ダーリン♡こっち見て! ――新妻ひまりの恋する日常記 ――第3章

イメージ曲💕「ダーリン♡こっち見て!」
曲調
ジャンル:キュート・アイドルポップ × City Pop × Funky Pop
テンポ:BPM 124(軽快で跳ねる、恋する日常感)
キー:Gメジャー(明るく甘く、幸福感のある響き)
ビート:4/4、軽快なポップビート+ファンキーな16ビート
編成:エレキギターのカッティング、シンセ、エレピ、ベース、ドラム、タンバリン、クラップ、軽いストリングス
雰囲気:日常×恋人感×甘々×ちょっと照れくさい可愛さ
🎵 歌詞構成
[Intro]
ダーリン……
おはよう♡
……まだ眠いの?
ふふっ♡
ダーリン、こっち見て♡
[Verse 1]
朝のカーテン 開けたら
まぶしい光が 差し込んで
寝ぐせのままの その顔に
今日もキュンって しちゃうんだ♡
「コーヒー飲む?」
「パン焼くね」
そんな毎日が 嬉しくて
特別じゃない 時間ほど
君となら 宝物♡
[Pre-Chorus]
ダーリン ねぇダーリン
聞いてほしいことがあるの
……なんて言おうかな?
やっぱり これしかない♡
[Chorus 1]
ダーリン こっち見て♡
ダーリン こっちこっち♡
目が合っただけなのに
胸がドキドキしちゃうの♡
ダーリン 手をつないで♡
ダーリン もっと近く♡
今日も明日も その先も
ずーっと隣にいてね♡
ダーリン ダーリン
だーい好き♡
ねぇねぇ もう一回言わせて?
ダーリン♡
[Verse 2]
テレビを見てる 横顔を
こっそり見つめて にやけちゃう
お菓子を半分 分けるとき
大きいほうを くれる君♡
「ありがとう」って 言ったあと
ちょっとだけ 肩にもたれて
何気ないこの瞬間が
私には 恋なんだ♡
[Pre-Chorus 2]
ダーリン ねぇダーリン
名前を呼ぶだけで
なんだか心が
ふわっと あったかくなる♡
[Chorus 2]
ダーリン おいで♡
ダーリン こっちだよ♡
たったそれだけなのに
世界がキラキラしちゃう♡
ダーリン ぎゅってして♡
ダーリン 離さないで♡
ケンカしたって 笑ったって
最後は仲直りしよう♡
ダーリン ダーリン
大好きだよ♡
何回言っても 足りないくらい
ダーリン♡
だーい好き♡
[Bridge]
もしも歳を重ねても
今みたいに笑っていたい
朝になったら
「おはよう」って言って
夜になったら
「おやすみ」って言って
当たり前みたいに
君の隣にいたい
……ねぇ、ダーリン。
これからも
よろしくね♡
「ダーリン?」
「なぁに?」
「こっち見て♡」
「見てるよ」
「もっと♡」
「……近いって(笑)」
「だって――」
「ダーリンが大好きなんだもん♡」
[Final Chorus]
ダーリン おはよう♡
ダーリン こっち見て♡
ダーリン こっちこっち♡
今日も一緒に笑おうよ♡
ダーリン 手をつないで♡
ダーリン ぎゅってして♡
嬉しい日も 泣きたい日も
ずっと隣にいるから♡
ダーリン ダーリン
だーい好き♡
何回だって伝えたい
ダーリン ダーリン
愛してる♡
……ちょっと照れるけど♡
ダーリン!
ダーリン!
ダーリン!
だーーーい好き♡♡♡
[Outro]
ダーリン……
今日も楽しかったね♡
明日も一緒に
笑おうね♡
……おやすみ、ダーリン。
だーい好き♡
……ふふっ♡
ダーリン♡
ダーリン♡こっち見て!――新妻ひまりの恋する日常記 ――
長編小説 章構成
【ジャンル】
日常系ラブコメ長編小説(ほっこりホームドラマ×純愛ストーリー)
一話完結型のエピソードを、季節の流れと商店街再開発問題という縦軸でつなぐ「連載型長編」
楽曲「ダーリン♡こっち見て!」の世界観を原案とした小説
【主要登場人物】
①星野陽葵(ほしの ひまり)【主人公】
25歳。結婚半年の新妻。旧姓・小鳥遊(たかなし)
職業:商店街のパン屋「ブーランジュリーひだまり」の店員+、WEBで密かに連載中のイラストエッセイ漫画「ダーリン観察日記」の作者(ペンネーム:ひまワッフル)
性格:明るく愛情深い、夫ラブが行き過ぎて周囲を呆れさせることも。でも根は思いやりが深く、商店街の誰からも好かれる
特技:人の好きなところを即座に見つけること/お菓子の半分こで大きい方を渡すこと
②星野律(ほしの りつ)【もう一人の主人公】
27歳。陽葵の夫。建築設計事務所勤務の建築士
性格:口数少なくクールに見えるが、実は照れ屋で、陽葵の愛の重さ(軽さ)に毎回真っ赤になる
裏設定:大学時代は軽音部でギター担当。今も部屋にギターがあり、陽葵が眠った後にこっそり弾く
物語の鍵を握る存在:ひだまり商店街の再開発プロジェクトの担当に抜擢される
③立花とよ(たちばな とよ)【商店街の大家さん】
78歳。二人が住むアパート「立花ハイツ」の大家さん。商店街の生き字引
若い頃に思いを遂げられなかった恋があり、物語後半の重要人物に
④溝口茂(みぞぐち しげる)【パン屋のマスター】
52歳。「ブーランジュリーひだまり」の主人。妻に先立たれ、男手ひとつで娘を育てた頑固職人
陽葵の働きぶりに目をかける、頼れる父親的存在
⑤溝口千尋(みぞぐち ちひろ)【パン屋の娘】
19歳。大学1年生。父の店を手伝うしっかり者。陽葵を姉のように慕う
⑥桜井美織(さくらい みおり)【陽葵の親友】
25歳。会社員。陽葵の大学時代からの親友。恋愛運に恵まれず、陽葵の新婚ぶりにやきもきしつつ応援する
物語中盤、自身の恋の破局を経験し、陽葵の「幸せの形」に向き合う
⑦星野千夏(ほしの ちなつ)【律の妹】
22歳。就活中の大学生。兄を「お兄ちゃん」と呼んで甘える、家族内いちばんの陽葵派
恋の相談役としてたびたび登場
⑧律の上司・早瀬(はやせ)【設計事務所の所長】
45歳。律の能力を高く評価し、再開発案件を任せる。仕事には厳しいが、家族思い
旅先で出会う人々
温泉旅館「あさひ屋」の若女将・咲月(さつき)とその娘・りお(8歳)
とよさんの故郷・海辺の町で出会う古老たち
【舞台・設定】
舞台:東京都心から電車で30分の郊外、商店街「ひだまり商店街」のそばにある古いアパート「立花ハイツ」
時間軸:結婚半年目の10月(プロローグ)から、結婚1周年を迎える翌年10月までの約1年間
季節:秋→冬→春→夏→秋。各季節の行事(文化祭、クリスマス、正月、桜、梅雨、夏祭り、台風、紅葉)がエピソードの舞台に
世界観:フィクションの商店街だが、どこにでもある昭和レトロな商店街の空気感。地元民との交流、ご近所付き合い、季節の行事が物語の彩り
原案:楽曲「ダーリン♡こっち見て!」(10/5リリース)の歌詞世界――「ダーリン」への様々な表情の呼びかけ、朝の「おはよう」、夜の「おやすみ」、何気ない日常の宝物――を全編の基調として配置
【中心テーマ・メッセージ】
「当たり前」は、実は奇跡――朝の挨拶、一緒に食べるごはん、手をつないで歩く道。ありふれた日常こそが、世界でいちばんの宝物であること
愛は言葉にして伝える――照れても、照れ隠しでも、「大好き」は何回言っても足りない。声に出すから届く
幸せは「守るもの」ではなく「育てるもの」――二人だけの幸せが、商店街の人々、家族、友人との関わりの中で、少しずつ大きくなっていく
変わっていくもの、変わらないもの――街は再開発で変わり、人は歳を重ねる。それでも「朝におはよう、夜におやすみ」と言い合える関係は変わらない
【プロットの全体像】
結婚半年目の秋。新妻・陽葵は夫・律への愛が日々増すばかり。商店街のパン屋で働きながら、WEB漫画「ダーリン観察日記」を密かに連載する、ささやかで幸せな毎日を送っていた。
しかし年末、律の設計事務所が「ひだまり商店街の再開発プロジェクト」を受注。担当になった律は、愛妻が暮らし、働き、大切な人たちがいる街を「変える側」に立ってしまう。立ち退きを恐れる商店街の人々、板挟みになる律、何も知らない陽葵の「ダーリン観察日記」が思いがけず話題になり……。
小さな嘘と照れ隠し、すれ違いと仲直り。正月の実家、雪の温泉旅行、とよさんの50年前の恋の手紙、台風で被災した商店街の復興。二人は数々の出来事を経て、「幸せな日常」が当たり前ではないこと、そしてそれを守り育てるのは自分たち自身だと気づいていく。
結婚1周年の秋。商店街に新たな朝が来て、陽葵は一番好きな言葉を、一番大きな声で叫ぶ――「ダーリン♡こっち見て!」
【サブプロット】
サブプロット1:商店街再開発問題【メイン縦軸】
律が再開発の担当建築士となり、商店街の人々との間で揺れる。小さな店を守りたい地元民と、街の未来を考える設計士。律が導き出す答えは「取り壊す開発」ではなく「みんなの商店街をみんなで作り直す」再生プロジェクト。陽葵の店や人々との絆が、律の設計に魂を吹き込む。
サブプロット2:「ダーリン観察日記」の成長物語
趣味で描き始めたWEB漫画が徐々に話題を集め、書籍化の話まで舞い込む。「旦那好きすぎる新妻」の日常を描く陽葵の筆は、やがて商店街の人々の物語をも描くようになり、作品のテーマが「私のダーリン」から「私たちの大切な日常」へと広がっていく。
サブプロット3:とよさんの50年前の恋
アパートの大家・とよさんが倒れたのを機に、押し入れから出てきた1通の古い手紙。50年前、海辺の町の青年に思いを届けられなかった恋。陽葵と律は、とよさんの足でなくなった「返事」を届ける旅に出る。老いと再生の物語が、若い二人の愛に深い影を落とし、光を添える。
サブプロット4:身近な人々の恋の行方
律の妹・千夏の初恋(応援する陽葵と、過保護になる律のギャップ)
親友・美織の破局と再生(「幸せって何か」を陽葵に問いかける存在)
パン屋の千尋の片想い(陽葵が恋の師匠・律が恋の壁に)
サブプロット5:律のギター
眠った陽葵のためにこっそり弾いていた律のギター。物語の節目に登場し、やがて律が陽葵の前で弾き語る「初めてのコンサート」へ。楽曲「ダーリン♡こっち見て!」の誕生エピソードとして回収。
【備考】
全16章+プロローグ+エピローグ。各章10節、プロローグ1~3節、エピローグ1~3節。計162以上の節。1節5,000字以上で総計80万字以上を想定(調整可)
楽曲の歌詞エピソード(朝シーン、お買物、ケンカと仲直り、温泉旅行、指輪)は第1〜8章に「物語の種」として散種済み。歌詞ファンがニヤリできる配置を保持
章の末尾節には、次章への引き(クリフハンガー)を必ず配置し、連載型の中だるみを防止
陽葵の「ダーリン」の呼びかけは毎章バリエーションを変える(囁き/甘え/元気/照れ/拗ね/涙/笑顔)――楽曲の演出意図を小説でも再現
10月5日の楽曲リリース日に、エピローグで「10月5日」を物語内の記念日として登場させ、現実と物語をリンクさせる仕掛け
【章構成】
プロローグ:ダーリン♡おはよう
・結婚半年目の朝、すべてはここから
・日曜の朝八時十分。カーテンの光、夫の寝顔、囁く「ダーリン……おはよう♡」
・起きない律を観察する陽葵、独り言で溺愛を漏らす「観察日記」の習慣の提示
・朝のキッチン。コーヒーとパン。何気ない朝の宝物
・結婚に至るまでの回想――レコードショップでの出会い、喫茶店のプロポーズ
・結婚半年記念日。喫茶店で渡された、半年間隠された指輪
・記念日の夜、指輪を握って眠る陽葵の独白
・翌朝、新調したエプロンでパン屋へ向かう陽葵
・商店街「ひだまり商店街」の紹介。時代に取り残されたような、でもあたたかい街
・アパート「立花ハイツ」の大家・とよさんの登場。「仲がいいねえ」の一言
・「これからの毎日が、全部宝物になる」――一年分の物語の約束と、章末の予感
第1章:ひだまり商店街へようこそ
秋。新妻、商店街デビュー
1節.パン屋「ブーランジュリーひだまり」の一日。マスター溝口の厳しくも愛ある指導
2節.先輩店員としての千尋。姉妹のような店内の空気
3節.閉店後、商店街の店々が軒を連ねて挨拶に来る。八百屋、魚屋、駄菓子屋の主人たち
4節.帰り道、手をつなぐ二人。「手つないだだけでドキドキするの♡」と陽葵
5節.律の職場紹介。設計事務所の日常、上司・早瀬の「次の案件、お前に任せたい」の予告
6節.夜、律が眠った後のギターの音。陽葵は気づかないふりをしている
7節.週末のイラスト連載「ダーリン観察日記」更新日の裏側。反響はまだ少ない
8節.近所の子どもたちに「お姉ちゃん」と呼ばれ、パンを差し入れされる陽葵
9節.とよさんの部屋に招かれ、昔の商店街の写真を見せてもらう。50年前の面影
10節.商店街の夕暮れ。陽葵「この街のこと、大好きになってきたかも♡」――律の複雑な表情を引きに
第2章:デートの達人(になる!)
秋。恋する新妻、デート攻略計画
1節.陽葵の「デートノート」開封。過去のデートの記録と「次はここ♡」のリスト
2節.水族館デート。ペンギンの前で固まる律。魚の名前を全部言い当てる意外な特技
3節.水族館の帰り、陽葵の「ダーリン、こっち見て♡」攻撃で律が赤面する連続シーン
4節.映画の夜(原案・歌詞Verse 2)。横顔を観察する陽葵、お菓子の半分こ
5節.陽葵の観察日記が掲載サイトで少しだけ話題に。「旦那さんいるのね」とコメント
6節.千夏が遊びに来る。兄の部屋でギターを見つけ、「お兄ちゃんまだ弾いてるの?」
7節.千夏の就活の悩みを聞く陽葵。夜、律が兄妹で語る「親父のこと」
8節.律の父との確執の匂わせ。建築士の父も同じ道だったこと
9節.律の残業が増え始める。夜遅い帰宅、それでも「おやすみ」だけは言い合う二人
10節.律の机の上の書類の束。「ひだまり地区 再開発計画 概要書」の文字が見える――章末の引き
第3章:ダーリンの秘密
秋の終わり。律の仕事の衝撃
1節.陽葵、千尋から「商店街の再開発のうわさ」を聞く。立ち退きの話にざわめく商店街
2節.律に何も聞けないまま、パン屋で働く陽葵。マスターの「ここもそうなのかな」という一言
3節.商店街の寄り合い。テントウに立つおばあちゃんたちの「反対」の声
4節.律の残業はさらに増える。陽葵は弁当を作って事務所へ届けるが、浮かない顔の律
5節.事務所で見てしまった図面。「ひだまり商店街」の文字。陽葵、事情を悟る
6節.律に問い詰めるでもなく、聞けないままの数日。「嘘はつきたくない」律の苦悩
7節.観察日記の更新が止まる。読者からの「最近さみしい」のコメント
8節.やっと二人で向き合う夜。「商店街の担当になった。でも、何も決まってない」
9節.陽葵の葛藤――大好きな街と、大好きな夫。その間で揺れる心
10節.「信じてる。ダーリンなら、絶対にいい街にするもん♡」――陽葵の一言が律に火をつける
第4章:ひまワッフル、急上昇
初冬。観察日記が話題に
1節.更新再開の観察日記「ダーリンの仕事、大変そう」の回。切なくあたたかい回が反響を呼ぶ
2節.アクセス急増。「うちの嫁さんとおんなじだ」という旦那コメントの山
3節.溝口マスターに「お前、あのひまワッフルか」とバレる。商店街中に広まる
4節.律の会社でも話題に。早瀬所長「お前の妻さんの漫画、うちの娘が読んでるぞ」
5節.照れる律、陽葵に「もうちょっとボリューム落とせ」と言うが目は笑っている
6節.千尋が「私も描いてみたい」と絵を描き始める。パン屋に小さな画廊ができる
7節.取材のオファーが来る。地元のフリーペーパーに掲載決定
8節.二人の日常が「作品」になる不思議。陽葵「私の日常、みんなの宝物になる?」
9節.律が再開発の現地調査を開始。商店街の人々のインタビューで見えてくる街の記憶
10節.律のノートに書かれたメモ「この街が変わったら、陽葵は悲しむか?」――葛藤の始まり
第5章:冬のイルミネーション
師走。恋人たちの季節
1節.商店街にクリスマスの飾り付け。みんなでツリーを立てる恒例行事
2節.イルミネーションデート。都心の夜景を見下ろす丘で「ダーリン、ぎゅってして♡」
3節.律のプレゼント選びに付き合う千夏。「兄の喜ぶものランキング」を作る妹
4節.陽葵へのプレゼントを探す律の迷走。商店街の店を回って悩む一晩
5節.美織登場。恋人との関係がうまくいかない様子。「あんたたち見てると惨めになる」
6節.美織の恋人との修羅場。呼び出された陽葵、深夜のファミレスで聞く本音
7節.「幸せって、あんたみたいに全面から来るものじゃないのよ」――美織の寂しい恋の理屈
8節.クリスマスイブ。パン屋のケーキ予約で大忙し。律は仕事、それでも23時59分に帰宅
9節.24時、間に合ったクリスマス。手作りのケーキと、小さな箱のプレゼント
10節.律の贈り物は「二人の写真のオルゴール」。鳴る旋律は、律が弾くあの曲――陽葵、初めて気づく
第6章:初めての大ゲンカ
年末。すれ違いと仲直り
1節.年末年始、律の仕事は佳境。再開発の初回提案が年明けに決定
2節.大晦日の準備をひとりでする陽葵。寂しさを紛らわせる観察日記
3節.大晦日、律は事務所へ。ひとりで年越しそばをすする陽葵
4節.美織から届く「彼と別れた」の短信。幸せな自分が急に申し訳なくなる
5節.年明け早々、初めての本気の大ゲンカ。「もういい」の言葉を初めて言ってしまう
6節.別々の部屋で過ごす夜。「おやすみ」が言えない苦しさを初めて知る
7節.千尋の機転で仲直りのきっかけ。パン屋に呼び出される律
8節.「ケンカしたって、笑ったって、最後は仲直りしよう♡」――陽葵の言葉が律の胸に刺さる
9節.謝罪と本音。「仕事とお前、両方守りたい。守りきれなくて怖い」
10節.仲直りの朝。初めて見る律の涙。改めての「だーい好き♡」――年明けの約束
第7章:お正月と二人の実家
正月。家族の物語
1節.お正月、まずは陽葵の実家へ。のどかな田舎、大らかな両親
2節.陽葵の父と律の意外な意気投合。将棋で盛り上がる二人
3節.次は律の実家。ここには空気があった。建築士の父・剛三の重い存在
4節.父との再会。「再開発、お前が担当か」。父はその案件を知っていた
5節.父の言葉「街を壊すのは簡単だ。だが――」言葉を切る父の本音
6節.律の部屋に残る高校時代の設計のノート。父を超えたかった少年の日々
7節.母の目線。二人の写真を見て泣く母。「あんたたちみたいなら、それでいい」
8節.初詣。二人で手を合わせる。「今年も隣にいられますように」
9節.帰りの新幹線で語り合う、父と和解するための道。「今度は仕事で認めさせる」
10節.律の決意のメモ「父の宿題を、俺の答えで解く」――再開発への向き合い方が変わる
第8章:雪の温泉旅行
冬。旅先での出会い
1節.仲直りの「埋め合わせ」で約束した温泉旅行。行きの新幹線で駅弁(原案・歌詞Chorus 2)
2節.山奥の温泉宿「あさひ屋」。若女将・咲月の出迎え
3節.咲月の娘・りおとの出会い。「お姉ちゃん、だんなさまたけないの?」の直球
4節.雪見露天風呂。湯けむりの中での夫婦の本音トーク
5節.夕飯の料理と、りおの「パパがいない」の一言。咲月の複雑な笑顔
6節.夜、宿の縁側で。りおに絵を描いてあげる陽葵。観察日記の読者になりたがるりお
7節.咲月の話。夫と離婚し、女将の母の宿を継いだ苦労。「あんたたち見てると、まだ恋も信じられる」
8節.季節外れの小さな花火(原案・歌詞Chorus 2)。雪に映る光
9節.帰り際、りおとの約束「また描いた絵、送るね」。陽葵の読者がひとり増える
10節.帰りの車窓。「守るだけの設計じゃなく、育てる設計にしたい」――律の中で設計が変わり始める
第9章:春はすぐそこ
早春。それぞれの足音
1節.再開発の初回提案プレゼン。商店街の人々が集まる会場
2節.律の提案は「全て建て替える案」。行政の意向を反映した、無難で冷たい案
3節.商店街の沈黙。溝口マスターの震える手。陽葵は会場の後ろで見ていた
4節.提案後の気まずい日々。マスターの店に行きづらくなる陽葵
5節.観察日記の更新がまた止まる。「描けない」――初めてのスランプ
6節.律の不眠。深夜の事務所で、父の設計の資料と格闘する姿
7節.早瀬所長との対立。「住民の要望を全部聞いていたら、何も建てられない」
8節.陽葵、律を叱る。「ダーリンの描く街、私たちの街じゃないよ」――初めての正面からの衝突
9節.律、一人で商店街を歩く夜。閉まったシャッター、残る看板、積もる記憶
10節.朝、陽葵の机に置かれた一枚の設計図。「これなら、どうだろう」――律の回答の第一歩
第10章:みんなの商店街を、みんなで
春。再生プロジェクト始動
1節.律の新提案「既存の商店街を活かした再生計画」。早瀬所長との激しい議論
2節.所長を説得する律。「時間はかかる。でも、これは勝負できる仕事です」
3節.住民参加のワークショップ開催。商店街の人々が設計に参加する試み
4節.最初は懐疑的だった人々。子どもたちの描く「未来の商店街」の絵が場を変える
5節.溝口マスターの告白。亡き妻との思い出の店。ここを離れたくない本音
6節.陽葵の復活。観察日記「私たちの街、みんなで作ってます」の回が大きな反響に
7節.千夏の就活が決まる。お礼に、と律がギターを弾く場面(兄妹のささやかな夜)
8節.律の父・剛三から届く一本の電話。「今度、現場を見せろ」
9節.父が商店街に来る日。無言で歩き、無言で帰る父。その背中の意味
10節.父からの手紙「お前の設計は、まだ俺に勝っていない。だが――街に負けていない」――初めての認めの言葉
第11章:桜、そして新しい恋
春。出会いと別れの季節
1節.お花見デート(原案・歌詞世界のパレード)。商店街の桜並木でのお弁当
2節.千夏の初恋の相手が判明。律の会社の後輩・青年の登場
3節.過保護モードの律と、応援モードの陽葵。「お兄ちゃん、うるさい」の攻防
4節.美織の新生活。引っ越したアパートは陽葵の商店街のそば。新しいスタート
5節.千尋の片想い。大学の先輩への想いを、陽葵にだけ打ち明ける
6節.陽葵、恋の師匠として奮闘。律は「娘(仮)に男の本質を教えたい」と不穏
7節.桜の下での千尋の告白。結果は……「保留」という優しい答え
8節.観察日記の書籍化のオファーが正式に届く。出版社との面談
9節.迷う陽葵。「私の日常を、本にしていいの?」
10節.律の言葉「俺が世界でいちばんの読者だ。誰にも恥ずかしいことはない」――書籍化への後押し
第12章:梅雨、心の雨
初夏。とよさんの秘密
1節.梅雨入り。商店街に雨の音。静かな季節の始まり
2節.とよさんの体調の異変。階段でよろける姿を千尋が目撃
3節.病院の結果。軽い脳梗塞の兆候、大事には至らないが、一人暮らしは危険との診断
4節.とよさんの入院先へ通う日々。陽葵がお見舞い弁当を作る
5節.とよさんの息子・修一の登場。遠方に住む、少し不器用な親子関係
6節.押し入れの整理で見つかった古い桐箱。中に、黄ばんだ1通の手紙
7節.50年前の手紙。差出人は海辺の町の「港町の勇(いさむ)さん」。開かれていない、届かなかった返事
8節.とよさんの告白。「あたしが返事を出せなかったから、あの人は……」
9節.修一との対話。「母の恋を、笑えない俺がいる」。親子の距離が少し縮む
10節.陽葵の決意。「ダーリン、とよさんの返事、届けに行こうよ」――旅の約束の引き
第13章:手紙を届けに
夏。二人で行く、海辺の町
1節.夏休みを取った律。とよさんの故郷・海辺の町への小旅行
2節.50年前の商店街の地図を頼りに、手紙の住所へ。町は様変わりしていた
3節.手がかりは「灯台の下の食堂」。三代目の女将が語る、勇さんのその後
4節.勇さんは漁師になり、生涯独身だったという。「東京に想い人がいるって、笑ってた」
5節.勇さんの墓参り。とよさんの手紙(陽葵が代筆した、50年遅れの返事)を読み上げる律
6節.読み終わった後の静寂。そして、潮風。陽葵の頬を涙が伝う
7節.帰り道、灯台の下で。「陽葵。俺たちは、後悔のない方を選ぼう」
8節.手紙の返礼として頂いた、勇さんが遺した古い航海日誌の写し
9節.とよさんに報告する夜。血色の戻ったとよさんの笑顔。「……あたしの初恋、叶ったねえ」
10節.とよさんから二人への贈り物。「立花ハイツ、お前たちに任せる」――意外な形の相続の予感
第14章:夏祭りと、書籍デビュー
盛夏。一年でいちばん熱い季節
1節.商店街の夏祭りの準備。みんなで作る、みんなのお祭り
2節.律が設計した「みんなの商店街」の模型が祭りで初公開
3節.祭りの夜。浴衣の陽葵に見とれる律。「……浴衣、反則だから」
4節.屋台の飲み物を片手に、溝口マスターと語る夜。「再開発、まんざらでもないな」
5節.千夏の恋の進展。祭りの縁日での「二人きり」の作戦(陽葵プロデュース)
6節.りお親子が遊びに来る。宿のお土産と、りおの描いた「お姉ちゃんの漫画」
7節.観察日記の単行本『ダーリン♡こっち見て!』刊行決定。表紙はあの二人のイラスト
8節.美織の新しい恋の予感。商店街の八百屋の息子との出会い。「……嫌じゃないかも」
9節.祭りのフィナーレ、商店街の花火。律の耳元での囁き「結婚記念日、10月5日。覚えてる?」
10節.打ち上げの夜、とよさんから渡された一つの封筒。「お前たちに贈りたいもの」の正体は……
第15章:台風と、守るもの
秋の始まり。最大の試練
1節.封筒の中身は「立花ハイツの権利書」。とよさんから二人への贈与
2節.戸惑う二人。修一からの手紙「母のわがままを、受け取ってやってくれ」
3節.その夜、巨大台風が接近。商店街に数十年ぶりの警報
4節.台風上陸。停電、浸水、飛ぶ看板。商店街が被害を受ける
5節.溝口マスターの店にも浸水。パン窯が動かない。商店街に暗い夜
6節.陽葵の行動。観察日記の読者、商店街の皆、りお親子、美織、千夏――繋がった全ての人々が駆けつける
7節.律の行動。建築士として、危険な建物の点検に駆け回る。「自分の街は、自分で守る」
8節.復興の数日間。みんなで泥を出し、パンを焼き、店を開ける。「ひだまり商店街、営業中」の張り紙
9節.台風が明かしたもの。老朽化した商店街の現実。だからこそ、再生は必要だった
10節.行政視察の視線が変わり、律の再生計画が正式採用へ――「みんなの商店街」が動き出す
第16章:結婚一年目の朝
秋。すべての約束の場所へ
1節.再生計画の着工式。商店街のみんなで行く地鎮祭。シャベルを握る溝口マスターの涙
2節.10月5日。結婚一年記念日。あの喫茶店の、あの席での朝
3節.単行本『ダーリン♡こっち見て!』の発売日。店頭に並ぶ本、手に取る読者たち
4節.本の中で描かれた、一年分の日常。読者からの「私もあの人に言おう」という声
5節.律のギター。記念日の夜、ついに陽葵の前で弾き語る。「ダーリン♡こっち見て!」の原曲を
6節.律の告白「この歌、お前に作った。俺の照れ隠しの、全部」
7節.とよさんの退院。立花ハイツのみんなで祝う、小さなお茶会
8節.千夏の恋の結実、美織の新たな一歩、千尋の「保留」のその後――それぞれの物語の答え合わせ
9節.一年間の日々を振り返る二人。あの朝の「おはよう♡」から、ここまで
10節.翌朝のカーテンの光。「ダーリン、こっち見て♡」――変わらない朝、続いていく毎日
エピローグ:ずっと隣に
・遠い未来と、10月5日
・結婚五年目の秋。再生された商店街の、新しい姿
・立花ハイツも律の設計で生まれ変わり、とよさんは「名誉大家」に
・陽葵の漫画は「商店街の人々」を描く連載に。りおは中学生になり、助手に
・律の設計事務所。父・剛三との対等な共作が実現した話
・10月5日。二人の記念日。今も毎年、あの喫茶店でコーヒーを頼む
・白い髪が混じり始めた二人の朝。それでも「おはよう♡」は変わらない
・孫のように慕う子どもたち(商店街の子供たち)に囲まれる二人
・「もしも歳を重ねても、今みたいに笑っていたい」――あの夜の約束の回収
・陽葵の最後の観察日記。「私のダーリンは、世界中でいちばん、私の隣にいる」
・最後の頁。「ダーリン♡ こっち見て! ……ふふっ、ずっとこっち見てね♡」――完
第3章:ダーリンの秘密 秋の終わり。律の仕事の衝撃
第1節:陽葵、千尋から「商店街の再開発のうわさ」を聞く。立ち退きの話にざわめく商店街
秋の終わり。
ひだまり商店街を吹き抜ける風が、少しずつ冷たくなってきた。
ついこの間まで、店先に並ぶ鉢植えの花を揺らしていた風は、今では落ち葉を道路の端へと運んでいく。商店街の街路樹も、枝に残る葉がずいぶん少なくなった。
それでも、朝のひだまり商店街は、いつもと変わらない顔をしていた。
八百屋さんの店先では、店主のおじさんが大きな声で旬の野菜を紹介している。
「はい、今日は大根がお買い得だよ! 煮物にするなら、今の大根がうまいよ!」
「おじさん、昨日も同じこと言ってなかった?」
通りかかった常連のおばあちゃんが笑いながら声をかける。
「昨日もうまかったし、今日もうまいんだよ!」
「はいはい。じゃあ、一本いただこうかねえ」
そんなやり取りに、通りを歩く人たちの笑い声が重なる。
お向かいの花屋さんには、冬に向けた寄せ植えが並び始めていた。昔ながらの和菓子屋さんからは、蒸したてのお饅頭の甘い香りが漂ってくる。
そして、私が働くパン屋さん――ブーランジュリーひだまり。
店内では、焼きたてのクロワッサンが、バターの香りをいっぱいに広げていた。
「陽葵ちゃん、そこのバゲット、もう少し前に出してくれる?」
「はーい! ただいま移動しまーす♡」
私はトングを片手に、棚のパンを並べ直す。
焼きたてのパンを見て、思わず顔がほころんだ。
今日もおいしそう。
この香り、この景色、この人たちの声。
私は、この商店街が大好きだ。
ここに来ると、自然と笑顔になれる。
結婚してから半年ほど。夫の律と二人で暮らす日々にも、少しずつ新しい習慣が増えてきた。
朝、寝ぼけた律に「ダーリン♡こっち見て!」と声をかけること。
帰宅した律に「今日の私、何点?」と聞いて困らせること。
何でもない一日を四コマ漫画にして、WEBに投稿すること。
そして、疲れて帰ってきた律に、おいしいご飯を食べてもらうこと。
そんな毎日が、私にとっての宝物だ。
もちろん、商店街も同じ。
ただ買い物をするだけの場所じゃない。
顔なじみのお店の人がいて、名前を呼んでくれる人がいて、何かあったときには気にかけてくれる人がいる。
ここには、私が大切にしたい日常が詰まっている。
「……ずっと、このままだったらいいのにな」
パンを並べながら、私は小さくつぶやいた。
「ん? 陽葵ちゃん、何か言った?」
カウンターの向こうから、店主の溝口茂さんが顔を上げた。
「あっ、いえ! なんでもないです♡ 今日もパンがおいしそうだなあって!」
「そりゃ、ありがたいねえ。毎朝そう言ってくれると、こっちも張り合いがあるよ」
溝口さんは、少し照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て、私はもう一度、パンの棚に目を向けた。
いつもの朝。
いつもの商店街。
いつもの、ひだまり。
――そのときの私は、そう思っていた。
この場所に、少しずつ変化の影が忍び寄っていることなど、まだ知らなかった。
*
午前十時を過ぎたころ。
店内の混雑がひと段落し、私は空になったトレーを片づけていた。
入口のベルが、ちりん、と鳴る。
「こんにちはー!」
「あら、陽葵ちゃん。今日も元気ねえ」
「おはようございます! あっ、もうこんにちはの時間ですね♡」
顔なじみのお客さんに笑顔で挨拶する。
その直後、入口からもう一人、見慣れた顔が現れた。
「あ、陽葵さん!」
「千尋ちゃん!」
私は思わず手を振った。
千尋ちゃんは、大学に通う女の子だ。商店街によく顔を出していて、私ともすっかり仲良しになっていた。
いつもは明るく、話題も豊富で、商店街のお店の人たちとも気軽に話せる子。
今日も、いつものように笑顔で入ってくる――と思った。
けれど。
「……千尋ちゃん?」
私は、彼女の表情に違和感を覚えた。
笑顔はある。
でも、どこかぎこちない。
それに、入口を入ってからも、何度か外の通りを振り返っている。
「どうしたの? なんだか、いつもと違うね」
「あっ、いえ……。その、ちょっと気になることがあって」
「気になること?」
「はい」
千尋ちゃんは、カウンターの上に視線を落とした。
それから、店内にほかのお客さんがいないことを確認するように、そっと周囲を見回した。
「陽葵さん。今、少しお話しできますか?」
「もちろん♡ ちょっと待ってね」
私は溝口さんに目を向けた。
「マスター、少しだけ休憩してもいいですか?」
「ああ、いいよ。お客さんが来たら呼ぶから、ゆっくり話しておいで」
「ありがとうございます!」
私はエプロンのポケットに手を入れ、千尋ちゃんを店の奥にある小さな休憩スペースへ案内した。
そこには、スタッフ用の小さなテーブルと椅子が二脚ある。
窓からは商店街の通りが見える。
いつもなら、ここで新作のパンの話や、大学であった出来事、最近見つけたかわいい雑貨の話などをしている。
でも、今日の千尋ちゃんは、なかなか話し始めなかった。
「……千尋ちゃん?」
「あの、陽葵さん」
「うん」
「最近、商店街で何か変わったこと、ありませんか?」
「変わったこと?」
私は首をかしげた。
「うーん……。花屋さんが冬のお花を増やしたとか、八百屋さんに大きな白菜が並び始めたとか? あとは、和菓子屋さんの栗のお饅頭がそろそろ終わっちゃうらしくて……あれ、私、大好きなのに!」
「ふふっ。そういうことじゃなくて」
千尋ちゃんは、ほんの少しだけ笑った。
けれど、その笑顔はすぐに消えてしまった。
「……再開発の話です」
「……え?」
私は、思わず聞き返した。
「さい、かいはつ?」
「はい」
千尋ちゃんは、小さくうなずいた。
「ひだまり商店街の再開発計画があるって……そんな話を、聞いたんです」
その瞬間。
店の中で鳴っていたオーブンのタイマーの音が、いつもより遠くに聞こえた。
「……再開発?」
もう一度、口にする。
言葉の意味はわかる。
古くなった建物を建て替えたり、道路や施設を整備したり、街全体を新しくしたりすること。
もちろん、再開発そのものが悪いことだとは思わない。
古い建物には、修繕が必要なものもある。
災害に備えなければならない場所もある。
住んでいる人や、働いている人たちが安全に暮らせる街にすることは、大切なことだ。
だけど。
「……ひだまり商店街が?」
私は、窓の外を見た。
いつもの通り。
いつもの八百屋さん。
いつもの花屋さん。
いつもの、パン屋さんの看板。
それらが、頭の中で急に違うものに見え始めた。
「千尋ちゃん、それって……どこから聞いた話なの?」
「大学の知り合いからです。商店街の周辺で、何か大きな計画が進んでいるらしいって」
「大きな計画……」
「それで、気になって少し調べてみたんです。でも、まだ正式に公表されたものなのか、私にはわからなくて」
千尋ちゃんは、スマートフォンを取り出した。
「ネットにも、それらしい話が少しあって。でも、はっきりしたことは見つかりませんでした。だから、うわさだけが先に広がっているのかもしれません」
「……そっか」
私は、ゆっくりとうなずいた。
まだ、確かな情報ではない。
そう言い聞かせようとした。
でも、胸の奥に小さな不安が生まれていた。
「再開発って……この商店街が、なくなっちゃうってことなのかな?」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
千尋ちゃんは、すぐには答えなかった。
「……そこまでは、わからないです」
「そっか……。そうだよね」
「ただ、再開発となると、建物を建て替えたり、土地の使い方を変えたりすることもありますよね。もしそうなら、お店の人たちにも影響があるんじゃないかって……」
千尋ちゃんの言葉は、ひとつひとつ、私の心に落ちていった。
お店の人たち。
ここで長年、商売を続けてきた人たち。
毎朝、シャッターを開けて、商品を並べて、お客さんを迎えている人たち。
その人たちの暮らしは、どうなるのだろう。
この場所で積み重ねてきた思い出は?
いつもの買い物は?
顔なじみの人たちと交わす、何気ない会話は?
私は、両手を膝の上でぎゅっと握った。
「……私、この商店街が大好きなの」
「はい。知ってます」
「ここに来ると、みんなが声をかけてくれるの。パン屋さんで働くようになってから、もっと好きになったんだ」
言葉にしているうちに、胸が苦しくなった。
「お店の人たちって、ただ商品を売っているだけじゃないんだよね。お客さんの顔を覚えていたり、いつも買っているものを覚えていたり……。元気がなさそうな人がいたら、どうしたのって声をかけたり」
「……そうですね」
「私が結婚してこの街で暮らすようになってからも、みんな、すごく優しくしてくれて。律と一緒に歩いていると、『仲がいいねえ』ってからかわれたりするんだよ♡」
いつもなら、ここで笑える。
律のことを思い出せば、自然と頬が緩む。
だけど今日は、笑顔を作ろうとしても、うまくいかなかった。
「……そういう毎日が、なくなっちゃうかもしれないの?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
千尋ちゃんは、私の手にそっと触れた。
「陽葵さん。まだ、何も決まったわけじゃないですよ」
「うん……」
「だから、今はうわさだけで決めつけないほうがいいと思います」
「……そうだよね」
私は、うなずいた。
千尋ちゃんの言うとおりだ。
まだ、何もわかっていない。
計画が本当にあるのか。
どこまで進んでいるのか。
商店街が対象になっているのか。
お店や住民に、どんな影響があるのか。
何ひとつ、確かなことはわからない。
それなのに、私はもう、なくなってしまう未来を想像していた。
……怖かったのだ。
この街が変わってしまうことが。
大好きな人たちと、今までどおり会えなくなることが。
何より、自分の大切な居場所が、ある日突然、別のものになってしまうことが。
「……千尋ちゃん。ほかのお店の人たちも、この話を知ってるのかな?」
「それが……」
千尋ちゃんは、少し言いにくそうに視線を落とした。
「さっき、商店街を歩いていたら、何人かが話しているのを聞きました」
「えっ?」
「八百屋さんの前で、立ち退きっていう言葉が出ていて……」
「た、立ち退き……?」
その言葉を聞いた瞬間、私は背筋が冷たくなるのを感じた。
再開発。
立ち退き。
それは、ただ建物が新しくなるというだけの話ではない。
今の場所から出ていかなければならない人がいるかもしれない。
長年続けてきた店を、手放さなければならない人がいるかもしれない。
もちろん、誰かがそう決めたと確定したわけではない。
でも、うわさの中で、その言葉が使われている。
それだけで、胸の奥がざわついた。
「……どうしよう」
私は、思わずつぶやいた。
「陽葵さん……」
「ごめんね。まだ何もわかってないのに、こんなこと言っちゃって」
「謝らなくていいですよ。私だって、気になって仕方がないんですから」
千尋ちゃんは、少し困ったように笑った。
「この街、私も好きですから」
その言葉を聞いて、私は彼女の手を握り返した。
「……うん」
好きだからこそ、心配になる。
大切だからこそ、変わってほしくないと思ってしまう。
でも、変化が必要なこともある。
その両方を、私はまだ、うまく受け止められなかった。
*
千尋ちゃんが帰ったあと。
私は、しばらく休憩スペースの椅子に座ったままだった。
窓の向こうでは、商店街の人たちがいつものように行き交っている。
自転車を押しながら歩くおじいちゃん。
小さな子どもの手を引くお母さん。
買い物袋を提げて、店先で立ち話をするおばあちゃんたち。
何も変わっていない。
少なくとも、見た目には。
「……陽葵ちゃん?」
溝口さんの声がした。
「あっ、はい!」
「大丈夫かい? 千尋ちゃんと、何かあったのかい?」
「えっ? いえ……」
私は慌てて立ち上がった。
「大丈夫です! ちょっと、考え事をしていただけで……」
「そうかい?」
溝口さんは、私の顔をじっと見た。
長年、このパン屋さんを切り盛りしてきた人だ。
お客さんのちょっとした変化にも、よく気づく。
「無理はしなくていいからね。何かあったら、言っておくれ」
「……ありがとうございます」
その優しさが、今は少しだけ苦しかった。
だって。
もし、本当にこのお店がなくなってしまったら。
溝口さんは、どこでパンを焼くのだろう。
毎朝、店内に広がるバターの香りは、どこへ行ってしまうのだろう。
私は、いつもの場所に戻り、トレーを手に取った。
「……よしっ」
小さく声を出す。
今は、仕事をしなきゃ。
いつもどおりに。
お客さんが来たら笑顔で挨拶して、パンを袋に入れて、お釣りを渡す。
そんな当たり前のことを、ちゃんとしよう。
でも。
「いらっしゃいませ!」
そう言って笑顔を向けたあとも、私の心は、さっき聞いた言葉から離れなかった。
再開発。
立ち退き。
商店街が、変わってしまうかもしれない。
その考えが、頭の中で何度も繰り返されていた。
*
昼前。
店先に、少し人だかりができていた。
私は、焼き上がったパンを追加するため、トレーを持って売り場へ出た。
そのとき、入口の近くから、こんな声が聞こえてきた。
「ねえ、聞いた? この辺り、再開発するんだって」
「ええっ、ほんとなの?」
「まだ、うわさらしいけどねえ。でも、立ち退きの話まで出ているって聞いたわよ」
「立ち退きって……。うちも関係あるのかしら?」
「さあねえ。誰に聞けばいいのかも、わからないのよ」
私は、足を止めた。
お客さん同士の会話だ。
聞こうとして聞いたわけではない。
それでも、一度耳に入ってしまった言葉は、簡単には消えてくれなかった。
「でも、こんなに長くやってきたお店なのにねえ……」
「そうよ。うちのおばあちゃんの代から、この場所で商売しているんだから」
「もし出ていけって言われたら、どうしたらいいのかしら」
誰も、大きな声では話していない。
けれど、その声には、確かな不安がにじんでいた。
私は、トレーを持つ手に力を込めた。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
まだ確かなことは何もわからない。
なのに、もう、街の人たちは不安になっている。
誰かが聞いた話が、別の誰かに伝わる。
そのたびに、少しずつ言葉が変わっていく。
再開発するらしい。
建て替えるらしい。
お店がなくなるらしい。
立ち退かなければならないらしい。
そして、いつしか、まだ決まっていないことまで、決定事項のように語られてしまう。
私は、唇をきゅっと結んだ。
うわさだけで、怖がりたくない。
でも、知らないままでいるのも怖い。
「……陽葵ちゃん?」
溝口さんが、私の横に立った。
「大丈夫かい?」
「あ……はい」
「さっきから、ちょっと顔色がよくないね」
「……マスター」
私は、言いかけた。
再開発のうわさを聞きましたか?
このお店も、関係するんでしょうか?
もし、立ち退きになったら……。
聞きたいことは、たくさんあった。
でも、口にすることができなかった。
だって、溝口さんだって、まだ何も知らないかもしれない。
私が不安をぶつけたところで、困らせてしまうだけかもしれない。
「……なんでもないです」
結局、私はそう言った。
溝口さんは少しだけ眉を下げたけれど、それ以上は聞かなかった。
「そうかい。何かあったら、遠慮しないで言いなさいよ」
「……はい」
私は、もう一度トレーを持ち直した。
パンを並べる。
袋を用意する。
お客さんに笑顔を向ける。
いつもどおり。
いつもどおりにしよう。
そう思えば思うほど、胸の奥にある不安は大きくなっていった。
*
午後二時。
ようやく休憩時間になった。
私は、温かいミルクティーを手に、店の裏口から外へ出た。
冷たい風が頬を撫でる。
空を見上げると、薄い雲がゆっくり流れていた。
「……はあ」
息を吐く。
白くなるほど寒くはない。
でも、温かい飲み物を持っていないと、少し心細く感じるような気温だった。
私はスマートフォンを取り出した。
画面には、律とのメッセージのやり取りが表示されている。
昨夜の最後のメッセージ。
『今日は少し遅くなると思う。先に休んでいていいから』
その下に、私が送った返事。
『了解です♡ でも、帰ってきたらおやすみのぎゅーは必須です!』
そして律から。
『わかった。おやすみのぎゅーは、帰ってからな』
思わず、頬が緩んだ。
……ダーリン。
私は、律のことが大好きだ。
仕事で疲れていても、忙しくても、私の話をちゃんと聞いてくれる。
何気ない一言にも、律らしい優しさがある。
たまに照れくさそうに目をそらすところも、私のことを気にかけてくれるところも、全部好き。
だからこそ。
私は、律の仕事について、何も知らないわけではなかった。
律は建築士だ。
建物を設計し、そこを使う人たちの暮らしを考え、たくさんの条件の中で、よりよい形を探していく仕事をしている。
最近は、仕事が忙しくなっていた。
帰りが遅い日も増えた。
机の上には、難しそうな書類が積み重なっていた。
以前、律が話してくれたこともある。
建物は、見た目がきれいならそれでいいわけじゃない。
安全であること。
長く使えること。
使う人にとって、無理のないつくりであること。
予算や維持管理のことも考えなければならない。
私は建築の専門家ではないけれど、律が仕事に真剣に向き合っていることは知っていた。
そして、最近の律は、父親のことも考えていた。
昔、建築の仕事をしていたお父さん。
律が子どものころ、設計図を見せてくれた人。
そして、あるとき、律に「お前は、何もわかっていない」と告げた人。
律は、まだ、そのときのことをすべて話してくれたわけではない。
でも、少しずつ、父親の教えを理解しようとしていた。
古いギターのノートに書かれていた言葉。
『好きな音を、忘れるな。』
その言葉を見つけた夜のことを、私は覚えている。
律が、懐かしそうに、少し寂しそうに、ギターを弾いていたこと。
その旋律が、いつか父親との記憶につながるのかもしれないと感じたこと。
そして、つい最近。
律の机の上にあった、あの書類。
『ひだまり地区 再開発計画 概要書』
私は、あの文字を思い出した。
……あれ?
胸の奥が、ひやりとした。
ひだまり地区。
再開発計画。
それは、もしかして。
いや、でも。
私は、慌てて首を横に振った。
まだ、何もわからない。
あの書類が、どんな仕事に関係しているのかも知らない。
律が何を担当しているのかも知らない。
それに、ひだまり地区という言葉だけで、商店街のことだと決めつけるのは早すぎる。
そう。
きっと、まだ、何もわからないのだ。
それでも。
もし。
もし、律の仕事が、この商店街の再開発と関係していたら?
私は、スマートフォンの画面を見つめた。
今すぐ、メッセージを送りたかった。
『ダーリン、最近のお仕事って何をしているの?』
そう聞けばいい。
いつもなら、何でもないことだ。
夫がどんな仕事をしているのか、妻が聞く。
何もおかしくない。
それなのに。
指が、動かなかった。
もし、聞いたら。
律が困った顔をしたら?
答えにくそうにしたら?
私に言えないことがあるとしたら?
……そんなこと、考えたくない。
私は、スマートフォンを胸元に抱きしめた。
「……ダーリン」
小さく名前を呼ぶ。
いつもなら、その名前を口にするだけで、少し元気になれる。
でも今日は、心の中に不安が残ったままだった。
律を信じていないわけじゃない。
むしろ、信じているからこそ、聞くのが怖い。
大切な人の仕事が、大切な街の未来とつながっていたら。
私は、どうすればいいのだろう。
*
休憩を終え、店内へ戻ると、溝口さんがカウンターの向こうでパンを袋に入れていた。
「おかえり、陽葵ちゃん」
「ただいまです!」
「寒かっただろう。温かいお茶、まだあるからね」
「ありがとうございます♡」
私は笑顔で返事をした。
そのとき、入口のベルが鳴った。
「こんにちはー!」
元気な声とともに、近所のおばあちゃんが入ってきた。
「あら、陽葵ちゃん。今日は何がおすすめ?」
「いらっしゃいませ! 今日は栗のデニッシュがおすすめですよ♡ 秋の終わりにぴったりです!」
「まあ、おいしそう。じゃあ、それを二ついただこうかしら」
「はい、ありがとうございます!」
私は、トングで栗のデニッシュを取り、袋に入れた。
おばあちゃんは、お財布を取り出しながら、ふと声をひそめた。
「そうそう、陽葵ちゃん。聞いた?」
「……え?」
「この辺り、再開発するっていう話」
まただ。
その言葉を聞いた瞬間、私は一瞬、息を止めてしまった。
「……あ、あの。私も、少しだけ聞きました」
「やっぱりねえ。うちの近所でも、その話でもちきりなのよ」
「そうなんですか……」
「でも、誰もはっきりしたことは知らないみたいでね。どこまで本当なのかしら」
おばあちゃんは、困ったように笑った。
「うちの孫なんて、もう『この辺りのお店、全部なくなるんじゃない?』なんて言うのよ。まだ決まったわけでもないのにねえ」
「……そう、ですよね」
「でも、心配にはなるわよ。私、ここで何十年も暮らしてきたんだもの」
おばあちゃんは、袋を受け取りながら、窓の外に目を向けた。
「この商店街には、いろんな思い出があるからねえ。夫と初めて買い物に来たのも、この辺りだったし、子どもたちを連れて歩いたのも、ここだったのよ」
「……はい」
「新しくなるのが悪いとは思わないの。でもね、今あるものを、何でも古いからってなくしてしまうのは、寂しいじゃない?」
その言葉に、私は何も言えなかった。
新しくすること。
残すこと。
変えること。
守ること。
どれも、簡単に答えが出せることではないのだと思う。
「陽葵ちゃんも、そう思わない?」
おばあちゃんが、私を見た。
私は、ゆっくりとうなずいた。
「……私も、この商店街が大好きです」
「そうだよねえ」
おばあちゃんは、ほっとしたように笑った。
「まあ、今はまだ、うわさなんでしょうけどね。何かわかったら、教えてちょうだいね」
「……はい」
おばあちゃんが帰ったあと、私はしばらく入口を見つめていた。
その背中が、通りの向こうへ消えていく。
いつもと変わらない、商店街の景色。
でも、さっきよりも、少しだけ違って見えた。
ここにある一つひとつの店に、それぞれの暮らしがある。
それぞれの思い出がある。
それぞれの、守りたいものがある。
そして、もし本当に再開発が進むのなら。
そのすべてが、何らかの影響を受けるのかもしれない。
私は、そっと胸に手を当てた。
「……どうか、まだ何も決まっていませんように」
誰に向けた願いなのか、自分でもわからなかった。
*
夕方。
仕事を終えた私は、エプロンを外して、店の奥で帰り支度をしていた。
スマートフォンには、律からのメッセージが届いていた。
『今日は帰りが遅くなりそうだ。夕飯は先に食べていていいから』
いつもなら、すぐに返事をする。
『了解です♡ でも、ダーリンが帰ってくるまで起きて待ってるもん!』
そんなふうに、少しだけ甘えてみたりする。
でも今日は、画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
聞きたい。
でも、聞けない。
再開発のこと。
ひだまり地区のこと。
あの概要書のこと。
律の仕事のこと。
どうして、あんなに遅くまで仕事をしているのか。
何を考えているのか。
何に悩んでいるのか。
私は、妻なのに。
律の一番近くにいるはずなのに。
知らないことが、こんなにある。
その事実が、今日は少しだけ寂しかった。
「……陽葵ちゃん、帰るのかい?」
溝口さんが、店の奥から声をかけた。
「あっ、はい! 今日もありがとうございました♡」
「お疲れさま。気をつけて帰るんだよ」
「ありがとうございます。マスターも、あんまり無理しないでくださいね!」
「ははっ、そりゃこっちの台詞だよ」
いつもの会話。
いつもの笑顔。
私は、店を出る前に、もう一度、店内を振り返った。
焼きたてのパンの香り。
木目のカウンター。
窓際の小さな花瓶。
何度も見てきた、見慣れた景色。
ここが好き。
この場所が好き。
この街が好き。
そして、律が好き。
どれも、私にとって大切なものだ。
だからこそ。
もし、それらが互いにぶつかってしまったら。
私は、どちらを向けばいいのだろう。
答えは、まだ見つからなかった。
*
商店街を歩きながら、私は周囲を見回した。
八百屋さんは、店先の商品を片づけている。
花屋さんでは、店主さんが鉢植えに水をあげていた。
和菓子屋さんの前では、仕事帰りの人が足を止めている。
いつもと同じ。
それなのに、今日は、一つひとつの景色が心に残った。
この店の看板。
あの窓。
いつもおしゃべりしているおばあちゃんたち。
子どもたちが走っていく路地。
全部、当たり前だと思っていた。
明日も、明後日も、来年も。
ずっと、そこにあると思っていた。
でも、未来は、当たり前ではないのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、商店街の角で、数人の人が立ち話をしているのが見えた。
「だから、まだ決まったわけじゃないんだって」
「でも、再開発の話が出ているのは確かなんでしょう?」
「それは……そうらしいけど」
「じゃあ、私たちはどうしたらいいのよ」
不安そうな声。
苛立った声。
何とか落ち着こうとする声。
いろいろな感情が、そこには混ざっていた。
私は、立ち止まりそうになった。
でも、結局、そのまま通り過ぎた。
今、私が声をかけたところで、何かがわかるわけではない。
それに、私自身、何も知らないのだ。
ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
この商店街の未来が、これまでと同じとは限らない。
そして、そのことに、私は初めて気づき始めていた。
*
家に帰ると、部屋の中は静かだった。
「ただいまー……」
返事はない。
当たり前だ。
律は、まだ仕事中なのだから。
私は靴を脱ぎ、鞄を置いて、リビングへ向かった。
ソファの上には、ペンちゃんのぬいぐるみが座っていた。
水族館で律と一緒に買った、大切なペンギン。
あの日、ペンギンの水槽の前で、律が夢中になっていたことを思い出す。
私が「ダーリン♡こっち見て!」と声をかけても、なかなか振り向いてくれなかったこと。
やっと目が合ったとき、少し照れたように笑ってくれたこと。
あのときは、何も心配することなんてなかった。
ただ、律と一緒にいることが嬉しかった。
今日だって、律が好きなことは変わらない。
この街が好きなことも変わらない。
だけど、二つの大切なものが、いつか同じ場所で交わるかもしれない。
その可能性に気づいてしまった。
「……ペンちゃん」
私は、ぬいぐるみを抱き上げた。
「ねえ、どうしたらいいと思う?」
もちろん、返事はない。
丸い目が、じっとこちらを見ているだけ。
「……だよね。ペンちゃんにも、わからないよね」
私は、ぬいぐるみをソファに戻した。
そして、テーブルの上に置いてあるデートノートを手に取った。
次に行きたい場所。
やってみたいこと。
律と一緒に過ごした、たくさんの思い出。
ページをめくる。
水族館。
映画の夜。
秋の散歩。
これから行きたい場所。
これから、二人で作っていきたい思い出。
その中に、ひだまり商店街で過ごす毎日も、当然のようにあった。
パン屋さんで働く私。
仕事帰りに買い物をする私たち。
商店街の人たちに、二人で挨拶すること。
何でもない一日を、漫画に描くこと。
そんな未来を、私は疑っていなかった。
けれど。
もし、街が変わってしまったら?
このノートに書いた未来も、変わってしまうのだろうか。
私は、ペンを手に取った。
そして、新しいページを開いた。
何かを書こうとして。
でも、何も書けなかった。
「……あれ?」
いつもなら、すぐに書ける。
今日あったこと。
嬉しかったこと。
面白かったこと。
律に伝えたいこと。
何でも、言葉にできるはずなのに。
今日は、ペン先が止まったままだった。
私は、ノートを閉じた。
「……ダーリン」
静かな部屋に、自分の声が響く。
今、律に会いたい。
顔を見て、話したい。
いつもみたいに笑って、いつもみたいに甘えて。
そして、聞いてみたい。
最近、どんな仕事をしているの?
何か、困っていることはない?
私に、話せないことがあるの?
……でも。
その質問の先に、自分が聞きたくない答えが待っているのではないか。
そう思うと、怖くなった。
私は、スマートフォンを手に取った。
律とのメッセージ画面を開く。
入力欄に、文字を打ち込む。
『ダーリン、今日の仕事は……』
そこで、指が止まった。
消す。
もう一度、打つ。
『最近、忙しそうだけど、大丈夫?』
それなら、聞ける。
いつもの、何気ない気遣いとして。
でも、本当に聞きたいことは、それではなかった。
私は、しばらく画面を見つめたあと、文字をすべて消した。
そして、代わりに送った。
『お仕事お疲れさま♡ 帰り、気をつけてね。おやすみのぎゅー、待ってるよ♡』
送信。
すぐに、既読がついた。
けれど、返事はまだ来なかった。
私はスマートフォンをテーブルに置き、ゆっくりと息を吐いた。
……大丈夫。
まだ、何も決まっていない。
まだ、何もわからない。
だから、今は、いつもどおりにしよう。
私は、そう自分に言い聞かせた。
けれど、胸の奥に生まれた小さな不安は、消えてくれなかった。
*
その夜。
私は、律の帰りを待ちながら、窓の外を眺めていた。
商店街の明かりは、少しずつ消えていく。
店じまいを終えたお店のシャッターが閉まり、通りを歩く人も少なくなっていく。
昼間はあんなに賑やかだった街が、静かな夜の顔に変わっていた。
それでも、明日の朝になれば、また人々が集まり、シャッターが開き、パンが焼かれ、野菜が並び、いつもの一日が始まる。
私は、ずっとそう思っていた。
明日も。
明後日も。
その先も。
でも、今日聞いたうわさは、私の中に小さな疑問を残していった。
この街の未来は、誰が決めるのだろう。
そこで暮らす人たちの声は、ちゃんと届くのだろうか。
大切なものを残しながら、新しくすることはできるのだろうか。
そして。
律は、何を考えているのだろう。
私は、窓ガラスに映った自分の顔を見つめた。
いつもの笑顔ではなかった。
少しだけ、不安そうな顔。
こんな顔、律には見せたくないな。
そう思った。
でも、本当は。
こんなときこそ、律に話を聞いてほしかった。
何も答えが出なくてもいい。
ただ、隣にいてほしい。
手を握ってほしい。
そして、いつものように言ってほしい。
――大丈夫だよ、陽葵。
その一言だけで、きっと私は、少し安心できる。
私は、ソファの上のペンちゃんを抱きしめた。
「……ダーリン。早く帰ってこないかな」
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
律からのメッセージだった。
『ありがとう。もう少しで一区切りつきそうだ。帰ったら話そうな』
私は、その文章を何度も読み返した。
帰ったら話そう。
その言葉に、少しだけ心が温かくなる。
でも。
律は、何を話すつもりなのだろう。
仕事のこと?
今日あった出来事?
それとも……。
私は、スマートフォンを胸元に抱きしめた。
「……うん。待ってるね、ダーリン♡」
声に出してみる。
いつものように、明るく。
いつものように、愛情を込めて。
けれど、その笑顔の奥には、まだ答えの出ない不安があった。
ひだまり商店街の再開発。
立ち退きのうわさ。
そして、律の机にあった、あの概要書。
それらが、本当にひとつにつながっているのか。
今の私には、まだわからない。
ただ。
今日まで当たり前だと思っていた日常が、少しだけ違って見え始めていた。
大好きな街。
大好きな夫。
どちらも、私にとってかけがえのないもの。
だからこそ、私はまだ知らない未来が、少し怖かった。
窓の外では、秋の終わりの風が、静かに街路樹を揺らしていた。
そして、ひだまり商店街のどこかで。
まだ誰も全貌を知らない計画が、少しずつ、人々の日常に影を落とし始めていた。
第2節:聞けない言葉、焼きたての香り。マスターの「ここもそうなのかな」
翌朝。
目覚まし時計が鳴る少し前に、私は目を覚ました。
隣のベッドでは、律がまだ眠っている。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、彼の横顔を淡く照らしていた。
いつもなら、ここで私は少しだけ身を乗り出す。
そして、寝顔を眺めながら、こっそり声をかけるのだ。
「……ダーリン♡」
返事はない。
「ダーリン、朝ですよー」
やっぱり返事はない。
ふふっ。
いつもなら、ここで頬をつついたり、枕元から顔を覗き込んだりする。
でも、今日は少し違った。
昨日から、頭の中に同じ言葉が残っている。
再開発。
ひだまり商店街。
立ち退き。
そして、律の机にあった、あの書類。
『ひだまり地区 再開発計画 概要書』
私は、眠っている律の顔を見つめた。
聞けばいい。
ただ、それだけなのに。
最近の仕事は何なの?
あの書類は、何の計画なの?
ひだまり商店街と関係があるの?
聞きたいことは、ちゃんと頭の中にある。
それなのに、声に出そうとすると、喉の奥で止まってしまう。
もし、関係があると言われたら。
もし、律が困った顔をしたら。
もし、私に話せない事情があるのだとしたら。
考えれば考えるほど、聞くことが怖くなった。
「……私、何を怖がってるんだろう」
小さくつぶやく。
律は、まだ眠っている。
その寝顔を見ていると、胸がきゅっとなった。
私は律を信じている。
仕事に真剣に向き合う人だということも知っている。
どんな仕事でも、いい加減に済ませる人ではない。
だからこそ、もしこの商店街の再開発に関わっているとしても、きっと何か理由があるのだと思う。
でも、私は。
この街が好きなのだ。
ここで出会った人たちが好きなのだ。
その気持ちを、どうしたらいいのか、まだわからない。
「……ダーリン、起きたら聞いてもいい?」
声に出したものの、返事はなかった。
私はそっと布団を抜け出し、寝室を出た。
*
朝食の準備を終えたころ、律がリビングへやってきた。
「おはよう、陽葵」
「おはようございます♡」
「今日は早いな」
「うん。ダーリンより先に起きちゃいました」
「珍しいな」
「えーっ、私だって早起きくらいしますよ!」
「そうだったな」
律は少し笑って、椅子に腰を下ろした。
私はテーブルにトーストと目玉焼き、サラダを並べる。
「はい、ダーリンの朝ごはんです♡」
「ありがとう」
「今日はトーストにバターを多めに塗りました!」
「見ればわかる」
「愛情も多めです!」
「それは見えないな」
「えーっ! ちゃんと見てくださいよ!」
いつものやり取り。
律の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その表情を見ると、私も自然に笑顔になる。
でも、今朝はその笑顔の奥に、聞きたいことが隠れていた。
「ダーリン」
「ん?」
「最近、お仕事忙しいね」
「ああ。少し立て込んでいる」
「毎日遅くまで大変だね。ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ」
「本当かなあ?」
「陽葵ほどは寝ていないかもしれない」
「ちょっと! 私、そんなに寝坊してません!」
「休日はよく寝ているだろ」
「それはダーリンと一緒にいたいからです♡」
「……そうか」
律はコーヒーを一口飲んだ。
私は、その横顔を見つめる。
今だ。
聞くなら、今。
「あのね、ダーリン……」
「どうした?」
「最近の仕事って……」
そこまで言って、言葉が止まった。
律がこちらを見る。
「仕事?」
「ううん。なんでもない」
「そうか?」
「うん! 大変そうだから、応援してるよって言いたかっただけ♡」
私は笑った。
律は少しだけ不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞かなかった。
「ありがとう。助かるよ」
「えへへ♡」
結局、聞けなかった。
食卓の上では、トーストの表面が少しずつ冷めていく。
私は自分の分を口に運びながら、心の中でため息をついた。
どうして聞けないんだろう。
夫婦なのに。
いつもなら、何でも話せるのに。
どうして、たった一つの質問が、こんなに難しいのだろう。
*
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい、ダーリン♡」
玄関で、律のコートの襟を整える。
「今日も遅くなる?」
「まだわからない。なるべく早く帰るよ」
「うん。無理しないでね」
「陽葵もな」
「私は大丈夫!」
「そうか」
律は靴を履き、ドアノブに手をかけた。
その背中を見ながら、私はもう一度、口を開きかけた。
「ダーリン……」
「ん?」
振り返る律。
私は一瞬、迷った。
再開発のこと。
ひだまり商店街のこと。
あの書類のこと。
今なら聞けるかもしれない。
でも、言葉は出てこなかった。
「……いってらっしゃいの、ぎゅーは?」
代わりに、両手を広げた。
律は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「はいはい」
彼は私を抱きしめてくれた。
コート越しに伝わる温もり。
いつもと同じ、安心する匂い。
私は、その胸元に頬を寄せた。
「今日も頑張ってね」
「ああ。陽葵も仕事、頑張って」
「うん♡」
律が出ていく。
ドアが閉まる。
私はしばらく玄関に立ったままだった。
「……聞けなかったな」
小さくつぶやく。
それから、いつものように笑顔を作って、仕事へ出かける準備を始めた。
*
ブーランジュリーひだまり。
店の扉を開けると、まだ焼き上がる前のパン生地の香りが、ほんのり漂っていた。
「おはようございます!」
「おはよう、陽葵ちゃん」
溝口さんが、厨房から顔を出した。
白いコックコートに、いつものエプロン。
手には大きなボウルを持っている。
「今日は早いね」
「はい! 朝から元気いっぱいです♡」
「そうかい。じゃあ、こっちの生地を手伝ってもらおうかな」
「お任せください!」
私はエプロンを着け、手を洗った。
厨房では、溝口さんが生地の状態を確かめている。
「今日は気温が低いから、発酵に少し時間がかかりそうだね」
「そうなんですね」
「パンはね、季節によって機嫌が違うんだよ」
「パンにも機嫌があるんですか?」
「あるとも。暑い日も寒い日も、湿気が多い日も乾燥している日も、同じようにはいかない」
「なんだか、人間みたいですね」
「ははっ。そうだねえ。毎日同じように見えても、少しずつ違うんだ」
溝口さんは、生地を両手で包むように持ち上げた。
「だから、よく見てやらないといけない。昨日と同じだから大丈夫、なんて思っていると、うまく焼けないこともある」
「なるほど……」
「毎日、ちゃんと向き合うことが大事なんだよ」
私は、その言葉を聞きながら、生地をこねる手を動かした。
毎日、ちゃんと向き合う。
それは、パンだけではないのかもしれない。
人との関係も。
夫婦の会話も。
街の暮らしも。
同じように見えて、少しずつ変わっている。
その変化に気づかないままでいると、何か大切なことを見落としてしまうのかもしれない。
「陽葵ちゃん?」
「あっ、はい!」
「生地、少し力が入りすぎているよ」
「えっ?」
「大丈夫。急がなくていいから、優しくね」
「は、はい!」
私は慌てて力を緩めた。
溝口さんは、ふっと笑った。
「今日は、何か考え事かい?」
「えっ? そんなことないですよ!」
「そうかい?」
「はい! パンのことだけ考えてます!」
「それならいいけどね」
溝口さんは、何も追及しなかった。
その優しさに、私は少しだけ救われた。
*
午前九時。
焼きたてのパンが、次々と店頭に並び始めた。
クロワッサン。
バゲット。
クリームパン。
季節限定の栗のデニッシュ。
店内に広がる香ばしい匂いに、朝からお客さんの足が止まる。
「いらっしゃいませ!」
「おはよう、陽葵ちゃん」
「あっ、おはようございます!」
常連のおばあちゃんが、いつものように笑顔で入ってきた。
「今日は栗のデニッシュ、あるかしら?」
「ありますよ! 焼きたてです♡」
「まあ、嬉しい。じゃあ、二ついただこうかしら」
「ありがとうございます!」
私はトングでパンを取り、袋に入れた。
「それにしても、最近は寒くなってきたねえ」
「そうですね。朝は特に冷えますね」
「この間まで暑い暑いって言っていたのに、あっという間だわ」
「秋って短いですよね」
「本当ねえ。気づいたら冬になっているわ」
おばあちゃんは、パンを受け取りながら、少し声を落とした。
「そういえば、再開発の話、聞いた?」
私は、思わず手を止めた。
「……はい。少しだけ」
「やっぱり。あちこちで話題になっているみたいね」
「まだ、はっきりしたことはわからないんですよね?」
「そうなのよ。誰も確かなことを知らないの。でも、気になるじゃない?」
「そうですよね……」
「この辺りも、ずいぶん古い建物が増えたからねえ。新しくする必要があるところもあるんだろうけど」
おばあちゃんは、店内を見回した。
「こういうお店は、どうなるのかしらね」
「……」
「ここのパン、好きなのよ。夫が元気だったころも、よく買いに来たの」
「そうだったんですね」
「朝、焼きたてのパンを買って、家で一緒に食べてね。あの人、ここのあんパンが好きだったのよ」
おばあちゃんは、少し懐かしそうに笑った。
「だから、このお店には、いろんな思い出があるの」
私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます。マスターにも伝えておきますね」
「そうしてちょうだい。これからも、おいしいパンを焼いてほしいわ」
「はい!」
おばあちゃんが帰ったあと、私は厨房のほうを振り返った。
溝口さんは、黙々とパンを焼いている。
その背中を見ていると、何とも言えない気持ちになった。
このお店にも、たくさんの思い出がある。
お客さんの思い出。
働く人の思い出。
家族の思い出。
この場所で積み重ねてきた時間。
それらは、建物を新しくするだけで、簡単に引き継げるものではないのかもしれない。
もちろん、新しい建物の中でも、同じように思い出を作ることはできる。
でも、それは今あるものをそのまま残すこととは違う。
私は、カウンターの端をそっと撫でた。
何度もパンを並べた場所。
何度もお客さんと笑顔を交わした場所。
ここで働き始めてから、私にもたくさんの思い出ができた。
できるなら、ずっとここにいたい。
そう思った。
*
午前十一時半。
店内が少し忙しくなってきた。
昼食用のパンを買いに来る会社員や、近所の人たちが次々に訪れる。
「カレーパンを二つください」
「はい、ありがとうございます!」
「こちらのサンドイッチは、まだありますか?」
「はい! こちらが最後の一つです」
私は笑顔で接客を続けた。
仕事に集中している間は、不安を忘れられる。
そう思っていた。
けれど、店の外を通る人たちの会話が、ふと耳に入ってくる。
「再開発って、いつごろから始まるんだろうね」
「まだ何も決まっていないらしいよ」
「でも、土地の調査が入るって聞いたけど」
「それ、本当なの?」
まただ。
どこへ行っても、再開発の話が聞こえてくる。
私は、パンを袋に入れながら、できるだけ意識しないようにした。
「陽葵ちゃん、次のトレーお願い」
「はい!」
溝口さんの声に、私は厨房へ向かった。
そのとき、店の奥で電話が鳴った。
「はい、ブーランジュリーひだまりです」
溝口さんが受話器を取る。
「はい……。ああ、そうですか。ええ、わかりました」
短いやり取りだった。
溝口さんは受話器を置き、しばらくその場に立っていた。
「マスター?」
私が声をかけると、彼は少しだけこちらを向いた。
「いや、なんでもないよ」
「お電話、何かあったんですか?」
「商店街の人からね。ちょっとした確認だよ」
「そうなんですね」
それ以上、私は聞かなかった。
でも、溝口さんの表情は、いつもより少し曇っていた。
何かを考えているような。
何かを気にしているような。
その横顔を見て、私は再び胸がざわついた。
*
昼の忙しさが落ち着いたころ。
溝口さんは、厨房の窓から外を眺めていた。
店の前を、買い物袋を持った女性が通り過ぎる。
向かいの花屋さんでは、店主が鉢植えを並べ替えていた。
八百屋さんの店先では、いつものように大きな声が聞こえる。
溝口さんは、その景色をしばらく見つめていた。
「……ここもそうなのかな」
ぽつり。
独り言のような声だった。
私は、トレーを持ったまま動きを止めた。
「……マスター?」
溝口さんは、すぐにはこちらを見なかった。
「いや……」
彼は、窓の外を見たまま、もう一度つぶやいた。
「この店も、そうなのかな」
その言葉が、静かな厨房に落ちた。
私は、何も言えなかった。
ここも。
この店も。
つまり、再開発の対象になるかもしれない。
溝口さん自身も、そう考え始めているのだ。
「マスター……」
「いや、まだ何もわからないんだよ」
溝口さんは、こちらを振り返った。
「こんな話をしても、仕方ないんだけどね」
「そんなことないです」
私は、思わず答えた。
「え?」
「仕方なくなんて、ないです」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
溝口さんは、少し目を見開いた。
「……そうかい」
「だって、ここはマスターのお店ですもん」
「まあ、そうだね」
「毎日、マスターがパンを焼いて、お客さんが買いに来て……。ここには、たくさんの思い出があるじゃないですか」
「……」
「だから、心配になるのは当然だと思います」
溝口さんは、窓の外へ目を戻した。
「この店を始めたのは、もうずいぶん前だよ」
「はい」
「最初はね、こんなにお客さんが来てくれるとは思っていなかった」
溝口さんは、ゆっくりと話し始めた。
「店を開いたころは、朝から晩までパンを焼いても、売れ残ることがあった。雨の日なんかは、ほとんどお客さんが来ないこともあったよ」
「そうだったんですね」
「それでも、毎日続けた。少しずつ、顔なじみのお客さんが増えてね。あの人は食パン、あの人はあんパン、あの子はクリームパンが好きだって、覚えるようになった」
溝口さんは、カウンターの端に手を置いた。
「この店は、ただパンを売る場所じゃないんだよ」
「……はい」
「ここに来ると、誰かと話せる。今日も元気だねって声をかけてもらえる。そんな場所になれたらいいと思って、続けてきたんだ」
私は、静かに耳を傾けた。
「パンを買いに来る人の中には、毎日同じ時間に来る人もいる。仕事へ行く前に寄ってくれる人。学校帰りに寄る子ども。家族のために買いに来る人。いろんな人がいる」
「はい」
「そういう人たちが、ここで過ごしてきた時間も、店の一部なんだろうね」
溝口さんは、少しだけ笑った。
「だから、もし本当に再開発の話が進むなら、どうなるのか心配になるよ」
私は、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「マスターは……このお店を続けたいですか?」
思わず、聞いていた。
溝口さんは、少し考えてから答えた。
「続けられるなら、続けたいね」
「……」
「でも、何が何でも今の形を守りたい、と言い切れるほど簡単な話でもないんだよ」
「どうしてですか?」
「建物が古くなっているのも事実だからね。設備のこともある。安全のこともある。お客さんに安心して来てもらうには、考えなきゃいけないことがいろいろある」
私は、律の言葉を思い出した。
建物は、見た目だけではない。
安全であること。
長く使えること。
使う人のことを考えること。
それは、律が仕事で大切にしていることだった。
「新しくすること自体が悪いわけじゃない。そこは、私もわかっているつもりだよ」
溝口さんは、穏やかな声で続けた。
「でもね、長く続けてきた店にとっては、簡単に場所を変えられるわけじゃない。設備を移せばいい、看板を掛け替えればいい、という話ではないんだ」
「……はい」
「お客さんとのつながりもある。仕入れ先もある。働いてくれている人もいる。店の場所が変われば、今まで来てくれていた人が来られなくなることだってある」
私は、自分の手を見つめた。
この店で働く自分。
ここで出会った人たち。
ここで交わした言葉。
それらも、店の一部なのだろうか。
「陽葵ちゃん」
「はい」
「君も、ここが好きかい?」
「……大好きです」
私は、迷わず答えた。
「パンの香りも、マスターも、お客さんも。みんな大好きです」
「そうかい」
「だから、ここがなくなっちゃうかもしれないなんて、考えたくないです」
言ってしまった。
自分の本当の気持ちを。
溝口さんは、何も言わずに、少しだけうなずいた。
「そう思ってくれるのは、嬉しいよ」
その言葉に、私は少しだけ目頭が熱くなった。
*
午後。
私は、いつものようにパンを並べ、接客を続けた。
でも、マスターの言葉が頭から離れなかった。
『この店も、そうなのかな』
あの一言。
それは、単なる不安ではなかった。
長い時間をかけて作り上げてきた場所を失うかもしれないという、現実的な心配だった。
そして、私は初めて気づいた。
自分がこの商店街を好きだと思う気持ちは、ただの懐かしさや居心地のよさだけではない。
ここにいる人たちが、毎日を積み重ねてきたこと。
それぞれの店が、それぞれのやり方で街を支えてきたこと。
その積み重ねが、今の商店街を作っている。
私は、その一部に加えてもらっている。
だから、守りたいと思う。
でも、どうすればいいのかはわからない。
再開発について、私は専門的な知識を持っていない。
建物の老朽化や防災の問題があるなら、改善が必要なのかもしれない。
新しい施設や道路ができることで、街が便利になる可能性もある。
それでも、今あるお店や人々の暮らしを、簡単に置き去りにしてほしくない。
その二つの気持ちが、私の中でぶつかっていた。
「陽葵ちゃん、そこの棚、補充をお願い」
「あっ、はい!」
溝口さんの声に、私は我に返った。
「すみません!」
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいからね」
「はい!」
私はパンを並べた。
ひとつ、またひとつ。
形を整えて、焼き色を確かめる。
パンの表面は、温かい光を受けて、きれいな黄金色に輝いていた。
その景色を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
今できることを、ちゃんとやろう。
まずは、目の前のお客さんに、おいしいパンを届けること。
この店で働く自分にできることは、それなのだから。
*
夕方。
店の外が、少しずつ暗くなってきた。
仕事帰りの人たちが、買い物袋を手に商店街を歩いている。
私は、最後のトレーを片づけながら、溝口さんに声をかけた。
「マスター。今日もお疲れさまでした」
「お疲れさま。今日もよく働いてくれたね」
「ありがとうございます」
「陽葵ちゃん」
「はい?」
「さっきの話だけどね」
溝口さんは、少しだけ視線を落とした。
「まだ、確かなことはわからない。だから、今から心配しすぎても仕方がないと思っているよ」
「……はい」
「でも、何も知らないまま、何も考えないままでいるのも違うんだろうね」
「そうですね」
「商店街の人たちとも、少し話してみようと思う。何か情報があるなら、みんなで共有したほうがいい」
「私も、できることがあればお手伝いします」
「ありがとう。でも、まずは自分の仕事を大切にしておくれ」
「はい!」
溝口さんは、いつもの優しい笑顔を見せた。
「陽葵ちゃんが笑顔で働いてくれると、店の中も明るくなるからね」
「えへへ♡ それなら、いっぱい笑顔で頑張ります!」
「ははっ。頼もしいね」
私は笑った。
でも、その笑顔の奥には、まだ不安が残っていた。
*
帰り道。
私は商店街をゆっくり歩いていた。
いつもの店先。
いつもの看板。
いつもの人たち。
でも、今日はその一つひとつが、いつもより大切に見えた。
花屋さんの店主が、鉢植えを片づけている。
八百屋さんのおじさんが、明日の仕入れについて電話をしている。
和菓子屋さんの店先には、今日も小さな灯りがともっていた。
その景色を見ながら、私は思った。
この街は、建物だけでできているわけじゃない。
そこに暮らす人たちがいて、働く人たちがいて、毎日訪れる人たちがいて。
その人たちの時間が重なって、街になっている。
だから、再開発という言葉を聞いても、簡単に賛成とも反対とも言えない。
新しくすることには、意味があるのかもしれない。
でも、今ある暮らしを守ることにも、意味がある。
その両方を大切にする方法は、ないのだろうか。
「……難しいなあ」
私は、空を見上げた。
夕焼けの色が、建物の窓に映っている。
この街の未来を、誰かが決めるのだろうか。
それとも、ここに暮らす人たちの声も、ちゃんと届くのだろうか。
私はまだ、何も知らない。
ただ、マスターのあの一言だけが、心に残っていた。
『この店も、そうなのかな』
*
家に帰ると、リビングのテーブルに律のメモが置いてあった。
『今日は少し遅くなる。夕飯は先に食べていてくれ。帰ったら連絡する』
私は、その文字を指先でなぞった。
律は今日も忙しい。
きっと、仕事に集中しているのだろう。
私はメモを置き、スマートフォンを取り出した。
メッセージ画面を開く。
何を送ろう。
今日、マスターが言っていたこと。
商店街の人たちが心配していること。
この店がなくなったら嫌だということ。
そして、律の仕事が気になっていること。
全部、伝えたい。
でも、どこから話せばいいのかわからない。
私は、入力欄に文字を打ち込んだ。
『ダーリン、今日ね、パン屋さんで……』
そこで止まった。
消す。
もう一度、打つ。
『最近、商店街で再開発の話が出ているの知ってる?』
画面を見つめる。
送信ボタンの上で、指が止まった。
これを送ったら、律はどう答えるだろう。
知っているよ、と言うのだろうか。
知らない、と言うのだろうか。
それとも、仕事の話だから答えられない、と言うのだろうか。
私は、ゆっくりと文字を消した。
そして、代わりに送った。
『今日もお仕事お疲れさま♡ マスターのパン、今日もおいしかったよ! ダーリンにも食べてほしいな♡』
送信。
すぐに既読がついた。
少しして、返事が届く。
『それはよかった。今度、買ってきてくれると嬉しい』
私は、画面を見ながら微笑んだ。
『もちろんです♡ ダーリンの分、ちゃんと取っておきます!』
返信を送る。
それから、スマートフォンをテーブルに置いた。
……やっぱり、聞けなかった。
私はソファに座り、ペンちゃんを抱き上げた。
「ねえ、ペンちゃん」
ぬいぐるみの丸い目を見つめる。
「私、ダーリンに何でも話せると思ってたんだけどな」
ペンちゃんは、何も答えない。
「でも、聞きたいことがあるのに、聞けないことってあるんだね」
私は、ぬいぐるみを抱きしめた。
「ダーリンのこと、信じてるよ。大好きだよ。それは本当」
少しだけ、声が震えた。
「でも、もし……もし、私の大好きな街と、ダーリンのお仕事が関係していたら、どうしたらいいんだろう」
部屋の中は静かだった。
時計の針が、一定のリズムで進んでいく。
私は、ペンちゃんをソファに戻した。
それから、テーブルの上に置いてあったデートノートを開く。
何か書こうと思った。
でも、やっぱりペンは進まない。
今日の出来事を漫画にしたら、どんな話になるだろう。
マスターの言葉。
お客さんの不安。
商店街の未来。
それを描くことはできる。
でも、今の私は、まだ言葉にできなかった。
大切な人たちの不安を、簡単に漫画にしたくなかった。
私は、ノートを閉じた。
*
夜遅く。
玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま」
「おかえりなさい、ダーリン♡」
私は、リビングから玄関へ向かった。
律は少し疲れた顔をしていた。
「起きていたのか」
「うん。待ってたよ」
「先に寝ていてよかったのに」
「だって、おやすみのぎゅーが必要ですから♡」
律は、小さく笑った。
「そうだったな」
私は両手を広げた。
律が近づいてくる。
その胸に、私はそっと頬を寄せた。
「今日もお疲れさま」
「ああ。ありがとう」
「お仕事、大変だった?」
「少しな」
「そっか……」
私は、律の背中に腕を回した。
聞きたい。
今なら、聞けるかもしれない。
今日、パン屋でマスターが言っていたこと。
商店街の再開発のうわさ。
あの概要書のこと。
でも、律の疲れた表情を見ると、言葉が止まってしまった。
「陽葵?」
「ん?」
「どうかしたか?」
「ううん。なんでもないよ」
「そうか?」
「うん。今日は、ダーリンに会いたかっただけ♡」
律は、私の髪にそっと手を置いた。
「俺も、陽葵に会いたかったよ」
その言葉が、嬉しかった。
でも、少しだけ寂しかった。
私は、律の胸に顔を埋めたまま、目を閉じた。
今は、何も聞かない。
でも、いつかは聞かなければならない。
この街のことも。
律の仕事のことも。
そして、私たちの未来のことも。
私は、心の中でそう決めた。
「ダーリン」
「ん?」
「明日も、ちゃんと帰ってきてね」
「ああ。できるだけ早く帰るよ」
「約束?」
「約束」
律は、私をもう一度抱きしめた。
その温もりは、いつもと変わらなかった。
けれど、私たちの間には、まだ言葉になっていないものが一つ、静かに横たわっていた。
ひだまり商店街の未来。
そして、律の秘密。
私は、そのどちらにも、まだ手を伸ばせずにいた。
ただ、明日もこの街でパンを焼きたい。
明日も律の帰りを待ちたい。
そんな当たり前の願いを、胸の中でそっと抱きしめていた。
第3節:商店街の寄り合い。おばあちゃんたちの「この街を残して!」という声
秋の終わり。
ひだまり商店街の街路樹は、枝に残った葉を少しずつ落とし始めていた。
朝晩の冷え込みが強くなり、店先には温かい飲み物や冬物の商品が並ぶようになった。
いつもなら、季節の変化を楽しみながら歩く商店街。
けれど、最近は少し違う。
どのお店に行っても、話題の中心にあるのは、あの言葉だった。
――再開発。
最初は、誰かが聞いたという小さなうわさだった。
それが、いつの間にか商店街のあちこちで話されるようになり、立ち退きという言葉まで聞こえるようになった。
まだ正式な説明を受けた人はいない。
具体的な計画の内容も、どこまで決まっているのかもわからない。
それなのに、人々の心には、少しずつ不安が広がっていた。
*
その日の午後。
ブーランジュリーひだまりでは、いつもより少し早く店じまいの準備が進められていた。
「陽葵ちゃん、今日は商店街の寄り合いがあるから、少し早めに上がってもらっていいよ」
厨房から溝口さんが声をかけてきた。
「寄り合いですか?」
「ああ。最近の再開発の話について、商店街の人たちで一度集まって話そうということになってね」
「そうなんですね」
私は、手にしていたトレーを棚に戻した。
「マスターも参加するんですか?」
「もちろん。うちも商店街の一員だからね」
「私も行っていいんでしょうか?」
「もちろんだよ。陽葵ちゃんも、この街で働いているんだから」
「ありがとうございます!」
私は笑顔で答えた。
でも、胸の中には少し緊張があった。
商店街の人たちが集まって、再開発について話し合う。
今まで、私はうわさを聞くだけだった。
お客さんの会話や、千尋ちゃんから聞いた話。
マスターの「ここもそうなのかな」という一言。
それぞれの言葉を聞くたびに、不安が大きくなっていた。
今日の寄り合いでは、もう少し具体的な話が出るのだろうか。
何か、新しい情報がわかるのだろうか。
「陽葵ちゃん」
「はい?」
「難しい話も出るかもしれないけど、無理に意見を言わなくてもいいからね」
「はい」
「まずは、みんながどう考えているのか、聞いてみるといい」
溝口さんは、いつもの穏やかな笑顔を見せた。
「この街には、長く暮らしてきた人もいるし、最近ここに来た人もいる。商売をしている人もいれば、住んでいるだけの人もいる。考え方はそれぞれ違うからね」
「……そうですね」
「だからこそ、ちゃんと話をすることが大切なんだと思うよ」
私は、ゆっくりとうなずいた。
「私も、みなさんのお話を聞きたいです」
「そうかい。じゃあ、一緒に行こう」
「はい!」
私はエプロンを外し、帰り支度を始めた。
今日の寄り合いで、何が話されるのか。
まだ、何もわからない。
でも、今までより一歩だけ、この街の未来に近づくような気がしていた。
*
寄り合いの会場は、商店街の奥にある小さな集会所だった。
普段は地域のサークル活動や、町内会の集まりなどに使われている場所だ。
入口には、手書きの紙が貼られていた。
『ひだまり商店街 臨時寄り合い』
その下には、小さく、
『再開発に関する情報共有と意見交換』
と書かれている。
「わあ……。もう、こんなに人が集まってる」
私は、会場の中を見渡した。
長机がいくつも並べられ、その周りに商店街の店主や住民が集まっている。
八百屋のおじさん。
花屋の店主。
和菓子屋のおばあちゃん。
近所に住んでいる人たち。
商店街で長年商売を続けている人たち。
いつもは店先で笑顔を見せている人たちが、今日は少し真剣な表情をしていた。
「あら、陽葵ちゃん!」
声をかけてきたのは、和菓子屋のおばあちゃんだった。
「あっ、こんにちは!」
「今日は来てくれたのね」
「はい。マスターと一緒に来ました」
「そう。若い人の声も大切だからねえ」
おばあちゃんは、私の手を優しく握った。
「この街のこと、これからも一緒に考えていきましょうね」
「はい!」
その言葉に、私は少しだけ心強さを感じた。
会場の前方には、商店街の代表者らしき男性が立っていた。
年齢は五十代くらいだろうか。
普段から商店街の行事を取りまとめている人で、私も何度か顔を見たことがある。
「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます」
その声を合図に、会場のざわめきが少しずつ静まっていく。
「今回、ひだまり地区の再開発に関するうわさが広がっていることを受け、商店街としても、一度情報を整理し、皆さんのご意見を伺いたいと思い、この場を設けました」
代表者は、手元の資料を確認しながら話を続けた。
「まず、最初に申し上げておきます。現時点で、私たちが正式に確認できている情報は限られています。具体的な工事の時期や、対象となる建物、各店舗への影響について、確定した説明を受けたわけではありません」
会場のあちこちから、小さな声が上がった。
「やっぱり、まだわからないのか」
「じゃあ、立ち退きって話は何なの?」
「誰がそんなことを言い始めたんだろうね」
代表者は、手を軽く上げて、皆を落ち着かせた。
「うわさだけで判断するのは避けたいと思います。ただし、再開発という話が出ている以上、私たちも何も知らないままでいるわけにはいきません」
その言葉に、私は小さくうなずいた。
確かなことがわからないからこそ、みんなで情報を共有する必要がある。
それは、私にもよくわかった。
「本日は、まず皆さんが心配していること、残してほしいもの、改善してほしいことなど、率直にお話しいただきたいと思います」
代表者がそう言うと、最前列に座っていた八百屋のおじさんが手を挙げた。
「じゃあ、俺からいいかな」
「はい。お願いします」
おじさんは立ち上がり、少し大きな声で話し始めた。
「俺は、この商店街で三十年以上、店をやっている。昔は今よりもっと店が多くてね。朝から晩まで、人がいっぱい歩いていたもんだ」
「そうだったねえ」
後ろの席から、誰かが相づちを打つ。
「最近は、昔と比べれば人通りも減ったし、空き店舗も増えた。建物だって古くなっている。そこは認めるよ」
おじさんは、少し間を置いた。
「でも、だからって、ここを全部新しくすればいいって話じゃないだろう?」
会場が静かになる。
「ここで商売を続けてきた人間には、それぞれ事情がある。簡単に場所を変えられるわけじゃない。店を移せば、同じようにお客さんが来てくれるとは限らないんだ」
「そうよ!」
すぐに声を上げたのは、前の席に座っていたおばあちゃんだった。
「私だって、この場所でずっと商売してきたんだから!」
おばあちゃんは、机に手を置きながら立ち上がった。
その表情には、いつもの優しい笑顔はなかった。
「うちはね、母の代からここでお店を続けてきたの。若いころから、毎日ここに立ってきたのよ。雨の日も、雪の日も、お客さんが少ない日もね」
「うんうん」
「ここで結婚して、子どもを育てて、孫の顔も見てきた。私の人生のほとんどが、この店と一緒なの」
おばあちゃんの声が、少し震えた。
「それを、ある日突然、出ていってくださいって言われても……。はい、そうですか、なんて言えるわけないでしょう!」
「そうだよ!」
別の女性も声を上げた。
「私たちだって、ここで暮らしているんだから!」
会場の空気が、少しずつ熱を帯びていく。
私は、膝の上で手を握った。
みんな、同じように不安を抱えている。
それぞれに、この街で過ごしてきた時間がある。
その時間を、簡単に手放すことなんてできない。
*
しばらくして、今度は花屋の店主が手を挙げた。
「私も、少し話していいですか?」
「どうぞ」
「私は、再開発そのものに反対というわけではありません」
その言葉に、会場が少しざわついた。
「えっ?」
「どういうこと?」
花屋の店主は、ゆっくりと続けた。
「この商店街の建物が古くなっているのは、私も感じています。うちの店も、雨漏りが心配になることがありますし、設備を直すにも費用がかかります」
「それは、そうだね」
「地震や火災のことを考えたら、安全な街にしていく必要があると思います。歩道も狭いところがあるし、高齢の方や車いすの方が通りにくい場所もあります」
私は、その話を聞きながら、周囲を見回した。
確かに、商店街の中には、古い建物がたくさんある。
歩道が狭く、自転車と歩行者がすれ違うときに気をつけなければならない場所もある。
段差があって、ベビーカーを押す人が困っているのを見たこともある。
安全で、誰もが安心して歩ける街にすることは、大切なことだ。
「だから、街をよくするための話し合いは必要だと思います。でも……」
花屋の店主は、少しだけ声を強くした。
「今までの商店街の良さを、全部なくしてしまうような計画なら、私は賛成できません」
「そうよねえ」
「新しくすることと、今あるものを壊してしまうことは、同じじゃないと思うんです」
その言葉に、私は心の中で何度もうなずいた。
新しくすること。
守ること。
どちらか一つを選ばなければならないのだろうか。
両方を大切にする方法はないのだろうか。
そんなことを考えていた。
*
すると、会場の後ろのほうから、少し大きな声が上がった。
「私は反対です!」
振り返ると、三人のおばあちゃんたちが並んで座っていた。
そのうちの一人が、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、この街で七十年以上暮らしています。ここで生まれて、ここで育って、結婚して、子どもを育てました」
おばあちゃんは、会場を見回した。
「この商店街には、私の知っている顔がたくさんあります。買い物に行けば、誰かが声をかけてくれる。具合が悪そうなら、心配してくれる。重い荷物を持っていたら、手伝ってくれる」
少しだけ、笑顔が戻った。
「私にとっては、ここが家みたいなものなの」
そして、再び真剣な表情になった。
「そんな場所を、簡単に変えてほしくありません」
その言葉に、隣のおばあちゃんも立ち上がった。
「私も反対!」
声は大きくなかった。
でも、はっきりとした言葉だった。
「新しい建物ができたって、今までのお店がなくなったら意味がないでしょう? 私は、八百屋さんでいつもの野菜を買いたいの。花屋さんで季節のお花を選びたいの。和菓子屋さんで、あの子どものころから食べているお饅頭を買いたいのよ」
「そうそう!」
もう一人のおばあちゃんも立ち上がった。
「便利になるのはいいことかもしれない。でも、便利になるために、私たちが長年暮らしてきた場所を失うなんて、納得できないわ!」
会場のあちこちから、拍手が起こった。
「そうだ!」
「私たちの声も聞いてほしい!」
「この街を残して!」
おばあちゃんたちの声が重なった。
その声を聞いて、私は胸が熱くなった。
いつも店先で笑顔を見せてくれるおばあちゃんたち。
パン屋さんで、栗のデニッシュを買ってくれる人。
和菓子屋さんで、いつもお饅頭を選んでいる人。
普段は穏やかに笑っている人たちが、今日はこんなにも強い言葉を口にしている。
それだけ、この街が大切なのだ。
私は、思わず手を握りしめた。
「……私も、残してほしい」
小さくつぶやいた。
隣に座っていた溝口さんが、こちらを見た。
「陽葵ちゃん?」
「……この街を、残してほしいです」
溝口さんは、何も言わずにうなずいた。
*
会場の熱気が少し落ち着いたころ、今度は若い男性が手を挙げた。
「僕は、この街に引っ越してきて、まだ三年くらいです」
彼は、少し緊張した様子で立ち上がった。
「正直、昔からの人たちの思い出や歴史を、全部わかっているわけではありません」
会場の人たちは、静かに耳を傾けている。
「でも、この商店街が好きで、ここに住むことを決めました。駅から少し歩くけど、買い物をするときに店の人が声をかけてくれる。近所の人たちと自然に挨拶できる。そういうところが気に入ったんです」
「ありがとうねえ」
前の席のおばあちゃんが、優しく声をかけた。
「だから、再開発で街が便利になること自体は、悪いことではないと思います。防災の面でも、歩道の面でも、改善できるところはあると思う」
彼は、少し言葉を探した。
「でも、今の商店街の良さを残せないなら、僕は寂しいです。新しい建物ができても、そこに今の人たちがいなければ、同じ街とは言えない気がします」
その言葉に、私ははっとした。
長年住んでいる人だけではない。
最近、この街に来た人たちも、ここを好きになっている。
街の歴史を知らなくても、ここで暮らす人たちと出会い、日々を重ねていくことで、新しい思い出が生まれている。
この街を守りたいと思う理由は、人それぞれなのだ。
*
次に、商店街の代表者が、皆に向かって話し始めた。
「皆さんのお話を聞いて、改めて感じました。再開発に対して、いろいろな考え方があるということです」
代表者は、手元の資料を置いた。
「安全性や建物の老朽化を考えると、改善が必要な部分はあるでしょう。一方で、今の商店街の暮らしや、人と人とのつながりを失いたくないという声も、よくわかります」
「じゃあ、どうするんですか?」
誰かが尋ねた。
「まずは、計画について正式な情報を確認する必要があります。対象となる区域はどこなのか。どのような整備を考えているのか。店舗や住民への影響はあるのか。そうした点を、きちんと確認しなければなりません」
「説明会は開かれるんですか?」
「現時点では、私たちのところに具体的な案内は届いていません。ただ、関係する窓口に問い合わせを行い、説明を求めることはできると思います」
「それなら、早く動いてほしい!」
「そうよ。うわさだけが広がって、みんな不安になっているんだから!」
再び、会場に声が広がった。
代表者は、何度もうなずいた。
「わかりました。商店街として、情報の確認を進めます。また、皆さんの意見も整理して、必要であれば関係者に伝えていきたいと思います」
「私たちの意見を、ちゃんと聞いてもらえるんでしょうね?」
先ほどの年配のおばあちゃんが、強い口調で尋ねた。
「はい。そのためにも、皆さんの声を記録しておきたいと思います」
「じゃあ、反対だっていう意見も、ちゃんと書いてくださいね」
「もちろんです」
「私は、今のお店を残してほしい!」
「私も!」
「私たちの暮らしを守ってほしい!」
おばあちゃんたちの声が、また会場に響いた。
私は、その様子を見ながら、胸の中に一つの思いが生まれているのを感じた。
今まで、私はただ、商店街が好きだった。
そこにあるお店が好きで、そこで働く人たちが好きで、毎日の景色が好きだった。
でも、好きだと思うだけでは、何も守れないのかもしれない。
この街で暮らす人たちが、どんな未来を望んでいるのか。
何を残したいのか。
何を変えてもいいと思っているのか。
それを、ちゃんと考える必要がある。
私は、膝の上で手を握りしめた。
*
寄り合いが終わりに近づいたころ、溝口さんが静かに立ち上がった。
「私からも、一つ話をさせてください」
会場の視線が集まる。
溝口さんは、少しだけ咳払いをした。
「私は、商店街でパン屋をやっています。ブーランジュリーひだまりの溝口です」
「ああ、パン屋さんね」
「いつもおいしいパンをありがとう」
何人かが笑顔で声をかけた。
溝口さんは、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。私は、この店を長く続けてきました。毎朝パンを焼いて、お客さんを迎えて、また次の日もパンを焼く。その繰り返しです」
彼は、少しだけ会場を見回した。
「この店には、毎日来てくださるお客さんがいます。家族のためにパンを買う人。仕事へ行く前に立ち寄る人。子どもが学校帰りに好きなパンを買いに来ることもあります」
私は、溝口さんの横顔を見つめた。
「そういう人たちとのつながりは、建物が新しくなったからといって、簡単に同じ形で続けられるものではありません」
会場は静かだった。
「もちろん、安全に暮らせる街にすることは大切です。建物の老朽化や防災の問題を、無視していいとは思っていません」
溝口さんは、そこで少し言葉を切った。
「でも、街をよくするというのなら、そこに暮らす人たちの毎日も、よくしてほしいんです」
私は、息をのんだ。
「新しい建物をつくることだけが、街をよくすることではないと思います。今あるお店や、そこで働く人たち、毎日買い物に来てくれる人たち。その人たちが安心して暮らし続けられることも、大切なことではないでしょうか」
「そうだねえ」
誰かが小さくうなずいた。
「私は、この店を続けたいと思っています。でも、それだけを主張したいわけではありません。安全にするために必要なことがあるなら、きちんと考えたい」
溝口さんの声は穏やかだった。
「ただ、私たちの声を聞かないまま、私たちの暮らしが決められてしまうことだけは、避けてほしいんです」
会場に、静かな拍手が広がった。
私は、胸がいっぱいになった。
あのときの言葉。
『この店もそうなのかな』
あれは、ただ店がなくなることを心配していた言葉ではなかったのだ。
この店を大切にしてきた人たちの暮らしを、守りたいという気持ちがあったのだ。
私は、溝口さんの背中を見つめた。
いつもはパンを焼いている、優しいマスター。
その人が、今日はこんなにも真剣に、自分の思いを言葉にしている。
私は、目頭が熱くなった。
*
寄り合いが終わり、会場の人たちが少しずつ帰り始めた。
入口付近では、何人かのおばあちゃんたちが集まって話していた。
「私は絶対に反対よ」
「私だってそうよ。あの店がなくなるなんて考えられないわ」
「でも、まだ何も決まっていないんでしょう?」
「だからこそ、今のうちに声を上げないといけないのよ」
その声を聞きながら、私は靴を履いた。
「陽葵ちゃん」
振り返ると、先ほど発言していたおばあちゃんが立っていた。
「あっ、こんにちは」
「今日は来てくれてありがとうね」
「いえ、こちらこそ。いろいろなお話を聞けて、よかったです」
「若い人にも、この街のことを考えてもらえると嬉しいわ」
「私も、この街が大好きですから」
「そう言ってくれると、心強いねえ」
おばあちゃんは、私の手を握った。
「私たちも、ただ反対って言いたいだけじゃないのよ」
「……はい」
「安全に暮らせることは大切だし、便利になるのも悪いことじゃない。でもね、今まで大切にしてきたものを、何も聞かずに変えられるのは嫌なの」
おばあちゃんは、ゆっくりと続けた。
「私たちが何を大切にしているのか、ちゃんと知ってほしいのよ」
「……わかります」
「この街にはね、長い時間があるの。その時間を、これからの人たちにも残したいの」
私は、深くうなずいた。
「私も、そう思います」
「ありがとうね」
おばあちゃんは、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、私は思った。
この街の未来は、まだ決まっていない。
でも、今ここにいる人たちが、何も考えていないわけではない。
それぞれに大切なものがあり、それぞれに守りたいものがある。
その声を、ちゃんと届けなければならない。
*
集会所を出ると、外はすっかり夕方になっていた。
商店街の街灯が、一つ、また一つと灯り始めている。
「陽葵ちゃん、帰ろうか」
溝口さんが声をかけてきた。
「はい」
二人で商店街の通りを歩き始める。
いつもなら、仕事の話や今日の売れ行きの話をするところだ。
でも、今日は少し違った。
「マスター」
「ん?」
「今日のお話、すごく心に残りました」
「そうかい?」
「はい。私、今まで再開発って聞いても、どうしたらいいのか全然わからなくて」
「うん」
「新しくすることも必要かもしれないし、でも、今の街も残してほしいし……。どっちが正しいのか、わからなくなっちゃって」
溝口さんは、歩きながら静かに答えた。
「どちらか一つが正しい、という話でもないんだろうね」
「……はい」
「安全にすることも大切。今までの暮らしを守ることも大切。だからこそ、どうすれば両方を大切にできるのか、考えなきゃいけないんだと思うよ」
「両方を……」
「ああ。簡単じゃないだろうけどね」
溝口さんは、少し笑った。
「難しいことを考えるのは、専門家の仕事かもしれない。でも、ここで暮らす人たちが何を望んでいるかを伝えるのは、私たちにもできることだよ」
私は、その言葉を心に刻んだ。
ここで暮らす人たちが、何を望んでいるのか。
その声を伝える。
それなら、私にも何かできるかもしれない。
「マスター。私も、できることを考えてみます」
「そうかい。無理はしなくていいけどね」
「はい。でも、この街のことだから」
私は、商店街を見回した。
「私も、ちゃんと考えたいです」
溝口さんは、優しくうなずいた。
*
家に帰ると、リビングの明かりがついていた。
律は、まだ帰っていない。
私は鞄を置き、コートを脱いだ。
テーブルの上には、朝に置いたままのメモがある。
そして、その隣には、律が以前仕事から持ち帰った資料の控えが置かれていた。
私は、その紙を見つめた。
そこに書かれている文字。
『ひだまり地区 再開発計画 概要書』
やっぱり、気になる。
今日の寄り合いで、みんなが話していたこと。
商店街のおばあちゃんたちの反対の声。
マスターの思い。
安全な街にしたいという願い。
今の暮らしを失いたくないという願い。
それらを聞いた今、私はますます、律の仕事について知りたいと思った。
もし、律がこの計画に関わっているのなら。
どんな立場で、どんな仕事をしているのだろう。
商店街の人たちの声を、知っているのだろうか。
それとも、まだ何も知らないのだろうか。
私は、スマートフォンを取り出した。
律とのメッセージ画面を開く。
『ダーリン、今日ね、商店街の寄り合いに行ってきたよ』
そこまで打って、少し考えた。
今日は、聞いてみよう。
少しだけでも、話してみよう。
私は、続けて文字を打った。
『再開発の話が出ていて、みんな心配してた。マスターも、おばあちゃんたちも、この街を大切に思ってるんだね』
送信ボタンを押す。
既読は、すぐにはつかなかった。
私はスマートフォンを置いた。
そして、ペンちゃんをソファから抱き上げた。
「ねえ、ペンちゃん」
ぬいぐるみの丸い目を見つめる。
「今日ね、商店街のみんなが、いっぱいお話ししていたんだよ」
私は、少しだけ笑った。
「みんな、この街が好きなんだって。ずっとここで暮らしたいんだって」
ペンちゃんを抱きしめる。
「私もね、この街を残してほしいなって思った」
そのとき、スマートフォンが震えた。
律からの返信だった。
『そうか。今日は寄り合いだったんだな。みんなの話を聞けてよかったね』
短い文章。
でも、私はその文字を何度も読み返した。
みんなの話を聞けてよかったね。
その言葉だけでは、何もわからない。
律がどこまで知っているのか。
何を考えているのか。
まだ、わからない。
私は、少し迷ってから、もう一度メッセージを送った。
『うん。みんなの声をちゃんと届けたいね』
送信。
しばらくして、律から返事が届いた。
『そうだな』
たった一言。
私は、その画面をじっと見つめた。
……ダーリン。
あなたは、何を考えているの?
私は、スマートフォンを胸元に抱きしめた。
聞きたい。
でも、まだ聞けない。
今日、寄り合いで聞いた言葉を、律に伝えたい。
でも、伝えたあとに、どんな返事が返ってくるのかが怖い。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「……いつか、ちゃんと話そうね」
その言葉は、誰に向けたものだったのだろう。
律に?
それとも、自分自身に?
*
夜遅く。
玄関の鍵が開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい、ダーリン♡」
私は、いつものように玄関へ向かった。
律は、少し疲れた顔をしていた。
「今日は遅かったね」
「ああ。少し仕事が長引いた」
「お疲れさま。ご飯、温めるね」
「ありがとう」
私はキッチンへ向かおうとした。
そのとき、律が声をかけてきた。
「陽葵」
「ん?」
「今日の寄り合い、どうだった?」
私は振り返った。
「……うん。みんな、いろいろ話してたよ」
「そうか」
「おばあちゃんたちは、今の商店街を残してほしいって。マスターも、パン屋さんを続けたいって言ってた」
「……そうなんだな」
「でも、安全な街にすることも大切だっていう人もいてね。古い建物や狭い道のことも、ちゃんと考えなきゃいけないって」
律は、黙って聞いていた。
「だから、みんなで情報を確認して、意見を伝えていこうって話になったの」
「そうか」
「ダーリンは、どう思う?」
私は、思い切って聞いてみた。
律は、少しだけ視線を落とした。
「どう、とは?」
「街を新しくすることと、今の街を残すこと。どっちも大切だと思う?」
律は、すぐには答えなかった。
数秒の沈黙。
それから、静かに口を開いた。
「どちらか一つだけを考えればいい、という話ではないと思う」
「……うん」
「安全に暮らせることは大切だし、そこで暮らしている人たちの生活も大切だ。建物を新しくするなら、そこで生活する人たちのことを考えなければ意味がない」
その言葉に、私は少し驚いた。
律らしい答えだった。
「そっか……」
「ああ」
「じゃあ、今のお店の人たちのことも?」
「当然だよ」
律は、私を見た。
「街を使うのは、建物を設計する人間じゃない。そこで暮らす人や、働く人、訪れる人たちだ。そこを忘れてはいけないと思う」
私は、その言葉を聞いて、少しだけ安心した。
でも、同時に、胸の奥に別の疑問が生まれた。
律は、どうしてそんなに具体的に話せるのだろう。
まるで、この計画について、何かを知っているような。
私は、思わず口を開いた。
「ダーリン……」
「ん?」
「最近のお仕事って……」
そこまで言った。
けれど、律の表情を見て、また言葉が止まった。
律は、何かを考えているようだった。
疲れているだけなのかもしれない。
仕事のことを、まだ話せないのかもしれない。
私は、結局、笑顔を作った。
「……大変そうだね」
「まあ、少しな」
「無理しないでね」
「ああ。ありがとう」
私は、律の手をそっと握った。
今は、これでいい。
でも、いつかはちゃんと聞きたい。
あなたの仕事が、この街とどうつながっているのか。
そして、あなたが何を考えているのか。
私は、律の手を握ったまま、心の中でそう思った。
窓の外では、冷たい風が吹いていた。
ひだまり商店街の灯りは、少しずつ消えていく。
それでも、あの街には、明日も人々の暮らしがある。
守りたい人たちがいる。
残したい思い出がある。
そして、その未来をめぐって、まだ誰も知らない大きな計画が動き始めていた。
第4節:お弁当を届けた日、ダーリンの曇った顔
朝、目を覚ましたとき、隣のベッドはもう空いていた。
「……あれ?」
陽葵は枕元の時計に目を向けた。
午前六時四十分。
いつもなら、律が起きる気配で目を覚ますこともある時間だ。けれど今日は、隣から聞こえるはずの衣擦れも、洗面所の水音も、ほとんど覚えていない。
ベッドから起き上がり、寝室のドアをそっと開ける。
リビングには、すでにスーツ姿の律がいた。
テーブルの上にはノートパソコンと書類が広げられ、片手にはマグカップ。コーヒーを飲みながら、画面を真剣に見つめている。
「ダーリン、おはよう♡」
「おはよう。起こしたか?」
「ううん。自然に目が覚めたの。……って、ダーリン、もうお仕事?」
「ああ。少し確認したいものがあってな」
「朝ごはんは?」
「あとで食べる」
「あとでって、いつ?」
「出る前には」
「それ、信用できない答えだよ?」
陽葵が頬を膨らませると、律はパソコンから目を離して、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、今食べる」
「よろしい♡」
陽葵はキッチンへ向かい、冷蔵庫から昨夜のうちに用意しておいたサラダとヨーグルトを取り出した。
トースターにパンを入れ、温めたスープを器に注ぐ。
律の朝食を並べていると、彼が書類をまとめる音が聞こえた。
「最近、朝も早いね」
「ちょっと立て込んでるんだ」
「夜も遅いし、休日もパソコンを開いているし……ダーリン、ちゃんと休めてる?」
「大丈夫だよ」
律はそう答えた。
いつもと同じ、落ち着いた声。
けれど、陽葵には少しだけ違って聞こえた。
以前の律なら、忙しいときでも「今週を乗り切れば少し落ち着く」とか、「この作業が終われば大丈夫」と、もう少し具体的に話してくれた。
最近は、何を聞いても「大丈夫」「ちょっと忙しい」「あと少し」。
それ以上の言葉が続かない。
「ねえ、ダーリン」
「ん?」
「今日のお昼、ちゃんと食べてね」
「ああ」
「コンビニのおにぎり一個で済ませたりしちゃダメだよ?」
「そんなことはしてない」
「本当?」
「本当」
「じゃあ、証拠を見せてもらおうかな」
「昼食の写真でも送ればいいのか?」
「そうそう♡」
「監視されてるみたいだな」
「新妻による健康管理です!」
陽葵が胸を張ると、律は小さく息を漏らした。
「わかった。努力する」
「努力じゃなくて、食べるの!」
「はいはい」
いつものやり取り。
いつもの朝。
それなのに、律が出勤の準備をしている間も、陽葵の胸の奥には小さな引っかかりが残っていた。
玄関で靴を履く律に、陽葵は後ろから声をかけた。
「ダーリン」
「何?」
「今日も遅くなりそう?」
「たぶん、少し」
「そっか……」
「夕飯は先に食べていていいから」
「うん。でも、待ってるかもしれないよ?」
「無理はするな」
「ダーリンもね」
律は振り返り、陽葵の頭にそっと手を置いた。
「行ってくる」
「いってらっしゃい♡」
ドアが閉まる。
陽葵はしばらく玄関に立ったまま、閉じたドアを見つめていた。
そして、ふと思い出す。
数日前の商店街の寄り合い。
古い建物の安全性を心配する人。今の店を失いたくない人。新しく住み始めた人。みんな、それぞれの立場で街の未来を考えていた。
あのとき、律は言った。
『新しくすること自体が悪いわけじゃない。ただ、そこに暮らしている人や、働いている人のことを考えないと意味がない』
あの言葉を口にしたときの律の表情を、陽葵は覚えている。
少し遠くを見るような、何かを考え込んでいる顔だった。
「……ダーリン、何を考えてるんだろう」
小さくつぶやいても、返事はない。
陽葵は気持ちを切り替えるように、ぱん、と両手を合わせた。
「よし! 今日は新妻パワー全開でいこう!」
そう言って、キッチンへ戻った。
いつもより少しだけ、丁寧にお弁当を作ろうと思った。
* * *
午前中、陽葵は「ブーランジュリーひだまり」の店頭に立っていた。
「いらっしゃいませ!」
焼きたてのパンの香りが店内に広がる。
カレーパンを買いに来る常連のおじいさん。食パンを予約していく近所の主婦。学校帰りに菓子パンを選ぶ高校生。
いつもと変わらない商店街の日常が、そこにはあった。
「陽葵ちゃん、今日も元気だねえ」
「はい! 元気だけが取り柄ですから♡」
「そんなことないよ。いつもお店を明るくしてくれて助かってるよ」
常連の女性にそう言われ、陽葵は照れくさそうに笑った。
店の奥では、溝口マスターが新しいパンの焼き上がりを確認している。
「マスター、おはようございます!」
「おはよう。今日は朝から張り切ってるね」
「実は、ちょっと計画があるんです」
「計画?」
「はい。ダーリンにお弁当を届けようと思って!」
陽葵が嬉しそうに話すと、マスターは手を止めた。
「律くんに?」
「最近、残業が増えているんです。朝も早いし、夜も遅いし……。ちゃんとご飯を食べているか心配で」
「そうか。あの子も忙しいんだな」
「はい。だから今日は、愛情たっぷりのお弁当を作って、仕事場まで届けちゃおうかなって」
「いいじゃないか」
マスターは穏やかに笑った。
「誰かが自分のことを気にかけてくれている。それだけでも、仕事の疲れは違うものだよ」
「ですよね!」
「ただし、押しつけにならないようにな。忙しいときは、相手にも事情がある」
「わかっています。ちゃんと確認してから届けます!」
「それなら安心だ」
陽葵は胸の前で両手を握った。
お弁当を作ることが、こんなにも楽しみになるなんて。
結婚する前は、誰かのために毎日料理を作る生活など、まだ遠い未来のことだと思っていた。
けれど今は、律が喜ぶ顔を想像するだけで、自然と頬が緩んでしまう。
「マスター、今日のおすすめパンは何ですか?」
「栗あんぱんだよ。秋だからね」
「わあ! それ、ダーリンも好きそう!」
「一つ持っていくかい?」
「いいんですか?」
「もちろん。お弁当のあとに食べてもらいなさい」
「ありがとうございます!」
陽葵は、ますますやる気になった。
昼前、仕事の区切りがついたところで、陽葵はマスターに声をかけた。
「マスター、少し早めに休憩をいただいてもいいですか?」
「いいよ。律くんのところへ行くんだろう?」
「はい! お弁当を届けてきます!」
「気をつけて行っておいで」
「行ってきます!」
陽葵はロッカーから小さな保冷バッグを取り出した。
中には、朝から用意したお弁当。
卵焼き、鶏の照り焼き、ブロッコリー、ミニトマト、きんぴらごぼう。ご飯には小さな梅干しを一つ。
彩りも栄養も考えた、陽葵なりの自信作だ。
さらに、マスターからもらった栗あんぱんを別の袋に入れた。
「ふふっ。ダーリン、喜んでくれるかな」
保冷バッグを持ち上げ、陽葵は店を出た。
* * *
律の勤める設計事務所は、商店街から少し離れたビルの三階にある。
以前、一度だけ訪れたことがあった。
そのときは、律が仕事場を案内してくれた。壁には建築写真や模型が並び、机の上には図面や資料が整然と置かれていた。
陽葵にとっては、普段見ることのない世界だった。
建物を作る仕事。
ただ壁や屋根を組み立てるのではなく、そこに住む人や、そこで働く人の暮らしを考える仕事。
律が学生のころから夢中になっていたものだ。
「ここだよね」
ビルの入口で確認し、陽葵はエレベーターに乗った。
三階に到着すると、廊下の奥に事務所の看板が見えた。
ドアの前で一度、髪を整える。
少しだけ緊張する。
仕事中の律を見るのは、家で見る律とは違うからだ。
「よし……」
小さく息を吸い、受付のインターホンを押した。
『はい』
「あの、こんにちは。星野律の妻の陽葵です。お弁当を届けに来ました」
『ああ、陽葵さん。少々お待ちください』
しばらくすると、事務所のドアが開いた。
出てきたのは、律と同じ事務所で働く男性だった。
「こんにちは。律くんの奥さんですね」
「はい。いつもお世話になっています」
「こちらこそ。律くん、今ちょっと打ち合わせ中なんですが、声をかけてきますね」
「ありがとうございます」
男性は奥へ戻っていった。
ドアの隙間から、事務所の様子が少し見える。
何人かの社員が机に向かい、パソコンの画面や大きな図面を見つめている。
壁際には建物の模型が置かれていた。
その光景を眺めていると、奥から聞き慣れた声が聞こえた。
「陽葵?」
「あっ、ダーリン!」
律が姿を現した。
シャツの袖を少しだけまくり、片手には書類を持っている。
いつもより髪が乱れているように見えた。
「どうしたんだ?」
「お昼ごはんを届けに来ました♡」
陽葵は保冷バッグを持ち上げた。
「朝、ちゃんと食べてねって言ったでしょう?」
「言われたな」
「でも、ちゃんと食べているか心配になっちゃって」
「わざわざ来てくれたのか」
「うん。お仕事の邪魔じゃなかった?」
「大丈夫だよ。ちょうど休憩に入ろうと思っていたところだ」
そう言って律は笑った。
けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
目の下には薄い疲れが見える。
いつもなら、陽葵の顔を見たとき、もう少し自然に表情が緩むはずだった。
「ダーリン、疲れてる?」
「少しだけな」
「少しだけ?」
「少しだけ」
「……本当かなあ」
陽葵が顔を覗き込む。
律は視線をそらすように、手元の書類をまとめた。
「せっかく来てくれたんだ。少し休憩するよ」
「うん!」
律に案内され、陽葵は事務所の休憩スペースへ向かった。
* * *
休憩スペースの小さなテーブルに、陽葵はお弁当を並べた。
「じゃーん!」
保冷バッグから取り出したお弁当箱を開く。
「今日のメニューは、ダーリンの好きなものを集めてみました!」
「おお」
「卵焼きは甘め。鶏の照り焼きは、ちょっとだけ生姜を効かせてあるよ。ブロッコリーとトマトも入れて、彩りもばっちり!」
「ありがとう」
「それから、これはマスターからのおすそ分け。栗あんぱんだよ」
「溝口さんが?」
「うん。秋のおすすめなんだって」
「あとでお礼を言っておくよ」
「うん。あ、食べる前に写真撮ろう!」
「写真?」
「そう! 新妻特製のお弁当記念日!」
陽葵はスマートフォンを取り出し、お弁当と律を一緒に撮ろうとした。
「ダーリン、もう少しこっちに寄って」
「こうか?」
「うん。笑って♡」
「……」
「ダーリン?」
「笑ってるつもりだ」
「それは、ちょっと難しい問題です」
陽葵は思わず吹き出した。
律も小さく笑う。
ようやく、いつもの二人の空気が戻ってきたように感じた。
「じゃあ、いただきます!」
「いただきます」
律は卵焼きを一口食べた。
「おいしい」
「本当?」
「ああ。ちょうどいい甘さだ」
「やった!」
陽葵は嬉しそうに身を乗り出した。
「鶏の照り焼きは?」
「これもおいしい」
「きんぴらは?」
「うん」
「全部おいしい?」
「全部おいしいよ」
「えへへ。よかった♡」
陽葵は自分のお弁当も取り出し、律の向かいに座った。
二人で食べる昼食。
家では当たり前の光景なのに、仕事場で一緒に食べると、少し特別な時間に思えた。
「そういえば、ダーリン」
「ん?」
「この前の商店街の寄り合い、覚えてる?」
「ああ」
「みんな、いろんなことを考えていたよね」
「そうだな」
「古い建物が心配っていう人もいたし、今のお店を続けたいっていう人もいたし……。私、あの話を聞いてから、街のことを前より考えるようになったんだ」
「うん」
「商店街って、ただお店が並んでいるだけじゃないんだよね。おばあちゃんたちの思い出もあるし、毎日買い物に来る人の生活もあるし」
「そうだな」
「でも、安全に暮らせることも大切だと思う。地震や火事が起きたときに、危ない場所があるなら、ちゃんと考えないといけないもんね」
「……そうだな」
律の箸が止まった。
ほんの一瞬だったが、陽葵は気づいた。
「ダーリン?」
「ん?」
「どうかした?」
「いや。陽葵の言うとおりだと思って」
律はそう答え、再び箸を動かした。
けれど、その表情はさっきよりも曇っていた。
陽葵は、何かを聞こうとした。
商店街の再開発のこと。
律が最近、何を考えているのか。
仕事が忙しい理由。
けれど、言葉が出てこなかった。
今ここで聞いてしまったら、律は答えに困るかもしれない。
仕事のことを簡単に話せない事情だってあるだろう。
それに、せっかく届けたお弁当の時間を、問い詰めるような時間にしたくなかった。
「……ねえ、ダーリン」
「何?」
「今日の夜も遅くなりそう?」
「まだわからない。たぶん、遅くなると思う」
「そっか」
「夕飯は先に食べていてくれ」
「うん。でも、ちゃんと帰ってきてね」
「帰るよ」
「お仕事が終わったら、まっすぐ?」
「できるだけな」
「できるだけじゃなくて、まっすぐ!」
「わかった」
陽葵は笑顔を作った。
「じゃあ、帰ってきたら、栗あんぱんの感想を聞かせてね」
「ああ」
「あと、お弁当箱は洗わなくていいからね。持って帰ってきてくれれば大丈夫」
「それくらいは自分で洗うよ」
「いいの。今日は私が届けたかったんだから」
「ありがとう」
律は、少しだけ優しい顔になった。
その表情を見て、陽葵はほっとした。
やっぱり、来てよかった。
少しでも律の疲れが和らいだなら、それだけで十分だと思った。
* * *
昼食を終えると、律はお弁当箱を片づけた。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした♡」
「本当においしかったよ」
「えへへ。次は何を作ろうかな」
「無理しなくていいからな」
「無理じゃないよ。私が作りたいんだもん」
「そうか」
「ダーリンが喜んでくれると、私も嬉しいの」
律は、少し困ったように笑った。
「陽葵」
「なあに?」
「ありがとう」
「どういたしまして♡」
そのとき、事務所の奥から声がした。
「律くん、さっきの資料なんだけど、少しいいかな?」
「ああ、今行きます」
律は返事をし、書類を手に取った。
「もう戻らないと」
「うん。お仕事頑張ってね」
「ああ。気をつけて帰るんだぞ」
「はーい!」
陽葵は保冷バッグを持ち、休憩スペースを出た。
律が事務所の入り口まで送ってくれる。
「じゃあ、また夜ね」
「うん。待ってる」
「無理して待たなくていいからな」
「それは帰ってくる時間によります!」
「そうか」
「ダーリン♡」
「ん?」
「こっち見て!」
律が振り返る。
陽葵は両手で小さなハートを作った。
「お仕事、頑張ってね。応援してるよ♡」
律は少し驚いたあと、口元を緩めた。
「ああ。頑張る」
「よし!」
その笑顔を見てから、陽葵は事務所を後にした。
けれど、エレベーターに乗り込む直前、ふと振り返ると、律はすでに机へ戻っていた。
その背中が、いつもより小さく見えた。
* * *
陽葵が帰ったあと、律は自分の席に戻った。
「奥さん、料理上手ですね」
同僚が声をかけてきた。
「ありがとう。助かったよ」
「わざわざ届けに来てくれるなんて、仲がいいですね」
「まあな」
「いいなあ。うちなんて、最近は帰っても寝ているところしか見ていないですよ」
「それはお互い様じゃないか?」
「確かに」
二人は短く笑った。
同僚は机の上の資料を指さした。
「それで、午後の確認なんですが」
「ああ。見ておく」
律は書類を受け取り、ページをめくった。
そこには、複数の検討事項が記されていた。
建物の状態。周辺道路。防災面の課題。人の流れ。既存の施設との関係。
どれも簡単に結論を出せるものではない。
机の端には、まだ整理しきれていない資料の束がある。
律はその一つを手に取った。
ページをめくる指が止まる。
頭の中に、陽葵の言葉が浮かんだ。
『商店街って、ただお店が並んでいるだけじゃないんだよね』
そして、寄り合いで聞いた人々の声も。
『この店を続けたいんです』
『安全に暮らせる街にしたい』
『今までの暮らしを失いたくない』
どれも間違っていない。
どれか一つだけを選べば、簡単に答えが出るというものでもない。
律は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
自分が何を優先すべきなのか。
どこまでできるのか。
何を守り、何を変えるべきなのか。
考えれば考えるほど、答えは遠くなる。
「律くん?」
同僚の声に、律は目を開けた。
「大丈夫ですか?」
「ああ。少し考え事をしていた」
「休憩、もう少し取ってもいいですよ」
「いや、大丈夫だ。続きを確認しよう」
律は再び書類に目を落とした。
机の上に置かれたお弁当箱は、きれいに空になっている。
その隣には、陽葵が持ってきてくれた栗あんぱん。
律はそれを見つめ、静かに息を吐いた。
「……ありがとう、陽葵」
誰にも聞こえない声でつぶやく。
今すぐにでも、すべてを話せたらいい。
けれど、まだ話せない。
決まっていないことを、決まったことのように伝えるわけにはいかない。
自分の中でも整理できていない思いを、陽葵に背負わせたくもなかった。
それでも、何も話さないままでいることが、彼女を不安にさせているのはわかっていた。
嘘はつきたくない。
でも、何をどこまで話せばいいのかがわからない。
律は栗あんぱんをそっと机の端に置き、資料を開いた。
* * *
夕方、陽葵は仕事を終えて帰宅した。
玄関で靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
「ただいまー!」
返事はない。
当然だ。
律はまだ仕事中なのだから。
陽葵は保冷バッグを片づけ、キッチンに立った。
夕飯の準備をしながら、昼間のことを思い返す。
お弁当を食べてくれたときの律の笑顔。
「おいしい」と言ってくれた声。
そして、そのあとに見せた曇った表情。
「……やっぱり、何かあるよね」
陽葵は包丁を置き、窓の外を見た。
商店街の明かりが、一つ、また一つと灯っていく。
夕方の買い物客が行き交い、店先では店主たちが片づけを始めている。
ここには、いつもの暮らしがある。
明日も、明後日も続いてほしいと思う景色がある。
でも、その未来がどうなるのかは、まだ誰にもわからない。
陽葵はスマートフォンを手に取った。
律にメッセージを送る。
『お弁当、全部食べてくれてありがとう♡
栗あんぱんも忘れずに食べてね!
お仕事大変だと思うけど、無理しすぎないでね。
帰りを待ってるよ。大好き♡』
送信すると、すぐに既読がついた。
少しして返信が届く。
『ありがとう。お弁当、本当においしかった。
栗あんぱんもいただいたよ。
もう少しかかりそうだけど、終わったら帰る』
陽葵は画面を見つめ、微笑んだ。
「よかった。ちゃんと食べてくれたんだ」
それだけで、少し安心できた。
けれど、メッセージの短さが気にならないわけではない。
いつもなら、最後に一言くらい冗談を返してくれることもある。
今日はそれがなかった。
陽葵はスマートフォンをテーブルに置いた。
「……今は、待とう」
無理に聞き出すのではなく、律が話せるときまで待つ。
それも夫婦として大切なことなのかもしれない。
そう思いながら、夕飯の支度を続けた。
* * *
その夜、律が帰宅したのは午後十一時を過ぎたころだった。
「ただいま」
「おかえりなさい、ダーリン♡」
陽葵はリビングから玄関へ向かった。
「遅かったね。お疲れさま」
「ああ。ただいま」
「ご飯、温めるね」
「ありがとう。でも、少しだけでいい」
「だめ。少しでも食べて」
「わかった」
律は上着を脱ぎ、手を洗ってから食卓についた。
陽葵が温め直した夕飯を並べる。
「今日はね、野菜たっぷりのスープと、鮭のホイル焼きだよ」
「おいしそうだな」
「昼はお弁当、夜はおうちご飯。ダーリンの健康は私が守ります!」
「頼もしいな」
「任せてください♡」
律はスープを口に運んだ。
温かい湯気が、疲れた顔を包み込む。
「おいしい」
「よかった」
陽葵は向かいに座り、律が食べる様子を見守った。
「ねえ、ダーリン」
「ん?」
「今日、お仕事どうだった?」
「いつもどおりだよ」
「そっか」
それ以上、言葉が続かなかった。
聞きたいことはたくさんある。
でも、律はまだ話したくないのかもしれない。
陽葵は、別の話題を探すように笑った。
「そうだ! 今日、マスターから新しいパンの試作品をもらったんだよ」
「どんなパン?」
「さつまいもとクリームチーズのパン。秋らしくておいしかった!」
「それは気になるな」
「今度、ダーリンにも買ってくるね」
「ああ。楽しみにしてる」
短い会話のあと、律は静かに食事を続けた。
食べ終えると、彼は食器を持って立ち上がった。
「洗い物は私がするよ」
「今日は俺がやる」
「でも、疲れてるでしょ?」
「食べさせてもらったんだから、これくらいはする」
「……じゃあ、一緒にやろう?」
「そうだな」
二人でキッチンに並んだ。
律が食器を洗い、陽葵が拭いて棚に戻す。
何気ない家事の時間。
結婚してから、何度も繰り返してきた日常。
それでも、今日はどこか静かだった。
食器を片づけ終えたあと、陽葵は律の背中にそっと近づいた。
「ダーリン」
「ん?」
「今日、来てよかった?」
「もちろん」
「お弁当、迷惑じゃなかった?」
「そんなわけないだろ」
律は振り返った。
「嬉しかったよ。ありがとう」
「本当?」
「ああ」
「じゃあ、また届けてもいい?」
「仕事の都合が合えばな」
「うん。無理はしないよ」
陽葵は律の胸元に額を寄せた。
「ねえ。私、ダーリンのこと、ちゃんと見ていたいんだ」
「……陽葵?」
「忙しいときも、疲れているときも、元気なときも。いつも一緒にいたいし、ダーリンが何を考えているのかも知りたい」
「……」
「でも、話したくないことまで無理に聞き出したいわけじゃないよ」
律の手が、陽葵の背中に触れた。
「ただね、ひとりで抱え込まないでほしいの」
「……わかってる」
「本当に?」
「ああ」
律は少しだけ間を置いてから、陽葵の髪を撫でた。
「心配をかけて悪い」
「謝らなくていいよ」
「もう少ししたら、ちゃんと話す」
その言葉に、陽葵は顔を上げた。
「……うん」
「今は、まだ整理できていないことが多いんだ」
「そっか」
「嘘はつきたくない。でも、確かなことを話せる段階でもない」
律は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「だから、もう少しだけ時間をくれないか」
陽葵は律の目を見つめた。
そこには、疲れだけではない何かがあった。
迷い。
責任。
そして、誰かを傷つけたくないという思い。
それが何に向けられているのか、陽葵にはまだわからない。
けれど、律が苦しんでいることだけは伝わってきた。
「うん。待ってる」
「ありがとう」
「でも、ダーリン」
「何?」
「一人で悩むのは禁止です」
「難しいことを言うな」
「難しくても禁止!」
「わかった」
「あと、ちゃんと寝ること!」
「努力する」
「努力じゃなくて、寝るの!」
律は、ようやくいつものように笑った。
「はいはい」
陽葵は満足そうに頷き、彼の胸に頬を寄せた。
「おやすみの前に、ぎゅーして♡」
「はい」
律は陽葵を抱きしめた。
その腕の温かさに、陽葵は目を閉じた。
何も解決していない。
何も聞けていない。
それでも、今夜はこうして一緒にいられる。
それだけで、少しだけ安心できた。
* * *
深夜。
陽葵が眠ったあと、律はそっとベッドを抜け出した。
リビングの明かりをつけ、テーブルに置いた鞄から資料を取り出す。
仕事を持ち帰るつもりはなかった。
けれど、どうしても確認しておかなければならないことがあった。
資料を広げる。
いくつものページに、建物の写真や周辺環境の情報が並んでいる。
律は一枚ずつ目を通し、ペンで小さく印をつけていった。
その中に、見慣れた風景の写真があった。
商店街の入口。
パン屋の看板。
八百屋の店先。
花屋の前に並ぶ鉢植え。
そして、何度も歩いたことのある道。
律の指が止まる。
「……ここまで来ているのか」
小さくつぶやき、資料を閉じた。
そのとき、寝室のほうからかすかな物音がした。
「……ダーリン?」
眠そうな陽葵の声。
律は慌てて資料をまとめた。
「起こしたか?」
「ううん……。隣にいなかったから」
「ごめん。少し確認していた」
「もう寝よう?」
「ああ。すぐ行く」
陽葵は寝室の入口に立っていた。
眠そうに目をこすりながら、律を見つめている。
「ダーリン、こっち見て」
「見てるよ」
「ううん。ちゃんと、こっち」
律は顔を上げた。
陽葵は小さく笑った。
「おやすみって言いたかったの」
「……おやすみ、陽葵」
「おやすみなさい♡」
律は資料を鞄にしまい、寝室へ戻った。
ベッドに入ると、陽葵はすぐに彼の腕に寄り添った。
「今日はお弁当食べてくれてありがとうね」
「こちらこそ、ありがとう」
「また作るね」
「ああ」
「今度は栗あんぱんも一緒に買ってくる!」
「楽しみにしてる」
陽葵の呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。
律は天井を見つめたまま、眠れずにいた。
商店街の人たちの声。
陽葵の言葉。
そして、机の上に広げた資料。
どれも、簡単には忘れられない。
彼は目を閉じた。
明日も、きっと忙しい。
そして、明日もまた、陽葵は笑顔で「おかえり」と言ってくれるのだろう。
その笑顔を守りたい。
けれど、今の自分に何ができるのか。
まだ答えは見つからなかった。
翌朝。
陽葵は、いつものように律を見送った。
「ダーリン、今日も頑張ってね!」
「ああ。陽葵も仕事、頑張って」
「うん!」
玄関のドアが閉まる。
陽葵は、ふとリビングのテーブルに目を向けた。
昨夜、律が資料を広げていた場所。
きれいに片づけられているはずなのに、テーブルの端に一枚、小さな紙片が残っていた。
拾い上げようとした、そのとき。
スマートフォンが鳴った。
溝口マスターからのメッセージだった。
『陽葵ちゃん、今日の午後、商店街のことで少し話があるんだ。時間があったら店に来てくれるかい?』
「商店街のことで……?」
陽葵は紙片から手を離し、スマートフォンを見つめた。
胸の奥に、また小さな不安が広がる。
律の仕事。
商店街の未来。
そして、昨夜の資料に写っていた見慣れた風景。
それぞれが、少しずつつながり始めている気がした。
けれど、まだ何も確かめられていない。
「……私も、ちゃんと知らなくちゃ」
陽葵は小さくつぶやいた。
大好きな街のこと。
大好きな夫のこと。
どちらも、大切だから。
その日の午後、陽葵はマスターの話を聞くため、商店街へ向かうことにした。
そして、まだ知らないはずの一枚の図面が、二人の距離を少しずつ変えようとしていた。
第5節:事務所で見てしまった図面。ひだまり商店街の文字
午後の商店街には、いつもと少し違う風が吹いていた。
秋も深まり、街路樹の葉は赤や黄色に色づいている。店先に並ぶ焼き芋の看板、八百屋の軒先に積まれたみかん、花屋の前で揺れる小さなコスモス。
どれも、陽葵が好きな商店街の風景だった。
「ありがとうございました。またお待ちしていますね!」
ブーランジュリーひだまりの店頭でお客さんを見送った陽葵は、店内に戻った。
午後のピークが過ぎ、店の中には焼きたてのパンの香りと、オーブンの小さな音だけが残っている。
「陽葵ちゃん、ちょっといいかい?」
厨房から溝口マスターが顔を出した。
「はい、マスター。どうしました?」
「この前の寄り合いのことなんだけどね」
「あっ、商店街の再開発の話ですか?」
「そう。少し新しい情報が入ってきたんだ」
陽葵は手に持っていたトレーを置いた。
「何か分かったんですか?」
「まだ正式な説明があったわけじゃない。ただ、商店街周辺の建物や土地について、調査が進められているらしい」
「調査……」
「建物の状態や道路の幅、周辺の施設なんかを調べているようだね」
「じゃあ、やっぱり再開発の話は本当なんでしょうか?」
「可能性はあるだろうね。ただ、どこまで決まっているのかは、まだ分からない」
マスターはカウンターに置かれた新聞を手に取った。
「こういう話は、噂だけが先に広がってしまうことがある。だから、確かな情報が出るまでは落ち着いていたいところだね」
「そうですよね……」
陽葵はうなずいた。
前回の寄り合いで聞いた言葉が、頭の中によみがえる。
『この街を残して!』
長く店を続けてきたおばあちゃんたちの声。
新しく住み始めた人の、これからもここで暮らしたいという思い。
そして、古い建物の安全性を心配する人たちの声。
みんなが、この街の未来を考えていた。
「陽葵ちゃん」
「はい?」
「律くんの仕事も、忙しそうなんだろう?」
「はい。最近は帰りも遅くて、朝も早いんです」
「そうか」
「お弁当を届けに行ったんですけど、ちょっと疲れているみたいでした」
「仕事が立て込んでいるのかもしれないね」
「そうだと思います。でも……」
陽葵は言葉を止めた。
「でも?」
「何か、考え込んでいるような顔をしていたんです」
マスターは、陽葵の表情を見つめた。
「律くんは、建築の仕事に真剣な子だからね」
「はい。学生のころから、ずっと建物のことを考えていたって聞いています」
「そうだね。建物を作るというのは、図面を描いて終わりじゃない。そこに暮らす人のことも考えなきゃならない」
「……マスターも、そう思いますか?」
「もちろん。店も同じだよ。パンを焼いて売るだけなら、場所はどこでもいいのかもしれない。でも、この店には、この街で積み重ねてきた時間がある」
マスターは、店内をゆっくり見回した。
「お客さんとの会話も、毎朝パンを買いに来てくれる人の顔も、全部ここにある。だから、簡単に別の場所へ移ればいいという話ではないんだ」
「そうですよね」
「ただ、変わらないことだけが正解とも限らない。古くなった建物を安全にすることも大切だし、これから先のことを考える必要もある」
「難しいですね」
「難しいね。だからこそ、みんなで話さなきゃいけないんだよ」
陽葵は、静かにうなずいた。
そのとき、マスターのスマートフォンが鳴った。
「おっと、電話だ。陽葵ちゃん、悪いけど、奥の在庫を確認しておいてくれるかい?」
「はい、分かりました」
「ありがとう」
マスターは電話に出るため、事務所のほうへ向かった。
陽葵は在庫表を手に取り、棚のパンを確認し始めた。
けれど、頭の片隅には、律のことが残っていた。
どうして、あんなに疲れた顔をしているのだろう。
仕事が忙しいだけならいい。
でも、あの日、律が資料を見つめていたときの表情は、単なる仕事の疲れとは違うように思えた。
「……ダーリン」
小さくつぶやいた声は、店の奥に消えていった。
* * *
その日の夕方、陽葵は仕事を終え、帰宅の準備をしていた。
スマートフォンを見ると、律からメッセージが届いている。
『今日は少し遅くなる。夕飯は先に食べていてくれ』
いつものような短い連絡だった。
陽葵は返信を打つ。
『分かったよ。お仕事頑張ってね♡ あまり無理しないでね』
送信して、画面を閉じる。
「今日も遅いんだ……」
以前は、仕事が忙しい日でも、帰宅後に二人で食事をする時間を作ってくれていた。
最近は、その時間が少しずつ減っている。
寂しくないと言えば嘘になる。
でも、律が一生懸命に仕事をしていることも知っている。
だから、陽葵は自分に言い聞かせる。
「よし。今日はおいしいご飯を作って待っていよう!」
帰宅すると、陽葵は夕飯の準備を始めた。
冷蔵庫から野菜を取り出し、鍋に水を張る。
律の好きなきのこの炊き込みご飯。
鶏肉と大根の煮物。
それから、温かい味噌汁。
食卓に並べる料理を考えながら、ふと、陽葵は手を止めた。
律は、商店街のことをどう思っているのだろう。
あの寄り合いで話題になった再開発。
古い建物の安全性。
店を続けたい人たちの願い。
建築の仕事をしている律なら、何か知っているのかもしれない。
けれど、聞いてもいいのだろうか。
仕事には守秘義務もあるかもしれない。
まだ決まっていないことを、勝手に話せない事情もあるだろう。
「……うーん」
陽葵は、鍋の中をかき混ぜた。
「夫婦なのに、聞けないことってあるんだね」
そうつぶやいて、少しだけ寂しくなった。
* * *
翌日。
陽葵は、律から頼まれていたものを届けるため、再び事務所へ向かうことになった。
正確には、律が前日の夜に忘れていった書類ケースだった。
朝、玄関の棚に置かれているのを見つけた陽葵は、すぐに律へ連絡した。
『これ、仕事の書類ケースじゃない?』
少しして返事が届いた。
『ああ、忘れていた。今日、事務所に持ってきてもらえると助かる』
『分かったよ!』
『ありがとう。受付で預けてくれれば大丈夫』
『はーい♡』
陽葵は書類ケースをバッグに入れ、仕事を終えてから事務所へ向かった。
前回、お弁当を届けに行ったときのことを思い出す。
律は忙しそうだったけれど、最後には笑顔を見せてくれた。
今日も少しだけ顔を見られたらいいな。
そんなことを考えながら、ビルの三階へ上がった。
受付のインターホンを押す。
『はい』
「こんにちは。星野律の妻の陽葵です。主人が忘れた書類ケースを届けに来ました」
『ああ、陽葵さん。いつもありがとうございます。少々お待ちください』
ほどなくして、前回応対してくれた男性が出てきた。
「こんにちは。わざわざありがとうございます」
「こんにちは。こちら、律の忘れ物です」
「助かります。律くん、今ちょうど別の打ち合わせに出ていて、戻るまで少し時間がかかりそうなんです」
「そうなんですね」
「よろしければ、こちらで預かっておきますよ」
「お願いします」
陽葵は書類ケースを渡した。
「律くんには、陽葵さんが届けてくれたと伝えておきますね」
「ありがとうございます」
「せっかく来ていただいたのに、すみません」
「いえいえ。お仕事中ですから」
男性は、事務所の中へ戻ろうとした。
そのとき、陽葵はふと思い出した。
「あの、すみません」
「はい?」
「少しだけお手洗いをお借りしてもいいでしょうか?」
「ああ、もちろんです。奥の廊下を進んだところにあります」
「ありがとうございます」
「では、ご案内しますね」
男性の案内で、陽葵は事務所の中へ入った。
以前訪れたときよりも、机の上に書類が多く積まれている。
パソコンに向かう社員たちの表情も真剣だった。
電話の声、キーボードを打つ音、紙をめくる音。
それらが重なり、事務所全体が忙しそうな空気に包まれている。
陽葵は廊下を進みながら、壁に並ぶ建築写真を眺めた。
住宅、店舗、公共施設。
完成した建物の写真には、それぞれ違った表情がある。
「素敵な建物がたくさんありますね」
「ありがとうございます。うちの事務所で設計したものもありますよ」
「律も、こういう建物を作っているんですね」
「ええ。律くんは細かいところまでよく考える人ですよ。頼りにしています」
「そうなんですか?」
「はい。責任感も強いですし、現場の人たちの意見もよく聞きます」
陽葵は嬉しくなった。
「そう言っていただけると、妻としても嬉しいです」
「律くん、いい奥さんをもらいましたね」
「えへへ。ありがとうございます」
案内してくれた男性は、事務所の奥を指さした。
「お手洗いはあちらです。私は受付に戻っていますので、帰りはそのまま出ていただいて大丈夫です」
「はい。ありがとうございます」
男性が戻っていく。
陽葵は廊下の先へ進んだ。
* * *
お手洗いを済ませた陽葵は、来た道を戻ろうとした。
そのとき、事務所の奥にある大きなテーブルが目に入った。
テーブルの上には、何枚もの大きな図面が広げられている。
白い紙の上に、細い線や数字、建物の輪郭が描かれていた。
その周りには数人の社員が集まり、何かを確認している。
「この道路幅だと、歩行者の動線をどう確保するかが問題ですね」
「既存の店舗との関係も整理しないといけません」
「建物の老朽化については、もう少し調査が必要です」
聞こえてきた言葉に、陽葵は足を止めた。
道路幅。
既存の店舗。
建物の老朽化。
どこかで聞いたことがあるような言葉だった。
そうだ。
商店街の寄り合いで話題になったことと、よく似ている。
もちろん、建築の仕事ではよく使われる言葉なのだろう。
だから、これだけで何かを決めつけることはできない。
陽葵は、通り過ぎようとした。
そのとき、テーブルの端に置かれていた一枚の図面が、少しだけ風にめくれた。
紙の上部に、大きな文字が見えた。
陽葵の視線が、そこに吸い寄せられる。
――ひだまり商店街周辺整備計画。
「……え?」
声が出そうになり、陽葵は慌てて口元を押さえた。
見間違いだと思った。
もう一度、文字を確認する。
ひだまり商店街。
間違いない。
そこには、自分が毎日働いている商店街の名前が書かれていた。
図面の中には、見慣れた道が描かれている。
商店街の入口。
パン屋の位置。
八百屋の場所。
花屋の前の道路。
そして、いつも買い物客が行き交う小さな交差点。
陽葵は、息をするのも忘れた。
「……どうして?」
図面には、建物の輪郭がいくつも描かれていた。
現在の建物の配置とは違う線もある。
道路の形状を示す線。
敷地の境界を示すような線。
建物の配置を検討したと思われる図。
陽葵には、専門的な内容までは分からない。
けれど、それが今の商店街をそのまま写したものではないことだけは分かった。
さらに、その横には資料が重ねられていた。
小さな文字が並んでいる。
既存建物調査。
周辺環境。
歩行者動線。
防災計画。
店舗配置検討。
陽葵の胸が、強く締めつけられた。
商店街の寄り合いで聞いた言葉。
マスターが話していた調査のこと。
律が最近、毎日のように遅くまで仕事をしていること。
そして、あの曇った表情。
ばらばらだった出来事が、一つの線でつながっていく。
「まさか……」
陽葵は、もう一度図面を見た。
そこには、確かに書かれていた。
ひだまり商店街。
自分が大切にしている場所。
マスターが長年守ってきたパン屋。
寄り合いで「この街を残して」と声を上げたおばあちゃんたちの店。
いつも笑顔で挨拶を交わす人たちの暮らし。
それらが、図面の上に描かれている。
陽葵の指先が、わずかに震えた。
そのとき、図面のそばに置かれた資料の一部が目に入った。
そこには、担当者や関係者の名前が並んでいるようだった。
陽葵は近づくつもりなどなかった。
ただ、目に入ってしまった。
その中に、見慣れた二文字があった。
星野。
「……星野?」
心臓が、一度大きく跳ねた。
その下には、律の名前が続いていた。
星野 律。
陽葵は、その場で固まった。
何度見ても、見間違いではなかった。
夫の名前。
自分が毎晩「おかえり」と迎える人の名前。
朝、玄関で見送る人の名前。
お弁当を届けたとき、疲れた顔で「ありがとう」と言ってくれた人の名前。
その律の名前が、ひだまり商店街の図面と同じ資料に記されていた。
「……ダーリンが?」
胸の奥で、何かが崩れるような感覚がした。
律は、商店街のことを知っていたのだろうか。
どこまで知っていたのだろう。
この計画に、どのように関わっているのだろう。
もしかしたら、あの忙しさも。
あの曇った表情も。
自分に何も話してくれなかったことも。
全部、この仕事と関係しているのだろうか。
「……陽葵さん?」
背後から声がした。
陽葵は、びくっと肩を震わせた。
振り返ると、先ほど案内してくれた男性が立っていた。
「あ……」
「どうかしましたか?」
「い、いえ……」
陽葵は慌てて視線をそらした。
「すみません。ちょっと、図面が目に入ってしまって」
「ああ、こちらは今検討中の資料ですね」
男性はテーブルのほうを見た。
「いろいろな案件が重なっていて、今は事務所全体が忙しいんですよ」
「そうなんですね……」
「律くんも、かなり集中して取り組んでいますよ」
その言葉に、陽葵は反応した。
「律が……?」
「ええ。まだ詳しいことはお話しできませんが、責任のある仕事を任されています」
「そう、なんですね」
男性は、陽葵の様子を気にするように見た。
「もしかして、何か気になることでも?」
「いえ。大丈夫です」
陽葵は笑顔を作った。
けれど、うまく笑えている自信はなかった。
「今日は書類ケースを届けていただいて、ありがとうございました。律くんにも伝えておきますね」
「はい……お願いします」
「では、受付までご案内します」
「ありがとうございます」
陽葵は、図面から目を離した。
その場を離れるとき、もう一度だけ振り返りたいと思った。
けれど、振り返らなかった。
これ以上見てしまったら、何かを確かめずにはいられなくなる気がしたからだ。
* * *
ビルを出た瞬間、陽葵は大きく息を吐いた。
秋の風が頬を撫でる。
いつもと同じ街並み。
いつもと同じ道路。
けれど、今までとは違って見えた。
「……ダーリンの仕事だったんだ」
つぶやいた声は、風に消えた。
律が商店街の再開発に関わっている。
それは、まだ計画のすべてを知ったわけではない陽葵の推測にすぎない。
図面には「周辺整備計画」と書かれていた。
それが正式な再開発計画なのか、どの段階の検討資料なのか、陽葵には分からない。
何が決まっていて、何が決まっていないのかも分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
律の名前が、そこにあった。
陽葵はスマートフォンを取り出した。
律の名前を表示する。
電話をかければ、すぐに聞けるかもしれない。
『ダーリン、ひだまり商店街の図面を見たよ』
そう伝えれば、律は何と答えるだろう。
驚くだろうか。
困るだろうか。
それとも、ようやく話すときが来たと思うだろうか。
陽葵の親指は、通話ボタンの上で止まった。
「……今は、やめておこう」
まだ仕事中かもしれない。
それに、図面を見ただけで、すべてを分かったつもりになってはいけない。
陽葵はスマートフォンを閉じた。
そのまま、商店街へ向かって歩き始めた。
* * *
ブーランジュリーひだまりに戻ると、マスターが店の奥で片づけをしていた。
「おかえり、陽葵ちゃん。律くんに届けられたかい?」
「はい。受付の方に預けてきました」
「そうか。よかった」
「律は打ち合わせで外に出ていたみたいです」
「そうかそうか」
陽葵はエプロンを外しながら、いつものように振る舞おうとした。
でも、マスターはすぐに気づいた。
「陽葵ちゃん?」
「はい?」
「何かあったのかい?」
「えっ?」
「顔色が少し違うように見えるよ」
陽葵は、笑顔を作った。
「大丈夫です。ちょっと歩いてきたから、疲れただけです」
「そうかい?」
「はい」
マスターは、それ以上は聞かなかった。
しばらくして、陽葵がカウンターのパンを整理していると、マスターが静かに近づいてきた。
「陽葵ちゃん。少し話をしてもいいかな」
「はい」
「この前、再開発の話をしただろう?」
「……はい」
「実は、今日、商店街の人から連絡があってね。近いうちに、関係者への説明があるかもしれないそうだ」
「説明……」
「まだ確定ではないらしい。だから、みんなにも正式な情報が出るまでは、落ち着いて待ってもらいたいと思っている」
陽葵は、手にしていたパンのトレーを置いた。
「マスター」
「何だい?」
「もし……もし、商店街の再開発を考えている人たちがいるとして」
「うん」
「その人たちは、この街のことをちゃんと知っているんでしょうか」
マスターは、陽葵の目を見た。
「どういう意味かな?」
「お店のこととか、そこに住んでいる人のこととか。毎日ここを通る人のこととか……」
「知ろうとしている人もいるだろうし、まだ十分に知らない人もいるかもしれない」
「そうですよね」
「だから、こちらから伝えなきゃいけないんだよ。ここで暮らす人たちの声をね」
陽葵はうつむいた。
「……そうですね」
「陽葵ちゃん?」
「私、今日、見てしまったんです」
「何を?」
「律の事務所で、ひだまり商店街の図面を」
マスターは、少しだけ目を見開いた。
「そうか……」
「そこに、律の名前もあったんです」
陽葵は、ゆっくりと言葉を続けた。
「まだ詳しいことは分からないんです。どんな計画なのかも、律がどんな立場なのかも。でも、あの図面を見たら、最近のダーリンの様子が少し分かった気がして」
「律くんが、関わっているのかもしれないね」
「はい」
「それで、陽葵ちゃんはどう思った?」
すぐには答えられなかった。
悲しいのか。
驚いたのか。
不安なのか。
それとも、少しだけ怒っているのか。
自分でも分からなかった。
「……分からないです」
「うん」
「ダーリンが悪いことをしているとは思っていません。建築の仕事を一生懸命しているだけかもしれないし、街をよくするために考えているのかもしれない」
「そうだね」
「でも、私に何も話してくれなかったことが、少し寂しいです」
マスターは静かにうなずいた。
「夫婦だからといって、仕事のことをすべて話せるわけじゃない。でも、何も知らされないまま不安になるのも、つらいことだね」
「はい……」
「律くんにも、話せない事情があるのかもしれない」
「そう思います」
「ただ、陽葵ちゃんが何も感じていないふりをする必要もないよ」
陽葵は顔を上げた。
「私が感じていることを、ちゃんと話してもいいんでしょうか」
「もちろん。相手を責めるためじゃなく、自分がどう思ったかを伝えるんだ」
「自分がどう思ったか……」
「それなら、律くんもきっと聞いてくれるよ」
マスターの言葉に、陽葵は小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。陽葵ちゃんには、この店のことも、街のことも大切に思ってもらえて嬉しいよ」
「私、この商店街が好きです」
「うん」
「マスターのお店も、いつも声をかけてくれる人たちも、毎日歩くこの道も。なくなってほしくないです」
「そうだね」
「でも、安全にすることも大事だと思います。だから、どうなればいいのか、まだ分からないんです」
「分からなくていいんだよ。すぐに答えを出す必要はない」
マスターは、店の窓から商店街を眺めた。
「大切なのは、そこで暮らしている人たちが、未来のことを自分たちで考えられることだと思う」
「……はい」
陽葵は、もう一度商店街を見た。
いつもと同じ景色。
けれど、今日からはその景色の裏側に、別の何かがあるように感じてしまう。
図面に描かれた線。
建物の配置。
道路の幅。
そして、夫の名前。
それらが頭から離れなかった。
* * *
その夜。
陽葵は、律の帰りを待っていた。
夕飯は作ったものの、食欲があまりなかった。
テーブルには、二人分の食器が並んでいる。
テレビをつけても、内容はほとんど頭に入ってこない。
スマートフォンを手に取り、律とのメッセージを開く。
昼間、書類ケースを届けたことを伝えたときのやり取り。
『ありがとう。助かった』
『お仕事頑張ってね♡』
『ああ。陽葵もお疲れさま』
いつもと変わらない会話。
でも、陽葵はその言葉を見つめながら考えていた。
律は、あの図面を見ているのだろうか。
あの線を引いたのだろうか。
商店街の人たちの顔を思い浮かべながら、仕事をしているのだろうか。
それとも、仕事として割り切っているのだろうか。
どれも、まだ分からない。
「……聞かなきゃ」
陽葵は小さくつぶやいた。
けれど、問い詰めるようには聞きたくない。
律が自分に隠していたことを責めたいわけではない。
ただ、知りたい。
どうして最近、あんなに疲れているのか。
どうして商店街のことを話さないのか。
そして、あの図面に書かれていた自分の名前を、律はどんな気持ちで見ているのか。
玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
陽葵は立ち上がった。
律がリビングに入ってくる。
「遅くなって悪かった」
「ううん。お疲れさま」
「どうした? 何かあったか?」
律は、陽葵の表情を見て尋ねた。
「ううん。ちょっと考え事」
「そうか」
律は上着を脱ぎ、椅子に掛けた。
「夕飯、食べる?」
「ああ。少しだけ」
「温めるね」
陽葵はキッチンへ向かった。
鍋を温めながら、何度も言葉を考える。
今、聞くべきだろうか。
それとも、食事が終わってから。
律が落ち着いてから。
でも、また明日になったら聞けなくなるかもしれない。
陽葵は、温めた料理をテーブルに並べた。
二人で食卓につく。
「いただきます」
「いただきます」
律は、いつものように食事を始めた。
陽葵も箸を持つ。
けれど、なかなか口に運べなかった。
「陽葵?」
「……なあに?」
「今日は静かだな」
「そうかな」
「何かあった?」
律の声は優しかった。
その優しさが、かえって陽葵の胸を苦しくさせた。
聞きたい。
でも、聞くのが怖い。
もし、律が本当に再開発の仕事を担当していたら。
もし、商店街の人たちが望まない計画に関わっていたら。
もし、自分が知らないところで、街の未来が決まっていくのだとしたら。
陽葵は、ようやく口を開いた。
「ダーリン」
「ん?」
「今日ね、事務所に行ったでしょう?」
「ああ。書類ケースを届けてくれたんだよな。ありがとう」
「うん」
少しだけ間が空いた。
「そのときにね……図面を見ちゃったの」
律の箸が止まった。
「図面?」
「うん」
陽葵は、律の目を見つめた。
「ひだまり商店街って書いてあった」
食卓の空気が、静かに変わった。
律はすぐには答えなかった。
陽葵の言葉を確かめるように、視線を向けている。
「……見たのか」
「うん。偶然だったの。見るつもりはなかったんだけど、目に入ってしまって」
「そうか」
「それから、資料にダーリンの名前もあった」
律は、箸を置いた。
短い沈黙。
陽葵は、その沈黙の中で、律が何を考えているのかを知りたかった。
「ダーリン」
「……うん」
「私、何も知らなかった」
律は目を伏せた。
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないよ」
「でも、心配をかけていたのは分かっていた」
「うん」
「話そうとは思っていたんだ。ただ、まだ整理できていないことが多くて」
陽葵は、ゆっくりとうなずいた。
「この前、もう少ししたら話すって言ってくれたよね」
「ああ」
「私、待とうと思ってた」
「うん」
「でも、図面を見たら……待っているだけじゃ、何も分からないんだって思った」
律は、陽葵の顔を見た。
「そうだな」
「ダーリンがどんな仕事をしているのか、何を考えているのか、知りたいよ」
「……」
「それに、ひだまり商店街は、私にとっても大切な場所なの」
陽葵の声が、少しだけ震えた。
「マスターがいて、いつもパンを買いに来てくれる人がいて、寄り合いで声を上げていたおばあちゃんたちがいて。みんな、この街で暮らしているんだよ」
「分かってる」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、ダーリンは……」
そこまで言って、陽葵は言葉を止めた。
何を聞きたいのか、自分でも分からなくなった。
再開発に賛成なのか。
反対なのか。
図面を描いているのか。
街を変えようとしているのか。
けれど、どれも今すぐ答えを求めるには、少し違う気がした。
律は静かに言った。
「陽葵。俺は、まだ話せることと話せないことがある」
「うん」
「ただ、あの図面に俺の名前があったことは事実だ」
陽葵の胸が、強く鳴った。
「それって……」
「今は、詳しいことを話すのは難しい。でも、陽葵が見たものを否定するつもりはない」
「……そうなんだ」
「もう少しだけ時間をくれないか。きちんと説明できるようにする」
陽葵は、律の表情を見つめた。
そこには、逃げるような様子はなかった。
ただ、言葉にできない重さを抱えているように見えた。
「分かった」
「ありがとう」
「でも、ダーリン」
「何?」
「私にとって、ひだまり商店街は大切な場所だよ」
「ああ」
「だから、何も知らないまま、知らないところで話が進んでいくのは嫌なの」
「……分かってる」
「私も、ちゃんと考えたい。街のことも、ダーリンのことも」
律は、少しだけうなずいた。
「そうだな」
その言葉のあと、二人はしばらく黙っていた。
食卓には、温め直した料理の湯気が残っている。
いつもなら、陽葵が冗談を言い、律が小さく笑い、二人で何気ない話を続ける時間だった。
今夜は、その時間が少しだけ遠く感じられた。
* * *
食事を終えたあと、律は書斎に向かった。
陽葵は食器を片づけながら、背中を見送った。
聞きたいことは聞いた。
でも、答えはまだ全部もらえていない。
それでも、律が初めて自分の名前と図面の関係を否定しなかったことは、大きな一歩だった。
陽葵は食器を洗い終え、リビングのソファに座った。
スマートフォンを手に取り、自分のWEB漫画のページを開く。
そこには、これまで描いてきた「ダーリン観察日記」が並んでいた。
寝起きの律。
水族館でペンギンに夢中になる律。
映画を見ながら大きなポップコーンを陽葵に譲ってくれる律。
何気ない日常の中で見つけた、好きな人の小さな表情。
そのページを眺めていると、胸が苦しくなった。
「最近、更新できてないな……」
前回の投稿から、少し時間が経っていた。
読者からは、こんなコメントが届いている。
『最近、ダーリン観察日記が更新されていなくて寂しいです!』
『ひまりちゃんと律くん、元気かな?』
『また二人のほのぼのした日常が見たいです♡』
陽葵は、画面を見つめた。
以前なら、すぐに新しいエピソードを考えたはずだ。
けれど今は、律のことをどこまで描いていいのか分からない。
夫婦の間にある秘密。
商店街の未来。
自分がまだ知らない律の仕事。
それらを、簡単に漫画にすることはできなかった。
「……今は、描けないな」
陽葵はスマートフォンを伏せた。
そのとき、書斎のドアが開いた。
「陽葵」
「ん?」
「少し話せるか?」
律が立っていた。
「うん」
陽葵はソファから立ち上がった。
律は、いつもより少しだけ真剣な表情をしていた。
「今日は、全部を話すことはできない。でも、隠したままにしたくないこともある」
「うん」
「俺が今関わっている仕事は、商店街の周辺環境を含めた計画に関係している」
陽葵は、静かに息を吸った。
「やっぱり……」
「ああ」
「じゃあ、ひだまり商店街のことも?」
「関係している」
律は、言葉を選びながら続けた。
「ただ、現時点で何かが決定したわけじゃない。図面も、いくつかの条件を整理しながら検討している段階だ」
「そうなんだ……」
「建物の状態や、道路のこと、防災面の課題。いろいろなことを調べている」
「お店がどうなるかも?」
「それについても、まだ確定した話はない」
陽葵は、律の言葉を一つずつ受け止めた。
「ダーリンは、その仕事で何をするの?」
「設計に関わる検討や、現状の整理、いくつかの案の比較だ。まだ最終的な形を決める段階じゃない」
「じゃあ、ダーリンが一人で商店街を変えるわけじゃないんだね」
「もちろん。俺一人で決められることじゃない」
「そうだよね」
「関係する人たちの意見も必要だし、現場の状況を正確に把握しなければならない」
律は少し目を伏せた。
「でも、仕事として関わっている以上、俺にも責任がある」
「……うん」
「だから、簡単に話せなかった」
陽葵は、律の手を取った。
「ダーリン」
「何?」
「私は、ダーリンが建築の仕事を頑張っていることを知ってるよ」
「ありがとう」
「でも、ひだまり商店街も大好きなの」
「ああ」
「だから、どちらかを大切にしないといけないみたいな気持ちになってほしくない」
律は、陽葵を見つめた。
「私は、ダーリンがどんなことを考えているのか知りたい。街の人たちが何を思っているのかも、ちゃんと知りたい」
「うん」
「それで、みんなが納得できる未来を考えたい」
律は、少しだけ目を細めた。
「簡単じゃないぞ」
「分かってるよ」
「意見が違う人もいる」
「うん」
「全員の希望を、そのまま叶えられるとは限らない」
「それも分かってる」
陽葵は、律の手をぎゅっと握った。
「でも、考えることはできるでしょう?」
律はすぐには答えなかった。
やがて、小さくうなずいた。
「ああ。考えることはできる」
「だったら、私も一緒に考えたい」
「陽葵……」
「仕事の中身を全部教えてほしいわけじゃないよ。話せる範囲でいいから、これからどうなっていくのか、ちゃんと話してほしい」
「分かった」
「約束だよ?」
「ああ。約束する」
陽葵は、少しだけ笑った。
「じゃあ、今日はこれで仲直り!」
「仲直り?」
「うん。だって、ちょっとだけ寂しかったんだもん」
「……悪かった」
「だから、謝らなくていいってば」
陽葵は、律の胸にそっと寄り添った。
「ダーリン、こっち見て」
律が顔を向ける。
「今日も、ちゃんと私のこと見てね」
「見てるよ」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、ぎゅーして」
律は、陽葵を抱きしめた。
その腕の温かさは、いつもと変わらない。
でも、二人の間には、これまで知らなかった仕事の重さが加わっていた。
陽葵は、律の胸に頬を寄せながら思った。
これから、もっと難しい話をすることになるかもしれない。
意見が違うこともあるかもしれない。
それでも、二人で向き合いたい。
大好きな夫と、大好きな街。
どちらも、自分にとって大切だから。
* * *
その夜、律が眠ったあと。
陽葵は、ベッドの中でそっと目を開けた。
隣では律が静かに眠っている。
昼間に見た図面が、頭から離れなかった。
あの線の一本一本に、何が描かれていたのだろう。
どの建物を残し、どの建物を変えるのか。
誰がそこに住み続けられるのか。
お店はどうなるのか。
まだ何も分からない。
けれど、もう知らないふりはできなかった。
「……ひだまり商店街」
陽葵は、小さくつぶやいた。
窓の外には、秋の夜空が広がっている。
明日になれば、またいつもの朝が来る。
律は仕事へ行き、陽葵はパン屋で働く。
いつもと変わらない日常。
でも、その日常のすぐ向こう側では、街の未来を左右するかもしれない計画が動き始めている。
そして、その計画の中に、夫の名前がある。
陽葵は、そっと目を閉じた。
まだ、答えは出ていない。
でも、今度は一人で考え込まない。
律と一緒に、ちゃんと向き合う。
そう決めた夜だった。
第6節:聞けない言葉、言えない本音
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む秋の光が、寝室の床に細長い模様を作っていた。
「……ん」
陽葵は、ゆっくりと目を開けた。
隣には律がいる。
いつもなら、目を覚ました陽葵が寝ぼけたまま彼の腕に寄り添い、律が「まだ寝ていていいぞ」と声をかけてくれる。
そんな朝が、二人には当たり前になっていた。
けれど、その日は少し違った。
律はすでに起きていて、ベッドの端に腰掛けながらスマートフォンを確認していた。
「ダーリン、おはよう」
「ああ、おはよう」
「もう起きてたの?」
「少し早く目が覚めた」
「そっか」
陽葵は上半身を起こし、寝癖のついた髪を手で整えた。
「今日もお仕事?」
「もちろん」
「朝から忙しそう?」
「午前中に確認しておきたいことがある」
「そうなんだ」
会話はそこで途切れた。
陽葵は、律の横顔を見つめた。
聞きたいことがある。
先日、事務所で見た図面のこと。
ひだまり商店街周辺整備計画のこと。
律がどんな立場で、どこまで関わっているのか。
そして、これから商店街がどうなっていくのか。
けれど、朝から仕事のことで頭がいっぱいの律に、また質問を重ねていいのだろうか。
昨夜、律は話せる範囲で説明してくれた。
計画はまだ検討段階で、何かが決定したわけではない。
それ以上のことは、仕事上、まだ話せないこともある。
その事情は理解しているつもりだった。
「陽葵?」
「えっ?」
「どうした?」
「ううん。何でもないよ」
陽葵は笑顔を作った。
「朝ごはん、用意するね」
「ああ。ありがとう」
律はスマートフォンを置き、着替えを始めた。
陽葵はベッドから降り、キッチンへ向かった。
いつもと同じ朝。
けれど、胸の中には、まだ言葉にならないものが残っていた。
* * *
朝食のテーブルには、トーストと目玉焼き、サラダ、温かいスープが並んでいた。
「いただきます」
「いただきます♡」
陽葵は、律の皿にミニトマトを一つ追加した。
「はい、野菜もちゃんと食べてね」
「もう入っているぞ」
「一つ追加です」
「そうか」
「最近、忙しいから栄養を取らないとね」
「気をつけるよ」
律は目玉焼きを口に運んだ。
陽葵は、いつもならここで冗談を言う。
『ダーリンの健康管理担当は私です!』
そう言って胸を張れば、律は「頼もしいな」と笑ってくれる。
でも、今日はその言葉が出てこなかった。
「……ダーリン」
「ん?」
「最近、ちゃんと眠れてる?」
「ああ。まあな」
「夜中も仕事してることがあるでしょう?」
「確認しなければならない資料があるときだけだ」
「そっか」
「陽葵こそ、寝不足じゃないか?」
「私は大丈夫だよ」
「無理するなよ」
「うん」
律はコーヒーを飲み、時計を見た。
「そろそろ出る」
「もう?」
「今日は少し早く出たい」
「分かった。忘れ物はない?」
「大丈夫だ」
律は食器を流しに運び、玄関へ向かった。
陽葵も後を追う。
「ダーリン、いってらっしゃい♡」
「ああ。行ってくる」
「今日も頑張ってね」
「陽葵もな」
律は陽葵の頭を軽く撫で、ドアを開けた。
その手の温かさは、いつもと同じだった。
陽葵は、閉じたドアを見つめた。
「……聞けばよかったかな」
けれど、何を聞けばよかったのか、自分でも分からなかった。
* * *
その日の午後。
ブーランジュリーひだまりでは、秋限定の栗あんぱんがよく売れていた。
「陽葵ちゃん、栗あんぱんを三つお願い」
「はい! 栗あんぱん三つですね」
「この前食べたらおいしくてね。家族にも買って帰ろうと思って」
「ありがとうございます!」
陽葵は紙袋にパンを入れ、お客さんに手渡した。
お客さんが帰ったあと、店の奥からマスターの声がした。
「陽葵ちゃん、今日は少し元気がないんじゃないかい?」
「えっ?」
「いつもなら、お客さんともっと楽しそうに話しているからね」
「そんなことないですよ。今日も元気です!」
「そうかい?」
「はい!」
陽葵は、にっこり笑ってみせた。
マスターは、それ以上は追及せず、厨房へ戻った。
陽葵はレジの横に立ち、窓の外を眺めた。
商店街を歩く人たち。
買い物袋を持ったおばあちゃん。
自転車を押して歩く若いお父さん。
店先で立ち話をする常連さん。
いつもと変わらない景色だった。
でも、図面を見てからは、何気ない風景の一つ一つが、以前よりも大切に感じられる。
もし、この道が変わったら。
もし、いつもの店がなくなったら。
もし、マスターが別の場所でパンを焼くことになったら。
そんなことを考えると、胸の奥が落ち着かなくなった。
「……大丈夫」
陽葵は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
まだ何も決まっていない。
律もそう言っていた。
だから、今から悲しむ必要はない。
でも、知らないところで何かが進んでいるかもしれないという不安は、簡単には消えなかった。
* * *
その夜、律の帰宅は午後十時を過ぎていた。
「ただいま」
「おかえりなさい、ダーリン♡」
陽葵はリビングから玄関へ向かった。
「今日も遅かったね。お疲れさま」
「少し確認が長引いた」
「ご飯、温める?」
「ああ。少しだけ頼む」
「はーい」
陽葵はキッチンへ向かい、夕飯を温め直した。
律は手を洗い、テーブルについた。
「今日は何?」
「鶏肉と野菜の炒め物。それから、豆腐のお味噌汁だよ」
「おいしそうだ」
「ちゃんと食べてね」
「いただきます」
律は食事を始めた。
陽葵は向かいに座り、スマートフォンを手に取った。
画面には、以前投稿した「ダーリン観察日記」が表示されている。
最後の更新は、少し前。
コメント欄には、読者からのメッセージが届いていた。
『ひまりちゃん、最近どうしてる?』
『律くんとの新しい日常、楽しみにしています♡』
『ペンちゃんは元気かな?』
陽葵は、思わず微笑んだ。
ペンギンのぬいぐるみ、ペンちゃん。
水族館で律と一緒に買ったものだ。
今もリビングの棚に座っている。
「ねえ、ダーリン」
「ん?」
「ペンちゃん、最近ちょっと寂しそうだよ」
「そうか?」
「うん。二人とも忙しくて、構ってあげてないから」
「ぬいぐるみだからな」
「そういう問題じゃありません!」
「そうか」
「今度、一緒に水族館に行こうよ」
「時間が取れたらな」
「約束?」
「約束できるように調整する」
「ふふっ。じゃあ、楽しみにしてるね」
陽葵は笑った。
けれど、その笑顔のあとに、また沈黙が訪れた。
以前なら、そこから自然に会話が続いていた。
今日の仕事のこと。
パン屋であった出来事。
休日に行きたい場所。
何でもない話題を、二人でいくらでも話せた。
今は、話したいことがあるのに、話題を選んでしまう。
商店街のことを聞けば、律を困らせるかもしれない。
聞かなければ、自分の中で不安が大きくなる。
その間で、陽葵は言葉を探していた。
「陽葵」
「なあに?」
「最近、何か考えていることがあるんじゃないか?」
律の問いかけに、陽葵は一瞬、箸を止めた。
「どうして?」
「前より静かになった気がする」
「そうかな?」
「ああ」
「……ちょっとだけね」
「何かあった?」
陽葵は、すぐには答えなかった。
聞きたいことがある。
でも、今ここで聞いたら、また律を追い詰めてしまう気がした。
「何でもないよ」
「本当に?」
「うん。大丈夫」
律は、少しだけ眉を寄せた。
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。
陽葵は、律の表情を見つめた。
彼もまた、何かを言いかけているように見えた。
けれど、その言葉は出てこなかった。
* * *
同じころ。
律の仕事机には、いくつもの資料が広げられていた。
モニターには、商店街周辺の現況図が表示されている。
建物の位置。
道路の幅。
敷地の形状。
歩行者の流れ。
防災面で確認すべき箇所。
それらを一つずつ整理していく。
律は、画面を見つめながら、ペンを握った。
「ここは、もう少し確認が必要だな……」
図面の一部に印をつける。
そのとき、机の端に置かれたスマートフォンが光った。
陽葵からのメッセージだった。
『今日もお疲れさま♡
帰りに気をつけてね。
明日の朝ごはんは、ダーリンの好きなフレンチトーストにする予定です!』
律は、画面を見つめた。
思わず口元が緩む。
いつもなら、すぐに返信していた。
『楽しみにしている』
それだけでもいい。
でも、今日はその一言を打つ前に、指が止まった。
陽葵は、どんな気持ちでこのメッセージを送っているのだろう。
きっと、何も気にしていないわけではない。
あの図面を見た。
自分の名前も見た。
それなのに、仕事のことを無理に聞こうとはしない。
気を遣っているのだ。
律には、それが分かっていた。
「……俺は何をしているんだ」
小さくつぶやいた。
陽葵に心配をかけたくない。
けれど、何も話さないことが、かえって不安を大きくしている。
それも分かっていた。
仕事上、まだ話せないことはある。
検討中の案を、決定事項のように話すわけにはいかない。
関係者の意見や調整が必要な段階で、軽々しく先のことを約束することもできない。
自分が知っている情報を、すべて家庭に持ち込めるわけではない。
それは、仕事をする上で当然のことだった。
けれど、陽葵は仕事の資料を見たいと言っているわけではない。
彼女が知りたいのは、自分が何を考え、何に悩んでいるのか。
それだけなのかもしれない。
律はスマートフォンを手に取った。
『ありがとう。楽しみにしている』
短い返信を送る。
すぐに既読がついた。
『えへへ♡ おかわりもあるからね!』
その返事を見て、律は小さく笑った。
そして、再び画面に向き直った。
図面に描かれた街の姿。
そこには、陽葵が毎日歩く道もある。
彼女が働くパン屋もある。
自分が何度も訪れた店もある。
その場所について、仕事として向き合わなければならない。
でも、仕事だからといって、そこに暮らす人たちの思いを忘れるわけにはいかなかった。
「嘘はつきたくない……」
律は、ペンを置いた。
「でも、今は全部を話せない」
それが、彼の苦悩だった。
* * *
二日後。
陽葵は、仕事帰りに商店街の花屋へ立ち寄った。
「こんばんは!」
「いらっしゃい、陽葵ちゃん」
店主の女性が笑顔で迎えてくれる。
「今日は何を探しているの?」
「お部屋に飾るお花を買おうと思って」
「いいわね。秋らしいものがいい?」
「はい。できれば、長く楽しめるものがいいです」
「それなら、こちらの小さなガーベラと、ユーカリを合わせてみる?」
「わあ、かわいい!」
陽葵は、淡い色の花を選んだ。
花屋の店主は、手際よく束ねながら話しかけた。
「最近、商店街の話が気になるわね」
「再開発のことですか?」
「そう。まだ何も決まっていないとは聞いているけれど、やっぱり不安になるわ」
「そうですよね」
「ここで長く商売をしてきたから、簡単には考えられないわ」
店主は花を包みながら、少し笑った。
「でも、古い建物が危ないなら、そこはちゃんと考えなきゃいけないとも思うの」
「私もそう思います」
「ただ、今あるお店や人とのつながりまでなくなってしまうのは嫌ね」
「はい……」
「陽葵ちゃんも、そう思うでしょう?」
「もちろんです。私もこの街が大好きですから」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
店主は、花束を手渡した。
「はい、できました」
「ありがとうございます」
「また来てね」
「はい!」
陽葵は花束を抱えて店を出た。
商店街の通りを歩く。
この花屋も、いつも通る道も、パン屋も。
何も変わってほしくないと思う。
でも、建物の安全性を考えなければならないことも理解している。
その二つの気持ちは、簡単には一つにならなかった。
「……ダーリンなら、どう考えているんだろう」
陽葵は、花束を見つめた。
律の考えを聞きたい。
けれど、今はまだ、聞けない。
彼が忙しいことも、話せない事情があることも知っているから。
それでも、夫婦なのだから、何でも話せる関係でいたい。
そんな願いが、胸の中で静かに膨らんでいた。
* * *
その夜。
律が帰宅すると、リビングには小さな花瓶が置かれていた。
「花を買ったのか?」
「うん。花屋さんで選んできたの」
「きれいだな」
「でしょう? お部屋が明るくなった気がする」
「いいと思う」
律は花を見つめ、少しだけ笑った。
「陽葵らしいな」
「どういう意味?」
「部屋に花があると、雰囲気が柔らかくなる」
「ふふっ。褒めてくれてる?」
「ああ」
「じゃあ、ありがとう♡」
陽葵は嬉しそうに笑った。
そのあと、二人で夕飯を食べた。
今日は、律の好きなハンバーグ。
食事の間、二人は仕事のことや、テレビで見た話題などを話した。
けれど、商店街の話題には触れなかった。
食事を終え、二人で片づけをする。
律が皿を洗い、陽葵が拭く。
いつもと同じ役割分担。
いつもと同じ時間。
けれど、何かが違う。
「陽葵」
「なあに?」
「最近、無理して笑っていないか?」
律の問いかけに、陽葵は手を止めた。
「え?」
「俺に気を遣っているんじゃないか」
「そんなこと……」
陽葵は、言いかけて止まった。
嘘をつくつもりはなかった。
でも、何も気にしていないと言えば、それも嘘になる。
「少しだけ、気を遣っているかもしれない」
律は、手を止めた。
「そうか」
「だって、ダーリン忙しいでしょう?」
「ああ」
「仕事のことで話せないことがあるのも分かってる。だから、無理に聞かないようにしているの」
「……」
「でも、聞きたいことがないわけじゃないよ」
陽葵は、拭いていた皿を置いた。
「私ね、ダーリンのことを信じているよ」
「ありがとう」
「でも、信じていることと、何も知らなくていいことは違うと思うの」
律は、陽葵を見つめた。
「私は、ダーリンが何を考えているのか知りたい。どんなことで悩んでいるのかも、できれば一緒に考えたい」
「うん」
「でも、仕事のことだから話せないって言われたら、それ以上は聞けないでしょう?」
「ああ」
「だから、少し寂しい」
陽葵は、目を伏せた。
「ごめんね。困らせたいわけじゃないの」
「いや」
律は静かに首を振った。
「陽葵がそう思うのは当然だと思う」
「……本当?」
「ああ。俺が話せないことばかりに気を取られて、陽葵がどう感じているかを考えられていなかった」
「ダーリン……」
「悪かった」
陽葵は、律の手に触れた。
「謝らなくていいよ。私も、ちゃんと聞けるようになりたい」
「聞いてくれていい」
「でも、答えられないこともあるんでしょう?」
「そうだな」
「だったら、答えられることだけでも教えてほしい」
「分かった」
律は、陽葵の手を握り返した。
「俺も、話せることはきちんと話すようにする」
「約束?」
「ああ」
陽葵は、少しだけ笑った。
「じゃあ、今日は仲直りのぎゅーをお願いします♡」
「仲直りするような喧嘩はしていないだろ」
「気持ちの問題です!」
「そうか」
律は、陽葵を抱きしめた。
陽葵は、彼の胸に頬を寄せた。
少しだけ距離ができたように感じていたけれど、こうして抱きしめられると、まだ同じ場所にいることが分かる。
それが嬉しかった。
* * *
その翌日。
律は、事務所の会議室で資料を確認していた。
机の上には、商店街周辺の調査資料と、複数の検討案が並んでいる。
上司が資料をめくりながら話した。
「今回の件は、地域の意見を十分に把握する必要がある。建物の安全性だけでなく、商店街の生活動線や営業への影響も考えなければならない」
「はい」
「既存の店舗をどう扱うかについても、まだ検討が必要だ。現時点で決定したこととして話すのは避けてほしい」
「承知しました」
「住民や店舗側への説明も、正式な段階を踏むことになる。個別の情報が先に広がると混乱を招くから、そこは注意してくれ」
「分かりました」
律は資料に目を落とした。
そこには、商店街の写真がいくつも並んでいる。
パン屋。
八百屋。
花屋。
小さな食堂。
それぞれの建物の状態や、周辺の道路状況が記されていた。
律は、ペンを握ったまま、しばらく動かなかった。
「星野くん?」
「はい」
「何か気になる点がある?」
「いえ。確認したいことがあります」
「何だろう」
「店舗を利用している人の動きや、日常的な買い物の流れについても、調査に含められないでしょうか」
「それは必要だと思う。建物だけ見ても、街の実態は分からないからね」
「ありがとうございます」
律は、資料に新たな項目を書き加えた。
商店街を利用する人たち。
店主たちの暮らし。
買い物客の動線。
そこに暮らす人の声。
陽葵が話していたことが、頭に浮かんだ。
『商店街って、ただお店が並んでいるだけじゃないんだよね』
その言葉は、仕事の中でも大切な視点になる。
律は、もう一度図面を見つめた。
線の向こう側には、人の暮らしがある。
それを忘れてはいけない。
会議が終わったあと、律は自分の席に戻った。
スマートフォンを取り出す。
陽葵とのメッセージ画面を開いた。
少し考えてから、文字を打つ。
『今日は少し早く帰れそうだ。夕飯、一緒に食べよう』
送信。
しばらくして返信が届いた。
『本当? やった♡
じゃあ、ダーリンの好きなものを作って待ってるね!』
律は、画面を見て笑った。
今夜は、もう少し話をしよう。
話せないことはある。
でも、話せることまで黙っている必要はない。
そう思った。
* * *
その日の夕方。
陽葵は、律からのメッセージを何度も見返していた。
『今日は少し早く帰れそうだ。夕飯、一緒に食べよう』
「やった!」
思わず声が出る。
今日は何を作ろう。
冷蔵庫を開け、食材を確認する。
律の好きなハンバーグにしようか。
それとも、以前二人で食べたクリームシチューにしようか。
「うーん……」
少し考えて、陽葵は決めた。
「今日は、二人で作ろうかな」
律が帰ってきたら、一緒にキッチンに立つ。
そんな何気ない時間を過ごしたかった。
午後七時を少し過ぎたころ、玄関のドアが開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい、ダーリン♡」
陽葵は、玄関まで迎えに行った。
「本当に早かったね!」
「今日は区切りがついたからな」
「お疲れさま!」
「ありがとう」
律は上着を脱ぎ、陽葵の顔を見た。
「何を作るんだ?」
「今日は一緒に作ろうと思って!」
「俺も?」
「もちろん。ダーリンも料理担当です」
「何をすればいい?」
「まずは野菜を切ってください!」
「分かった」
二人はキッチンに並んだ。
陽葵が野菜を洗い、律が包丁を持つ。
「ダーリン、切るの上手だね」
「普通だろ」
「建築家だから、寸法をそろえるのも得意なのかな?」
「料理に寸法は関係ないと思うが」
「えー、関係あるよ。大きさがそろっていると火の通りも同じになるんだよ」
「それは確かにそうだな」
「でしょう?」
陽葵は笑った。
律も、少しだけ笑う。
久しぶりに、二人の会話が自然に続いている気がした。
料理を作りながら、陽葵はふと思った。
今なら、少しだけ聞けるかもしれない。
「ダーリン」
「ん?」
「仕事、まだ大変?」
「ああ。しばらくは忙しいと思う」
「そっか」
「ただ、少しずつ整理できてきた」
「そうなんだ」
「今は、いくつかの案を比較している段階だ。まだ決まったことはない」
「うん」
「現地の状況を確認して、必要な調査を進めているところだ」
「商店街のことも?」
「そうだ」
陽葵は、野菜を切る手を止めた。
「じゃあ、これからもいろいろ調べるんだね」
「ああ」
「お店の人たちの話も聞くの?」
「必要になると思う。建物のことだけでは分からないことが多いからな」
「そっか」
陽葵は、少し安心した。
律が、建物だけを見ているわけではない。
そこに暮らす人や働く人のことも考えている。
それが分かっただけでも、嬉しかった。
「ダーリン」
「何?」
「私、商店街の人たちの話を聞いてみるね」
「どういうことだ?」
「みんな、いろいろな思いを持っているでしょう? マスターや花屋さん、おばあちゃんたち。私も、もっと知りたいの」
「そうか」
「もちろん、仕事の資料を見せてほしいとか、そういうことじゃないよ。ただ、ここで暮らしている人たちが何を大切にしているのか、私なりに知りたいの」
律は、陽葵の顔を見た。
「それは、いいことだと思う」
「本当?」
「ああ。ただ、無理はするなよ」
「うん。ありがとう」
陽葵は笑った。
その笑顔を見て、律も少しだけ表情を和らげた。
* * *
夕食のあと、二人はソファに並んで座った。
テレビはつけず、窓の外から聞こえる秋の虫の声だけが部屋に響いている。
陽葵は、律の肩に寄りかかった。
「ダーリン」
「ん?」
「今日、一緒にご飯を作れて楽しかった」
「俺もだ」
「最近、こういう時間が少なかったから」
「そうだな」
「また一緒に作ろうね」
「ああ」
陽葵は、少しだけ顔を上げた。
「ねえ。私たち、ちゃんと話せているかな?」
「どういう意味だ?」
「仕事のこととか、商店街のこととか。まだ全部は話せていないけど、前よりは話せている気がする」
「そうだな」
「私も、聞きたいことを全部聞けているわけじゃないけどね」
「無理に聞かなくていい」
「でも、聞きたいときは聞くよ?」
「もちろん」
「答えられないときは、そう言ってね」
「ああ」
「黙っているだけだと、私、いろいろ想像しちゃうから」
律は、少しだけ苦笑した。
「それは気をつける」
「お願いします♡」
陽葵は、律の手を握った。
「ダーリン。私たち、夫婦なんだからね」
「分かってる」
「一緒に暮らして、一緒にご飯を食べて、一緒に笑って。そういう毎日を大切にしたいの」
「ああ」
「だから、何かあったら、できるだけ一緒に考えようね」
「そうだな」
律は、陽葵の手を握り返した。
「俺も、そうしたい」
その言葉を聞いて、陽葵は微笑んだ。
すべてが解決したわけではない。
商店街の未来も、仕事の計画も、まだ分からないことばかりだ。
それでも、少しずつ話せることが増えていけばいい。
そう思った。
* * *
その夜、陽葵は寝る前にスマートフォンを手に取った。
WEB漫画のページを開く。
最後の更新から、もうしばらく時間が経っている。
読者からのコメントは、少しずつ増えていた。
『ひまりちゃん、元気ですか?』
『ダーリン観察日記の更新、待ってます♡』
『ペンちゃんの登場も楽しみにしています!』
陽葵は、一つずつコメントを読んだ。
以前なら、すぐに次の話を描きたくなった。
でも、今は少し違う。
律との日常は続いている。
笑い合う時間もある。
手をつなぐことも、抱きしめてもらうことも、変わらない。
ただ、その日常の中に、まだ描けないことが一つ増えた。
商店街の未来。
律の仕事。
夫婦の間にある、言葉にできない時間。
「……もう少しだけ、待ってね」
陽葵は、画面に向かって小さくつぶやいた。
読者に向けた言葉なのか、自分自身に向けた言葉なのかは分からなかった。
スマートフォンを置く。
隣では、律がベッドに横になっていた。
「何を見ていたんだ?」
「観察日記だよ」
「最近、描いていないな」
「うん。ちょっと考え中」
「そうか」
「また描けるようになったら、見せるね」
「ああ。楽しみにしている」
陽葵は、律の腕に寄り添った。
「おやすみ、ダーリン」
「おやすみ」
部屋の明かりが消える。
静かな夜が訪れた。
* * *
深夜。
律は、陽葵の寝息を聞きながら、天井を見つめていた。
彼女は、少しずつ自分の仕事のことを理解しようとしてくれている。
それなのに、自分はまだ、すべてを話せない。
仕事上の事情がある。
決まっていないことを、決まったように話すことはできない。
まだ調整中の内容を、家庭で軽々しく口にすることもできない。
それは分かっている。
でも、陽葵にとっては、自分の仕事の向こう側に大切な街がある。
彼女が働く場所。
毎日顔を合わせる人たち。
思い出が積み重なった道。
その未来に関わる仕事を、自分がしている。
それを、何も知らないままでいてほしいとは思わない。
「……嘘はつきたくない」
律は、声にならないほど小さくつぶやいた。
陽葵に隠し事をしたいわけではない。
ただ、まだ伝えられないことがある。
だからといって、何も話さずにいることが正しいとも思えなかった。
律は、隣で眠る陽葵の髪にそっと触れた。
「もう少しだけ、待っていてくれ」
その言葉は、眠っている陽葵には届かない。
けれど、律は心の中で決めていた。
いつか必ず、きちんと話そう。
自分が何を考えているのか。
何に迷っているのか。
そして、この街の未来について、どんな思いを持っているのか。
それを、陽葵に伝えよう。
仕事と家庭の間で、どちらかを選ぶのではなく、どちらにも誠実でありたい。
そのために、今できることを一つずつ進めていく。
律は、ようやく目を閉じた。
* * *
数日後。
陽葵は、いつものようにブーランジュリーひだまりで働いていた。
「いらっしゃいませ!」
お客さんに笑顔を向ける。
パンを並べる。
レジを打つ。
マスターと話す。
日常は続いている。
けれど、陽葵の心の中には、まだ小さな空白があった。
律とは、少しずつ話せるようになってきた。
それでも、仕事の詳しい内容は分からない。
何が決まっていて、何がまだ決まっていないのか。
どんな案が検討されているのか。
いつ、誰に、どのような説明があるのか。
知りたいことは、まだたくさんある。
でも、今は待つしかない。
「陽葵ちゃん、そろそろ休憩にしようか」
マスターの声がした。
「はい!」
陽葵はエプロンを整え、店の奥へ向かった。
そのとき、店の外を通りかかった常連のおばあちゃんが、窓越しに手を振った。
陽葵も笑顔で手を振り返す。
いつもの景色。
いつもの人たち。
大切な日常。
それを守りたいと思う気持ちは、日に日に強くなっていた。
そして、家に帰れば、愛する夫がいる。
律のことも、信じている。
でも、信じているからこそ、もっと知りたい。
もっと話したい。
もっと一緒に考えたい。
陽葵は、休憩室の窓から商店街を眺めた。
「……早く、ちゃんと話せる日が来るといいな」
その願いは、まだ叶っていない。
そして、陽葵のWEB漫画「ダーリン観察日記」の更新も、止まったままだった。
画面の向こうで待っている読者たちは、まだ知らない。
陽葵が今、何を抱えているのか。
そして、いつも笑顔で描かれていた新婚夫婦の日常に、ほんの小さな沈黙が生まれていることを。
その沈黙は、二人の愛情が薄れたからではない。
大切に思うからこそ、言葉を選びすぎてしまう。
聞きたいのに聞けない。
話したいのに話せない。
そんな数日間が、静かに過ぎていった。
第7節:止まった観察日記と、届いた小さな声
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
陽葵はベッドの中で目を覚ますと、隣にいる律の寝顔をそっと覗き込んだ。
いつもなら、真っ先に声をかける。
「ダーリン♡ おはよう!」
そう言って、布団の中でくっついてみたり、頬をつついてみたり。
律が眠そうな顔で「朝から元気だな」と返してくれるのが、二人のいつもの朝だった。
けれど、今日は違った。
律はすでに起きていて、ベッドの端に腰掛け、スマートフォンで何かを確認していた。
「おはよう、陽葵」
「あ……おはよう、ダーリン」
「まだ眠いか?」
「ううん。大丈夫だよ」
「そうか」
律は短く答えると、スマートフォンをテーブルに置いた。
「今日は少し早く出る。昨日の資料を確認しておきたいんだ」
「そっか。朝ごはんは?」
「時間があれば食べるよ」
「じゃあ、簡単なものだけでも用意するね」
「ありがとう」
律が微笑む。
その笑顔は、いつもと変わらない。
けれど、陽葵の胸には、ほんの小さな引っかかりが残った。
聞きたいことがある。
商店街のこと。
あの図面のこと。
そして、律が今、何を考えているのか。
でも、朝から仕事のことで頭がいっぱいの律に、どこまで聞いていいのかわからない。
陽葵は結局、いつものように笑ってみせた。
「ダーリン、お仕事頑張ってね」
「ああ。陽葵もパン屋の仕事、気をつけて」
「うん!」
律は玄関で靴を履き、振り返った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい♡」
扉が閉まる。
陽葵はしばらく玄関に立ったまま、閉じた扉を見つめていた。
いつもと同じ朝。
いつもと同じ夫婦の会話。
それなのに、何かが少しだけ足りない。
「……なんだろうね」
自分に問いかけても、答えは返ってこなかった。
*
ブーランジュリーひだまりの店内には、焼きたてのパンの香りが広がっていた。
オーブンから取り出されたクロワッサンは、表面がきれいな黄金色に輝いている。
「陽葵ちゃん、そこのトレーをお願い」
「はーい!」
陽葵は笑顔で返事をし、パンを並べ始めた。
店頭には、いつものお客さんたちが訪れる。
「おはようございます。今日はいつもの食パンですね?」
「そうそう。孫がここのパンが好きでね」
「ありがとうございます。焼きたてですよ♡」
常連のお客さんとの会話は、陽葵にとって大切な日常だった。
この店に来る人たちの顔。
毎朝交わす挨拶。
いつものパンを買っていく人の姿。
どれも当たり前のようで、決して当たり前ではない。
最近、そのことを以前より強く感じるようになった。
「陽葵ちゃん」
カウンターの向こうから、溝口マスターが声をかけた。
「はい?」
「今日は少し静かだね」
「えっ? そうですか?」
「いつもなら、朝からダーリンの話でいっぱいなのに」
「も、もう! マスター!」
陽葵は頬を膨らませた。
「そんなに毎日話してませんよ!」
「そうかな。昨日は水族館のペンギンの話をしていた気がするけど」
「それは……ペンちゃんがかわいいからです!」
店の奥に置いてある小さなペンギンのイラストを見て、陽葵は笑った。
けれど、その笑顔はすぐに静かになった。
マスターはそれ以上、からかおうとはしなかった。
「まあ、無理に話さなくてもいいさ」
「……ありがとうございます」
「ただ、何か抱えているなら、ひとりで全部考えなくてもいいんじゃないかな」
陽葵は返事をせず、パンを並べる手を少しだけ止めた。
商店街の再開発。
あの日、事務所で見てしまった図面。
そして、律の浮かない顔。
自分の暮らしている街が変わるかもしれないという不安と、夫がその仕事に関わっているかもしれないという戸惑い。
いくつもの気持ちが、胸の中で絡まっていた。
*
昼休み。
陽葵は休憩室の椅子に座り、スマートフォンを手に取った。
通知がいくつか届いている。
その中に、WEB漫画の更新ページからのお知らせがあった。
『ダーリン観察日記』。
陽葵が律との日常を四コマ漫画にして公開している、小さな作品だ。
最初は、ただの遊びだった。
新婚生活の中で見つけた、ちょっとした幸せ。
律の意外な一面。
不器用な優しさ。
何気ない言葉に隠れた愛情。
それを絵にして、誰かに見てもらえたら楽しいだろうと思った。
最初の投稿は、たった四コマ。
タイトルは『朝のダーリン』。
一コマ目は、布団の中で眠る律。
二コマ目は、元気いっぱいの陽葵。
三コマ目は、寝ぼけた律が「あと五分……」と言う場面。
そして四コマ目。
陽葵が律の頬にキスをして、律が目を覚ます。
最後には、こんな文字を添えた。
『今日もダーリンが大好きです♡』
投稿した直後は、読んでくれる人がいるのかさえわからなかった。
それでも、初めてコメントが届いた日は嬉しかった。
『かわいい夫婦ですね!』
『こんな朝を迎えてみたいです』
『ダーリンさん、照れている顔が想像できます』
その言葉が嬉しくて、陽葵は次の漫画を描いた。
水族館でペンギンに夢中になる律。
アイスクリームを半分こする二人。
映画を観ながら、いつの間にか眠ってしまう陽葵。
律がそっと毛布をかけてくれた夜。
どれも特別な出来事ではない。
でも、陽葵にとっては、忘れたくない大切な瞬間だった。
少しずつ読者が増えていき、コメント欄にはいつも温かい言葉が並ぶようになった。
そのページを開いた陽葵は、更新履歴を見つめた。
最後の投稿から、かなりの日数が経っている。
「……もう、こんなに経ったんだ」
スマートフォンの画面をスクロールする。
以前なら、仕事の休憩時間や帰宅後に、次のネタを考えていた。
律の何気ない仕草を見ては、
『これは漫画にできそう!』
と、心の中で小さく喜んでいた。
今は違う。
律の表情を見ても、漫画に描こうとする前に、考えてしまう。
何か悩んでいるのかな。
私に言えないことがあるのかな。
あの図面には、どんな意味があったのかな。
そうして考え始めると、ペンを持つ手が止まってしまう。
陽葵は投稿ページのコメント欄を開いた。
そこには、いつもの読者たちからの言葉が並んでいた。
『陽葵ちゃん、次の更新楽しみにしています!』
『ペンちゃんは元気ですか?』
『ダーリンさんとの日常、また読みたいです♡』
『最近更新がなくて、ちょっと心配です』
そして、一番下に新しいコメントがあった。
『最近さみしいです。いつも二人の何気ない日常に癒やされていました。無理はしないでくださいね。また読める日を楽しみにしています』
陽葵の指が止まった。
「……最近、さみしい」
その言葉を、もう一度読み返す。
責めるような言葉ではない。
催促でもない。
ただ、読者の素直な気持ちだった。
けれど、その短い言葉が、陽葵の胸に深く届いた。
「私も……」
小さく声が漏れた。
「私も、さみしいのかな」
画面の向こうにいる読者は、更新を待ってくれている。
陽葵が描く、二人の何気ない日常を楽しみにしてくれている。
それなのに、自分は今、その日常をどう描けばいいのかわからなくなっていた。
いつもなら、律の優しいところを見つけて、嬉しくなって、漫画にしていた。
でも今は、優しさを感じるたびに、聞けないことを思い出す。
笑顔を向けられるたびに、その笑顔の奥にあるものを知りたくなる。
何も変わっていないはずなのに、二人の間に小さな壁ができたように感じてしまう。
「……私、何を描きたいんだろう」
陽葵はスマートフォンを胸元に置いた。
*
仕事を終えた陽葵は、いつもより少し遠回りをして帰ることにした。
商店街の通りには、夕方の柔らかな光が差し込んでいる。
八百屋の店先には、季節の野菜が並んでいた。
花屋の前には、色とりどりの花が飾られている。
いつもの喫茶店からは、コーヒーの香りが漂っていた。
「こんばんは」
「おや、陽葵ちゃん。お仕事帰りかい?」
花屋の店主が声をかけてくれた。
「はい。今日はちょっと歩いて帰ろうと思って」
「そうかい。今日は少し涼しくなったね」
「ですね。秋が近づいてきた感じがします」
店先の花を眺めながら、陽葵は足を止めた。
見慣れた風景。
何度も通った道。
ここで律と待ち合わせをしたこともある。
買い物の途中で、どちらが重い袋を持つか小さな言い合いをしたこともある。
雨の日に、二人で軒下に避難したこともあった。
そんな何気ない思い出が、この街のあちこちに残っている。
「陽葵ちゃん、何か気になることでもあるのかい?」
「えっ?」
「さっきから、ずっと街を見ているからね」
陽葵は少し迷ってから答えた。
「この街って、変わっちゃうのかなって思って」
店主は、花を整える手を止めた。
「再開発の話かい?」
「はい。まだ何も決まっていないって聞いていますけど……」
「そうだね。古い建物もあるし、直さなきゃいけないところもある。安全のことを考えたら、変える必要がある場所もあるんだろう」
「でも……」
「なくしたくないものもある。そういうことだろう?」
陽葵は小さく頷いた。
「この街が好きなんです。ここにいる人たちも、お店も、いつもの景色も。もちろん、もっと便利になったり、安全になったりするのはいいことだと思います。でも、全部新しくなって、今までのことがなくなっちゃったら……」
「寂しいね」
「はい」
店主は、店先の花を一輪手に取った。
「花もね、古い枝を整理しないと新しい芽が育たないことがある。でも、根まで傷つけてしまったら、花は咲かなくなる」
「根……」
「街にも、根っこがあるんじゃないかな。そこに暮らす人の思い出や、長く続けてきた仕事や、毎日の挨拶。そういうものを大切にできる変化なら、きっと意味があると思うよ」
陽葵は、その言葉を胸の中で繰り返した。
建物だけではない。
街には、人が暮らしている。
そこで働く人がいる。
帰り道に立ち寄る場所があり、誰かと交わす挨拶がある。
そうしたものを守りながら、未来へ進む方法はないのだろうか。
「ありがとうございます」
「何も急いで答えを出さなくてもいいさ。陽葵ちゃんも、自分の気持ちを大事にしなさい」
「はい」
店主に見送られ、陽葵は再び歩き始めた。
その足取りは、少しだけ軽くなっていた。
*
家に帰ると、ペンちゃんがいつもの場所で待っていた。
「ただいま、ペンちゃん」
陽葵はぬいぐるみを抱き上げた。
「ねえ、ペンちゃん。私、最近ちょっと変だよね」
もちろん、返事はない。
それでも陽葵は、ペンちゃんをソファに座らせ、その隣に腰を下ろした。
「ダーリンのこと、大好きなのは変わらないよ。朝だって、帰ってきたときだって、本当はいっぱい話したいの」
ペンちゃんの丸い目を見つめる。
「でも、聞きたいことを聞けないの。聞いたら困らせちゃうかなって思うし、仕事のことだから言えないこともあるってわかってる」
陽葵は膝の上で手を組んだ。
「だけどね、何も聞かないでいると、私だけが何も知らないまま、どんどん遠くに行っちゃう気がするんだ」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあったものが少しだけ形になった。
寂しかったのだ。
律が忙しいことが寂しいのではない。
仕事を頑張っていることが嫌なわけでもない。
ただ、自分が大切に思っている街のことを、夫がどんな気持ちで見ているのか知りたかった。
そして、自分の不安も、ちゃんと聞いてほしかった。
「私、ダーリンに何でも話してほしいわけじゃないんだよね」
陽葵はペンちゃんの頭を撫でた。
「言えないことがあるなら、それはわかる。でも、言える範囲でいいから、今どう思っているのか聞きたい。私も、どう感じているのか伝えたい」
自分の気持ちを言葉にすると、少しずつ整理されていく。
これまで陽葵は、律を困らせないように、仕事の邪魔をしないようにと考えていた。
でも、その気遣いが、いつの間にか自分の気持ちを閉じ込めることになっていたのかもしれない。
「……私、いい奥さんになろうとして、ちょっと頑張りすぎていたのかな」
陽葵は苦笑した。
「でも、夫婦って、片方だけが我慢するものじゃないよね」
そのとき、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
「おかえりなさい、ダーリン!」
陽葵は立ち上がり、玄関へ向かった。
律は少し疲れた顔をしていたが、陽葵を見ると穏やかに微笑んだ。
「今日は早かったな」
「うん。ちょっと寄り道してきたの」
「商店街か?」
「そう。花屋さんで少しお話ししたよ」
「そうか」
律は鞄を置き、上着を脱いだ。
「夕飯、もうできてる?」
「あと少しだよ。今日は温かいスープも作ったの」
「ありがとう。楽しみだ」
何気ない会話。
それだけで、陽葵の心は少し温かくなる。
けれど、今日はもう一歩だけ進んでみようと思った。
「ダーリン」
「ん?」
「今日ね、ちょっと考えたことがあるの」
「何?」
「私たち、最近少しだけ会話が減った気がする」
律の手が止まった。
「……そうかもしれないな」
「私ね、ダーリンが忙しいのはわかってるよ。仕事のことを全部話せないのもわかってる」
「うん」
「でも、私もちゃんと話したい。街のことも、私が感じていることも。ダーリンが今どう思っているのかも、聞ける範囲で聞きたい」
律は陽葵の顔を見つめた。
「そうだな。俺も、もう少し話すようにする」
「うん。ありがとう」
陽葵は微笑んだ。
まだすべてが解決したわけではない。
図面のことも、再開発のことも、これからどうなるのかはわからない。
それでも、話したいと思う気持ちを伝えることはできた。
「それとね、ダーリン」
「何だ?」
「私、最近漫画を更新できていないの」
「『ダーリン観察日記』か」
「そう。読んでくれている人から、心配するコメントが届いていたの」
「そうなのか」
「うん。『最近さみしい』って」
律は少し驚いたように目を瞬かせた。
「それは、更新がなくて寂しいという意味だろう?」
「そうなんだけど……私、その言葉を読んだとき、ちょっと胸が痛くなっちゃった」
「どうして?」
「私も、最近ちょっと寂しかったから」
陽葵は、正直にそう言った。
律は何も言わず、彼女の言葉を待っていた。
「いつもは、ダーリンの何気ない仕草を見て、これ漫画にしたいなって思ってた。でも最近は、ダーリンが何を考えているのか気になって、漫画を描く余裕がなくなっちゃった」
「……そうだったのか」
「うん。でもね、ダーリンのことを嫌いになったわけじゃないよ。むしろ、大好きだから気になるんだと思う」
陽葵は少し照れたように笑った。
「私、ダーリンのことをもっと知りたい。仕事の秘密を全部教えてほしいわけじゃないよ。ただ、今のダーリンの気持ちを、少しでも一緒に考えたいの」
律はゆっくりと頷いた。
「わかった。俺も、言えることはちゃんと話す。まだ決まっていないことや、仕事上話せないことはあるけど、何もかも一人で抱える必要はないんだよな」
「うん」
「俺も、陽葵に心配をかけたくないと思っていた。でも、何も言わないことで、余計に心配させていたのかもしれない」
「ちょっとだけね」
陽葵は、指で小さな隙間を作って見せた。
「ほんの、これくらい」
「それは結構あるな」
「えーっ! そんなに?」
「冗談だよ」
律が小さく笑う。
陽葵も笑った。
久しぶりに、二人の間にいつもの空気が戻ってきたような気がした。
*
夕食のあと。
陽葵はリビングのテーブルにノートとタブレットを並べた。
律はソファに座り、少し離れたところからその様子を眺めている。
「漫画を描くのか?」
「うん。まだ投稿するかはわからないけど、ちょっと描いてみようかなって」
「いいんじゃないか」
「ねえ、ダーリン。今日の観察対象になってもらってもいい?」
「いつも観察されている気がするけど」
「それは気のせいです♡」
「そうか」
陽葵はペンを持った。
最初のページには、いつものように四つの枠を描く。
でも、何を描くかはまだ決まっていない。
しばらく考えたあと、陽葵は一コマ目に小さな自分の姿を描いた。
スマートフォンを持ち、画面を見つめている女の子。
二コマ目には、コメント欄の言葉。
『最近さみしい』
三コマ目には、ペンちゃんを抱きしめている姿。
そして、四コマ目。
陽葵は少し考え、そこに文字を書いた。
『さみしいって思ったら、ちゃんと伝えてみよう。大好きな人と、もう一度おしゃべりするために』
「……できた」
まだラフのような絵だった。
いつものような笑顔いっぱいの漫画ではない。
でも、今の自分の気持ちに近いものが描けた気がした。
「ダーリン、見て」
律がテーブルのそばに来る。
「これが今日の漫画?」
「うん。まだ途中だけどね」
律は一つ一つのコマを見た。
「いいと思う」
「本当?」
「ああ。陽葵らしい」
「どの辺が?」
「最後のコマかな。寂しいと思ったことを、ちゃんと伝えようとしているところ」
陽葵は少し目を丸くした。
「ダーリン、ちゃんと読んでくれたんだね」
「当たり前だろ」
「えへへ」
陽葵は嬉しそうに笑った。
律は、タブレットの画面から視線を上げた。
「俺も、これからはもう少し話すようにするよ」
「うん。私も、聞きたいことを我慢しすぎないようにする」
「ただし、答えられないことはある」
「わかってるよ。そこはちゃんと待つ」
「ありがとう」
「その代わり、ダーリンも私の話を聞いてね」
「もちろん」
「商店街のことも、いっぱい話すから!」
「それは覚悟しておく」
「えーっ、覚悟なの?」
「かなりの情報量になりそうだからな」
「もう! ダーリンったら!」
二人の笑い声が、静かな部屋に広がった。
陽葵は再びペンを持ち、四コマ目の隅に小さなハートを描き加えた。
*
その夜、陽葵は『ダーリン観察日記』のページを開いた。
コメント欄には、まだ読者からの言葉が残っている。
『最近さみしいです』
そのコメントをもう一度読み、陽葵は返信欄に指を置いた。
何と書けばいいのだろう。
心配してくれてありがとう。
少し忙しくて、更新が止まっていました。
また描きます。
そんな言葉なら、すぐに書ける。
でも、今夜はもう少しだけ、自分の気持ちを伝えたかった。
陽葵は、ゆっくりと文章を入力した。
『コメントありがとうございます♡
最近、少しだけ考えることが増えて、漫画を描く手が止まっていました。
でも、皆さんのコメントを読んで、私自身も「寂しい」と思っていたことに気づきました。
何気ない日常って、当たり前のようで、とても大切なものなんですね。
また、少しずつ描いていこうと思います。
待っていてくださって、本当にありがとうございます♡』
送信ボタンを押す。
画面に、自分の返信が表示された。
陽葵は、ほっと息をついた。
「これでいいよね」
隣には、ペンちゃんが座っている。
ソファの向こうでは、律が明日の仕事の準備をしていた。
陽葵は彼の横顔を見つめる。
まだ聞きたいことはある。
まだ不安もある。
街の未来も、律の仕事も、二人の暮らしも、これからどうなっていくのかはわからない。
それでも、今日ひとつだけ気づいたことがある。
寂しさを感じることは、愛情がなくなったということではない。
大切な人と、もっと近くにいたいと思うからこそ、寂しくなることもある。
そして、その気持ちは、言葉にして伝えてもいいのだ。
「ダーリン」
「ん?」
「今日も一緒にいてくれて、ありがとう」
律は手を止め、陽葵のほうを向いた。
「どうした、急に」
「なんとなく言いたくなったの」
「こちらこそ」
律は陽葵の頭に手を置き、優しく撫でた。
「いつもありがとう」
「……えへへ」
陽葵は、その手に自分の手を重ねた。
ほんの少しだけ、心の距離が近づいた気がした。
その夜、陽葵は新しい漫画の下書きを保存した。
まだ完成ではない。
公開するかどうかも決めていない。
けれど、止まっていたペンは、もう一度動き始めていた。
そして、陽葵はノートの最後に、小さく書き添えた。
『ダーリン観察日記。
今日の観察結果――寂しいときは、ちゃんと伝えること。
大好きな人と、同じ景色を見るために♡』
窓の外では、夜風が静かに吹いていた。
ひだまり商店街の明かりは、まだいくつも灯っている。
その灯りの一つ一つに、誰かの暮らしがある。
守りたいもの。
変わってほしくないもの。
そして、未来へつないでいきたいもの。
陽葵は、明日もこの街を歩くだろう。
律と一緒に、いつもの朝を迎えるだろう。
すべてが元通りになったわけではない。
それでも、二人の間には、もう一度言葉を交わそうとする小さな約束が生まれていた。
止まっていた観察日記は、まだ完成していない。
けれど、その次のページには、きっと新しい二人の日常が描かれる。
それは、何も知らずに笑っていた頃とは少し違う。
不安も、迷いも、寂しさも知ったうえで、それでも一緒に歩いていこうとする二人の物語。
陽葵はペンを置き、隣にいる律の肩にそっと寄りかかった。
「ダーリン♡」
「何?」
「明日も、私のこと観察していいよ?」
「いつも見ているけどな」
「えっ? そうなの?」
「そうだよ」
「じゃあ、明日は特別に、もっとかわいいところを見せてあげる!」
「それは楽しみだな」
律の声に、陽葵はくすっと笑った。
小さな笑顔が、また一つ戻ってきた。
そして、まだ誰も知らない商店街の未来へ向けて、二人の時間は静かに進んでいく。
――次のページには、どんな二人が描かれるのだろう。
陽葵は、そう思いながら目を閉じた。
第8節:同じテーブルで、同じ未来を
夜の十時を少し過ぎた頃。
ひだまり商店街の通りには、閉店した店のシャッターが並び、街灯の明かりだけが静かに道を照らしていた。
昼間は買い物客や子どもたちの声で賑わう通りも、この時間になると別の顔を見せる。
古い看板の文字。
何度も塗り直された店先の柱。
長年使われてきた木製のベンチ。
どれも、そこに暮らす人たちの時間を刻んできたものだった。
陽葵は自宅のキッチンで、温め直したスープの火を止めた。
テーブルには、二人分の夕食が並んでいる。
今日は、律の帰りが遅くなると連絡があった。
それでも陽葵は、先に食べずに待っていた。
以前なら、仕事で疲れて帰ってくる律を気遣って、何も聞かずに「お疲れさま」と笑っていたかもしれない。
けれど、今夜は少し違う。
聞きたいことがある。
話したいことがある。
そして、できれば二人で考えたいことがある。
陽葵はテーブルの上に置いたスマートフォンを見つめた。
律からの最後のメッセージは、午後八時半。
『少し遅くなる。先に休んでいていいよ』
それに対して、陽葵はこう返していた。
『大丈夫だよ。温かいごはんを用意して待ってるね。帰ったら少しお話ししたいな♡』
送信したあと、少しだけ緊張した。
重い話だと思われないだろうか。
疲れているのに、また仕事のことを聞かれると思われないだろうか。
けれど、すぐに返信が届いた。
『わかった。帰ったら話そう』
その短い返事が、陽葵には嬉しかった。
「よし……」
陽葵は両手を軽く握った。
「今日は逃げないぞ、私!」
ソファの上では、ペンちゃんがいつものように座っている。
「ペンちゃんも応援してね」
ぬいぐるみの頭を撫でていると、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま」
「おかえりなさい、ダーリン!」
陽葵は玄関へ向かった。
律は鞄を持ったまま、少し疲れた表情で立っていた。
「待っていてくれたのか」
「うん。約束したからね」
「ありがとう」
律は靴を脱ぎ、陽葵の顔を見た。
「話したいことがあるんだよな」
「うん。でも、まずはごはんにしよう。お腹が空いていると、難しい話も難しくなっちゃうから」
「それは正しいな」
「でしょ?」
陽葵は笑って、律の鞄を受け取った。
「今日はスープも作ったよ。温かいうちに食べようね」
「ああ」
いつものように、二人は並んで食卓へ向かった。
けれど、今夜の食卓には、いつもとは違う静かな緊張が流れていた。
*
夕食の間、二人はまず仕事や日常の話をした。
「今日、パン屋さんに小さな男の子が来たんだよ」
「そうなのか」
「お母さんと一緒に来てね。いつも買っているメロンパンを見つけた瞬間、すごく嬉しそうな顔をしたの」
「好きなんだろうな」
「うん。それで、お母さんが今日は別のパンにしようかって言ったら、その子がね……」
陽葵は声を少し真似した。
「『このお店のメロンパンがいい!』って」
「それは譲れなかったんだな」
「そうなの。マスターも笑っていたよ」
律も小さく笑った。
「そういうお客さんがいると、作る側も嬉しいだろうな」
「うん。マスター、すごく嬉しそうだった」
陽葵はスープを口に運んだ。
「ダーリンの会社でも、そういうことってある?」
「どういうこと?」
「自分が関わった建物を、誰かが喜んで使ってくれるとか」
律は少し考えた。
「あるよ。完成した建物を見に行ったとき、そこで働く人が使いやすいと言ってくれたり、住んでいる人が安心して暮らせると言ってくれたりすると、やっぱり嬉しい」
「そっか」
「設計の仕事は、図面を描いて終わりじゃないからな。実際に使う人がいて、そこで生活が続いていく」
「うん」
陽葵は律の言葉を聞きながら、少しだけ視線を落とした。
その考え方は、今まで聞いたことのある律の仕事観と重なっていた。
建物を作ることだけが目的ではない。
その場所で暮らす人がいる。
そこに集まる人がいる。
その先の時間を考えることも、建築の仕事なのだろう。
「ダーリン」
「ん?」
「今日、ちゃんと話してくれる?」
「ああ」
律は箸を置いた。
「食べ終わったら、ゆっくり話そう」
「うん」
陽葵は頷いた。
その返事を聞いて、胸の中にあった緊張が少しだけ和らいだ。
*
食事を終えた二人は、テーブルの上を片付けた。
陽葵が食器を洗い、律が拭いて棚に戻す。
いつもの家事の分担。
その何気ない時間も、今夜は大切に感じられた。
「ダーリン、そこは私が拭くよ」
「いいよ。俺がやる」
「じゃあ、こっちはお願い」
「ああ」
二人で並んで片付ける。
最後の皿を棚に戻した律は、手を拭きながらリビングへ向かった。
「陽葵、少し座ろう」
「うん」
二人はテーブルを挟んで向かい合った。
窓の外には、静かな夜の街が広がっている。
陽葵は、膝の上で手を重ねた。
何から聞けばいいのだろう。
あの図面を見たこと。
商店街の人たちが不安に思っていること。
自分がこの街を好きだということ。
そして、律が何を考えているのか知りたいということ。
いくつもの言葉が頭の中を行き来する。
けれど、最初に口を開いたのは律だった。
「陽葵。まず、話しておきたいことがある」
「うん」
「君が事務所で図面を見たことは、気づいていた」
陽葵は少し驚いた。
「……気づいていたの?」
「ああ。あの日、弁当を届けてくれただろう。そのあと、君の様子が少し違っていたから」
「そっか……」
「何か見たんじゃないかと思っていた。でも、君から聞かれなかったから、俺も話すタイミングを考えていた」
律は一度、息を吐いた。
「俺の仕事と、ひだまり商店街の再開発計画は関係している」
その言葉に、陽葵はゆっくりと頷いた。
「やっぱり……そうなんだね」
「うん」
「じゃあ、あの図面は……」
「再開発計画に関する資料の一つだ。まだ検討段階のものも含まれている。決定した計画ではない」
「決まったことじゃないんだね?」
「そうだ。今はいくつかの案を比較している段階だよ。建物の状態や道路、避難経路、歩行者の動き、商店街の利用状況など、調べることは多い」
陽葵は律の顔を見つめた。
「それで、ダーリンはその仕事に関わっているの?」
律は少し間を置いた。
そして、はっきりと答えた。
「商店街の担当になった。でも、何も決まってない」
部屋の中が静かになった。
陽葵はその言葉を、心の中でもう一度繰り返した。
商店街の担当。
つまり、律はこの街の未来に関わる仕事をしている。
自分が毎日歩いている道。
マスターのパン屋さん。
花屋さんや八百屋さん。
長く続いてきた店や、そこに暮らす人たち。
そのすべてに関係する仕事を、夫が担当している。
「……そうだったんだ」
「ああ」
「いつから?」
「正式に担当として動くことになったのは、少し前だ。最初は現地の資料を集めたり、建物の状態を確認したりするところから始まった」
「それで、最近ずっと帰りが遅かったんだね」
「そうだな」
「私がお弁当を届けた日も?」
「あの日も資料の確認をしていた。図面や調査内容を整理していたんだ」
陽葵は、あの日の事務所を思い出した。
受付で名前を伝えたこと。
廊下を歩いていたこと。
机の上に広がっていた図面。
そこに書かれていた『ひだまり商店街』という文字。
そして、律の浮かない顔。
すべてが、今になってつながっていく。
「どうして、もっと早く話してくれなかったの?」
陽葵の声は、思っていたよりも静かだった。
律は視線をそらさなかった。
「仕事上、まだ話せないことが多かったからだ」
「うん」
「計画そのものが確定していないし、社内でも検討中の情報がある。関係者への説明や調整もこれからだ。正式に公表されていない内容を、家族だからといって自由に話せるわけじゃない」
「それはわかるよ」
「それに……」
律は言葉を探すように、少しだけ視線を落とした。
「君がこの街を好きなのは知っている。パン屋の仕事も、商店街の人たちとのつながりも、大切にしていることを知っているから」
「うん」
「俺の仕事がその街に関わるとわかったら、君を不安にさせると思った」
陽葵は、何も言わずに聞いていた。
「まだ何も決まっていない段階で、余計な心配をさせたくなかった。中途半端な説明をして、間違った期待や不安を与えたくなかったんだ」
「だから、言わなかったの?」
「ああ。話せることが整理できてから伝えようと思っていた」
「……でも、私は何も知らないままだった」
「そうだな」
律は静かに頷いた。
「そこは俺が間違えていたと思う」
陽葵は目を伏せた。
律が自分を心配してくれていたことはわかる。
仕事上の事情も理解できる。
でも、何も知らされないまま、少しずつ不安になっていった時間も確かにあった。
「私ね、最初は図面を見てびっくりしたの」
「うん」
「まさか、ダーリンが商店街のことに関わっているなんて思わなかったから。私が毎日歩いている場所なのに、ダーリンの仕事の中に出てきたんだって」
「そうだろうな」
「それから、いろいろ考えちゃった。商店街がなくなっちゃうのかなとか、お店はどうなるのかなとか。マスターはどう思うんだろうとか」
陽葵は窓の外に目を向けた。
「でも、一番気になったのは、ダーリンがどう思っているのかだった」
「俺が?」
「うん。ダーリンは、この街をどうしたいと思っているのかなって」
律は黙って聞いていた。
「仕事だから、会社の方針や計画があるのはわかるよ。でも、ダーリン自身はどう考えているのかなって。建物だけを見ているのかな。それとも、そこで暮らしている人のことも考えているのかなって」
「……そう思っていたのか」
「うん。私、ダーリンの仕事を否定したいわけじゃないよ」
陽葵は、律の目を見た。
「建物が古くなっているところもあるし、安全のために直さなきゃいけない場所もあると思う。道が狭くて、お年寄りや小さな子どもが歩きにくいところもあるよね。地震や火事のことを考えたら、何かを変えなきゃいけないのかもしれない」
「その通りだ」
「でも、今あるお店や、そこで暮らしている人たちのことも大切にしてほしい。新しくなれば、それでいいわけじゃないと思うの」
陽葵の声に、少しだけ力がこもった。
「この街には、毎日ここで買い物をしている人がいる。長くお店を続けている人がいる。お客さんとお店の人の間にも、いろんな思い出があるんだよ」
「うん」
「パン屋さんだってそう。毎朝同じパンを買いに来る人がいて、子どもが初めて自分のお小遣いでパンを買いに来たりする。そんな小さな出来事が、毎日積み重なっているの」
陽葵は少し笑った。
「私、そういうのを見るのが好きなんだ」
「知っているよ」
「だから、なくなってほしくない。できれば、今のまま続いてほしいって思う」
そこまで言って、陽葵は一度言葉を止めた。
「でも、今のままでいいのかって聞かれたら、それもわからないんだよね」
律は、ゆっくりと頷いた。
「それは大事なことだと思う」
「え?」
「今の街を残したいという気持ちと、今の街に課題があるということは、両立するから」
律はテーブルに手を置いた。
「古い建物の中には、耐震性や防火性能に不安があるものもある。段差が多くて、車椅子やベビーカーでは利用しにくい場所もある。道路の幅や避難経路についても、確認しなければならないことがある」
「うん」
「それを放置して、何も変えないことが、本当に住民のためになるのか。俺たちはそこから考えなければならない」
律の声は落ち着いていた。
「でも、だからといって、古いものを全部壊して、新しい建物にすれば解決するわけでもない」
「……そうだよね」
「そこで暮らしている人の生活がある。商売を続けてきた人の歴史がある。毎日の買い物や通学、通勤の動線もある。建物を新しくするだけでは、街の問題は解決しない」
律は一度、窓の外を見た。
「俺は、そこをきちんと考えたいと思っている」
「ダーリン……」
「まだ、具体的な答えを出せる段階じゃない。いくつかの案が検討されているし、会社として確認しなければならないこともある。住民や商店の人たちの意見を聞くことも必要だ」
「じゃあ、まだ何も決まっていないんだね」
「ああ。だからこそ、今の段階で決まったような話をすることはできない」
「わかった」
陽葵は小さく頷いた。
そして、少しだけ迷ったあと、もう一つ質問した。
「ダーリンは、この街が好き?」
律はすぐには答えなかった。
少し考え、静かに口を開く。
「好きだよ」
「本当?」
「君と一緒に暮らしている街だから、というだけじゃない。仕事で関わる前から、この商店街のことは知っていた」
「そうなの?」
「ああ。何度か通ったこともある。昔からある店が多くて、建物にもそれぞれ特徴がある。新しいものと古いものが混ざっていて、歩いていると街の時間が見えるような場所だと思っていた」
「そんなふうに見ていたんだ」
「ただ、設計の仕事をするようになってからは、別の部分も目につくようになった。外壁の傷みや、狭い通路、段差、建物の使われ方……」
「仕事の目線だね」
「そうだな。どうしても気になる」
律は少し苦笑した。
「でも、最近は君と暮らすようになって、別の見方もするようになった」
「別の見方?」
「君がパン屋で働いていること。店の人たちと話していること。買い物をして、近所の人と挨拶をしていること。そういう日常を見ていると、図面に書かれている建物の向こう側に、どんな暮らしがあるのかを考えるようになった」
陽葵は、思わず目を見開いた。
「それって……」
「建物だけを見ていても、街のことはわからないんだと思う」
律は言葉を続けた。
「そこに住む人や、働く人、訪れる人がいて初めて街になる。俺は設計に関わる人間として、そのことを忘れたくない」
陽葵の胸の奥が、じんわりと温かくなった。
ずっと聞きたかった。
律は何を考えているのだろう。
自分が大切にしている街を、どう見ているのだろう。
その答えが、今、目の前にある。
「ダーリンは、ちゃんと考えてくれているんだね」
「まだ考えているだけだよ」
「それでも、嬉しい」
「ありがとう」
律は少し照れたように目を伏せた。
*
しばらく沈黙が続いた。
けれど、先ほどまでの沈黙とは違っていた。
言葉が見つからないから黙っているのではない。
相手の言葉を受け止めて、考えている時間だった。
陽葵は、テーブルの上に置かれた律の手を見た。
「ねえ、ダーリン」
「何?」
「私、ひとつだけ謝りたいことがあるの」
「謝ること?」
「うん。ずっと聞きたいことがあったのに、何も聞かないで勝手に考えていたこと」
「それは、俺も同じだ」
「え?」
「君が何を不安に思っているのか、ちゃんと聞こうとしなかった。話せないことがあるからといって、何も話さないままにしていた」
律は、陽葵の手に自分の手を重ねた。
「君が俺に何かを聞いてくるのを待つんじゃなくて、俺から話せることを伝えるべきだった」
「ダーリン……」
「仕事の内容を全部話すことはできない。でも、仕事をしている俺が何を考えているのかは、話せるはずだから」
陽葵は重ねられた手を握り返した。
「私も、聞いていいんだよね?」
「もちろん」
「忙しいときでも?」
「緊急の仕事をしているときは、少し待ってもらうこともあるかもしれない。でも、聞くこと自体を遠慮しなくていい」
「じゃあ、これからいっぱい聞いちゃうかも」
「覚悟しておくよ」
「また覚悟なの?」
「今度は本当に情報量が多そうだからな」
「もう!」
二人は小さく笑った。
陽葵は、そのまま律の手を握っていた。
「ダーリン。私ね、商店街の人たちの話も聞いてみたいと思っているの」
「そうか」
「この前、寄り合いがあったでしょう? そこで、おばあちゃんたちが『この街を残して』って言っていたの」
「聞いたよ」
「でも、みんなが同じ考えというわけじゃなかった。安全のために直してほしいところがある人もいたし、今の雰囲気を残してほしい人もいた」
「そうだろうな」
「だから、私ももっと話を聞いてみたい。何が不安なのか、何を残したいのか。どんな街になったら嬉しいのか」
律は真剣な表情で頷いた。
「それは、意味のあることだと思う」
「でも、私が何かを決められるわけじゃないし、ダーリンの仕事に口を出したいわけでもないよ」
「わかっている」
「ただ、この街で暮らしている一人として、知っておきたいの」
「それでいいと思う」
律は少し考えてから続けた。
「俺たちの仕事でも、住民の意見を聞くことは重要になる。生活の中で感じている不便さや、残したいものは、資料だけではわからないことが多いから」
「そうなんだ」
「ただし、社内の資料や未公表の内容を君に見せたり、仕事の情報を伝えたりすることはできない。そこは分けて考えたい」
「もちろん。私も、仕事の秘密を聞きたいわけじゃないから」
「ありがとう」
「私が聞いた街の人たちの声を、必要なときに一般的な意見として伝えることはできるかもしれないね」
「そうだな。ただ、個人の名前や事情を勝手に伝えるのではなく、本人の意向を大切にしてほしい」
「うん。ちゃんと気をつける」
陽葵は頷いた。
律は、彼女がただ感情的に反対しているのではないことを理解していた。
そして陽葵も、律が街を変えたいからこの仕事をしているわけではないと、少しずつ理解し始めていた。
けれど、理解したからといって、不安がすべて消えたわけではなかった。
そのことを、陽葵自身も感じていた。
*
「それでね、ダーリン」
「うん」
「私、もう一つ気になっていることがあるの」
「何だ?」
「お父さんのこと」
律の表情が、ほんの少し変わった。
陽葵は、その変化を見逃さなかった。
「この再開発の話を聞いてから、前に千夏ちゃんが話してくれたことを思い出していたの」
「父さんのことか」
「うん。お父さんも建築の仕事をしていたんだよね」
「ああ」
「昔、ダーリンと意見が合わなかったって……」
律は、重ねていた手を少しだけ動かした。
「そうだな」
「お父さんは、何を大切にしていた人なの?」
律は、すぐには答えなかった。
窓の外に目を向け、しばらく考えているようだった。
「父は、建物を長く使えることを大切にしていた」
「長く使えること?」
「安全であること。予算を守ること。完成したあとも、きちんと維持できること。見た目だけではなく、実際に使う人が困らないこと。そういうことをよく話していた」
「素敵な考え方だね」
「そうだと思う」
律は小さく頷いた。
「ただ、俺が若い頃は、それだけでは足りないと思っていた。もっと新しい考え方を取り入れたい。建物の可能性を広げたい。そういう気持ちが強かった」
「それで、ぶつかったの?」
「ああ。ある設計のことで、父と意見が合わなかった」
律の声が、少し低くなる。
「俺は自分の考えを通そうとした。父は、現実的な問題を指摘した。予算や施工のこと、完成後の維持管理のこと。俺には、それがただの否定に聞こえた」
「……うん」
「最後には、父に言われたんだ」
律は一度、目を閉じた。
「『お前は、何もわかっていない。』って」
陽葵は、何も言わずに聞いていた。
「その言葉が悔しくて、俺も言い返した。何がわかっていないんだと。俺の考えを理解しようともしないくせに、と」
「それから、あまり話さなくなったの?」
「そうだな。お互いに譲らなかった」
律は、テーブルの木目を見つめた。
「今になって考えると、父の言っていたことにも意味があったと思う。建物は、完成した瞬間が終わりじゃない。そこから何十年も使われる。維持できることも、暮らす人の安全を守ることも大切だ」
「うん」
「でも、父が何を考えていたのか、最後までちゃんと聞けなかった」
陽葵は、そっと律の手を握り直した。
「千夏ちゃんが話してくれたことがあるの」
「何を?」
「昔、ダーリンが部屋でギターを弾いていると、お父さんが廊下で聞いていたことがあったって」
律は顔を上げた。
「……ああ」
「でも、部屋には入ってこなかったって」
「そうだったな」
「千夏ちゃんが、ドアのところで立ち止まっているお父さんを見たことがあるって言っていたよ」
律は何も答えなかった。
「お父さん、ダーリンのことを気にしていたのかもしれないね」
「どうだろうな」
「それと、あのノートの言葉も」
陽葵は、以前聞いた言葉を思い出す。
『好きな音を、忘れるな。』
「好きな音を、忘れるな……」
律が、静かにその言葉を繰り返した。
「父が残した言葉だ」
「ダーリンがギターを弾いていたことも、お父さんはちゃんと覚えていたんだよね」
「……そうかもしれない」
律は、少しだけ表情を緩めた。
「父のことは、まだ整理できていない。あの頃の自分が正しかったとも、間違っていたとも、簡単には言えない」
「うん」
「でも、今の仕事をしていると、父が大切にしていたことを思い出すことがある」
「安全や、長く使えること?」
「ああ。それに、建物を使う人のことを考えることだ」
陽葵は微笑んだ。
「お父さんの考え方が、今のダーリンの中にも残っているんだね」
「そうなのかもしれないな」
律は、少し照れたように視線をそらした。
「この再開発の仕事を通して、父のことをもう一度考えるようになった」
「そうだったんだ」
「父が今の街を見たら、何を言うだろうな」
律の言葉には、懐かしさと、まだ消えないわだかまりが混ざっていた。
陽葵は、その気持ちを無理に聞き出そうとはしなかった。
今夜は、律が自分から話してくれたことを大切にしたかった。
*
時計の針は、十一時を回っていた。
話し始めてから、ずいぶん時間が経っていた。
陽葵は、少し冷めたお茶を飲んだ。
「ダーリン、話してくれてありがとう」
「こちらこそ。ちゃんと話せてよかった」
「私も」
陽葵は、テーブルの上に置かれた自分の手を見つめた。
「ねえ。今夜の話を聞いて、少し安心したよ」
「そうか」
「でもね、正直に言うと、まだ不安もある」
「うん」
「この街がどうなるのかもわからないし、ダーリンの仕事がこれからどう進んでいくのかもわからない。お店の人たちがどんな気持ちになるのかも、まだわからない」
「そうだな」
「それに、私はこの街を残したいと思っているけど、今のままでは困ることがあるのもわかる。だから、簡単に答えを出せない」
陽葵は、少しだけ笑った。
「私、欲張りなのかな」
「どうして?」
「今の街も好き。もっと安全で暮らしやすくなってほしい。でも、今あるものもなくなってほしくない。全部大切にしたいって思っちゃう」
律は、ゆっくり首を横に振った。
「欲張りじゃないよ」
「そう?」
「街に暮らしている人なら、自然な気持ちだと思う。何かを残したいと思うことと、良くしたいと思うことは、どちらか一つに決めなくてもいい」
「……うん」
「その両方をどう実現できるか考えるのが、これからの仕事なんだと思う」
陽葵は律を見た。
「ダーリンも、そう思っているんだね」
「ああ」
「だったら、私も考えたい」
「一緒に?」
「うん。私にできることは小さいかもしれないけど、街の人の話を聞いたり、自分が感じていることを整理したり。何かできることがあると思う」
「無理はしなくていい」
「わかってる。でも、何もしないで不安になっているだけなのは、もう嫌なの」
律は、陽葵の言葉を受け止めるように頷いた。
「そうだな。君が自分でできることを探すのはいいと思う。ただ、俺の仕事と混同しないようにしよう。君は君の立場で、俺は俺の立場で、それぞれ考えることが大切だ」
「うん。そこはちゃんと分けるね」
「それでも、家に帰れば話は聞くよ」
「本当?」
「もちろん」
陽葵の顔に、いつもの明るい笑顔が戻った。
「じゃあ、これからもいっぱい話そうね!」
「そうだな」
「仕事の話も、パン屋さんの話も、ペンちゃんの話も!」
「ペンちゃんの話は、かなり多そうだな」
「だって、ペンちゃんは我が家の大切な家族だもん♡」
陽葵はソファに置いてあったペンちゃんを抱き上げた。
「ねえ、ペンちゃん。ダーリンがちゃんとお話ししてくれたよ!」
律は苦笑した。
「俺が話す相手は、陽葵だけでいいんだけどな」
「えーっ! ペンちゃんにも報告してよ!」
「わかった。ペンちゃんにも報告しておく」
「約束だよ?」
「ああ」
二人の笑い声が、夜のリビングに広がった。
*
その後、陽葵は少し迷いながら、スマートフォンを手に取った。
「ダーリン、ちょっと見てほしいものがあるの」
「何?」
「『ダーリン観察日記』の下書き」
「この前の続きか?」
「うん。あれから少し描き直したの」
陽葵はタブレットの画面を律に見せた。
そこには、四コマのラフが描かれていた。
一コマ目。
テーブルに向かい合う二人。
二コマ目。
陽葵が少し不安そうな顔で、律を見つめている。
三コマ目。
律がゆっくりと口を開いている。
四コマ目。
二人の手がテーブルの上で重なっている。
そして、最後にこんな文字が添えられていた。
『話してくれてありがとう。これからは、二人で考えようね。』
「どうかな?」
律は画面を見つめた。
「いいと思う」
「本当?」
「ああ。ただ、少しだけ気になる」
「どこ?」
「俺の顔が、少し格好よく描かれすぎている」
「そこなの!?」
陽葵は思わず笑った。
「だって、ダーリンは格好いいんだもん!」
「現実よりかなり美化されている気がする」
「漫画だからいいの!」
「そういうものか」
「そういうものです♡」
陽葵は、律の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、今度はもっと普段のダーリンも描いてあげるね」
「それは少し心配だな」
「寝起きの顔とか?」
「それはやめてくれ」
「えーっ! 絶対かわいいのに!」
「かわいい必要はない」
「あるよ。私のダーリン観察日記だもん!」
律は小さく笑い、陽葵の頭を撫でた。
「好きに描いていいよ」
「やった!」
陽葵は嬉しそうにタブレットを抱きしめた。
けれど、すぐに投稿することはしなかった。
今夜の会話は、二人だけの大切な時間として、もう少し胸の中に置いておきたかった。
漫画にするのは、もう少し先でもいい。
*
寝室へ向かう前、律はリビングの窓辺に立ち、外の街を眺めていた。
遠くに見える商店街の街灯。
閉じたシャッター。
古い建物の輪郭。
そこには、長い時間をかけて積み重ねられた暮らしがある。
「ダーリン?」
陽葵が後ろから声をかけた。
「どうしたの?」
「いや、少し街を見ていた」
「明日も、いつもの街だね」
「ああ」
「明日もパン屋さんが開いて、マスターがパンを焼いて、お客さんが買いに来て……」
「そうだな」
「その先も、みんなが安心して暮らせる街になったらいいね」
律は、陽葵のほうを向いた。
「そうできるように考えたい」
「うん」
陽葵は律の隣に立った。
二人の視線の先には、静かな商店街があった。
同じ景色を見ている。
けれど、見えているものは少し違うのかもしれない。
陽葵には、そこで交わされる挨拶や、店先に並ぶ商品や、誰かの笑顔が見える。
律には、建物の状態や道路の幅、避難経路や、これから必要になる整備が見える。
どちらも、この街の一部だった。
「ねえ、ダーリン」
「何?」
「私たち、考えていることが違ってもいいよね?」
「ああ。違うからこそ、見えるものもある」
「じゃあ、これからも教えてね。ダーリンが見ているもの」
「陽葵も、君が見ているものを教えてほしい」
「うん。いっぱい教える!」
陽葵は、律の腕にそっと抱きついた。
「でも、今日はもう寝ようね。明日もお仕事だし」
「そうだな」
「おやすみの前に……」
陽葵は少し背伸びをした。
「ダーリン♡ こっち見て!」
律が振り向く。
陽葵は、その頬に小さくキスをした。
「おやすみなさい」
「おやすみ、陽葵」
律は彼女の額に優しく口づけた。
*
その夜、陽葵はベッドの中で、律の手を握っていた。
今まで聞けなかったことを聞くことができた。
律も、今まで言えなかったことを話してくれた。
まだ知らないことは多い。
再開発計画の行方も、商店街の未来も、これからどうなるのかわからない。
けれど、少なくとも今夜は、二人で同じテーブルに座り、同じ話をすることができた。
陽葵は、眠りかけた律に小さく声をかけた。
「ダーリン」
「ん……?」
「話してくれて、ありがとう」
「うん」
「私、これからもダーリンの味方だよ」
律は目を閉じたまま、陽葵の手を握り返した。
「ありがとう。俺も、陽葵の味方だ」
その返事を聞いて、陽葵は目を閉じた。
小さな不安が消えたわけではない。
むしろ、これから向き合わなければならない現実が、少しずつはっきりしてきた。
街を守りたいという気持ち。
変化が必要だという現実。
夫の仕事を信じたい気持ち。
そして、今の暮らしを失いたくないという願い。
そのすべてを、簡単に一つにまとめることはできない。
それでも、二人で話し合うことはできる。
違う考えを持っていても、互いの言葉を聞くことはできる。
陽葵は、眠る直前にもう一度だけ思った。
――この街も、ダーリンも、どちらも大切。
だからこそ、私は簡単に答えを出せない。
そして、その気持ちはきっと、これからもっと大きくなっていく。
窓の外では、ひだまり商店街の街灯が静かに光っていた。
その明かりの下で、明日も誰かの一日が始まる。
まだ何も決まっていない街の未来。
まだ答えの出ていない二人の思い。
その先に待つものを、今は誰も知らない。
ただ一つ確かなのは、二人がようやく、同じ未来について話し始めたということだった。
――そして陽葵は、9節.陽葵の葛藤――大好きな街と、大好きな夫。その間で揺れる心まだ知らない。
自分がこれから向き合うことになるのは、街の未来だけではないということを。
大好きな街と、大好きな夫。
その二つを大切にしたいと願うほど、彼女の心は、少しずつ揺れ始めていた。
第9節:大好きな街と、大好きな人
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が、寝室の壁を照らしていた。
陽葵は、いつもより少し早く目を覚ました。
隣では、律がまだ眠っている。
昨夜、二人で話したことを思い出す。
商店街の再開発計画。
律が正式に担当になったこと。
そして、何も決まっていないということ。
律は、仕事上の立場を隠さずに話してくれた。
自分が何を考えているのかも、これから何を大切にしたいのかも、きちんと言葉にしてくれた。
それが嬉しかった。
けれど、目を覚ました今も、胸の奥には小さな重みが残っていた。
「……どうしたらいいんだろう」
陽葵は、眠っている律を起こさないように、小さく呟いた。
街を守りたい。
でも、ダーリンの仕事も応援したい。
どちらも本当の気持ちだった。
どちらか一つを諦めれば簡単になるのかもしれない。
けれど、そんなことはしたくなかった。
陽葵はそっとベッドを抜け出し、リビングへ向かった。
ソファの上には、ペンちゃんがいつもの姿勢で座っている。
「おはよう、ペンちゃん」
陽葵はぬいぐるみを抱き上げた。
「ねえ、どうしたらいいと思う?」
もちろん、返事はない。
「うーん……ペンちゃんにも難しい問題だよね」
陽葵はペンちゃんを膝に乗せ、窓の外を見つめた。
いつもの朝。
いつもの街。
いつもの暮らし。
その何気ない毎日が、これからも続いてほしい。
そう願う気持ちは、昨日よりも強くなっていた。
*
「陽葵?」
背後から声がした。
振り返ると、律が寝室から出てきたところだった。
「おはよう、ダーリン。起こしちゃった?」
「いや、目が覚めた。ずいぶん早いな」
「ちょっと考え事」
「昨日のことか?」
「うん……少しだけね」
律は陽葵の隣に座った。
「眠れなかった?」
「眠れたよ。でも、起きたらまた考えちゃった」
「そうか」
「ごめんね。せっかく話してくれたのに、まだすっきりできなくて」
「謝ることじゃないよ」
律は、ペンちゃんを抱いている陽葵の頭を軽く撫でた。
「すぐに答えが出るような話じゃないからな」
「うん」
「俺だって、まだ答えを持っているわけじゃない」
陽葵は律を見た。
「ダーリンも?」
「ああ。担当になったからといって、街の未来を一人で決められるわけじゃない。むしろ、これから考えなければならないことのほうが多い」
「そっか」
「だから、君も焦らなくていい」
律は立ち上がった。
「朝食を作ろうか」
「えっ、ダーリンが?」
「何か問題でも?」
「ないよ! むしろ大歓迎!」
「じゃあ、今日は俺が担当する」
「やった! 新妻、朝から幸せです♡」
「新妻は、もう少し寝ていてもよかったんじゃないか?」
「ダーリンと一緒に朝ごはんを食べたいの!」
「わかったよ」
律はキッチンへ向かった。
陽葵はその背中を見ながら、少しだけ笑った。
大好きな人が、いつもと変わらずそこにいる。
そのことが、今の自分には何よりも心強かった。
*
朝食を終えた陽葵は、出勤の準備をした。
ブーランジュリーひだまりへ向かう途中、商店街の入口で立ち止まる。
いつもなら、何も考えずに通り過ぎる場所だった。
けれど今日は、目に入るもの一つひとつが、いつもと違って見えた。
少し傾いた看板。
古い建物の外壁。
歩道に置かれた商品台。
店先に並ぶ植木鉢。
どれも、この街らしい風景だった。
けれど、その一方で、道路の狭さや段差が気になる場所もある。
自転車と歩行者がすれ違うとき、少し窮屈そうになる通り。
雨の日には滑りやすい石畳。
古い建物の階段を、ゆっくり上っていくお年寄り。
陽葵は足を止めた。
「……そっか」
律が言っていたことが、少しずつ現実の風景と重なっていく。
残したいものがある。
変えたほうがいいものもある。
どちらも、この街の中にある。
「おはよう、陽葵ちゃん!」
声をかけられ、振り返る。
花屋の店主が、店先に花を並べていた。
「あっ、おはようございます!」
「今日は早いねえ」
「はい。ちょっと考え事をしていて」
「考え事?」
「えへへ。いろいろと」
店主は笑った。
「そういえば、再開発の話、聞いた?」
「はい。寄り合いでも話題になっていましたよね」
「そうなのよ。まだ何も決まっていないらしいけれど、やっぱり気になるわね」
陽葵は、花の並んだ棚を見た。
「お店のこともありますもんね」
「もちろん。ここで長く商売をしてきたからね。お客さんの顔も覚えているし、近所の人たちとのつながりもある。簡単に場所を変えられるものじゃないわ」
「そうですよね」
「でもね、反対するだけでもいけないと思うの」
店主は、花の向きを整えながら話を続けた。
「この建物も古くなってきたでしょう。雨漏りするところもあるし、冬は隙間風が入る。もっと安心して働ける場所になったら、それは嬉しいわ」
「はい」
「ただ、新しくするなら、今のお客さんがまた来てくれるような場所であってほしい。私たちの店がなくなってしまうような計画だったら、困るもの」
陽葵はゆっくり頷いた。
「残したいものがあるんですね」
「そう。新しくなることそのものが嫌なわけじゃないのよ」
店主は陽葵を見た。
「陽葵ちゃんは、どう思う?」
突然の質問に、陽葵は少し戸惑った。
「私は……」
言葉が止まる。
今までは、すぐに答えられた。
この街が好き。
今の商店街を残したい。
みんなと一緒に、これからも暮らしていきたい。
でも、今はそれだけでは足りない気がした。
「私も、この街が大好きです。だから、今の雰囲気は残ってほしいと思います」
「うん」
「でも、安全に暮らせるようになることも大切だと思うんです。古い建物を直したり、歩きやすくしたり、必要なこともありますよね」
「そうね」
「だから、どうしたらいいのか……まだ、私にもわからなくて」
店主は優しく笑った。
「それでいいんじゃないかしら」
「え?」
「すぐに答えを出さなくてもいいのよ。大切なのは、何が大切なのかを考え続けることだと思うから」
陽葵は、その言葉を胸に刻んだ。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。今度、ゆっくり話しましょうね」
「はい!」
花屋を離れた陽葵は、いつもより少しゆっくりと商店街を歩いた。
この街には、残したいものだけでなく、直したいものもある。
そのことを、少しずつ理解し始めていた。
*
ブーランジュリーひだまりに到着すると、店内には焼きたてのパンの香りが広がっていた。
「おはようございます!」
「おはよう、陽葵ちゃん」
カウンターの向こうで、溝口マスターがパンを並べていた。
「今日は少し早いね」
「はい。朝から元気いっぱいです!」
「それは何よりだ」
マスターは笑った。
陽葵はエプロンを身につけ、開店準備に取りかかった。
焼き上がったパンを棚に並べる。
値札を確認する。
トングとトレーを補充する。
いつもの作業を進めていると、店の扉が開いた。
「おはようございます!」
常連のおばあちゃんだった。
「あら、陽葵ちゃん。今日も元気ねえ」
「おはようございます! いつもの食パンですか?」
「そうそう。今日は孫が来るから、少し多めにね」
「わかりました!」
陽葵は食パンを袋に入れた。
「それから、あのメロンパンも一つ」
「はい!」
おばあちゃんは、袋を受け取りながら店内を見回した。
「このお店も、ずっと続いてほしいわねえ」
「ありがとうございます」
「この前の寄り合いで、みんな心配していたでしょう? 私も、ここがなくなったら困るのよ」
陽葵は笑顔で頷いた。
「マスターも、みんなにそう言っていただけると嬉しいと思います」
「でもね、私も年を取ったから、段差が少ないお店になったら助かるのよ」
「段差ですか?」
「そう。買い物に来るとき、ちょっとつまずきそうになることがあるの。雨の日は特にね」
おばあちゃんは自分の足元を見た。
「だから、便利になるのは嬉しい。でも、昔からの店が全部なくなったら寂しいわ」
「……そうですよね」
「難しいわねえ」
「はい」
おばあちゃんは笑顔で店を出ていった。
陽葵は、その後ろ姿を見送った。
今の街を残してほしい。
でも、今の街には不便なところもある。
その二つの気持ちは、決して矛盾していないのかもしれない。
「陽葵ちゃん」
マスターの声がした。
「はい?」
「少し考え込んでいるね」
「えっ、わかります?」
「顔に出ているよ」
「そんなにですか?」
「うん。パンを並べる手まで、いつもよりゆっくりだ」
陽葵は苦笑した。
「実は、いろいろ考えているんです」
「再開発のことかな」
「はい」
マスターは作業台に手を置いた。
「君のご主人も関わっているんだったね」
「そうなんです。商店街の担当になったって、話してくれました」
「そうか」
「まだ何も決まっていないそうです。でも、これからいろいろ検討していくみたいで」
「なるほど」
マスターは少し考えた。
「陽葵ちゃんは、ご主人の仕事を応援したいんだろう?」
「……はい」
「それと同時に、この商店街も守りたい」
陽葵は驚いたようにマスターを見た。
「どうしてわかるんですか?」
「毎日ここで働いている君を見ていれば、わかるよ」
マスターは穏やかに笑った。
「君はこの店が好きだし、商店街の人たちも大切にしている。ご主人のことも大切にしている。それなら、悩むのは当然だ」
「でも、どちらかを選ばなきゃいけない気がして……」
「本当にそうかな?」
「え?」
「街を守ることと、ご主人の仕事を応援することは、必ずしも反対のことじゃないと思うよ」
陽葵は黙って聞いていた。
「もちろん、計画の内容によっては、意見がぶつかることもあるだろう。店を続けたい人と、土地を整備したい側では、考え方が違うこともある」
「はい」
「でも、どちらも街の未来を考えているのかもしれない。大切なのは、何を守るべきなのか、何を変える必要があるのかを、きちんと話し合うことじゃないかな」
「話し合うこと……」
「この店だって、昔のままではないよ。設備を新しくしたり、作業のやり方を変えたり、少しずつ手を入れてきた」
「そうですね」
「それでも、パンの味や、お客さんとのつながりは大切にしている。変えることと、守ることは一緒にできる場合もあるんだ」
陽葵は店内を見回した。
木の棚。
焼きたてのパン。
カウンター。
マスターの笑顔。
確かに、この店も少しずつ変わってきたのだろう。
けれど、ここには変わらず残っているものもある。
「マスター……私、もう少しみんなの話を聞いてみたいです」
「そうするといい」
「反対とか賛成とか、最初から決めないで。みんなが何を大切にしているのか、ちゃんと知りたいです」
「それが一番だと思うよ」
「ありがとうございます!」
「ただし、仕事も忘れないようにね」
「はい! パン屋さんのお仕事も全力で頑張ります!」
「それなら安心だ」
マスターの笑顔に、陽葵も笑顔を返した。
*
昼休み。
陽葵は店の裏にある小さな休憩スペースで、お弁当を食べていた。
スマートフォンには、商店街のグループメッセージが届いている。
前回の寄り合いに参加した人たちが、次の話し合いについて相談しているようだった。
『今度は、もう少し具体的に意見を出し合いたいですね』
『うちの店も、古いところがあるので安全面は気になります』
『でも、昔からのお客さんが通えなくなるのは困ります』
『商店街の雰囲気を残す方法も考えてほしいです』
陽葵は一つひとつのメッセージを読んだ。
どの言葉にも、その人なりの事情がある。
商売を続けたい人。
安心して暮らしたい人。
お年寄りや子どもが歩きやすい街にしたい人。
昔からの風景を残したい人。
それぞれの思いが、同じ場所に集まっている。
「……みんな、大切なんだよね」
陽葵はスマートフォンを胸元に置いた。
自分は、誰の気持ちを優先すればいいのだろう。
いや、そもそも優先順位をつけることが正しいのだろうか。
律の仕事を応援するなら、計画を受け入れるべきなのか。
商店街の人たちを大切にするなら、今の街を守るために声を上げるべきなのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
そのとき、スマートフォンが震えた。
律からのメッセージだった。
『今日は少し早く帰れそう。夕食は一緒に食べられると思う』
陽葵はすぐに返信した。
『本当? 嬉しい! 今日は何を作ろうかな♡』
少し考えて、もう一通送る。
『今日、商店街の人たちといろいろ話したよ。みんなの思いがあって、私も考えることがいっぱいになっちゃった』
送信してから、少しだけ不安になった。
仕事中にこんなメッセージを送ってよかっただろうか。
けれど、すぐに返信が届いた。
『そうか。話を聞けてよかったな。帰ったら、どんな話だったか聞かせてほしい』
陽葵は画面を見つめた。
それだけで、胸の中が少し温かくなった。
『うん! いっぱい話すね』
スマートフォンをしまい、陽葵はお弁当の残りを食べ始めた。
まだ答えは出ない。
でも、話してもいい。
迷っていることも、悩んでいることも、伝えていい。
それだけで、少し前に進める気がした。
*
午後の仕事が終わる頃、陽葵は店先の掃除をしていた。
通りの向こうから、杖をついた男性がゆっくり歩いてくる。
歩道の端には、植木鉢が並んでいた。
男性はその間を通り抜けようとして、少し足を止めた。
陽葵は慌てて近づいた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、ありがとう。ちょっと通りにくくてね」
「すみません。こちら、少し空けますね」
陽葵は植木鉢を端に寄せた。
「これで通れますか?」
「うん。助かるよ」
男性はゆっくりと歩き出した。
「この通りも、もう少し広いといいんだけどね」
「そうですね」
「でも、昔からこの商店街を歩いているから、なくなるのも寂しいんだよ」
男性は少し笑った。
「わがままかな」
「そんなことないと思います」
「便利になってほしい。でも、今の店も残ってほしい。難しいね」
「……はい」
陽葵は、その言葉に何も付け足せなかった。
男性の姿が遠ざかっていく。
陽葵は、空けたばかりの歩道を見つめた。
ほんの少し植木鉢を動かしただけで、通りやすさは変わった。
大きな計画を進めなくても、できることはあるのかもしれない。
けれど、それだけでは解決できない問題もある。
建物の老朽化。
防災。
道路の安全性。
店の経営。
住民の暮らし。
それらを全部考えたうえで、未来を決めていかなければならない。
陽葵は、ふと律の顔を思い浮かべた。
今、ダーリンも同じように悩んでいるのだろうか。
図面を前にして、どんな街にしたいのか考えているのだろうか。
自分にはわからないことが、まだたくさんある。
でも、わからないからこそ、知りたいと思った。
*
夕方。
陽葵が帰宅すると、律はまだ帰っていなかった。
玄関で靴を脱ぎ、リビングに入る。
ペンちゃんは、朝と同じ場所に座っている。
「ただいま、ペンちゃん」
陽葵は鞄を置き、ソファに座った。
スマートフォンを取り出し、しばらく画面を眺める。
そこには、更新が止まったままの『ダーリン観察日記』のページがあった。
最後の投稿から、少し時間が経っている。
コメント欄には、読者からの言葉が並んでいた。
『陽葵ちゃん、最近どうしてる?』
『ダーリンとの日常、また読みたいです!』
『最近さみしいけど、無理しないでね』
『二人のペースで大丈夫だよ』
陽葵は一つひとつのコメントを読んだ。
自分のことを心配してくれている人がいる。
楽しみに待ってくれている人がいる。
更新できていないことを責める人はいなかった。
それなのに、自分は何を描けばいいのかわからなくなっていた。
「……私、どうしちゃったんだろう」
陽葵は、画面を閉じた。
以前なら、どんな小さな出来事でも漫画にしていた。
律がコーヒーを飲んでいる姿。
買い物中に見せた何気ない表情。
ペンちゃんを抱いて眠ってしまった夜。
そうした日常の一つひとつが、陽葵にとっては宝物だった。
けれど、今はその日常の中に、商店街の未来という大きな問題が入り込んでいる。
何気ない出来事を描こうとしても、頭の片隅に不安が残る。
読者に心配をかけたくない。
でも、何もなかったように笑って描くこともできない。
「……本当は、私だって描きたいんだよ」
陽葵はペンちゃんを抱きしめた。
「ダーリンとの毎日も、パン屋さんのことも、みんなとの思い出も。全部、大切なのに」
声が少し震えた。
「街のことを考えると、笑ってばかりいられなくなっちゃう」
陽葵は目を閉じた。
街を守りたい。
律を応援したい。
どちらも大切なのに、今はその二つが心の中でぶつかっている。
自分は、どちらの味方なのだろう。
そんな考えが浮かんで、すぐに首を横に振った。
「違うよね……」
誰かを選ばなければならないわけではない。
街を大切に思う気持ちも、律を大切に思う気持ちも、どちらも自分の本当の気持ちなのだから。
*
午後七時半。
玄関の鍵が開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい、ダーリン!」
陽葵は玄関へ向かった。
「今日は早かったね」
「予定より少し早く終わった」
「お疲れさま!」
律は鞄を置き、陽葵の顔を見た。
「何かあった?」
「えっ?」
「少し元気がないように見える」
「……そんなに顔に出ている?」
「少しな」
陽葵は苦笑した。
「今日はね、商店街の人たちといろいろ話したの」
「昼のメッセージに書いていたな」
「うん。花屋さんのおばさんも、マスターも、常連のおじいちゃんも。みんな、いろんなことを考えていたよ」
「そうか」
「今の街を残したい人もいるし、安全にしてほしい人もいる。便利になってほしい人もいる。でも、昔からのお店がなくなるのは嫌だって」
律は黙って聞いていた。
「みんなの話を聞いていると、どの気持ちもわかるんだよね」
「そうだろうな」
「だから、何が正しいのかわからなくなっちゃった」
陽葵は、律の手を取った。
「ダーリンの仕事を応援したい。でも、商店街の人たちの気持ちも大切にしたい」
「うん」
「もし、計画が進んで、今のお店がなくなることになったら……私はどうしたらいいんだろう」
律はすぐに答えなかった。
陽葵の手を握り返し、静かに言った。
「今は、まだそこまで決まっていない」
「わかってる。ごめんね。先のことを考えすぎちゃって」
「謝らなくていいよ」
「でも、考えちゃうの。もしものことを」
「それだけ、この街が大切なんだろう」
陽葵は頷いた。
「うん。大好きなの」
「知っているよ」
「ダーリンと一緒に暮らし始めてから、もっと好きになった。パン屋さんで働くようになって、いろんな人と知り合って、この街がもっと大切になったの」
「そうだな」
「だから、なくなってほしくない」
陽葵の目に、少し涙が浮かんだ。
「でも、ダーリンがこの仕事を頑張っていることも知っている。真剣に考えていることもわかっている。だから、反対するだけではいけないと思うの」
律は陽葵の目を見つめた。
「君が反対したいと思うことがあっても、俺はそれを否定しないよ」
「え?」
「俺の仕事を応援してくれることと、計画に対して意見を持つことは別だから」
「でも……」
「君が街の人たちの声を聞いて、何か違うと思ったなら、その気持ちは大切にしてほしい」
律は、少しだけ声を強くした。
「俺は、君に無理に賛成してほしいわけじゃない」
「ダーリン……」
「俺の仕事を応援するために、君が大切にしているものを諦める必要はないよ」
陽葵は、思わず視線を落とした。
ずっと心の中にあったもの。
律を応援したいなら、再開発を受け入れなければならないのではないか。
商店街を守りたいなら、律の仕事と対立してしまうのではないか。
そんな思い込みが、少しずつほどけていく。
「私、ダーリンの仕事を応援したい」
「ああ」
「でも、何でも賛成することが応援だとは思いたくない」
「その通りだと思う」
「街の人たちが困っていることも、ちゃんと伝えたい」
「うん」
「それでも、ダーリンの立場を困らせちゃうかもしれない」
「仕事では、意見が違うこともあるだろう。でも、それは君と俺が夫婦であることとは別の話だ」
律は、陽葵の手を両手で包んだ。
「家に帰ってきたら、君の話を聞く。俺の考えも話す。それでいいと思う」
陽葵は、律の胸に顔を寄せた。
「……ありがとう」
「うん」
「私、まだ答えが出ないよ」
「出さなくていい」
「これからも迷うと思う」
「迷っていいよ」
「いっぱい悩んじゃうかも」
「それも聞くよ」
律の言葉は、どれも短かった。
けれど、陽葵には十分だった。
「ダーリン……」
「何?」
「ぎゅってして」
律は、陽葵を優しく抱きしめた。
陽葵は、彼の胸に頬を寄せた。
いつもと変わらない温かさ。
大好きな人の腕の中。
この街で暮らしていることも、この人と一緒にいることも、どちらも自分にとって大切なものだった。
だから、簡単には決められない。
だからこそ、向き合っていきたい。
*
夕食のあと。
二人はソファに並んで座っていた。
テレビはつけず、静かな音楽だけが流れている。
陽葵は、スマートフォンを手に取った。
「ダーリン、ちょっといい?」
「何?」
「私、観察日記を更新しようと思う」
「そうか」
「ずっと止まったままだったでしょう?」
「読者の人たちが心配していたな」
「うん。『最近さみしい』ってコメントもあって……」
陽葵は少し笑った。
「私も、みんなに会いたくなっちゃった」
「どんな内容にするんだ?」
「まだ決めていないけど、無理に明るくしないで、今の気持ちを少しだけ描こうかな」
「それがいいと思う」
「ダーリンとの話も、全部描いていい?」
「仕事の秘密に関わることは避けてくれれば、日常のことは構わないよ」
「もちろん。そこはちゃんと守るね」
陽葵はタブレットを開いた。
新しいページに、鉛筆で線を描いていく。
一コマ目。
商店街の道を歩く陽葵。
二コマ目。
花屋の店主やマスター、お客さんの姿。
三コマ目。
少し悩んだ表情で、窓の外を眺める陽葵。
四コマ目。
隣に座る律の手を握る陽葵。
最後の吹き出しには、こう書いた。
『まだ答えは出ないけれど、大切なものを大切にしたい。だから、ちゃんと考えていこうと思います。』
「どうかな?」
律は画面を見た。
「いいと思う」
「本当?」
「ああ。今の君の気持ちが、そのまま描かれている」
「そっか」
陽葵は少し安心したように笑った。
「じゃあ、投稿してみるね」
投稿ボタンを押す。
画面に、更新完了の表示が出た。
陽葵は、ほっと息を吐いた。
「できた……」
「お疲れさま」
「なんだか、久しぶりにみんなに会えた気がする」
「コメントが来るかもしれないな」
「うん。でも、今日はもう見ないでおこうかな」
「どうして?」
「今は、ダーリンと一緒にいたいから」
律は微笑んだ。
「それなら、そうしよう」
陽葵はタブレットを閉じ、律の肩に寄りかかった。
少し時間が経ち、スマートフォンが小さく震えた。
新しいコメントが届いたようだった。
陽葵は画面を見た。
『更新ありがとう! 陽葵ちゃんの気持ち、ちゃんと伝わったよ』
『無理しないでね。いつでも応援しています』
『大切なものを大切にするって、素敵だと思います』
陽葵は、目を細めた。
「みんな、優しいね」
「よかったな」
「うん」
画面を閉じ、陽葵は律の肩に頬を寄せた。
*
その夜。
寝室に入る前に、陽葵はリビングの窓から商店街を見た。
明かりの消えた店が並んでいる。
明日になれば、またシャッターが開き、人々が行き交う。
いつもの街が始まる。
でも、その未来はまだ決まっていない。
自分には何ができるのだろう。
街の人たちの声を聞くこと。
自分の気持ちを整理すること。
そして、律の話も聞くこと。
それくらいしかできないのかもしれない。
けれど、それでもいい。
小さな声を集めていくことにも、意味はあるはずだから。
「陽葵、そろそろ寝よう」
律が声をかけた。
「うん。今行くね」
陽葵は窓辺を離れ、律のところへ向かった。
「ダーリン」
「ん?」
「私ね、まだ迷っているけど……この街のこと、もっと知りたい」
「うん」
「みんなが何を大切にしているのか、もっと聞いてみたい」
「そうするといい」
「それで、ダーリンが考えていることも聞かせてね」
「ああ。話せることは、ちゃんと話すよ」
「約束だよ?」
「約束する」
陽葵は笑った。
「じゃあ、明日も頑張ろうね!」
「そうだな」
「おやすみなさい、ダーリン♡」
「おやすみ」
二人は並んで寝室へ向かった。
ベッドに入ると、陽葵は律の手を探した。
律がその手を握る。
その温かさに安心しながら、陽葵は目を閉じた。
大好きな街を守りたい。
大好きな人の仕事も応援したい。
どちらも譲れない。
その気持ちが、明日になれば少し変わるのかもしれない。
あるいは、もっと大きくなるのかもしれない。
それでも、今は迷いながら進んでいこう。
自分の気持ちに嘘をつかずに。
大切な人の言葉にも耳を傾けながら。
そして、陽葵はまだ知らない。
この街の未来を考えるうえで、律自身もまた、簡単には答えを出せない問題を抱えていることを。
彼の父が残した言葉。
かつて二人がぶつかった設計への思い。
そして、まだ明らかになっていない過去。
それらが、これからの仕事と無関係ではないことを。
夜は静かに更けていく。
ひだまり商店街の街灯は、今日も変わらず、誰もいない通りを照らしていた。
その明かりの下に、守りたい日常がある。
そして、その未来を決めるための話し合いが、少しずつ始まろうとしていた。
第10節:信じてる。ダーリンなら、絶対にいい街にするもん♡
朝の空気が、少しずつ冬の匂いを帯び始めていた。
ひだまり商店街の街路樹は、残っていた葉を一枚、また一枚と落としている。風が吹くたび、歩道の隅に集まった枯れ葉がくるくると舞い上がり、店先に並ぶ植木鉢の間を通り抜けていった。
いつもと変わらない朝。
パン屋の焼きたての香り。八百屋さんの威勢のいい声。花屋さんの店先に並ぶ季節の花。通学途中の子どもたちが交わす笑い声。
けれど、陽葵には少し違って見えていた。
この街の景色を、今まで以上に注意深く見るようになったからだ。
ここにあるものが、ずっと同じ姿で残るとは限らない。
古くなった建物もある。歩道の段差に困っている人もいる。雨の日には滑りやすい場所もある。新しくしたほうがいいものだって、きっとたくさんある。
それでも、この街には、この街にしかない温度がある。
毎朝、同じ時間に店を開ける人。
顔を見れば「今日は寒いね」と声をかけてくれる人。
買い物のついでに、少しだけ立ち話をする人。
何年も通い続けている常連さん。
そういう小さな積み重ねが、ひだまり商店街をつくっている。
「……なくなってほしくないな」
陽葵は、店の窓から通りを眺めながら小さくつぶやいた。
「何か言ったか?」
厨房から顔を出した溝口マスターが尋ねた。
「あっ、いえ。何でもありません!」
「そうか。まあ、何でもない顔には見えないけどな」
「えへへ……顔に出ちゃってます?」
「お前は昔から、考え事をすると眉間にしわが寄る」
「ええっ! 私、そんなに分かりやすいですか?」
「分かりやすい。パンの焼き上がりを待っているときより、ずっと真剣な顔だ」
「それは褒められてるんでしょうか……?」
「さあな」
マスターはいつものように短く笑い、焼き上がったパンをトレーに並べ始めた。
陽葵もエプロンの裾を整え、仕事に戻る。
悩んでいるからといって、目の前のお客さんをおろそかにするわけにはいかない。
「いらっしゃいませ! 今日も焼きたてですよ♡」
いつもの声を出す。
けれど、その笑顔の奥には、まだ答えの出ない気持ちが残っていた。
*
その日の昼過ぎ、花屋の店主がパンを買いに来た。
「こんにちは。今日は食パンを一斤お願いね」
「いらっしゃいませ! いつもの角食でよろしいですか?」
「ええ。あ、それと……この前の話、考えてみたのよ」
「この前の話?」
「商店街のこと。再開発のうわさが出てから、いろいろ考えるようになっちゃってね」
陽葵は食パンを袋に入れる手を少し止めた。
「私ね、この店を始めてから、もうずいぶん長いでしょう?」
「はい。私がここで働き始める前からですもんね」
「そう。昔と比べたら、お客さんの数も変わったし、建物だって古くなった。正直、直さなきゃいけないところもあるわ」
「……はい」
「だから、何も変えるなとは言えないの。でもね、変えるなら、ここで暮らしている人たちのことをちゃんと考えてほしいのよ」
店主は袋を受け取りながら、通りの向こうを見た。
「花を買いに来てくれるおばあちゃんがいるでしょう。あの人、最近は歩道の段差がつらいって言っていたわ。車椅子で通りにくい場所もある。そういうところは、よくなってほしいと思う」
「うん……」
「でも、便利になった代わりに、昔からのお店がなくなってしまったら寂しいでしょう? 新しくなった街に、私たちの居場所も残っているのかしらって」
陽葵は、店主の言葉をひとつひとつ受け止めた。
「……私も、そう思います」
「陽葵ちゃんは、ここが好きだものね」
「はい。大好きです」
「だったら、好きな気持ちを大事にしなさい。でも、好きだからこそ、いろんな声を聞いてみるのもいいんじゃない?」
店主はそう言って、やわらかく微笑んだ。
「誰か一人の考えだけで決められることじゃないものね」
「……そうですね」
「じゃあ、また来るわね」
「ありがとうございました!」
店主を見送ったあと、陽葵はしばらくレジの前に立っていた。
好きだから、残したい。
でも、残すことだけが正解なのだろうか。
安全に暮らせる街にすることも大切だ。誰もが歩きやすく、安心して買い物ができる街になるなら、それはきっと素敵なことだ。
問題は、何を変えて、何を残すのか。
その答えを、簡単に出せる人はいない。
そして、その難しい問いに向き合っているのが、夫の律だった。
*
夕方、仕事を終えた陽葵は、商店街を歩いていた。
今日は少し遠回りをして帰ろうと思った。
八百屋の前では、店主が野菜を片づけている。いつも店先に置かれている小さな黒板には、今日のおすすめがチョークで書かれていた。
その隣では、子どもが母親の手を引きながら、コロッケを買いたいとねだっている。
「一個だけよ」
「二個!」
「一個!」
「じゃあ、お父さんの分も!」
「もう、しょうがないわね」
そんな会話に、陽葵の頬が自然と緩んだ。
少し先のベンチでは、近所のおばあちゃんたちが世間話をしている。
「この間の説明会、またあるのかしらねえ」
「まだ詳しいことは分からないみたいよ」
「私たちも、ちゃんと話を聞かなくちゃね」
「そうね。分からないまま反対するのも違うし、何でも賛成するのも違うわ」
陽葵は歩みを緩めた。
以前なら、再開発という言葉を聞くだけで胸が苦しくなっていたかもしれない。
でも今は、少し違う。
不安な気持ちも、残したいという願いも、もっと便利にしてほしいという希望も、全部この街に暮らす人たちの本音なのだ。
どれかひとつだけを選んで、ほかをなかったことにはできない。
陽葵はスマートフォンを取り出した。
律とのメッセージ画面を開く。
『今日もお仕事お疲れさま♡』
そこまで入力して、少し考えた。
その後に何を書こう。
『商店街の人たちと話したよ』
『みんな、いろんなことを考えているみたい』
『ダーリンは大丈夫?』
何度か文字を打っては消した。
最後に、短く送った。
『帰ったら、少しお話ししたいな』
すぐに既読がついた。
『分かった。今日は少し早く帰れると思う』
続けて、もう一通。
『待たせてごめん』
陽葵は、その文字を見つめた。
待たせてごめん。
そんなふうに思っていたんだ。
陽葵は、画面に向かって小さく首を振った。
「もう。謝らなくていいのに」
そして、笑顔の絵文字をひとつ送った。
*
家に帰ると、陽葵は夕食の準備を始めた。
今日は律の好きなハンバーグにすることにした。
付け合わせには、にんじんのグラッセとブロッコリー。スープは温かいコンソメスープ。
食卓の上には、ペンちゃんがちょこんと座っている。
「ペンちゃん、今日はダーリンの好きなハンバーグだよ」
陽葵はペンちゃんの頭を撫でた。
「最近、ダーリン忙しいからね。いっぱい食べてもらわないと」
返事の代わりに、ペンちゃんはいつもの無表情でこちらを見ている。
「……あれ? ペンちゃん、ちょっと心配してる?」
陽葵はぬいぐるみを抱き上げた。
「大丈夫だよ。私たち、ちゃんとお話しできるもんね」
そう言いながらも、胸の奥には少しだけ緊張があった。
律が帰ってきたら、何を話そう。
どんな言葉を伝えよう。
自分の気持ちを押しつけたくはない。律の仕事を否定したいわけでもない。
ただ、彼が一人で抱え込まないでほしい。
そして、彼がどんな思いで仕事に向き合っているのか、もっと知りたい。
それだけは、ちゃんと伝えようと思った。
玄関のドアが開いたのは、午後八時を少し過ぎたころだった。
「ただいま」
「おかえりなさい、ダーリン♡」
陽葵は玄関まで駆けていった。
「お疲れさま!」
「ああ。ただいま」
律はコートを脱ぎながら、陽葵の顔を見た。
「今日は、ずいぶん元気だな」
「えへへ。元気にお出迎えするって決めてたの」
「そうか」
「それに、今日はダーリンの好きなハンバーグだよ!」
「それは楽しみだな」
「でしょう? 腕によりをかけました!」
「ありがとう」
いつものようなやり取り。
けれど、律の目の下には少し疲れが見えた。
「ダーリン、無理してない?」
「大丈夫だ」
「その『大丈夫』は、何割くらい?」
「何割?」
「うーん……七割?」
「そんなに低くない」
「じゃあ、八割?」
「九割くらいだ」
「一割は疲れてるんだね」
「まあ、仕事だからな」
「その一割は、あとで私が補充してあげます♡」
「どうやって?」
「ハンバーグと、ぎゅーっとするの!」
「それなら期待しておく」
律がほんの少し笑った。
その笑顔を見て、陽葵はほっとした。
*
食卓には、湯気の立つ料理が並んだ。
「いただきます」
「いただきます!」
律はハンバーグをひと口食べた。
「うまい」
「本当?」
「ああ。ソースもいい」
「やったぁ!」
陽葵は嬉しそうに手を合わせた。
「実はね、今日はお店でマスターにも褒められたんだよ」
「何を?」
「考え事をしてるときの顔が分かりやすいって」
「それは褒めているのか?」
「私もそう思った!」
「陽葵らしいな」
「もう、ダーリンまで!」
二人の間に、小さな笑い声が生まれた。
食事を終え、食器を片づけると、陽葵は温かいお茶を用意した。
律がソファに座ると、その隣に腰を下ろす。
少しだけ距離を空けてから、陽葵は口を開いた。
「ねえ、ダーリン」
「ん?」
「この前、商店街の担当になったって話してくれたでしょう?」
「ああ」
「そのあと、私もいろいろ考えたの」
律はカップをテーブルに置いた。
「うん」
「最初はね、正直、すごく不安だった。大好きな商店街がなくなっちゃうんじゃないかって。今までみたいに、みんなと会えなくなっちゃうんじゃないかって」
「そうだな」
「それに、ダーリンがその仕事をしているって分かったとき、どうしても複雑な気持ちになっちゃった」
陽葵は自分の指先を見つめた。
「応援したいのに、応援するって言うのが怖かったの。もし、ダーリンの仕事が進んで、私の大好きな景色が変わってしまったら……私はどんな顔をすればいいんだろうって」
律は何も言わず、陽葵の言葉を聞いていた。
「でもね、商店街の人たちと話しているうちに、少しずつ分かってきたの」
「何が?」
「みんな、ただ昔のままでいたいわけじゃないんだって」
陽葵は顔を上げた。
「段差がなくなったらいいなって思っている人もいるし、雨の日に安心して歩けるようになってほしいって人もいる。古くなった建物を直したいって思っている人もいる。でも、その一方で、今までのお店や街の雰囲気を残したいって思っている」
「うん」
「どっちかだけじゃないんだよね。みんな、この街が好きだから、よくなってほしいんだと思う」
律は静かにうなずいた。
「俺も、そういう声を聞かなきゃいけないと思っている」
「うん。ダーリンの仕事って、建物の図面を描くだけじゃないんだね」
「そうだな。図面を描くことも大事だけど、そこに暮らす人がどう過ごすのかを考えないと意味がない」
「そこに暮らす人……」
「建物が完成したら終わりじゃない。そこから何十年も使われることになる。毎日歩く人、店を開ける人、そこで暮らす人。そういう人たちのことを考えないと、いい設計にはならない」
律の声は落ち着いていた。
けれど、その奥には仕事に対する強い思いがあった。
「父も、よく似たことを言っていた」
その言葉に、陽葵は少しだけ目を上げた。
「お義父さんが?」
「ああ。建物は、完成した瞬間が一番大事なわけじゃない。その後、そこで暮らす人たちが安心して使い続けられることが大切だって」
律はテーブルの上のカップを見つめた。
「昔は、父の考え方が窮屈に感じたこともあった。もっと自由に設計したいと思っていたし、何かを変えることに慎重すぎるようにも感じていた」
「うん……」
「でも、今になって分かることもある。守るために変えることもあるし、変えないために工夫することもある」
「……ダーリン」
「まだ答えは出ていない。計画の内容も、住民の意見も、これから整理していく段階だ。俺一人で決められることじゃない」
「うん。分かってるよ」
陽葵は、ゆっくりとうなずいた。
「だからね、私も考えたの」
「何を?」
「私にできること」
「陽葵に?」
「うん。私は設計のことは分からないし、専門的なことも知らない。ダーリンのお仕事の資料を見ても、きっと難しくて分からないと思う」
「無理に分かろうとしなくてもいい」
「でも、街の人たちの声なら聞けるよ」
律の視線が、陽葵に向いた。
「お店でお客さんとお話ししたり、商店街を歩いたりしていると、みんなの本音が聞こえてくるの。うれしいことも、不安なことも、ちょっとした困りごとも」
「そうだな」
「もちろん、勝手に誰かの話を持ち出したり、ダーリンのお仕事の秘密を聞き出したりするつもりはないよ。でも、私が聞いたことを、ダーリンに話すことならできるでしょう?」
「ああ。そういう話なら、聞かせてほしい」
「本当?」
「もちろん。ただ、誰かの意見をそのまま計画に反映できるとは限らない。条件や安全面、費用、いろいろな問題がある」
「うん。それも分かってる」
「希望を聞くことと、希望を全部かなえることは違うからな」
「うん。でも、聞かないまま決めちゃうのは、もっと違うよね」
律は一瞬、言葉を止めた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……そうだな」
陽葵は少しだけ笑った。
「私、最初はね、商店街を守ってって言うことしか考えられなかった。でも、今はそれだけじゃない」
「どう変わった?」
「商店街が好きだから、みんなに安心して暮らしてほしい。お店の人たちにも、これからも笑顔でいてほしい。お年寄りも、小さな子どもも、誰でも歩きやすい街になってほしい」
そこで、陽葵は一度息を吸った。
「それにね……」
「うん」
「ダーリンにも、いい仕事をしてほしい」
律の目が、わずかに揺れた。
「私、ダーリンがどんな仕事をしているのか、全部知っているわけじゃないよ。毎日どんなことを考えて、どんな人と話して、どれだけ悩んでいるのかも、全部は分からない」
「……ああ」
「でも、知ってることもあるよ」
陽葵は律の手に、自分の手を重ねた。
「ダーリンは、いつも真面目だよね。自分が担当することになった仕事を途中で投げ出したりしない。分からないことがあったら調べるし、誰かに迷惑をかけないように、できることを一つずつ考える」
「それは、仕事だから」
「ううん。仕事だからって、誰でも同じようにできるわけじゃないよ」
陽葵は首を横に振った。
「ダーリンは、誰かの暮らしをちゃんと考えようとする人だよ。自分の考えだけで押し通したりしない。迷ったり、悩んだりするのは、それだけ真剣だからでしょう?」
「……」
「私は、そういうダーリンを見てきたもん」
律は、重ねられた手を見つめた。
「だからね」
陽葵は、少し照れたように笑った。
「信じてる。ダーリンなら、絶対にいい街にするもん♡」
その言葉は、思っていたよりも静かに部屋へ広がった。
大きな声でも、勢いだけの励ましでもない。
陽葵が迷って、悩んで、考えて、それでも最後に選んだ言葉だった。
律はすぐには返事をしなかった。
ただ、陽葵の顔を見つめていた。
「……絶対、か」
「うん。絶対!」
「簡単に言うな」
「ええっ? そこは素直に喜んでくれるところじゃないの?」
「責任重大だなと思って」
「だって、ダーリンだもん」
「俺だから?」
「そう。私のダーリンだから!」
陽葵は胸を張った。
「でもね、ひとつだけ約束してほしいことがあるの」
「何だ?」
「一人で全部抱え込まないでね」
「……」
「仕事で悩んだときも、うまくいかないときも、疲れたときも、ちゃんと話してほしい。全部じゃなくていいよ。話せる範囲でいいから」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、もう一つ」
「まだあるのか」
「あるよ!」
陽葵は律の手を両手で包んだ。
「自分のことも大切にしてね。街の人たちのことを考えるのも大事だけど、ダーリン自身が倒れちゃったら困るもん」
「それは気をつける」
「約束!」
「約束する」
律は、陽葵の手を握り返した。
そして、ほんの少しだけ視線を落とした。
「ありがとう、陽葵」
「えへへ。どういたしまして♡」
「俺は、今までこの仕事をどう進めるかばかり考えていた。条件を整理して、問題点を洗い出して、実現できる案を作る。それが担当者としてやるべきことだと思っていた」
「うん」
「もちろん、それは間違っていない。でも、何のためにやるのかを、もう一度考えなきゃいけないな」
律は、窓の外へ目を向けた。
夜の街に、いくつもの明かりが灯っている。
「この街は、図面の中だけにあるわけじゃない。そこに暮らす人たちがいる。毎日、店を開けている人がいる。帰り道に立ち寄る人がいる。子どもたちが走り回る場所がある」
「うん」
「その一つひとつを、数字や面積だけで考えてはいけないんだと思う」
「ダーリン……」
「もっと聞かなきゃいけない。何に困っているのか。何を残したいのか。何が変われば、今より暮らしやすくなるのか」
律の声には、さっきまでとは違う力が宿っていた。
「それを整理して、設計に反映できることを考える。簡単なことじゃないけど、やってみる価値はある」
陽葵は、彼の横顔を見つめていた。
その表情は、まだ疲れている。
不安がすべて消えたわけでもない。
けれど、仕事に向き合う目が、少しだけ変わったように感じた。
「ねえ、ダーリン」
「何だ?」
「今の顔、かっこいいよ」
「そうか?」
「うん。お仕事のことを考えてる顔」
「いつもと同じだろ」
「違うよ。なんだか、火がついたみたい」
「火?」
「そう! 心の中に、ぽっと火がついた感じ!」
「大げさだな」
「大げさじゃないもん。私には分かるんだから」
「陽葵には、何でもお見通しだな」
「ふふん。妻ですから!」
陽葵は得意げに胸を張った。
律は小さく笑い、彼女の頭に手を置いた。
「ありがとう。お前の言葉で、もう一度考えようと思えた」
「本当?」
「ああ」
「じゃあ、今日の私は百点?」
「百点どころじゃないな」
「えっ! 何点?」
「採点不能」
「それって、どういう意味?」
「点数をつける必要がないという意味だ」
「もう! ダーリンってば、そういうところ!」
陽葵は笑いながら、律の肩に寄りかかった。
律も、彼女の肩にそっと腕を回した。
*
その夜、律は寝室へ行く前に、仕事用の鞄からノートを取り出した。
机の上に置き、ページを開く。
そこには、これまで調べた建物の状況や、道路の幅、設備の老朽化、周辺環境についてのメモが並んでいた。
数字と図面。条件と課題。
どれも必要な情報だ。
しかし、今夜はそのページの余白に、別の言葉を書き込んだ。
『街の人の声を聞く』
その下に、いくつか項目を加える。
『毎日の買い物で困っていること』
『歩道や道路の安全性』
『高齢者や子どもにとっての使いやすさ』
『店を続けていくために必要なこと』
『残したい景色、場所、習慣』
そして最後に、ペンを止めた。
『変えることと、残すことを分けて考えない』
律は、その一文をしばらく見つめていた。
今までの自分は、限られた条件の中で、最も実現可能な案を作ろうとしていた。
もちろん、それは担当者として必要なことだ。
けれど、実現可能かどうかを考える前に、誰にとって何が必要なのかを知ることも大切なのではないか。
商店街に暮らす人々の声を、もっと丁寧に聞く。
それぞれの意見が食い違うこともあるだろう。
すべてをかなえることはできないかもしれない。
それでも、最初から無理だと決めつけず、できることを探す。
律はノートを閉じた。
「……やるしかないな」
小さな声が、静かな部屋に響いた。
*
「ダーリン、まだ起きてる?」
寝室から陽葵の声がした。
「ああ。もう行く」
「お仕事のノート?」
「少しだけな」
「ふふ。頑張りすぎないでね」
「分かっている」
律が寝室へ入ると、陽葵は布団の中でこちらを見ていた。
「ねえ、ダーリン」
「今度は何だ?」
「明日も、ちゃんとおかえりって言わせてね」
「帰ってこない日があると思っているのか?」
「そうじゃないよ。ただね、忙しくても、疲れていても、帰ってきたら私がいるよってこと」
「……ああ」
「だから、安心して帰ってきてね」
律はベッドの端に腰を下ろし、陽葵の髪を撫でた。
「そうだな。帰る場所があるのは、ありがたい」
「でしょ?」
「それに、帰ったらハンバーグが待っている」
「今日はもう食べたでしょう!」
「明日も食べたい」
「ええっ! 連続ハンバーグ?」
「だめか?」
「うーん……ダーリンのためなら、考えてあげます♡」
「頼む」
二人は小さく笑った。
陽葵は律の手を握り、そのまま目を閉じる。
「おやすみ、ダーリン」
「おやすみ、陽葵」
しばらくすると、陽葵の呼吸がゆっくりになった。
律はその寝顔を見つめた。
この人は、自分の仕事を何もかも理解しているわけではない。
それでも、分からないことを分からないままにせず、考えようとしてくれた。
街を大切に思う気持ちを、簡単に手放したわけでもない。
自分の仕事を応援するために、無理に気持ちを変えたわけでもない。
悩んだ末に、それでも自分を信じると言ってくれた。
その言葉が、律の胸に残っていた。
「……いい街に、しないとな」
彼は小さくつぶやき、陽葵の手をそっと握り直した。
*
翌朝。
律はいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から、淡い冬の光が差し込んでいる。
陽葵はまだ眠っていた。
律は起こさないようにベッドを抜け出し、机へ向かった。
昨日のノートを開く。
昨日書いた項目をもう一度読み返し、ページの下に新しい言葉を書き加えた。
『現地で聞く。自分の目で見る。決めつけない』
その文字を見て、律はペンを置いた。
会社に着いたら、まず所長に相談しよう。
再開発計画の担当として、現地調査の進め方を見直したい。建物や道路の調査だけでなく、商店街の人々から話を聞く機会を設けたい。
調査の目的も、もう一度整理する必要がある。
単に古い建物を新しくするためではない。
そこで暮らす人たちが、これからも安心して日々を送れるようにするためだ。
そのために、どんな方法があるのか。
どんな課題があるのか。
どこまでできるのか。
簡単な答えはない。
けれど、向き合うべき問いは見えてきた。
「……よし」
律はノートを閉じた。
*
朝食の時間。
陽葵はトーストを焼き、律の前にコーヒーを置いた。
「はい、ダーリン。今日も元気が出る朝ごはんです!」
「ありがとう」
「今日は早いね」
「ああ。少し会社で相談したいことがある」
「お仕事のこと?」
「現地調査についてだ。建物や道路の状況だけじゃなく、商店街の人たちの話を聞く時間を作りたいと思っている」
「本当?」
「ああ。今の計画を考えるうえで、もっと知っておくべきことがある」
陽葵は嬉しそうに笑った。
「いいと思う!」
「まだ、会社で調整しなければならないこともあるけどな」
「うん。でも、すごくいいと思うよ」
「そうか」
「だって、みんなの声を聞いてから考えるんでしょう?」
「そのつもりだ」
「それなら、きっといろんなことが見えてくるね」
陽葵はトーストをひと口かじった。
「私も、お店で聞いたことがあったら話すね。もちろん、誰かの名前を勝手に出したりしないようにするよ」
「助かる。ただし、無理はするな」
「はーい!」
律はコーヒーを飲み、時計を確認した。
「そろそろ出る」
「いってらっしゃい!」
玄関まで見送りに来た陽葵は、律のコートの襟を整えた。
「ダーリン」
「ん?」
「今日も頑張ってね」
「ああ」
「でも、頑張りすぎは禁止!」
「分かった」
「それから……」
陽葵は、少しだけ背伸びをした。
「ダーリン♡こっち見て!」
律が振り返る。
陽葵は、にっこり笑った。
「いってらっしゃいの、ぎゅー!」
そう言って、律の胸に飛び込んだ。
律は一瞬驚いたものの、すぐに彼女の背中へ腕を回した。
「朝から元気だな」
「元気を分けてるの!」
「十分もらった」
「じゃあ、今日も大丈夫だね」
「ああ。行ってくる」
「いってらっしゃい、ダーリン♡」
玄関のドアが閉まる。
陽葵はその場に立ったまま、しばらく笑顔でいた。
そして、ふと思い出したようにスマートフォンを手に取った。
止まっていたWEB漫画の更新画面を開く。
タイトルは『ダーリン観察日記』。
最後の投稿から、少し時間が経っている。
読者から届いたコメントが、画面に並んでいた。
『更新待ってます!』
『無理しないでくださいね』
『最近どうしてるのかなって気になってました』
『ひまりさんの描く日常、また読みたいです』
陽葵はひとつひとつのコメントを読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……そろそろ、描こうかな」
けれど、何を描こう。
いつものような、ダーリンのちょっとした行動を面白おかしく描くのもいい。
でも、今の自分が伝えたいのは、もう少し違うことだった。
忙しい毎日の中で、誰かを大切に思うこと。
相手のすべてを理解できなくても、分かろうとすること。
不安になっても、すぐに答えが出なくても、話し合うこと。
そして、相手の努力や人柄を信じること。
「うん。今の気持ちを描いてみよう」
陽葵は新しいページを開いた。
窓の外では、商店街がいつもの朝を迎えている。
今日も、パン屋には焼きたての香りが広がるだろう。
八百屋には新鮮な野菜が並び、花屋には季節の花が飾られる。
何も決まっていない未来。
変わっていくかもしれない景色。
それでも、今ここにある日常を大切にしながら、これからの街について考えていきたい。
陽葵はペンを走らせた。
そのページの隅に、小さな文字で書き添える。
『大好きな街も、大好きなダーリンも、どちらも大切。だから私は、ちゃんと向き合いたい』
そして、最後にもう一行。
『信じてる。ダーリンなら、絶対にいい街にするもん♡』
陽葵はその文字を見つめ、ふわりと微笑んだ。
*
同じころ、律は会社へ向かう電車の中にいた。
鞄の中には、昨日書き込んだノートが入っている。
窓に映る自分の顔を見ながら、彼は陽葵の言葉を思い出していた。
――信じてる。ダーリンなら、絶対にいい街にするもん。
その言葉に応えるために、無理に完璧な結果を出す必要はない。
誰かの期待に合わせて、できない約束をする必要もない。
ただ、逃げずに向き合うこと。
聞くべき声を聞き、考えるべきことを考え、できることを探し続けること。
その積み重ねが、自分の仕事なのだ。
電車が駅に到着する。
律は立ち上がり、鞄を持ち直した。
今日から、少しずつ動き始めよう。
商店街の人々の声を聞くために。
その街で暮らす人たちの未来を考えるために。
そして、帰る場所で待っている大切な人に、胸を張って「ただいま」と言えるように。
律は改札を抜け、会社へ向かって歩き出した。
まだ、何も決まっていない。
それでも、進むべき方向は見え始めていた。
ひだまり商店街の未来を考える物語は、ここから新しい一歩を踏み出す。
――第3章「ダーリンの秘密」完。