覚えもない。

では、誰が自分の名前を刻んだのか。

誰が、二十九歳の自分を、七人目の席に結びつけたのか。

紗季は、机の裏を撮影した。

写真の画面には、三つの名前が並んでいる。

七瀬小夜。

水野あき。

水瀬紗季。

その下には、文字が刻まれていない。

けれど、木の表面には、細長い空白が残されていた。

まだ誰かの名前を書くために、空けられているような空白だった。

そのとき、教室の後ろで、扉が閉まる音がした。

ばたん。

紗季は振り返った。

入口の扉は、開いたままだった。

音がしたのは、教室の後方にある、古い物置の扉だった。

普段は使われていない。

取っ手には埃が積もり、扉の下には細い隙間がある。

紗季は、ゆっくりと近づいた。

物置の中には、古い教材や壊れた備品が詰め込まれている。

扉を開けると、紙の匂いと湿気が流れ出した。

中に、人影はなかった。

ただ、床の奥に、白い紙コップが一つ置かれていた。

底には、赤い糸が通っている。

紗季は、しばらくその場から動けなかった。

昨日、車の中で見た紙コップと同じだった。

側面には、子どもの字で、こう書かれていた。

――さきちゃん。

紗季は、目を閉じた。

もう、驚くことにも疲れていた。

それでも、紙コップを拾い上げることはできなかった。

やがて、奥から声が聞こえた。

「もしもし」

紗季は、ゆっくりと目を開けた。

「わたしの席、まだある?」

その声は、七瀬小夜のものなのか、水野あきのものなのか。

それとも、まだ名前のわからない誰かのものなのか。

紗季には、判断できなかった。

ただ、声の最後に、もう一つの声が重なった。

今度は、はっきりと聞こえた。

「紗季ちゃんの席も、あるよ」

紗季は、物置の奥を見つめた。

そこには、誰もいない。

なのに、床に積まれた古い教材の影に、子どもが一人、座っているように見えた。

小さな背中。

膝を抱えた姿。

そして、顔のあるはずの場所だけが、暗闇に沈んでいる。

紗季は、目を逸らした。

もう一度見たとき、その影は消えていた。

紙コップも、赤い糸も、そこにはなかった。

紗季は、物置の扉を閉めた。

教室の中央には、七つ目の机が置かれている。

その机の椅子だけが、ほかの六つと違い、少し後ろに引かれていた。

誰かが、今まさに立ち上がったかのように。

紗季は、机の前に立った。

そして、天板の上に、一枚の紙が置かれていることに気づいた。

白い紙。

中央には、子どもの字で、短い一文が書かれていた。

――わたしの席、まだある?

紗季は、その文字を見つめた。

返事をすることはできなかった。

だが、机の下から、鉛筆が転がる音がした。

ころん。

ころん。

鉛筆は、紗季の足元で止まった。

その先端は、机の下の空白を指していた。

そこには、まだ名前がない。

紗季は、ゆっくりとしゃがみ込んだ。

空白の木目を見つめる。

すると、何も刻まれていなかったはずの場所に、細い線が一本、浮かび上がった。

線は、ゆっくりと文字の形を作り始めた。

紗季は、声を出せなかった。

最初の一文字は、「み」。

次は、「な」。

そして、「せ」。

水瀬。

自分の名字が、木の表面に刻まれていく。

誰も触れていないのに。

誰も鉛筆を持っていないのに。

紗季は、後ずさった。

文字は、そこで止まった。

その下に、もう一つの名前が刻まれようとしていた。

「さ」。

紗季は、教室を飛び出した。

廊下を走り、職員室へ向かう。

誰かに見てもらわなければならない。

あの机が、本当に存在していることを。

自分の名前が、確かに刻まれていたことを。

しかし、職員室に着いたとき、白石校長はまだ出勤していなかった。

佐伯の姿もない。

事務室の机には、昨日まで使っていた備品台帳が置かれている。

紗季は、震える手でページをめくった。

六年一組の机は、六台。

記載されているのは、それだけだった。

彼女は、もう一度教室へ戻った。

七つ目の机は、そこにあった。

椅子も、紙も、鉛筆も、何も変わっていない。

ただ、机の下に刻まれた名前は、まだ途中だった。

――みなせ さき。

その下には、続きの文字が刻まれていた。

――八番。

紗季は、息をのんだ。

その瞬間、教室のスピーカーから、古いチャイムの音が流れた。

朝の始業を知らせる音だった。

けれど、まだ誰も来ていない。

校舎には、紗季しかいないはずだった。

チャイムが鳴り終わると、教室の奥から、子どもたちの声が聞こえた。

「一番、はい」

「二番、はい」

「三番、はい」

次々と返事が続く。

四番。

五番。

六番。

そして、沈黙。

紗季は、七つ目の机を見つめた。

誰も座っていない。

椅子だけが、少し後ろに引かれている。

やがて、教室の奥から、あの声が聞こえた。

「七番、七瀬小夜さん」

返事はなかった。

もう一度、名前が呼ばれた。

「七番、七瀬小夜さん」

今度は、別の声が答えた。

「……いないよ」

紗季は、唇を噛んだ。

その声は、昨日聞いたものと同じだった。

そして、最後に。

誰かが、紗季の名前を呼んだ。

「八番、水瀬紗季さん」

紗季は、返事をしなかった。

けれど、教室の隅から、彼女自身の声が聞こえた。

「……はい」

その声は、紗季の声だった。

間違いなく、紗季自身の声だった。

そして、七つ目の机の椅子が、ゆっくりと床を擦った。

ぎい。

誰も座っていないはずの椅子が、机の中へ押し込まれていく。

その音が止んだあと、教室の黒板に、白いチョークの文字が浮かび上がった。

――八人目が、来た。

紗季は、黒板を見つめた。

七人目を探していたはずだった。

なのに、いつの間にか、自分が八人目になっている。

七人目は、誰なのか。

水瀬紗季は、なぜ八番なのか。

そして、あの声は、誰のものなのか。

答えは、まだ何一つわからない。

ただ、教室の中央には、七つ目の机が置かれている。

そして、その隣に、もう一つ分の空白があった。

誰かが座るための、空白が。

紗季は、ゆっくりと教室を出た。

扉を閉める直前、背後から、子どもの声が聞こえた。

「ねえ、紗季ちゃん」

紗季は振り返らなかった。

「明日は、八人で遊ぼうね」

扉が閉まった。

廊下には、誰もいなかった。

 

第2章 存在しない同級生

第1節 元児童・三上亮

七つ目の机が置かれた翌朝、紗季は学校へ向かう車の中で、何度も昨日の出来事を思い返していた。

教室の中央に現れた机。

そこに刻まれ始めた、自分の名前。

そして、誰もいないはずの教室から聞こえた、自分自身の声。

――八番、水瀬紗季さん。

――はい。

あれは自分の声だった。

録音を再生したときにも、何度も確認した。声の高さも、息を吸うタイミングも、語尾がわずかに上がる癖も、間違いなく自分のものだった。

だが、紗季はその場にいなかった。

少なくとも、あの声が返事をした瞬間、自分は校舎の外にいた。誰かが録音を加工したのだとしても、いつ、どこで、どうやって作られたのかという疑問が残る。

そもそも、なぜ自分の名前があの机に刻まれなければならないのか。

紗季はハンドルを握り直した。

考えれば考えるほど、ひとつの可能性に行き着く。

あの学校では、過去に何かが起きた。

そして、その何かを知っている人間が、今も町にいる。

人間の記憶は曖昧だ。年月が経てば、出来事の順番が入れ替わることもある。自分に都合の悪い記憶を、知らず知らずのうちに遠ざけることもある。

しかし、記録は違う。

出席簿、学校日誌、工事記録、写真、児童の作品。ひとつひとつは不完全でも、複数の資料を照らし合わせれば、過去に何があったのかを絞り込めるはずだった。

紗季はそう考えることで、かろうじて自分を落ち着かせていた。

月影小学校に到着すると、正門の脇に白石校長の姿があった。

「水瀬さん、おはようございます」

「おはようございます。校長先生、少しご相談があるのですが」

「昨日の教室のことですか?」

白石の返事は、あまりにも早かった。

紗季は一瞬、言葉を失った。

「……昨日の教室?」

「いえ。朝早くからいらっしゃると聞いたので、何か見つかったのかと思いまして」

白石は穏やかに笑った。しかし、その笑顔はすぐに消えた。

紗季は昨日の机について、まだ何も話していない。

七つ目の机が現れたことも、机に自分の名前が刻まれたことも。

「校長先生は、三上亮さんという方をご存じですか?」

話題を変えると、白石は眉をわずかに動かした。

「三上……亮さん?」

「平成十六年度の六年一組に在籍していた方です。卒業生名簿でお名前を見つけました」

「ええ。確か、そうだったと思います」

「連絡先を調べていただくことはできますか。旧校舎のことを知っている元児童の方に、当時の様子を伺いたいんです」

白石はすぐには答えなかった。

正門の向こうでは、風に揺れた木の枝が、校庭に細い影を落としていた。

「三上さんは、昔のことをあまり話したがらないかもしれません」

「どうしてですか?」

「卒業後、何度か学校に問い合わせがあったと聞いています。でも、その内容について、私は詳しく知りません。前任の校長が対応していたものですから」

「問い合わせ、ですか?」

「ええ。古い卒業アルバムについてだったような……」

白石はそこまで言うと、口を閉じた。

まるで、言葉の先に何かがあることを、自分自身で確かめてしまったかのようだった。

「連絡先は、個人情報ですから、本人の許可なくお渡しすることはできません。ただ、こちらから連絡を取って、調査への協力をお願いすることはできると思います」

「ありがとうございます。ぜひ、お願いできますか」

「ただし、水瀬さん」

白石は紗季の目を見た。

「三上さんが何を話しても、それがすべて正しいとは限りません」

「記憶違いがある、ということですか?」

「人は、覚えていることと、覚えていると思い込んでいることを、区別できない場合がありますから」

その言葉は、忠告というより、誰かに言い聞かせているように聞こえた。

紗季は礼を述べ、校舎へ入った。

廊下の奥にある教室の扉は、閉じられていた。

開けるつもりはなかった。

今朝は、まだ。

*

三上亮から返事が届いたのは、その日の午後だった。

白石校長を通じて送った依頼に対し、最初の返答は短いものだったという。

『学校のことは、もう覚えていません』

それだけだった。

ところが、数時間後、もう一通の連絡があった。

『もし、平成十六年五月二十七日のことを調べているのなら、一度だけ会います。ただし、学校では話したくありません』

紗季はその文面を見て、背筋が冷たくなるのを感じた。

五月二十七日。

学校日誌に、児童の一名について保護者へ連絡したと記されていた日。

添付されるはずの別紙が見つからず、旧校舎東側の使用について職員会議で再確認されていた日。

そして、七つの椅子が円形に並べられた写真の日付。

紗季はすぐに返信した。

翌日の午後、町の図書館に併設された小さな喫茶スペースで会うことになった。

約束の時間より十五分早く到着した紗季は、窓際の席を選んだ。

ここなら、入口が見える。

相手の顔を確認できる。

自分でも理由はよくわからなかったが、背後に人が立つ場所に座りたくなかった。

コーヒーを注文し、鞄から調査用のノートを取り出す。

ノートの最初のページには、これまでに見つかった事実を整理してあった。

平成十六年度六年一組の公式記録――児童六名。

出席簿の余白――「七人目、早退」。

児童の作品――「さよちゃんのいす」。

机の裏――「ななせ さよ」「みずの あき」。

学校日誌――五月二十七日、児童一名について保護者へ連絡。

そして、差出人のわからない手紙。

『七人いたことを認めれば、誰かが責任を取らなければならなくなります。だから、六人で卒業したことにしてください』

紗季はペン先を止めた。

誰が責任を取る必要があったのか。

何に対する責任だったのか。

そして、七人いたことを認めると、誰が困るのか。

答えはまだ見えない。

「水瀬さん、ですか?」

声をかけられ、紗季は顔を上げた。

入口に立っていた男性は、三十代前半ほどに見えた。黒いジャケットに、皺の寄ったシャツ。手には何も持っていない。髪は短く整えられていたが、目の下には濃い影があった。

「三上亮さんでしょうか」

「はい」

彼は周囲を一度見回してから、紗季の向かいに座った。

その動作には、誰かを探しているというより、誰かに見られていないか確かめているような慎重さがあった。

「学校の記録を整理している方だと聞きました」

「はい。水瀬紗季と申します。閉校に向けて、古い文書や写真の整理を担当しています」

「それで、あの学校のことを調べているんですね」

「三上さんは、平成十六年度の六年一組に在籍していらっしゃいましたよね」

「ええ」

「当時のクラスのことを、覚えていらっしゃいますか?」

三上はすぐには答えなかった。

テーブルの上に置かれた水のグラスを持ち上げ、一口だけ飲む。

「六人でした」

紗季はペンを握った。

「六人、というのは?」

「六年一組の児童です。僕を入れて、六人。男が三人、女が三人だったと思います。担任は黒田先生」

記憶をたどる口調は自然だった。

「教室の窓際に大きな木があって、春になると枝が窓に当たるんです。授業中、風が吹くたびに、こつ、こつって音がして。黒田先生は、気になるなら窓を閉めなさいって、よく言ってました」

「当時の教室の様子は、よく覚えていらっしゃるんですね」

「子どものころのことなんて、そんなものですよ。どうでもいいことばかり覚えている」

彼は少し笑った。

けれど、その笑い方は途中で止まった。

「どうでもいいことのほうが、残るんです」

紗季は、彼の言葉をノートに書き留めた。

「三上さん。七人目の児童について、何か覚えていませんか?」

その瞬間、三上の表情が変わった。

ほんのわずかな変化だった。

目が止まり、唇が開きかけ、そして閉じた。

「七人目?」

「はい。古い出席簿の余白に、そのような記述がありました。それから、教室に残された児童の作品にも、七人目の存在を思わせるものがありまして」

「記録の間違いじゃないですか」

返答は早かった。

「出席簿に書き間違いがあったのかもしれません。学校の記録だって、人が作るものですから」

「そうですね。もちろん、その可能性も考えています」

紗季は声を落ち着かせた。

「ただ、七人目を示すものが、ひとつではないんです。机の裏にも、名前が二つ残っていました。七瀬小夜さんと、水野あきさんです」

三上の指が、グラスの縁で止まった。

彼は目を伏せた。

「その名前を、どこで?」

「机の裏です。古い机の板に、削るようにして刻まれていました」

「……そうですか」

「七瀬小夜さんをご存じですか?」

「知りません」

今度の返事は、遅かった。

紗季は彼の顔を見つめた。

「水野あきさんは?」

「知りません」

「当時、同じクラスにいた児童の名前を、覚えていないということでしょうか」

「だから、六人だったんです」

三上は声を強めた。

近くの席にいた客が、ちらりとこちらを見た。

三上はすぐに声を抑えたが、その手はグラスを強く握りしめていた。

「すみません。別に、怒っているわけじゃないんです。ただ……」

「ただ?」

「六人だった。それは、間違いないんです」

彼は自分に言い聞かせるように繰り返した。

紗季は、そこで質問を変えることにした。

「五月二十七日のことは、覚えていますか?」

三上の手から、力が抜けた。

グラスがテーブルに触れ、かすかな音を立てた。

「どうして、その日なんですか」

「学校日誌に記録がありました。午後の授業終了後、児童の一名について保護者へ連絡した、と」

「……そんなこと、毎年ありますよ」

「そうかもしれません。ただ、その日の記録だけ、添付資料が見つかっていないんです」

「それで、僕に聞きたいんですか」

「当時、何があったのか。ご存じのことがあれば教えていただきたいんです」

三上は窓の外へ目を向けた。

ガラスに映る自分の顔を、見ているようだった。

「五月二十七日」

彼は日付を口にした。

「その日は……」

そこで言葉が途切れた。

眉間に皺が寄る。

何かを思い出そうとしているのに、思い出した瞬間、それを打ち消そうとしている。そんな表情だった。

「何か、あったんですか?」

「わかりません」

「覚えていない、ということでしょうか」

「違う」

彼は反射的に否定した。

そして、自分の言葉に驚いたように口を閉じた。

紗季は急かさずに待った。

喫茶スペースの奥で、食器の触れ合う音がした。誰かが笑い、椅子を引き、また静けさが戻ってくる。

普通の午後だった。

この町のどこにも、存在しない同級生の話などないかのように。

「……あの日、教室に机がひとつ多かったんです」

三上が、ようやく言った。

紗季のペンが止まった。

「机が?」

「はい。教室の真ん中あたりに、見慣れない机が置いてあった。誰の机だろうって、僕は思ったんです。名前の札がなかったから」

「それは、いつのことですか?」

「五月二十七日だったと思います」

「その机に、誰か座っていましたか?」

三上は額に手を当てた。

「そこが……よくわからないんです」

「どういうことでしょう」

「机があったことは覚えている。でも、誰が座っていたかは覚えていない。いや、違うな。座っていた子を、僕は知っていた気がするんです」

彼の声が、少しずつ小さくなった。

「知っていたはずなのに、顔が出てこない。名前も出てこない。卒業アルバムを見ても、思い出せなかった」

「卒業アルバムを見たんですか?」

「何年か前に。実家の押し入れにあったんです。六年一組のページを開いて、写真を見て……」

三上は、そこで言葉を切った。

「六人しかいなかった」

「写真には、六人だけが写っていたんですね」

「ええ。だから、僕は自分の記憶違いだと思った。机なんて、別の教室のものと勘違いしたんだろうって」

「そのアルバムは、今もお持ちですか?」

「……わかりません。実家を整理したとき、処分したかもしれない」

紗季はノートの端に、短く記した。

五月二十七日。教室に余分な机。

誰かが座っていた気がする。

顔も名前も思い出せない。

記録上の児童は六名。

証言と記録の間に、明確な食い違いが生まれた。

「三上さん。もうひとつ、伺ってもいいですか」

「何でしょう」

「その机を見たとき、誰かが何かを言っていませんでしたか?」

三上は答えなかった。

やがて、彼の視線がテーブルの上に落ちた。

「……席を、空けておいて」

紗季は顔を上げた。

「何ですか?」

「誰かが言ったんです。『あきちゃんのぶんも、あけておいて』って」

その言葉を聞いた瞬間、紗季の脳裏に、古い机の裏に刻まれていた文字が浮かんだ。

――あきちゃんのぶんも、あけておいて。

「それを、誰が言ったんですか?」

「わかりません」

「男の子ですか、女の子ですか?」

「女の子だったと思います。でも……」

三上は唇を噛んだ。

「今の僕には、その声が誰のものだったのか、どうしてもわからない」

「水野あきさんの声だった可能性は?」

「わかりません」

「七瀬小夜さんは?」

「わかりません!」

彼は立ち上がりかけた。

椅子の脚が床をこすり、耳障りな音を立てる。

紗季は口を閉じた。

三上は、しばらくその場で呼吸を整えていた。

「……すみません」

ようやく彼は座り直した。

「僕は、もうこの話をしたくなかったんです」

「何か、怖いことがあったんですか?」

「怖い?」

三上は自嘲するように笑った。

「そうですね。怖かったのかもしれない。でも、何が怖かったのかは、もう覚えていないんです」

「覚えていないのに、怖いんですか」

「忘れたから、怖くないとは限らないでしょう」

その言葉には、妙な説得力があった。

三上は鞄から、折り畳まれた紙を取り出した。

何度も開いて閉じた跡があり、端が擦り切れている。

「これを見てください」

差し出されたのは、古い学校行事の予定表だった。

紙の上部には、平成十六年度の文字がある。印刷された年間予定の欄には、運動会、遠足、授業参観、学芸会などの日付が並んでいた。

その中の五月二十七日だけ、鉛筆で小さな丸がつけられていた。

丸の横に、かすれた文字がある。

『六人で帰る』

紗季は息を止めた。

「これは、どこで見つけたんですか?」

「卒業して何年か経ったころです。実家の机の引き出しに入っていました。自分の字なのか、誰かの字なのかもわからない。母に聞いても、知らないと言われました」

「三上さんが書いた可能性は?」

「あります。でも、僕は覚えていない」

「『六人で帰る』というのは、どういう意味でしょう」

「それがわかれば、僕だって……」

三上は紙を見つめた。

「最初は、ただの約束だと思っていました。友達と一緒に帰ろう、というような。でも、どうして五月二十七日なのか。どうして『六人』なんて、わざわざ書いたのか」

紗季は紙を裏返した。

裏面には何も書かれていないように見えた。

しかし、斜めから光を当てると、鉛筆の筆圧による凹みが残っているのがわかった。

紙の上に書かれていた文字が、消されたのかもしれない。

紗季は鞄から薄い下敷きを取り出し、紙の下に敷いた。鉛筆でこすったり、無理に文字を浮かび上がらせたりはしなかった。原本を傷めるわけにはいかない。

「この紙、少しお借りしてもいいですか。記録として撮影し、状態を確認したいんです」

「……写真を撮るだけなら」

「ありがとうございます」

紗季がスマートフォンを取り出したとき、三上は紙から手を離さず、もう一度、予定表を見つめた。

「水瀬さん」

「はい」

「ひとつだけ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「あなたは、あの学校の卒業生じゃないんですよね?」

「はい。私は記録整理を依頼された外部の人間です。月影小学校に通っていたことはありません」

「そうですか」

三上は、なぜか少しだけ安心したようだった。

だが、その安心は長く続かなかった。

「それなら、まだ間に合うかもしれない」

「何がですか?」

三上は答えなかった。

代わりに、鞄を手に取った。

「今日は、これ以上は話せません」

「三上さん。最後にもうひとつだけ」

彼は立ち止まった。

「七瀬小夜さんも、水野あきさんも、知らないとおっしゃいましたね。でも、机がひとつ多かったことは覚えている。そして、誰かが『あきちゃんのぶんも、あけておいて』と言ったことも」

「……はい」

「それでも、お二人の名前を知らないと?」

三上は紗季を見た。

目の奥に、怒りとも恐怖ともつかないものが揺れていた。

「知らないんです」

彼は、はっきりと言った。

「知らないのに、どうしてこんなに苦しいのか。それが、僕にもわからないんです」

そう言い残し、三上は店を出ていった。

紗季は窓越しに、彼が通りの向こうへ歩いていく姿を見送った。

背中は少し丸まり、歩く速度は速かった。

まるで、誰かに追いつかれることを恐れているようだった。

*

学校へ戻った紗季は、三上から預かった予定表を、資料用の封筒に入れた。

その前に、紙の表裏を撮影し、受け取った日時と提供者の名前を記録する。

記録整理の仕事では、些細なことほど省略してはいけない。

いつ、誰から、何を受け取ったのか。

それが曖昧になれば、後から見つかった証拠も、意味を失ってしまう。

紗季は机の上に資料を並べ、改めて照合を始めた。

五月二十七日。

学校日誌には、児童の一名について保護者へ連絡したとある。

工事関連の資料には、東側の旧校舎に関する確認事項。

写真には、七つの椅子。

そして、三上の証言には、余分な机と、名前のない誰か。

すべてが同じ日に集まっている。

偶然で片づけるには、重なりすぎていた。

しかし、紗季はそこで結論を急がなかった。

七人目の児童が実在したのか。

それとも、何らかの理由で一時的に机や椅子が用意されただけなのか。

七瀬小夜と水野あきは、同じ人物なのか、別々の人物なのか。

まだ、何ひとつ確定していない。

証言は証言であり、事実そのものではない。

三上自身も、記憶に自信がないと繰り返していた。

紗季は、三上が持ってきた予定表をもう一度取り出した。

『六人で帰る』

その言葉を見つめていると、ふと疑問が湧いた。

なぜ、六人なのだろう。

もし最初から六人しかいなかったのなら、わざわざ人数を書く必要はないのではないか。

七人で帰る約束だったものが、何らかの理由で六人に変わったのだとしたら。

あるいは――。

紗季は考えを止めた。

仮説を事実のように扱ってはいけない。

今必要なのは、別の証言だった。

黒田佳代。

当時の六年一組の担任。

そして、五月二十七日の出来事について、学校日誌に記録を残した人物。

彼女が今どこにいるのか、白石校長に確認する必要がある。

そのときだった。

廊下から、紙を引きずるような音が聞こえた。

ざり。

ざり。

ざり。

誰かが、重いものを床の上で動かしている。

紗季は顔を上げた。

音は、教室のほうから聞こえてくる。

七つ目の机を見たくない。

そう思う自分がいた。

それでも、確かめなければならなかった。

紗季は資料を封筒に戻し、廊下へ出た。

教室の扉は、閉まっていた。

昨日と同じだ。

ただし、扉の下から、細い赤い糸が一本だけ伸びていた。

床に沿って、こちらへ続いている。

紗季はその場に立ち尽くした。

赤い糸は、風もないのに、かすかに揺れていた。

扉の向こうから、子どもの声が聞こえた。

「亮くん」

紗季は息を呑んだ。

声は、教室の中から聞こえている。

「亮くん、今日は来ないの?」

続いて、別の声がした。

「知らないよ。そんな子、いないよ」

その言葉のあと、短い沈黙が落ちた。

そして、今度は紗季自身の声がした。

「……六人で帰ろうね」

紗季は扉に手を伸ばしかけ、止めた。

その言葉を、自分は言ったことがない。

少なくとも、月影小学校で誰かに向かって言った記憶などない。

そもそも、三上が持ってきた予定表の文字を見たのは、つい先ほどだ。

なのに、なぜ自分の声が、その約束を口にするのか。

教室の中で、何かが床を引きずる音が再び響いた。

ざり。

ざり。

やがて、音は止まった。

紗季は、ゆっくりと扉から手を離した。

開けてはいけない。

今はまだ、開けてはいけない。

その確信だけが、はっきりと胸の中にあった。

*

その夜、紗季は自宅で、三上の証言を記録用の文書にまとめていた。

彼は六年一組の児童は六人だったと断言した。

しかし、五月二十七日、教室に余分な机があったことは覚えている。

その机には、誰かが座っていたような気がする。

そして、誰かが言った。

『あきちゃんのぶんも、あけておいて』

彼は七瀬小夜も水野あきも知らないと話した。

なのに、後者の名前に関係する言葉を覚えていた。

紗季は、文書の末尾にこう記した。

『三上亮の証言には矛盾がある。ただし、その矛盾が意図的な虚偽によるものか、記憶の欠落によるものか、あるいは第三者による記録の改変の影響なのかは、現時点では判断できない』

保存ボタンを押す。

その直後、スマートフォンが震えた。

見知らぬ番号からの着信だった。

紗季は少し迷ってから、通話ボタンを押した。

「もしもし、水瀬です」

返事はなかった。

代わりに、かすかな雑音が聞こえた。

風の音のようでもあり、遠くで紙を擦り合わせている音のようでもある。

「もしもし?」

今度は、子どもの声がした。

『紗季ちゃん』

紗季は立ち上がった。

「誰ですか?」

『ねえ、紗季ちゃん』

「あなたは、誰?」

しばらく沈黙が続いた。

そして、声は静かに言った。

『亮くん、思い出したんだね』

紗季の手が冷たくなった。

「三上さんのことを知っているの?」

『うん』

「あなたは、七瀬小夜さん?」

返事はなかった。

「水野あきさん?」

沈黙。

やがて、電話の向こうから、くすりと笑うような音が聞こえた。

『わたしの名前は、まだ見つかってないよ』

「名前なら、ふたつ見つかっている。七瀬小夜さんと、水野あきさん。あなたは、どちらなの?」

『どっちも、わたしじゃないかもしれない』

紗季は言葉を失った。

声は、まるでそれが当然であるかのように続けた。

『でも、あきちゃんの席は、空けておいてね』

通話が切れた。

紗季はしばらく、スマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。

やがて画面を見ると、着信履歴には番号が残っていた。

しかし、番号を検索しても、発信元を特定することはできなかった。

紗季は深く息を吸い、スマートフォンを机に置いた。

これも、証拠にはならない。

録音していない声を、他人に聞かせることはできない。

着信元が誰なのかもわからない。

だから、今の言葉を調査の結論にすることはできなかった。

ただひとつ、確かなことがある。

三上亮は、存在しないはずの同級生を完全には忘れていなかった。

彼は名前を知らないと言いながら、机を覚えていた。

顔を思い出せないと言いながら、誰かの声を覚えていた。

そして、あの日に何かが起きたことを、身体のどこかで覚えていた。

紗季はノートを開き、最後の行に書き加えた。

『次の調査対象――当時の担任、黒田佳代』

その下に、もうひとつ書く。

『七瀬小夜と水野あきは、同一人物とは限らない』

ペンを置いたとき、机の上に影が落ちた。

窓の外には、誰もいない。

部屋の照明は、いつもどおり点いている。

なのに、ノートの端に、赤い糸が一本だけ置かれていた。

紗季は息を止めた。

糸の先には、小さな紙片が結びつけられている。

そこには、子どもの文字で、こう書かれていた。

『七人で帰るって、約束したのに』

紗季は紙片を見つめた。

六人で帰る。

七人で帰る。

たったひとりの違いが、誰かの存在を消してしまったのだろうか。

それとも、誰かを消すために、人数そのものが書き換えられたのだろうか。

答えは、まだ見えない。

ただ、紗季は初めて、ひとつの可能性を考えた。

七人目が消されたのではない。

七人目を、六人目までの誰かに置き換えたのかもしれない。

そのとき、部屋のどこかで、紙コップを指先で叩くような音がした。

こん。

こん。

こん。

紗季は振り返らなかった。

背後から、子どもの声が聞こえた。

「明日は、亮くんも来る?」

返事をする者はいなかった。

しばらくして、声はもう一度、尋ねた。

「ねえ。明日は、何人で帰るの?」

紗季は目を閉じた。

そして、暗闇の中で、あの出席簿の余白に書かれた言葉を思い出していた。

――七人目、早退。

誰が早退したのか。

誰が、最後まで教室に残ったのか。

そして、誰が帰れなかったのか。

その答えを知る者は、まだ町のどこかにいる。

紗季は、翌朝、黒田佳代の所在を調べることを決めた。

記録に残された名前から、過去をたどるために。

存在しない同級生の、本当の名前を見つけるために。

第2節 消された集合写真

三上亮と別れてから、紗季は何度も彼の証言を読み返していた。

六年一組の児童は六人だった。

それは、三上が最初から最後まで譲らなかった記憶である。

ところが、彼は同じ口で、五月二十七日に教室の中央へ置かれた余分な机を覚えていると話した。

机には名前の札がなかった。

誰かが座っていた気がする。

そして、誰かが言った。

『あきちゃんのぶんも、あけておいて』

矛盾している。

しかし、紗季は三上が嘘をついているとは思えなかった。

彼は七人目の存在を否定するたびに、何かを必死に押し戻しているようだった。忘れてしまったのではない。思い出すことそのものに、抵抗している。

その抵抗が恐怖によるものなのか、罪悪感によるものなのか、あるいは誰かをかばうためなのか。

今の紗季には、判断できなかった。

必要なのは、別の証言だった。

当時の担任、黒田佳代。

学校日誌に五月二十七日の記録を残し、児童の一名について保護者へ連絡した人物。

そして、六年一組の子どもたちを卒業まで見届けたはずの教師。

紗季は翌朝、白石校長に黒田の連絡先を尋ねた。

「黒田先生は、現在どちらにいらっしゃるのでしょうか」

職員室で書類を整理していた白石は、手を止めた。

「黒田先生ですか……」

「はい。平成十六年度の六年一組の担任だった方です」

「退職されています。私がこの学校に赴任する前のことですから、詳しい経緯までは把握していませんが、今は町の中心部から少し離れたところに住んでいらっしゃると聞いています」

「連絡を取る方法はありますか?」

「同窓会の名簿には、住所が残っているかもしれません。ただ、個人情報ですから、私からそのままお渡しすることはできません。こちらから連絡を差し上げてみます」

「お願いいたします」

紗季が頭を下げると、白石は机の引き出しから古いファイルを取り出した。

「黒田先生については、もうひとつ気になることがあります」

「何でしょうか」

「閉校に向けた資料の整理を始めたとき、前任の校長から引き継いだ封筒の中に、黒田先生のお名前が書かれたメモがありました」

白石はファイルから小さな紙片を取り出した。

茶色く変色した紙には、鉛筆で短く記されていた。

『卒業写真について、黒田先生へ確認すること』

その下に、別の筆跡で書き足されたような文字があった。

『確認しないこと』

紗季は思わず紙片を見つめた。

「確認すること、と書いてあるのに、その下には確認しないこと……」

「ええ。誰が書いたのかも、いつのものなのかもわかりません。前任の校長は、このメモについて詳しく説明してくれませんでした」

「卒業写真というのは、集合写真のことでしょうか」

「おそらくは。平成十六年度の卒業アルバムには、六年一組の集合写真が掲載されていますから」

紗季は、これまでに見た写真を思い出した。

六人の児童が並んだ集合写真。

行事の写真にも、六人の姿しかなかった。

ただし、どの写真も、端の部分に不自然な余白があった。

まるで、誰かがそこに立っていたはずなのに、最初から何もなかったかのように。

「その写真の原本は残っていますか?」

「卒業アルバムはあります。ただ、撮影時のネガや、焼き増し前の写真がどこに保管されているかまではわかりません」

「写真の購入記録はありました。児童用が六冊、教員用が二冊、予備が二冊。それなのに、保管棚には七冊ありました」

白石の表情が固くなった。

「……そうでしたね」

「七冊目がどこから来たのか、確認できていません」

「水瀬さん」

白石は声を低くした。

「写真の整理を進めること自体に、異論はありません。ただ、誰かの過去を調べるというのは、思っている以上に難しいことです」

「それは、わかっています」

「いいえ。水瀬さんは、まだわかっていないのかもしれません」

白石はそう言って、紙片をファイルに戻した。

「記録が残っていないことと、記録が消されたことは、同じではありません」

「はい」

「その違いを、どうか忘れないでください」

紗季は頷いた。

白石の言葉は正しい。

写真が六人しか写していないからといって、七人目が消された証拠にはならない。

七冊目のアルバムがあったからといって、七人目の児童がいた証拠にもならない。

しかし、複数の記録が同じ一点を指し示しているのなら、その理由を確かめる必要がある。

紗季は、改めて黒田佳代への聞き取りを依頼した。

*

黒田から返事があったのは、その日の夕方だった。

白石校長を通じて送った依頼に対し、最初の返答は断りだった。

『昔のことですので、もうお話しできることはありません』

それだけだったという。

ところが、依頼内容に「平成十六年度の卒業写真」という言葉を加えて再度お願いすると、翌日の午後、黒田本人から紗季の携帯電話へ連絡が入った。

「水瀬さん、ですね」

電話の向こうの声は、落ち着いた年配の女性のものだった。

「はい。突然のご連絡、申し訳ありません」

「白石校長から聞きました。学校の記録を整理していらっしゃるそうですね」

「はい。閉校に向けた資料整理を担当しています」

「それで、卒業写真について知りたいと」

「はい。六年一組の集合写真について、撮影時の原本や保管記録を確認したいと思っています」

短い沈黙があった。

「写真は、六人でしょう?」

黒田が言った。

紗季は、思わず姿勢を正した。

「はい。卒業アルバムに掲載されている写真では、六人が写っています」

「そうでしょうね」

「黒田先生は、当時のクラスの人数を覚えていらっしゃいますか?」

「もちろんです。担任だったのですから」

その返答には、迷いがなかった。

「六年一組は、六人でした」

三上と同じ答えだった。

しかし、三上は余分な机の記憶を持っていた。

黒田は、何を覚えているのだろう。

「先生。実は、古い出席簿の余白に『七人目、早退』という書き込みが見つかりました」

電話の向こうで、息を呑む音がした。

「……どこに、ですか?」

「平成十六年度の出席簿です」

「その出席簿は、今、学校にあるのですか」

「はい。保管資料の中から見つかりました」

「そう……」

黒田は、それ以上何も言わなかった。

「黒田先生。お会いして、お話を伺うことはできませんか」

しばらくして、黒田は小さく息を吐いた。

「写真を持ってきてください」

「写真、ですか?」

「卒業アルバムの写真です。できれば、集合写真だけではなく、行事の写真も」

「わかりました」

「それから、水瀬さん」

「はい」

「写真を持ってくるとき、ひとりで来てください。誰かと一緒に来られるのは困ります」

電話は、それで切れた。

紗季はスマートフォンを手にしたまま、しばらく動けなかった。

黒田は、七人目の書き込みを見て、明らかに動揺した。

しかし、彼女は「そんな子はいなかった」とは言わなかった。

六人だった。

そう断言した。

そして、写真を持ってくるように求めた。

何かを確かめようとしているのか。

それとも、写真を見せられることを恐れているのか。

どちらにしても、黒田は卒業写真について、何かを知っている。

*

翌日、紗季は学校の保管庫から卒業アルバムを取り出した。

七冊のうち、まずは六冊を机の上に並べる。

どれも同じ表紙で、背表紙には「平成十六年度 月影小学校卒業記念」と印刷されていた。

中身も、一見したところ大きな違いはない。

表紙を開くと、校舎の写真がある。

次のページには校長の挨拶。

そして、六年一組の集合写真。

児童は六人。

担任の黒田佳代が、その後ろに立っている。

紗季は一冊ずつ、写真の状態を確認した。

顔の部分に傷はない。

紙が貼り付けられた跡もない。

切り取られた形跡も、ぱっと見ただけでは見つからなかった。

ところが、六冊目のアルバムを開いたとき、紗季は違和感に気づいた。

写真の右端。

ほかの五冊よりも、わずかに余白が広い。

しかも、写真の下に印刷されたキャプションの位置が、ほんの数ミリだけ左にずれている。

紗季は定規を取り出し、写真の幅を測った。

六冊のうち、五冊はほぼ同じ寸法だった。

六冊目だけが、横幅がわずかに短い。

写真そのものが違うのだろうか。

紗季は照明の下で、写真の表面を角度を変えながら観察した。

右端の白い部分には、紙の繊維の向きがわずかに異なる箇所があった。

写真を切り取って、別の紙を貼り合わせたのかもしれない。

しかし、それだけでは断定できない。

印刷の違い、製本時の加工、経年劣化。

別の理由も考えられる。

紗季は、六冊目のアルバムに付箋を貼った。

次に、七冊目を取り出した。

表紙の内側に、小さな鉛筆書きがあった。

『黒田先生へ』

紗季は、息を止めた。

ほかのアルバムにはない文字だった。

その下には、名前らしきものが書かれていたが、何度も消しゴムをかけたように薄くなっている。

紙を傷めないよう、斜めから光を当てる。

残っている文字は、四文字。

――ななせ。

紗季は椅子に腰を下ろした。

七冊目のアルバムは、購入記録に存在しない。

その内側には、黒田先生へ、と書かれている。

そして、七瀬という名前が残っている。

このアルバムは、黒田のために用意されたものだったのだろうか。

もしそうなら、なぜ正式な購入記録に載っていないのか。

紗季は七冊目を閉じ、もう一度、保管棚の記録を確認した。

アルバムの受け入れ年月日は、空欄だった。

備考欄には、鉛筆で小さく「寄贈」とだけ記されている。

寄贈者の名前はない。

誰が、いつ、何のために持ち込んだのか。

その情報だけが、きれいに抜け落ちていた。

*

黒田の自宅は、町の中心部から車で二十分ほど離れた住宅地にあった。

低い塀の内側に、手入れされた庭木が並んでいる。

玄関の脇には、季節の花を植えた鉢が置かれていた。

ごく普通の家だった。

紗季は車を降り、鞄からアルバムを取り出した。

インターホンを押す。

「はい」

「水瀬です。お約束していた資料を持ってまいりました」

玄関の扉が開き、白髪の女性が姿を現した。

黒田佳代だった。

写真で見たことのある顔より、ずっと年を重ねている。背筋は伸びていたが、目元には深い皺が刻まれていた。

「どうぞ、お入りください」

通された居間には、古い本棚と、花柄のカーテンがあった。

壁には、旅行先で撮影したらしい風景写真が飾られている。

しかし、学校の写真は一枚もなかった。

「お茶をお出ししますね」

「お気遣いなく。今日は、お話を伺うだけですので」

「そうですか」

黒田は向かいの椅子に座った。

紗季は、六年一組の集合写真が掲載されたアルバムをテーブルの上に置いた。

「こちらが、卒業アルバムです」

「ええ」

黒田は表紙を見た。

触れようとはしなかった。

「先生が担任をされていた、平成十六年度の六年一組について、お話を伺いたいのです」

「何度も申し上げたとおり、児童は六人でした」

「はい。三上亮さんも、同じようにおっしゃっていました」

黒田の視線が、紗季の顔に戻った。

「三上君に会ったのですか?」

「はい。先日、お話を伺いました」

「……そう」

「三上さんは、五月二十七日に教室の中央へ余分な机が置かれていた、と証言しました」

黒田は、両手を膝の上で重ねた。

「子どもは、見間違いをすることがあります」

「そうですね」

「机の移動など、学校では珍しいことではありません。ほかの教室から持ってきたのかもしれない。そういうことは、いくらでもあります」

「おっしゃるとおりです。ただ、三上さんは、その机に誰かが座っていたような気がすると話していました」

黒田の指先が、わずかに震えた。

「それは、三上君の記憶です」

「はい」

「記憶は、事実とは違います」

「その可能性もあります」

紗季は否定しなかった。

黒田は、少しだけ表情を緩めた。

「水瀬さん。あなたは、何をお知りになりたいのですか」

「七人目の児童が、実際に存在したのかどうか。それを確かめたいのです」

「……存在したかどうか」

「出席簿には、七人目という書き込みがありました。机には七瀬小夜さんと水野あきさんの名前が刻まれていました。児童の作品にも、さよちゃんのいす、と書かれていたんです」

黒田は目を閉じた。

ほんの数秒だった。

しかし、その短い沈黙の中で、彼女が何かを思い出していることは、紗季にもわかった。

「先生」

紗季は、七冊目のアルバムを取り出した。

「こちらも、ご覧いただけますか」

黒田の目が、表紙に釘づけになった。

その顔から、血の気が引いていく。

「……どうして、それが」

「学校の保管棚にありました。正式な購入記録にはないアルバムです。表紙の内側に『黒田先生へ』という文字と、『ななせ』という名前が残っていました」

「それを、開けたのですか」

「はい。中身を確認しました」

「写真は……」

黒田は、そこで言葉を失った。

紗季はアルバムを開き、集合写真のページを示した。

「こちらの写真は、ほかのアルバムと少し違っています」

黒田は、写真を見た。

六人の児童。

その後ろに立つ、担任の黒田。

そして、右端の余白。

黒田は、写真から目を離さなかった。

「……切り取ったのね」

かすれた声だった。

紗季は顔を上げた。

「先生?」

「いえ……何でもありません」

黒田は、慌てて口元を押さえた。

「今、切り取ったとおっしゃいましたね」

「言っていません」

「ですが、確かに……」

「言っていません!」

黒田の声が、居間に響いた。

壁に飾られた風景写真が、わずかに揺れたように見えた。

黒田は自分の声に驚いたのか、肩を震わせた。

「……申し訳ありません」

「いえ」

「昔のことを、いきなり聞かれても困るんです。もう何十年も前のことですから」

「まだ二十二年前です」

紗季は、静かに言った。

黒田は何も答えなかった。

「先生。集合写真の右端には、もともと誰かが写っていたのでしょうか」

長い沈黙があった。

やがて黒田は、震える手でアルバムを閉じた。

「水瀬さん。今日は、もうお帰りください」

「先生、もう少しだけ――」

「お願いです」

黒田は顔を伏せた。

「今は、まだ話せません」

紗季は、それ以上尋ねることができなかった。

黒田の様子は、ただ過去を思い出したくない人のそれとは違っていた。

何かを知っている。

少なくとも、写真の右端に関して、彼女は無意識に「切り取った」と口にした。

それが事実なら、写真から誰かが消された可能性がある。

しかし、誰が、いつ、何のために切り取ったのか。

黒田は答えなかった。

紗季はアルバムを鞄に戻し、立ち上がった。

「本日は、ありがとうございました。また改めて、お話を伺うことはできますか」

黒田は顔を上げなかった。

「……わかりません」

玄関まで見送られた紗季は、靴を履きながら、もう一度だけ振り返った。

黒田は廊下の奥に立っていた。

「先生」

「はい」

「七瀬小夜さんと水野あきさん。このお二人は、別々の児童だったのでしょうか」

黒田の顔が、こわばった。

「……どうして、その名前を両方知っているの?」

紗季は答えなかった。

黒田は、ゆっくりと目を閉じた。

「お願いです。もう、その名前を探さないで」

扉が閉じた。

紗季は玄関先に立ち尽くした。

黒田は、二つの名前を聞いて、明らかに反応した。

知らないはずの名前に。

存在しなかったはずの児童に。

それなのに、彼女は六人だったと言い続ける。

紗季は車に乗り込むと、鞄から七冊目のアルバムを取り出した。

もう一度、表紙の内側を確認する。

『黒田先生へ』

その下に、薄く残った「ななせ」の文字。

そして、集合写真の右端。

紗季は、写真をスマートフォンで撮影した。

拡大してみると、余白の中央付近に、細い縦線が見えた。

写真の印画紙に残った、切断面のような線だった。

さらに、その線の下には、白い紙を剥がしたような跡がある。

そこには、何かが貼られていた。

写真の上に、別の紙が。

紗季は、すぐに結論を出さなかった。

切断面に見える線が、本当に写真を切り取った跡なのかは、専門的な確認が必要だ。

だが、黒田は確かに「切り取った」と口にした。

そして、七冊目のアルバムは、黒田に宛てられたものだった。

偶然とは考えにくい。

紗季は写真の裏側を確かめようと、アルバムを開き直した。

そのとき、ページの綴じ目から、小さな紙片が滑り落ちた。

薄い紙だった。

折り畳まれた跡があり、端が黄ばんでいる。

紗季は慎重に広げた。

そこには、子どもの字で短い文章が書かれていた。

『せんせい、しゃしんから、わたしをきらないで』

紗季の指先が冷たくなった。

その下には、もう一行。

『わたしも、みんなとそつぎょうしたい』

最後に、名前が書かれていた。

――さよ。

紗季は、紙片を見つめた。

七瀬小夜。

あの机の裏に刻まれていた名前。

出席簿の余白に現れた、七人目。

そして、卒業写真から切り取られたかもしれない児童。

ここにあるのは、怪異の声ではない。

実際に紙へ書かれた文字だった。

誰かが、誰かに向けて書いたものだ。

紗季は紙片の表裏を撮影し、見つけた場所を記録した。無理に折り目を伸ばすことはせず、傷めないよう保護用の封筒へ入れる。

この紙片がいつアルバムに挟まれたのか、誰が書いたのか。まだ確かなことはわからない。

しかし、書かれた願いだけは、はっきりしていた。

――わたしも、みんなとそつぎょうしたい。

紗季は、窓の外を見た。

夕暮れが町を包み始めていた。

遠くに、月影小学校の校舎が見える。

あの教室には、七つ目の机がある。

そして、その机には、七瀬小夜と水野あき、さらに水瀬紗季の名前が刻まれていた。

なぜ、紗季の名前まで加えられたのか。

その答えは、まだわからない。

けれど、七瀬小夜は、少なくとも写真から消されることを恐れていた。

記憶から消えることではない。

写真から。

みんなが一緒にいた証拠から。

自分がそこにいたという事実そのものから。

紗季は紙片を封筒に収め、鞄を閉じた。

そのとき、車内でスマートフォンが震えた。

画面には、発信者不明の着信が表示されていた。

紗季は一度、深呼吸した。

そして、通話をつないだ。

「もしもし」

返事はなかった。

微かな雑音の向こうで、何かを擦る音がする。

紙を、鋏で切るような音だった。

しゃき。

しゃき。

しゃき。

やがて、子どもの声が聞こえた。

『紗季ちゃん』

「あなたは、誰?」

『写真、見つけた?』

「……見つけたわ」

『わたし、写ってた?』

紗季は答えられなかった。

紙片には、小夜の名前があった。

黒田も、写真の右端を見て動揺した。

しかし、写真に本当に小夜が写っていたのかどうか、まだ確認できていない。

「まだ、わからないの」

紗季は正直に答えた。

「写真から何かが取り除かれた可能性はある。でも、あなたがそこに写っていたかどうかは、まだ確かめられていない」

電話の向こうで、子どもが息を吸った。

『そっか』

声は、少し寂しそうだった。

『じゃあ、もう一回、探してね』

「待って。あなたは七瀬小夜さんなの?」

沈黙。

「それとも、水野あきさん?」

しばらくして、声は答えた。

『先生に、聞いて』

「黒田先生?」

『先生は、写真を切った人を知ってる』

紗季の背筋が凍った。

「誰が切ったの?」

子どもの声は、ひどく小さくなった。

『……わたしじゃないよ』

通話が切れた。

紗季はスマートフォンを見つめた。

子どもの声が語ったことを、そのまま事実として受け入れるわけにはいかない。

それでも、黒田の反応と、七冊目のアルバム、そして紙片の存在は、無視できない。

写真から誰かを消した人間がいるのだとしたら、その人物は、単に写真を加工しただけではないのかもしれない。

写真から消す。

出席簿から消す。

記録から消す。

そして、いつか、誰もその子の名前を口にしなくなる。

紗季はエンジンをかけた。

次に調べるべきことは、明確だった。

卒業写真の原版。

写真を撮影した人物。

そして、アルバムが作られたとき、誰が印刷所へ写真を渡したのか。

黒田佳代は、何かを知っている。

だが、彼女が写真を切った本人だとは限らない。

むしろ、写真を見たときのあの表情は、別の可能性を示していた。

黒田自身もまた、誰かが写真から小夜を消したことを、ずっと恐れていたのではないか。

紗季は、そう考えた。

その夜、学校の保管庫では、誰も触れていないはずの七冊目のアルバムが、棚から半分だけ滑り出していた。

開いたページは、六年一組の集合写真。

六人の児童と、担任の黒田佳代。

写真の右端には、誰もいない余白がある。

その余白の中央に、赤い糸が一本、まっすぐに貼りついていた。

糸の先には、小さな紙片。

そこには、鉛筆で、たった一言だけ書かれていた。

『七人目は、だれ?』

翌朝、紗季が保管庫を開けたとき、紙片は消えていた。

ただ、写真の余白に残された細い赤い線だけが、昨日より少し長く伸びていた。

 

第3節 元担任の拒絶

翌朝、紗季は月影小学校の保管庫へ向かった。

前日の夜、七冊目の卒業アルバムに残されていた赤い糸のことが、頭から離れなかった。

写真の右端に伸びた、細い赤い線。

その先に置かれていたはずの紙片。

『七人目は、だれ?』

朝になって確認すると、紙片は消えていた。

誰かが持ち去ったのか。

風に飛ばされたのか。

あるいは、最初から存在しなかったのか。

紗季は、保管庫の扉を開ける前に、廊下の左右を確かめた。

誰もいない。

鍵を回し、照明をつける。

棚には、古い卒業アルバムや学校行事の写真、児童作品をまとめたファイルが並んでいた。

七冊目のアルバムは、昨日と同じ棚にあった。

紗季は手袋をはめ、アルバムを取り出した。

六年一組の集合写真を開く。

六人の児童。

その後ろに立つ黒田佳代。

右端には、不自然な余白がある。

写真の表面を、角度を変えて観察する。

赤い糸は見当たらなかった。

紙片もない。

しかし、写真の余白に残る細い線は、昨日よりも長くなったように見えた。

紗季は写真を撮影し、前日の画像と見比べた。

撮影角度が違うため、単純には比較できない。

線の長さが変わったと断定することはできなかった。

「……落ち着いて」

紗季は自分に言い聞かせた。

この仕事で最も避けなければならないのは、怪異を恐れるあまり、何もかも怪異のせいにしてしまうことだ。

写真の加工には、人間の手が必要だった。

紙片がなくなったのなら、誰かが持ち去った可能性もある。

保管庫の鍵を持つ人物、アルバムに触れた人物、あるいは紗季自身が気づかないうちに何かを見落としている可能性。

まずは、確認できる事実を積み重ねる。

紗季はアルバムを閉じ、調査記録に新しい項目を加えた。

『七冊目の卒業アルバム。表紙内側に「黒田先生へ」「ななせ」の筆跡。集合写真右端に加工の可能性。前日、余白に赤い線と紙片を確認したが、翌朝には紙片が消失。線の変化については未確認』

記録を保存したあと、紗季は黒田佳代へ電話をかけた。

前日、黒田は最後にこう言った。

「もう、その名前を探さないで」

その言葉の意味を、確かめなければならなかった。

*

電話は、五回目の呼び出し音でつながった。

「……はい」

「黒田先生、水瀬です。昨日はお時間をいただき、ありがとうございました」

電話の向こうで、黒田が息を吐いた。

「何か、まだありますか」

「はい。昨日お見せしたアルバムについて、もう少しお話を伺いたいのです」

「お話しできることはありません」

「集合写真の右端について、先生は『切り取ったのね』とおっしゃいました」

「……そんなことを言いましたか」

「はい。確かに伺いました」

「聞き間違いでしょう」

黒田の声は、昨日よりも冷たかった。

「水瀬さん。私はもう退職した人間です。学校のことは、今の先生方にお任せしています。昔の出来事を、いつまでも掘り返されても困ります」

「承知しています。ただ、学校日誌や出席簿に、説明のつかない記録が残っています。先生が当時の担任でいらしたので、確認させていただきたいのです」

「六人でした」

黒田は、紗季の言葉を遮った。

「何度聞かれても、六人です。七人目などいませんでした」

「では、出席簿の『七人目、早退』という書き込みは、どなたが記したのでしょうか」

「知りません」

「先生の筆跡と比較することはできますか?」

「何をおっしゃっているのですか」

「筆跡が一致するかどうか、確認したいだけです」

「お断りします」

返事は即座だった。

「これ以上、私に連絡をしないでください」

「先生、お願いします。私は誰かを責めるために調べているわけではありません」

「だったら、なおさらです」

黒田の声が震えた。

「知らないことは、知らないままでいいんです。人間は、何もかも知る必要はありません」

「ですが、誰かが記録から消されているのだとしたら――」

「消されてなんかいません!」

電話の向こうで、何かが倒れる音がした。

続いて、黒田の荒い呼吸が聞こえた。

紗季は黙って待った。

やがて、黒田が低い声で言った。

「……水瀬さん。あなたは、あの子たちの何を知っているというのですか」

「あの子たち?」

黒田は答えなかった。

「七瀬小夜さんと、水野あきさんのことでしょうか」

「その名前を、簡単に口にしないで」

黒田の声は、怒りよりも悲痛な響きを帯びていた。

「あなたには、わからないんです。あの子たちが何を抱えていたのか。何を怖がっていたのか。何を、誰にも言えなかったのか」

「先生は、ご存じなのですね」

「……」

「小夜さんと、あきさんを」

沈黙。

紗季は、その沈黙を急かさなかった。

やがて、黒田は小さく言った。

「私は、あの子たちの担任でした」

それだけ言うと、電話は切れた。

紗季は、しばらくスマートフォンを見つめていた。

黒田は、七瀬小夜と水野あきの名前を知っている。

そして、二人について何かを知っていることを、とうとう否定しなかった。

ただし、それは二人が同じクラスに在籍していたことを、すべて裏づけるものではない。

名前を知っていた理由は、ほかにも考えられる。

転校の相談を受けていたのかもしれない。

保護者から事情を聞いていたのかもしれない。

あるいは、二人のうち片方だけが正式な児童で、もう片方は別の事情で学校に関わっていた可能性もある。

紗季はノートに、ひとつの言葉を書き込んだ。

『黒田佳代――二人の名前を知っている』

その下に、もうひとつ。

『なぜ、六人だったと言い続けるのか』

*

昼過ぎ、紗季は白石校長のもとを訪ねた。

「黒田先生と連絡が取れましたか?」

「はい。ただ、これ以上は話せないと言われてしまいました」

「そうですか……」

白石は、予想していたというように頷いた。

「先生は、何かおっしゃっていましたか」

「小夜さんと、あきさんの名前を口にしたとき、明らかに動揺されました。それから、写真についても……」

「写真?」

「集合写真の右端に、誰かが写っていた可能性があります。黒田先生は、写真を見たときに『切り取ったのね』とおっしゃいました」

白石は机の上で指を組んだ。

「それは、黒田先生が写真を切ったという意味でしょうか」

「わかりません。誰が切ったのかは、まだ確認できていません。ただ、先生が何かを知っていることは確かだと思います」

「水瀬さん」

白石は静かに言った。

「ひとつ、お願いがあります」

「何でしょうか」

「黒田先生を、犯人だと決めつけないでください」

紗季は目を上げた。

「私は、まだ誰も犯人だとは考えていません」

「それなら、いいのです」

白石は少しだけ表情を緩めた。

「前任の校長が残した資料には、当時の学校関係者について、いくつかの聞き取り記録が含まれていました。すべてが正式な記録ではありませんが、黒田先生についても、短い記述があります」

「見せていただけますか?」

「確認してみます」

白石は職員室の奥にある書類棚へ向かった。

鍵を開け、古い封筒を何通か取り出す。

その中から、茶色い封筒を一つ選んだ。

表には、前任校長の筆跡と思われる文字があった。

『平成十六年度 六年一組関係』

封筒を開けると、数枚の紙が入っていた。

最初の一枚は、学校行事の記録。

二枚目は、職員会議の議事メモ。

そして三枚目に、手書きの聞き取り記録があった。

日付は、平成十六年六月二十一日。

東側旧校舎の工事が完了した、六月十八日の三日後だった。

記録には、こう書かれていた。

『黒田教諭より、六年一組の児童写真について相談あり。卒業記念用の写真と、撮影当日の原本に相違がある可能性。本人は詳細を語らず。児童の安全と保護者への説明を優先すること』

紗季は、何度もその文章を読み返した。

「児童写真について相談……」

「ええ」

白石が言った。

「この記録を残した前任の校長は、当時はまだ教頭だったと聞いています。詳しいことは、私にもわかりません」

「撮影当日の原本と、卒業記念用の写真が違っていた……」

「そう読めますね」

「先生。これを、もう少し調べさせていただけませんか」

「もちろんです。資料の整理に必要な範囲であれば、確認していただいて構いません。ただし、原本を傷めないようにお願いします」

「ありがとうございます」

紗季は記録を撮影し、資料番号を記録した。

黒田は、写真について相談していた。

しかも、それは平成十六年六月二十一日。

五月二十七日の出来事から三週間余り。

東側旧校舎の工事が完了してから三日後。

そして、卒業アルバムが作られるよりも前の時期だった。

写真の加工が行われたのなら、卒業アルバムの印刷前だった可能性がある。

その作業を誰が担当したのか。

学校側が印刷所へ渡した写真は、最初から六人しか写っていなかったのか。

それとも、印刷所へ渡す前に、誰かが写真を加工したのか。

紗季は、さらに資料をめくった。

最後のページには、別の短いメモが挟まっていた。

『黒田教諭は「自分が止めるべきだった」と発言。ただし、何を指すか不明。児童の名前を記録に残すことについて、強い懸念を示す』

紗季は、その一文を見つめた。

自分が止めるべきだった。

何を止めるべきだったのか。

写真を切り取ること。

出席簿を書き換えること。

あるいは、五月二十七日に起きた何か。

黒田は、単に秘密を知っているだけではないのかもしれない。

自分の判断が、何かの結果につながったと考えている。

だからこそ、彼女は話せないのではないか。

「校長先生。この記録を書いた前任の校長先生に、当時のことを伺うことはできますか?」

「残念ながら、前任の校長はすでに亡くなっています」

「そうですか……」

「ただ、当時の学校職員の中には、まだ連絡が取れる方もいると思います。名簿を確認してみましょう」

「お願いします」

紗季は資料を封筒に戻した。

黒田の拒絶は、調査を終わらせるための壁ではなかった。

むしろ、その向こうに、まだ確認されていない事実があることを示していた。

*

その日の夕方、紗季はもう一度、黒田に電話をかけた。

今度は、すぐに拒否されることを覚悟していた。

「……何ですか」

黒田の声は疲れ切っていた。

「何度も申し訳ありません。前任の校長が残した記録を確認しました」

黒田は何も答えなかった。

「平成十六年六月二十一日、先生が六年一組の児童写真について相談された、と記録されています」

電話の向こうで、かすかな物音がした。

「撮影当日の原本と、卒業記念用の写真に相違がある可能性があった、と」

「……誰が、そんなものを残したの」

「前任の校長先生です」

「そう」

黒田は、小さく笑った。

笑いというより、息が漏れたような音だった。

「記録は、残るものね」

「先生は、写真に何があったのかをご存じなのではありませんか」

「水瀬さん」

黒田は、ゆっくりと言った。

「私は、あの子たちを守りたかったんです」

紗季は、息を止めた。

「あの子たち?」

「でも、守り方を間違えた」

黒田の声は、震えていた。

「私が、あのとき、きちんと話を聞いていれば。私が、あの子の言葉を信じていれば。少なくとも、あんなことには……」

そこで、黒田は口を閉じた。

「先生。あの日、何があったのですか」

「話せません」

「なぜですか」

「話せば、また同じことが起きるからです」

「同じこと?」

黒田は答えなかった。

「先生、何が起きたのか、教えてください。私は、事実を確認したいだけです」

「事実?」

黒田の声が、急に鋭くなった。

「あなたは、紙に書いてあることが事実だと思っているのですか。写真に写っているものが、すべてだと思っているのですか」

「いいえ。だからこそ、複数の資料と証言を照合しています」

「では、ひとつだけ教えてあげます」

黒田は、静かに言った。

「写真から消えたのは、子どもだけではありません」

紗季は、言葉を失った。

「……どういう意味ですか?」

「そのままの意味です」

「ほかに、何が消えたのですか?」

「もう、やめてください」

「先生!」

「私は、もう一度、あの子を失いたくないんです!」

黒田の声が、電話越しに響いた。

そして、長い沈黙が訪れた。

紗季は、何も言えなかった。

黒田は、自分の言葉を後悔しているようだった。

やがて、彼女はかすれた声で言った。

「……もう、電話をしないでください」

通話が切れた。

紗季は、スマートフォンを下ろした。

写真から消えたのは、子どもだけではない。

その言葉は、単に写真の加工について述べたものではないように聞こえた。

写真に写っていた何か。

記録に残っていた何か。

そして、誰かが覚えていた何か。

それらが、同じように消されてしまったのだろうか。

紗季は、ノートに黒田の言葉を書き留めた。

『写真から消えたのは、子どもだけではありません』

『私は、もう一度、あの子を失いたくない』

この二つの言葉には、矛盾があるようにも思えた。

もし、黒田が本当に子どもを守ろうとしていたのなら、なぜ名前を記録に残さなかったのか。

なぜ、六人だったと言い続けるのか。

なぜ、写真の右端に何があったのかを説明しないのか。

守るために隠したのか。

隠すことで、守れなくなったのか。

紗季には、まだわからなかった。

*

夜、紗季は自宅の机で、これまでの資料を整理していた。

学校日誌。

出席簿。

児童の作品。

三上亮の証言。

七冊目の卒業アルバム。

小夜が書いたと思われる紙片。

そして、黒田佳代についての聞き取り記録。

それぞれの資料を時系列に並べる。

五月二十七日。

児童一名について保護者へ連絡。

同日、教室に余分な机があったという三上の記憶。

その後、旧校舎東側の使用について確認する記録。

六月十八日、東側旧校舎の工事完了。

六月二十一日、黒田が児童写真について相談。

卒業アルバムには、六人の児童しか写っていない。

しかし、購入記録にない七冊目のアルバムが存在し、その表紙の内側には「黒田先生へ」「ななせ」と書かれている。

そして、黒田は、写真から何かが消えた可能性を否定しなかった。

紗季は、ノートに仮説を書いた。

『仮説一――写真の加工は、学校側の判断で行われた』

『仮説二――写真の加工は、学校外の第三者によって行われ、学校側は後からそれを知った』

『仮説三――卒業写真の原本そのものが、すでに加工された状態で学校へ戻されていた』

どれも、まだ確証はない。

しかし、黒田が六月二十一日に相談していたことを考えると、写真の加工が学校内で行われたのか、それとも外部の印刷所などで行われたのかを調べる必要がある。

紗季は、次に確認する項目を追加した。

『卒業アルバムの制作業者』

『当時の写真撮影者』

『写真の注文・納品記録』

『六年一組の卒業アルバム作成時期』

そこまで書いたとき、部屋の奥で音がした。

こん。

こん。

紗季はペンを止めた。

音は、机の下から聞こえている。

紙コップを、指で軽く叩くような音。

紗季はゆっくりと椅子を引いた。

机の下には、何もない。

しかし、床の上に、赤い糸が一本だけ伸びていた。

糸の先には、小さな白い紙コップがあった。

いつ、どこから現れたのか。

紗季にはわからなかった。

紙コップには、黒い文字で、こう書かれていた。

『せんせい』

紗季は、しばらくその文字を見つめた。

「……黒田先生のこと?」

紙コップから返事はなかった。

紗季は、触れずに距離を取った。

すると、紙コップの奥から、かすかな声が聞こえた。

『せんせい、きいてくれなかった』

紗季の胸が締めつけられた。

「黒田先生が?」

『ううん』

声は、静かに答えた。

『きいてくれた。でも、たすけてくれなかった』

紗季は息を止めた。

「誰が、助けてほしかったの?」

長い沈黙。

やがて、声は囁いた。

『わたし』

「あなたは、七瀬小夜さん?」

返事はない。

「水野あきさん?」

紙コップが、かすかに揺れた。

その揺れが風によるものなのか、紗季には判断できなかった。

そして、声が聞こえた。

『先生は、わたしの名前を知ってる』

「それなら、どうして教えてくれないの?」

『だって……』

声が途切れた。

紙コップの内側で、何かが擦れる音がした。

『名前を言ったら、また、いなくなっちゃうから』

紗季は、言葉を失った。

その言葉は、黒田の拒絶とつながっているようにも思えた。

黒田は、もう一度、あの子を失いたくないと言った。

しかし、名前を記録に残すことを恐れている。

子どもの声は、名前を言えば、またいなくなると言った。

どちらも、同じ恐怖を抱えているのだろうか。

紗季は、慎重に問いかけた。

「あなたは、名前を消されたの?」

紙コップは動かなかった。

「写真から?」

沈黙。

「出席簿から?」

沈黙。

「それとも、みんなの記憶から?」

その瞬間、紙コップの向こうから、かすかな笑い声がした。

楽しそうな笑い声ではなかった。

泣き声にも似ていた。

『ぜんぶ』

紗季は、息を止めた。

『でも、ひとつだけ、残ってる』

「何が?」

声は、ほとんど聞こえないほど小さくなった。

『約束』

紙コップの内側で、何かが切れるような音がした。

ぷつん。

赤い糸が、床に落ちた。

紙コップは、その場に残っていた。

紗季は、しばらく動けなかった。

やがて、スマートフォンを手に取り、時刻を確認した。

午前零時を過ぎていた。

紗季は、紙コップを撮影し、出現した時刻と場所を記録した。

その後、手袋をはめて紙コップを保護用の箱に収めた。

糸も、切れた状態のまま別の袋に入れた。

怪異の声を証拠として扱うことはできない。

しかし、紙コップや糸が物理的に存在するなら、それ自体は調査対象になる。

紗季は箱の蓋を閉じた。

その上に、付箋を貼る。

『要確認。発見場所・机の下。発見時刻・午前零時過ぎ』

ペンを置いたとき、スマートフォンが震えた。

新しいメッセージが届いていた。

差出人は、黒田佳代。

短い文章だった。

『明日、学校へ行きます。あなたに話しておかなければならないことがあります。ただし、私が話すことを、すべて記録に残すのはやめてください』

紗季は、何度もその文面を読み返した。

黒田は、調査を拒絶していた。

もう連絡をしないでほしいと言った。

それなのに、自分から話をするために学校へ来るという。

何を話すつもりなのか。

写真を誰が切ったのか。

小夜とあきは、どのような関係だったのか。

五月二十七日に、何が起きたのか。

あるいは、それらとは別の、もっと重大なことなのか。

紗季には、まだわからない。

ただ、ひとつだけ確かなことがあった。

黒田佳代は、二十二年前の出来事を忘れてはいない。

忘れられないのだ。

彼女は、誰かを守ろうとしていた。

しかし、その選択によって、誰かを傷つけてしまったのかもしれない。

そして今、その子の名前を口にすることさえ恐れている。

紗季は、明日の予定をノートに書き込んだ。

『黒田佳代、再面談』

その下に、もうひとつ。

『記録に残してはいけないこととは、何か』

窓の外では、風が吹いていた。

カーテンが揺れ、部屋の壁に細長い影が伸びる。

紗季は机の上の箱を見た。

箱の中に収めた紙コップは、もう何も語らない。

けれど、蓋の隙間から、赤い糸が一本だけ外へ伸びていた。

糸の先は、ノートの上に置かれている。

その先端が、ゆっくりと動いた。

まるで、誰かが見えない指で、文字を書こうとしているかのように。

紗季は目を凝らした。

糸が止まった場所には、黒田の名前があった。

その名前を、赤い糸が横切っていた。

そして、その下に、新しい文字が浮かび上がった。

『せんせいも、七人目だったの?』

紗季は、息を呑んだ。

黒田佳代は、教師だった。

児童ではない。

七人目の席に座るはずの人間でもない。

それなのに、なぜ、そんな問いが書かれたのか。

紗季は、ノートを閉じた。

答えを急いではいけない。

明日、黒田本人が来る。

彼女の口から、初めて語られる事実があるかもしれない。

ただし、その言葉が真実なのか、それとも長年の後悔によって形を変えた記憶なのかは、別に確かめなければならない。

紗季は部屋の明かりを消した。

暗闇の中で、最後にもう一度だけ、紙コップのほうを振り返った。

その奥から、子どもの声が聞こえた。

「せんせい、今度は、ちゃんと聞いてね」

返事をする者はいなかった。

しかし、その声は、紗季が眠りについたあとも、長いあいだ部屋の中に残っていた。

第4節 六人が口ずさむ同じ歌

翌朝、水瀬紗季は、月影小学校の正門が開くよりも早く校舎に着いた。

昨夜、黒田佳代から届いたメッセージは、何度読み返しても同じ文面だった。

『明日、学校へ行きます。あなたに話しておかなければならないことがあります。ただし、私が話すことを、すべて記録に残すのはやめてください』

記録を整理するために雇われた自分に、記録を残すなと言う。

矛盾している。

しかし、紗季には、その言葉を単なる身勝手な要求だと切り捨てることもできなかった。

黒田は、何かを隠している。

それは間違いない。

だが、隠しているものが自分の罪なのか、それとも、誰かを守ろうとして口を閉ざしてきた結果なのか。それだけは、まだ分からなかった。

校門をくぐり、昇降口へ向かう。

朝の校舎には、夜の湿気が残っていた。

職員室の鍵を開けると、窓の向こうに見える校庭は、薄い霧に包まれていた。閉校が決まった学校に、子どもたちの声はない。

それなのに、紗季は昨日からずっと、誰かが廊下の向こうで走っているような気配を感じていた。

振り返っても、誰もいない。

気のせいだと考えるには、あまりにも何度も続いていた。

机の上に鞄を置いたとき、足元で何かが擦れる音がした。

見ると、机の下に白い紙コップが置かれていた。

赤い糸が、取っ手代わりに結ばれている。

紙コップの側面には、子どもの文字で、こう書かれていた。

――うたって。

「……またなの?」

紗季は紙コップに触れず、しばらく見つめた。

昨夜、黒田の名前を指すように伸びていた赤い糸。

その先に浮かんだ文字。

――せんせいも、七人目だったの?

黒田は教師だ。2004年当時、六年一組を受け持っていた。

七人目の児童だったはずがない。

それでも、あの文字は、まるで何かを確かめようとしているようだった。

紗季は紙コップから目を離し、机の引き出しから手帳を取り出した。

黒田が話してくれるなら、聞くべきことは山ほどある。

ただし、彼女が望むように、話のすべてをそのまま記録に残すことはできない。

記録整理の仕事は、誰かの言葉を都合よく消すためのものではない。

何を残し、何を残さないのか。その判断には、理由が必要だった。

紗季は手帳を閉じた。

まずは、本人の話を聞こう。

そして、確認できた事実と、本人の記憶や推測を分けて考えよう。

そう決めたとき、職員室の電話が鳴った。

受話器を取る。

「はい、月影小学校です」

『……水瀬さんですか』

低く、かすれた女性の声だった。

「黒田先生ですか?」

『ええ。もう正門の前にいます』

紗季は窓の外を見た。

校門の向こうに、ひとりの女性が立っていた。

灰色のコートを着て、片手に小さな鞄を持っている。背筋は伸びているのに、顔はひどく疲れて見えた。

『ひとつ、お願いがあります』

「はい」

『あの子たちの名前を、軽々しく口にしないでください』

紗季は息を止めた。

「……七瀬小夜さんと、水野あきさんのことですか」

電話の向こうで、短い沈黙が落ちた。

『ええ。そうです』

「分かりました。先生が話してくださることを、許可なく録音したり、そのまま公開したりするつもりはありません。ただ、記録整理の仕事ですから、確認できた資料や、保存が必要な事実まで、理由なく消す約束はできません」

正直に伝えた。

しばらくして、黒田が小さく息を吐いた。

『……そういう人なのですね』

「どういう意味でしょうか」

『いいえ。こちらの話です。今、そちらへ行きます』

電話が切れた。

数分後、黒田は職員室に入ってきた。

紗季が椅子を勧めても、すぐには座らなかった。

部屋の中を見渡し、壁の時計、掲示板、古い書棚へと視線を動かしていく。

まるで、何十年も前に失くしたものが、まだどこかに残っていないか探しているようだった。

「先生」

紗季が声をかける。

「今日は、何を話してくださるのでしょうか」

「……歌のことです」

「歌?」

「六年一組の子どもたちが、よく口ずさんでいた歌です」

黒田はようやく椅子に腰を下ろした。

「あなたは、あの子たちが歌っていたものを知っていますか」

「いいえ」

「そうでしょうね。記録には残っていませんから」

その言葉に、紗季は引っかかりを覚えた。

「記録には残っていない。でも、先生は覚えていらっしゃるんですね」

「忘れられるものですか」

黒田の指が、膝の上で固く組まれた。

「あの子たちは、いつも同じ歌を歌っていました。休み時間も、掃除の時間も、帰り支度をしているときも。誰かが歌い始めると、ほかの子が自然に続ける。まるで、ずっと前から決められていた約束みたいに」

「どんな歌だったんですか」

黒田は、すぐには答えなかった。

窓の外で、枝が風に揺れた。

「歌詞は、全部は覚えていません。ただ……」

彼女は唇を震わせながら、かすかに歌った。

「ひとつ、ふたつ、席をあけて……」

紗季の背筋に冷たいものが走った。

黒田は続けた。

「みっつ、よっつ、手をつないで……」

声は小さく、音程も不安定だった。

それなのに、旋律には妙な懐かしさがあった。

初めて聞くはずなのに、どこかで知っている。

そんな感覚だった。

「いつつ、むっつ、帰り道……」

黒田の声が止まった。

「最後は?」

紗季が尋ねると、黒田は首を振った。

「思い出せません。いえ……思い出したくないのかもしれません」

「その歌は、先生が教えたものですか?」

「いいえ。私が赴任したときには、もう歌っていました」

「誰が最初に歌い始めたのかも、分からない?」

「分かりません。ただ、あの子たちは、あの歌を歌うときだけ、妙に楽しそうでした」

黒田は机の上に目を落とした。

「ひとりが歌い始めると、みんなが続く。でも、ときどき、誰かが途中で口を閉じるんです」

「誰かが?」

「ええ。歌詞の途中で、急に黙ってしまう。周りの子たちは、その子を見ようともしない。まるで、最初からそこに誰もいなかったみたいに」

紗季は、古い集合写真を思い出した。

六人の子どもたち。

写真の右端にある、不自然な空白。

卒業アルバムから切り取られたかもしれない誰か。

「先生。その歌は、七人目の子に関係しているのでしょうか」

黒田は、ゆっくり顔を上げた。

「……どうして、七人目だと思うのですか」

「出席簿に七瀬小夜さんの名前がありました。机の裏には水野あきさんの名前も。三上亮さんは、教室に余分な机があったと話しています。それに、先生ご自身が、卒業写真の原本と記念用の写真が違っていた可能性を、前任の校長に相談していた記録も見つかりました」

「もう、そこまで……」

黒田の顔から血の気が引いた。

「でも、先生。私はまだ、何があったのか分かっていません。だから、教えてほしいんです」

「教えたら、あなたもあの子たちを消すことになるかもしれません」

「どういう意味ですか」

「知ってしまった人は、何も知らなかった頃には戻れないんです」

その言葉は、脅しには聞こえなかった。

むしろ、黒田自身が長い年月をかけて味わってきた恐怖を、そのまま口にしているようだった。

紗季は椅子に座り直した。

「先生。ひとつだけ確認させてください」

「何でしょう」

「2004年5月27日。あの日、教室には何人の子どもがいましたか」

黒田の目が揺れた。

「出席簿の上では、六人です」

「出席簿の上では、ですね」

「……はい」

「では、先生の記憶では?」

黒田は唇を結んだ。

長い沈黙のあと、ようやく答えた。

「六人の声が、聞こえていました」

「声が?」

「ええ。私は、人数を数えたわけではありません。教室にいた子どもたちが歌っていた。だから、六人の声が聞こえていたのです」

「それは、六人しかいなかったという意味ではないんですね」

黒田は答えなかった。

その沈黙こそ、答えの一部なのかもしれなかった。

*

黒田が持参した鞄から取り出したのは、薄い封筒だった。

表には、鉛筆で「六年一組」と書かれている。

封筒の角は擦り切れ、何度も開け閉めされたように柔らかくなっていた。

「これは、私が個人的に保管していたものです」

「中身は何ですか」

「授業で使ったものや、子どもたちが書いた紙です。大したものではありません」

黒田は封筒を机に置いた。

「ただ、あなたが探しているものが入っているかもしれません」

紗季は、すぐには手を伸ばさなかった。

「先生。これは、学校に残すべき資料ですか?」

「分かりません」

「分からない?」

「学校の記録として作られたものもあれば、子どもたちが私に渡しただけのものもあります。正式な文書ではありません。だから、残すべきなのか、処分すべきなのか……私には、もう判断できないのです」

黒田は、疲れたように笑った。

「ずっと、そうやって逃げてきました」

紗季は封筒を開けた。

中には、折り畳まれた紙が数枚と、小さな色紙が入っていた。

色紙には、星が七つ描かれている。

赤、青、黄色、緑、紫、橙、そして白。

七つの星の下には、子どもの字で短い文章が書かれていた。

『みんなで、またうたおうね』

裏面には、六つの名前が並んでいた。

三上亮。

そして、ほかの五人の名前。

その下に、もうひとつ、薄く消された跡があった。

鉛筆で書かれた文字を、消しゴムで何度も擦ったような痕跡だった。

紗季は紙を斜めに傾け、窓から入る光にかざした。

残っている線を慎重に追う。

最初の一文字は、ひらがなの「さ」に見えた。

その後ろには、かすかに「よ」の丸い線。

「……七瀬小夜さん?」

黒田が顔を背けた。

「名前を、消したんですか」

「私が消したのではありません」

即座に返ってきた言葉だった。

だが、その声には、潔白を主張する強さよりも、何度も自分に言い聞かせてきた人間の弱さがあった。

「では、誰が?」

「分かりません」

「先生は、見ていないんですか」

「……見ました」

紗季は息を呑んだ。

黒田は、消された名前から目を離せなかった。

「誰かが、この紙から名前を消しているところを見ました。でも、その人の顔は……」

「顔は?」

「見ていません。見たくなかったのかもしれません」

また、曖昧な答えだった。

紗季は問い詰めたい気持ちを抑えた。

彼女の話をすべて信じるわけにはいかない。

しかし、彼女が何かを恐れていることだけは、確かだった。

「ほかの紙も、見てもいいですか」

「ええ」

紗季は、次の紙を開いた。

それは、子どもたちが書いたと思われる短い歌詞だった。

紙の上部に、丸い文字でこう書かれていた。

『せきあけのうた』

その下には、黒田が先ほど口ずさんだものとよく似た歌詞が並んでいた。

『ひとつ、ふたつ、席をあけて』

『みっつ、よっつ、手をつないで』

『いつつ、むっつ、帰り道』

『ななつめの子は――』

そこで文章が途切れていた。

その下には、別の筆跡で、強く線を引いた跡がある。

何度も、何度も、同じ部分を塗りつぶしていた。

紙が破れかけるほどの力で。

「七つ目の子は……何と書かれていたんですか」

黒田は、目を閉じた。

「覚えていません」

「本当に?」

「覚えていないんです」

彼女の声が、震えた。

「私は、あの歌の続きを知っていました。でも、今は思い出せない。思い出そうとすると、別の声が聞こえるんです」

「別の声?」

「子どもたちの声です。六人分の声が、同じ歌を歌っている。その中に、ひとつだけ、少し遅れて聞こえる声がある」

黒田は耳を押さえた。

「その声が、いつも言うんです」

「何と?」

「……『あけておいて』と」

紗季の指先が冷たくなった。

机の下の紙コップ。

そこに書かれていた言葉。

――うたって。

そして、三上亮が口にした記憶。

――あきちゃんのぶんも、あけておいて。

「先生。その声は、小夜さんの声ですか。それとも、あきさんの声ですか」

「分かりません」

「二人は、別々の子どもだったんですよね?」

黒田は顔を上げた。

その目に、初めてはっきりとした恐怖が浮かんだ。

「……どうして、そう思うのですか」

「机の裏には、二人の名前がありました。小夜さんの名前の下に、あきさんの名前が彫られていた。二人が同じ人物だったとは、考えにくいです」

「そうですね」

「先生は、二人を知っていたんですよね」

「……はい」

その返事は、これまでのどの言葉よりも明瞭だった。

「では、教えてください。七瀬小夜さんと、水野あきさんは、どんな子どもだったんですか」

黒田は、両手を組み直した。

「小夜は、静かな子でした。大勢の前で話すのは苦手でしたが、誰かが困っていると、必ずそばに行く。自分が傷ついても、相手をひとりにしない子でした」

「水野あきさんは?」

「……あきは、よく歌う子でした」

その言葉を口にした瞬間、黒田の顔が歪んだ。

「授業中でも、廊下でも、給食の時間でも。鼻歌を歌っていました。音楽の授業では、誰よりも大きな声で歌っていました」

「その二人が、同じ六年一組にいたんですか」

「……いたはずです」

「はず、というのは?」

「小夜のことは、よく覚えています。あきのことも、覚えています。でも、二人が同時に教室にいた場面を思い出そうとすると……どうしても、うまくいかないんです」

紗季は、言葉を失った。

記憶が曖昧になることはある。

長い年月が経てば、細部が失われるのも不自然ではない。

けれど、二人の子どもを知っているはずなのに、同じ場所にいた場面だけが思い出せないというのは、奇妙だった。

「先生は、記憶を整理するために、何か資料を見直したことはありますか?」

「何度もあります。出席簿も、学級日誌も、卒業アルバムも。でも、見るたびに、記憶と記録が食い違っていくんです」

「記録が変わったのではなく、記憶が変わっている可能性もあります」

「ええ。私もそう思おうとしました」

黒田は、窓の外へ目を向けた。

「でも、写真が違っていたんです」

紗季は、前任校長のメモを思い出した。

卒業記念用の写真と、撮影当日の原本に相違がある可能性。

「撮影当日の写真を、先生は見たんですか?」

「はい」

「そこには、何人写っていましたか?」

黒田は、長い時間をかけて答えた。

「……七人でした」

職員室の空気が止まったように感じた。

「六人ではなく?」

「七人です。私は確かに、七人の子どもが並んでいる写真を見ました」

「その写真は、今どこにあるんですか」

「分かりません。卒業記念用の写真が作られたあと、原本を確認しようとしたときには、もう見つかりませんでした」

「誰が保管していたんですか?」

「学校の記録として、職員室で管理されていたはずです。けれど、誰が最後に触れたのかまでは分かりません」

「写真から、誰かが切り取られたんですか?」

黒田は首を横に振った。

「それも分かりません。卒業記念用の写真は、最初から六人しか写っていないように見えました。でも、原本を見た記憶では、七人いたんです」

「その七人目は、小夜さんですか?」

黒田の唇がわずかに動いた。

だが、声は出なかった。

紗季は、消された歌詞の紙を見下ろした。

七つの星。

七人の子ども。

六人分の名前。

そして、消された一つの名前。

すべてが同じ方向を指しているようで、肝心なところだけが、霧の中に隠されている。

*

話が途切れたとき、校舎の廊下から小さな音が聞こえた。

ぽつん。

ぽつん。

誰かが、床を歩いている。

紗季は顔を上げた。

「先生、誰か来ましたか?」

黒田は答えなかった。

音は、職員室の前で止まった。

そして、扉の向こうから、子どもの歌声が聞こえた。

「ひとつ、ふたつ、席をあけて……」

紗季は立ち上がった。

黒田が、鋭い声で制した。

「開けないで!」

紗季の手が、扉の取っ手の手前で止まった。

歌声は続いていた。

「みっつ、よっつ、手をつないで……」

ひとりの声ではなかった。

少なくとも、二人。

いや、もっといる。

幼い声が重なり合い、少しずつ旋律をそろえていく。

「いつつ、むっつ、帰り道……」

黒田は椅子から立ち上がれずにいた。

その顔は青ざめ、目は扉に釘付けになっている。

「先生……?」

「聞かないで」

「でも、これは……」

「聞いてはいけないんです!」

その瞬間、歌声がぴたりと止まった。

静寂が落ちる。

扉の向こうから、子どもの声がした。

「せんせい」

黒田が、喉の奥で小さく息を呑んだ。

「……やめて」

「せんせい、つづき、うたって」

「やめなさい……」

「みんな、まってるよ」

紗季は、扉を見つめたまま動けなかった。

子どもたちは、先生を呼んでいる。

誰かひとりではない。

何人もの子どもが、同じ言葉を口にしている。

その声の中に、ひとつだけ、ほかより少し遅れて聞こえる声があった。

「……あけておいて」

紗季は、三上亮の言葉を思い出した。

あきちゃんのぶんも、あけておいて。

そして、机の裏に彫られていた文字。

あきちゃんのぶんも、あけておいて。

同じ言葉。

同じ歌。

同じ約束。

けれど、誰のための席なのかは、まだ分からない。

やがて、廊下から足音が遠ざかっていった。

最後に、ひとりの子どもが、くすりと笑った。

扉の向こうには、誰もいなかった。

紗季がそっと廊下を確認して戻ると、黒田は両手で顔を覆っていた。

「先生……今の声は、聞こえましたよね」

「……ええ」

「先生にも聞こえるんですね」

「聞こえます」

黒田は、震える声で答えた。

「だから、忘れられないんです」

「何を?」

「あの歌を」

黒田は顔を上げた。

「私は、あの歌を止めようとしました。歌うのをやめなさい、と何度も言いました。でも、子どもたちはやめなかった」

「なぜですか」

「分かりません。ただ、あの子たちは、歌の最後まで歌わなければならないと思っていたようでした」

「最後まで歌うと、何が起きるんですか?」

「……分かりません」

また、その答えだった。

紗季は、黒田を責めることができなかった。

彼女が真実を知らないのか、知っていて話せないのか。

その区別さえ、まだついていない。

「先生。あの日、何があったんですか。5月27日、教室で何が起きたんですか」

黒田は、しばらく黙っていた。

やがて、ゆっくりと口を開いた。

「午後の授業が終わったあと、私は子どもたちに帰るように言いました」

「はい」

「六人が、教室を出ました」

「六人が?」

「……ええ」

黒田は目を閉じた。

「でも、廊下に出たあと、ひとりが戻ってきたんです」

紗季の心臓が大きく跳ねた。

「誰ですか?」

「それが……」

黒田は、こめかみを押さえた。

「分からないんです。顔も、名前も、思い出せない。でも、その子は私に言いました」

「何と?」

「『先生、席をあけておいてね』と」

紗季は息を呑んだ。

「それで、先生は?」

「私は、何の席のことか分からないと答えました。すると、その子は笑って……」

黒田の目に涙が浮かんだ。

「『先生も、あとで分かるよ』と言ったんです」

職員室の時計が、かちりと音を立てた。

黒田は鞄を閉じた。

「今日は、ここまでにしてください」

「先生、まだ聞きたいことが――」

「これ以上話したら、私はまた、あの子の名前を間違えてしまう」

黒田は立ち上がった。

「それだけは、したくないんです」

紗季は、彼女を引き止めなかった。

名前を間違える。

その言葉が、妙に引っかかった。

七瀬小夜。

水野あき。

どちらかの名前を、誰かが別の誰かのものとして扱ってしまったのだろうか。

あるいは、名前を呼ぶことそのものが、誰かを消す行為につながってしまうのだろうか。

まだ、何も分からない。

黒田が職員室を出たあと、紗季は封筒の中の紙を整理した。

色紙、歌詞、古いメモ。

どれも、正式な学校記録ではない。

しかし、2004年当時の子どもたちが何を考え、何を恐れていたのかを知るための、重要な手掛かりになる可能性がある。

紗季は、封筒の中身を一枚ずつ撮影し、原本の状態を記録した。

黒田の証言については、彼女の許可なく発言をそのまま記録に転記することは避けた。ただし、資料の来歴と、今後確認が必要な点は、自分の作業メモに残すことにした。

歌詞の紙を最後にもう一度確認する。

『ひとつ、ふたつ、席をあけて』

『みっつ、よっつ、手をつないで』

『いつつ、むっつ、帰り道』

『ななつめの子は――』

その先は、黒く塗りつぶされている。

紗季は、紙を封筒に戻そうとした。

そのとき、裏面に薄い文字があることに気づいた。

表から塗りつぶされた部分の裏側に、筆圧の跡が残っていたのだ。

紗季は、紙を机に置き、光の角度を変えて慎重に確かめた。

浮かび上がったのは、短い一文だった。

――六人で歌えば、ひとりは帰れる。

紗季は、その文字を何度も見つめた。

六人で歌えば、ひとりは帰れる。

では、帰れなかったのは誰なのか。

七人目だった子どもなのか。

それとも、七人目にされてしまった子どもなのか。

紗季は、封筒を閉じた。

その瞬間、机の下から、かすかな音がした。

紙コップが床を転がる音だった。

朝、置かれていた紙コップが、いつの間にか机の中央へ移動していた。

赤い糸は、紗季の椅子の脚に結びついている。

紙コップの側面には、朝にはなかった文字が浮かんでいた。

――さいごまで、うたって。

紗季は、紙コップを手に取らなかった。

すると、コップの向こう側から、子どもの声が聞こえた。

「ひとつ、ふたつ……」

ひとりの声が歌い始める。

「みっつ、よっつ……」

別の声が続く。

「いつつ、むっつ……」

六人分の声が、重なった。

そして、最後に。

誰よりも小さな声が、そっと歌った。

「ななつめの子は……」

そこで、歌は止まった。

紗季は、息をすることさえ忘れていた。

やがて、紙コップの内側から、かすれた声が聞こえた。

「……わたし、だれ?」

その問いに答える者は、誰もいなかった。

窓の外では、霧がゆっくりと晴れ始めていた。

しかし、月影小学校の古い教室には、まだ誰かの席が空いたままだった。
 

 第5節 出席簿にない名前

――六人で歌えば、ひとりは帰れる。

黒田佳代が残した歌詞の裏側にあった一文は、水瀬紗季の頭から離れなかった。

六人で歌えば、ひとりは帰れる。

それは、子どもたちの遊び歌にしては、あまりにも不吉な言葉だった。

誰かを帰すために、六人で歌う。

では、その誰かは、どこから帰るのだろう。

家からか。

学校からか。

それとも、誰も知らない場所からか。

紗季は、黒田が持ってきた封筒の中身を整理しながら、何度もその一文を読み返した。

歌詞の紙には、七つ目の節があったはずの場所が、黒く塗りつぶされていた。

そこだけ筆圧が異様に強く、紙の繊維が毛羽立っている。消しゴムで消したというより、書かれていた文字そのものを、紙から削り取ろうとしたように見えた。

けれど、裏面には筆圧の跡が残っていた。

誰かが消そうとしても、完全には消えなかった言葉。

紗季は、歌詞の紙を透明な保護袋に入れた。

次に確認するべきものは、三上亮の証言だった。

亮は、2004年当時、六年一組に在籍していた元児童のひとりだ。

彼は、教室には六人しかいなかったと言った。

それなのに、余分な机があったことを覚えていた。

誰かが座っていたような気がすることも。

そして、誰かが口にした「あきちゃんのぶんも、あけておいて」という言葉も。

記憶の中には、確かに誰かがいる。

だが、その人物の名前や顔だけが、抜け落ちている。

もし亮ひとりだけなら、曖昧な記憶として片づけられたかもしれない。

しかし、ほかの五人も同じだったら。

紗季は、校長の白石奈津子に連絡を取り、六年一組の元児童について、現時点で確認できる範囲の情報を照合したいと伝えた。

個人情報の扱いには慎重になる必要がある。学校が保管する連絡先を、目的を説明せずに使うわけにはいかなかった。

奈津子はしばらく考えたあと、退職した元児童の一人が以前、閉校準備について問い合わせてきたことを教えてくれた。

「三上さん以外にも、何人かが学校のことを気にしていたんです。ただ、皆さん、何を確認したいのかは、はっきりおっしゃいませんでした」

「その方たちは、2004年の六年一組の児童ですか?」

「ええ。卒業アルバムに名前が載っている六人です」

「……六人全員ですか」

奈津子は、すぐには答えなかった。

「全員かどうかは、私も確認してみます。ただ、水瀬さん。ひとつだけ覚えておいてください」

「何でしょう」

「学校に残っている記録が、すべてとは限りません。でも、残っていないことだけを理由に、誰かが存在しなかったと決めることもできません」

その言葉は、今の紗季にとって、何より重要なものだった。

記録にない。

それは、存在しなかったという意味ではない。

けれど、存在したと主張するだけでは、その人が確かにいたことの証明にもならない。

だからこそ、証言を集める必要がある。

紗季は、元児童たちに連絡を取るための文面を作成した。

目的は、閉校に伴う記録整理の一環として、2004年度の学級資料について事実関係を確認すること。

七瀬小夜と水野あきという名前についても、最初から答えを誘導するような質問は避ける。

まずは、彼ら自身の記憶を聞く。

そう決めた。

*

最初に返事をくれたのは、三上亮だった。

紗季が追加の聞き取りをお願いすると、彼は電話口で長く沈黙した。

『……ほかのやつにも、聞くんですか』

「はい。可能な範囲で、六人全員の記憶を確認したいと思っています」

『どうして、そこまで?』

「証言に食い違いがあるからです。記録と記憶のどちらかを、最初から正しいと決めることはできません」

亮は、小さく笑った。

『そんな言い方をする人、初めてです』

「そうですか?」

『普通は、どっちかを間違いだって決めつけるでしょう』

「間違いがあるなら、何が間違っているのかを確かめたいんです」

しばらくして、亮は言った。

『……分かりました。もう一度、話します』

約束した場所は、前回と同じ図書館の喫茶スペースだった。

亮は、前よりも疲れた顔をしていた。

テーブルに座ると、紗季が質問する前に、自分から口を開いた。

「この前、帰ってから、夢を見たんです」

「夢?」

「小学校の教室でした。みんなで帰りの会をしていて……いや、帰りの会だったのかも、よく分かりません。机が並んでいて、先生が前に立っていて」

「黒田先生ですか?」

「たぶん」

亮は眉間を押さえた。

「そこで、誰かが歌っていたんです」

紗季は、手元のペンを止めた。

「どんな歌でしたか?」

「覚えていません。でも、みんな知っている歌でした。ひとりが歌うと、ほかのやつも続ける。そんな感じで」

「その中に、七瀬小夜さんはいましたか?」

亮の顔が強張った。

「……その名前、また聞くんですね」

「前回、名前を出したとき、何か思い出しかけているように見えました」

「そうでしたか」

「無理に思い出していただく必要はありません。ただ、覚えていることと、覚えていないことを、そのまま教えてください」

亮は両手を見つめた。

「小夜ってやつと、遊んだことはあるんです」

紗季は、すぐに聞き返さなかった。

彼自身が、今初めて、その事実を言葉にしたようだったからだ。

「どんな遊びを?」

「……覚えていません」

「校庭ですか? 教室ですか?」

「それも、分かりません。でも、一緒に遊んだ。そういう感覚だけは、はっきりあるんです」

「その子の顔は?」

亮は顔を上げた。

「思い出せません」

「声は?」

「……分からない」

「背格好や、髪型は?」

「何も」

彼は苛立ったように首を振った。

「おかしいですよね。遊んだことがあるなら、普通は何か覚えているはずでしょう。せめて、顔くらいは」

「いつ頃の記憶だと思いますか?」

「六年生の頃です。たぶん、あの教室で」

「その子を、名前で呼んだことは?」

「……あったと思います」

「小夜、と?」

亮は、ゆっくりとうなずいた。

「口が、そう動くんです。夢の中で。顔は見えないのに、俺はその子を呼んでいた」

「小夜さんは、返事をしましたか?」

「それが……」

亮の視線が、テーブルの一点に落ちた。

「返事をしていたのかどうかも、分からないんです」

紗季は、慎重に質問を続けた。

「ほかの同級生と、小夜さんについて話したことはありますか?」

「ありません。少なくとも、覚えていません」

「でも、小夜さんと遊んだ記憶はある」

「はい」

「その顔だけが、思い出せない」

「……そうです」

亮は、深く息を吐いた。

「水瀬さん。俺、誰かを忘れたんでしょうか」

その質問に、紗季はすぐには答えられなかった。

忘れたのか。

忘れさせられたのか。

あるいは、記憶の中に別の何かが混じっているのか。

今の段階では、どれも断定できない。

「まだ分かりません。でも、思い出せないことと、最初から存在しなかったことは違います」

亮は、目を閉じた。

「……そうですよね」

彼はしばらく黙ったあと、もうひとつの記憶を話した。

「小学校の卒業式の日、教室に戻ったときのことを覚えています」

「何があったんですか?」

「机の上に、紙が置いてあったんです。小さな紙で、誰かが書いたみたいな」

「何と?」

「『また、七人で遊ぼうね』」

紗季の心臓が跳ねた。

「その紙は、どうしましたか?」

「分かりません。持って帰ったのか、捨てたのか。そもそも、本当に卒業式の日だったのかも、今となっては……」

亮は唇を噛んだ。

「ただ、その言葉を見て、俺は泣いたんです」

「泣いた?」

「理由は分からない。でも、泣いていた。周りのやつに何か言われても、何も答えられなかった」

亮は、ゆっくりと顔を上げた。

「俺たちは、何を忘れてしまったんでしょう」

紗季は答えられなかった。

その問いの答えを探すために、彼女はここにいる。

しかし、調べれば調べるほど、分からないことばかりが増えていく。

*

その後、紗季は、連絡の取れた元児童たちに、それぞれ別の場所で話を聞いた。

六人が同じ場所に集まれば、誰かの言葉に引っ張られて記憶が変わる可能性がある。

だから、ひとりずつ。

同じ質問を、順番を変えながら尋ねた。

七瀬小夜という名前を聞いたことがあるか。

2004年当時、同じ学級に、ほかの児童がいた記憶はないか。

誰かと遊んだ記憶はあるか。

その人物の顔を思い出せるか。

答えは、驚くほど似ていた。

ひとり目の女性は、現在、県外で働いている元児童だった。

「小夜ちゃん……?」

名前を聞いたとき、彼女は自然にそう呼んだ。

「小夜ちゃんと遊んだこと、ありますか?」

「あります。たぶん、毎日」

「どんな遊びをしましたか?」

「校庭で……ううん、教室だったかな。折り紙をしたこともあるし、鬼ごっこもしたと思います」

「その子の顔は、思い出せますか?」

女性は、困ったように笑った。

「変ですね。名前を聞いたら、顔もすぐ思い出せると思ったのに」

彼女は目を閉じた。

「……思い出せない」

しばらく考えてから、ぽつりと付け加えた。

「でも、手をつないだ感触は覚えています」

ふたり目の男性は、名前を聞くなり、明らかに動揺した。

「どうして、その名前を知っているんですか」

「学校の資料で見つけました」

「……そうですか」

「七瀬小夜さんと、遊んだ記憶はありますか?」

男性は、長い沈黙のあとに答えた。

「あります」

「どんな子でしたか?」

「優しかったと思います。俺が転んだとき、手を貸してくれた……ような気がする」

「顔は?」

「分かりません」

「声は?」

「分からない。でも、優しかったことだけは覚えているんです」

三人目の女性は、名前を聞いて首を傾げた。

「小夜ちゃん? そんな子、いたかな……」

ところが、紗季が「一緒に遊んだ記憶はありますか」と尋ねると、彼女は急に表情を変えた。

「あります」

「どんな遊びを?」

「かくれんぼです。あの子、隠れるのが下手で、いつもすぐ見つかるんです」

「その子の顔は、思い出せますか?」

「……いいえ」

女性は、自分の答えに戸惑っていた。

「おかしい。今、あの子が笑っているところまで想像できたんです。でも、顔だけがない」

四人目の元児童は、歌のことを覚えていた。

「みんなで歌っていた歌があったんです。何の歌だったかは、思い出せません。ただ、途中で歌うのをやめると、誰かが怒るんですよ」

「誰が怒るんですか?」

「分かりません。先生だったのか、友達だったのか……」

「小夜さんも、その歌を歌っていましたか?」

「……歌っていました」

彼は即答した。

それから、少し遅れて、顔をしかめた。

「いや、違う。歌っていたのは、俺たちだった。あの子が歌っていたのかどうかは、分からない」

五人目の元児童は、もっと奇妙なことを話した。

「卒業してからも、ときどき、ひとり分の席を空けなきゃいけない気がしていたんです」

「ひとり分の席?」

「食事のときとか、友達と集まるときとか。誰かが座る場所を空けておかないといけない。そうしないと、何か大切なことを忘れてしまうような気がして」

「それは、いつ頃からですか?」

「分かりません。ずっと前からです」

「その席に座る人の顔は?」

女性は、ゆっくりと首を振った。

「……ありません」

六人目は、紗季の質問を最後まで聞くと、椅子の背もたれに身を預けた。

「小夜と遊んだことはあります」

彼は、はっきりとそう言った。

「でも、顔は思い出せない。名前を聞くと、懐かしい気持ちになる。それなのに、写真を見ても、どの子が小夜なのか分からない」

「写真を見たことがあるんですか?」

「卒業アルバムです。あなたが学校で見つけたものとは別に、家に残っているんです」

「見せていただけますか?」

「……いいですよ」

彼は鞄から、古い卒業アルバムを取り出した。

表紙は色褪せ、角が擦り切れていた。

六年一組の集合写真。

そこには、六人の子どもたちが並んでいた。

紗季は、一人ひとりの顔を確認した。

どの子も、写真の中では普通に笑っている。

しかし、右端には、ほかの写真と同じように、不自然な空白があった。

「この写真に、小夜さんは写っていますか?」

男性は、写真を見つめた。

「……分かりません」

「六人のうちの誰かが、小夜さんだと思いますか?」

「分かりません」

「では、この六人とは別に、七人目がいたと思いますか?」

男性は、しばらく写真を見つめていた。

やがて、ぽつりと答えた。

「いたと思います」

「どうして、そう思うんですか?」

「この写真を見ると、いつも、誰かが足りない気がするんです」

彼は写真の右端を指でなぞった。

「でも、誰が足りないのか、分からない」

紗季は、アルバムを丁寧に閉じた。

六人全員が、小夜と遊んだ記憶を持っていた。

それぞれの記憶は違っていた。

校庭で遊んだ。

手をつないだ。

転んだときに助けてもらった。

かくれんぼをした。

同じ歌を歌った。

ひとり分の席を空けていた。

記憶の細部は一致しない。

しかし、ひとつだけ、全員に共通していることがあった。

誰ひとりとして、小夜の顔を思い出せなかった。

*

その日の夕方、紗季は月影小学校へ戻った。

白石奈津子は校長室で待っていた。

「六人全員と、話せましたか?」

「はい。連絡が取れた方については、個別に聞き取りをしました」

「何か分かりましたか?」

紗季は、手帳を開いた。

「六人とも、七瀬小夜さんと遊んだ記憶を持っていました」

奈津子の表情が変わった。

「……全員が?」

「はい。ただし、遊んだ場所や内容は、それぞれ違います。誰かの証言が、ほかの人の記憶を誘導した可能性を避けるため、個別に質問しました。それでも、全員が小夜さんという名前に反応し、一緒に遊んだことがあると答えています」

「それで……顔は?」

「誰も思い出せませんでした」

奈津子は、口元に手を当てた。

「そんなことが……」

「先生は、小夜さんの顔を覚えていますか?」

奈津子は、ゆっくりと首を振った。

「私は、当時この学校にはいませんでした。ですから、顔を覚えているはずがありません」

「そうですよね」

「でも……」

奈津子は、机の上に置かれた古い出席簿を見た。

「その名前が書かれているのを見たとき、私も、どこかで聞いたことがあるような気がしたんです」

「七瀬小夜という名前を?」

「ええ。もちろん、以前の資料で目にしたのかもしれません。でも、ただ名前を読んだだけではないような……」

奈津子は、言葉を探した。

「誰かを、待っていたような気がしたんです」

紗季は、何も言わなかった。

校長が当時の関係者ではない以上、その感覚を事実の証拠にすることはできない。

けれど、彼女自身も、同じような感覚を何度も経験していた。

初めて聞く歌なのに、どこか懐かしい。

顔を知らない子どもなのに、名前を呼ばれると、胸の奥が痛む。

存在を証明する記録が見つからないのに、確かに誰かがいたように感じる。

それらをすべて偶然だと片づけるには、重なりすぎていた。

「先生。出席簿をもう一度、確認させてください」

紗季は言った。

「六人の名前が書かれているページと、七瀬小夜さんの名前が書かれているページ。それから、ほかの資料との違いを確認したいんです」

奈津子は頷いた。

古い出席簿が、机の上に置かれた。

紗季は、最初のページを開いた。

六人の名前が並ぶ。

その下に、鉛筆で書き加えられた七つ目の名前。

七瀬小夜。

出席欄には、丸印がついている。

紗季は、次のページを開いた。

六人の名前。

その次も、六人。

さらに次も、六人。

七瀬小夜の名前は、最初のページ以外には、どこにもなかった。

そのとき、紗季は、あることに気づいた。

「……先生」

「どうしました?」

「この出席簿、年度の最初から、最後まで、同じ筆跡で書かれていますよね」

「ええ。担任が記入したものだと思います」

「でも、この七瀬小夜という名前だけ、筆跡が違います」

奈津子が身を乗り出した。

「本当ですね……」

「名前だけではありません。出席の丸印も、ほかの児童のものとは形が違います」

紗季は、ページを並べて見比べた。

「この名前は、最初から正式に登録されていたものではない可能性があります。あとから書き加えられたのかもしれません」

「誰が、何のために?」

「それを確かめたいんです」

紗季は、出席簿の紙面を撮影した。

それから、ページの端に残る筆圧の跡を確認した。

七瀬小夜の名前の下には、薄い線がいくつも残っていた。

まるで、何か別の文字が書かれ、その上から消されたようだった。

紗季は、角度を変えて光を当てた。

最初は、何も分からなかった。

しかし、ページを少し傾けたとき、文字の一部が浮かび上がった。

ひらがなの「あ」。

その隣に、細長い縦線。

さらに、その下に、かすかな丸み。

紗季は息を止めた。

「……水野、あき?」

奈津子が顔を上げた。

「え?」

「先生、この下に、別の名前が書かれていたようです」

紗季は、紙面を傷つけないよう、慎重に角度を変えた。

だが、残っているのは筆圧の痕跡だけだった。

完全に読むことはできない。

ただ、文字の並びは、机の裏に彫られていた「みずの あき」とよく似ていた。

もし、最初に書かれていた名前が水野あきだったとしたら。

誰かがそれを消し、七瀬小夜と書き換えたのだろうか。

それとも、別の名前を消した上から、さらに小夜の名前が書かれたのか。

紗季は、まだ判断しなかった。

筆圧だけでは、名前の正確な読みも、書き換えの順序も確定できない。

必要なのは、ほかの資料との照合だった。

そのとき。

校長室の廊下から、歌声が聞こえた。

「ひとつ、ふたつ、席をあけて……」

紗季は顔を上げた。

奈津子も、扉のほうを見つめていた。

「……今の、聞こえましたか?」

「はい」

声は、廊下の向こうから近づいてきた。

「みっつ、よっつ、手をつないで……」

紗季は立ち上がった。

しかし、奈津子が彼女の腕をつかんだ。

「待ってください」

「でも……」

「今、廊下に誰かいるんですか?」

その問いに、紗季は答えられなかった。

歌声が止まった。

そして、扉の向こうから、幼い声が聞こえた。

「……さよちゃんは?」

奈津子の手に力がこもった。

紗季は、ゆっくりと扉を見つめた。

「さよちゃんは、どこ?」

子どもの声が、もう一度尋ねた。

奈津子は、唇を震わせながら言った。

「……誰も、いませんよね」

紗季は、返事をしなかった。

扉を開けるべきか。

開けずに、声が消えるのを待つべきか。

迷っているうちに、廊下は静かになった。

奈津子が手を離す。

紗季は、扉を開けた。

誰もいなかった。

廊下の窓は閉まっている。

床には、足跡ひとつなかった。

ただ、職員室へ続く廊下の中央に、白い紙が一枚落ちていた。

紗季は拾い上げた。

折り畳まれた紙には、子どもの文字で、こう書かれていた。

『せきは、六つ』

その下に、もう一行。

『でも、いっしょにあそんだのは、七人』

紗季は、紙を見つめた。

その裏面には、さらに小さな文字があった。

『さよちゃんの顔を、わすれないで』

しかし、最後の一文は、途中から強く塗りつぶされていた。

紗季は、奈津子に紙を見せた。

奈津子は、何も言わずに首を振った。

「……私には、書けません。こんな文字」

「先生が書いたとは思っていません」

「では、誰が……」

紗季は答えられなかった。

誰が書いたのか。

いつ書かれたのか。

何のために、ここへ置いたのか。

確認できることは、何ひとつなかった。

ただ、紙の上の文字だけが、確かに残っていた。

*

その夜、紗季は宿泊先の部屋で、六人の証言を整理した。

それぞれの名前の横に、覚えていることを書き出していく。

遊んだ記憶。

歌の記憶。

ひとり分の席。

卒業式の日に見た紙。

手をつないだ感触。

転んだときに助けてもらった記憶。

そして、全員に共通するもの。

七瀬小夜という名前を知っている。

小夜と遊んだ記憶がある。

しかし、小夜の顔を思い出せない。

紗季は、資料の余白に、ひとつの問いを書いた。

――なぜ、記憶は残っているのに、顔だけが消えているのか。

記憶は、完全な映像ではない。

年月とともに曖昧になることもあるし、他人から聞いた話が、自分の記憶のように感じられることもある。

六人の証言が似ているからといって、それだけで超常的な現象が起きていると断定することはできない。

しかし、六人は、互いに相談した形跡もないのに、同じ人物と遊んだ記憶を持っていた。

そして、誰も顔を思い出せない。

これは、単なる記憶違いで説明できるのだろうか。

紗季は、出席簿の写真を拡大した。

七瀬小夜。

その名前の下に残る、別の文字の痕跡。

机の裏にあった、水野あきの名前。

歌詞に残された「六人で歌えば、ひとりは帰れる」という一文。

そして、七つの星。

すべてがつながりそうで、つながらない。

紗季はスマートフォンを手に取った。

画面には、三上亮から届いたメッセージが表示されていた。

『ひとつ、思い出しました。小夜は、いつも俺たちと一緒に帰っていた気がします。でも、帰り道で、あいつの家の場所を聞いたことがありません。誰も聞かなかった。なぜか、それが当たり前だったんです』

紗季は、メッセージを読み返した。

小夜は、いつも一緒に帰っていた。

けれど、誰も家を知らない。

彼女がどこから来て、どこへ帰るのか。

誰も知らなかった。

それなのに、彼女と遊んだ記憶だけは、六人全員に残っている。

紗季は返信しようとした。

そのとき、スマートフォンが震えた。

着信だった。

番号は表示されていない。

紗季は、少し迷ってから通話ボタンを押した。

「もしもし」

返事はなかった。

代わりに、かすかな歌声が聞こえた。

「ひとつ、ふたつ、席をあけて……」

紗季は、受話口を耳に押し当てた。

「誰ですか?」

「みっつ、よっつ、手をつないで……」

「小夜さん?」

歌声が止まった。

しばらくして、幼い声が答えた。

『……その名前、だれの?』

紗季は息を呑んだ。

「七瀬小夜さんです。あなたの名前ではないんですか?」

電話の向こうで、何かが擦れる音がした。

紙をめくるような音。

それから、別の子どもの声が聞こえた。

『ちがうよ』

「……何が違うの?」

『その名前は、出席簿にないよ』

紗季は、手元の資料を見つめた。

最初のページには、確かに七瀬小夜の名前がある。

だが、それ以外のページにはない。

そして、その名前の下には、別の文字を消したような痕跡が残っていた。

「あなたは、誰なの?」

電話の向こうで、子どもが小さく笑った。

『わたしも、しらない』

「知らないって……自分の名前が?」

『うん』

声は、少しずつ遠ざかっていった。

『みんな、わたしとあそんだっていうのに』

「……みんな?」

『六人とも』

紗季の背中に、冷たい汗が流れた。

『みんな、わたしのこと、すきだったよ』

声が震えた。

『なのに、わたしの顔だけ、だれもおぼえてないの』

「あなたは、小夜さんなの?」

長い沈黙があった。

やがて、電話の向こうから、かすれた声が聞こえた。

『……小夜って、だれ?』

通話が切れた。

紗季は、しばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。

今の声は、誰のものだったのか。

小夜なのか。

あきなのか。

それとも、出席簿に名前さえ残っていない、別の子どもなのか。

紗季には、まだ分からない。

ただひとつ確かなのは、六人の元児童全員が、小夜と遊んだ記憶を持っていたということだった。

そして、その六人全員が、彼女の顔を思い出せなかった。

翌朝、紗季は月影小学校へ向かった。

出席簿を確認するためだった。

校長室に入り、古い出席簿を机の上に広げる。

七瀬小夜の名前が書かれた、最初のページ。

紗季は、昨夜撮影した写真と見比べた。

そして、息を止めた。

七瀬小夜の名前が、消えていた。

鉛筆で書かれたはずの文字は、跡形もなくなっていた。

出席欄の丸印もない。

そこには、最初から何も書かれていなかったかのように、空白だけが残っていた。

紗季は、すぐに写真を確認した。

写真の中では、七瀬小夜の名前が、はっきりと写っていた。

昨夜の時点では、確かに存在していた。

紗季は、奈津子を呼んだ。

「先生、これを見てください」

奈津子は出席簿を覗き込み、顔を強張らせた。

「……昨日は、書いてありましたよね?」

「はい。写真も残っています」

紗季は、スマートフォンの画面を見せた。

そこには、鉛筆で書かれた「七瀬小夜」の文字が写っている。

奈津子は、何度も画面と出席簿を見比べた。

「こんなこと……」

そのとき、紗季は、ページの下端に小さな文字があることに気づいた。

昨夜まではなかった文字だった。

鉛筆でも、ボールペンでもない。

紙の繊維の奥から、浮かび上がってきたような文字だった。

――七人目の名前を、まちがえないで。

紗季は、その文字を見つめた。

七人目。

七瀬小夜。

水野あき。

そして、顔を思い出せない子ども。

誰が七人目なのか。

そもそも、六人が遊んだ相手は、本当に小夜だったのか。

紗季は、出席簿を閉じた。

閉じた瞬間、ページの間から、小さな紙片が一枚、床へ落ちた。

拾い上げる。

そこには、子どもの字で、たったひとつの名前が書かれていた。

――みずの あき。

その名前の下には、もうひとつ、細い文字が添えられていた。

――七番じゃない。

紗季は紙片を握りしめた。

出席簿にない名前。

六人が覚えている子ども。

誰も思い出せない、その顔。

そして、小夜ではないと告げる声。

窓の外で、チャイムが鳴った。

閉校したはずの校舎に、子どもたちの歌声が響き始めた。

ひとつ、ふたつ。

みっつ、よっつ。

いつつ、むっつ。

六人の声が、同じ旋律を口ずさんでいる。

その歌の最後に、七人目の声が重なった。

――ねえ。

――わたしは、だれ?

紗季は、出席簿を見下ろした。

空白になった七つ目の欄。

その下に、ゆっくりと新しい文字が浮かび上がる。

七瀬小夜。

違う。

その文字は、一度浮かび上がったあと、すぐに薄れていった。

代わりに、別の名前が現れた。

――水瀬紗季。

紗季は、声を失った。

その下に、さらに一行が刻まれる。

――八番目は、だれ?

そして、背後から。

自分とまったく同じ声が、静かに答えた。

「……わたしだよ」
 

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