小説タイトル『あの日の文化祭☆時を越えるイルミネーション』
ジャンル:青春アニメ × 甘酸っぱい恋愛 × 日常ドラマ × タイムモチーフ
主要登場人物
👦主要登場人物
① 朝倉 恒一(あさくら・こういち)
31歳・男性/主人公
現在は都内で働く会社員。
仕事も生活も大きな不満があるわけではない。
しかし、毎日をただ繰り返しているような感覚に陥っている。
学生時代は絵を描くことが好きで、将来はイラストレーターになる夢を持っていた。
だが、いつしか夢を諦め、「現実的に生きること」を選んだ。
自転車、夕焼け、文化祭、夏祭り――。
何気ない風景を見るたび、時々思い出す少女がいる。
② 桜井 美月(さくらい・みづき)
31歳・女性/主人公が学生時代に好きだった少女
明るく自然体。
文化祭では主人公と同じ実行委員。
誰にでも優しいが、実は自分自身の未来について悩んでいた。
学生時代の夢は「人の心を動かす仕事」。
主人公とは仲が良かったものの、最後まで互いの気持ちをはっきり伝えられなかった。
現在、どこで何をしているのかは分からない。
③ 田中 恒一(たなか・こういち)
31歳・男性/主人公の親友
学生時代からの悪友。
文化祭では主人公と一緒に出し物を担当。
現在も主人公とは時々連絡を取っている。
「お前、昔はもっと楽しそうだったよな」
と、主人公の変化に気づいている人物。
④ 高橋 由香
31歳・女性/美月の親友
文化祭の実行委員仲間。
当時から主人公と美月の関係を面白がっていた。
現在の美月について、ある重要なことを知っている。
⑤ 朝倉 恒一・少年時代
15~16歳
同じ人物だが、現在の主人公との対比として描く。
夢を語り、くだらないことで笑い、好きな女の子のためなら遠回りもできた少年。
⑥ 桜井 美月・少女時代
15~16歳
主人公と同じ時間を過ごした少女。
文化祭の準備。
学校帰り。
自転車。
夏祭り。
そして――。
「いつか、大人になったら何してるんだろうね」
という言葉を主人公に残している。
🏫舞台設定
学生時代
東京都内の公立高校。
校舎は少し古く、秋になると銀杏並木が黄色く染まる。
文化祭では、
クラス展示
手作り喫茶
演劇
軽音楽
美術展示
模擬店
などが行われる。
主人公たちのクラスは、**「放課後タイムカプセル展」**を企画。
生徒それぞれが、
「未来の自分へ」
という手紙を書く。
この「未来への手紙」が物語の重要なモチーフになる。
現在
東京・錦糸町。
仕事帰りの主人公が、久しぶりに錦糸町を歩く。
駅周辺の街明かり。
冬のイルミネーション。
そして遠くに見える東京スカイツリー。
クリスマスの夜。
そこで、主人公は――。
約15~20年ぶりに、あの少女と再会する。
🎯中心テーマ
「時は戻せない。でも、止まっていた心は動かせる。」
学生時代の思い出は美しい。
しかし、過去に戻ることはできない。
「あの時こうしていれば」
「あの時、好きだと言っていれば」
そんな後悔は、時間が経っても完全には消えない。
でも――。
過去をやり直す必要はない。
過去に置いてきた「夢」や「気持ち」を、現在の自分がもう一度拾い上げることはできる。
💌メッセージ
人生には、戻れない時間がある。
でも、
戻れないからこそ、今という時間に意味がある。
昔好きだった人に再会すること。
昔の夢を思い出すこと。
そして、これから先の人生をもう一度考えること。
それらはすべて、
「過去へ戻る」のではなく、
「未来へ進むために、過去を受け取る」こと。
📖導入部
30代になった恒一は、毎日を淡々と過ごしていた。
仕事。
帰宅。
スマートフォン。
コンビニ。
休日。
また仕事。
そんな日々。
かつての自分には夢があった。
絵を描くことが好きだった。
漫画家になりたい。
イラストレーターになりたい。
そんなことを本気で考えていた。
だが、いつからか、
「夢なんて現実的じゃない」
と思うようになった。
そして夢を描くことすらやめた。
ある秋の日。
仕事帰りに古い写真を見つける。
そこには高校時代の文化祭。
そして――。
笑顔の少女。
美月が写っていた。
その瞬間。
忘れたはずの記憶が、一気に蘇る。
文化祭。
自転車。
夏祭り。
放課後。
そして、言えなかった言葉。
「好きだった」
🍂展開部
物語は、現在と過去を交互に描いていく。
高校時代。
恒一と美月は文化祭準備を通して距離を縮めていく。
文化祭の出し物は「放課後タイムカプセル展」。
二人は展示用のイラストを一緒に描く。
学校帰りには自転車で並んで帰る。
ある夏の日には、二人で夏祭りへ。
美月は浴衣姿。
恒一は緊張しすぎて、まともに話せない。
それでも二人で笑った。
しかし文化祭が終われば、卒業が近づいてくる。
そして二人は、それぞれ違う未来へ進むことになる。
恒一は夢を諦める。
美月は別の街へ。
連絡先を交換することもなく――。
🌇山場
現在。
クリスマスの夜。
恒一は仕事帰りに錦糸町へ。
駅前のイルミネーションを眺めていると、聞き覚えのある声がする。
「……恒一?」
振り返る。
そこにいたのは――。
美月。
約15~20年ぶり。
一瞬、二人とも言葉が出ない。
「……久しぶり」
たったそれだけ。
でも、その一言の中に15~20年分の時間が詰まっている。
二人は錦糸町から歩き始める。
冬の夜。
イルミネーション。
遠くに見える東京スカイツリー。
そして、美月が突然言う。
「ねえ……文化祭の時のこと、覚えてる?」
恒一は答える。
「忘れるわけないだろ」
すると美月が笑う。
「よかった」
ここから二人は、
「あの頃」
そして、
「今」
について語り始める。
1話 止まった毎日
朝、六時四十五分。
目覚まし時計が鳴った。
恒一は、布団の中で目を開けた。
天井を見る。
白い天井。
見慣れた照明。
カーテンの隙間から差し込む、まだ少し青みがかった朝の光。
スマートフォンを手に取る。
画面には、仕事の通知がいくつか届いていた。
「……またか」
小さく呟いて、通知を確認する。
特別に忙しいわけではない。
特別に暇なわけでもない。
ただ、毎日同じような仕事をしている。
メールを確認して。
電車に乗って。
会社へ行って。
パソコンを開いて。
昼休みにコンビニで買った弁当を食べて。
また仕事。
そして、夜になれば帰宅する。
それだけ。
恒一はベッドから起き上がった。
洗面所へ向かい、鏡を見る。
そこに映っている男は、もう高校生ではない。
三十歳を過ぎた顔。
少し疲れた目。
寝癖のついた髪。
毎朝見る自分の顔なのに、時々知らない人間のように思える。
「……行くか」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
返事はない。
駅へ向かう道には、秋の風が吹いていた。
九月を過ぎ、夏の暑さが少しずつ遠ざかっている。
街路樹の葉が、わずかに色を変え始めていた。
恒一は歩きながらスマートフォンを見る。
ニュース。
広告。
仕事の連絡。
SNS。
どれも流れては消えていく。
誰かの旅行。
誰かの結婚。
誰かの新しい仕事。
誰かが始めた新しい趣味。
誰かが叶えた夢。
画面を指で滑らせる。
そして、何となく思った。
――みんな、ちゃんと前に進んでいるんだな。
自分だけが、同じ場所にいるような気がした。
駅のホームに立つ。
電車が来る。
乗る。
座れれば座る。
座れなければ、つり革につかまる。
周りには、同じような顔が並んでいる。
眠そうな人。
スマートフォンを見ている人。
目を閉じている人。
誰もが、それぞれの未来へ向かっている。
――自分は?
恒一は窓に映った自分を見る。
答えは出なかった。
会社では、いつもの席に座った。
「おはようございます」
「おはよう」
挨拶を交わす。
パソコンを立ち上げる。
メールを処理する。
資料を確認する。
会議に出る。
修正を頼まれる。
修正する。
また修正を頼まれる。
「朝倉さん、この資料なんだけど」
「はい」
「ここの数字、もう一度確認してもらえる?」
「分かりました」
恒一は画面を見る。
「……はい」
何も感じない。
嫌なわけではない。
楽しいわけでもない。
ただ、やる。
それだけだった。
昼休み。
同僚たちが話している。
「今度の連休どうする?」
「彼女と旅行」
「いいなあ」
「朝倉は?」
突然、話を振られた。
「俺?」
「うん。どっか行くの?」
「……特にないかな」
「相変わらずだなあ」
笑い声。
恒一も笑った。
「まあね」
その会話は、それで終わった。
けれど。
「相変わらず」という言葉だけが、妙に耳に残った。
午後七時過ぎ。
仕事を終えた恒一は、駅へ向かった。
空はもう暗い。
駅前の店には、秋物の服が並び始めている。
コンビニの前を通り過ぎる。
ふと、店頭に並んだ菓子を見て足を止めた。
季節限定。
そんな文字が目に入る。
「……もう秋か」
呟いてから、自分で少し笑った。
毎日を過ごしているはずなのに。
季節が変わることに気づくのが遅くなった。
春。
夏。
秋。
冬。
そしてまた春。
いつからだろう。
一年が、とても短く感じるようになったのは。
高校生の頃は、夏休みだけで永遠のように長かった。
一日が長かった。
放課後が長かった。
好きな人と話せた五分間が、何時間にも感じられた。
文化祭の準備で学校に残った夕方も。
夏祭りの夜も。
自転車で遠回りして帰った道も。
全部、鮮明だった。
なのに今は。
一週間があっという間に過ぎる。
一か月も、あっという間。
気づけば一年。
そして、十年。
時間だけが、先へ先へと進んでいく。
自分はその後ろを、ただついていっている。
そんな気がした。
家に帰る。
テレビをつける。
適当に夕食を済ませる。
スマートフォンを見る。
風呂に入る。
そして、ベッドへ。
いつもの夜。
何も変わらない。
恒一は天井を見ながら、ふと思った。
――俺、何がしたかったんだっけ。
その問いが浮かんだ瞬間。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
何かを忘れている。
そんな感覚だった。
でも、それが何なのか思い出せない。
目を閉じる。
眠ろうとする。
そのとき。
ふと、部屋の隅に置かれた段ボール箱が目に入った。
「……あれ?」
引っ越してから、ほとんど開けていない箱。
実家から持ってきた古い荷物を、とりあえず詰め込んだものだった。
恒一はベッドから起き上がった。
箱を引き寄せる。
蓋を開ける。
古いノート。
教科書。
卒業アルバム。
使い古した筆箱。
そして。
少し色あせた紙袋。
「……なんだっけ、これ」
中から一冊のアルバムを取り出した。
表紙には、油性ペンで書かれている。
――高校二年 文化祭。
恒一の手が止まった。
ページを開く。
最初に出てきたのは、クラス全員の集合写真だった。
みんな笑っている。
今よりずっと幼い顔。
制服姿。
教室の黒板には、大きく文化祭の文字。
次のページ。
模擬店。
演劇。
展示。
廊下を走る男子。
笑う女子。
準備中の教室。
そして――。
恒一は、一枚の写真で指を止めた。
窓際。
夕方の教室。
文化祭の装飾を背景に。
一人の少女が笑っていた。
長い髪。
少し首を傾けて。
こちらを見ている。
「……美月」
声が出た。
自分でも驚いた。
名前を口にしたのは、いつ以来だろう。
桜井美月。
高校二年のとき。
同じクラスだった。
仲のいい友達。
文化祭の実行委員仲間。
そして――。
好きだった女の子。
いや。
好きだった。
過去形。
そう思ったはずなのに。
写真を見つめているだけで、胸の奥が妙にざわついた。
「……元気かな」
誰もいない部屋で呟く。
当然、返事はない。
スマートフォンで名前を検索しようとして。
指が止まる。
今さら何をするんだ。
そう思った。
もう何年経っている?
十年どころじゃない。
十五年。
いや。
それ以上かもしれない。
連絡先なんて残っていない。
SNSにいるかもしれない。
でも。
探してどうする?
昔好きだった女の子を、今さら。
恒一はスマートフォンを伏せた。
アルバムを閉じようとした。
そのとき。
一枚の紙が、アルバムの間から落ちた。
ひらり。
床に落ちる。
「……?」
拾い上げる。
古びた紙。
折り目が何度もついている。
表には、見覚えのある文字。
――未来の自分へ。
恒一は息を止めた。
思い出した。
文化祭の企画。
「放課後タイムカプセル展」。
クラスのみんなで未来への手紙を書いた。
卒業後。
十年後。
二十年後。
未来の自分が読んだら、どんな気持ちになるだろう。
そんな遊び半分の企画だった。
恒一は笑った。
「……そんなの、書いたっけ」
紙を開く。
文字は少し幼い。
今の自分から見ると、恥ずかしいほど真っ直ぐだった。
そこには、いくつかの夢が書かれていた。
絵を描いていたい。
好きなことを仕事にしたい。
いつか自分の作品を誰かに見てもらいたい。
そして。
最後の一行。
そこだけ、少しだけ文字が乱れていた。
――大人になっても、今日みたいに笑っていたい。
恒一は、しばらく動かなかった。
「……俺」
紙を握る。
「こんなこと、思ってたんだ」
忘れていた。
本当に、忘れていた。
いや。
忘れたふりをしていたのかもしれない。
窓の外を見る。
夜の街。
ビルの明かり。
車のライト。
遠くで走る電車。
すべてが動いている。
なのに。
自分だけが、どこかに置き去りになっている。
恒一は手紙をもう一度見る。
高校生の自分が、未来の自分に問いかけている。
――夢、叶えた?
そんな一文が目に入った。
「……」
答えられなかった。
絵を描くことは、いつの間にかやめた。
夢を語ることもやめた。
「好き」という気持ちを、誰かに伝えることも。
いつからか。
何かを始める前に、
「どうせ無理だ」
と思うようになった。
失敗しないために。
傷つかないために。
期待しないために。
夢を持たなければいい。
そうやって、自分の時間を少しずつ削ってきた。
恒一は苦笑した。
「……錆びてるな」
その言葉が、妙にしっくりきた。
時計なら。
長い間、動かさなければ錆びる。
人の心も。
きっと同じなのだ。
手紙を封筒に戻そうとした。
すると。
アルバムの最後のページから、もう一枚の写真が落ちた。
床に滑る。
恒一が拾う。
そこには――。
文化祭が終わった後の教室。
机の上には片付けきれていない飾り。
黒板には、まだ文化祭の文字が残っている。
そして窓際に。
恒一と美月が並んで写っていた。
二人とも、少し照れたような顔をしている。
誰が撮ったのか分からない。
けれど。
写真の裏には、小さな文字があった。
――また、いつか。
「……」
恒一は写真を裏返したまま、しばらく見つめていた。
「また、いつか」。
それは約束だったのだろうか。
それとも。
ただの何気ない言葉だったのだろうか。
今となっては分からない。
美月が今、どこにいるのかも。
何をしているのかも。
結婚しているかもしれない。
遠い街で暮らしているかもしれない。
もう自分のことなんて、覚えていないかもしれない。
それでも。
「……どうしてるんだろうな」
気づけば、また名前を口にしていた。
「美月……今、どうしてるんだろう」
その瞬間。
窓の外から、秋の風が吹いた。
カーテンが揺れる。
机の上の写真が、かすかに動く。
そして。
遠くで、電車の走る音が聞こえた。
まるで。
止まっていた何かが、ほんの少しだけ動き始めたように。
翌朝。
恒一はいつもより少し早く起きた。
目覚ましが鳴る前だった。
窓を開ける。
冷たい秋の空気が部屋に入ってくる。
机の上には、昨日の写真と手紙。
恒一はそれを見た。
そして。
ほんの少しだけ笑った。
「……文化祭、か」
スマートフォンを手に取る。
検索画面を開く。
何を検索するのか。
自分でもまだ分からない。
ただ。
指が、文字を入力し始めた。
――桜井美月。
入力した名前を見つめる。
検索ボタンを押す直前。
恒一は指を止めた。
怖かった。
もし見つからなかったら。
もし、全然違う人生を歩んでいたら。
もし――。
幸せそうな姿を見つけたら。
それでも。
もし。
彼女が、自分と同じように。
あの日のことを覚えていたら。
「……」
恒一は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、検索ボタンを押した。
画面に表示された情報を眺める。
しかし。
それらしい名前はいくつか出てきたものの。
美月本人だと確信できるものはなかった。
「……そりゃ、そうか」
恒一はスマートフォンを置いた。
少しだけ残念だった。
けれど。
不思議と、以前ほど落ち込まなかった。
むしろ。
久しぶりに、胸の奥に小さな何かが灯っている。
それが何なのか。
まだ恒一には分からない。
ただ。
昨日までとは、ほんの少し違う朝だった。
会社へ向かう道。
街路樹の葉が、一枚落ちた。
恒一は立ち止まる。
黄色くなりかけた葉。
手のひらに乗せる。
高校時代。
秋の学校。
文化祭。
教室。
美月。
そして。
言えなかった言葉。
記憶は、次々に蘇ってくる。
まるで。
錆び付いていた古い時計の針を、誰かがそっと動かしているようだった。
カチ。
――そんな音が聞こえた気がした。
「……気のせいか」
恒一は笑う。
葉を風に返す。
そして歩き出した。
まだ、何も変わっていない。
仕事も。
生活も。
自分自身も。
昨日と同じ。
なのに。
心のどこかで。
ほんの少しだけ。
時間が動き始めていた。
そのことを、恒一はまだ知らない。
この秋。
十五年以上前に置き去りにした「ある時間」が。
再び、彼の前に現れることを。
そして。
その時間の中にいた少女と。
もう一度、出会うことになることを――。
まだ。
彼は知らなかった。
2話 あの頃の自転車
――キーンコーンカーンコーン。
六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「終わったー!」
教室の後ろから、男子の声が飛ぶ。
「おい、田中。まだ先生いるぞ」
「え?」
振り返った田中恒一郎が、教壇を見る。
担任の教師が、呆れた顔でこちらを見ていた。
「……田中」
「はい」
「終わったのは授業だけだ」
「……ですよね」
教室中に笑い声が広がる。
窓の外は、まだ明るい。
秋になる少し前。
夏の名残を残した空に、白い雲が浮かんでいる。
高校二年。
朝倉恒一、十六歳。
この頃の恒一は、毎日が長かった。
朝起きて。
学校へ行って。
友達とくだらない話をして。
授業中に眠くなって。
放課後になれば、何となく誰かと一緒に帰る。
それだけの毎日。
なのに。
その一日一日が、妙に輝いていた。
「恒一!」
後ろから声がした。
振り返る。
「何?」
桜井美月が立っていた。
「今日、文化祭の準備あるよね?」
「ああ。実行委員の打ち合わせ」
「忘れてなかった?」
「忘れてないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、よかった」
美月は笑った。
その笑顔を見て。
恒一は、一瞬だけ言葉を失った。
――好き。
たぶん。
この頃には、もう好きだった。
でも。
本人には言えなかった。
言ったら、今の関係が変わってしまう気がした。
だから恒一は、いつも通りの顔を作った。
「田中も来るだろ」
「来る来る」
恒一郎が机の横から顔を出す。
「俺を勝手に参加させるなよ」
「だって実行委員だろ」
「そうだけどさ」
「じゃあ来い」
「横暴だなあ」
また笑い声。
そんな何でもない時間が。
恒一には大切だった。
放課後。
文化祭の実行委員が集まった。
黒板には、大きく書かれている。
――文化祭企画。
いくつかの案が出された。
「お化け屋敷!」
「去年やったじゃん」
「じゃあ喫茶店!」
「普通すぎる」
「演劇!」
「誰が脚本書くんだよ」
意見が飛び交う。
美月が黒板を見ながら考えている。
「ねえ」
「ん?」
「未来の自分に手紙を書くって、どう?」
「手紙?」
「うん」
美月は黒板に小さく書いた。
――未来の自分へ。
「十年後とか、二十年後の自分に手紙を書くの」
「文化祭で?」
「そう」
恒一郎が腕を組む。
「それ、面白いか?」
「面白いよ」
美月が笑う。
「今の私たちが何を考えてるか、未来になったら分からなくなるかもしれないでしょ?」
恒一は、その言葉に妙に惹かれた。
「……いいかも」
「でしょ?」
「うん」
「恒一も書く?」
「俺?」
「もちろん」
「何書けばいいんだよ」
「夢とか」
「夢?」
「うん。十年後、何してたいとか」
恒一は少し考えた。
そして。
「……絵を描いてたい」
自然に口から出た。
美月が目を丸くする。
「絵?」
「うん」
「知らなかった」
「言ってなかったから」
「どんな絵?」
「いろいろ。漫画とか、イラストとか」
「へえ……」
美月は少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ、十年後も絵を描いてるんだね」
「……たぶん」
「たぶんじゃなくて」
美月は笑う。
「描いててよ」
その一言が。
十六歳の恒一の胸に、深く残った。
文化祭準備が終わった頃には、空がオレンジ色になっていた。
「じゃあ、また明日」
「うん」
校門を出る。
恒一は自転車を押していた。
美月も隣を歩いている。
「恒一」
「ん?」
「駅まで乗せてって」
「え?」
「今日、自転車なんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、お願い」
美月が荷台を見る。
恒一の心臓が跳ねた。
「……二人乗り?」
「嫌?」
「いやじゃない」
思わず大きな声が出た。
美月が笑う。
「ふふっ。じゃあ決まり」
「……でも先生に見つかったら怒られるぞ」
「見つからなければ大丈夫」
「そういう問題か?」
「そういう問題」
美月が後ろに乗る。
制服のスカートを整え。
そっと荷台につかまる。
「じゃあ、出発」
「……うん」
ペダルを踏む。
自転車がゆっくり動き出した。
最初は、二人とも何も話さなかった。
聞こえるのは。
自転車の車輪が道路を走る音。
風の音。
遠くの車の音。
そして。
後ろから聞こえる美月の小さな笑い声。
「ねえ」
「何?」
「速い」
「え?」
「ちょっと怖い」
「ごめん!」
恒一は慌てて速度を落とす。
「ふふっ」
「何?」
「恒一って、真面目だよね」
「そうか?」
「そうだよ」
「美月が怖いって言うから」
「……ありがと」
その言葉に。
恒一の耳が少し熱くなった。
坂道に差しかかった。
「ちょっと降りる?」
「大丈夫」
「ほんと?」
「うん」
恒一はペダルを強く踏んだ。
坂を上る。
息が少し苦しい。
でも。
後ろに美月がいると思うと、不思議と頑張れた。
「恒一!」
「ん?」
「頑張れー!」
「……応援するなら降りてくれ!」
「嫌」
「なんでだよ!」
「だって楽しいもん」
笑い声。
恒一も笑った。
坂を上り切る。
二人の前に、夕焼けが広がっていた。
オレンジ色の空。
住宅街の屋根。
遠くに見えるビル。
風に揺れる街路樹。
美月が、ぽつりと言った。
「……きれい」
「うん」
「こういう時間、ずっと続けばいいのにね」
恒一は、前を向いたまま答えた。
「……続くよ」
「ほんと?」
「うん」
根拠なんてなかった。
十六歳の恒一には。
明日も。
来週も。
来年も。
同じような毎日が続くと思っていた。
文化祭も。
友達も。
美月も。
ずっと、このままだと思っていた。
駅の近くまで来ると、美月が自転車から降りた。
「ありがとう」
「うん」
「また明日ね」
「……また明日」
美月が駅へ向かって歩いていく。
数歩進んだところで。
「あ!」
振り返る。
「何?」
「文化祭の手紙!」
「ん?」
「十年後の自分に書くやつ」
「ああ」
「恒一、ちゃんと書いてよ」
「分かったって」
「約束」
美月が小指を立てた。
「約束」
恒一も小指を絡める。
ほんの一瞬。
それだけ。
なのに。
恒一には、その時間が永遠みたいに感じられた。
「じゃあね」
「うん」
美月が去っていく。
恒一は、その後ろ姿を見つめていた。
そして。
自分でも気づかないほど小さな声で呟いた。
「……好きなんだけどな」
もちろん。
美月には聞こえていない。
その夜。
恒一は机に向かった。
文化祭の「未来への手紙」。
白い便箋を前にして、ペンを持つ。
何を書こう。
十年後の自分。
二十六歳の自分。
どんな人間になっているだろう。
恒一は書き始めた。
――未来の俺へ。
――ちゃんと絵を描いてますか?
少し考える。
続ける。
――夢、叶えましたか?
そして。
最後の一行。
そこだけは、なかなか書けなかった。
何度もペンを止める。
消して。
また書いて。
結局。
恒一は、少し恥ずかしくなりながら書いた。
――大人になっても、今日みたいに笑っていてください。
便箋を見つめる。
「……なんだこれ」
自分で笑った。
そして封筒に入れる。
文化祭の日に、みんなの手紙と一緒に保管することになっている。
十年後。
二十年後。
その頃には。
きっと夢を叶えている。
絵を描いて。
好きな人がいて。
毎日笑っている。
そんな未来を。
当たり前のように信じていた。
翌日。
学校へ向かう途中。
恒一郎が自転車で追いついてきた。
「おーい、恒一!」
「おはよう」
「昨日、美月と二人乗りしてただろ?」
「……見てたのかよ」
「バッチリ」
「……」
「お前さ」
恒一郎がニヤニヤする。
「好きだろ?」
「は?」
「桜井」
「……違う」
「その顔は好きだな」
「うるさい」
「告白しろよ」
「無理」
「なんで?」
「……今のままがいいから」
恒一郎は少し黙った。
そして。
「そっか」
それ以上は言わなかった。
二人は自転車を並べて学校へ向かう。
朝の空。
青い空。
まだ夏の匂いが残っていた。
この時間がずっと続く。
恒一はそう思っていた。
まさか。
この数か月後。
文化祭が終わり。
卒業が近づき。
美月と離れることになるなんて。
そして。
十五年以上もの時間が流れてから。
もう一度。
あの頃の続きを探すことになるなんて。
この時の恒一は、まだ知らなかった。
ただ。
自転車のペダルを踏む。
友達と笑う。
好きな女の子を思いながら。
学校へ向かう。
それだけだった。
それだけなのに。
――あの頃の時間は。
恒一にとって、一生忘れられない時間になった。
3話 夏祭りの約束
夏休みに入る少し前の、ある日の放課後。
教室の窓から入ってくる風が、いつもより少しだけ熱かった。
蝉の声が校舎の外から聞こえている。
黒板の隅には、誰かが書いた「あと三日で夏休み!」という文字。
その文字を見るだけで、教室全体が浮ついているように感じられた。
「朝倉ー!」
後ろから肩を叩かれ、恒一が振り返る。
「うわっ!」
「何その反応」
「いや、田中かよ」
「いやって何だよ!」
田中恒一郎が、いつもの調子で笑っている。
「なあ、夏祭り行くだろ?」
「夏祭り?」
「ほら、駅前の神社のやつ。今週の土曜」
「ああ……」
恒一は少し考えた。
毎年、この時期になると近所の神社で夏祭りが開かれる。
屋台が並び、境内には提灯が灯り、夜には花火も上がる。
「俺、行くけど」
恒一郎が言った。
「彼女と?」
「……違う」
「即答かよ」
「うるさいな!」
二人で笑っていると、教室の前から声がした。
「朝倉くん」
恒一が顔を上げる。
そこに立っていたのは、美月だった。
「ちょっといい?」
「あ、うん」
美月は恒一のところまで歩いてくる。
その瞬間、恒一郎がニヤッと笑った。
「じゃ、俺、帰るわ」
「え?」
「お邪魔虫は退散します」
「田中!」
「じゃあな!」
恒一郎は逃げるように教室を出ていった。
「……何なんだ、あいつ」
「ふふっ」
美月が笑った。
「仲いいよね、二人」
「まあ……腐れ縁っていうか」
「いいなあ」
「何が?」
「そういう友達」
美月は少しだけ窓の外を見る。
「私、友達とこういうくだらない話する時間、好きなんだ」
「……俺も」
それだけの会話だった。
けれど恒一は、なぜか少し嬉しかった。
「そうだ」
美月が思い出したように言った。
「朝倉くん、土曜日って暇?」
「え?」
「夏祭り」
「……」
一瞬、恒一の思考が止まった。
「一緒に行かない?」
「……俺と?」
「うん」
美月は当たり前のように頷いた。
「嫌?」
「いや!」
声が大きくなった。
「……全然、嫌じゃない」
「じゃあ決まり」
美月は笑った。
「駅前に六時ね」
「分かった」
「絶対来てよ?」
「行くよ」
「約束ね」
「うん。約束」
その言葉を聞いた瞬間。
恒一の胸の奥が、少しだけ熱くなった。
たった二文字の言葉なのに。
その日の帰り道、恒一は何度も思い返していた。
――約束。
それだけで、土曜日が待ち遠しくなった。
土曜日。
夕方六時。
駅前には、浴衣姿の人たちが次々と集まっていた。
家族連れ。
友達同士。
恋人らしい二人組。
そして、その中に恒一もいた。
「……早すぎたかな」
約束の時間より二十分も前に来てしまった。
スマートフォンなどまだない時代。
駅前の時計を何度も確認する。
五時四十五分。
五時五十分。
五時五十五分。
そして――六時。
「朝倉くん!」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
恒一は言葉を失った。
「……」
「どうしたの?」
美月が首を傾げる。
白地に淡い青の花模様が入った浴衣。
髪はいつもと少し違っていて、肩のあたりでふわりと揺れている。
手には小さな巾着袋。
普段の制服姿とはまるで違う。
「……似合ってる」
やっと出てきた言葉だった。
「え?」
「浴衣」
「あ……」
美月が少し照れたように笑った。
「ありがとう」
「……うん」
「朝倉くんも、なんか変」
「え?」
「いつもより大人っぽい」
「そうかな」
「うん」
美月は笑った。
「じゃあ行こう」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
神社へ向かう道には、色とりどりの提灯が並んでいた。
屋台から漂う焼きそばの匂い。
りんご飴。
たこ焼き。
かき氷。
綿あめ。
子どもたちの笑い声。
遠くから聞こえてくる祭囃子。
いつもの街なのに、この夜だけは別の場所のようだった。
「何食べる?」
「うーん……」
美月が屋台を見渡す。
「かき氷!」
「早いな」
「夏祭りと言ったら、かき氷でしょ」
「それ、絶対頭痛くなるやつ」
「ならないもん」
「去年なってただろ」
「……覚えてたの?」
「覚えてるよ」
美月が少し驚いた顔をした。
そして、嬉しそうに笑う。
「じゃあ今年も食べる」
「また頭痛くなっても知らないぞ」
「その時は助けて」
「……はいはい」
二人は笑った。
かき氷を買い、並んで食べる。
「冷たっ!」
「だから言っただろ」
「……ちょっとだけ頭痛い」
「ほら」
「ふふっ」
くだらない会話。
特別なことなんて何もない。
でも恒一にとっては、その時間が何より大切だった。
やがて夜が深くなっていく。
神社の境内には、人がさらに増えていた。
遠くで太鼓の音が鳴る。
風に揺れる提灯。
夜空には、まだ花火の始まる気配はない。
二人は少し人の少ない場所へ移動した。
「ここなら見えそう」
美月が空を見上げる。
「うん」
恒一も隣に立った。
肩が触れそうで、触れない距離。
いつもより近い。
それだけで、恒一の心臓は落ち着かなかった。
「ねえ、朝倉くん」
「ん?」
「大人になったら、何してるんだろうね」
突然の言葉だった。
「大人?」
「うん」
美月は夜空を見上げたまま続ける。
「私たち、今は高校生だけど……十年後とか、二十年後とか」
「十年後……」
「どこに住んでるんだろう」
「仕事してるんじゃない?」
「それはそうだけど」
美月は笑った。
「どんな仕事してるのかなって」
「……」
恒一は少し考えた。
「俺は……」
「うん?」
「絵、描いてると思う」
美月が恒一を見る。
「まだ描いてるの?」
「たぶん」
「じゃあ、夢は叶ってるね」
「夢っていうほど大げさじゃないけど」
「大げさだよ」
美月は優しく言った。
「だって、朝倉くん、絵を描いてる時すごく楽しそうだもん」
「そうかな」
「うん」
「……美月は?」
「私?」
「うん。何してると思う?」
美月はしばらく黙った。
「人の心を動かす仕事がしたい」
「人の心を?」
「うん」
「例えば?」
「まだ分からない」
美月は少し照れながら笑った。
「でも、誰かが笑ったり、泣いたり、頑張ろうって思ったり……そういうきっかけを作れる仕事」
「なんか、美月らしいな」
「そう?」
「うん」
「じゃあ、十年後に答え合わせしようよ」
「……え?」
「十年後」
美月は指を一本立てた。
「お互い、何してるか答え合わせ」
「十年後って……」
「無理かな?」
「いや」
恒一は笑った。
「やろう」
「ほんと?」
「うん」
「約束ね」
また、その言葉。
恒一は胸の奥で、その二文字を繰り返した。
「約束」
二人の小指が、そっと触れ合った。
そして――。
ドンッ!
突然、夜空が光った。
「わあ……!」
美月が顔を上げる。
大きな花火が夜空いっぱいに広がった。
赤。
青。
緑。
金色。
一瞬で消えて、また次の花火が咲く。
「きれい……」
美月が呟く。
その横顔を、恒一は見ていた。
花火よりも。
夜空よりも。
目の前にいる美月の方が、ずっと眩しく感じた。
「……美月」
「ん?」
恒一は何かを言おうとした。
今なら言えるかもしれない。
ずっと前から好きだった。
もっと一緒にいたい。
卒業しても、その先も――。
言葉にしようとした。
けれど。
次の花火が大きな音を立てて夜空に広がった。
「すごい!」
美月が笑った。
「朝倉くん、見て!」
「……うん」
結局、言えなかった。
ただ、隣に立っていた。
それだけだった。
祭りが終わり、帰り道。
人の波が少しずつ駅へ向かっていく。
「今日は楽しかったね」
「うん」
「また来年も来ようよ」
「……来年?」
「うん」
美月は笑った。
「来年も、その次も」
「……そうだな」
「約束」
「また?」
「だって、約束は多い方がいいでしょ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
二人は笑った。
駅へ向かう道。
少しだけ歩く速度を落とした。
帰りたくない。
恒一は、そう思っていた。
でも、そんなことを口にする勇気はなかった。
やがて駅が見えてくる。
「じゃあ、また学校で」
「うん」
「文化祭の準備もあるしね」
「そうだな」
「頑張ろうね」
「うん」
美月が手を振る。
「またね、朝倉くん」
「また」
美月が人混みの向こうへ消えていく。
恒一はしばらく、その場から動けなかった。
――十年後。
その言葉が頭に残っていた。
十年後の自分は、何をしているだろう。
絵を描いているだろうか。
夢を叶えているだろうか。
そして。
美月は、どんな大人になっているだろう。
帰宅した恒一は、自分の部屋で机に向かった。
文化祭の時に書いた「未来の自分への手紙」が、机の引き出しに入っている。
それを取り出す。
封筒を眺めながら、今日の出来事を思い出した。
美月の浴衣。
かき氷。
提灯。
花火。
そして――約束。
恒一は新しい紙を一枚取り出した。
そして、ゆっくりとペンを走らせた。
――十年後の俺へ。
今日、夏祭りに行きました。
好きな人と一緒でした。
今の俺は、たぶん幸せです。
十年後の俺も、ちゃんと笑っていますか?
絵を描いていますか?
夢を諦めていませんか?
そして――
あの人との約束を、覚えていますか?
そこまで書いて、恒一はペンを止めた。
最後の一文だけ、なかなか書けなかった。
少し考えてから、ゆっくりと書き足す。
――もし忘れていたら、思い出してください。
あの日の夏祭りを。
あの日の花火を。
そして、あの日の笑顔を。
恒一は紙を折りたたんだ。
封筒に入れる。
机の引き出しの奥へしまう。
十年後。
その時になったら、きっと分かる。
今の自分が、どんな大人になったのか。
夢を叶えたのか。
何を選んだのか。
そして――
美月との約束が、どうなっているのか。
まだ何も知らなかった。
人生が、この先いくつもの分岐点を迎えることも。
夢を諦める日が来ることも。
大切な人と離れることになることも。
そして、いつか――
十五年という長い時間を越えて、もう一度その人と出会うことになることも。
この時の恒一は、まだ知らない。
ただ一つだけ。
あの夏の夜。
夜空に咲いた花火と一緒に、胸の中に小さな願いが生まれていた。
――十年後も、また笑えますように。
その願いは、まだ名前のない未来へ向かっていた。
4話 秋の文化祭
夏が終わると、時間は少しだけ速くなった。
朝晩の風が涼しくなり、校舎の窓から聞こえていた蝉の声も、いつの間にか消えている。
代わりに、校庭の隅では銀杏の葉が少しずつ黄色くなり始めていた。
夏休みが明けてから、学校は文化祭の準備で慌ただしくなっていた。
「朝倉、これ運ぶぞ!」
「分かった!」
教室の後ろには段ボール箱が積まれ、机や椅子も普段とは違う場所に並べられている。
黒板には大きく、
――文化祭まであと十日!
と書かれていた。
「十日しかないのかよ……」
恒一が呟くと、隣で恒一郎が笑った。
「だから言っただろ。文化祭は青春の集大成なんだよ」
「お前、去年も同じこと言ってただろ」
「青春は毎年更新されるんだよ」
「便利な言葉だな」
「だろ?」
二人で笑う。
そんなところへ、美月がやってきた。
「二人とも、こっち手伝って!」
「了解」
「はいはい」
三人で段ボールを運ぶ。
文化祭準備は忙しかった。
教室を飾りつけるクラス。
劇の練習をするクラス。
廊下にはポスターが増えていき、校舎全体が少しずつ普段とは違う顔になっていった。
恒一たちのクラスでは、何を出し物にするか最後まで意見がまとまらなかった。
喫茶店。
お化け屋敷。
演劇。
ゲーム大会。
いろいろな案が出た。
そして、最後に美月が言った。
「じゃあ、こういうのはどう?」
黒板にチョークで文字を書く。
――「放課後タイムカプセル展」
「タイムカプセル?」
誰かが聞き返す。
「うん」
美月は頷いた。
「みんなで未来の自分に手紙を書くの」
教室が少し静かになる。
「十年後でもいいし、二十年後でもいい。未来の自分が何をしているのか、どんな人になっているのかを書いてみる」
美月は黒板に、
【未来の自分へ】
と書いた。
「それを文化祭で展示するの」
「でも、十年後に読めないじゃん」
「だから、今の自分が未来に残すの」
「なんか面白そう」
「普通の展示より青春っぽいかも」
少しずつ賛成する声が増えていく。
担任も腕を組みながら考えたあと、
「いいんじゃないか。十年後、二十年後に見返したら面白いだろうな」
そう言った。
こうして、クラスの出し物が決まった。
放課後。
教室には、まだ何人かの生徒が残っていた。
壁には色紙。
机の上には絵の具。
窓際には、未来への手紙を入れるための小さな箱。
恒一は、その箱を作っていた。
「朝倉くん、そっち曲がってる」
「え?」
「そこ」
美月が隣から指を差す。
「……ほんとだ」
「貸して」
「いや、自分でやる」
「頑固だね」
「うるさいな」
「ふふっ」
美月が笑う。
その笑顔を見ると、恒一もつられて笑ってしまう。
「……夏祭り以来だね」
美月がぽつりと言った。
「そうだな」
「花火、きれいだったね」
「うん」
「覚えてる?」
「覚えてるよ」
恒一は即答した。
忘れるはずがなかった。
浴衣姿の美月。
夜空に広がる花火。
そして、
――十年後に答え合わせしようよ。
あの日の約束。
「朝倉くんは、十年後どうなってるかな」
「まだ絵を描いてると思う」
「じゃあ、私は?」
「美月も、誰かの心を動かす仕事してるんじゃない?」
「そうかな」
「すると思うよ」
「なんで?」
「……美月だから」
言ったあと、恒一は少し恥ずかしくなって視線を逸らした。
美月も一瞬黙る。
そして、小さく笑った。
「ありがとう」
それ以上、二人は何も言わなかった。
窓の外では、銀杏の葉が一枚、風に舞った。
秋だった。
文化祭前日。
校舎は夕方になっても明るかった。
廊下には飾りつけ。
教室には机を並べたカフェ。
別の教室からは、演劇の練習をする声が聞こえてくる。
音楽室からは、軽音楽部の演奏。
誰もが明日の本番に向けて走り回っていた。
「朝倉!」
恒一郎が声をかけてくる。
「明日の朝、早く来いよ」
「何で?」
「最後の仕上げ」
「分かった」
「それから――」
恒一郎が美月を見る。
「……俺は邪魔しないから」
「何が?」
「何でもない」
ニヤニヤしながら去っていく。
「……あいつ、絶対何か勘違いしてる」
「ふふっ」
美月が笑う。
「でも、もう少しだけ残ろうか」
「うん」
気がつけば、教室には二人だけになっていた。
夕暮れ。
窓の外がオレンジ色に染まっている。
校庭には長い影。
遠くから、吹奏楽部の音が聞こえてくる。
静かな教室。
文化祭の飾りが、夕日に照らされていた。
「……なんか、不思議だね」
美月が言った。
「何が?」
「毎日普通に過ごしてたのに、こうやってみんなで準備すると、一日一日が特別みたい」
「分かる」
「明日が終わったら、また普通の日に戻るのかな」
「たぶん」
「ちょっと寂しいね」
恒一は美月を見た。
「……また来年もあるだろ」
「うん」
「卒業しても……」
そこまで言って、言葉が止まる。
卒業。
その言葉が、急に現実味を持って胸に落ちてきた。
いつまでも、この教室にいられるわけじゃない。
いつまでも、この制服を着ていられるわけじゃない。
いつまでも、美月と毎日会えるわけでもない。
「朝倉くん?」
「……何でもない」
「変なの」
美月は笑った。
そして、未来への手紙を入れる箱を見つめる。
「ねえ」
「ん?」
「私たちも、ちゃんと書こうよ」
「未来への手紙?」
「うん」
「もう書いたじゃん」
「文化祭用じゃなくて」
美月は一枚の白い封筒を手に取った。
「自分だけの手紙」
「……」
「誰にも見せない手紙」
恒一は封筒を受け取った。
「何を書くんだ?」
「秘密」
「じゃあ俺も秘密にする」
「うん」
二人は向かい合って、それぞれ紙を広げた。
教室には、鉛筆の音だけが響いていた。
恒一は、ゆっくりと書き始める。
――未来の俺へ。
今、俺は高校生です。
毎日学校へ行って、
友達とくだらないことで笑って、
好きな人と文化祭の準備をしています。
十年後。
俺は何をしている?
絵を描いている?
夢を叶えている?
もし、何かを諦めていたとしても――
今日のことだけは忘れないでほしい。
ペンが止まる。
そして、もう一つだけ書き足した。
――美月との約束を、覚えていますか?
恒一は手紙を折った。
美月も書き終わったようだった。
「終わった?」
「うん」
「何書いた?」
「秘密」
「そっか」
「朝倉くんは?」
「俺も秘密」
二人は顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
その笑顔を、恒一はずっと覚えていることになる。
翌日。
文化祭当日。
朝から校門には生徒や保護者が集まり、校内は人で溢れていた。
教室には色とりどりの装飾。
廊下にはポスター。
体育館からは大きな拍手。
校庭では模擬店の呼び込み。
まさに学校中が祭りだった。
「いらっしゃいませー!」
「こっち空いてます!」
「演劇、午後一時からです!」
あちこちから声が飛び交う。
恒一たちの教室にも、たくさんの人が訪れた。
「未来の自分へ」
壁には、生徒たちが書いた短いメッセージ。
十年後の夢。
二十年後の自分への言葉。
くだらない願い。
真剣な夢。
誰にも言えない不安。
今しか書けない言葉。
それぞれの未来が、小さな紙に詰まっていた。
「これ、面白いね」
訪れた人が笑う。
「十年後にまた見たいな」
別の誰かが言う。
その言葉を聞いて、恒一は少しだけ嬉しくなった。
午後。
人の波が少し落ち着いた頃。
恒一は教室の窓から外を見た。
校庭の銀杏が、いつの間にかすっかり黄色くなっている。
「朝倉くん」
振り返る。
美月が立っていた。
「ちょっと来て」
「どこ?」
「いいから」
二人は教室を出た。
廊下を歩き、階段を上がる。
そして、誰もいない校舎の屋上近くの踊り場で立ち止まった。
「ここ、静かだね」
「うん」
美月は窓の外を見る。
「文化祭、終わっちゃうね」
「まだ終わってないだろ」
「そうだけど」
美月は笑った。
「この時間も、いつか思い出になるのかな」
「なるんじゃない?」
「十年後に?」
「うん」
「二十年後にも?」
「……たぶん」
「じゃあ、忘れないようにしないとね」
恒一は頷いた。
「忘れないよ」
その言葉は、自然に出た。
美月が恒一を見る。
「本当に?」
「うん」
「約束?」
「……約束」
また、小指を差し出す。
恒一も小指を絡めた。
その瞬間。
校庭から大きな歓声が上がった。
文化祭のイベントが始まったらしい。
二人は顔を見合わせて笑った。
――この瞬間が永遠に続けばいい。
恒一は、そう思った。
けれど、時間は止まらない。
文化祭は終わる。
秋は過ぎる。
冬が来る。
卒業の日も、いつかやってくる。
それでも。
あの日の約束だけは、消えないと思っていた。
文化祭が終わった夕方。
教室には、まだ片づけ途中の飾りが残っていた。
窓の外には、夕暮れの空。
黄色く染まった銀杏の葉が、風に揺れている。
恒一は一人、未来への手紙が入った箱を見つめた。
その箱の中には、クラスメイトたちの未来が詰まっている。
そして自分の未来も。
美月の未来も。
十年後。
二十年後。
その時、自分たちは何をしているだろう。
どこにいるだろう。
どんな夢を見ているだろう。
そして――
まだ一緒に笑っているだろうか。
恒一は窓の外を見た。
秋の空は、少しだけ高かった。
その頃の彼はまだ知らなかった。
これから先、人生は思い通りには進まない。
夢を諦めることもある。
大切な人と離れることもある。
言いたかった言葉を、言えないまま終わることもある。
それでも。
あの秋の日に書いた手紙は、ずっと残る。
十年という時間を越えて。
十五年という時間を越えて。
そして、いつか――
錦糸町の夜。
クリスマスのイルミネーションが輝く街で。
止まっていた二人の時間が、もう一度動き始めるその日まで。
恒一はまだ知らない。
あの日の文化祭が、自分の人生の中で、
「最後の青春」になることを。
そして同時に――
「もう一度、未来へ進むための始まり」になることを。
5話 未来への手紙
文化祭が終わってから、一週間が過ぎた。
校舎は、いつもの姿に戻っていた。
廊下に貼られていたポスターは剥がされ、教室を彩っていた飾りも片づけられている。
机も椅子も、いつもの位置。
黒板には授業の予定。
窓の外には、秋の終わりを告げるように、黄色い銀杏の葉が舞っていた。
ほんの一週間前まで、学校中が文化祭で騒がしかったとは思えない。
「なんか……静かになったな」
放課後の教室で、恒一が呟いた。
「そうだね」
隣で美月が答えた。
二人は、文化祭で使った最後の段ボールを片づけていた。
「こんなに普通に戻るんだな」
「学校って、そういうものじゃない?」
「そうかな」
「うん。何かが終わったら、また次の日が始まる」
美月は段ボールを畳みながら笑った。
「文化祭が終わったからって、学校そのものが終わるわけじゃないもん」
「……まあな」
恒一は窓の外を見る。
校庭の銀杏が風に揺れていた。
葉が一枚、ひらりと落ちる。
「でも……」
「ん?」
「文化祭の前と後じゃ、なんか違う気がする」
美月は少し考えてから頷いた。
「私も、そう思う」
二人とも、その先を言わなかった。
文化祭を終えたことで、夏の頃にはまだ遠く感じていた「卒業」という言葉が、少しだけ近づいた気がしていた。
その日の放課後。
担任が教室に入ってきた。
「みんな、ちょっといいか」
数人の生徒が振り返る。
先生が持っていたのは、文化祭で使ったあの箱だった。
「『放課後タイムカプセル展』の手紙だ」
教室の空気が少し変わる。
「文化祭では展示しただけだったが、学校でしばらく保管することになった」
「先生、それ十年後に返してくれるんですか?」
誰かが聞いた。
「十年後に私がこの学校にいると思うか?」
教室から笑い声が起こる。
「確かに」
「先生、絶対忘れてそう」
「こら」
また笑いが起こった。
先生も笑っていた。
けれど、箱を机の上に置いた時だけ、少し真面目な顔になった。
「これは今のお前たちにしか書けないものだ」
教室が静かになる。
「十年後、二十年後に読んだら、きっと笑う人もいるだろう。恥ずかしくなる人もいるかもしれない」
先生は箱を見つめた。
「もしかしたら、夢が叶っている人もいる。全然違う人生を歩んでいる人もいるだろう」
誰も口を挟まない。
「でも、それでいい」
先生は言った。
「未来は、今のお前たちが想像した通りになるとは限らないからな」
その言葉が、恒一の胸に残った。
先生は箱を持ち上げる。
「だから、この手紙は大切に預かっておく」
「先生!」
後ろから声が飛んだ。
「二十年後に先生が忘れてたらどうするんですか?」
「その時は、君たちが先生を探しに来い」
また教室が笑いに包まれた。
その笑い声を聞きながら、恒一はふと思った。
十年後。
二十年後。
自分は、本当にここへ戻ってくるのだろうか。
放課後。
みんなが帰った後も、恒一は一人で教室に残っていた。
窓の外は、もう夕方だった。
秋の日は短い。
オレンジ色だった空が、少しずつ青紫色へ変わっていく。
教室の机の上には、一枚の紙。
文化祭の時に自分で書いた「未来への手紙」の下書きだった。
封筒には、まだ入れていない。
恒一は、その紙を読み返した。
――十年後の俺へ。
――今、俺は高校生です。
――絵を描いていますか?
――夢を諦めていませんか?
そして。
――美月との約束を、覚えていますか?
そこまで読むと、恒一は手紙を伏せた。
「……十年後か」
自分が二十六歳になった時。
今とは全然違う場所にいるのだろうか。
会社員になっているのか。
絵を描いているのか。
漫画家になっているのか。
それとも――。
「絵、やめてたりしてな」
自分で言って、自分で笑った。
けれど、その笑いはすぐに消えた。
最近、少しだけ不安になることがある。
夢を語るのは簡単だ。
「絵を描きたい」
「こんな仕事がしたい」
「こんな大人になりたい」
そう言うだけなら、誰にでもできる。
でも、大人になった時も同じ気持ちでいられるとは限らない。
今はまだ、高校生だから
未来なんて、いくらでも選べると思っている。
でも、いつか。
選ばなければならない日が来る。
夢か。
現実か。
好きなことか。
安定した道か。
恒一は窓の外を見た。
校庭を、一人の教師が歩いている。
その先には、夕暮れの街。
自分の知らない未来が、ずっと続いている。
「朝倉くん」
突然、声がした。
「……美月?」
振り返ると、教室の入り口に美月が立っていた。
「まだ帰ってなかったんだ」
「うん」
「何してたの?」
「これ」
恒一は手紙を見せた。
「あ……」
美月の顔が少し明るくなる。
「未来への手紙?」
「そう」
「まだ持ってたんだ」
「うん」
「私も」
美月は自分の鞄から、一枚の封筒を取り出した。
「ちゃんと持ってる」
「それ、何書いたの?」
「秘密」
「やっぱり?」
「だって、未来の自分に書いた手紙だもん」
美月は封筒を胸の前で抱えた。
「今の私が未来の私にしか言えないことを書いたの」
「……そっか」
「朝倉くんも?」
「まあ……そんな感じ」
二人は並んで窓の外を見る。
しばらく沈黙が続いた。
気まずい沈黙ではなかった。
ただ、言葉にしなくても分かるような時間だった。
「ねえ、朝倉くん」
「ん?」
「十年後、本当に絵を描いてる?」
「……描いてると思う」
「思う?」
「いや」
恒一は少し考えてから言った。
「描いてる」
美月が笑った。
「うん。それでいいと思う」
「美月は?」
「私は……」
美月は少しだけ考えた。
「まだ分からない」
「この前、言ってたじゃん」
「人の心を動かす仕事?」
「うん」
「それは今も同じ」
美月は夕暮れの空を見つめる。
「でも、具体的に何をするのかは、まだ分からない」
「じゃあ、一緒に探せばいいんじゃない?」
「一緒に?」
「それぞれ、自分の未来を」
言ってから、恒一は少し照れた。
美月も少し驚いたような顔をしていた。
「……うん」
やがて、柔らかく笑った。
「そうだね」
その日から、二人は時々、未来の話をするようになった。
休み時間。
放課後。
帰り道。
何気ない会話の中で。
「十年後、どこにいるかな」
「東京じゃない?」
「海外だったりして」
「美月が?」
「うん。突然外国に行ってたりして」
「じゃあ俺も絵を描きながら海外行くかな」
「じゃあ、十年後に外国で会ったらどうする?」
「え?」
「偶然会ったら」
「……びっくりする」
「それだけ?」
「いや……」
恒一は笑った。
「たぶん、昔の話する」
「文化祭とか?」
「夏祭りとか」
「花火?」
「うん」
「自転車も?」
「……覚えてたのか」
「もちろん」
美月は笑った。
「忘れるわけないじゃん」
その言葉が、恒一の胸に残った。
けれど。
季節は進んでいく。
秋が深まり。
冬が近づいてくる。
十一月の終わり。
街を歩けば、店先にクリスマスの飾りが並び始めていた。
教室の窓から見える木々は、ほとんど葉を落としている。
そして、少しずつ。
卒業という言葉が、会話の中に出てくるようになった。
「卒業したら、みんな別々になるんだよね」
ある日の放課後。
美月が言った。
「大学行く人もいるし、就職する人もいる」
「そうだな」
「田中くんなんて、卒業したら何するんだろう」
「知らない」
「朝倉くんは?」
「俺?」
「うん」
「……まだ、分からない」
本当は、絵を描きたい。
でも、その先に何があるのか分からない。
それを言葉にするのが、少し怖かった。
「でも」
美月が言った。
「分からなくてもいいんじゃない?」
「え?」
「未来なんて、今全部決めなくてもいいよ」
美月は笑った。
「十年後の私だって、今の私には分からないんだから」
「……そうだな」
「だから、手紙を書いたんだと思う」
「未来の自分に?」
「うん」
美月は鞄の中の封筒に触れた。
「今の自分が、未来の自分を信じられるように」
恒一は、その言葉を聞いて黙った。
未来の自分を信じる。
そんなことを考えたことはなかった。
夢が叶っているかどうか。
幸せかどうか。
誰と一緒にいるか。
どこで暮らしているか。
そんな答えを未来に求めていた。
でも。
もしかしたら、この手紙は未来を当てるためのものではないのかもしれない。
今の自分が。
未来の自分に。
「頑張れ」と伝えるためのものなのかもしれない。
「朝倉くん」
「ん?」
「約束、覚えてる?」
「……十年後の答え合わせ?」
「うん」
美月は小指を立てた。
「絶対ね」
恒一も小指を絡める。
「約束」
その瞬間。
窓の外で、冷たい風が吹いた。
黄色い銀杏の葉が一枚だけ舞い上がり、二人の見える場所を横切っていく。
恒一は、その葉を目で追った。
時間は進んでいる。
少しずつ。
確実に。
文化祭の向こう側には、まだ知らない未来が待っている。
その未来が、二人にとってどんなものになるのか。
この時の恒一には分からなかった。
ただ。
この時だけは、信じていた。
十年後も。
美月と笑っている。
絵を描いている。
夢を忘れていない。
そんな未来が、当たり前のように続いていくと思っていた。
だからこそ――
その先に待っている「別れ」が、
こんなにも近くまで来ていることに、
まだ誰も気づいていなかった。
6話 文化祭前夜
文化祭前日の放課後。
校舎は、いつもの学校とはまるで違う場所になっていた。
廊下には色紙で作られた飾り。
階段には手描きのポスター。
教室からは笑い声。
体育館の方からは、ステージの最終確認をする声が聞こえてくる。
誰もが忙しく動き回っていた。
「これ、どこに貼る?」
「そっちじゃない!」
「明日の朝、誰が鍵開けるんだ?」
「先生に聞いて!」
そんな声が、あちこちから飛び交っている。
文化祭前日の学校は、少しだけ特別だった。
明日になれば、すべてが始まる。
そして。
明日が終われば、すべてが終わる。
恒一は教室の後ろに立って、その光景を眺めていた。
「朝倉くん、これお願い」
「うん」
美月から渡されたのは、最後の飾りつけに使う紙だった。
「ありがとう」
「こっち、お願いね」
「了解」
二人はそれぞれ別の場所に飾りをつけ始める。
窓際。
黒板の周り。
壁に貼られた「未来の自分へ」という文字。
その下には、生徒たちが書いた小さなメッセージが並んでいる。
誰かの夢。
誰かの願い。
誰かの冗談。
そして、誰にも言えないような気持ち。
それぞれの「今」が、紙の上に残されていた。
「ねえ、朝倉くん」
「ん?」
「これ、十年後に見たらどう思うんだろうね」
美月が一枚のメッセージを眺めながら言った。
「笑うんじゃない?」
「やっぱり?」
「だって、今の俺たちが十年後の自分を見たら、絶対子どもに見えるだろ」
「そっか」
美月は少し考えた。
「でも、私は十年後の自分に、今の私を笑ってほしくないな」
「……なんで?」
「だって、今の私も一生懸命だから」
恒一は何も言えなかった。
美月は紙を貼りながら続ける。
「未来の私が、今の私を見て」
――頑張ってたね。
そう言ってくれたらいいな。
その言葉が、恒一の胸に残った。
「……美月なら、きっと大丈夫だよ」
「何が?」
「未来の美月も、今の美月も」
「ふふっ」
美月が笑う。
「朝倉くんって、たまに変なこと言うよね」
「そうかな」
「でも、ありがとう」
その笑顔を見た瞬間。
恒一は、また思った。
――好きだ。
夏祭りの日から、ずっと。
もしかすると、それよりもっと前から。
美月と話すだけで嬉しい。
一緒に帰るだけで楽しい。
名前を呼ばれるだけで、少しだけ胸が熱くなる。
そんな気持ちは、もう「仲のいい友達」という言葉だけでは収まらなくなっていた。
夕方六時を過ぎる頃。
ほとんどの生徒が帰り始めていた。
先生たちも職員室へ戻り、廊下から聞こえる声が少なくなっていく。
「じゃあ、私も帰ろうかな」
美月が鞄を持った。
「うん」
恒一も荷物をまとめる。
けれど、教室を出ようとしたところで、美月が振り返った。
「あ」
「どうした?」
「未来への手紙」
教室の隅に、まだ一つだけ封筒が残っていた。
「これ、明日の展示に入れないと」
「俺も手伝う」
「ありがとう」
二人で教室の中央に戻る。
未来への手紙を一枚ずつ確認していく。
封筒には、それぞれ名前が書かれている。
十年後の自分へ。
二十年後の自分へ。
未来の私へ。
未来の俺へ。
様々な文字が並んでいる。
「……みんな、いろんなこと考えてるんだね」
美月が言った。
「うん」
「夢とか、恋愛とか、仕事とか」
「恋愛?」
「ほら、これ」
一枚の封筒を見せる。
「『十年後、好きな人と結婚していますか?』だって」
「……誰だよ」
「誰だろうね」
美月が笑う。
「朝倉くんは?」
「俺?」
「十年後、結婚してるかな」
「……」
恒一は固まった。
「分からない」
「じゃあ、好きな人は?」
「……それも分からない」
「今はいないの?」
心臓が大きく鳴った。
今なら。
言えるかもしれない。
目の前にいる。
ずっと隣にいる。
好きな人は――。
「……いる」
恒一は小さな声で答えた。
「え?」
「……好きな人」
美月の表情が止まった。
「いるよ」
恒一は続けようとした。
その人は。
いつも笑っていて。
優しくて。
一緒にいると、時間が早くて。
夏祭りに一緒に行って。
自転車で二人乗りして。
文化祭の準備をして。
未来の話をした――。
「……そっか」
美月が言った。
その声が、ほんの少しだけ小さかった。
「誰?」
聞かれた。
恒一は答えようとした。
「それは――」
その瞬間。
ガタン!
窓が風で揺れた。
二人とも窓を見る。
秋の夜風が、開いた窓から教室へ入り込んできた。
机の上に置いてあった紙が舞い上がる。
「わっ!」
「危ない!」
二人で慌てて紙を押さえる。
床に落ちた封筒を拾い、美月が笑った。
「びっくりした」
「……うん」
恒一は、言葉を失っていた。
今なら言えた。
なのに。
言えなかった。
二人は、もう一度教室を片づけた。
やがて、すべての手紙を箱へ入れる。
最後に、美月が一枚の封筒を手に取った。
「これで終わり」
「うん」
「明日、みんな喜んでくれるかな」
「きっと」
「成功するといいね」
「するよ」
恒一が言った。
「俺たちがこんなに頑張ったんだから」
「ふふっ」
美月は笑った。
「じゃあ、明日頑張ろう」
「うん」
二人は教室を出た。
廊下は静かだった。
昼間まであれほど騒がしかった学校が、別の場所のように感じられる。
階段を降りる。
昇降口へ向かう。
靴を履き替える。
校門を出る。
いつもの帰り道。
なのに。
今日は、少し違って見えた。
「ねえ、朝倉くん」
「ん?」
「明日、終わったら……」
「うん?」
「文化祭が終わったら、また普通の毎日に戻るね」
「そうだな」
「ちょっと寂しいね」
「……うん」
美月が歩く速度を少し落とした。
恒一も合わせる。
二人の影が、夕暮れの道に長く伸びていた。
「でも」
美月が言った。
「また何か一緒にできるよ」
「……そうだな」
「文化祭が終わっても、学校はなくならないし」
「うん」
「卒業するまでは、まだ時間あるし」
「……うん」
恒一は、その言葉を聞きながら考えていた。
卒業。
あと数か月。
まだ時間がある。
そう思いたかった。
けれど。
時間は、思っているよりずっと速く過ぎる。
そのことを、この時の恒一はまだ知らなかった。
「じゃあ、また明日」
駅の前で、美月が立ち止まる。
「うん」
「遅刻しないでね」
「しないよ」
「絶対?」
「絶対」
「約束?」
「……約束」
美月が笑う。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
美月が駅の階段を上っていく。
恒一は、その背中を見送った。
何度も振り返ろうと思った。
でも、美月は振り返らなかった。
家に帰ってからも、恒一の頭から昼間の会話が離れなかった。
――好きな人、いるよ。
あの時。
ちゃんと名前を言えばよかった。
そう思った。
机に向かう。
未来への手紙が置いてある。
恒一は封筒を開け、中の紙を取り出した。
――十年後の俺へ。
そこには、夢のこと。
絵のこと。
未来のこと。
そして、美月との約束のことが書かれている。
恒一は、その最後に一行だけ書き足した。
――今の俺は、好きな人に「好き」と言えていません。
ペンを止める。
そして、その下にもう一行。
――十年後の俺は、ちゃんと言えていますか?
書き終えると、恒一は紙を折った。
窓の外を見る。
夜空には、星がいくつか見えていた。
明日は文化祭。
みんなで作ったものを、みんなに見てもらう日。
きっと楽しい一日になる。
そう思っていた。
けれど。
その胸の奥には、小さな不安があった。
明日が終わったら。
何かが変わる気がする。
理由は分からない。
ただ、時間というものは、楽しい瞬間ほど早く過ぎてしまう。
だから恒一は、まだ眠ることができなかった。
――明日も、美月と笑えますように。
そう願いながら、未来への手紙を引き出しにしまった。
翌朝。
文化祭当日。
校門には大きな看板。
校舎には色とりどりの飾り。
生徒たちの声。
音楽。
笑い声。
すべてが輝いていた。
恒一は教室へ向かう途中、廊下の窓から外を見た。
銀杏の葉が、朝の風に揺れている。
その中に一枚だけ。
黄色い葉が、ゆっくりと落ちていった。
恒一は、なぜかその葉から目を離せなかった。
時間も、あんなふうに落ちていくのだろうか。
一枚。
また一枚。
気づかないうちに。
そして――
拾い上げることができないほど遠くへ。
この時の恒一は、まだ知らない。
今日という一日が、
二人にとって忘れられない一日になることを。
そして。
今日、言えなかった言葉が、
この先何年もの間、
心の奥に残り続けることを。
7話 最後の文化祭
文化祭当日の朝。
いつもより少し早く目が覚めた。
目覚まし時計が鳴るより前だった。
恒一は布団の中で天井を見つめる。
今日は文化祭。
昨日まで何度も準備してきた。
壁の飾り。
未来への手紙。
教室の展示。
何度も確認した。
なのに、落ち着かなかった。
理由は分かっている。
美月に会える。
それだけで、いつもより早く目が覚めてしまった。
「……俺、何やってんだ」
恒一は一人で苦笑した。
制服に着替え、鞄を持つ。
家を出る。
秋の朝は少し冷たかった。
駅へ向かう道の街路樹は黄色く色づいている。
風が吹くたびに、葉が何枚も舞った。
学校が見えてくる。
校門には、昨日までなかった大きな看板が立っていた。
――文化祭。
その文字を見ただけで、胸が高鳴った。
「朝倉!」
校門をくぐったところで、恒一郎が走ってきた。
「遅い!」
「いや、まだ開始前だろ」
「文化祭は始まる前から始まってるんだよ」
「意味分からない」
「とにかく来い!」
恒一郎に腕を引っ張られる。
「ちょ、何だよ!」
「教室!」
そのまま二人で走る。
教室に入ると、すでに何人ものクラスメイトが集まっていた。
「おはよう!」
「朝倉、こっち!」
「これ運んで!」
「未来の手紙、ちゃんと並べた?」
「大丈夫!」
朝から大騒ぎだった。
恒一も荷物を運び、展示を確認する。
壁には、色とりどりのメッセージ。
中央には、
「未来の自分へ」
と大きく書かれた看板。
その下には、生徒たちが書いた封筒が並んでいる。
「おはよう、朝倉くん」
振り返る。
美月だった。
「おはよう」
「早いね」
「昨日、ちゃんと寝た?」
「まあ……」
「私は楽しみであんまり眠れなかった」
「……俺も」
思わず答える。
「え?」
「いや、文化祭が楽しみで」
「ああ……」
美月が笑った。
「私も」
その笑顔を見ただけで、昨日までの疲れが全部消えたような気がした。
開門。
一気に人が校内へ入ってくる。
「いらっしゃいませ!」
「こちらです!」
「未来の自分への手紙を書いてみませんか?」
教室はすぐに人でいっぱいになった。
子どもが母親と一緒に封筒を眺めている。
高校生の友達同士が笑いながら未来の夢を書いている。
先生たちも楽しそうに展示を見ていた。
「これ、いい企画ね」
訪れた保護者が言う。
「十年後に読みたいわ」
「二十年後だったら、もっと面白そう」
そんな声が聞こえてくる。
恒一は、その光景を見ながら思った。
未来なんて、誰にも分からない。
だからこそ、今の気持ちを書き残す。
それだけで、何か意味があるのかもしれない。
「朝倉くん!」
美月が呼んだ。
「こっちお願い!」
「分かった!」
二人はまた走り回る。
手紙を整理する。
来場者に説明する。
子どもたちに紙を渡す。
笑って。
話して。
忙しくて。
でも、楽しい。
時間はあっという間に過ぎていった。
昼休み。
ようやく少しだけ時間ができた。
「疲れた……」
恒一が机に突っ伏す。
「お疲れさま」
美月が笑う。
「はい」
差し出されたのは、紙コップに入った飲み物だった。
「ありがとう」
「頑張ってたから」
「美月もだろ」
「私は楽しいから平気」
「俺も楽しい」
「ほんと?」
「うん」
恒一は飲み物を一口飲んだ。
「こういうの、ずっと続けばいいのにな」
思わず口に出た。
美月が黙った。
「……うん」
その返事は、少しだけ寂しそうだった。
教室の窓から校庭を見る。
秋の空は青かった。
銀杏の木が、黄色い葉を揺らしている。
「ねえ」
美月が言った。
「何?」
「今日が終わったら、文化祭も終わっちゃうんだね」
「……そうだな」
「なんか寂しい」
「でも、まだ午後がある」
「そうだね」
美月は笑った。
「じゃあ、いっぱい楽しもう」
「うん」
二人は教室を出た。
午後。
校内はさらに盛り上がっていた。
体育館では演劇。
音楽室では軽音楽部のライブ。
校庭では模擬店。
廊下を歩けば、知らないクラスの生徒まで笑っている。
恒一と美月も、仕事の合間に少しだけ他の展示を見て回った。
「見て、これ!」
美月が指差した。
「写真部?」
「うん」
壁一面に、学校生活の写真が飾られていた。
体育祭。
遠足。
部活動。
何気ない昼休み。
笑っている生徒たち。
写真の中にいる人たちは、みんな今を生きている。
「写真って不思議だね」
美月が言った。
「何が?」
「その瞬間は普通なのに、写真になると特別な時間に見える」
「……分かる」
「私たちも撮ってもらおうよ」
「え?」
「記念」
「いいけど……」
二人は写真部の生徒に声をかけた。
「文化祭の記念写真、お願いします」
「はい、並んで!」
二人が並ぶ。
少し距離を空ける。
「もっと近く!」
「え?」
「友達なんでしょ?」
「そうだけど……」
「ほら、美月ちゃんも!」
「う、うん」
二人の肩が少し近づく。
「笑って!」
カシャッ。
シャッターの音。
その瞬間を。
恒一は、ずっと後になっても覚えている。
写真に残った二人は、何も知らない。
この先にどんな未来が待っているのか。
どこへ進むのか。
何を諦めるのか。
誰と出会うのか。
ただ。
この時は笑っていた。
夕方。
文化祭終了の放送が流れた。
「本日の文化祭は、終了となります」
教室から歓声が上がる。
「終わったー!」
「疲れた!」
「楽しかった!」
拍手。
笑い声。
そして、少しだけ寂しそうな顔。
恒一は窓の外を見た。
夕焼けが校舎を赤く染めている。
「終わっちゃったね」
美月が隣に立った。
「うん」
「楽しかった」
「うん」
「……本当に楽しかった」
美月は、もう一度言った。
その声を聞いて、恒一は思った。
今日を忘れたくない。
「美月」
「ん?」
「来年も……」
そこまで言って、恒一は止まった。
来年。
その言葉が、少しだけ引っかかった。
「……どうしたの?」
「いや」
恒一は笑った。
「来年も、また文化祭やるんだろうなって」
「うん」
美月も笑った。
「来年も楽しみだね」
その言葉に、恒一は頷いた。
けれど。
実際には、この文化祭が二人にとって最後になる。
それを、誰も知らなかった。
片づけが始まる。
壁の飾りを外す。
机を元に戻す。
ポスターを剥がす。
教室は少しずつ、元の姿に戻っていく。
さっきまであれほど華やかだった空間が、少しずつ普通の教室になっていく。
「なんか……寂しいな」
恒一が言った。
「うん」
美月も答える。
壁から「未来の自分へ」の文字を外す。
その下には、少しだけ跡が残っていた。
「これも片づける?」
美月が箱を持ち上げる。
「うん」
二人で未来への手紙が入った箱を運ぶ。
「十年後、ちゃんと返してもらえるかな」
美月が言った。
「先生に忘れられてたりして」
「ふふっ」
「その時は、二人で取りに行けばいい」
「二人で?」
「うん」
美月が恒一を見る。
「……約束?」
「約束」
小指を絡める。
文化祭の終わった教室で。
二人はまた、未来の約束をした。
その時。
窓の外から、冷たい風が吹き込んできた。
黄色い銀杏の葉が一枚、教室の中へ舞い込んでくる。
美月がそれを拾った。
「きれい」
「もう冬が近いな」
「そうだね」
美月は葉を手のひらに乗せた。
「時間って、早いね」
「……うん」
「夏祭りから、もうこんなに経ったんだ」
「花火の約束?」
「うん」
「覚えてるよ」
「私も」
美月は笑った。
その笑顔を見ながら。
恒一は、心の中で一つだけ願った。
――この時間が、もう少し続きますように。
片づけが終わった頃には、外はもう暗くなっていた。
生徒たちが次々に帰っていく。
「じゃあな!」
「また明日!」
「お疲れ!」
校門の前で、みんなが別れていく。
恒一郎も手を振った。
「朝倉、また明日!」
「おう」
「美月ちゃんもな!」
「うん。また明日」
恒一郎が去っていく。
残ったのは、恒一と美月だった。
「帰ろうか」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
秋の夜。
街灯の下に、二人の影が伸びる。
学校から駅までの道。
何度も歩いた道。
「今日は、本当に楽しかったね」
美月が言った。
「うん」
「朝倉くんと一緒に準備できてよかった」
「俺も」
「来年も――」
美月が言いかける。
けれど、なぜか二人とも、その言葉の続きを言わなかった。
駅が見えてきた。
いつもの場所。
いつもの別れ道。
「じゃあ、また明日」
美月が笑う。
「また明日」
恒一も笑う。
美月が歩いていく。
恒一は、その背中を見送る。
今日も一日が終わった。
楽しかった。
何も悪いことなんてなかった。
だからこそ――
恒一は知らなかった。
今日が。
美月と一緒に過ごした、
最後の文化祭になることを。
そして。
今日撮った一枚の写真が。
未来の自分にとって、
何度も何度も見返すことになる、
大切な一枚になることを。
その写真には。
文化祭の飾りを背景に、
二人が笑っている。
まだ未来を知らない二人が。
まだ別れを知らない二人が。
ただ、今という時間の中で。
幸せそうに笑っていた。
8話 言えなかった言葉
文化祭が終わった。
あれだけ騒がしかった学校は、翌日には何事もなかったかのように静かになっていた。
廊下の飾りはなくなり、教室の壁も元に戻っている。
未来への手紙を展示していた場所には、もう何もない。
ただ、そこに少しだけ画鋲の跡が残っていた。
恒一は、その跡を見つめていた。
「……終わったんだな」
小さく呟く。
文化祭が終わった。
でも。
胸の中には、まだ昨日の景色が残っている。
美月の笑顔。
教室のざわめき。
夕焼け。
銀杏の葉。
そして、あの一枚の写真。
何気なく撮った写真。
二人で並んで笑っただけの写真。
それなのに、なぜか何度も思い出してしまう。
「朝倉」
後ろから声がした。
恒一郎だった。
「何ぼーっとしてんだ?」
「別に」
「美月ちゃん?」
「……」
「図星か」
「うるさい」
恒一郎は笑った。
「なあ、朝倉」
「何?」
「言わないのか?」
「何を?」
「好きって」
恒一は黙った。
恒一郎は、珍しくふざけた顔をしていなかった。
「お前、ずっと好きなんだろ?」
「……」
「だったら言えばいいじゃん」
「簡単に言うなよ」
「何で?」
「もし……」
恒一は窓の外を見る。
「もし言って、今までみたいに話せなくなったら?」
「……」
「一緒に帰れなくなったら」
「……」
「笑えなくなったら」
恒一郎はしばらく黙った。
「それでも、言いたいんじゃないの?」
恒一は答えられなかった。
好きだから言いたい。
でも。
好きだからこそ、失いたくない。
それが、恒一の答えだった。
十二月。
秋は終わり、街には冬の気配が漂っていた。
校庭の銀杏は、ほとんど葉を落としている。
朝の空気は冷たい。
吐く息が白くなる。
教室では、受験や進路の話が増えていた。
「大学、決めた?」
「だいたい」
「俺はまだ」
「卒業旅行どうする?」
「その前に試験だろ」
みんな、それぞれの未来へ向かって動き始めていた。
恒一も進路を決めなければならなかった。
絵を描きたい。
それは変わらない。
でも、絵だけで生きていく自信はなかった。
結局、卒業後は普通の大学へ進み、就職する。
そんな道を考え始めていた。
夢を諦めたわけではない。
ただ。
現実を選んだだけ。
そう思おうとしていた。
ある日の放課後。
美月と二人で駅へ向かっていた。
冬の夕暮れは早い。
まだ五時前なのに、空はもう薄暗くなっている。
街路樹の枝はほとんど裸になっていた。
「寒いね」
美月が両手をこすり合わせる。
「手袋は?」
「忘れた」
「また?」
「うん」
「夏はかき氷で頭痛くするし、冬は手袋忘れるし」
「何それ」
「世話が焼ける」
「じゃあ、朝倉くんが持ってて」
「え?」
「手袋」
美月は笑った。
「未来の約束の代わりに」
「何それ」
二人で笑う。
いつもの会話。
いつもの帰り道。
でも。
恒一の胸の中には、いつもと違う気持ちがあった。
卒業まで、あと数か月。
時間がない。
そう思うたびに、胸が苦しくなった。
「ねえ」
美月が言った。
「ん?」
「高校生活って、短かったね」
「まだ終わってないだろ」
「そうだけど」
美月は少しだけ寂しそうに笑った。
「なんか、もう終わりが見えてる気がする」
恒一は何も言えなかった。
終わり。
その言葉を聞いた瞬間。
恒一の中で、何かが決まった。
今日、言おう。
今日こそ。
美月に――
「美月」
「ん?」
「俺……」
足を止める。
美月も立ち止まった。
「どうしたの?」
恒一の心臓が激しく鳴っている。
「俺……」
言葉が出ない。
好き。
たった二文字。
それだけなのに。
喉の奥でつかえて、出てこない。
「……何でもない」
結局、そう言ってしまった。
「変なの」
美月は笑った。
「朝倉くん、最近よくそういう顔するよ」
「どういう顔?」
「何か言いたそうな顔」
「……」
「言えばいいのに」
その言葉に、恒一の胸が大きく揺れた。
「……言えないこともあるだろ」
「そう?」
「うん」
「そっか」
美月はそれ以上聞かなかった。
二人はまた歩き始めた。
駅に着く。
いつもの場所。
いつもの別れ。
「じゃあ、また明日」
「うん」
美月が手を振る。
「朝倉くん」
「ん?」
「文化祭の写真、持ってる?」
「写真?」
「ほら、写真部に撮ってもらったやつ」
「ああ」
「私、欲しい」
「分かった」
「今度見せて」
「うん」
美月は笑った。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
美月が駅の階段を上っていく。
恒一は、その姿を見送った。
そして、気づく。
――また明日。
いつも使っていた言葉。
でも。
「また明日」が、いつまでも続く保証なんてない。
そのことを、初めて怖いと思った。
その夜。
恒一は机の引き出しから、文化祭の写真を取り出した。
二人で並んでいる。
笑っている。
背景には、「未来の自分へ」という文字。
写真を見ながら、恒一は思った。
未来。
十年後。
自分は何をしている?
美月は?
二人は?
今と同じように笑っているだろうか。
恒一は写真の裏に、日付を書いた。
――文化祭。
そして、しばらく迷ってから。
もう一つの言葉を書いた。
――大切な日。
それだけだった。
「好き」という言葉は、書けなかった。
冬休みが近づいていた。
街にはクリスマスの飾りが増えていく。
駅前には大きなツリー。
店先にはイルミネーション。
赤と緑の装飾。
学校でも、冬休み前の空気が広がっていた。
「冬休み、どこか行く?」
恒一郎が聞いてくる。
「別に」
「美月ちゃんとは?」
「……知らない」
「誘えば?」
「何でお前がそんなに気にするんだよ」
「親友だから」
「余計なお世話」
「はいはい」
恒一郎は笑った。
「後悔するぞ」
その言葉だけが、妙に胸に残った。
後悔。
恒一は、その日の夜。
布団に入ってからも、その言葉を考えていた。
もし。
もし、あの時言っていたら。
未来は変わっていたのだろうか。
美月も同じ気持ちだったのだろうか。
それとも。
ただの自分の勘違いだったのだろうか。
答えは分からない。
だからこそ。
怖かった。
年が明けると、卒業までの時間はさらに速くなった。
一月。
二月。
そして三月。
教室には、卒業式までの日数が書かれた紙が貼られた。
残り三十日。
残り二十日。
残り十日。
数字が減っていく。
恒一は、その数字を見るたびに落ち着かなくなった。
美月と話せる時間が減っている。
一緒に帰れる日が減っている。
笑える時間が減っている。
そして――。
卒業式。
その日が来た。
校庭には、春を待つ木々。
まだ少し冷たい風。
体育館には、卒業生が並んでいる。
名前が一人ずつ呼ばれていく。
卒業証書。
拍手。
涙。
笑顔。
すべてが、ゆっくりと流れていった。
式が終わる。
教室へ戻る。
「卒業おめでとう!」
「また会おうな!」
「絶対連絡しろよ!」
みんなが写真を撮っている。
泣いている人。
笑っている人。
未来の話をしている人。
恒一は、美月を探した。
いた。
窓際。
友達と話している。
恒一は、ゆっくり近づいた。
「美月」
「あ、朝倉くん」
「卒業だな」
「うん」
美月は笑った。
「早かったね」
「……うん」
「三年間」
「……うん」
二人とも、何を話せばいいのか分からなかった。
やがて、美月が鞄から何かを取り出した。
「これ」
「……?」
一枚の写真だった。
文化祭の日。
二人で並んで笑っている。
「覚えてる?」
「もちろん」
「私、この写真好き」
「……俺も」
「だから、持ってて」
「え?」
「朝倉くんが持ってて」
恒一は写真を受け取った。
「十年後」
美月が言った。
「これ見せ合おうよ」
「……」
「約束」
小指が差し出される。
恒一は、自分の小指を絡めた。
「約束」
その瞬間。
言おうと思った。
今度こそ。
卒業してしまう前に。
ずっと好きだった。
これからも会いたい。
また一緒に笑いたい。
言葉は、胸の中にあった。
でも――。
「美月」
「ん?」
「俺……」
やっぱり。
言えなかった。
「……元気で」
それだけだった。
美月は少し驚いた顔をした。
そして。
優しく笑った。
「朝倉くんもね」
それが。
高校最後の日の。
二人の最後の会話になった。
校門を出る。
みんな、それぞれの道へ向かっていく。
恒一は何度も振り返った。
校舎。
教室。
窓。
銀杏の木。
そして。
その向こうにいる美月。
彼女もこちらを見ていた。
二人の目が合う。
美月が手を振る。
恒一も手を振る。
それだけだった。
やがて。
人の流れの中で。
美月の姿が見えなくなった。
恒一は、その場に立ち尽くした。
胸の奥に、言えなかった言葉が残っている。
――好き。
たった二文字。
どうして言えなかったんだろう。
どうして。
もっと早く言わなかったんだろう。
そう思った。
でも。
その時の恒一には、それ以上どうすることもできなかった。
彼は鞄の中から、文化祭の写真を取り出した。
二人が笑っている。
その写真の裏には、以前書いた言葉。
――大切な日。
恒一は、その下にもう一行だけ書き足した。
――言えなかった言葉。
写真をしまう。
そして歩き始める。
自分の未来へ。
美月の未来へ。
二人は、それぞれ別の道を歩き始めた。
それが永遠の別れになるとは知らずに。
また、いつか会えると思っていた。
十年後。
未来への手紙を開く頃には。
きっと笑いながら、今日のことを話せると思っていた。
――そう信じていた。
それから、時間は流れた。
大学。
就職。
仕事。
新しい人間関係。
忙しい毎日。
夢だった絵は、少しずつ描かなくなった。
最初は忙しかっただけ。
そのうち、描く理由が分からなくなった。
机の引き出しにしまったままの画材。
色褪せていくスケッチブック。
未来への手紙。
文化祭の写真。
そして。
言えなかった言葉。
すべてを箱に入れた。
いつか開けるつもりだった。
いつか。
時間ができたら。
いつか。
気持ちに余裕ができたら。
そう思っているうちに。
十年が過ぎた。
十五年が過ぎた。
そして――。
気がつけば。
あの日の文化祭から、
長い長い時間が流れていた。
9話 十五年分の沈黙
十二月。
東京の街は、いつの間にかクリスマスの色に染まっていた。
駅前には大きなツリーが飾られ、商業施設の窓には雪の結晶を模したイルミネーションが流れている。
仕事帰りの人々は、足早に駅へ向かう者もいれば、恋人と並んで歩く者もいた。
笑い声。
スマートフォンで写真を撮る音。
どこからか聞こえてくるクリスマスソング。
そんな街の中を、朝倉恒一は一人で歩いていた。
「……今年も、もう終わりか」
小さく呟く。
時計を見る。
二十一時を少し過ぎていた。
今日も残業だった。
特別忙しいわけではない。
特別つらいわけでもない。
ただ、毎日が同じだった。
朝、起きる。
電車に乗る。
会社へ行く。
仕事をする。
帰る。
食事をして、風呂に入り、スマートフォンを眺める。
そして眠る。
また朝が来る。
その繰り返し。
以前なら、それを「普通の生活」だと思っていた。
けれど最近は――。
何かが足りない。
そう思うことが増えていた。
「……何なんだろうな」
答えは分かっているような気がする。
でも、見ないふりをしていた。
自宅へ戻ると、恒一はコートを脱ぎ、電気をつけた。
静かな部屋。
テレビをつける気にもならず、冷蔵庫から水を取り出して一口飲む。
そのときだった。
部屋の隅に置かれた段ボール箱が目に入った。
「……これ」
年末の片付けをしようと思って、数日前に押し入れから出したものだった。
高校時代のアルバム。
卒業後、一度だけ整理して以来、ほとんど開けていない。
恒一は箱の前に座った。
蓋を開ける。
古い写真。
卒業証書。
使いかけのノート。
そして――。
一枚の写真。
秋の文化祭。
校舎の前。
笑っているクラスメイトたち。
その中に、彼女がいた。
桜井美月。
「……美月」
口にした瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
もう十五年も前のことなのに。
顔を見れば、昨日のことのように思い出せる。
笑った顔。
少し困ったときにする表情。
何かを思いついたときに輝く目。
そして――。
『十年後、これ見せ合おうよ』
あの日の言葉。
恒一は写真を指でなぞった。
「……十年どころか、十五年だぞ」
苦笑する。
約束の十年は、とっくに過ぎていた。
なのに、自分は何をしていたのだろう。
写真の裏を見る。
そこには、当時の自分の字で短い言葉が残っていた。
『大切な日』
そして、その下に。
『言えなかった言葉』
恒一は目を伏せた。
高校生だった自分は、あの日。
美月に「好き」と言えなかった。
言えばよかった。
何度もそう思った。
でも――。
怖かったのだ。
もし告白して、断られたら。
もし気まずくなったら。
もし今までのように話せなくなったら。
それまで築いてきた時間が、全部壊れてしまいそうだった。
だから言えなかった。
好きだったから。
大切だったから。
今の関係を失いたくなかったから。
「……馬鹿だよな、俺」
十五年経った今でも、その気持ちは消えなかった。
いや。
正確には――。
消えたのではなく、箱の中にしまったままになっていた。
恒一は写真の下から、一通の封筒を取り出した。
少し黄ばんだ封筒。
表には、大きな文字で書かれている。
『未来の俺へ』
高校生の自分から、三十一歳の自分へ。
十五年前の自分が、今の自分に宛てた手紙だった。
封を開ける。
何度も読み返したはずなのに、文字を見ると胸が詰まった。
『未来の俺へ。
ちゃんと絵を描いていますか?
夢、叶えましたか?
大人になっても、今日みたいに笑っていますか?』
恒一はそこで読むのを止めた。
「……描いてないよ」
部屋の中に、自分の声だけが響く。
「夢も……叶えてない」
高校生の頃。
恒一には夢があった。
絵を描くこと。
自分が描いたものを誰かに見てもらうこと。
いつか、誰かの心に残るような絵を描くこと。
けれど、進路を考える頃になると、現実という言葉が少しずつ大きくなっていった。
将来性。
収入。
安定。
親の期待。
周囲の進路。
そして、自分自身の「無理かもしれない」という気持ち。
夢は、いつの間にか「趣味」になった。
絵を描く時間も減った。
社会人になってからは、ほとんど描かなくなった。
そして気づけば――。
十五年。
「……十五年か」
手紙を握ったまま、恒一は天井を見上げた。
十五年という時間は、長かった。
長いはずなのに。
思い出は、驚くほど鮮明だった。
自転車で二人乗りした帰り道。
夕焼け。
夏祭り。
浴衣姿の美月。
夜空に咲いた花火。
文化祭。
未来への手紙。
そして、最後に交わした――。
「元気で」
たったそれだけの言葉。
本当は、その前に言いたかった。
『好きだ』
たった三文字。
それだけだった。
なのに。
言えなかった。
恒一は苦笑した。
「十五年経っても、まだ覚えてるんだな……」
そのとき。
ふと、スマートフォンが目に入った。
恒一は画面を開く。
検索画面。
そこに、以前調べた名前が残っていた。
『桜井美月』
検索結果を眺める。
同じ名前の人は何人もいる。
けれど、どれが本人なのか分からない。
SNSを探しても、確信できるものはなかった。
高校時代の友人にも、最近はほとんど連絡を取っていない。
唯一、当時から連絡を取り続けている田中恒一郎なら何か知っているかもしれない。
そう思って、メッセージ画面を開く。
名前を入力する。
『久しぶり』
そこまで打って、指が止まった。
何を聞けばいい?
『美月、今どうしてる?』
そんなことを突然聞いたら、不自然ではないか。
十五年も連絡していなかったのに。
今さら。
そう思って、文字を全部消した。
「……何やってんだ、俺」
高校生の頃と何も変わっていない。
言いたいことがあるのに。
大切なことほど、言えない。
恒一はスマートフォンを机に置いた。
そして、もう一度写真を見る。
そこには、未来なんて何も知らない自分たちがいた。
笑っている。
この先、何が起こるのかも知らず。
どんな仕事をするのか。
どこに住むのか。
誰と出会うのか。
何を失うのか。
どんな夢を諦めるのか。
そんなことを何も知らないまま。
「……未来って」
恒一は呟いた。
「思ってた通りには、ならないんだな」
高校生の頃は、十五年後の自分をもっと違う姿で想像していた。
夢を叶えて。
絵を描いて。
好きな人と笑っている。
そんな未来を、どこかで信じていた。
でも現実は違った。
夢は途中で止まり。
恋も、言葉にする前に終わった。
そして自分は、いつの間にか「仕方ない」という言葉に慣れていた。
恒一は手紙を封筒へ戻そうとした。
そのとき――。
一枚の小さな紙が、封筒の中から落ちた。
「……?」
拾い上げる。
それは、文化祭の準備中に美月が書いたものだった。
丸みのある、懐かしい文字。
『未来の私へ』
その文字を見た瞬間。
恒一の心臓が、一度だけ強く鳴った。
自分が持っていた手紙。
美月が書いた手紙。
そして、十五年前の約束。
『十年後、これ見せ合おうよ』
恒一は紙を見つめた。
「……美月」
十五年。
長い時間が過ぎた。
きっと彼女も変わっている。
自分だって変わった。
昔のように笑えるのか。
昔のように話せるのか。
そもそも、今どこにいるのか。
何をしているのか。
結婚しているかもしれない。
別の誰かと幸せに暮らしているかもしれない。
それなら、それでいい。
そう思おうとした。
けれど――。
胸の奥に、小さな声が残った。
もう一度だけ。
会ってみたい。
それは恋なのか。
未練なのか。
昔の自分への答えなのか。
恒一には分からなかった。
ただ。
十五年前に止めてしまった何かが、ほんの少しだけ動いた気がした。
窓の外を見る。
東京の夜。
遠くに、冬の街明かりが見える。
クリスマスが近づいていた。
「……そういえば」
恒一はカレンダーを見る。
十二月二十五日。
クリスマス。
高校時代の記憶の中で、美月が言っていた言葉が蘇る。
『大人になったら、何してるんだろうね』
あの頃は答えられなかった。
十五年後の今なら、答えられるだろうか。
恒一は立ち上がった。
そして、久しぶりに机の引き出しを開けた。
奥には、使われなくなったスケッチブックが一冊入っていた。
表紙には、薄く埃が積もっている。
手に取る。
ページを開く。
そこには高校生だった自分が描いた、未完成の絵が残っていた。
街の風景。
その向こうに、大きな木。
そして――。
小さく描かれた二人の人影。
「……俺、こんなの描いてたんだ」
思わず笑った。
久しぶりに。
心から、少しだけ。
笑えた。
恒一は鉛筆を一本取り出した。
そして、白紙のページに線を引いた。
上手く描けない。
手が震える。
線も歪む。
それでも――。
描けた。
「……まだ、描けるじゃん」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
十五年前の自分に向けたのかもしれない。
未来の自分に向けたのかもしれない。
あるいは――。
いつか再び会うかもしれない、あの人に向けたものなのかもしれない。
恒一はスケッチブックを閉じた。
そして、写真と手紙を箱へ戻す。
ただし。
今度は、箱の一番奥にはしまわなかった。
机の上に置いた。
すぐに手が届く場所に。
十五年分の沈黙。
それは、まだ終わってはいない。
けれど――。
終わらせるための時間が、ようやく始まろうとしていた。
その夜。
恒一は久しぶりに、夢を見た。
高校の校舎。
秋の銀杏並木。
文化祭の準備をする教室。
そして、振り返る美月。
『恒一くん』
夢の中の彼女は、あの日と同じ笑顔で笑っていた。
『十年後、ちゃんと会おうね』
「……うん」
恒一は答えた。
夢の中で。
十五年遅れで。
ようやく。
その約束に返事をした。
――十二月二十五日。
クリスマスの夜。
東京・錦糸町。
止まっていた時間が、再び動き始める。
それが過去へ戻るための時間なのか。
それとも――。
これからの未来へ進むための時間なのか。
まだ、誰にも分からなかった。
10話 錦糸町のクリスマス
十二月二十五日。
クリスマスの夜。
朝倉恒一は、錦糸町駅の改札を出た。
人が多い。
仕事帰りの会社員。
買い物袋を抱えた人。
友人同士で笑いながら歩く若者。
そして、手をつないで歩く恋人たち。
駅前は、いつも以上に賑やかだった。
「……すごいな」
恒一は少しだけ立ち止まった。
昔、この街に何度か来たことはあった。
けれど、高校生だった頃とは、見える景色が違っている。
あの頃は、ただ街を歩いていただけだった。
今は――。
十五年という時間を背負って歩いている。
恒一はコートのポケットに手を入れた。
指先に触れたのは、一枚の紙。
高校時代の写真だった。
持ってくるつもりはなかった。
家を出る直前まで迷った。
それでも、なぜか置いていけなかった。
「……十年後、見せ合おうって言ってたよな」
小さく呟く。
約束から、五年も遅れている。
そもそも、約束の相手がここにいるわけでもない。
今日、美月に会える保証などどこにもない。
それでも恒一は、錦糸町まで来ていた。
理由は自分でもよく分からなかった。
ただ。
家に閉じこもったままでは、何も変わらない。
そう思った。
駅前のイルミネーションが目に入る。
青白い光が、冬の夜を照らしている。
恒一はスマートフォンを取り出した。
時刻は十八時四十分。
まだ早い。
けれど、帰る気にはなれなかった。
「……少し、歩くか」
そう呟いて、駅前を離れる。
人の流れに沿って歩いていると、ふと大きなクリスマスツリーが目に入った。
飾られた光が、ゆっくりと色を変えていく。
その前では、何組もの人が写真を撮っている。
「十五年前にも、こんなのがあったらな」
高校時代。
美月と一緒に、こんな場所を歩いていたら。
そんな考えが浮かんで、恒一は苦笑した。
「……何考えてんだ」
過去は過去だ。
戻ることなんてできない。
そう思った。
そのときだった。
人混みの向こうに――。
一人の女性が見えた。
長いコート。
肩まで伸びた髪。
手には小さな紙袋。
彼女はツリーを見上げていた。
ただ、それだけだった。
顔もはっきり見えない。
それなのに。
恒一の足が止まった。
「……え?」
胸の奥が、大きく鳴る。
そんなはずはない。
十五年も経っている。
髪型も違う。
服装も違う。
高校生だった頃の面影なんて、ほとんど残っていないかもしれない。
それなのに――。
なぜか分かった。
その横顔。
イルミネーションの光に照らされた、その表情。
そして、少しだけ首を傾ける仕草。
「……美月?」
声にはならなかった。
ただ、名前だけが口元から漏れた。
女性が、ゆっくりと振り返る。
目が合った。
一秒。
二秒。
周囲では、たくさんの人が歩いている。
誰かが笑っている。
子どもがはしゃいでいる。
遠くではクリスマスソングが流れている。
それなのに。
恒一には、すべての音が遠ざかったように感じた。
彼女の目が大きく開く。
そして――。
「……恒一、くん?」
その声。
十五年前と同じだった。
もちろん、大人の女性になった声だった。
でも。
恒一には分かった。
間違えるはずがなかった。
「……美月」
今度は、ちゃんと声になった。
彼女――桜井美月は、しばらく何も言わなかった。
ただ、恒一を見つめていた。
やがて。
ほんの少しだけ笑った。
「……やっぱり」
「え?」
「恒一くんだと思った」
恒一は言葉を失った。
「……分かったの?」
「うん」
美月は笑う。
「すぐ分かったよ」
「嘘だろ」
「嘘じゃないって」
彼女は少しだけ首を傾けた。
「だって……」
一瞬、言葉を探す。
「笑うときの顔、昔と変わってないから」
「……」
恒一は思わず目を逸らした。
十五年前。
同じ教室で笑っていた少女が。
今、目の前にいる。
時間だけが、二人の間を十五年分通り過ぎていた。
「久しぶり」
美月が言った。
「……久しぶり」
恒一も答える。
たったそれだけ。
たった二言。
それなのに。
胸の奥には、十五年分の言葉が詰まっていた。
元気だった?
何してた?
夢は叶った?
あの約束、覚えてる?
あの日、言えなかったことを――。
聞きたいことも。
伝えたいことも。
いくらでもあった。
でも。
恒一は、また言葉に詰まった。
高校生の頃と同じように。
大切なことほど、口から出てこない。
「……どうしたの?」
美月が不思議そうに見る。
「いや……」
恒一は苦笑した。
「なんか、変な感じだなって」
「うん」
美月も笑った。
「私も」
イルミネーションの光が、二人の間を流れる。
青。
白。
淡い紫。
その光を見ながら、美月が呟いた。
「十五年……だよね」
「……うん」
「長かったね」
「長かった」
二人とも笑った。
けれど、その笑顔の奥には、少しだけ寂しさがあった。
十五年。
その間に、二人にはそれぞれ別々の人生があった。
楽しいこと。
苦しいこと。
叶ったこと。
諦めたこと。
出会い。
別れ。
それらすべてを、相手は知らない。
知ることができなかった。
高校時代の二人は、ただ「十年後」を想像していただけだった。
でも今。
その「未来」は、もう過去になっている。
「ねえ、恒一くん」
「ん?」
「まだ、絵……描いてる?」
その一言で。
恒一の胸が詰まった。
「……」
答えられない。
美月は、そんな恒一を見て、少しだけ目を細めた。
「そっか」
「……なんで?」
「なんとなく」
彼女は笑った。
「顔見たら、分かる気がした」
「何それ」
「昔から、分かりやすかったじゃん」
「俺、そんなに?」
「うん」
二人で笑う。
その笑い声は。
十五年前の教室で聞いたものと、どこか似ていた。
恒一は、ポケットの中の写真に触れた。
まだ出せなかった。
約束の写真。
十年後に見せ合うはずだった写真。
今、ここにいる彼女に見せることはできる。
けれど――。
それを出した瞬間。
十五年間閉じ込めていたものまで、一緒に溢れてしまいそうだった。
「……美月」
「うん?」
「今日は……一人?」
一瞬。
美月の表情が変わった。
ほんのわずかだった。
でも、恒一には分かった。
「うん」
彼女は答えた。
「今日は一人」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
聞けなかった。
そして、美月も何も説明しなかった。
ただ、二人の間には不思議な沈黙が流れた。
気まずいわけではない。
嫌な沈黙でもない。
むしろ――。
懐かしかった。
高校時代。
二人で自転車を押して歩いた帰り道。
言葉がなくても、なぜか心地よかった。
あの頃と同じような時間が、ほんの少しだけ戻ってきた。
「ねえ」
美月が言った。
「何?」
「少し歩かない?」
恒一は目を瞬いた。
「……どこまで?」
美月は、遠くに見える光を指差した。
冬の夜空に浮かぶ、大きな光。
「スカイツリー、見えるよ」
恒一もそちらを見る。
東京スカイツリー。
夜空の中で、静かに輝いている。
「……行く?」
「うん」
「結構歩くぞ?」
「昔だって、自転車で結構走ったじゃん」
「それは高校生だったから」
「じゃあ、今の私たちがどれくらい歩けるか試してみようよ」
美月が笑った。
その笑顔を見て。
恒一も、自然に笑っていた。
「……分かった」
二人は並んで歩き始めた。
錦糸町の夜。
クリスマスの光に包まれながら。
十五年前に言えなかった言葉を抱えたまま。
それでも――。
今度は、同じ方向へ。
二人の時間が、再び動き始めた。
11話 スカイツリーまで
錦糸町の駅前を離れると、さっきまでの喧騒が少しずつ遠ざかっていった。
それでも、街にはクリスマスの光が溢れている。
店先に飾られた小さなツリー。
街路樹に巻かれたイルミネーション。
ショーウインドウの中で輝く雪の結晶。
歩道を歩く人々の吐く息が、白く夜空へ消えていく。
恒一と美月は、並んで歩いていた。
高校時代のように。
ただし、あの頃とは違う。
二人とも三十一歳。
それぞれの人生を十五年分生きてきた。
その距離を、二人はまだ少しだけ測りかねていた。
「……なんか、不思議だね」
美月が言った。
「何が?」
「こうやって恒一くんと歩いてること」
「俺も」
「高校の頃は、こんな未来になるなんて思ってなかった」
「俺だって」
恒一は笑った。
「そもそも、十五年後に会うこと自体、想像してなかったよ」
「え?」
「十年後に会うつもりだったから」
美月が足を止めた。
「……覚えてたんだ」
「もちろん」
恒一も立ち止まる。
美月は少し驚いたような顔をしていた。
「私、忘れられてると思ってた」
「まさか」
「だって、十年経っても連絡なかったし」
「……」
その言葉に、恒一は黙った。
美月も、それ以上は何も言わなかった。
遠くから車の音が聞こえる。
しばらくして、恒一が口を開いた。
「……ごめん」
「どうして謝るの?」
「約束、守れなかったから」
「十年後に会うっていう約束?」
「うん」
美月は少し考えるように夜空を見上げた。
「私も守れてないよ」
「え?」
「だって、私も恒一くんを探さなかった」
「……」
「だから、お互い様」
美月は笑った。
「五年遅れだけど」
「五年か……」
「うん」
「長いな」
「長いね」
二人はまた歩き始めた。
遠くに、東京スカイツリーが見える。
夜空に伸びるその姿は、錦糸町からでもはっきり分かった。
「昔より大きく見える」
恒一が言う。
「スカイツリー?」
「うん」
「私たちが小さくなったんじゃない?」
「それ、ちょっと嫌だな」
「ふふっ」
美月が笑った。
その笑い方。
恒一は知っている。
高校時代と変わらない。
いや。
変わった部分もある。
声は少し落ち着いて。
表情には大人らしい柔らかさが増えている。
それでも。
笑ったときに目尻が少し下がるところだけは、昔のままだった。
「……何?」
「え?」
「さっきから見てる」
「いや……」
恒一は慌てて前を見る。
「昔と変わらないなって」
「どこが?」
「笑い方」
「そう?」
「うん」
「恒一くんも変わってないよ」
「俺も?」
「うん」
美月は少しだけ考えてから言った。
「ちょっと大人になったけど」
「ちょっとだけ?」
「うん。ちょっとだけ」
「十五年も経ってるのに?」
「だって、話し方も昔と同じだもん」
「それは……」
恒一は苦笑した。
「美月だってそうだろ」
「そうかな?」
「そうだよ」
二人は笑った。
十五年という時間が、一瞬だけ消えたような気がした。
けれど。
歩いていると、ふと沈黙が訪れた。
今度の沈黙は、さっきとは少し違う。
聞きたいことがある。
でも、聞いていいのか分からない。
そんな空気だった。
恒一は何度か美月を見る。
けれど、結局何も言えない。
その様子に気づいたのか、美月が口を開いた。
「ねえ」
「ん?」
「恒一くんは、今、どんな仕事してるの?」
「普通の会社員」
「普通って?」
「事務系。毎日パソコンとにらめっこ」
「そっか」
「美月は?」
「私は……」
美月は少しだけ間を置いた。
「人の話を聞く仕事」
「人の話?」
「うん」
「それって……」
「詳しいことは、また今度」
美月は笑った。
「今日は十五年ぶん、全部話すには長すぎるから」
「……確かに」
恒一も笑った。
「じゃあ、少しずつだな」
「うん」
その言葉に、二人とも少しだけ照れた。
「また今度」。
その言葉が、自然に出たことが嬉しかった。
十五年ぶりに会ったばかりなのに。
もう一度会うことを、当たり前のように考えている。
それだけで、恒一の胸には小さな温かさが広がった。
「そういえば……」
美月が言った。
「絵は?」
恒一の足が、ほんの少しだけ止まる。
「……描いてないよ」
「今も?」
「うん」
「そっか」
美月はそれ以上、すぐには聞かなかった。
責めるわけでもない。
残念がるわけでもない。
ただ、隣を歩いている。
そのことが、逆に恒一にはありがたかった。
「高校の頃は、ずっと描いてたよね」
「うん」
「文化祭のポスターとか、教室の飾りとか」
「そうだったな」
「覚えてる?」
「覚えてるよ」
恒一は少し笑った。
「美月が『ここ、もっと明るい色にした方がいい』って言って、俺が『いや、この色の方がいい』って言い張って」
「あったあった」
「結局、美月の案になった」
「だって、私の方が正しかったから」
「自信満々だな」
「今でもそう思ってる」
二人で笑う。
その笑い声が、冬の夜に溶けていく。
恒一は思った。
こんなに自然に笑ったのは、いつ以来だろう。
会社では、仕事用の笑顔。
友人と会えば、それなりに楽しく話す。
けれど。
高校時代の自分に戻ったように笑ったのは、久しぶりだった。
「ねえ、恒一くん」
「うん?」
「夢、どうしたの?」
その質問だけは、笑って答えられなかった。
「……諦めた」
短い言葉。
美月は黙っていた。
「高校の頃は、本気で絵を仕事にしたいって思ってた。でも……現実考えたら、無理だなって」
「それで会社員に?」
「うん」
「後悔してる?」
「……分からない」
恒一は夜空を見る。
「後悔してるって認めたら、今までの十五年が無駄だったみたいに思えそうで」
美月は何も言わない。
恒一は続けた。
「だから、考えないようにしてた」
「……そっか」
「でも最近、なんか……」
「うん」
「また描いてみようかなって思った」
美月がこちらを見る。
「本当?」
「うん」
「描いたの?」
「昨日、ちょっとだけ」
「どうだった?」
「下手だった」
「ふふっ」
「笑うなよ」
「だって」
美月は嬉しそうに笑った。
「それ、昔の恒一くんみたいだから」
「昔の?」
「何か描いて、上手くいかなかったら悔しそうにして。でも次の日にはまた描いてる」
「……そんなだった?」
「そうだったよ」
美月は少し遠くを見る。
「私は、好きだったけどな」
「……え?」
恒一が振り向く。
「絵」
「あ……」
美月は少し照れたように笑った。
「恒一くんが描く絵」
「……びっくりした」
「何を想像したの?」
「いや……」
「ふふっ」
美月が楽しそうに笑う。
恒一は誤魔化すように前を向いた。
心臓が少し速くなっている。
高校生の頃と同じ。
彼女の何気ない一言に、簡単に心を揺らされる。
しばらく歩くと、スカイツリーが少し大きく見えてきた。
「近づいてきたね」
美月が言う。
「うん」
「不思議」
「何が?」
「最初は、あんなに遠かったのに」
二人は足を止めた。
見上げる。
冬の夜空に、スカイツリーが静かに輝いている。
「……人生も同じかもね」
美月が呟いた。
「人生?」
「うん」
「どういうこと?」
「昔は、未来ってすごく遠いものだったじゃない?」
恒一は黙って聞いている。
「十年後の自分なんて、想像してもよく分からなかった」
「うん」
「でも気づいたら、その十年が過ぎて」
「十五年も過ぎた」
「そう」
美月は笑った。
「遠いと思っていた未来が、いつの間にか今になってる」
「……確かに」
「そして今度は、これから先の未来が始まる」
恒一はその言葉を聞いて、胸の奥に何かが触れたような気がした。
高校時代。
二人は未来の自分へ手紙を書いた。
十年後の自分がどうなっているのか。
夢は叶っているのか。
好きな人と一緒にいるのか。
笑っているのか。
そんな未来を想像した。
でも。
現実は、手紙に書いた通りにはならなかった。
「……美月」
「うん?」
「高校の頃の自分に、今の俺を見せたら……」
「どうすると思う?」
「怒ると思う」
「どうして?」
「夢、諦めてるから」
「……そうかな」
「たぶん」
美月は少し考えた。
「私は、違うと思う」
「え?」
「きっと……」
美月は恒一を見る。
「『よく頑張ったね』って言うんじゃないかな」
「……」
「十五年も生きてきたんだもん」
その言葉が、恒一の胸に静かに落ちた。
「夢を叶えられなかったことだけが、人生じゃないよ」
「……美月」
「それに」
美月は笑った。
「まだ三十一歳だよ?」
「……そうだけど」
「未来、まだいっぱいあるじゃん」
恒一は答えられなかった。
ただ、スカイツリーを見上げた。
遠くに見えていた光が。
いつの間にか、こんなにも近くにある。
十五年前。
未来は遠かった。
十年後でさえ、想像の中の世界だった。
でも今。
自分たちは、その未来を通り過ぎてここにいる。
なら――。
これから先も。
まだ何かを選ぶことができるのではないか。
「……なあ、美月」
「うん?」
「一つ聞いてもいい?」
「何?」
恒一は一瞬だけ迷った。
そして。
「十五年前……」
言葉が止まる。
美月が静かに待っている。
「……いや」
恒一は首を振った。
「やっぱり、まだいい」
「そっか」
美月は追及しなかった。
ただ。
「いつか聞かせてね」
そう言った。
「……うん」
恒一も答える。
十五年前に言えなかった言葉。
まだ言えない。
でも。
今度は「言えないまま終わる」つもりはなかった。
スカイツリーの光が、二人の顔を照らす。
その光の下で。
二人は再び歩き始めた。
過去から現在へ。
そして――。
まだ見えない未来へ。
十五年ぶんの沈黙を抱えながら。
今度こそ、時間を止めないために。
12話 君の知らなかった未来
スカイツリーが、少しずつ大きくなっていく。
錦糸町から歩き始めた頃は、遠くの夜空に浮かぶ光にしか見えなかった。
けれど今は、見上げればその姿がはっきり分かる。
街の光。
車のヘッドライト。
クリスマスのイルミネーション。
そして、その向こうにそびえる大きな塔。
二人は、しばらく無言で歩いていた。
さっきまで自然に話していたのに。
なぜか今は、どちらも口を開かなかった。
けれど、不思議と気まずくはなかった。
むしろ。
十五年分の時間を、少しずつ整理しているような。
そんな沈黙だった。
「……ねえ」
美月が突然、口を開いた。
「うん?」
「恒一くん」
「何?」
「私ね」
美月は前を向いたまま言った。
「高校卒業してから、結構いろいろあったんだ」
「……うん」
「当たり前だけど」
小さく笑う。
「十五年もあったからね」
恒一も笑った。
「そうだな」
「大学に行って」
「うん」
「卒業して、仕事して」
「うん」
「転職もした」
「へえ」
「引っ越しもした」
「そうなんだ」
「一人暮らしもしたし」
「……うん」
恒一は相槌を打ちながら聞いていた。
その一つ一つが、自分の知らない美月の人生だった。
高校を卒業したあと。
美月がどんな毎日を送っていたのか。
何に悩み。
何に笑い。
誰と出会い。
何を失ったのか。
恒一は何も知らない。
「大学では、心理学を勉強したの」
「心理学?」
「うん」
「高校の頃、そんなこと言ってたっけ?」
「言ってないよ」
「なんで?」
「自分でも、まだよく分かってなかったから」
美月は少しだけ笑った。
「高校の頃は、『人の心を動かす仕事がしたい』って言ってたでしょ?」
「覚えてる」
「でも、卒業してから考えたの」
美月は夜空を見上げた。
「人の心を動かすって、どういうことなんだろうって」
「……うん」
「絵とか、音楽とか、映画とか。そういうもので誰かの心を動かすこともできる」
「そうだな」
「でも、直接誰かの話を聞いて、その人が少しだけ前を向けるようになることも、心を動かすことなんじゃないかなって」
恒一は黙って聞いていた。
「それで、心理学を勉強して」
「今の仕事に?」
「うん」
「人の話を聞く仕事って、そういうことだったのか」
「まあ、簡単に言うとね」
美月は笑った。
「もちろん、毎日そんなに綺麗な仕事じゃないよ」
「そうだよな」
「悩んでる人の話を聞いて、何も答えが見つからないことだってある」
「……うん」
「私自身が、何もできないって思うこともある」
美月の声が、少しだけ小さくなった。
「でもね」
「うん」
「ある日、昔の私なら絶対に諦めてたような人が、少しだけ笑って帰っていったの」
「……」
「そのとき思ったんだ」
美月は前を向いた。
「この仕事を選んでよかったって」
恒一は静かに笑った。
「美月らしいな」
「そう?」
「うん」
高校時代から。
美月は誰かが困っていると、自然に声をかける人だった。
文化祭の準備でも。
クラスの中で一人になっている子がいれば、何気なく話しかけていた。
誰かが失敗すれば、一緒に笑って。
落ち込んでいる人がいれば、隣に座っていた。
恒一は、それをずっと知っていた。
「じゃあ、美月は夢を叶えたんだな」
「……どうかな」
「え?」
「夢って、もっと大きなものだと思ってたから」
「でも今の話を聞いたら――」
「うん」
美月は笑った。
「昔の私が聞いたら、きっと『まあまあ頑張ったね』くらいは言ってくれると思う」
「なんだそれ」
「ふふっ」
二人は笑った。
そのあと。
美月は少しだけ黙ってから言った。
「でもね」
「うん」
「私にも、諦めたものはあるよ」
恒一が彼女を見る。
「……何?」
「言わない」
「え?」
「今日はまだ」
「なんだよ、それ」
「だって、私ばかり話すのずるいじゃん」
「いや、俺は……」
「恒一くんも話して」
「何を?」
「十五年間」
「十五年?」
「うん」
美月は笑った。
「私が知らない、恒一くんの十五年間」
その言葉に。
恒一は少しだけ考えた。
十五年。
自分の人生を振り返る。
高校卒業。
大学。
就職。
仕事。
友人。
何度かの恋愛。
うまくいかなかったこと。
仕事で失敗したこと。
夢を諦めたこと。
家族のこと。
何気ない毎日。
それらを話そうとすると、思った以上に難しかった。
「……普通だよ」
「また『普通』って言った」
「だって、本当に普通だから」
「そうかな」
「うん」
「私は聞きたいけどな」
美月の声は優しかった。
その言葉に、恒一は少し笑った。
「……じゃあ」
「うん」
「大学出て、会社入って」
「うん」
「最初は結構楽しかった」
「へえ」
「新しいことばっかりで。毎日覚えることが多くて」
「恒一くん、真面目だったもんね」
「今も真面目だよ」
「知ってる」
「……で、何年か経って」
恒一は歩きながら続けた。
「だんだん、仕事に慣れて」
「うん」
「慣れると、今度は同じことの繰り返しになって」
「……」
「気づいたら、それが当たり前になってた」
恒一は苦笑した。
「朝起きて、仕事して、帰って寝る」
「うん」
「休日は寝てるか、スマホ見てるか」
「……」
「絵も描かなくなって」
「うん」
「夢のことも、考えなくなって」
「……うん」
美月は何も言わなかった。
ただ、隣を歩いている。
そのことが、恒一にはありがたかった。
「別に不幸じゃないんだよ」
「うん」
「生活できてるし」
「うん」
「仕事もあるし」
「うん」
「でも……」
恒一は少しだけ言葉を止めた。
「楽しくない」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ軽くなった。
「最近まで、自分でも分からなかったんだ」
「何が?」
「俺、いつからこんなに笑わなくなったんだろうって」
美月は恒一を見た。
「……今日、笑ってるよ」
「え?」
「さっきから」
「……」
「高校の頃みたいに」
恒一は照れくさそうに笑った。
「美月といるからじゃない?」
言ってから。
しまったと思った。
あまりにも素直すぎた。
美月も一瞬、目を丸くした。
「……そういうこと、さらっと言うんだ」
「いや、今のは……」
「ふふっ」
美月は笑った。
「昔は言えなかったのにね」
「……」
その一言で。
空気が変わった。
恒一は美月を見る。
美月も、前を向いたままだった。
けれど。
その横顔には、さっきまでとは違う表情が浮かんでいる。
「……覚えてる?」
恒一が聞いた。
「何を?」
「文化祭の頃」
「もちろん」
「俺が……」
そこまで言って。
恒一は口を閉じた。
言えない。
やっぱり、まだ言えない。
十五年前と同じだ。
好きだった。
ずっと好きだった。
でも。
今さら言ってしまっていいのか分からない。
美月には美月の人生がある。
自分には自分の人生がある。
再会したからといって、十五年前に戻れるわけではない。
「……何でもない」
恒一は笑った。
美月も、それ以上は聞かなかった。
ただ。
少しだけ寂しそうに笑った。
「そっか」
二人は再び歩く。
しばらくして。
美月が静かに言った。
「私ね」
「うん」
「あの頃、恒一くんが何を考えてたのか……全部は知らなかった」
「……」
「でも、何となく分かってたこともある」
恒一の心臓が跳ねる。
「何を?」
「それは――」
美月が立ち止まった。
恒一も足を止める。
目の前には、冬のイルミネーション。
その向こうに、スカイツリーが大きく輝いていた。
「……今日は、ここまで」
「え?」
「続きは、もう少し歩いてから」
「なんだよ、それ」
「だって」
美月は笑った。
「十五年ぶんの話、全部一晩で終わらせたらもったいないでしょ?」
「……確かに」
恒一も笑う。
けれど。
胸の奥には、さっきの言葉が残っていた。
『あの頃、恒一くんが何を考えてたのか』
もしかしたら。
美月は知っていたのかもしれない。
自分が彼女を好きだったこと。
言えなかったこと。
そして――。
自分と同じように、何かを言えないまま十五年を過ごしていたこと。
その答えは、まだ分からない。
ただ。
今なら、聞ける気がした。
十五年前には聞けなかったことを。
言えなかったことを。
そして。
美月が知らなかった、自分の未来を。
恒一は夜空を見上げた。
スカイツリーの光が、まっすぐ空へ伸びている。
昔は、未来が遠かった。
今は違う。
未来は、もう目の前にある。
そしてそれは。
過去の答え合わせをするためだけのものではない。
これから二人が、何を選ぶのか。
その先にあるものだった。
「……美月」
「うん?」
「来てくれて、ありがとう」
美月は少し驚いた顔をして。
それから、昔と同じように笑った。
「こちらこそ」
「……何で?」
「だって」
美月は、ほんの少しだけ歩く速度を落とした。
「私も、会いたかったから」
恒一の足が止まる。
「……え?」
美月は振り返らない。
ただ、前を向いたまま歩いていく。
「早く行こう」
「……うん」
恒一も追いかける。
十五年前。
言えなかった二人。
十五年後。
再び出会った二人。
それぞれが知らなかった未来を抱えたまま。
クリスマスの夜。
二人は、同じ光へ向かって歩いていた。
13話 もう一度、夢を見る
クリスマスの夜から、数日が過ぎた。
朝倉恒一の部屋には、以前とは少し違う空気が流れていた。
机の上には、一冊のスケッチブック。
その隣には、鉛筆が何本か並んでいる。
そして。
高校時代の写真。
文化祭の日。
まだ何も知らなかった二人が、笑っている。
恒一は椅子に座り、その写真を眺めていた。
あの日。
十五年ぶりに美月と再会した。
錦糸町の夜。
クリスマスのイルミネーション。
スカイツリーへ向かって歩いた道。
そして――。
『私も、会いたかったから』
あの言葉。
何度思い出しても、胸が少しだけ熱くなる。
「……会いたかった、か」
恒一は小さく呟いた。
それがどういう意味なのか。
まだ、分からない。
昔の友達としてなのか。
それとも。
別の意味があるのか。
聞くことはできなかった。
聞くのが怖かった。
けれど。
以前とは、少しだけ違う。
昔の恒一なら。
怖いと思った瞬間に、すべてを諦めていた。
言わない。
聞かない。
期待しない。
そうすれば傷つかない。
そう思っていた。
でも。
今は違った。
分からなくてもいい。
答えがすぐに出なくてもいい。
ただ。
もう一度、前へ進んでみたい。
そう思えた。
恒一はスケッチブックを開いた。
白いページ。
何も描かれていない。
高校時代なら、何を描くかすぐに思いついた。
街。
空。
人。
未来。
頭の中には、いくらでも景色が浮かんでいた。
でも今は。
何を描けばいいのか分からない。
「……難しいな」
鉛筆を持つ。
紙の上に先端を置く。
一本の線を引いた。
少し曲がった。
「下手だな……」
笑ってしまう。
それでも、もう一本。
そして、もう一本。
線が増えていく。
最初は何の形なのか、自分でも分からなかった。
けれど。
少しずつ。
何かが浮かび上がってきた。
冬の夜空。
街の灯り。
遠くに見える大きな塔。
そして。
その下を歩く二人の人影。
「……」
恒一の手が止まる。
描いていたのは。
数日前に見た景色だった。
錦糸町からスカイツリーへ向かった夜。
隣を歩いていた、美月。
あのときの空気。
冬の冷たさ。
イルミネーションの光。
そして。
十五年ぶりに聞いた、彼女の声。
「……描けるんだな」
自分でも驚いていた。
十五年間。
絵を描くことから逃げていた。
描けば、昔の夢を思い出してしまうから。
思い出せば。
諦めた自分を認めることになるから。
だから。
見ないようにしていた。
けれど。
今は違う。
描いても。
何も失わない。
夢を見ても。
今までの人生が否定されるわけじゃない。
むしろ。
ここまで生きてきたからこそ、描けるものもある。
高校生の自分には描けなかった景色。
十五年分の経験。
喜び。
寂しさ。
後悔。
出会い。
別れ。
そして。
再会。
それらすべてが、今の自分の中にある。
恒一は、もう一度鉛筆を動かした。
今度は迷わなかった。
線が増えていく。
街の輪郭。
光。
空。
人。
そして――。
二人の間に伸びる、一筋の道。
「……未来への道、か」
高校時代の自分なら。
こんな絵を描いたら、きっと美月に見せていた。
『どう?』
そう聞いて。
『いいじゃん』
そう言ってもらって。
たぶん。
それだけで嬉しかった。
恒一は笑った。
「……見せてみるか」
その言葉が口から出たことに、自分で驚いた。
以前なら。
「こんなもの見せても仕方ない」
そう考えていた。
でも。
今は違う。
見せたい。
そう思った。
スマートフォンを手に取る。
連絡先には、数日前に交換した美月の名前がある。
再会した夜。
別れ際に、美月が言った。
『また連絡してもいい?』
恒一はもちろん頷いた。
そして。
『今度は十年後じゃなくて、もっと早く会おう』
そう言った。
その言葉を思い出して、恒一は少し笑う。
「……十五年も待ったんだからな」
メッセージ画面を開く。
『この前の絵、描いてみた』
入力。
そこで止まる。
消す。
また入力する。
『この前の夜、描いてみた』
また消す。
何度も迷った末。
『久しぶりに絵を描いた。今度、見てくれる?』
送信。
「……送っちゃった」
数秒。
既読はつかない。
恒一はスマートフォンを伏せた。
「何やってんだ、俺……」
高校生の頃と変わらない。
好きな人に送るメッセージ一つで、心臓が騒がしい。
けれど。
嫌ではなかった。
むしろ。
少し楽しかった。
しばらくして。
スマートフォンが震えた。
恒一は慌てて手に取る。
『見たい』
短い返信。
その下に。
『恒一くんの絵、久しぶりだから楽しみ』
そして。
『私も、今度見せたいものがある』
「……見せたいもの?」
恒一は画面を見つめた。
何だろう。
気になる。
でも。
以前の自分なら、ここで考えすぎていた。
何か悪いことなのか。
期待していいのか。
どういう意味なのか。
そんなことばかり考えて。
結局、何も聞けなくなる。
でも今は。
『分かった。楽しみにしてる』
そう返信した。
すぐに返事が来る。
『うん😊』
それだけ。
たった一文字と、小さな笑顔のマーク。
なのに。
恒一はしばらく画面を見つめていた。
そして。
笑った。
部屋の窓から、冬の朝の光が差し込んでくる。
いつの間にか、夜が明けていた。
「……朝か」
恒一はカーテンを開ける。
空が少しずつ明るくなっている。
夜の街が、朝の街へ変わっていく。
昨日までと同じ東京。
同じ建物。
同じ道路。
同じ電車。
何も変わっていない。
なのに。
自分の見える景色だけが、少し違っていた。
恒一は机へ戻った。
スケッチブックを開く。
昨日描いた絵を見る。
まだ完成にはほど遠い。
線も歪んでいる。
構図だって、上手いとは言えない。
それでも。
そこには確かに、自分がいた。
十五年前に置いてきたと思っていた自分。
夢を諦めたと思っていた自分。
好きな人に何も言えなかった自分。
そして。
今、もう一度鉛筆を握っている自分。
「……夢って」
恒一は呟いた。
「叶えるか、諦めるか……だけじゃないのかもな」
夢を見る。
それだけでもいい。
途中で迷ってもいい。
遠回りしてもいい。
一度諦めても。
また始めてもいい。
人生は、一本道じゃない。
高校生の頃には知らなかった。
未来は、思っていた通りにならない。
選んだ道が正解だったのかなんて、その瞬間には分からない。
間違えることもある。
後悔することもある。
それでも。
その先でまた選び直すことはできる。
恒一は鉛筆を握った。
そして。
新しいページを開いた。
今度は、まだ何も決めていない。
何を描くか。
どんな絵になるのか。
誰かに見てもらえるのか。
仕事にできるのか。
そんなことは、まだ分からない。
でも。
描いてみる。
それだけは決めた。
窓の外から、朝の光が差し込んでいる。
昨日まで暗かった街が、少しずつ色を取り戻していく。
恒一は、その景色を見ながら笑った。
「……もう一度、夢を見てみるか」
十五年前。
未来の自分へ手紙を書いた少年は。
夢を叶えた自分を想像していた。
十五年後。
その夢を一度手放した男は。
今、もう一度。
夢を見ることを選んだ。
それは、大きな決意ではなかった。
人生を変えるような宣言でもない。
ただ。
一枚の紙に。
一本の線を引く。
その小さな一歩だった。
けれど。
未来はいつだって。
そんな小さな一歩から始まる。
恒一は絵を描き続けた。
窓の外では、朝日が昇っている。
夜を越えた空の向こう。
新しい一日が始まる。
そして。
止まっていた時間も。
少しずつ。
少しずつ。
動き始めていた。
14話 二人の現在
クリスマスから、数日が過ぎた。
朝倉恒一の部屋には、以前とは少し違う空気が流れていた。
机の上には、新しいスケッチブック。
その隣には、使い慣れていなかった鉛筆が何本か並んでいる。
そして、その奥には――高校時代の文化祭の写真。
写真の中では、制服姿の二人が笑っていた。
桜井美月と、十六歳の恒一。
あの頃の二人は、まさか十五年後の自分たちがどうなっているかなんて、想像もしていなかった。
夢は叶っているのか。
好きな人とは一緒にいるのか。
どんな仕事をしているのか。
どんな場所に住んでいるのか。
そもそも――まだ、笑っているのか。
そんな未来を、二人は「未来の自分への手紙」に書いた。
けれど。
未来は、手紙に書いた通りにはならなかった。
恒一は夢だった絵を諦めた。
そして美月もまた、すべての夢を叶えたわけではなかった。
それでも。
あの日の二人が書いた未来は、完全に消えてしまったわけではなかった。
ただ、長い時間の中で少し眠っていただけなのかもしれない。
スマートフォンが震えた。
画面には、美月の名前。
『今日、少し時間ある?』
恒一は一瞬、指を止めた。
そして、短く返す。
『あるよ』
すぐに返信が来た。
『じゃあ、前に言ってたもの見せたい』
クリスマスの夜。
錦糸町からスカイツリーへ向かう道で、美月は言っていた。
『私も、今度見せたいものがある』
その「もの」が何なのか。
恒一は、ずっと気になっていた。
待ち合わせ場所に着くと、美月はすでに来ていた。
高校時代とは違う服装。
もちろん、制服ではない。
落ち着いた色のコートに、シンプルなバッグ。
髪型も少し変わっている。
けれど――
「……久しぶり」
そう笑った瞬間。
恒一には、あの日の美月と重なって見えた。
「うん。久しぶり」
「なんか変な感じだね」
「何が?」
「こうやって普通に会ってるのが」
美月は少し笑った。
「十五年前なら、想像できなかったもんね」
「そりゃそうだよ」
「恒一くんなんて、十年後には有名な漫画家になってると思ってた」
「……それは言わないでよ」
「ふふっ」
恒一は苦笑した。
けれど、その言葉は不思議と嫌ではなかった。
昔なら、胸が痛くなっていたかもしれない。
けれど今は違う。
少しだけ痛い。
でも、その痛みから逃げたいとは思わなかった。
「……実はさ」
恒一が言った。
「最近、また描き始めたんだ」
「うん」
美月は嬉しそうに頷いた。
「メッセージくれた時、ちょっと嬉しかった」
「そんなに?」
「うん。だって、恒一くんが『描いた』って言うの、久しぶりだったから」
「十五年ぶりだけどね」
「十五年ぶりでもいいじゃん」
その言葉に、恒一は少し驚いた。
「……そうかな」
「そうだよ」
美月は前を向いた。
「十五年描かなかったからって、これから描いちゃいけない理由にはならないでしょ?」
恒一は何も言わなかった。
けれど、その言葉は静かに胸へ入ってきた。
過去の十五年を消すことはできない。
だからといって。
これからの十五年まで、同じように諦める必要はない。
「……美月は、相変わらずだね」
「何が?」
「そういうところ」
「昔から?」
「昔から」
二人は笑った。
それは、十五年前と同じ笑い方だった。
でも――
同じではない。
十五年分の時間を過ごした、大人の二人の笑顔だった。
「じゃあ、私のも見せるね」
美月がバッグから一冊のノートを取り出した。
少し古びている。
角は擦れていて、表紙には小さな傷がいくつもあった。
恒一は、そのノートを見つめる。
「……それ?」
「うん」
「まさか……」
「そう」
美月が笑った。
「高校の時のノート」
「まだ持ってたの?」
「捨てられなかった」
その言葉に、恒一の胸が少しだけ高鳴った。
美月はノートを開く。
ページの間から、一枚の紙が出てきた。
手書きの文字。
少し丸みを帯びた、懐かしい字。
『未来の私へ』
恒一は息を止めた。
「これ……」
「私の未来への手紙」
「まだ持ってたんだ」
「うん」
美月は紙を指先で押さえながら、少し照れたように笑った。
「本当はね。ずっと開けたくなかったの」
「どうして?」
「怖かったから」
「怖い?」
「うん」
美月は少し考えてから続けた。
「高校生の私が、どんな未来を想像してたのか。それを今の私が読んだら……きっと、がっかりすると思って」
恒一は黙って聞いていた。
「昔の私は、もっと何でもできると思ってた」
美月は笑った。
「仕事も、恋愛も、夢も。大人になったら全部ちゃんとできてると思ってた」
「……俺も同じ」
「でも、全然違った」
「うん」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
それは気まずい沈黙ではなかった。
むしろ、言葉にしなくても分かるような沈黙だった。
「私ね」
美月が言った。
「心理学を勉強して、今は人の話を聞く仕事をしてる」
「うん。前に聞いた」
「昔の夢とは、ちょっと違うけどね」
「人の心を動かす仕事って言ってたよね」
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ」
美月は少し驚いたように目を丸くした。
「……十五年も経ってるのに?」
「十五年経っても、覚えてることってあるんだよ」
恒一がそう言うと、美月は小さく笑った。
「そっか」
そして、ノートを閉じる。
「私の仕事ってね。人の心を劇的に変えるような仕事じゃないの」
「うん」
「話を聞いて、少しだけ気持ちが軽くなってもらえたり。明日もやってみようかなって思ってもらえたり」
美月は空を見上げた。
「それだけでも、人の心を動かすことなのかなって。最近は思うようになった」
「……十分だと思う」
恒一は言った。
「むしろ、それってすごいことだと思うよ」
「ありがとう」
美月は照れたように笑った。
その笑顔を見ながら、恒一は思った。
昔の美月が夢見ていた未来とは、少し違う。
でも。
間違いではない。
夢は、形を変えてもいい。
思っていた場所とは違うところへ辿り着いてもいい。
それはきっと――自分にも言えることだった。
「恒一くんは?」
「俺?」
「うん」
「俺は……」
恒一は少しだけ言葉を探した。
「会社に入って、普通に働いて。忙しくなって……気がついたら、絵を描かなくなってた」
「うん」
「別に、不幸だったわけじゃないんだ」
「うん」
「仕事もあるし、生活もできる。休日もある。普通に笑うことだってある」
恒一は少し笑った。
「でも、何か足りなかった」
「……絵?」
「たぶん」
美月は何も言わずに頷いた。
「だから、この前から少しずつ描いてる」
「見せてくれる?」
「え?」
「絵」
「まだ全然だから」
「それでも見たい」
その言葉に、恒一は笑った。
「……じゃあ、今度」
「約束ね」
「約束」
自然に言葉が重なった。
その瞬間。
二人は顔を見合わせた。
高校時代と同じ言葉。
何度も交わした約束。
けれど今度は――
十年後ではない。
未来の二人ではなく。
今の二人が、今の二人に向けて交わした約束だった。
「そういえば」
美月がノートをバッグへしまいながら言った。
「恒一くん、あの文化祭の写真まだ持ってる?」
「持ってるよ」
「本当に?」
「うん」
「見たい」
「今度ね」
「えー、今じゃないの?」
「家にあるから」
「そっか」
美月は少し残念そうに笑った。
「じゃあ、次に会う時に」
「うん」
恒一はその言葉を聞いて、少しだけ不思議な気持ちになった。
次に会う。
昔は、十年後に会う約束をした。
けれど、その約束は守れなかった。
それでも。
十五年後に、二人は再会した。
そして今。
「次に会う」という言葉が、当たり前のように出てくる。
それだけで、何かが変わった気がした。
過去を取り戻したわけじゃない。
青春に戻ったわけでもない。
制服姿の二人には、もう戻れない。
十六歳の自分にも。
あの日の美月にも。
戻ることはできない。
でも――
今の自分たちには、これからがある。
「ねえ、恒一くん」
「ん?」
「今度、文化祭の写真見ながら話そうよ」
「何を?」
「十五年前の私たちが、どんな未来を想像してたのか」
美月は少しだけ笑った。
「答え合わせ、まだ終わってないから」
恒一も笑った。
「……十五年遅れの答え合わせか」
「うん」
「ずいぶん遅れたね」
「でも、間に合った」
その言葉に、恒一は黙った。
そして。
小さく頷いた。
「……そうだね」
夕暮れの街に、冬の風が吹いた。
二人は並んで歩き始める。
向かう先は、もう過去ではない。
高校時代の校舎でもない。
あの日の文化祭でもない。
ましてや、戻れなかった十年前でもない。
今の二人が歩いていく、これからの道だった。
美月が隣で笑う。
恒一も笑う。
十五年の間に、二人はそれぞれ別の道を歩いてきた。
失ったものもある。
叶わなかった夢もある。
言えなかった言葉もある。
それでも。
すべてが無駄だったわけではない。
その十五年があったからこそ――
今、こうして二人は再び出会えたのだから。
恒一はふと、空を見上げた。
薄暗くなった空の向こうに、一番星が見えていた。
そして胸の中で、あの日の自分にそっと語りかける。
――十年後の俺へ。
――十五年後の俺へ。
――遅くなったけど。
――もう一度、描き始めたよ。
返事は、まだない。
でも。
もう、それでいいと思った。
未来は、誰かが答えをくれるものではない。
自分で選んで、自分で歩いていくものだから。
そして二人の現在は――
まだ、始まったばかりだった。
15話 未来への手紙
その日の夜。
恒一は自宅の机に向かっていた。
目の前には、一枚の写真。
高校時代の文化祭。
そして、その隣には古びた封筒が置かれている。
封筒の表には、少し幼い文字でこう書かれていた。
『未来の俺へ』
何度見ても、不思議な気持ちになる。
十六歳の自分が、三十一歳の自分に宛てて書いた手紙。
あの頃の自分は、今の自分をどんなふうに想像していたのだろう。
恒一は、ゆっくりと封筒を開いた。
紙を広げる。
少し滲んだ文字。
ところどころ鉛筆の跡が薄くなっている。
それでも、書かれている言葉は読めた。
『未来の俺へ』
『ちゃんと絵を描いてますか?』
恒一の手が止まった。
「……いきなり、それかよ」
苦笑する。
まるで、今の自分がどうなっているのかを知っていたような質問だった。
続きを読む。
『俺は今、絵を描くのが好きです』
『いつか、誰かが見てくれて、何かを感じてくれるような絵を描きたいです』
『漫画家になっているかもしれない』
『イラストレーターになっているかもしれない』
『全然違う仕事をしているかもしれない』
『でも、大人になっても絵だけは描いていてください』
恒一は、そこで一度目を閉じた。
胸の奥に、少しだけ痛みが走る。
十六歳の自分は、何も知らない。
社会に出ることも。
仕事の大変さも。
夢を追い続けることの難しさも。
生活すること。
責任を持つこと。
誰かと比べてしまうこと。
夢を見ることさえ、少しずつ怖くなっていくこと。
何も知らない。
それでも。
あの頃の自分は、未来の自分に一つだけ願っていた。
――絵を描いていてほしい。
「……ごめんな」
誰もいない部屋で、恒一は小さく呟いた。
「描いてなかったよ」
十五年間。
ほとんど描かなかった。
スケッチブックを買っても、数ページで終わった。
鉛筆を持っても、何を描けばいいのか分からなくなった。
夢だったはずのものが、いつしか「昔好きだったこと」に変わっていた。
そして、それを思い出すたびに。
自分が夢を諦めたことまで思い出してしまう。
だから、見ないようにした。
考えないようにした。
普通に働いて。
普通に生活して。
普通に毎日を過ごして。
それでいいと思おうとした。
不幸ではなかった。
でも。
あの頃の自分が手紙に書いた「笑っていますか?」という問いに、すぐには答えられなかった。
恒一は、最後の行を読む。
『大人になっても、今日みたいに笑っていてください』
その一文を見た瞬間。
文化祭の日の光景が、鮮やかに蘇った。
教室。
窓から差し込む秋の光。
廊下を走る生徒たち。
文化祭の準備で散らかった机。
壁に貼られた「未来の自分へ」の文字。
そして。
その隣で笑っていた美月。
「……笑ってるよ」
恒一は写真を見ながら言った。
「今も、ちゃんと笑えてる」
そして少し考える。
「……たぶん、前よりも」
翌日。
二人は再び会った。
待ち合わせたのは、静かなカフェだった。
窓際の席。
冬の街を眺めながら、美月はバッグの中から一枚の封筒を取り出した。
「これ」
「……手紙?」
「うん」
表には、やはり同じ文字。
『未来の私へ』
「昨日のノートに入ってたやつ」
「読んだの?」
「うん」
「どうだった?」
「……恥ずかしかった」
美月は笑った。
「十六歳の私、ものすごく夢見がちだった」
「俺もだよ」
「恒一くんも?」
「俺なんて、漫画家とかイラストレーターとか書いてた」
「知ってる」
「え?」
「文化祭の準備の時、聞いたじゃん」
「ああ……」
「ずっと覚えてたよ」
美月は封筒を指で撫でた。
「私の手紙にはね、『人の心を動かせる仕事をしていますか?』って書いてあった」
「……今の仕事じゃない?」
「うん」
美月は少しだけ考える。
「でもね。十六歳の私が想像してたのは、もっと大きなことだった」
「例えば?」
「たくさんの人を感動させる仕事」
「映画監督とか?」
「そういうのも考えた」
「小説家?」
「考えた」
「歌手?」
「それも考えた」
二人は顔を見合わせる。
「欲張りだね」
「十六歳だからいいの」
「確かに」
美月は笑った。
けれど、しばらくすると、その笑顔が少しだけ静かになった。
「でも……」
「うん?」
「叶わなかった夢もある」
恒一は黙って聞いた。
「大学を出て、仕事をして、引っ越して。いろんな人に会って。いろんなことがあって」
美月は窓の外を見る。
「その途中で、諦めたこともある」
「……俺と同じだね」
「うん」
美月は小さく頷いた。
「だから、昨日この手紙を読んで思ったの」
「何を?」
「私、失敗したのかなって」
恒一はすぐには答えなかった。
美月の言葉が、胸に引っかかった。
昔なら。
きっと「そんなことないよ」と簡単に言っていた。
でも今は、三十一歳だ。
人生が、そんな簡単な言葉だけで片付かないことを知っている。
だから。
少し考えてから言った。
「……失敗じゃないと思う」
「どうして?」
「だって」
恒一は、自分の手紙をテーブルに置いた。
「俺たちが十六歳の時に書いた未来って、予言じゃないだろ?」
「……うん」
「その通りにならなかったからって、間違いじゃない」
美月は黙って恒一を見る。
「十六歳の俺たちは、十六歳の俺たちなりに未来を想像した」
「うん」
「でも、その未来に行くまでに、いろんな分岐があった」
「分岐……」
「進学するとか、就職するとか。誰と出会うとか。何かを諦めるとか。もう一度始めるとか」
恒一は手紙を見つめた。
「そのたびに、別の道を選んできた」
「……」
「だから今ここにいる」
美月はしばらく黙っていた。
やがて。
「……恒一くん、大人になったね」
「今さら?」
「うん」
美月が笑った。
「昔は、もっと単純だった」
「俺もそう思う」
「でも、ちょっと安心した」
「何が?」
「私だけじゃなかったんだなって」
恒一は、その言葉を聞いて胸が熱くなった。
十五年。
それぞれ別の場所で。
別々の人生を歩いてきた。
その間に何があったのか、全部を知ることはできない。
けれど。
同じように迷って。
同じように何かを諦めて。
それでも、今こうして未来の手紙を開いている。
それだけで、少しだけ距離が近づいたような気がした。
「ねえ」
美月が言った。
「一つだけ、聞いていい?」
「うん」
「文化祭の頃」
恒一の胸が、小さく跳ねた。
「私たちって……」
美月はそこで言葉を止めた。
「……何?」
「ううん」
少し笑って首を振る。
「やっぱり、今度にする」
「え?」
「今聞いたら、なんか違う気がする」
「何それ」
「ふふっ」
美月は笑った。
けれど、その目は少しだけ寂しそうだった。
恒一は何となく分かった。
きっと。
あの日のことだ。
言えなかった言葉。
聞けなかった答え。
十五年前に二人の間に残された、あの空白。
それは、まだ消えていない。
ただ。
今すぐ埋める必要もないのかもしれない。
「じゃあ」
恒一が言った。
「俺からも一つ」
「何?」
「美月は……」
言葉が止まる。
高校時代と同じだった。
言いたいことがある。
聞きたいことがある。
でも、その一言を口にしたら。
今ある関係が変わってしまうかもしれない。
だから怖い。
それでも。
今度は、逃げたくなかった。
「……いや」
恒一は笑った。
「俺も、今度にする」
「ふふっ」
美月は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、お互い様ね」
「うん」
窓の外では、夕暮れの空が少しずつ夜へ変わっていた。
街には、冬のイルミネーションが灯り始める。
高校時代の二人が見ていた未来と。
今の二人が見ている未来。
同じではない。
きっと、これからも予定通りにはいかない。
それでも。
二人には、もう一度未来を選ぶことができる。
その夜。
自宅に戻った恒一は、机の前に座った。
古い手紙を開く。
そして。
新しい紙を一枚取り出した。
鉛筆を握る。
少しだけ迷ったあと。
ゆっくりと書き始める。
『十六歳の俺へ』
『手紙、ちゃんと読んだよ』
『約束は、全部守れなかった』
『絵も描かなくなった』
『夢も一度、諦めた』
『好きな人にも、好きって言えなかった』
そこまで書いて。
恒一は少し笑った。
「……本当に、ダメだな」
けれど。
続きを書く。
『でも』
『全部が間違いだったわけじゃない』
『十五年かかったけど、また絵を描き始めた』
『そして』
そこで鉛筆が止まる。
美月の顔が浮かんだ。
文化祭の日の笑顔。
錦糸町で再会した時の笑顔。
スカイツリーを見上げながら歩いた横顔。
そして。
『私も、会いたかったから』
あの言葉。
恒一は静かに息を吐いた。
そして、続きを書いた。
『もう一度、会えた』
『だから今度は、未来の俺に任せるんじゃなくて』
『今の俺が、自分で未来を選んでみようと思う』
最後に。
少し考えてから、一言だけ書き足した。
『十六歳の俺へ』
『心配するな』
『まだ、終わってない』
恒一は鉛筆を置いた。
窓の外には、冬の夜。
遠くに見える街の光。
その向こうには、スカイツリーの淡い光が浮かんでいる。
十五年前の自分が知らなかった未来。
その未来を、今の自分は生きている。
完璧ではない。
夢も、恋も、人生も。
思い描いた通りではなかった。
それでも。
まだ、ページは残っている。
物語は終わっていない。
恒一は古い手紙と新しい手紙を並べた。
十六歳の自分から。
三十一歳の自分へ。
そして今度は。
三十一歳の自分から。
これからの自分へ。
時間は、過去へ戻ることはない。
だからこそ。
未来への手紙は、まだ書き続けられる。
恒一はスケッチブックを開いた。
鉛筆を手に取る。
そして。
もう一度、未来のページに線を引き始めた。
16話 時の向こうで
冬の夜は、静かだった。
窓の外には、街の灯りが広がっている。
その一つ一つが、誰かの生活を照らしている。
仕事帰りの人。
家族と過ごす人。
友達と笑う人。
恋人と歩く人。
そして――
これから何かを始めようとしている人。
恒一は、スケッチブックを閉じた。
今日描いたのは、冬の街だった。
イルミネーション。
夜空。
そして、その中を並んで歩く二人。
顔は、まだ描いていない。
けれど。
誰なのかは、自分には分かっていた。
十五年前の自分と美月。
そして。
今の自分と美月。
二つの時間が重なったような絵だった。
スマートフォンを見る。
美月からメッセージが届いている。
『今度、文化祭の写真見せてね』
恒一は少し笑った。
『もちろん』
少し考えてから。
もう一行、付け足す。
『それと、また絵を見てほしい』
送信。
数秒後。
『楽しみにしてる』
その短い返事を見て。
恒一は、なぜか胸の奥が温かくなった。
数日後。
二人は、また錦糸町で待ち合わせた。
クリスマスはもう終わっている。
街の飾りも少しずつ片付けられ始めていた。
それでも、まだ残っているイルミネーションがあった。
「なんか、クリスマスが終わると寂しいね」
美月が言う。
「そうだね」
「でも、次はお正月だよ」
「切り替え早いな」
「だって時間は待ってくれないから」
美月は笑った。
その言葉を聞いて。
恒一も笑う。
「……確かに」
二人は歩き始めた。
あの日と同じように。
錦糸町から、スカイツリーの見える方向へ。
けれど、今回は違う。
約束のために歩いているわけではない。
過去を確かめるためでもない。
ただ。
もう少し話したかった。
もう少し、一緒にいたかった。
それだけだった。
「ねえ、恒一くん」
「ん?」
「この前の絵、見せて」
「まだ完成してないよ」
「それでもいい」
「じゃあ……」
恒一はスマートフォンに保存していた写真を見せた。
美月は画面を覗き込む。
「……わあ」
「どう?」
「すごく、恒一くんらしい」
「昔と同じ?」
「ううん」
美月は首を横に振った。
「昔より、優しい絵」
「優しい?」
「うん」
美月は画面を見つめたまま言った。
「昔の恒一くんの絵って、もっと『夢を描いてる』感じだった」
「そうだった?」
「うん。未来に向かって走っていく感じ」
そして。
少しだけ笑った。
「今の絵は……ちゃんと帰ってこられる場所がある感じ」
恒一は、その言葉に何も返せなかった。
でも。
胸の奥では、何かが静かにほどけていった。
自分は十五年間、夢を失ったと思っていた。
けれど。
本当は違ったのかもしれない。
夢を諦めた十五年も。
仕事をして。
誰かと出会い。
笑ったり。
悩んだり。
失敗したり。
何かを諦めたり。
そんな全部の時間が。
今の自分の線を作っている。
だから。
昔と同じ絵を描く必要はない。
昔の自分に戻る必要もない。
今の自分にしか描けないものがある。
「ありがとう」
恒一が言った。
「何が?」
「絵、見てくれて」
「何それ」
美月は笑った。
「これから何枚でも見せてよ」
「……何枚でも?」
「うん」
「じゃあ、覚悟して」
「ふふっ。いいよ」
しばらく歩くと。
夜空の向こうに、スカイツリーが見えてきた。
淡い光をまとった、その姿。
その光を見上げながら。
恒一は、ふと思った。
十五年前。
この街には、まだ今とは違う景色があった。
スカイツリーも。
今ほど当たり前の風景ではなかった。
あの頃の自分たちは。
まだ知らなかった。
この街がどう変わるのか。
自分たちがどう変わるのか。
十五年という時間が、どれほど長いものなのか。
何も知らなかった。
「ねえ」
美月が言った。
「高校の頃、覚えてる?」
「何を?」
「文化祭」
「もちろん」
「私たち、十年後に答え合わせするって言ったよね」
「言った」
「結局、できなかったけど」
「うん」
「でも」
美月はスカイツリーを見上げた。
「十五年後にはできたね」
「……五年遅れだけどね」
「遅刻したね」
「二人ともね」
笑い合う。
その笑顔の奥には。
十五年分の時間があった。
それぞれの人生。
それぞれの選択。
それぞれの後悔。
そして。
言えなかった言葉。
「恒一くん」
「うん?」
「高校の時の手紙にさ」
「うん」
「私、何を書いたと思う?」
「……未来の私が幸せでいますように、とか?」
「それも書いた」
「やっぱり」
「でも、もう一つ書いた」
美月は少しだけ立ち止まった。
「『大切な人を大切にできていますか?』って」
恒一は息を止めた。
「……」
「今読んだら、ちょっと恥ずかしいんだけどね」
美月は笑った。
「でも、今なら少し分かる気がする」
「何が?」
「大切な人って、ずっと一緒にいる人だけじゃないんだなって」
恒一は美月を見る。
「離れていても」
「うん」
「何年会わなくても」
「うん」
「その人が元気でいてほしいって思えるなら」
美月は小さく頷いた。
「それも、大切にするってことなのかなって」
恒一は、昔の自分を思い出した。
好きだった。
だからこそ言えなかった。
言ってしまえば。
今の関係が壊れるかもしれなかった。
もし断られたら。
もし気まずくなったら。
もし、今までの笑顔が消えてしまったら。
それが怖かった。
だから。
好きという気持ちを胸の奥にしまった。
そして十五年が過ぎた。
「……俺も」
恒一が言った。
「ずっと、美月には元気でいてほしいって思ってた」
美月が振り向く。
「……うん」
「どこにいるのかも知らなかったけど」
「うん」
「たまに思い出してた」
「……私も」
二人の間に、静かな時間が流れた。
今度は。
誰も言葉を急がなかった。
昔なら、ここで何かを言おうとしたかもしれない。
好きだ。
会いたかった。
ずっと忘れられなかった。
でも。
今は、それだけが答えではないと思えた。
十五年という時間を越えて再会した二人に必要なのは。
過去の答えを急いで決めることではない。
これからの時間を、どう過ごすか。
それを自分たちで選ぶことだった。
「ねえ、恒一くん」
「ん?」
「また来ようよ」
「ここに?」
「うん」
「スカイツリー?」
「スカイツリーでもいいし」
美月は少し笑う。
「今度は、どこでもいい」
「……どこでも?」
「うん」
「じゃあ、今度は俺が決める」
「楽しみにしてる」
その言葉は。
高校時代の「十年後に会おう」という約束とは違っていた。
もっと小さな約束。
もっと現実的な約束。
でも。
今の二人には、それで十分だった。
帰り道。
美月と別れる前に、恒一は呼び止めた。
「美月」
「ん?」
「これ」
鞄から、一枚の写真を取り出す。
高校時代の文化祭。
二人が並んで笑っている写真。
「え?」
「一枚、コピーした」
「……私に?」
「うん」
美月は写真を受け取った。
しばらく黙って見つめる。
「懐かしいね」
「うん」
「若いね、私たち」
「そりゃ十六歳だから」
「恒一くん、変わってないね」
「どこが?」
「笑った時の顔」
「……美月も」
二人は笑った。
そして。
美月は写真を大切そうにバッグへしまった。
「ありがとう」
「うん」
「じゃあ、またね」
「またね」
今度は。
「元気で」ではなかった。
「またね。」
その違いが。
恒一には、とても大きく感じられた。
美月が歩いていく。
何度か振り返りながら。
やがて、人混みの向こうへ消えていった。
恒一はその場に少しだけ立っていた。
そして。
ゆっくりと歩き出す。
帰宅すると。
机の上には、あの二通の手紙が置かれていた。
十六歳の自分から。
三十一歳の自分へ。
恒一は、新しい紙をその隣に置いた。
そして。
最後に一行だけ書いた。
『未来の俺へ』
『今度は、自分で歩いていけ』
鉛筆を置く。
窓を開ける。
冷たい冬の風が部屋へ入ってくる。
遠くには。
夜の街を照らす無数の光。
その中に。
スカイツリーの光も見える。
十五年前の自分には、見えなかった景色。
十五年前の自分には、分からなかった未来。
そして。
今の自分にも、まだ分からない未来。
人生には、いくつもの分岐がある。
あの時、別の道を選んでいたら。
別の学校へ進んでいたら。
別の仕事を選んでいたら。
あの日、告白していたら。
何かが変わっていたかもしれない。
けれど。
もう、確かめることはできない。
過去へ戻ることはできない。
だから。
恒一は思った。
――それでいい。
戻れないからこそ。
今を選べる。
失ったものがあるからこそ。
これから拾えるものがある。
諦めた夢があるからこそ。
もう一度、夢を見ることができる。
言えなかった言葉があるからこそ。
これから交わす言葉を、大切にできる。
そして。
十五年前に別れた二人が。
今、もう一度出会えた。
それだけで。
過去のすべてが、少しだけ意味を持ったような気がした。
恒一はスケッチブックを開く。
最初のページには。
あの日の文化祭の風景。
次のページには。
冬の街。
イルミネーション。
スカイツリー。
そして。
二人の後ろ姿。
まだ、完成していない。
これから描く未来の余白が、たくさん残っている。
恒一は鉛筆を握った。
そして。
一歩ずつ。
新しい線を描き始めた。
過去を消すためではない。
過去に戻るためでもない。
これから先の自分を描くために。
翌朝。
恒一のスマートフォンが震えた。
美月からだった。
『おはよう』
『昨日、楽しかったね』
恒一は笑った。
『おはよう』
『俺も楽しかった』
少し迷ってから。
『また、行こう』
送信。
すぐに返信が来る。
『うん』
その一文字を見つめながら。
恒一は窓の外を見る。
朝の光が、街を照らしている。
昨日までと同じ街。
昨日までと同じ朝。
でも。
自分の中では、何かが変わっていた。
時間は戻せない。
青春は戻らない。
あの日の文化祭も。
あの日の夏祭りも。
言えなかった言葉も。
全部、過去になった。
それでも。
思い出は消えない。
夢も。
想いも。
完全に消えるわけではない。
長い時間の向こう側で。
いつか、もう一度。
光を取り戻すことがある。
そして。
その光を見つけた時。
人は、また歩き始めることができる。
恒一はスケッチブックを持ち上げた。
その表紙には、まだ何も書かれていない。
これから。
ここに新しい物語を描いていく。
どんな未来になるのかは、分からない。
美月とこれからどんな関係になるのかも。
夢がどこまで叶うのかも
途中でまた迷うかもしれない。
また間違えるかもしれない。
それでも。
そのたびに選び直せばいい。
未来は一つではない。
正解も、最初から決まっているわけではない。
だから。
今の自分が選んだ道を。
これから、自分自身で歩いていけばいい。
恒一は窓の外へ目を向けた。
朝の空は、どこまでも続いている。
その向こうには。
まだ誰も知らない未来がある。
十五年前の自分が見た夢の、その先。
昨日の自分が知らなかった今日。
そして。
今日の自分がまだ知らない明日。
恒一は小さく笑った。
「……行ってみるか」
その言葉は。
誰かに向けたものではなかった。
過去の自分へ。
今の自分へ。
そして。
これからの自分へ。
時間は、前へ進んでいく。
だから――
自分も、前へ進む。
いつかまた。
時の向こうで。
あの日の二人が見た未来とは違う場所で。
今の二人が、新しい物語を始めるために。
窓から差し込む朝の光が。
机の上の「未来への手紙」を、静かに照らしていた。
そして、その隣には。
まだ何も描かれていない。
真っ白な一枚の紙があった。
未来は。
まだ白い。
だからこそ。
何を描くかは――
これからの自分たちが、決めていけばいい。