ダーリン♡こっち見て! ――新妻ひまりの恋する日常記 ――第3章

イメージ曲💕「ダーリン♡こっち見て!」
曲調
ジャンル:キュート・アイドルポップ × City Pop × Funky Pop
テンポ:BPM 124(軽快で跳ねる、恋する日常感)
キー:Gメジャー(明るく甘く、幸福感のある響き)
ビート:4/4、軽快なポップビート+ファンキーな16ビート
編成:エレキギターのカッティング、シンセ、エレピ、ベース、ドラム、タンバリン、クラップ、軽いストリングス
雰囲気:日常×恋人感×甘々×ちょっと照れくさい可愛さ
🎵 歌詞構成
[Intro]
ダーリン……
おはよう♡
……まだ眠いの?
ふふっ♡
ダーリン、こっち見て♡
[Verse 1]
朝のカーテン 開けたら
まぶしい光が 差し込んで
寝ぐせのままの その顔に
今日もキュンって しちゃうんだ♡
「コーヒー飲む?」
「パン焼くね」
そんな毎日が 嬉しくて
特別じゃない 時間ほど
君となら 宝物♡
[Pre-Chorus]
ダーリン ねぇダーリン
聞いてほしいことがあるの
……なんて言おうかな?
やっぱり これしかない♡
[Chorus 1]
ダーリン こっち見て♡
ダーリン こっちこっち♡
目が合っただけなのに
胸がドキドキしちゃうの♡
ダーリン 手をつないで♡
ダーリン もっと近く♡
今日も明日も その先も
ずーっと隣にいてね♡
ダーリン ダーリン
だーい好き♡
ねぇねぇ もう一回言わせて?
ダーリン♡
[Verse 2]
テレビを見てる 横顔を
こっそり見つめて にやけちゃう
お菓子を半分 分けるとき
大きいほうを くれる君♡
「ありがとう」って 言ったあと
ちょっとだけ 肩にもたれて
何気ないこの瞬間が
私には 恋なんだ♡
[Pre-Chorus 2]
ダーリン ねぇダーリン
名前を呼ぶだけで
なんだか心が
ふわっと あったかくなる♡
[Chorus 2]
ダーリン おいで♡
ダーリン こっちだよ♡
たったそれだけなのに
世界がキラキラしちゃう♡
ダーリン ぎゅってして♡
ダーリン 離さないで♡
ケンカしたって 笑ったって
最後は仲直りしよう♡
ダーリン ダーリン
大好きだよ♡
何回言っても 足りないくらい
ダーリン♡
だーい好き♡
[Bridge]
もしも歳を重ねても
今みたいに笑っていたい
朝になったら
「おはよう」って言って
夜になったら
「おやすみ」って言って
当たり前みたいに
君の隣にいたい
……ねぇ、ダーリン。
これからも
よろしくね♡
「ダーリン?」
「なぁに?」
「こっち見て♡」
「見てるよ」
「もっと♡」
「……近いって(笑)」
「だって――」
「ダーリンが大好きなんだもん♡」
[Final Chorus]
ダーリン おはよう♡
ダーリン こっち見て♡
ダーリン こっちこっち♡
今日も一緒に笑おうよ♡
ダーリン 手をつないで♡
ダーリン ぎゅってして♡
嬉しい日も 泣きたい日も
ずっと隣にいるから♡
ダーリン ダーリン
だーい好き♡
何回だって伝えたい
ダーリン ダーリン
愛してる♡
……ちょっと照れるけど♡
ダーリン!
ダーリン!
ダーリン!
だーーーい好き♡♡♡
[Outro]
ダーリン……
今日も楽しかったね♡
明日も一緒に
笑おうね♡
……おやすみ、ダーリン。
だーい好き♡
……ふふっ♡
ダーリン♡
ダーリン♡こっち見て!――新妻ひまりの恋する日常記 ――
長編小説 章構成
【ジャンル】
日常系ラブコメ長編小説(ほっこりホームドラマ×純愛ストーリー)
一話完結型のエピソードを、季節の流れと商店街再開発問題という縦軸でつなぐ「連載型長編」
楽曲「ダーリン♡こっち見て!」の世界観を原案とした小説
【主要登場人物】
①星野陽葵(ほしの ひまり)【主人公】
25歳。結婚半年の新妻。旧姓・小鳥遊(たかなし)
職業:商店街のパン屋「ブーランジュリーひだまり」の店員+、WEBで密かに連載中のイラストエッセイ漫画「ダーリン観察日記」の作者(ペンネーム:ひまワッフル)
性格:明るく愛情深い、夫ラブが行き過ぎて周囲を呆れさせることも。でも根は思いやりが深く、商店街の誰からも好かれる
特技:人の好きなところを即座に見つけること/お菓子の半分こで大きい方を渡すこと
②星野律(ほしの りつ)【もう一人の主人公】
27歳。陽葵の夫。建築設計事務所勤務の建築士
性格:口数少なくクールに見えるが、実は照れ屋で、陽葵の愛の重さ(軽さ)に毎回真っ赤になる
裏設定:大学時代は軽音部でギター担当。今も部屋にギターがあり、陽葵が眠った後にこっそり弾く
物語の鍵を握る存在:ひだまり商店街の再開発プロジェクトの担当に抜擢される
③立花とよ(たちばな とよ)【商店街の大家さん】
78歳。二人が住むアパート「立花ハイツ」の大家さん。商店街の生き字引
若い頃に思いを遂げられなかった恋があり、物語後半の重要人物に
④溝口茂(みぞぐち しげる)【パン屋のマスター】
52歳。「ブーランジュリーひだまり」の主人。妻に先立たれ、男手ひとつで娘を育てた頑固職人
陽葵の働きぶりに目をかける、頼れる父親的存在
⑤溝口千尋(みぞぐち ちひろ)【パン屋の娘】
19歳。大学1年生。父の店を手伝うしっかり者。陽葵を姉のように慕う
⑥桜井美織(さくらい みおり)【陽葵の親友】
25歳。会社員。陽葵の大学時代からの親友。恋愛運に恵まれず、陽葵の新婚ぶりにやきもきしつつ応援する
物語中盤、自身の恋の破局を経験し、陽葵の「幸せの形」に向き合う
⑦星野千夏(ほしの ちなつ)【律の妹】
22歳。就活中の大学生。兄を「お兄ちゃん」と呼んで甘える、家族内いちばんの陽葵派
恋の相談役としてたびたび登場
⑧律の上司・早瀬(はやせ)【設計事務所の所長】
45歳。律の能力を高く評価し、再開発案件を任せる。仕事には厳しいが、家族思い
旅先で出会う人々
温泉旅館「あさひ屋」の若女将・咲月(さつき)とその娘・りお(8歳)
とよさんの故郷・海辺の町で出会う古老たち
【舞台・設定】
舞台:東京都心から電車で30分の郊外、商店街「ひだまり商店街」のそばにある古いアパート「立花ハイツ」
時間軸:結婚半年目の10月(プロローグ)から、結婚1周年を迎える翌年10月までの約1年間
季節:秋→冬→春→夏→秋。各季節の行事(文化祭、クリスマス、正月、桜、梅雨、夏祭り、台風、紅葉)がエピソードの舞台に
世界観:フィクションの商店街だが、どこにでもある昭和レトロな商店街の空気感。地元民との交流、ご近所付き合い、季節の行事が物語の彩り
原案:楽曲「ダーリン♡こっち見て!」(10/5リリース)の歌詞世界――「ダーリン」への様々な表情の呼びかけ、朝の「おはよう」、夜の「おやすみ」、何気ない日常の宝物――を全編の基調として配置
【中心テーマ・メッセージ】
「当たり前」は、実は奇跡――朝の挨拶、一緒に食べるごはん、手をつないで歩く道。ありふれた日常こそが、世界でいちばんの宝物であること
愛は言葉にして伝える――照れても、照れ隠しでも、「大好き」は何回言っても足りない。声に出すから届く
幸せは「守るもの」ではなく「育てるもの」――二人だけの幸せが、商店街の人々、家族、友人との関わりの中で、少しずつ大きくなっていく
変わっていくもの、変わらないもの――街は再開発で変わり、人は歳を重ねる。それでも「朝におはよう、夜におやすみ」と言い合える関係は変わらない
【プロットの全体像】
結婚半年目の秋。新妻・陽葵は夫・律への愛が日々増すばかり。商店街のパン屋で働きながら、WEB漫画「ダーリン観察日記」を密かに連載する、ささやかで幸せな毎日を送っていた。
しかし年末、律の設計事務所が「ひだまり商店街の再開発プロジェクト」を受注。担当になった律は、愛妻が暮らし、働き、大切な人たちがいる街を「変える側」に立ってしまう。立ち退きを恐れる商店街の人々、板挟みになる律、何も知らない陽葵の「ダーリン観察日記」が思いがけず話題になり……。
小さな嘘と照れ隠し、すれ違いと仲直り。正月の実家、雪の温泉旅行、とよさんの50年前の恋の手紙、台風で被災した商店街の復興。二人は数々の出来事を経て、「幸せな日常」が当たり前ではないこと、そしてそれを守り育てるのは自分たち自身だと気づいていく。
結婚1周年の秋。商店街に新たな朝が来て、陽葵は一番好きな言葉を、一番大きな声で叫ぶ――「ダーリン♡こっち見て!」
【サブプロット】
サブプロット1:商店街再開発問題【メイン縦軸】
律が再開発の担当建築士となり、商店街の人々との間で揺れる。小さな店を守りたい地元民と、街の未来を考える設計士。律が導き出す答えは「取り壊す開発」ではなく「みんなの商店街をみんなで作り直す」再生プロジェクト。陽葵の店や人々との絆が、律の設計に魂を吹き込む。
サブプロット2:「ダーリン観察日記」の成長物語
趣味で描き始めたWEB漫画が徐々に話題を集め、書籍化の話まで舞い込む。「旦那好きすぎる新妻」の日常を描く陽葵の筆は、やがて商店街の人々の物語をも描くようになり、作品のテーマが「私のダーリン」から「私たちの大切な日常」へと広がっていく。
サブプロット3:とよさんの50年前の恋
アパートの大家・とよさんが倒れたのを機に、押し入れから出てきた1通の古い手紙。50年前、海辺の町の青年に思いを届けられなかった恋。陽葵と律は、とよさんの足でなくなった「返事」を届ける旅に出る。老いと再生の物語が、若い二人の愛に深い影を落とし、光を添える。
サブプロット4:身近な人々の恋の行方
律の妹・千夏の初恋(応援する陽葵と、過保護になる律のギャップ)
親友・美織の破局と再生(「幸せって何か」を陽葵に問いかける存在)
パン屋の千尋の片想い(陽葵が恋の師匠・律が恋の壁に)
サブプロット5:律のギター
眠った陽葵のためにこっそり弾いていた律のギター。物語の節目に登場し、やがて律が陽葵の前で弾き語る「初めてのコンサート」へ。楽曲「ダーリン♡こっち見て!」の誕生エピソードとして回収。
【備考】
全16章+プロローグ+エピローグ。各章10節、プロローグ1~3節、エピローグ1~3節。計162以上の節。1節5,000字以上で総計80万字以上を想定(調整可)
楽曲の歌詞エピソード(朝シーン、お買物、ケンカと仲直り、温泉旅行、指輪)は第1〜8章に「物語の種」として散種済み。歌詞ファンがニヤリできる配置を保持
章の末尾節には、次章への引き(クリフハンガー)を必ず配置し、連載型の中だるみを防止
陽葵の「ダーリン」の呼びかけは毎章バリエーションを変える(囁き/甘え/元気/照れ/拗ね/涙/笑顔)――楽曲の演出意図を小説でも再現
10月5日の楽曲リリース日に、エピローグで「10月5日」を物語内の記念日として登場させ、現実と物語をリンクさせる仕掛け
【章構成】
プロローグ:ダーリン♡おはよう
・結婚半年目の朝、すべてはここから
・日曜の朝八時十分。カーテンの光、夫の寝顔、囁く「ダーリン……おはよう♡」
・起きない律を観察する陽葵、独り言で溺愛を漏らす「観察日記」の習慣の提示
・朝のキッチン。コーヒーとパン。何気ない朝の宝物
・結婚に至るまでの回想――レコードショップでの出会い、喫茶店のプロポーズ
・結婚半年記念日。喫茶店で渡された、半年間隠された指輪
・記念日の夜、指輪を握って眠る陽葵の独白
・翌朝、新調したエプロンでパン屋へ向かう陽葵
・商店街「ひだまり商店街」の紹介。時代に取り残されたような、でもあたたかい街
・アパート「立花ハイツ」の大家・とよさんの登場。「仲がいいねえ」の一言
・「これからの毎日が、全部宝物になる」――一年分の物語の約束と、章末の予感
第1章:ひだまり商店街へようこそ
秋。新妻、商店街デビュー
1節.パン屋「ブーランジュリーひだまり」の一日。マスター溝口の厳しくも愛ある指導
2節.先輩店員としての千尋。姉妹のような店内の空気
3節.閉店後、商店街の店々が軒を連ねて挨拶に来る。八百屋、魚屋、駄菓子屋の主人たち
4節.帰り道、手をつなぐ二人。「手つないだだけでドキドキするの♡」と陽葵
5節.律の職場紹介。設計事務所の日常、上司・早瀬の「次の案件、お前に任せたい」の予告
6節.夜、律が眠った後のギターの音。陽葵は気づかないふりをしている
7節.週末のイラスト連載「ダーリン観察日記」更新日の裏側。反響はまだ少ない
8節.近所の子どもたちに「お姉ちゃん」と呼ばれ、パンを差し入れされる陽葵
9節.とよさんの部屋に招かれ、昔の商店街の写真を見せてもらう。50年前の面影
10節.商店街の夕暮れ。陽葵「この街のこと、大好きになってきたかも♡」――律の複雑な表情を引きに
第2章:デートの達人(になる!)
秋。恋する新妻、デート攻略計画
1節.陽葵の「デートノート」開封。過去のデートの記録と「次はここ♡」のリスト
2節.水族館デート。ペンギンの前で固まる律。魚の名前を全部言い当てる意外な特技
3節.水族館の帰り、陽葵の「ダーリン、こっち見て♡」攻撃で律が赤面する連続シーン
4節.映画の夜(原案・歌詞Verse 2)。横顔を観察する陽葵、お菓子の半分こ
5節.陽葵の観察日記が掲載サイトで少しだけ話題に。「旦那さんいるのね」とコメント
6節.千夏が遊びに来る。兄の部屋でギターを見つけ、「お兄ちゃんまだ弾いてるの?」
7節.千夏の就活の悩みを聞く陽葵。夜、律が兄妹で語る「親父のこと」
8節.律の父との確執の匂わせ。建築士の父も同じ道だったこと
9節.律の残業が増え始める。夜遅い帰宅、それでも「おやすみ」だけは言い合う二人
10節.律の机の上の書類の束。「ひだまり地区 再開発計画 概要書」の文字が見える――章末の引き
第3章:ダーリンの秘密
秋の終わり。律の仕事の衝撃
1節.陽葵、千尋から「商店街の再開発のうわさ」を聞く。立ち退きの話にざわめく商店街
2節.律に何も聞けないまま、パン屋で働く陽葵。マスターの「ここもそうなのかな」という一言
3節.商店街の寄り合い。テントウに立つおばあちゃんたちの「反対」の声
4節.律の残業はさらに増える。陽葵は弁当を作って事務所へ届けるが、浮かない顔の律
5節.事務所で見てしまった図面。「ひだまり商店街」の文字。陽葵、事情を悟る
6節.律に問い詰めるでもなく、聞けないままの数日。「嘘はつきたくない」律の苦悩
7節.観察日記の更新が止まる。読者からの「最近さみしい」のコメント
8節.やっと二人で向き合う夜。「商店街の担当になった。でも、何も決まってない」
9節.陽葵の葛藤――大好きな街と、大好きな夫。その間で揺れる心
10節.「信じてる。ダーリンなら、絶対にいい街にするもん♡」――陽葵の一言が律に火をつける
第4章:ひまワッフル、急上昇
初冬。観察日記が話題に
1節.更新再開の観察日記「ダーリンの仕事、大変そう」の回。切なくあたたかい回が反響を呼ぶ
2節.アクセス急増。「うちの嫁さんとおんなじだ」という旦那コメントの山
3節.溝口マスターに「お前、あのひまワッフルか」とバレる。商店街中に広まる
4節.律の会社でも話題に。早瀬所長「お前の妻さんの漫画、うちの娘が読んでるぞ」
5節.照れる律、陽葵に「もうちょっとボリューム落とせ」と言うが目は笑っている
6節.千尋が「私も描いてみたい」と絵を描き始める。パン屋に小さな画廊ができる
7節.取材のオファーが来る。地元のフリーペーパーに掲載決定
8節.二人の日常が「作品」になる不思議。陽葵「私の日常、みんなの宝物になる?」
9節.律が再開発の現地調査を開始。商店街の人々のインタビューで見えてくる街の記憶
10節.律のノートに書かれたメモ「この街が変わったら、陽葵は悲しむか?」――葛藤の始まり
第5章:冬のイルミネーション
師走。恋人たちの季節
1節.商店街にクリスマスの飾り付け。みんなでツリーを立てる恒例行事
2節.イルミネーションデート。都心の夜景を見下ろす丘で「ダーリン、ぎゅってして♡」
3節.律のプレゼント選びに付き合う千夏。「兄の喜ぶものランキング」を作る妹
4節.陽葵へのプレゼントを探す律の迷走。商店街の店を回って悩む一晩
5節.美織登場。恋人との関係がうまくいかない様子。「あんたたち見てると惨めになる」
6節.美織の恋人との修羅場。呼び出された陽葵、深夜のファミレスで聞く本音
7節.「幸せって、あんたみたいに全面から来るものじゃないのよ」――美織の寂しい恋の理屈
8節.クリスマスイブ。パン屋のケーキ予約で大忙し。律は仕事、それでも23時59分に帰宅
9節.24時、間に合ったクリスマス。手作りのケーキと、小さな箱のプレゼント
10節.律の贈り物は「二人の写真のオルゴール」。鳴る旋律は、律が弾くあの曲――陽葵、初めて気づく
第6章:初めての大ゲンカ
年末。すれ違いと仲直り
1節.年末年始、律の仕事は佳境。再開発の初回提案が年明けに決定
2節.大晦日の準備をひとりでする陽葵。寂しさを紛らわせる観察日記
3節.大晦日、律は事務所へ。ひとりで年越しそばをすする陽葵
4節.美織から届く「彼と別れた」の短信。幸せな自分が急に申し訳なくなる
5節.年明け早々、初めての本気の大ゲンカ。「もういい」の言葉を初めて言ってしまう
6節.別々の部屋で過ごす夜。「おやすみ」が言えない苦しさを初めて知る
7節.千尋の機転で仲直りのきっかけ。パン屋に呼び出される律
8節.「ケンカしたって、笑ったって、最後は仲直りしよう♡」――陽葵の言葉が律の胸に刺さる
9節.謝罪と本音。「仕事とお前、両方守りたい。守りきれなくて怖い」
10節.仲直りの朝。初めて見る律の涙。改めての「だーい好き♡」――年明けの約束
第7章:お正月と二人の実家
正月。家族の物語
1節.お正月、まずは陽葵の実家へ。のどかな田舎、大らかな両親
2節.陽葵の父と律の意外な意気投合。将棋で盛り上がる二人
3節.次は律の実家。ここには空気があった。建築士の父・剛三の重い存在
4節.父との再会。「再開発、お前が担当か」。父はその案件を知っていた
5節.父の言葉「街を壊すのは簡単だ。だが――」言葉を切る父の本音
6節.律の部屋に残る高校時代の設計のノート。父を超えたかった少年の日々
7節.母の目線。二人の写真を見て泣く母。「あんたたちみたいなら、それでいい」
8節.初詣。二人で手を合わせる。「今年も隣にいられますように」
9節.帰りの新幹線で語り合う、父と和解するための道。「今度は仕事で認めさせる」
10節.律の決意のメモ「父の宿題を、俺の答えで解く」――再開発への向き合い方が変わる
第8章:雪の温泉旅行
冬。旅先での出会い
1節.仲直りの「埋め合わせ」で約束した温泉旅行。行きの新幹線で駅弁(原案・歌詞Chorus 2)
2節.山奥の温泉宿「あさひ屋」。若女将・咲月の出迎え
3節.咲月の娘・りおとの出会い。「お姉ちゃん、だんなさまたけないの?」の直球
4節.雪見露天風呂。湯けむりの中での夫婦の本音トーク
5節.夕飯の料理と、りおの「パパがいない」の一言。咲月の複雑な笑顔
6節.夜、宿の縁側で。りおに絵を描いてあげる陽葵。観察日記の読者になりたがるりお
7節.咲月の話。夫と離婚し、女将の母の宿を継いだ苦労。「あんたたち見てると、まだ恋も信じられる」
8節.季節外れの小さな花火(原案・歌詞Chorus 2)。雪に映る光
9節.帰り際、りおとの約束「また描いた絵、送るね」。陽葵の読者がひとり増える
10節.帰りの車窓。「守るだけの設計じゃなく、育てる設計にしたい」――律の中で設計が変わり始める
第9章:春はすぐそこ
早春。それぞれの足音
1節.再開発の初回提案プレゼン。商店街の人々が集まる会場
2節.律の提案は「全て建て替える案」。行政の意向を反映した、無難で冷たい案
3節.商店街の沈黙。溝口マスターの震える手。陽葵は会場の後ろで見ていた
4節.提案後の気まずい日々。マスターの店に行きづらくなる陽葵
5節.観察日記の更新がまた止まる。「描けない」――初めてのスランプ
6節.律の不眠。深夜の事務所で、父の設計の資料と格闘する姿
7節.早瀬所長との対立。「住民の要望を全部聞いていたら、何も建てられない」
8節.陽葵、律を叱る。「ダーリンの描く街、私たちの街じゃないよ」――初めての正面からの衝突
9節.律、一人で商店街を歩く夜。閉まったシャッター、残る看板、積もる記憶
10節.朝、陽葵の机に置かれた一枚の設計図。「これなら、どうだろう」――律の回答の第一歩
第10章:みんなの商店街を、みんなで
春。再生プロジェクト始動
1節.律の新提案「既存の商店街を活かした再生計画」。早瀬所長との激しい議論
2節.所長を説得する律。「時間はかかる。でも、これは勝負できる仕事です」
3節.住民参加のワークショップ開催。商店街の人々が設計に参加する試み
4節.最初は懐疑的だった人々。子どもたちの描く「未来の商店街」の絵が場を変える
5節.溝口マスターの告白。亡き妻との思い出の店。ここを離れたくない本音
6節.陽葵の復活。観察日記「私たちの街、みんなで作ってます」の回が大きな反響に
7節.千夏の就活が決まる。お礼に、と律がギターを弾く場面(兄妹のささやかな夜)
8節.律の父・剛三から届く一本の電話。「今度、現場を見せろ」
9節.父が商店街に来る日。無言で歩き、無言で帰る父。その背中の意味
10節.父からの手紙「お前の設計は、まだ俺に勝っていない。だが――街に負けていない」――初めての認めの言葉
第11章:桜、そして新しい恋
春。出会いと別れの季節
1節.お花見デート(原案・歌詞世界のパレード)。商店街の桜並木でのお弁当
2節.千夏の初恋の相手が判明。律の会社の後輩・青年の登場
3節.過保護モードの律と、応援モードの陽葵。「お兄ちゃん、うるさい」の攻防
4節.美織の新生活。引っ越したアパートは陽葵の商店街のそば。新しいスタート
5節.千尋の片想い。大学の先輩への想いを、陽葵にだけ打ち明ける
6節.陽葵、恋の師匠として奮闘。律は「娘(仮)に男の本質を教えたい」と不穏
7節.桜の下での千尋の告白。結果は……「保留」という優しい答え
8節.観察日記の書籍化のオファーが正式に届く。出版社との面談
9節.迷う陽葵。「私の日常を、本にしていいの?」
10節.律の言葉「俺が世界でいちばんの読者だ。誰にも恥ずかしいことはない」――書籍化への後押し
第12章:梅雨、心の雨
初夏。とよさんの秘密
1節.梅雨入り。商店街に雨の音。静かな季節の始まり
2節.とよさんの体調の異変。階段でよろける姿を千尋が目撃
3節.病院の結果。軽い脳梗塞の兆候、大事には至らないが、一人暮らしは危険との診断
4節.とよさんの入院先へ通う日々。陽葵がお見舞い弁当を作る
5節.とよさんの息子・修一の登場。遠方に住む、少し不器用な親子関係
6節.押し入れの整理で見つかった古い桐箱。中に、黄ばんだ1通の手紙
7節.50年前の手紙。差出人は海辺の町の「港町の勇(いさむ)さん」。開かれていない、届かなかった返事
8節.とよさんの告白。「あたしが返事を出せなかったから、あの人は……」
9節.修一との対話。「母の恋を、笑えない俺がいる」。親子の距離が少し縮む
10節.陽葵の決意。「ダーリン、とよさんの返事、届けに行こうよ」――旅の約束の引き
第13章:手紙を届けに
夏。二人で行く、海辺の町
1節.夏休みを取った律。とよさんの故郷・海辺の町への小旅行
2節.50年前の商店街の地図を頼りに、手紙の住所へ。町は様変わりしていた
3節.手がかりは「灯台の下の食堂」。三代目の女将が語る、勇さんのその後
4節.勇さんは漁師になり、生涯独身だったという。「東京に想い人がいるって、笑ってた」
5節.勇さんの墓参り。とよさんの手紙(陽葵が代筆した、50年遅れの返事)を読み上げる律
6節.読み終わった後の静寂。そして、潮風。陽葵の頬を涙が伝う
7節.帰り道、灯台の下で。「陽葵。俺たちは、後悔のない方を選ぼう」
8節.手紙の返礼として頂いた、勇さんが遺した古い航海日誌の写し
9節.とよさんに報告する夜。血色の戻ったとよさんの笑顔。「……あたしの初恋、叶ったねえ」
10節.とよさんから二人への贈り物。「立花ハイツ、お前たちに任せる」――意外な形の相続の予感
第14章:夏祭りと、書籍デビュー
盛夏。一年でいちばん熱い季節
1節.商店街の夏祭りの準備。みんなで作る、みんなのお祭り
2節.律が設計した「みんなの商店街」の模型が祭りで初公開
3節.祭りの夜。浴衣の陽葵に見とれる律。「……浴衣、反則だから」
4節.屋台の飲み物を片手に、溝口マスターと語る夜。「再開発、まんざらでもないな」
5節.千夏の恋の進展。祭りの縁日での「二人きり」の作戦(陽葵プロデュース)
6節.りお親子が遊びに来る。宿のお土産と、りおの描いた「お姉ちゃんの漫画」
7節.観察日記の単行本『ダーリン♡こっち見て!』刊行決定。表紙はあの二人のイラスト
8節.美織の新しい恋の予感。商店街の八百屋の息子との出会い。「……嫌じゃないかも」
9節.祭りのフィナーレ、商店街の花火。律の耳元での囁き「結婚記念日、10月5日。覚えてる?」
10節.打ち上げの夜、とよさんから渡された一つの封筒。「お前たちに贈りたいもの」の正体は……
第15章:台風と、守るもの
秋の始まり。最大の試練
1節.封筒の中身は「立花ハイツの権利書」。とよさんから二人への贈与
2節.戸惑う二人。修一からの手紙「母のわがままを、受け取ってやってくれ」
3節.その夜、巨大台風が接近。商店街に数十年ぶりの警報
4節.台風上陸。停電、浸水、飛ぶ看板。商店街が被害を受ける
5節.溝口マスターの店にも浸水。パン窯が動かない。商店街に暗い夜
6節.陽葵の行動。観察日記の読者、商店街の皆、りお親子、美織、千夏――繋がった全ての人々が駆けつける
7節.律の行動。建築士として、危険な建物の点検に駆け回る。「自分の街は、自分で守る」
8節.復興の数日間。みんなで泥を出し、パンを焼き、店を開ける。「ひだまり商店街、営業中」の張り紙
9節.台風が明かしたもの。老朽化した商店街の現実。だからこそ、再生は必要だった
10節.行政視察の視線が変わり、律の再生計画が正式採用へ――「みんなの商店街」が動き出す
第16章:結婚一年目の朝
秋。すべての約束の場所へ
1節.再生計画の着工式。商店街のみんなで行く地鎮祭。シャベルを握る溝口マスターの涙
2節.10月5日。結婚一年記念日。あの喫茶店の、あの席での朝
3節.単行本『ダーリン♡こっち見て!』の発売日。店頭に並ぶ本、手に取る読者たち
4節.本の中で描かれた、一年分の日常。読者からの「私もあの人に言おう」という声
5節.律のギター。記念日の夜、ついに陽葵の前で弾き語る。「ダーリン♡こっち見て!」の原曲を
6節.律の告白「この歌、お前に作った。俺の照れ隠しの、全部」
7節.とよさんの退院。立花ハイツのみんなで祝う、小さなお茶会
8節.千夏の恋の結実、美織の新たな一歩、千尋の「保留」のその後――それぞれの物語の答え合わせ
9節.一年間の日々を振り返る二人。あの朝の「おはよう♡」から、ここまで
10節.翌朝のカーテンの光。「ダーリン、こっち見て♡」――変わらない朝、続いていく毎日
エピローグ:ずっと隣に
・遠い未来と、10月5日
・結婚五年目の秋。再生された商店街の、新しい姿
・立花ハイツも律の設計で生まれ変わり、とよさんは「名誉大家」に
・陽葵の漫画は「商店街の人々」を描く連載に。りおは中学生になり、助手に
・律の設計事務所。父・剛三との対等な共作が実現した話
・10月5日。二人の記念日。今も毎年、あの喫茶店でコーヒーを頼む
・白い髪が混じり始めた二人の朝。それでも「おはよう♡」は変わらない
・孫のように慕う子どもたち(商店街の子供たち)に囲まれる二人
・「もしも歳を重ねても、今みたいに笑っていたい」――あの夜の約束の回収
・陽葵の最後の観察日記。「私のダーリンは、世界中でいちばん、私の隣にいる」
・最後の頁。「ダーリン♡ こっち見て! ……ふふっ、ずっとこっち見てね♡」――完
第3章:ダーリンの秘密 秋の終わり。律の仕事の衝撃
第1節:陽葵、千尋から「商店街の再開発のうわさ」を聞く。立ち退きの話にざわめく商店街
秋の終わり。
ひだまり商店街を吹き抜ける風が、少しずつ冷たくなってきた。
ついこの間まで、店先に並ぶ鉢植えの花を揺らしていた風は、今では落ち葉を道路の端へと運んでいく。商店街の街路樹も、枝に残る葉がずいぶん少なくなった。
それでも、朝のひだまり商店街は、いつもと変わらない顔をしていた。
八百屋さんの店先では、店主のおじさんが大きな声で旬の野菜を紹介している。
「はい、今日は大根がお買い得だよ! 煮物にするなら、今の大根がうまいよ!」
「おじさん、昨日も同じこと言ってなかった?」
通りかかった常連のおばあちゃんが笑いながら声をかける。
「昨日もうまかったし、今日もうまいんだよ!」
「はいはい。じゃあ、一本いただこうかねえ」
そんなやり取りに、通りを歩く人たちの笑い声が重なる。
お向かいの花屋さんには、冬に向けた寄せ植えが並び始めていた。昔ながらの和菓子屋さんからは、蒸したてのお饅頭の甘い香りが漂ってくる。
そして、私が働くパン屋さん――ブーランジュリーひだまり。
店内では、焼きたてのクロワッサンが、バターの香りをいっぱいに広げていた。
「陽葵ちゃん、そこのバゲット、もう少し前に出してくれる?」
「はーい! ただいま移動しまーす♡」
私はトングを片手に、棚のパンを並べ直す。
焼きたてのパンを見て、思わず顔がほころんだ。
今日もおいしそう。
この香り、この景色、この人たちの声。
私は、この商店街が大好きだ。
ここに来ると、自然と笑顔になれる。
結婚してから半年ほど。夫の律と二人で暮らす日々にも、少しずつ新しい習慣が増えてきた。
朝、寝ぼけた律に「ダーリン♡こっち見て!」と声をかけること。
帰宅した律に「今日の私、何点?」と聞いて困らせること。
何でもない一日を四コマ漫画にして、WEBに投稿すること。
そして、疲れて帰ってきた律に、おいしいご飯を食べてもらうこと。
そんな毎日が、私にとっての宝物だ。
もちろん、商店街も同じ。
ただ買い物をするだけの場所じゃない。
顔なじみのお店の人がいて、名前を呼んでくれる人がいて、何かあったときには気にかけてくれる人がいる。
ここには、私が大切にしたい日常が詰まっている。
「……ずっと、このままだったらいいのにな」
パンを並べながら、私は小さくつぶやいた。
「ん? 陽葵ちゃん、何か言った?」
カウンターの向こうから、店主の溝口茂さんが顔を上げた。
「あっ、いえ! なんでもないです♡ 今日もパンがおいしそうだなあって!」
「そりゃ、ありがたいねえ。毎朝そう言ってくれると、こっちも張り合いがあるよ」
溝口さんは、少し照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て、私はもう一度、パンの棚に目を向けた。
いつもの朝。
いつもの商店街。
いつもの、ひだまり。
――そのときの私は、そう思っていた。
この場所に、少しずつ変化の影が忍び寄っていることなど、まだ知らなかった。
*
午前十時を過ぎたころ。
店内の混雑がひと段落し、私は空になったトレーを片づけていた。
入口のベルが、ちりん、と鳴る。
「こんにちはー!」
「あら、陽葵ちゃん。今日も元気ねえ」
「おはようございます! あっ、もうこんにちはの時間ですね♡」
顔なじみのお客さんに笑顔で挨拶する。
その直後、入口からもう一人、見慣れた顔が現れた。
「あ、陽葵さん!」
「千尋ちゃん!」
私は思わず手を振った。
千尋ちゃんは、大学に通う女の子だ。商店街によく顔を出していて、私ともすっかり仲良しになっていた。
いつもは明るく、話題も豊富で、商店街のお店の人たちとも気軽に話せる子。
今日も、いつものように笑顔で入ってくる――と思った。
けれど。
「……千尋ちゃん?」
私は、彼女の表情に違和感を覚えた。
笑顔はある。
でも、どこかぎこちない。
それに、入口を入ってからも、何度か外の通りを振り返っている。
「どうしたの? なんだか、いつもと違うね」
「あっ、いえ……。その、ちょっと気になることがあって」
「気になること?」
「はい」
千尋ちゃんは、カウンターの上に視線を落とした。
それから、店内にほかのお客さんがいないことを確認するように、そっと周囲を見回した。
「陽葵さん。今、少しお話しできますか?」
「もちろん♡ ちょっと待ってね」
私は溝口さんに目を向けた。
「マスター、少しだけ休憩してもいいですか?」
「ああ、いいよ。お客さんが来たら呼ぶから、ゆっくり話しておいで」
「ありがとうございます!」
私はエプロンのポケットに手を入れ、千尋ちゃんを店の奥にある小さな休憩スペースへ案内した。
そこには、スタッフ用の小さなテーブルと椅子が二脚ある。
窓からは商店街の通りが見える。
いつもなら、ここで新作のパンの話や、大学であった出来事、最近見つけたかわいい雑貨の話などをしている。
でも、今日の千尋ちゃんは、なかなか話し始めなかった。
「……千尋ちゃん?」
「あの、陽葵さん」
「うん」
「最近、商店街で何か変わったこと、ありませんか?」
「変わったこと?」
私は首をかしげた。
「うーん……。花屋さんが冬のお花を増やしたとか、八百屋さんに大きな白菜が並び始めたとか? あとは、和菓子屋さんの栗のお饅頭がそろそろ終わっちゃうらしくて……あれ、私、大好きなのに!」
「ふふっ。そういうことじゃなくて」
千尋ちゃんは、ほんの少しだけ笑った。
けれど、その笑顔はすぐに消えてしまった。
「……再開発の話です」
「……え?」
私は、思わず聞き返した。
「さい、かいはつ?」
「はい」
千尋ちゃんは、小さくうなずいた。
「ひだまり商店街の再開発計画があるって……そんな話を、聞いたんです」
その瞬間。
店の中で鳴っていたオーブンのタイマーの音が、いつもより遠くに聞こえた。
「……再開発?」
もう一度、口にする。
言葉の意味はわかる。
古くなった建物を建て替えたり、道路や施設を整備したり、街全体を新しくしたりすること。
もちろん、再開発そのものが悪いことだとは思わない。
古い建物には、修繕が必要なものもある。
災害に備えなければならない場所もある。
住んでいる人や、働いている人たちが安全に暮らせる街にすることは、大切なことだ。
だけど。
「……ひだまり商店街が?」
私は、窓の外を見た。
いつもの通り。
いつもの八百屋さん。
いつもの花屋さん。
いつもの、パン屋さんの看板。
それらが、頭の中で急に違うものに見え始めた。
「千尋ちゃん、それって……どこから聞いた話なの?」
「大学の知り合いからです。商店街の周辺で、何か大きな計画が進んでいるらしいって」
「大きな計画……」
「それで、気になって少し調べてみたんです。でも、まだ正式に公表されたものなのか、私にはわからなくて」
千尋ちゃんは、スマートフォンを取り出した。
「ネットにも、それらしい話が少しあって。でも、はっきりしたことは見つかりませんでした。だから、うわさだけが先に広がっているのかもしれません」
「……そっか」
私は、ゆっくりとうなずいた。
まだ、確かな情報ではない。
そう言い聞かせようとした。
でも、胸の奥に小さな不安が生まれていた。
「再開発って……この商店街が、なくなっちゃうってことなのかな?」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
千尋ちゃんは、すぐには答えなかった。
「……そこまでは、わからないです」
「そっか……。そうだよね」
「ただ、再開発となると、建物を建て替えたり、土地の使い方を変えたりすることもありますよね。もしそうなら、お店の人たちにも影響があるんじゃないかって……」
千尋ちゃんの言葉は、ひとつひとつ、私の心に落ちていった。
お店の人たち。
ここで長年、商売を続けてきた人たち。
毎朝、シャッターを開けて、商品を並べて、お客さんを迎えている人たち。
その人たちの暮らしは、どうなるのだろう。
この場所で積み重ねてきた思い出は?
いつもの買い物は?
顔なじみの人たちと交わす、何気ない会話は?
私は、両手を膝の上でぎゅっと握った。
「……私、この商店街が大好きなの」
「はい。知ってます」
「ここに来ると、みんなが声をかけてくれるの。パン屋さんで働くようになってから、もっと好きになったんだ」
言葉にしているうちに、胸が苦しくなった。
「お店の人たちって、ただ商品を売っているだけじゃないんだよね。お客さんの顔を覚えていたり、いつも買っているものを覚えていたり……。元気がなさそうな人がいたら、どうしたのって声をかけたり」
「……そうですね」
「私が結婚してこの街で暮らすようになってからも、みんな、すごく優しくしてくれて。律と一緒に歩いていると、『仲がいいねえ』ってからかわれたりするんだよ♡」
いつもなら、ここで笑える。
律のことを思い出せば、自然と頬が緩む。
だけど今日は、笑顔を作ろうとしても、うまくいかなかった。
「……そういう毎日が、なくなっちゃうかもしれないの?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
千尋ちゃんは、私の手にそっと触れた。
「陽葵さん。まだ、何も決まったわけじゃないですよ」
「うん……」
「だから、今はうわさだけで決めつけないほうがいいと思います」
「……そうだよね」
私は、うなずいた。
千尋ちゃんの言うとおりだ。
まだ、何もわかっていない。
計画が本当にあるのか。
どこまで進んでいるのか。
商店街が対象になっているのか。
お店や住民に、どんな影響があるのか。
何ひとつ、確かなことはわからない。
それなのに、私はもう、なくなってしまう未来を想像していた。
……怖かったのだ。
この街が変わってしまうことが。
大好きな人たちと、今までどおり会えなくなることが。
何より、自分の大切な居場所が、ある日突然、別のものになってしまうことが。
「……千尋ちゃん。ほかのお店の人たちも、この話を知ってるのかな?」
「それが……」
千尋ちゃんは、少し言いにくそうに視線を落とした。
「さっき、商店街を歩いていたら、何人かが話しているのを聞きました」
「えっ?」
「八百屋さんの前で、立ち退きっていう言葉が出ていて……」
「た、立ち退き……?」
その言葉を聞いた瞬間、私は背筋が冷たくなるのを感じた。
再開発。
立ち退き。
それは、ただ建物が新しくなるというだけの話ではない。
今の場所から出ていかなければならない人がいるかもしれない。
長年続けてきた店を、手放さなければならない人がいるかもしれない。
もちろん、誰かがそう決めたと確定したわけではない。
でも、うわさの中で、その言葉が使われている。
それだけで、胸の奥がざわついた。
「……どうしよう」
私は、思わずつぶやいた。
「陽葵さん……」
「ごめんね。まだ何もわかってないのに、こんなこと言っちゃって」
「謝らなくていいですよ。私だって、気になって仕方がないんですから」
千尋ちゃんは、少し困ったように笑った。
「この街、私も好きですから」
その言葉を聞いて、私は彼女の手を握り返した。
「……うん」
好きだからこそ、心配になる。
大切だからこそ、変わってほしくないと思ってしまう。
でも、変化が必要なこともある。
その両方を、私はまだ、うまく受け止められなかった。
*
千尋ちゃんが帰ったあと。
私は、しばらく休憩スペースの椅子に座ったままだった。
窓の向こうでは、商店街の人たちがいつものように行き交っている。
自転車を押しながら歩くおじいちゃん。
小さな子どもの手を引くお母さん。
買い物袋を提げて、店先で立ち話をするおばあちゃんたち。
何も変わっていない。
少なくとも、見た目には。
「……陽葵ちゃん?」
溝口さんの声がした。
「あっ、はい!」
「大丈夫かい? 千尋ちゃんと、何かあったのかい?」
「えっ? いえ……」
私は慌てて立ち上がった。
「大丈夫です! ちょっと、考え事をしていただけで……」
「そうかい?」
溝口さんは、私の顔をじっと見た。
長年、このパン屋さんを切り盛りしてきた人だ。
お客さんのちょっとした変化にも、よく気づく。
「無理はしなくていいからね。何かあったら、言っておくれ」
「……ありがとうございます」
その優しさが、今は少しだけ苦しかった。
だって。
もし、本当にこのお店がなくなってしまったら。
溝口さんは、どこでパンを焼くのだろう。
毎朝、店内に広がるバターの香りは、どこへ行ってしまうのだろう。
私は、いつもの場所に戻り、トレーを手に取った。
「……よしっ」
小さく声を出す。
今は、仕事をしなきゃ。
いつもどおりに。
お客さんが来たら笑顔で挨拶して、パンを袋に入れて、お釣りを渡す。
そんな当たり前のことを、ちゃんとしよう。
でも。
「いらっしゃいませ!」
そう言って笑顔を向けたあとも、私の心は、さっき聞いた言葉から離れなかった。
再開発。
立ち退き。
商店街が、変わってしまうかもしれない。
その考えが、頭の中で何度も繰り返されていた。
*
昼前。
店先に、少し人だかりができていた。
私は、焼き上がったパンを追加するため、トレーを持って売り場へ出た。
そのとき、入口の近くから、こんな声が聞こえてきた。
「ねえ、聞いた? この辺り、再開発するんだって」
「ええっ、ほんとなの?」
「まだ、うわさらしいけどねえ。でも、立ち退きの話まで出ているって聞いたわよ」
「立ち退きって……。うちも関係あるのかしら?」
「さあねえ。誰に聞けばいいのかも、わからないのよ」
私は、足を止めた。
お客さん同士の会話だ。
聞こうとして聞いたわけではない。
それでも、一度耳に入ってしまった言葉は、簡単には消えてくれなかった。
「でも、こんなに長くやってきたお店なのにねえ……」
「そうよ。うちのおばあちゃんの代から、この場所で商売しているんだから」
「もし出ていけって言われたら、どうしたらいいのかしら」
誰も、大きな声では話していない。
けれど、その声には、確かな不安がにじんでいた。
私は、トレーを持つ手に力を込めた。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
まだ確かなことは何もわからない。
なのに、もう、街の人たちは不安になっている。
誰かが聞いた話が、別の誰かに伝わる。
そのたびに、少しずつ言葉が変わっていく。
再開発するらしい。
建て替えるらしい。
お店がなくなるらしい。
立ち退かなければならないらしい。
そして、いつしか、まだ決まっていないことまで、決定事項のように語られてしまう。
私は、唇をきゅっと結んだ。
うわさだけで、怖がりたくない。
でも、知らないままでいるのも怖い。
「……陽葵ちゃん?」
溝口さんが、私の横に立った。
「大丈夫かい?」
「あ……はい」
「さっきから、ちょっと顔色がよくないね」
「……マスター」
私は、言いかけた。
再開発のうわさを聞きましたか?
このお店も、関係するんでしょうか?
もし、立ち退きになったら……。
聞きたいことは、たくさんあった。
でも、口にすることができなかった。
だって、溝口さんだって、まだ何も知らないかもしれない。
私が不安をぶつけたところで、困らせてしまうだけかもしれない。
「……なんでもないです」
結局、私はそう言った。
溝口さんは少しだけ眉を下げたけれど、それ以上は聞かなかった。
「そうかい。何かあったら、遠慮しないで言いなさいよ」
「……はい」
私は、もう一度トレーを持ち直した。
パンを並べる。
袋を用意する。
お客さんに笑顔を向ける。
いつもどおり。
いつもどおりにしよう。
そう思えば思うほど、胸の奥にある不安は大きくなっていった。
*
午後二時。
ようやく休憩時間になった。
私は、温かいミルクティーを手に、店の裏口から外へ出た。
冷たい風が頬を撫でる。
空を見上げると、薄い雲がゆっくり流れていた。
「……はあ」
息を吐く。
白くなるほど寒くはない。
でも、温かい飲み物を持っていないと、少し心細く感じるような気温だった。
私はスマートフォンを取り出した。
画面には、律とのメッセージのやり取りが表示されている。
昨夜の最後のメッセージ。
『今日は少し遅くなると思う。先に休んでいていいから』
その下に、私が送った返事。
『了解です♡ でも、帰ってきたらおやすみのぎゅーは必須です!』
そして律から。
『わかった。おやすみのぎゅーは、帰ってからな』
思わず、頬が緩んだ。
……ダーリン。
私は、律のことが大好きだ。
仕事で疲れていても、忙しくても、私の話をちゃんと聞いてくれる。
何気ない一言にも、律らしい優しさがある。
たまに照れくさそうに目をそらすところも、私のことを気にかけてくれるところも、全部好き。
だからこそ。
私は、律の仕事について、何も知らないわけではなかった。
律は建築士だ。
建物を設計し、そこを使う人たちの暮らしを考え、たくさんの条件の中で、よりよい形を探していく仕事をしている。
最近は、仕事が忙しくなっていた。
帰りが遅い日も増えた。
机の上には、難しそうな書類が積み重なっていた。
以前、律が話してくれたこともある。
建物は、見た目がきれいならそれでいいわけじゃない。
安全であること。
長く使えること。
使う人にとって、無理のないつくりであること。
予算や維持管理のことも考えなければならない。
私は建築の専門家ではないけれど、律が仕事に真剣に向き合っていることは知っていた。
そして、最近の律は、父親のことも考えていた。
昔、建築の仕事をしていたお父さん。
律が子どものころ、設計図を見せてくれた人。
そして、あるとき、律に「お前は、何もわかっていない」と告げた人。
律は、まだ、そのときのことをすべて話してくれたわけではない。
でも、少しずつ、父親の教えを理解しようとしていた。
古いギターのノートに書かれていた言葉。
『好きな音を、忘れるな。』
その言葉を見つけた夜のことを、私は覚えている。
律が、懐かしそうに、少し寂しそうに、ギターを弾いていたこと。
その旋律が、いつか父親との記憶につながるのかもしれないと感じたこと。
そして、つい最近。
律の机の上にあった、あの書類。
『ひだまり地区 再開発計画 概要書』
私は、あの文字を思い出した。
……あれ?
胸の奥が、ひやりとした。
ひだまり地区。
再開発計画。
それは、もしかして。
いや、でも。
私は、慌てて首を横に振った。
まだ、何もわからない。
あの書類が、どんな仕事に関係しているのかも知らない。
律が何を担当しているのかも知らない。
それに、ひだまり地区という言葉だけで、商店街のことだと決めつけるのは早すぎる。
そう。
きっと、まだ、何もわからないのだ。
それでも。
もし。
もし、律の仕事が、この商店街の再開発と関係していたら?
私は、スマートフォンの画面を見つめた。
今すぐ、メッセージを送りたかった。
『ダーリン、最近のお仕事って何をしているの?』
そう聞けばいい。
いつもなら、何でもないことだ。
夫がどんな仕事をしているのか、妻が聞く。
何もおかしくない。
それなのに。
指が、動かなかった。
もし、聞いたら。
律が困った顔をしたら?
答えにくそうにしたら?
私に言えないことがあるとしたら?
……そんなこと、考えたくない。
私は、スマートフォンを胸元に抱きしめた。
「……ダーリン」
小さく名前を呼ぶ。
いつもなら、その名前を口にするだけで、少し元気になれる。
でも今日は、心の中に不安が残ったままだった。
律を信じていないわけじゃない。
むしろ、信じているからこそ、聞くのが怖い。
大切な人の仕事が、大切な街の未来とつながっていたら。
私は、どうすればいいのだろう。
*
休憩を終え、店内へ戻ると、溝口さんがカウンターの向こうでパンを袋に入れていた。
「おかえり、陽葵ちゃん」
「ただいまです!」
「寒かっただろう。温かいお茶、まだあるからね」
「ありがとうございます♡」
私は笑顔で返事をした。
そのとき、入口のベルが鳴った。
「こんにちはー!」
元気な声とともに、近所のおばあちゃんが入ってきた。
「あら、陽葵ちゃん。今日は何がおすすめ?」
「いらっしゃいませ! 今日は栗のデニッシュがおすすめですよ♡ 秋の終わりにぴったりです!」
「まあ、おいしそう。じゃあ、それを二ついただこうかしら」
「はい、ありがとうございます!」
私は、トングで栗のデニッシュを取り、袋に入れた。
おばあちゃんは、お財布を取り出しながら、ふと声をひそめた。
「そうそう、陽葵ちゃん。聞いた?」
「……え?」
「この辺り、再開発するっていう話」
まただ。
その言葉を聞いた瞬間、私は一瞬、息を止めてしまった。
「……あ、あの。私も、少しだけ聞きました」
「やっぱりねえ。うちの近所でも、その話でもちきりなのよ」
「そうなんですか……」
「でも、誰もはっきりしたことは知らないみたいでね。どこまで本当なのかしら」
おばあちゃんは、困ったように笑った。
「うちの孫なんて、もう『この辺りのお店、全部なくなるんじゃない?』なんて言うのよ。まだ決まったわけでもないのにねえ」
「……そう、ですよね」
「でも、心配にはなるわよ。私、ここで何十年も暮らしてきたんだもの」
おばあちゃんは、袋を受け取りながら、窓の外に目を向けた。
「この商店街には、いろんな思い出があるからねえ。夫と初めて買い物に来たのも、この辺りだったし、子どもたちを連れて歩いたのも、ここだったのよ」
「……はい」
「新しくなるのが悪いとは思わないの。でもね、今あるものを、何でも古いからってなくしてしまうのは、寂しいじゃない?」
その言葉に、私は何も言えなかった。
新しくすること。
残すこと。
変えること。
守ること。
どれも、簡単に答えが出せることではないのだと思う。
「陽葵ちゃんも、そう思わない?」
おばあちゃんが、私を見た。
私は、ゆっくりとうなずいた。
「……私も、この商店街が大好きです」
「そうだよねえ」
おばあちゃんは、ほっとしたように笑った。
「まあ、今はまだ、うわさなんでしょうけどね。何かわかったら、教えてちょうだいね」
「……はい」
おばあちゃんが帰ったあと、私はしばらく入口を見つめていた。
その背中が、通りの向こうへ消えていく。
いつもと変わらない、商店街の景色。
でも、さっきよりも、少しだけ違って見えた。
ここにある一つひとつの店に、それぞれの暮らしがある。
それぞれの思い出がある。
それぞれの、守りたいものがある。
そして、もし本当に再開発が進むのなら。
そのすべてが、何らかの影響を受けるのかもしれない。
私は、そっと胸に手を当てた。
「……どうか、まだ何も決まっていませんように」
誰に向けた願いなのか、自分でもわからなかった。
*
夕方。
仕事を終えた私は、エプロンを外して、店の奥で帰り支度をしていた。
スマートフォンには、律からのメッセージが届いていた。
『今日は帰りが遅くなりそうだ。夕飯は先に食べていていいから』
いつもなら、すぐに返事をする。
『了解です♡ でも、ダーリンが帰ってくるまで起きて待ってるもん!』
そんなふうに、少しだけ甘えてみたりする。
でも今日は、画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
聞きたい。
でも、聞けない。
再開発のこと。
ひだまり地区のこと。
あの概要書のこと。
律の仕事のこと。
どうして、あんなに遅くまで仕事をしているのか。
何を考えているのか。
何に悩んでいるのか。
私は、妻なのに。
律の一番近くにいるはずなのに。
知らないことが、こんなにある。
その事実が、今日は少しだけ寂しかった。
「……陽葵ちゃん、帰るのかい?」
溝口さんが、店の奥から声をかけた。
「あっ、はい! 今日もありがとうございました♡」
「お疲れさま。気をつけて帰るんだよ」
「ありがとうございます。マスターも、あんまり無理しないでくださいね!」
「ははっ、そりゃこっちの台詞だよ」
いつもの会話。
いつもの笑顔。
私は、店を出る前に、もう一度、店内を振り返った。
焼きたてのパンの香り。
木目のカウンター。
窓際の小さな花瓶。
何度も見てきた、見慣れた景色。
ここが好き。
この場所が好き。
この街が好き。
そして、律が好き。
どれも、私にとって大切なものだ。
だからこそ。
もし、それらが互いにぶつかってしまったら。
私は、どちらを向けばいいのだろう。
答えは、まだ見つからなかった。
*
商店街を歩きながら、私は周囲を見回した。
八百屋さんは、店先の商品を片づけている。
花屋さんでは、店主さんが鉢植えに水をあげていた。
和菓子屋さんの前では、仕事帰りの人が足を止めている。
いつもと同じ。
それなのに、今日は、一つひとつの景色が心に残った。
この店の看板。
あの窓。
いつもおしゃべりしているおばあちゃんたち。
子どもたちが走っていく路地。
全部、当たり前だと思っていた。
明日も、明後日も、来年も。
ずっと、そこにあると思っていた。
でも、未来は、当たり前ではないのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、商店街の角で、数人の人が立ち話をしているのが見えた。
「だから、まだ決まったわけじゃないんだって」
「でも、再開発の話が出ているのは確かなんでしょう?」
「それは……そうらしいけど」
「じゃあ、私たちはどうしたらいいのよ」
不安そうな声。
苛立った声。
何とか落ち着こうとする声。
いろいろな感情が、そこには混ざっていた。
私は、立ち止まりそうになった。
でも、結局、そのまま通り過ぎた。
今、私が声をかけたところで、何かがわかるわけではない。
それに、私自身、何も知らないのだ。
ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
この商店街の未来が、これまでと同じとは限らない。
そして、そのことに、私は初めて気づき始めていた。
*
家に帰ると、部屋の中は静かだった。
「ただいまー……」
返事はない。
当たり前だ。
律は、まだ仕事中なのだから。
私は靴を脱ぎ、鞄を置いて、リビングへ向かった。
ソファの上には、ペンちゃんのぬいぐるみが座っていた。
水族館で律と一緒に買った、大切なペンギン。
あの日、ペンギンの水槽の前で、律が夢中になっていたことを思い出す。
私が「ダーリン♡こっち見て!」と声をかけても、なかなか振り向いてくれなかったこと。
やっと目が合ったとき、少し照れたように笑ってくれたこと。
あのときは、何も心配することなんてなかった。
ただ、律と一緒にいることが嬉しかった。
今日だって、律が好きなことは変わらない。
この街が好きなことも変わらない。
だけど、二つの大切なものが、いつか同じ場所で交わるかもしれない。
その可能性に気づいてしまった。
「……ペンちゃん」
私は、ぬいぐるみを抱き上げた。
「ねえ、どうしたらいいと思う?」
もちろん、返事はない。
丸い目が、じっとこちらを見ているだけ。
「……だよね。ペンちゃんにも、わからないよね」
私は、ぬいぐるみをソファに戻した。
そして、テーブルの上に置いてあるデートノートを手に取った。
次に行きたい場所。
やってみたいこと。
律と一緒に過ごした、たくさんの思い出。
ページをめくる。
水族館。
映画の夜。
秋の散歩。
これから行きたい場所。
これから、二人で作っていきたい思い出。
その中に、ひだまり商店街で過ごす毎日も、当然のようにあった。
パン屋さんで働く私。
仕事帰りに買い物をする私たち。
商店街の人たちに、二人で挨拶すること。
何でもない一日を、漫画に描くこと。
そんな未来を、私は疑っていなかった。
けれど。
もし、街が変わってしまったら?
このノートに書いた未来も、変わってしまうのだろうか。
私は、ペンを手に取った。
そして、新しいページを開いた。
何かを書こうとして。
でも、何も書けなかった。
「……あれ?」
いつもなら、すぐに書ける。
今日あったこと。
嬉しかったこと。
面白かったこと。
律に伝えたいこと。
何でも、言葉にできるはずなのに。
今日は、ペン先が止まったままだった。
私は、ノートを閉じた。
「……ダーリン」
静かな部屋に、自分の声が響く。
今、律に会いたい。
顔を見て、話したい。
いつもみたいに笑って、いつもみたいに甘えて。
そして、聞いてみたい。
最近、どんな仕事をしているの?
何か、困っていることはない?
私に、話せないことがあるの?
……でも。
その質問の先に、自分が聞きたくない答えが待っているのではないか。
そう思うと、怖くなった。
私は、スマートフォンを手に取った。
律とのメッセージ画面を開く。
入力欄に、文字を打ち込む。
『ダーリン、今日の仕事は……』
そこで、指が止まった。
消す。
もう一度、打つ。
『最近、忙しそうだけど、大丈夫?』
それなら、聞ける。
いつもの、何気ない気遣いとして。
でも、本当に聞きたいことは、それではなかった。
私は、しばらく画面を見つめたあと、文字をすべて消した。
そして、代わりに送った。
『お仕事お疲れさま♡ 帰り、気をつけてね。おやすみのぎゅー、待ってるよ♡』
送信。
すぐに、既読がついた。
けれど、返事はまだ来なかった。
私はスマートフォンをテーブルに置き、ゆっくりと息を吐いた。
……大丈夫。
まだ、何も決まっていない。
まだ、何もわからない。
だから、今は、いつもどおりにしよう。
私は、そう自分に言い聞かせた。
けれど、胸の奥に生まれた小さな不安は、消えてくれなかった。
*
その夜。
私は、律の帰りを待ちながら、窓の外を眺めていた。
商店街の明かりは、少しずつ消えていく。
店じまいを終えたお店のシャッターが閉まり、通りを歩く人も少なくなっていく。
昼間はあんなに賑やかだった街が、静かな夜の顔に変わっていた。
それでも、明日の朝になれば、また人々が集まり、シャッターが開き、パンが焼かれ、野菜が並び、いつもの一日が始まる。
私は、ずっとそう思っていた。
明日も。
明後日も。
その先も。
でも、今日聞いたうわさは、私の中に小さな疑問を残していった。
この街の未来は、誰が決めるのだろう。
そこで暮らす人たちの声は、ちゃんと届くのだろうか。
大切なものを残しながら、新しくすることはできるのだろうか。
そして。
律は、何を考えているのだろう。
私は、窓ガラスに映った自分の顔を見つめた。
いつもの笑顔ではなかった。
少しだけ、不安そうな顔。
こんな顔、律には見せたくないな。
そう思った。
でも、本当は。
こんなときこそ、律に話を聞いてほしかった。
何も答えが出なくてもいい。
ただ、隣にいてほしい。
手を握ってほしい。
そして、いつものように言ってほしい。
――大丈夫だよ、陽葵。
その一言だけで、きっと私は、少し安心できる。
私は、ソファの上のペンちゃんを抱きしめた。
「……ダーリン。早く帰ってこないかな」
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
律からのメッセージだった。
『ありがとう。もう少しで一区切りつきそうだ。帰ったら話そうな』
私は、その文章を何度も読み返した。
帰ったら話そう。
その言葉に、少しだけ心が温かくなる。
でも。
律は、何を話すつもりなのだろう。
仕事のこと?
今日あった出来事?
それとも……。
私は、スマートフォンを胸元に抱きしめた。
「……うん。待ってるね、ダーリン♡」
声に出してみる。
いつものように、明るく。
いつものように、愛情を込めて。
けれど、その笑顔の奥には、まだ答えの出ない不安があった。
ひだまり商店街の再開発。
立ち退きのうわさ。
そして、律の机にあった、あの概要書。
それらが、本当にひとつにつながっているのか。
今の私には、まだわからない。
ただ。
今日まで当たり前だと思っていた日常が、少しだけ違って見え始めていた。
大好きな街。
大好きな夫。
どちらも、私にとってかけがえのないもの。
だからこそ、私はまだ知らない未来が、少し怖かった。
窓の外では、秋の終わりの風が、静かに街路樹を揺らしていた。
そして、ひだまり商店街のどこかで。
まだ誰も全貌を知らない計画が、少しずつ、人々の日常に影を落とし始めていた。
第2節:聞けない言葉、焼きたての香り。マスターの「ここもそうなのかな」
翌朝。
目覚まし時計が鳴る少し前に、私は目を覚ました。
隣のベッドでは、律がまだ眠っている。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、彼の横顔を淡く照らしていた。
いつもなら、ここで私は少しだけ身を乗り出す。
そして、寝顔を眺めながら、こっそり声をかけるのだ。
「……ダーリン♡」
返事はない。
「ダーリン、朝ですよー」
やっぱり返事はない。
ふふっ。
いつもなら、ここで頬をつついたり、枕元から顔を覗き込んだりする。
でも、今日は少し違った。
昨日から、頭の中に同じ言葉が残っている。
再開発。
ひだまり商店街。
立ち退き。
そして、律の机にあった、あの書類。
『ひだまり地区 再開発計画 概要書』
私は、眠っている律の顔を見つめた。
聞けばいい。
ただ、それだけなのに。
最近の仕事は何なの?
あの書類は、何の計画なの?
ひだまり商店街と関係があるの?
聞きたいことは、ちゃんと頭の中にある。
それなのに、声に出そうとすると、喉の奥で止まってしまう。
もし、関係があると言われたら。
もし、律が困った顔をしたら。
もし、私に話せない事情があるのだとしたら。
考えれば考えるほど、聞くことが怖くなった。
「……私、何を怖がってるんだろう」
小さくつぶやく。
律は、まだ眠っている。
その寝顔を見ていると、胸がきゅっとなった。
私は律を信じている。
仕事に真剣に向き合う人だということも知っている。
どんな仕事でも、いい加減に済ませる人ではない。
だからこそ、もしこの商店街の再開発に関わっているとしても、きっと何か理由があるのだと思う。
でも、私は。
この街が好きなのだ。
ここで出会った人たちが好きなのだ。
その気持ちを、どうしたらいいのか、まだわからない。
「……ダーリン、起きたら聞いてもいい?」
声に出したものの、返事はなかった。
私はそっと布団を抜け出し、寝室を出た。
*
朝食の準備を終えたころ、律がリビングへやってきた。
「おはよう、陽葵」
「おはようございます♡」
「今日は早いな」
「うん。ダーリンより先に起きちゃいました」
「珍しいな」
「えーっ、私だって早起きくらいしますよ!」
「そうだったな」
律は少し笑って、椅子に腰を下ろした。
私はテーブルにトーストと目玉焼き、サラダを並べる。
「はい、ダーリンの朝ごはんです♡」
「ありがとう」
「今日はトーストにバターを多めに塗りました!」
「見ればわかる」
「愛情も多めです!」
「それは見えないな」
「えーっ! ちゃんと見てくださいよ!」
いつものやり取り。
律の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その表情を見ると、私も自然に笑顔になる。
でも、今朝はその笑顔の奥に、聞きたいことが隠れていた。
「ダーリン」
「ん?」
「最近、お仕事忙しいね」
「ああ。少し立て込んでいる」
「毎日遅くまで大変だね。ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ」
「本当かなあ?」
「陽葵ほどは寝ていないかもしれない」
「ちょっと! 私、そんなに寝坊してません!」
「休日はよく寝ているだろ」
「それはダーリンと一緒にいたいからです♡」
「……そうか」
律はコーヒーを一口飲んだ。
私は、その横顔を見つめる。
今だ。
聞くなら、今。
「あのね、ダーリン……」
「どうした?」
「最近の仕事って……」
そこまで言って、言葉が止まった。
律がこちらを見る。
「仕事?」
「ううん。なんでもない」
「そうか?」
「うん! 大変そうだから、応援してるよって言いたかっただけ♡」
私は笑った。
律は少しだけ不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞かなかった。
「ありがとう。助かるよ」
「えへへ♡」
結局、聞けなかった。
食卓の上では、トーストの表面が少しずつ冷めていく。
私は自分の分を口に運びながら、心の中でため息をついた。
どうして聞けないんだろう。
夫婦なのに。
いつもなら、何でも話せるのに。
どうして、たった一つの質問が、こんなに難しいのだろう。
*
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい、ダーリン♡」
玄関で、律のコートの襟を整える。
「今日も遅くなる?」
「まだわからない。なるべく早く帰るよ」
「うん。無理しないでね」
「陽葵もな」
「私は大丈夫!」
「そうか」
律は靴を履き、ドアノブに手をかけた。
その背中を見ながら、私はもう一度、口を開きかけた。
「ダーリン……」
「ん?」
振り返る律。
私は一瞬、迷った。
再開発のこと。
ひだまり商店街のこと。
あの書類のこと。
今なら聞けるかもしれない。
でも、言葉は出てこなかった。
「……いってらっしゃいの、ぎゅーは?」
代わりに、両手を広げた。
律は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「はいはい」
彼は私を抱きしめてくれた。
コート越しに伝わる温もり。
いつもと同じ、安心する匂い。
私は、その胸元に頬を寄せた。
「今日も頑張ってね」
「ああ。陽葵も仕事、頑張って」
「うん♡」
律が出ていく。
ドアが閉まる。
私はしばらく玄関に立ったままだった。
「……聞けなかったな」
小さくつぶやく。
それから、いつものように笑顔を作って、仕事へ出かける準備を始めた。
*
ブーランジュリーひだまり。
店の扉を開けると、まだ焼き上がる前のパン生地の香りが、ほんのり漂っていた。
「おはようございます!」
「おはよう、陽葵ちゃん」
溝口さんが、厨房から顔を出した。
白いコックコートに、いつものエプロン。
手には大きなボウルを持っている。
「今日は早いね」
「はい! 朝から元気いっぱいです♡」
「そうかい。じゃあ、こっちの生地を手伝ってもらおうかな」
「お任せください!」
私はエプロンを着け、手を洗った。
厨房では、溝口さんが生地の状態を確かめている。
「今日は気温が低いから、発酵に少し時間がかかりそうだね」
「そうなんですね」
「パンはね、季節によって機嫌が違うんだよ」
「パンにも機嫌があるんですか?」
「あるとも。暑い日も寒い日も、湿気が多い日も乾燥している日も、同じようにはいかない」
「なんだか、人間みたいですね」
「ははっ。そうだねえ。毎日同じように見えても、少しずつ違うんだ」
溝口さんは、生地を両手で包むように持ち上げた。
「だから、よく見てやらないといけない。昨日と同じだから大丈夫、なんて思っていると、うまく焼けないこともある」
「なるほど……」
「毎日、ちゃんと向き合うことが大事なんだよ」
私は、その言葉を聞きながら、生地をこねる手を動かした。
毎日、ちゃんと向き合う。
それは、パンだけではないのかもしれない。
人との関係も。
夫婦の会話も。
街の暮らしも。
同じように見えて、少しずつ変わっている。
その変化に気づかないままでいると、何か大切なことを見落としてしまうのかもしれない。
「陽葵ちゃん?」
「あっ、はい!」
「生地、少し力が入りすぎているよ」
「えっ?」
「大丈夫。急がなくていいから、優しくね」
「は、はい!」
私は慌てて力を緩めた。
溝口さんは、ふっと笑った。
「今日は、何か考え事かい?」
「えっ? そんなことないですよ!」
「そうかい?」
「はい! パンのことだけ考えてます!」
「それならいいけどね」
溝口さんは、何も追及しなかった。
その優しさに、私は少しだけ救われた。
*
午前九時。
焼きたてのパンが、次々と店頭に並び始めた。
クロワッサン。
バゲット。
クリームパン。
季節限定の栗のデニッシュ。
店内に広がる香ばしい匂いに、朝からお客さんの足が止まる。
「いらっしゃいませ!」
「おはよう、陽葵ちゃん」
「あっ、おはようございます!」
常連のおばあちゃんが、いつものように笑顔で入ってきた。
「今日は栗のデニッシュ、あるかしら?」
「ありますよ! 焼きたてです♡」
「まあ、嬉しい。じゃあ、二ついただこうかしら」
「ありがとうございます!」
私はトングでパンを取り、袋に入れた。
「それにしても、最近は寒くなってきたねえ」
「そうですね。朝は特に冷えますね」
「この間まで暑い暑いって言っていたのに、あっという間だわ」
「秋って短いですよね」
「本当ねえ。気づいたら冬になっているわ」
おばあちゃんは、パンを受け取りながら、少し声を落とした。
「そういえば、再開発の話、聞いた?」
私は、思わず手を止めた。
「……はい。少しだけ」
「やっぱり。あちこちで話題になっているみたいね」
「まだ、はっきりしたことはわからないんですよね?」
「そうなのよ。誰も確かなことを知らないの。でも、気になるじゃない?」
「そうですよね……」
「この辺りも、ずいぶん古い建物が増えたからねえ。新しくする必要があるところもあるんだろうけど」
おばあちゃんは、店内を見回した。
「こういうお店は、どうなるのかしらね」
「……」
「ここのパン、好きなのよ。夫が元気だったころも、よく買いに来たの」
「そうだったんですね」
「朝、焼きたてのパンを買って、家で一緒に食べてね。あの人、ここのあんパンが好きだったのよ」
おばあちゃんは、少し懐かしそうに笑った。
「だから、このお店には、いろんな思い出があるの」
私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます。マスターにも伝えておきますね」
「そうしてちょうだい。これからも、おいしいパンを焼いてほしいわ」
「はい!」
おばあちゃんが帰ったあと、私は厨房のほうを振り返った。
溝口さんは、黙々とパンを焼いている。
その背中を見ていると、何とも言えない気持ちになった。
このお店にも、たくさんの思い出がある。
お客さんの思い出。
働く人の思い出。
家族の思い出。
この場所で積み重ねてきた時間。
それらは、建物を新しくするだけで、簡単に引き継げるものではないのかもしれない。
もちろん、新しい建物の中でも、同じように思い出を作ることはできる。
でも、それは今あるものをそのまま残すこととは違う。
私は、カウンターの端をそっと撫でた。
何度もパンを並べた場所。
何度もお客さんと笑顔を交わした場所。
ここで働き始めてから、私にもたくさんの思い出ができた。
できるなら、ずっとここにいたい。
そう思った。
*
午前十一時半。
店内が少し忙しくなってきた。
昼食用のパンを買いに来る会社員や、近所の人たちが次々に訪れる。
「カレーパンを二つください」
「はい、ありがとうございます!」
「こちらのサンドイッチは、まだありますか?」
「はい! こちらが最後の一つです」
私は笑顔で接客を続けた。
仕事に集中している間は、不安を忘れられる。
そう思っていた。
けれど、店の外を通る人たちの会話が、ふと耳に入ってくる。
「再開発って、いつごろから始まるんだろうね」
「まだ何も決まっていないらしいよ」
「でも、土地の調査が入るって聞いたけど」
「それ、本当なの?」
まただ。
どこへ行っても、再開発の話が聞こえてくる。
私は、パンを袋に入れながら、できるだけ意識しないようにした。
「陽葵ちゃん、次のトレーお願い」
「はい!」
溝口さんの声に、私は厨房へ向かった。
そのとき、店の奥で電話が鳴った。
「はい、ブーランジュリーひだまりです」
溝口さんが受話器を取る。
「はい……。ああ、そうですか。ええ、わかりました」
短いやり取りだった。
溝口さんは受話器を置き、しばらくその場に立っていた。
「マスター?」
私が声をかけると、彼は少しだけこちらを向いた。
「いや、なんでもないよ」
「お電話、何かあったんですか?」
「商店街の人からね。ちょっとした確認だよ」
「そうなんですね」
それ以上、私は聞かなかった。
でも、溝口さんの表情は、いつもより少し曇っていた。
何かを考えているような。
何かを気にしているような。
その横顔を見て、私は再び胸がざわついた。
*
昼の忙しさが落ち着いたころ。
溝口さんは、厨房の窓から外を眺めていた。
店の前を、買い物袋を持った女性が通り過ぎる。
向かいの花屋さんでは、店主が鉢植えを並べ替えていた。
八百屋さんの店先では、いつものように大きな声が聞こえる。
溝口さんは、その景色をしばらく見つめていた。
「……ここもそうなのかな」
ぽつり。
独り言のような声だった。
私は、トレーを持ったまま動きを止めた。
「……マスター?」
溝口さんは、すぐにはこちらを見なかった。
「いや……」
彼は、窓の外を見たまま、もう一度つぶやいた。
「この店も、そうなのかな」
その言葉が、静かな厨房に落ちた。
私は、何も言えなかった。
ここも。
この店も。
つまり、再開発の対象になるかもしれない。
溝口さん自身も、そう考え始めているのだ。
「マスター……」
「いや、まだ何もわからないんだよ」
溝口さんは、こちらを振り返った。
「こんな話をしても、仕方ないんだけどね」
「そんなことないです」
私は、思わず答えた。
「え?」
「仕方なくなんて、ないです」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
溝口さんは、少し目を見開いた。
「……そうかい」
「だって、ここはマスターのお店ですもん」
「まあ、そうだね」
「毎日、マスターがパンを焼いて、お客さんが買いに来て……。ここには、たくさんの思い出があるじゃないですか」
「……」
「だから、心配になるのは当然だと思います」
溝口さんは、窓の外へ目を戻した。
「この店を始めたのは、もうずいぶん前だよ」
「はい」
「最初はね、こんなにお客さんが来てくれるとは思っていなかった」
溝口さんは、ゆっくりと話し始めた。
「店を開いたころは、朝から晩までパンを焼いても、売れ残ることがあった。雨の日なんかは、ほとんどお客さんが来ないこともあったよ」
「そうだったんですね」
「それでも、毎日続けた。少しずつ、顔なじみのお客さんが増えてね。あの人は食パン、あの人はあんパン、あの子はクリームパンが好きだって、覚えるようになった」
溝口さんは、カウンターの端に手を置いた。
「この店は、ただパンを売る場所じゃないんだよ」
「……はい」
「ここに来ると、誰かと話せる。今日も元気だねって声をかけてもらえる。そんな場所になれたらいいと思って、続けてきたんだ」
私は、静かに耳を傾けた。
「パンを買いに来る人の中には、毎日同じ時間に来る人もいる。仕事へ行く前に寄ってくれる人。学校帰りに寄る子ども。家族のために買いに来る人。いろんな人がいる」
「はい」
「そういう人たちが、ここで過ごしてきた時間も、店の一部なんだろうね」
溝口さんは、少しだけ笑った。
「だから、もし本当に再開発の話が進むなら、どうなるのか心配になるよ」
私は、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「マスターは……このお店を続けたいですか?」
思わず、聞いていた。
溝口さんは、少し考えてから答えた。
「続けられるなら、続けたいね」
「……」
「でも、何が何でも今の形を守りたい、と言い切れるほど簡単な話でもないんだよ」
「どうしてですか?」
「建物が古くなっているのも事実だからね。設備のこともある。安全のこともある。お客さんに安心して来てもらうには、考えなきゃいけないことがいろいろある」
私は、律の言葉を思い出した。
建物は、見た目だけではない。
安全であること。
長く使えること。
使う人のことを考えること。
それは、律が仕事で大切にしていることだった。
「新しくすること自体が悪いわけじゃない。そこは、私もわかっているつもりだよ」
溝口さんは、穏やかな声で続けた。
「でもね、長く続けてきた店にとっては、簡単に場所を変えられるわけじゃない。設備を移せばいい、看板を掛け替えればいい、という話ではないんだ」
「……はい」
「お客さんとのつながりもある。仕入れ先もある。働いてくれている人もいる。店の場所が変われば、今まで来てくれていた人が来られなくなることだってある」
私は、自分の手を見つめた。
この店で働く自分。
ここで出会った人たち。
ここで交わした言葉。
それらも、店の一部なのだろうか。
「陽葵ちゃん」
「はい」
「君も、ここが好きかい?」
「……大好きです」
私は、迷わず答えた。
「パンの香りも、マスターも、お客さんも。みんな大好きです」
「そうかい」
「だから、ここがなくなっちゃうかもしれないなんて、考えたくないです」
言ってしまった。
自分の本当の気持ちを。
溝口さんは、何も言わずに、少しだけうなずいた。
「そう思ってくれるのは、嬉しいよ」
その言葉に、私は少しだけ目頭が熱くなった。
*
午後。
私は、いつものようにパンを並べ、接客を続けた。
でも、マスターの言葉が頭から離れなかった。
『この店も、そうなのかな』
あの一言。
それは、単なる不安ではなかった。
長い時間をかけて作り上げてきた場所を失うかもしれないという、現実的な心配だった。
そして、私は初めて気づいた。
自分がこの商店街を好きだと思う気持ちは、ただの懐かしさや居心地のよさだけではない。
ここにいる人たちが、毎日を積み重ねてきたこと。
それぞれの店が、それぞれのやり方で街を支えてきたこと。
その積み重ねが、今の商店街を作っている。
私は、その一部に加えてもらっている。
だから、守りたいと思う。
でも、どうすればいいのかはわからない。
再開発について、私は専門的な知識を持っていない。
建物の老朽化や防災の問題があるなら、改善が必要なのかもしれない。
新しい施設や道路ができることで、街が便利になる可能性もある。
それでも、今あるお店や人々の暮らしを、簡単に置き去りにしてほしくない。
その二つの気持ちが、私の中でぶつかっていた。
「陽葵ちゃん、そこの棚、補充をお願い」
「あっ、はい!」
溝口さんの声に、私は我に返った。
「すみません!」
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいからね」
「はい!」
私はパンを並べた。
ひとつ、またひとつ。
形を整えて、焼き色を確かめる。
パンの表面は、温かい光を受けて、きれいな黄金色に輝いていた。
その景色を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
今できることを、ちゃんとやろう。
まずは、目の前のお客さんに、おいしいパンを届けること。
この店で働く自分にできることは、それなのだから。
*
夕方。
店の外が、少しずつ暗くなってきた。
仕事帰りの人たちが、買い物袋を手に商店街を歩いている。
私は、最後のトレーを片づけながら、溝口さんに声をかけた。
「マスター。今日もお疲れさまでした」
「お疲れさま。今日もよく働いてくれたね」
「ありがとうございます」
「陽葵ちゃん」
「はい?」
「さっきの話だけどね」
溝口さんは、少しだけ視線を落とした。
「まだ、確かなことはわからない。だから、今から心配しすぎても仕方がないと思っているよ」
「……はい」
「でも、何も知らないまま、何も考えないままでいるのも違うんだろうね」
「そうですね」
「商店街の人たちとも、少し話してみようと思う。何か情報があるなら、みんなで共有したほうがいい」
「私も、できることがあればお手伝いします」
「ありがとう。でも、まずは自分の仕事を大切にしておくれ」
「はい!」
溝口さんは、いつもの優しい笑顔を見せた。
「陽葵ちゃんが笑顔で働いてくれると、店の中も明るくなるからね」
「えへへ♡ それなら、いっぱい笑顔で頑張ります!」
「ははっ。頼もしいね」
私は笑った。
でも、その笑顔の奥には、まだ不安が残っていた。
*
帰り道。
私は商店街をゆっくり歩いていた。
いつもの店先。
いつもの看板。
いつもの人たち。
でも、今日はその一つひとつが、いつもより大切に見えた。
花屋さんの店主が、鉢植えを片づけている。
八百屋さんのおじさんが、明日の仕入れについて電話をしている。
和菓子屋さんの店先には、今日も小さな灯りがともっていた。
その景色を見ながら、私は思った。
この街は、建物だけでできているわけじゃない。
そこに暮らす人たちがいて、働く人たちがいて、毎日訪れる人たちがいて。
その人たちの時間が重なって、街になっている。
だから、再開発という言葉を聞いても、簡単に賛成とも反対とも言えない。
新しくすることには、意味があるのかもしれない。
でも、今ある暮らしを守ることにも、意味がある。
その両方を大切にする方法は、ないのだろうか。
「……難しいなあ」
私は、空を見上げた。
夕焼けの色が、建物の窓に映っている。
この街の未来を、誰かが決めるのだろうか。
それとも、ここに暮らす人たちの声も、ちゃんと届くのだろうか。
私はまだ、何も知らない。
ただ、マスターのあの一言だけが、心に残っていた。
『この店も、そうなのかな』
*
家に帰ると、リビングのテーブルに律のメモが置いてあった。
『今日は少し遅くなる。夕飯は先に食べていてくれ。帰ったら連絡する』
私は、その文字を指先でなぞった。
律は今日も忙しい。
きっと、仕事に集中しているのだろう。
私はメモを置き、スマートフォンを取り出した。
メッセージ画面を開く。
何を送ろう。
今日、マスターが言っていたこと。
商店街の人たちが心配していること。
この店がなくなったら嫌だということ。
そして、律の仕事が気になっていること。
全部、伝えたい。
でも、どこから話せばいいのかわからない。
私は、入力欄に文字を打ち込んだ。
『ダーリン、今日ね、パン屋さんで……』
そこで止まった。
消す。
もう一度、打つ。
『最近、商店街で再開発の話が出ているの知ってる?』
画面を見つめる。
送信ボタンの上で、指が止まった。
これを送ったら、律はどう答えるだろう。
知っているよ、と言うのだろうか。
知らない、と言うのだろうか。
それとも、仕事の話だから答えられない、と言うのだろうか。
私は、ゆっくりと文字を消した。
そして、代わりに送った。
『今日もお仕事お疲れさま♡ マスターのパン、今日もおいしかったよ! ダーリンにも食べてほしいな♡』
送信。
すぐに既読がついた。
少しして、返事が届く。
『それはよかった。今度、買ってきてくれると嬉しい』
私は、画面を見ながら微笑んだ。
『もちろんです♡ ダーリンの分、ちゃんと取っておきます!』
返信を送る。
それから、スマートフォンをテーブルに置いた。
……やっぱり、聞けなかった。
私はソファに座り、ペンちゃんを抱き上げた。
「ねえ、ペンちゃん」
ぬいぐるみの丸い目を見つめる。
「私、ダーリンに何でも話せると思ってたんだけどな」
ペンちゃんは、何も答えない。
「でも、聞きたいことがあるのに、聞けないことってあるんだね」
私は、ぬいぐるみを抱きしめた。
「ダーリンのこと、信じてるよ。大好きだよ。それは本当」
少しだけ、声が震えた。
「でも、もし……もし、私の大好きな街と、ダーリンのお仕事が関係していたら、どうしたらいいんだろう」
部屋の中は静かだった。
時計の針が、一定のリズムで進んでいく。
私は、ペンちゃんをソファに戻した。
それから、テーブルの上に置いてあったデートノートを開く。
何か書こうと思った。
でも、やっぱりペンは進まない。
今日の出来事を漫画にしたら、どんな話になるだろう。
マスターの言葉。
お客さんの不安。
商店街の未来。
それを描くことはできる。
でも、今の私は、まだ言葉にできなかった。
大切な人たちの不安を、簡単に漫画にしたくなかった。
私は、ノートを閉じた。
*
夜遅く。
玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま」
「おかえりなさい、ダーリン♡」
私は、リビングから玄関へ向かった。
律は少し疲れた顔をしていた。
「起きていたのか」
「うん。待ってたよ」
「先に寝ていてよかったのに」
「だって、おやすみのぎゅーが必要ですから♡」
律は、小さく笑った。
「そうだったな」
私は両手を広げた。
律が近づいてくる。
その胸に、私はそっと頬を寄せた。
「今日もお疲れさま」
「ああ。ありがとう」
「お仕事、大変だった?」
「少しな」
「そっか……」
私は、律の背中に腕を回した。
聞きたい。
今なら、聞けるかもしれない。
今日、パン屋でマスターが言っていたこと。
商店街の再開発のうわさ。
あの概要書のこと。
でも、律の疲れた表情を見ると、言葉が止まってしまった。
「陽葵?」
「ん?」
「どうかしたか?」
「ううん。なんでもないよ」
「そうか?」
「うん。今日は、ダーリンに会いたかっただけ♡」
律は、私の髪にそっと手を置いた。
「俺も、陽葵に会いたかったよ」
その言葉が、嬉しかった。
でも、少しだけ寂しかった。
私は、律の胸に顔を埋めたまま、目を閉じた。
今は、何も聞かない。
でも、いつかは聞かなければならない。
この街のことも。
律の仕事のことも。
そして、私たちの未来のことも。
私は、心の中でそう決めた。
「ダーリン」
「ん?」
「明日も、ちゃんと帰ってきてね」
「ああ。できるだけ早く帰るよ」
「約束?」
「約束」
律は、私をもう一度抱きしめた。
その温もりは、いつもと変わらなかった。
けれど、私たちの間には、まだ言葉になっていないものが一つ、静かに横たわっていた。
ひだまり商店街の未来。
そして、律の秘密。
私は、そのどちらにも、まだ手を伸ばせずにいた。
ただ、明日もこの街でパンを焼きたい。
明日も律の帰りを待ちたい。
そんな当たり前の願いを、胸の中でそっと抱きしめていた。
第3節:商店街の寄り合い。おばあちゃんたちの「この街を残して!」という声
秋の終わり。
ひだまり商店街の街路樹は、枝に残った葉を少しずつ落とし始めていた。
朝晩の冷え込みが強くなり、店先には温かい飲み物や冬物の商品が並ぶようになった。
いつもなら、季節の変化を楽しみながら歩く商店街。
けれど、最近は少し違う。
どのお店に行っても、話題の中心にあるのは、あの言葉だった。
――再開発。
最初は、誰かが聞いたという小さなうわさだった。
それが、いつの間にか商店街のあちこちで話されるようになり、立ち退きという言葉まで聞こえるようになった。
まだ正式な説明を受けた人はいない。
具体的な計画の内容も、どこまで決まっているのかもわからない。
それなのに、人々の心には、少しずつ不安が広がっていた。
*
その日の午後。
ブーランジュリーひだまりでは、いつもより少し早く店じまいの準備が進められていた。
「陽葵ちゃん、今日は商店街の寄り合いがあるから、少し早めに上がってもらっていいよ」
厨房から溝口さんが声をかけてきた。
「寄り合いですか?」
「ああ。最近の再開発の話について、商店街の人たちで一度集まって話そうということになってね」
「そうなんですね」
私は、手にしていたトレーを棚に戻した。
「マスターも参加するんですか?」
「もちろん。うちも商店街の一員だからね」
「私も行っていいんでしょうか?」
「もちろんだよ。陽葵ちゃんも、この街で働いているんだから」
「ありがとうございます!」
私は笑顔で答えた。
でも、胸の中には少し緊張があった。
商店街の人たちが集まって、再開発について話し合う。
今まで、私はうわさを聞くだけだった。
お客さんの会話や、千尋ちゃんから聞いた話。
マスターの「ここもそうなのかな」という一言。
それぞれの言葉を聞くたびに、不安が大きくなっていた。
今日の寄り合いでは、もう少し具体的な話が出るのだろうか。
何か、新しい情報がわかるのだろうか。
「陽葵ちゃん」
「はい?」
「難しい話も出るかもしれないけど、無理に意見を言わなくてもいいからね」
「はい」
「まずは、みんながどう考えているのか、聞いてみるといい」
溝口さんは、いつもの穏やかな笑顔を見せた。
「この街には、長く暮らしてきた人もいるし、最近ここに来た人もいる。商売をしている人もいれば、住んでいるだけの人もいる。考え方はそれぞれ違うからね」
「……そうですね」
「だからこそ、ちゃんと話をすることが大切なんだと思うよ」
私は、ゆっくりとうなずいた。
「私も、みなさんのお話を聞きたいです」
「そうかい。じゃあ、一緒に行こう」
「はい!」
私はエプロンを外し、帰り支度を始めた。
今日の寄り合いで、何が話されるのか。
まだ、何もわからない。
でも、今までより一歩だけ、この街の未来に近づくような気がしていた。
*
寄り合いの会場は、商店街の奥にある小さな集会所だった。
普段は地域のサークル活動や、町内会の集まりなどに使われている場所だ。
入口には、手書きの紙が貼られていた。
『ひだまり商店街 臨時寄り合い』
その下には、小さく、
『再開発に関する情報共有と意見交換』
と書かれている。
「わあ……。もう、こんなに人が集まってる」
私は、会場の中を見渡した。
長机がいくつも並べられ、その周りに商店街の店主や住民が集まっている。
八百屋のおじさん。
花屋の店主。
和菓子屋のおばあちゃん。
近所に住んでいる人たち。
商店街で長年商売を続けている人たち。
いつもは店先で笑顔を見せている人たちが、今日は少し真剣な表情をしていた。
「あら、陽葵ちゃん!」
声をかけてきたのは、和菓子屋のおばあちゃんだった。
「あっ、こんにちは!」
「今日は来てくれたのね」
「はい。マスターと一緒に来ました」
「そう。若い人の声も大切だからねえ」
おばあちゃんは、私の手を優しく握った。
「この街のこと、これからも一緒に考えていきましょうね」
「はい!」
その言葉に、私は少しだけ心強さを感じた。
会場の前方には、商店街の代表者らしき男性が立っていた。
年齢は五十代くらいだろうか。
普段から商店街の行事を取りまとめている人で、私も何度か顔を見たことがある。
「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます」
その声を合図に、会場のざわめきが少しずつ静まっていく。
「今回、ひだまり地区の再開発に関するうわさが広がっていることを受け、商店街としても、一度情報を整理し、皆さんのご意見を伺いたいと思い、この場を設けました」
代表者は、手元の資料を確認しながら話を続けた。
「まず、最初に申し上げておきます。現時点で、私たちが正式に確認できている情報は限られています。具体的な工事の時期や、対象となる建物、各店舗への影響について、確定した説明を受けたわけではありません」
会場のあちこちから、小さな声が上がった。
「やっぱり、まだわからないのか」
「じゃあ、立ち退きって話は何なの?」
「誰がそんなことを言い始めたんだろうね」
代表者は、手を軽く上げて、皆を落ち着かせた。
「うわさだけで判断するのは避けたいと思います。ただし、再開発という話が出ている以上、私たちも何も知らないままでいるわけにはいきません」
その言葉に、私は小さくうなずいた。
確かなことがわからないからこそ、みんなで情報を共有する必要がある。
それは、私にもよくわかった。
「本日は、まず皆さんが心配していること、残してほしいもの、改善してほしいことなど、率直にお話しいただきたいと思います」
代表者がそう言うと、最前列に座っていた八百屋のおじさんが手を挙げた。
「じゃあ、俺からいいかな」
「はい。お願いします」
おじさんは立ち上がり、少し大きな声で話し始めた。
「俺は、この商店街で三十年以上、店をやっている。昔は今よりもっと店が多くてね。朝から晩まで、人がいっぱい歩いていたもんだ」
「そうだったねえ」
後ろの席から、誰かが相づちを打つ。
「最近は、昔と比べれば人通りも減ったし、空き店舗も増えた。建物だって古くなっている。そこは認めるよ」
おじさんは、少し間を置いた。
「でも、だからって、ここを全部新しくすればいいって話じゃないだろう?」
会場が静かになる。
「ここで商売を続けてきた人間には、それぞれ事情がある。簡単に場所を変えられるわけじゃない。店を移せば、同じようにお客さんが来てくれるとは限らないんだ」
「そうよ!」
すぐに声を上げたのは、前の席に座っていたおばあちゃんだった。
「私だって、この場所でずっと商売してきたんだから!」
おばあちゃんは、机に手を置きながら立ち上がった。
その表情には、いつもの優しい笑顔はなかった。
「うちはね、母の代からここでお店を続けてきたの。若いころから、毎日ここに立ってきたのよ。雨の日も、雪の日も、お客さんが少ない日もね」
「うんうん」
「ここで結婚して、子どもを育てて、孫の顔も見てきた。私の人生のほとんどが、この店と一緒なの」
おばあちゃんの声が、少し震えた。
「それを、ある日突然、出ていってくださいって言われても……。はい、そうですか、なんて言えるわけないでしょう!」
「そうだよ!」
別の女性も声を上げた。
「私たちだって、ここで暮らしているんだから!」
会場の空気が、少しずつ熱を帯びていく。
私は、膝の上で手を握った。
みんな、同じように不安を抱えている。
それぞれに、この街で過ごしてきた時間がある。
その時間を、簡単に手放すことなんてできない。
*
しばらくして、今度は花屋の店主が手を挙げた。
「私も、少し話していいですか?」
「どうぞ」
「私は、再開発そのものに反対というわけではありません」
その言葉に、会場が少しざわついた。
「えっ?」
「どういうこと?」
花屋の店主は、ゆっくりと続けた。
「この商店街の建物が古くなっているのは、私も感じています。うちの店も、雨漏りが心配になることがありますし、設備を直すにも費用がかかります」
「それは、そうだね」
「地震や火災のことを考えたら、安全な街にしていく必要があると思います。歩道も狭いところがあるし、高齢の方や車いすの方が通りにくい場所もあります」
私は、その話を聞きながら、周囲を見回した。
確かに、商店街の中には、古い建物がたくさんある。
歩道が狭く、自転車と歩行者がすれ違うときに気をつけなければならない場所もある。
段差があって、ベビーカーを押す人が困っているのを見たこともある。
安全で、誰もが安心して歩ける街にすることは、大切なことだ。
「だから、街をよくするための話し合いは必要だと思います。でも……」
花屋の店主は、少しだけ声を強くした。
「今までの商店街の良さを、全部なくしてしまうような計画なら、私は賛成できません」
「そうよねえ」
「新しくすることと、今あるものを壊してしまうことは、同じじゃないと思うんです」
その言葉に、私は心の中で何度もうなずいた。
新しくすること。
守ること。
どちらか一つを選ばなければならないのだろうか。
両方を大切にする方法はないのだろうか。
そんなことを考えていた。
*
すると、会場の後ろのほうから、少し大きな声が上がった。
「私は反対です!」
振り返ると、三人のおばあちゃんたちが並んで座っていた。
そのうちの一人が、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、この街で七十年以上暮らしています。ここで生まれて、ここで育って、結婚して、子どもを育てました」
おばあちゃんは、会場を見回した。
「この商店街には、私の知っている顔がたくさんあります。買い物に行けば、誰かが声をかけてくれる。具合が悪そうなら、心配してくれる。重い荷物を持っていたら、手伝ってくれる」
少しだけ、笑顔が戻った。
「私にとっては、ここが家みたいなものなの」
そして、再び真剣な表情になった。
「そんな場所を、簡単に変えてほしくありません」
その言葉に、隣のおばあちゃんも立ち上がった。
「私も反対!」
声は大きくなかった。
でも、はっきりとした言葉だった。
「新しい建物ができたって、今までのお店がなくなったら意味がないでしょう? 私は、八百屋さんでいつもの野菜を買いたいの。花屋さんで季節のお花を選びたいの。和菓子屋さんで、あの子どものころから食べているお饅頭を買いたいのよ」
「そうそう!」
もう一人のおばあちゃんも立ち上がった。
「便利になるのはいいことかもしれない。でも、便利になるために、私たちが長年暮らしてきた場所を失うなんて、納得できないわ!」
会場のあちこちから、拍手が起こった。
「そうだ!」
「私たちの声も聞いてほしい!」
「この街を残して!」
おばあちゃんたちの声が重なった。
その声を聞いて、私は胸が熱くなった。
いつも店先で笑顔を見せてくれるおばあちゃんたち。
パン屋さんで、栗のデニッシュを買ってくれる人。
和菓子屋さんで、いつもお饅頭を選んでいる人。
普段は穏やかに笑っている人たちが、今日はこんなにも強い言葉を口にしている。
それだけ、この街が大切なのだ。
私は、思わず手を握りしめた。
「……私も、残してほしい」
小さくつぶやいた。
隣に座っていた溝口さんが、こちらを見た。
「陽葵ちゃん?」
「……この街を、残してほしいです」
溝口さんは、何も言わずにうなずいた。
*
会場の熱気が少し落ち着いたころ、今度は若い男性が手を挙げた。
「僕は、この街に引っ越してきて、まだ三年くらいです」
彼は、少し緊張した様子で立ち上がった。
「正直、昔からの人たちの思い出や歴史を、全部わかっているわけではありません」
会場の人たちは、静かに耳を傾けている。
「でも、この商店街が好きで、ここに住むことを決めました。駅から少し歩くけど、買い物をするときに店の人が声をかけてくれる。近所の人たちと自然に挨拶できる。そういうところが気に入ったんです」
「ありがとうねえ」
前の席のおばあちゃんが、優しく声をかけた。
「だから、再開発で街が便利になること自体は、悪いことではないと思います。防災の面でも、歩道の面でも、改善できるところはあると思う」
彼は、少し言葉を探した。
「でも、今の商店街の良さを残せないなら、僕は寂しいです。新しい建物ができても、そこに今の人たちがいなければ、同じ街とは言えない気がします」
その言葉に、私ははっとした。
長年住んでいる人だけではない。
最近、この街に来た人たちも、ここを好きになっている。
街の歴史を知らなくても、ここで暮らす人たちと出会い、日々を重ねていくことで、新しい思い出が生まれている。
この街を守りたいと思う理由は、人それぞれなのだ。
*
次に、商店街の代表者が、皆に向かって話し始めた。
「皆さんのお話を聞いて、改めて感じました。再開発に対して、いろいろな考え方があるということです」
代表者は、手元の資料を置いた。
「安全性や建物の老朽化を考えると、改善が必要な部分はあるでしょう。一方で、今の商店街の暮らしや、人と人とのつながりを失いたくないという声も、よくわかります」
「じゃあ、どうするんですか?」
誰かが尋ねた。
「まずは、計画について正式な情報を確認する必要があります。対象となる区域はどこなのか。どのような整備を考えているのか。店舗や住民への影響はあるのか。そうした点を、きちんと確認しなければなりません」
「説明会は開かれるんですか?」
「現時点では、私たちのところに具体的な案内は届いていません。ただ、関係する窓口に問い合わせを行い、説明を求めることはできると思います」
「それなら、早く動いてほしい!」
「そうよ。うわさだけが広がって、みんな不安になっているんだから!」
再び、会場に声が広がった。
代表者は、何度もうなずいた。
「わかりました。商店街として、情報の確認を進めます。また、皆さんの意見も整理して、必要であれば関係者に伝えていきたいと思います」
「私たちの意見を、ちゃんと聞いてもらえるんでしょうね?」
先ほどの年配のおばあちゃんが、強い口調で尋ねた。
「はい。そのためにも、皆さんの声を記録しておきたいと思います」
「じゃあ、反対だっていう意見も、ちゃんと書いてくださいね」
「もちろんです」
「私は、今のお店を残してほしい!」
「私も!」
「私たちの暮らしを守ってほしい!」
おばあちゃんたちの声が、また会場に響いた。
私は、その様子を見ながら、胸の中に一つの思いが生まれているのを感じた。
今まで、私はただ、商店街が好きだった。
そこにあるお店が好きで、そこで働く人たちが好きで、毎日の景色が好きだった。
でも、好きだと思うだけでは、何も守れないのかもしれない。
この街で暮らす人たちが、どんな未来を望んでいるのか。
何を残したいのか。
何を変えてもいいと思っているのか。
それを、ちゃんと考える必要がある。
私は、膝の上で手を握りしめた。
*
寄り合いが終わりに近づいたころ、溝口さんが静かに立ち上がった。
「私からも、一つ話をさせてください」
会場の視線が集まる。
溝口さんは、少しだけ咳払いをした。
「私は、商店街でパン屋をやっています。ブーランジュリーひだまりの溝口です」
「ああ、パン屋さんね」
「いつもおいしいパンをありがとう」
何人かが笑顔で声をかけた。
溝口さんは、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。私は、この店を長く続けてきました。毎朝パンを焼いて、お客さんを迎えて、また次の日もパンを焼く。その繰り返しです」
彼は、少しだけ会場を見回した。
「この店には、毎日来てくださるお客さんがいます。家族のためにパンを買う人。仕事へ行く前に立ち寄る人。子どもが学校帰りに好きなパンを買いに来ることもあります」
私は、溝口さんの横顔を見つめた。
「そういう人たちとのつながりは、建物が新しくなったからといって、簡単に同じ形で続けられるものではありません」
会場は静かだった。
「もちろん、安全に暮らせる街にすることは大切です。建物の老朽化や防災の問題を、無視していいとは思っていません」
溝口さんは、そこで少し言葉を切った。
「でも、街をよくするというのなら、そこに暮らす人たちの毎日も、よくしてほしいんです」
私は、息をのんだ。
「新しい建物をつくることだけが、街をよくすることではないと思います。今あるお店や、そこで働く人たち、毎日買い物に来てくれる人たち。その人たちが安心して暮らし続けられることも、大切なことではないでしょうか」
「そうだねえ」
誰かが小さくうなずいた。
「私は、この店を続けたいと思っています。でも、それだけを主張したいわけではありません。安全にするために必要なことがあるなら、きちんと考えたい」
溝口さんの声は穏やかだった。
「ただ、私たちの声を聞かないまま、私たちの暮らしが決められてしまうことだけは、避けてほしいんです」
会場に、静かな拍手が広がった。
私は、胸がいっぱいになった。
あのときの言葉。
『この店もそうなのかな』
あれは、ただ店がなくなることを心配していた言葉ではなかったのだ。
この店を大切にしてきた人たちの暮らしを、守りたいという気持ちがあったのだ。
私は、溝口さんの背中を見つめた。
いつもはパンを焼いている、優しいマスター。
その人が、今日はこんなにも真剣に、自分の思いを言葉にしている。
私は、目頭が熱くなった。
*
寄り合いが終わり、会場の人たちが少しずつ帰り始めた。
入口付近では、何人かのおばあちゃんたちが集まって話していた。
「私は絶対に反対よ」
「私だってそうよ。あの店がなくなるなんて考えられないわ」
「でも、まだ何も決まっていないんでしょう?」
「だからこそ、今のうちに声を上げないといけないのよ」
その声を聞きながら、私は靴を履いた。
「陽葵ちゃん」
振り返ると、先ほど発言していたおばあちゃんが立っていた。
「あっ、こんにちは」
「今日は来てくれてありがとうね」
「いえ、こちらこそ。いろいろなお話を聞けて、よかったです」
「若い人にも、この街のことを考えてもらえると嬉しいわ」
「私も、この街が大好きですから」
「そう言ってくれると、心強いねえ」
おばあちゃんは、私の手を握った。
「私たちも、ただ反対って言いたいだけじゃないのよ」
「……はい」
「安全に暮らせることは大切だし、便利になるのも悪いことじゃない。でもね、今まで大切にしてきたものを、何も聞かずに変えられるのは嫌なの」
おばあちゃんは、ゆっくりと続けた。
「私たちが何を大切にしているのか、ちゃんと知ってほしいのよ」
「……わかります」
「この街にはね、長い時間があるの。その時間を、これからの人たちにも残したいの」
私は、深くうなずいた。
「私も、そう思います」
「ありがとうね」
おばあちゃんは、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、私は思った。
この街の未来は、まだ決まっていない。
でも、今ここにいる人たちが、何も考えていないわけではない。
それぞれに大切なものがあり、それぞれに守りたいものがある。
その声を、ちゃんと届けなければならない。
*
集会所を出ると、外はすっかり夕方になっていた。
商店街の街灯が、一つ、また一つと灯り始めている。
「陽葵ちゃん、帰ろうか」
溝口さんが声をかけてきた。
「はい」
二人で商店街の通りを歩き始める。
いつもなら、仕事の話や今日の売れ行きの話をするところだ。
でも、今日は少し違った。
「マスター」
「ん?」
「今日のお話、すごく心に残りました」
「そうかい?」
「はい。私、今まで再開発って聞いても、どうしたらいいのか全然わからなくて」
「うん」
「新しくすることも必要かもしれないし、でも、今の街も残してほしいし……。どっちが正しいのか、わからなくなっちゃって」
溝口さんは、歩きながら静かに答えた。
「どちらか一つが正しい、という話でもないんだろうね」
「……はい」
「安全にすることも大切。今までの暮らしを守ることも大切。だからこそ、どうすれば両方を大切にできるのか、考えなきゃいけないんだと思うよ」
「両方を……」
「ああ。簡単じゃないだろうけどね」
溝口さんは、少し笑った。
「難しいことを考えるのは、専門家の仕事かもしれない。でも、ここで暮らす人たちが何を望んでいるかを伝えるのは、私たちにもできることだよ」
私は、その言葉を心に刻んだ。
ここで暮らす人たちが、何を望んでいるのか。
その声を伝える。
それなら、私にも何かできるかもしれない。
「マスター。私も、できることを考えてみます」
「そうかい。無理はしなくていいけどね」
「はい。でも、この街のことだから」
私は、商店街を見回した。
「私も、ちゃんと考えたいです」
溝口さんは、優しくうなずいた。
*
家に帰ると、リビングの明かりがついていた。
律は、まだ帰っていない。
私は鞄を置き、コートを脱いだ。
テーブルの上には、朝に置いたままのメモがある。
そして、その隣には、律が以前仕事から持ち帰った資料の控えが置かれていた。
私は、その紙を見つめた。
そこに書かれている文字。
『ひだまり地区 再開発計画 概要書』
やっぱり、気になる。
今日の寄り合いで、みんなが話していたこと。
商店街のおばあちゃんたちの反対の声。
マスターの思い。
安全な街にしたいという願い。
今の暮らしを失いたくないという願い。
それらを聞いた今、私はますます、律の仕事について知りたいと思った。
もし、律がこの計画に関わっているのなら。
どんな立場で、どんな仕事をしているのだろう。
商店街の人たちの声を、知っているのだろうか。
それとも、まだ何も知らないのだろうか。
私は、スマートフォンを取り出した。
律とのメッセージ画面を開く。
『ダーリン、今日ね、商店街の寄り合いに行ってきたよ』
そこまで打って、少し考えた。
今日は、聞いてみよう。
少しだけでも、話してみよう。
私は、続けて文字を打った。
『再開発の話が出ていて、みんな心配してた。マスターも、おばあちゃんたちも、この街を大切に思ってるんだね』
送信ボタンを押す。
既読は、すぐにはつかなかった。
私はスマートフォンを置いた。
そして、ペンちゃんをソファから抱き上げた。
「ねえ、ペンちゃん」
ぬいぐるみの丸い目を見つめる。
「今日ね、商店街のみんなが、いっぱいお話ししていたんだよ」
私は、少しだけ笑った。
「みんな、この街が好きなんだって。ずっとここで暮らしたいんだって」
ペンちゃんを抱きしめる。
「私もね、この街を残してほしいなって思った」
そのとき、スマートフォンが震えた。
律からの返信だった。
『そうか。今日は寄り合いだったんだな。みんなの話を聞けてよかったね』
短い文章。
でも、私はその文字を何度も読み返した。
みんなの話を聞けてよかったね。
その言葉だけでは、何もわからない。
律がどこまで知っているのか。
何を考えているのか。
まだ、わからない。
私は、少し迷ってから、もう一度メッセージを送った。
『うん。みんなの声をちゃんと届けたいね』
送信。
しばらくして、律から返事が届いた。
『そうだな』
たった一言。
私は、その画面をじっと見つめた。
……ダーリン。
あなたは、何を考えているの?
私は、スマートフォンを胸元に抱きしめた。
聞きたい。
でも、まだ聞けない。
今日、寄り合いで聞いた言葉を、律に伝えたい。
でも、伝えたあとに、どんな返事が返ってくるのかが怖い。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「……いつか、ちゃんと話そうね」
その言葉は、誰に向けたものだったのだろう。
律に?
それとも、自分自身に?
*
夜遅く。
玄関の鍵が開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい、ダーリン♡」
私は、いつものように玄関へ向かった。
律は、少し疲れた顔をしていた。
「今日は遅かったね」
「ああ。少し仕事が長引いた」
「お疲れさま。ご飯、温めるね」
「ありがとう」
私はキッチンへ向かおうとした。
そのとき、律が声をかけてきた。
「陽葵」
「ん?」
「今日の寄り合い、どうだった?」
私は振り返った。
「……うん。みんな、いろいろ話してたよ」
「そうか」
「おばあちゃんたちは、今の商店街を残してほしいって。マスターも、パン屋さんを続けたいって言ってた」
「……そうなんだな」
「でも、安全な街にすることも大切だっていう人もいてね。古い建物や狭い道のことも、ちゃんと考えなきゃいけないって」
律は、黙って聞いていた。
「だから、みんなで情報を確認して、意見を伝えていこうって話になったの」
「そうか」
「ダーリンは、どう思う?」
私は、思い切って聞いてみた。
律は、少しだけ視線を落とした。
「どう、とは?」
「街を新しくすることと、今の街を残すこと。どっちも大切だと思う?」
律は、すぐには答えなかった。
数秒の沈黙。
それから、静かに口を開いた。
「どちらか一つだけを考えればいい、という話ではないと思う」
「……うん」
「安全に暮らせることは大切だし、そこで暮らしている人たちの生活も大切だ。建物を新しくするなら、そこで生活する人たちのことを考えなければ意味がない」
その言葉に、私は少し驚いた。
律らしい答えだった。
「そっか……」
「ああ」
「じゃあ、今のお店の人たちのことも?」
「当然だよ」
律は、私を見た。
「街を使うのは、建物を設計する人間じゃない。そこで暮らす人や、働く人、訪れる人たちだ。そこを忘れてはいけないと思う」
私は、その言葉を聞いて、少しだけ安心した。
でも、同時に、胸の奥に別の疑問が生まれた。
律は、どうしてそんなに具体的に話せるのだろう。
まるで、この計画について、何かを知っているような。
私は、思わず口を開いた。
「ダーリン……」
「ん?」
「最近のお仕事って……」
そこまで言った。
けれど、律の表情を見て、また言葉が止まった。
律は、何かを考えているようだった。
疲れているだけなのかもしれない。
仕事のことを、まだ話せないのかもしれない。
私は、結局、笑顔を作った。
「……大変そうだね」
「まあ、少しな」
「無理しないでね」
「ああ。ありがとう」
私は、律の手をそっと握った。
今は、これでいい。
でも、いつかはちゃんと聞きたい。
あなたの仕事が、この街とどうつながっているのか。
そして、あなたが何を考えているのか。
私は、律の手を握ったまま、心の中でそう思った。
窓の外では、冷たい風が吹いていた。
ひだまり商店街の灯りは、少しずつ消えていく。
それでも、あの街には、明日も人々の暮らしがある。
守りたい人たちがいる。
残したい思い出がある。
そして、その未来をめぐって、まだ誰も知らない大きな計画が動き始めていた。
第4節:お弁当を届けた日、ダーリンの曇った顔
朝、目を覚ましたとき、隣のベッドはもう空いていた。
「……あれ?」
陽葵は枕元の時計に目を向けた。
午前六時四十分。
いつもなら、律が起きる気配で目を覚ますこともある時間だ。けれど今日は、隣から聞こえるはずの衣擦れも、洗面所の水音も、ほとんど覚えていない。
ベッドから起き上がり、寝室のドアをそっと開ける。
リビングには、すでにスーツ姿の律がいた。
テーブルの上にはノートパソコンと書類が広げられ、片手にはマグカップ。コーヒーを飲みながら、画面を真剣に見つめている。
「ダーリン、おはよう♡」
「おはよう。起こしたか?」
「ううん。自然に目が覚めたの。……って、ダーリン、もうお仕事?」
「ああ。少し確認したいものがあってな」
「朝ごはんは?」
「あとで食べる」
「あとでって、いつ?」
「出る前には」
「それ、信用できない答えだよ?」
陽葵が頬を膨らませると、律はパソコンから目を離して、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、今食べる」
「よろしい♡」
陽葵はキッチンへ向かい、冷蔵庫から昨夜のうちに用意しておいたサラダとヨーグルトを取り出した。
トースターにパンを入れ、温めたスープを器に注ぐ。
律の朝食を並べていると、彼が書類をまとめる音が聞こえた。
「最近、朝も早いね」
「ちょっと立て込んでるんだ」
「夜も遅いし、休日もパソコンを開いているし……ダーリン、ちゃんと休めてる?」
「大丈夫だよ」
律はそう答えた。
いつもと同じ、落ち着いた声。
けれど、陽葵には少しだけ違って聞こえた。
以前の律なら、忙しいときでも「今週を乗り切れば少し落ち着く」とか、「この作業が終われば大丈夫」と、もう少し具体的に話してくれた。
最近は、何を聞いても「大丈夫」「ちょっと忙しい」「あと少し」。
それ以上の言葉が続かない。
「ねえ、ダーリン」
「ん?」
「今日のお昼、ちゃんと食べてね」
「ああ」
「コンビニのおにぎり一個で済ませたりしちゃダメだよ?」
「そんなことはしてない」
「本当?」
「本当」
「じゃあ、証拠を見せてもらおうかな」
「昼食の写真でも送ればいいのか?」
「そうそう♡」
「監視されてるみたいだな」
「新妻による健康管理です!」
陽葵が胸を張ると、律は小さく息を漏らした。
「わかった。努力する」
「努力じゃなくて、食べるの!」
「はいはい」
いつものやり取り。
いつもの朝。
それなのに、律が出勤の準備をしている間も、陽葵の胸の奥には小さな引っかかりが残っていた。
玄関で靴を履く律に、陽葵は後ろから声をかけた。
「ダーリン」
「何?」
「今日も遅くなりそう?」
「たぶん、少し」
「そっか……」
「夕飯は先に食べていていいから」
「うん。でも、待ってるかもしれないよ?」
「無理はするな」
「ダーリンもね」
律は振り返り、陽葵の頭にそっと手を置いた。
「行ってくる」
「いってらっしゃい♡」
ドアが閉まる。
陽葵はしばらく玄関に立ったまま、閉じたドアを見つめていた。
そして、ふと思い出す。
数日前の商店街の寄り合い。
古い建物の安全性を心配する人。今の店を失いたくない人。新しく住み始めた人。みんな、それぞれの立場で街の未来を考えていた。
あのとき、律は言った。
『新しくすること自体が悪いわけじゃない。ただ、そこに暮らしている人や、働いている人のことを考えないと意味がない』
あの言葉を口にしたときの律の表情を、陽葵は覚えている。
少し遠くを見るような、何かを考え込んでいる顔だった。
「……ダーリン、何を考えてるんだろう」
小さくつぶやいても、返事はない。
陽葵は気持ちを切り替えるように、ぱん、と両手を合わせた。
「よし! 今日は新妻パワー全開でいこう!」
そう言って、キッチンへ戻った。
いつもより少しだけ、丁寧にお弁当を作ろうと思った。
* * *
午前中、陽葵は「ブーランジュリーひだまり」の店頭に立っていた。
「いらっしゃいませ!」
焼きたてのパンの香りが店内に広がる。
カレーパンを買いに来る常連のおじいさん。食パンを予約していく近所の主婦。学校帰りに菓子パンを選ぶ高校生。
いつもと変わらない商店街の日常が、そこにはあった。
「陽葵ちゃん、今日も元気だねえ」
「はい! 元気だけが取り柄ですから♡」
「そんなことないよ。いつもお店を明るくしてくれて助かってるよ」
常連の女性にそう言われ、陽葵は照れくさそうに笑った。
店の奥では、溝口マスターが新しいパンの焼き上がりを確認している。
「マスター、おはようございます!」
「おはよう。今日は朝から張り切ってるね」
「実は、ちょっと計画があるんです」
「計画?」
「はい。ダーリンにお弁当を届けようと思って!」
陽葵が嬉しそうに話すと、マスターは手を止めた。
「律くんに?」
「最近、残業が増えているんです。朝も早いし、夜も遅いし……。ちゃんとご飯を食べているか心配で」
「そうか。あの子も忙しいんだな」
「はい。だから今日は、愛情たっぷりのお弁当を作って、仕事場まで届けちゃおうかなって」
「いいじゃないか」
マスターは穏やかに笑った。
「誰かが自分のことを気にかけてくれている。それだけでも、仕事の疲れは違うものだよ」
「ですよね!」
「ただし、押しつけにならないようにな。忙しいときは、相手にも事情がある」
「わかっています。ちゃんと確認してから届けます!」
「それなら安心だ」
陽葵は胸の前で両手を握った。
お弁当を作ることが、こんなにも楽しみになるなんて。
結婚する前は、誰かのために毎日料理を作る生活など、まだ遠い未来のことだと思っていた。
けれど今は、律が喜ぶ顔を想像するだけで、自然と頬が緩んでしまう。
「マスター、今日のおすすめパンは何ですか?」
「栗あんぱんだよ。秋だからね」
「わあ! それ、ダーリンも好きそう!」
「一つ持っていくかい?」
「いいんですか?」
「もちろん。お弁当のあとに食べてもらいなさい」
「ありがとうございます!」
陽葵は、ますますやる気になった。
昼前、仕事の区切りがついたところで、陽葵はマスターに声をかけた。
「マスター、少し早めに休憩をいただいてもいいですか?」
「いいよ。律くんのところへ行くんだろう?」
「はい! お弁当を届けてきます!」
「気をつけて行っておいで」
「行ってきます!」
陽葵はロッカーから小さな保冷バッグを取り出した。
中には、朝から用意したお弁当。
卵焼き、鶏の照り焼き、ブロッコリー、ミニトマト、きんぴらごぼう。ご飯には小さな梅干しを一つ。
彩りも栄養も考えた、陽葵なりの自信作だ。
さらに、マスターからもらった栗あんぱんを別の袋に入れた。
「ふふっ。ダーリン、喜んでくれるかな」
保冷バッグを持ち上げ、陽葵は店を出た。
* * *
律の勤める設計事務所は、商店街から少し離れたビルの三階にある。
以前、一度だけ訪れたことがあった。
そのときは、律が仕事場を案内してくれた。壁には建築写真や模型が並び、机の上には図面や資料が整然と置かれていた。
陽葵にとっては、普段見ることのない世界だった。
建物を作る仕事。
ただ壁や屋根を組み立てるのではなく、そこに住む人や、そこで働く人の暮らしを考える仕事。
律が学生のころから夢中になっていたものだ。
「ここだよね」
ビルの入口で確認し、陽葵はエレベーターに乗った。
三階に到着すると、廊下の奥に事務所の看板が見えた。
ドアの前で一度、髪を整える。
少しだけ緊張する。
仕事中の律を見るのは、家で見る律とは違うからだ。
「よし……」
小さく息を吸い、受付のインターホンを押した。
『はい』
「あの、こんにちは。星野律の妻の陽葵です。お弁当を届けに来ました」
『ああ、陽葵さん。少々お待ちください』
しばらくすると、事務所のドアが開いた。
出てきたのは、律と同じ事務所で働く男性だった。
「こんにちは。律くんの奥さんですね」
「はい。いつもお世話になっています」
「こちらこそ。律くん、今ちょっと打ち合わせ中なんですが、声をかけてきますね」
「ありがとうございます」
男性は奥へ戻っていった。
ドアの隙間から、事務所の様子が少し見える。
何人かの社員が机に向かい、パソコンの画面や大きな図面を見つめている。
壁際には建物の模型が置かれていた。
その光景を眺めていると、奥から聞き慣れた声が聞こえた。
「陽葵?」
「あっ、ダーリン!」
律が姿を現した。
シャツの袖を少しだけまくり、片手には書類を持っている。
いつもより髪が乱れているように見えた。
「どうしたんだ?」
「お昼ごはんを届けに来ました♡」
陽葵は保冷バッグを持ち上げた。
「朝、ちゃんと食べてねって言ったでしょう?」
「言われたな」
「でも、ちゃんと食べているか心配になっちゃって」
「わざわざ来てくれたのか」
「うん。お仕事の邪魔じゃなかった?」
「大丈夫だよ。ちょうど休憩に入ろうと思っていたところだ」
そう言って律は笑った。
けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
目の下には薄い疲れが見える。
いつもなら、陽葵の顔を見たとき、もう少し自然に表情が緩むはずだった。
「ダーリン、疲れてる?」
「少しだけな」
「少しだけ?」
「少しだけ」
「……本当かなあ」
陽葵が顔を覗き込む。
律は視線をそらすように、手元の書類をまとめた。
「せっかく来てくれたんだ。少し休憩するよ」
「うん!」
律に案内され、陽葵は事務所の休憩スペースへ向かった。
* * *
休憩スペースの小さなテーブルに、陽葵はお弁当を並べた。
「じゃーん!」
保冷バッグから取り出したお弁当箱を開く。
「今日のメニューは、ダーリンの好きなものを集めてみました!」
「おお」
「卵焼きは甘め。鶏の照り焼きは、ちょっとだけ生姜を効かせてあるよ。ブロッコリーとトマトも入れて、彩りもばっちり!」
「ありがとう」
「それから、これはマスターからのおすそ分け。栗あんぱんだよ」
「溝口さんが?」
「うん。秋のおすすめなんだって」
「あとでお礼を言っておくよ」
「うん。あ、食べる前に写真撮ろう!」
「写真?」
「そう! 新妻特製のお弁当記念日!」
陽葵はスマートフォンを取り出し、お弁当と律を一緒に撮ろうとした。
「ダーリン、もう少しこっちに寄って」
「こうか?」
「うん。笑って♡」
「……」
「ダーリン?」
「笑ってるつもりだ」
「それは、ちょっと難しい問題です」
陽葵は思わず吹き出した。
律も小さく笑う。
ようやく、いつもの二人の空気が戻ってきたように感じた。
「じゃあ、いただきます!」
「いただきます」
律は卵焼きを一口食べた。
「おいしい」
「本当?」
「ああ。ちょうどいい甘さだ」
「やった!」
陽葵は嬉しそうに身を乗り出した。
「鶏の照り焼きは?」
「これもおいしい」
「きんぴらは?」
「うん」
「全部おいしい?」
「全部おいしいよ」
「えへへ。よかった♡」
陽葵は自分のお弁当も取り出し、律の向かいに座った。
二人で食べる昼食。
家では当たり前の光景なのに、仕事場で一緒に食べると、少し特別な時間に思えた。
「そういえば、ダーリン」
「ん?」
「この前の商店街の寄り合い、覚えてる?」
「ああ」
「みんな、いろんなことを考えていたよね」
「そうだな」
「古い建物が心配っていう人もいたし、今のお店を続けたいっていう人もいたし……。私、あの話を聞いてから、街のことを前より考えるようになったんだ」
「うん」
「商店街って、ただお店が並んでいるだけじゃないんだよね。おばあちゃんたちの思い出もあるし、毎日買い物に来る人の生活もあるし」
「そうだな」
「でも、安全に暮らせることも大切だと思う。地震や火事が起きたときに、危ない場所があるなら、ちゃんと考えないといけないもんね」
「……そうだな」
律の箸が止まった。
ほんの一瞬だったが、陽葵は気づいた。
「ダーリン?」
「ん?」
「どうかした?」
「いや。陽葵の言うとおりだと思って」
律はそう答え、再び箸を動かした。
けれど、その表情はさっきよりも曇っていた。
陽葵は、何かを聞こうとした。
商店街の再開発のこと。
律が最近、何を考えているのか。
仕事が忙しい理由。
けれど、言葉が出てこなかった。
今ここで聞いてしまったら、律は答えに困るかもしれない。
仕事のことを簡単に話せない事情だってあるだろう。
それに、せっかく届けたお弁当の時間を、問い詰めるような時間にしたくなかった。
「……ねえ、ダーリン」
「何?」
「今日の夜も遅くなりそう?」
「まだわからない。たぶん、遅くなると思う」
「そっか」
「夕飯は先に食べていてくれ」
「うん。でも、ちゃんと帰ってきてね」
「帰るよ」
「お仕事が終わったら、まっすぐ?」
「できるだけな」
「できるだけじゃなくて、まっすぐ!」
「わかった」
陽葵は笑顔を作った。
「じゃあ、帰ってきたら、栗あんぱんの感想を聞かせてね」
「ああ」
「あと、お弁当箱は洗わなくていいからね。持って帰ってきてくれれば大丈夫」
「それくらいは自分で洗うよ」
「いいの。今日は私が届けたかったんだから」
「ありがとう」
律は、少しだけ優しい顔になった。
その表情を見て、陽葵はほっとした。
やっぱり、来てよかった。
少しでも律の疲れが和らいだなら、それだけで十分だと思った。
* * *
昼食を終えると、律はお弁当箱を片づけた。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした♡」
「本当においしかったよ」
「えへへ。次は何を作ろうかな」
「無理しなくていいからな」
「無理じゃないよ。私が作りたいんだもん」
「そうか」
「ダーリンが喜んでくれると、私も嬉しいの」
律は、少し困ったように笑った。
「陽葵」
「なあに?」
「ありがとう」
「どういたしまして♡」
そのとき、事務所の奥から声がした。
「律くん、さっきの資料なんだけど、少しいいかな?」
「ああ、今行きます」
律は返事をし、書類を手に取った。
「もう戻らないと」
「うん。お仕事頑張ってね」
「ああ。気をつけて帰るんだぞ」
「はーい!」
陽葵は保冷バッグを持ち、休憩スペースを出た。
律が事務所の入り口まで送ってくれる。
「じゃあ、また夜ね」
「うん。待ってる」
「無理して待たなくていいからな」
「それは帰ってくる時間によります!」
「そうか」
「ダーリン♡」
「ん?」
「こっち見て!」
律が振り返る。
陽葵は両手で小さなハートを作った。
「お仕事、頑張ってね。応援してるよ♡」
律は少し驚いたあと、口元を緩めた。
「ああ。頑張る」
「よし!」
その笑顔を見てから、陽葵は事務所を後にした。
けれど、エレベーターに乗り込む直前、ふと振り返ると、律はすでに机へ戻っていた。
その背中が、いつもより小さく見えた。
* * *
陽葵が帰ったあと、律は自分の席に戻った。
「奥さん、料理上手ですね」
同僚が声をかけてきた。
「ありがとう。助かったよ」
「わざわざ届けに来てくれるなんて、仲がいいですね」
「まあな」
「いいなあ。うちなんて、最近は帰っても寝ているところしか見ていないですよ」
「それはお互い様じゃないか?」
「確かに」
二人は短く笑った。
同僚は机の上の資料を指さした。
「それで、午後の確認なんですが」
「ああ。見ておく」
律は書類を受け取り、ページをめくった。
そこには、複数の検討事項が記されていた。
建物の状態。周辺道路。防災面の課題。人の流れ。既存の施設との関係。
どれも簡単に結論を出せるものではない。
机の端には、まだ整理しきれていない資料の束がある。
律はその一つを手に取った。
ページをめくる指が止まる。
頭の中に、陽葵の言葉が浮かんだ。
『商店街って、ただお店が並んでいるだけじゃないんだよね』
そして、寄り合いで聞いた人々の声も。
『この店を続けたいんです』
『安全に暮らせる街にしたい』
『今までの暮らしを失いたくない』
どれも間違っていない。
どれか一つだけを選べば、簡単に答えが出るというものでもない。
律は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
自分が何を優先すべきなのか。
どこまでできるのか。
何を守り、何を変えるべきなのか。
考えれば考えるほど、答えは遠くなる。
「律くん?」
同僚の声に、律は目を開けた。
「大丈夫ですか?」
「ああ。少し考え事をしていた」
「休憩、もう少し取ってもいいですよ」
「いや、大丈夫だ。続きを確認しよう」
律は再び書類に目を落とした。
机の上に置かれたお弁当箱は、きれいに空になっている。
その隣には、陽葵が持ってきてくれた栗あんぱん。
律はそれを見つめ、静かに息を吐いた。
「……ありがとう、陽葵」
誰にも聞こえない声でつぶやく。
今すぐにでも、すべてを話せたらいい。
けれど、まだ話せない。
決まっていないことを、決まったことのように伝えるわけにはいかない。
自分の中でも整理できていない思いを、陽葵に背負わせたくもなかった。
それでも、何も話さないままでいることが、彼女を不安にさせているのはわかっていた。
嘘はつきたくない。
でも、何をどこまで話せばいいのかがわからない。
律は栗あんぱんをそっと机の端に置き、資料を開いた。
* * *
夕方、陽葵は仕事を終えて帰宅した。
玄関で靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
「ただいまー!」
返事はない。
当然だ。
律はまだ仕事中なのだから。
陽葵は保冷バッグを片づけ、キッチンに立った。
夕飯の準備をしながら、昼間のことを思い返す。
お弁当を食べてくれたときの律の笑顔。
「おいしい」と言ってくれた声。
そして、そのあとに見せた曇った表情。
「……やっぱり、何かあるよね」
陽葵は包丁を置き、窓の外を見た。
商店街の明かりが、一つ、また一つと灯っていく。
夕方の買い物客が行き交い、店先では店主たちが片づけを始めている。
ここには、いつもの暮らしがある。
明日も、明後日も続いてほしいと思う景色がある。
でも、その未来がどうなるのかは、まだ誰にもわからない。
陽葵はスマートフォンを手に取った。
律にメッセージを送る。
『お弁当、全部食べてくれてありがとう♡
栗あんぱんも忘れずに食べてね!
お仕事大変だと思うけど、無理しすぎないでね。
帰りを待ってるよ。大好き♡』
送信すると、すぐに既読がついた。
少しして返信が届く。
『ありがとう。お弁当、本当においしかった。
栗あんぱんもいただいたよ。
もう少しかかりそうだけど、終わったら帰る』
陽葵は画面を見つめ、微笑んだ。
「よかった。ちゃんと食べてくれたんだ」
それだけで、少し安心できた。
けれど、メッセージの短さが気にならないわけではない。
いつもなら、最後に一言くらい冗談を返してくれることもある。
今日はそれがなかった。
陽葵はスマートフォンをテーブルに置いた。
「……今は、待とう」
無理に聞き出すのではなく、律が話せるときまで待つ。
それも夫婦として大切なことなのかもしれない。
そう思いながら、夕飯の支度を続けた。
* * *
その夜、律が帰宅したのは午後十一時を過ぎたころだった。
「ただいま」
「おかえりなさい、ダーリン♡」
陽葵はリビングから玄関へ向かった。
「遅かったね。お疲れさま」
「ああ。ただいま」
「ご飯、温めるね」
「ありがとう。でも、少しだけでいい」
「だめ。少しでも食べて」
「わかった」
律は上着を脱ぎ、手を洗ってから食卓についた。
陽葵が温め直した夕飯を並べる。
「今日はね、野菜たっぷりのスープと、鮭のホイル焼きだよ」
「おいしそうだな」
「昼はお弁当、夜はおうちご飯。ダーリンの健康は私が守ります!」
「頼もしいな」
「任せてください♡」
律はスープを口に運んだ。
温かい湯気が、疲れた顔を包み込む。
「おいしい」
「よかった」
陽葵は向かいに座り、律が食べる様子を見守った。
「ねえ、ダーリン」
「ん?」
「今日、お仕事どうだった?」
「いつもどおりだよ」
「そっか」
それ以上、言葉が続かなかった。
聞きたいことはたくさんある。
でも、律はまだ話したくないのかもしれない。
陽葵は、別の話題を探すように笑った。
「そうだ! 今日、マスターから新しいパンの試作品をもらったんだよ」
「どんなパン?」
「さつまいもとクリームチーズのパン。秋らしくておいしかった!」
「それは気になるな」
「今度、ダーリンにも買ってくるね」
「ああ。楽しみにしてる」
短い会話のあと、律は静かに食事を続けた。
食べ終えると、彼は食器を持って立ち上がった。
「洗い物は私がするよ」
「今日は俺がやる」
「でも、疲れてるでしょ?」
「食べさせてもらったんだから、これくらいはする」
「……じゃあ、一緒にやろう?」
「そうだな」
二人でキッチンに並んだ。
律が食器を洗い、陽葵が拭いて棚に戻す。
何気ない家事の時間。
結婚してから、何度も繰り返してきた日常。
それでも、今日はどこか静かだった。
食器を片づけ終えたあと、陽葵は律の背中にそっと近づいた。
「ダーリン」
「ん?」
「今日、来てよかった?」
「もちろん」
「お弁当、迷惑じゃなかった?」
「そんなわけないだろ」
律は振り返った。
「嬉しかったよ。ありがとう」
「本当?」
「ああ」
「じゃあ、また届けてもいい?」
「仕事の都合が合えばな」
「うん。無理はしないよ」
陽葵は律の胸元に額を寄せた。
「ねえ。私、ダーリンのこと、ちゃんと見ていたいんだ」
「……陽葵?」
「忙しいときも、疲れているときも、元気なときも。いつも一緒にいたいし、ダーリンが何を考えているのかも知りたい」
「……」
「でも、話したくないことまで無理に聞き出したいわけじゃないよ」
律の手が、陽葵の背中に触れた。
「ただね、ひとりで抱え込まないでほしいの」
「……わかってる」
「本当に?」
「ああ」
律は少しだけ間を置いてから、陽葵の髪を撫でた。
「心配をかけて悪い」
「謝らなくていいよ」
「もう少ししたら、ちゃんと話す」
その言葉に、陽葵は顔を上げた。
「……うん」
「今は、まだ整理できていないことが多いんだ」
「そっか」
「嘘はつきたくない。でも、確かなことを話せる段階でもない」
律は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「だから、もう少しだけ時間をくれないか」
陽葵は律の目を見つめた。
そこには、疲れだけではない何かがあった。
迷い。
責任。
そして、誰かを傷つけたくないという思い。
それが何に向けられているのか、陽葵にはまだわからない。
けれど、律が苦しんでいることだけは伝わってきた。
「うん。待ってる」
「ありがとう」
「でも、ダーリン」
「何?」
「一人で悩むのは禁止です」
「難しいことを言うな」
「難しくても禁止!」
「わかった」
「あと、ちゃんと寝ること!」
「努力する」
「努力じゃなくて、寝るの!」
律は、ようやくいつものように笑った。
「はいはい」
陽葵は満足そうに頷き、彼の胸に頬を寄せた。
「おやすみの前に、ぎゅーして♡」
「はい」
律は陽葵を抱きしめた。
その腕の温かさに、陽葵は目を閉じた。
何も解決していない。
何も聞けていない。
それでも、今夜はこうして一緒にいられる。
それだけで、少しだけ安心できた。
* * *
深夜。
陽葵が眠ったあと、律はそっとベッドを抜け出した。
リビングの明かりをつけ、テーブルに置いた鞄から資料を取り出す。
仕事を持ち帰るつもりはなかった。
けれど、どうしても確認しておかなければならないことがあった。
資料を広げる。
いくつものページに、建物の写真や周辺環境の情報が並んでいる。
律は一枚ずつ目を通し、ペンで小さく印をつけていった。
その中に、見慣れた風景の写真があった。
商店街の入口。
パン屋の看板。
八百屋の店先。
花屋の前に並ぶ鉢植え。
そして、何度も歩いたことのある道。
律の指が止まる。
「……ここまで来ているのか」
小さくつぶやき、資料を閉じた。
そのとき、寝室のほうからかすかな物音がした。
「……ダーリン?」
眠そうな陽葵の声。
律は慌てて資料をまとめた。
「起こしたか?」
「ううん……。隣にいなかったから」
「ごめん。少し確認していた」
「もう寝よう?」
「ああ。すぐ行く」
陽葵は寝室の入口に立っていた。
眠そうに目をこすりながら、律を見つめている。
「ダーリン、こっち見て」
「見てるよ」
「ううん。ちゃんと、こっち」
律は顔を上げた。
陽葵は小さく笑った。
「おやすみって言いたかったの」
「……おやすみ、陽葵」
「おやすみなさい♡」
律は資料を鞄にしまい、寝室へ戻った。
ベッドに入ると、陽葵はすぐに彼の腕に寄り添った。
「今日はお弁当食べてくれてありがとうね」
「こちらこそ、ありがとう」
「また作るね」
「ああ」
「今度は栗あんぱんも一緒に買ってくる!」
「楽しみにしてる」
陽葵の呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。
律は天井を見つめたまま、眠れずにいた。
商店街の人たちの声。
陽葵の言葉。
そして、机の上に広げた資料。
どれも、簡単には忘れられない。
彼は目を閉じた。
明日も、きっと忙しい。
そして、明日もまた、陽葵は笑顔で「おかえり」と言ってくれるのだろう。
その笑顔を守りたい。
けれど、今の自分に何ができるのか。
まだ答えは見つからなかった。
翌朝。
陽葵は、いつものように律を見送った。
「ダーリン、今日も頑張ってね!」
「ああ。陽葵も仕事、頑張って」
「うん!」
玄関のドアが閉まる。
陽葵は、ふとリビングのテーブルに目を向けた。
昨夜、律が資料を広げていた場所。
きれいに片づけられているはずなのに、テーブルの端に一枚、小さな紙片が残っていた。
拾い上げようとした、そのとき。
スマートフォンが鳴った。
溝口マスターからのメッセージだった。
『陽葵ちゃん、今日の午後、商店街のことで少し話があるんだ。時間があったら店に来てくれるかい?』
「商店街のことで……?」
陽葵は紙片から手を離し、スマートフォンを見つめた。
胸の奥に、また小さな不安が広がる。
律の仕事。
商店街の未来。
そして、昨夜の資料に写っていた見慣れた風景。
それぞれが、少しずつつながり始めている気がした。
けれど、まだ何も確かめられていない。
「……私も、ちゃんと知らなくちゃ」
陽葵は小さくつぶやいた。
大好きな街のこと。
大好きな夫のこと。
どちらも、大切だから。
その日の午後、陽葵はマスターの話を聞くため、商店街へ向かうことにした。
そして、まだ知らないはずの一枚の図面が、二人の距離を少しずつ変えようとしていた。