オリジナル小説 ミステリー・ホラー

《断章のデュエリスト》第5章 都市崩壊の予兆

《断章のデュエリスト》

第一部 学園・日本編

主要登場人物

主人公

九条 蓮(くじょう れん)

年齢:17歳
性別:男
職業:学園都市「斎苑学園」二年生
性格:冷静沈着、分析力に優れるが、内面は激情家
異能:《断章解放》(だんしょうかいほう)
読んだ「物語」の一節を具現化する能力。
例:「平家物語」を引用すると「祇園精舎の鐘の声」が実体化し、周囲の異能を封殺する。
役割:物語の中心人物。
相関:失踪した姉・九条 天音の真相を追う。

 

ヒロイン 2名

神楽 木葉(かぐら このは)
年齢:16歳
性別:女
職業:一年生/生徒会情報局所属員
性格:人懐っこいが、裏では高度な情報戦を仕掛ける策士
異能:《竹取ノ幻影》(たけとりのかげろう)で記録・記憶・情報を再現。
「かぐや姫」の断片を引用し、光の羽衣で相手の五感を惑わせる。
役割:蓮のパートナー。情報収集能力が異常に高い。この世界に残された情報を知るヒロイン
斎苑学園の過去を知る
蓮の正体を調べる
後に《失われた図書館》へ繋がる
蓮の「知らないこと」を補う

氷室アリア/異世界から来た人
年齢:16歳
性別:女
異能:《氷鏡ノ断章》
派生技
《白銀綴界》
《凍月ノ頁》
《雪華連環》
《零界・氷葬》
職業:二年生/九条 蓮の同級生
役割:「境界の向こう側を知るヒロイン」
境界異常を知っている
エッジズとの関係
蓮のブレイカー能力を理解する
蓮と共に戦う

技の役割
《氷鏡ノ断章》
アリアの中心となる異能です。
氷の鏡を通して、現在の世界に重なっている断章の情報や、境界の向こう側にある異常を観測します。
単に氷を操る力ではなく、現実と断章の間にある差異を映し出す力として扱うと、本作独自の設定が際立ちます。

《白銀綴界》
改変が広がる範囲を一時的に隔離し、蓮が接続を切るための足場を作る役割を担います。

《凍月ノ頁》
改変された記録を氷の頁として固定し、一時的に変化が進むのを抑えます。
ただし、固定しただけでは元の歴史に戻せません。

《雪華連環》
複数の氷鏡を連結し、離れた場所で起きている異常を同時に観測します。
斎苑市の複数地点で歴史の改変が起きた際に活躍できます。

《零界・氷葬》
アリアの強力な切り札。
一定範囲の断章反応を極限まで凍結させ、暴走や書き換えを一時停止させます。
ただし、使用には大きな負担が伴う設定にすると、強力すぎる能力になるのを防げます。
また、凍結は解決そのものではないため、最後は蓮が接続を断つ必要があります。

ライバル

斎宮 朔夜(いつき さくや)
年齢:17歳
性別:男
職業:学園最強のデュエリスト
性格:冷酷無比、勝利至上主義
異能:《草薙ノ剣》(くさなぎのけん)
古事記の一節を解放し、雷を纏う神剣を召喚。
役割:序盤は敵、後半は共闘する存在。

その他の主要キャラ

九条 天音(あまね/20歳)
蓮の姉。かつて最強の語り手だったが、三年前に失踪。真相は物語の核心。
水城 翠(みずき すい/17歳)
蓮の幼なじみ。異能《竜宮ノ記憶》で水流を操る。
白妙 天音(しろたえ あまね/18歳)
生徒会長。断章管理機構《レクイエム》の監視者。
加賀谷 仁(かがや じん/19歳)
特務部隊リーダー。異能《鬼ノ契約》で百鬼夜行を召喚する。
黄瀬 由宇(きせ ゆう/16歳)
天才ハッカー。異能は無しだが、都市中の情報を掌握。
エリオット・クロフォード(18歳)
英国からの留学生。異能《シャーロック・コード》で相手の断章を解析・無効化できる。
黒神 鷹真(くろがみ たかま/40歳)
断章研究機関「終律庁」主任。裏で暗躍し、全事件の黒幕候補。

キャラクター 年齢 学年 備考
九条 蓮 17歳 高等部2年 主人公・ブレイカー
氷室 アリア 16歳 高等部2年 蓮と同級生・転入生
神楽 木葉 16歳 高等部1年 生徒会情報局
斎宮 朔夜 17歳 高等部2年 学園最強クラス
水城 翠 17歳 高等部2年 蓮の幼馴染
佐伯 湊 17歳 高等部2年 蓮の友人

第5章 都市崩壊の予兆

第1節:黒神鷹真登場

朝の斎苑市は、いつもと変わらない顔をしていた。

駅前の大型ビジョンにはニュースが流れ、通勤客が改札へ吸い込まれていく。商店街ではシャッターを開ける音が響き、通学途中の生徒たちが眠そうな顔で歩道を歩いていた。

空は薄い灰色だった。

秋の終わりを感じさせる冷たい風が、街路樹の葉を揺らしている。

どこにでもある朝。

少なくとも、ほとんどの人間にとっては。

「……なあ、蓮」

隣を歩く佐伯湊が、スマートフォンを見つめながら首を傾げた。

「これ、何だと思う?」

「何が?」

「駅前の道路標識。昨日まで『中央通り』って書いてなかったっけ?」

湊が画面をこちらに向けた。

そこには、斎苑駅前の交差点を写した写真が表示されている。

大きな道路標識。

その中央に記されているのは、確かに見慣れた地名だった。

――東央通り。

「……東央通り?」

蓮は眉をひそめた。

「そう。俺の記憶だと、中央通りだったんだよな。ほら、去年の文化祭のとき、俺たちがポスター貼りに行った道」

「ああ……」

蓮の脳裏に、去年の光景が浮かんだ。

湊と二人で商店街を歩き、文化祭の宣伝ポスターを貼る場所を探した。駅前の交差点を曲がり、中央通りに入ったところで、店主に貼り紙の許可をもらったはずだ。

間違いない。

あの道は、中央通りだった。

「標識が変わったんじゃないか?」

「俺も最初はそう思った。でもさ、地図アプリも東央通りになってるんだよ」

「地図アプリまで?」

「うん。しかも、検索すると昔からこの名前だったみたいに出てくる」

湊は画面を操作した。

「ほら。市の道路管理資料も同じ。変更履歴なし。そもそも、中央通りって名前が見つからないんだ」

蓮は、画面を覗き込んだ。

道路の名前が変わること自体は、珍しくない。

自治体の区画整理や道路整備によって、名称が変更されることはある。

しかし、湊の話が正しければ、今回は違う。

変更された記録がない。

過去の資料にも、以前の名称が残っていない。

まるで、最初から存在しなかったかのように。

「……昨日の写真は?」

「それがさ」

湊は困ったように笑った。

「昨日、同じ場所で撮った写真も見たんだけど、そっちも東央通りになってた」

「え?」

「いや、俺も意味分かんないんだけど。写真のデータが壊れたのかな。最近、スマホの調子も悪いし」

湊は軽く肩をすくめた。

「まあ、気のせいかもしれないけどな」

そう言って、再び歩き始める。

蓮は、その場に立ち止まった。

気のせい。

記憶違い。

機器の不具合。

そう説明することは簡単だった。

けれど、蓮の右手が、制服のポケットの中で微かに熱を帯びていた。

「……またか」

小さく呟く。

姉・天音の一瞬の自我が戻った、あの夜。

暴走体の中心にいた彼女が、自分の名前を呼んだ。

あの出来事から、まだそれほど時間は経っていない。

蓮は、右手を握りしめた。

何かが始まっている。

そう感じずにはいられなかった。

*

昼休み。

蓮は教室を抜け出し、校舎裏のベンチに腰を下ろしていた。

スマートフォンには、木葉から送られてきた調査資料が表示されている。

道路標識の名称変更。

古い新聞記事の日付の不一致。

市内の建物に関する登記情報の異常。

それぞれの報告は、別々の場所から寄せられていた。

最初は、単なる情報の誤りだと思われていたらしい。

ところが、調べていくうちに、いくつかの共通点が見つかった。

異常が発生した場所では、複数の記録が同時に変化している。

地図だけではない。

新聞記事、行政資料、個人の写真。

ある建物に関する資料では、所有者の名前が変わっていた。

その人物は、現在の記録上では、二十年以上前に亡くなっている。

それにもかかわらず、登記資料には、その人物が数日前に所有権を取得したことになっていた。

「……あり得ないだろ」

蓮は呟いた。

資料の末尾には、木葉のコメントが添えられていた。

『情報局の照合でも、元の記録が見つからないものがあるよ。単なる改ざんなら、変更前の情報がどこかに残るはずなんだけどね』

さらに、その下には一枚の画像が添付されていた。

古い新聞記事の切り抜きだった。

記事の日付は、十月二十七日。

しかし、同じ新聞社のデータベースには、同じ記事が十月二十八日付で登録されている。

記事の内容はほとんど同じ。

だが、見出しの一部が異なっていた。

片方には「新設道路の開通」とある。

もう片方には「既存道路の拡張」と書かれている。

道路が新しく造られたのか。

もともとあった道路を拡張したのか。

それは、街の歴史そのものを変える違いだった。

「蓮くん、ここにいたんだ」

明るい声がした。

顔を上げると、神楽木葉が立っていた。

彼女は手にした紙袋を掲げ、にこりと笑う。

「はい、差し入れ。購買で買ったパン。調査のお供にどうぞ!」

「……ありがとう。って、どうして俺がここにいるって分かったんだ?」

「情報局だから!」

「その答え、便利すぎないか?」

「便利でしょ?」

木葉は悪びれずに隣へ座った。

彼女のスマートフォンにも、同じ資料が表示されている。

「で、どう思う?」

「どう思うって……普通じゃない」

「だよね」

木葉は、いつもの笑顔を少しだけ引っ込めた。

「これ、誰かがデータを書き換えただけじゃないと思う」

「俺もそう思う。書き換えられた記録が、最初から正しかったみたいになってる」

「そう。しかも、変更された記録同士に矛盾がないんだよね」

「……どういうことだ?」

「道路の名称が変わったなら、関連する地図や案内板も変わってる。建物の所有者が変わったなら、その人の経歴や登記情報も、その変更と矛盾しないように整理されてる」

木葉は、画面をスクロールした。

「でも、全部の記録が完全に一致してるわけじゃない。古い新聞記事の一部とか、個人が保存していた写真とか、ところどころに食い違いが残ってる」

「まるで……」

蓮は、言いかけて口を閉じた。

木葉が彼の顔を覗き込む。

「まるで?」

「……いや」

まるで、世界そのものが書き換えられたみたいだ。

そんな言葉が、喉元まで出かかっていた。

しかし、口にするのはためらわれた。

それは、あまりにも大きな仮説だった。

記録が変わったのではなく、記録に合わせて現実が変わった。

もし、それが本当なら。

自分たちが暮らしている世界は、誰かの手によって、いつでも別の姿に変えられることになる。

「蓮くん」

木葉が、真剣な声で言った。

「一つ、気になってることがあるんだ」

「何?」

「今回の異常、発生場所がばらばらに見えるんだけど、記録を時間順に並べると、ある施設の周辺から始まってる可能性がある」

「施設?」

「うん。今は使われていない旧研究区画。昔、特殊な断章資料を扱っていたらしいんだけど、公式記録が少なくて……」

木葉は、画面に地図を表示した。

斎苑市の北側。

現在は立ち入りが制限されている区域に、小さな印がついている。

蓮は、その場所を見て目を細めた。

「……ここ、レクイエムの管理区域に近いな」

「そう。だから、情報を集めてたんだけど……」

木葉の声が少し低くなる。

「今朝、レクイエム側から連絡が来たんだよ」

「レクイエムから?」

「うん。今回の異常について、エッジズと情報を共有したいって」

蓮は驚いた。

レクイエムとエッジズ。

どちらも断章に関わる組織だが、同じ目的で動いているわけではない。

断章を管理し、危険を抑えようとする者たち。

断章の仕組みを理解し、必要なら活用しようとする者たち。

組織の内部にも、それぞれ異なる考えがある。

そのレクイエムが、自ら情報共有を求めてきた。

「……何か、隠してるんじゃないか?」

「私もそう思った」

木葉は、あっさり頷いた。

「だから、情報局としても独自に調べるつもり。でも、今回は蓮くんたちにも関係がありそうなんだよね」

「俺たちに?」

「うん。これを見て」

木葉は、もう一つの画像を表示した。

そこには、黒い背景に白い文字が並んでいた。

見覚えのある形式だった。

断章に関する記録。

その末尾に、ひとつの文字列が記されている。

《RQ-07》

蓮の表情が変わった。

「……これ」

「そう。九条天音さんの極秘任務に関係する番号」

木葉は、蓮の顔を見つめた。

「まだ断定できないよ。今回の異常と、三年前の任務が直接つながっているかどうかも分からない。でも、同じ番号が出てきた以上、無関係とは考えにくい」

蓮は、画像を見つめたまま黙り込んだ。

姉の声が、胸の奥によみがえる。

――逃げて。

あのとき、天音は何から逃げろと言ったのだろう。

目の前の暴走体からか。

それとも、もっと別の何かからか。

「……調べよう」

蓮は顔を上げた。

「今回の異常も、RQ-07も。全部、つながっている可能性があるなら、確かめるしかない」

「うん。そう言うと思った」

木葉は、小さく笑った。

「じゃあ、放課後に情報局の端末を使おう。私のほうでも、もう少し資料を集めておくね」

「ああ。頼む」

そのときだった。

蓮の右手が、突然、熱を帯びた。

「っ……!」

掌の奥に、鋭い痛みが走る。

右手の甲に、白い文字が浮かび上がった。

《記録不一致》

続いて、文字が切り替わる。

《現実照合――失敗》

さらに、その下へ。

《断章反応――検出》

「蓮くん!?」

木葉が立ち上がった。

「どうしたの!? また右手が……!」

「分からない……!」

蓮は右手を押さえた。

白い文字が点滅する。

まるで、何かを警告しているようだった。

その瞬間。

校舎の向こうから、チャイムが鳴った。

昼休みの終わりを告げる、いつもの音。

しかし、蓮にはその音が、妙に遠く聞こえた。

周囲の景色が、一瞬だけ歪む。

校舎の壁。

窓枠。

植え込み。

すべての輪郭が、薄い紙のように揺らいだ。

そして、蓮の視界の端に、見知らぬ文字が浮かび上がる。

《照合対象――九条蓮》

《関連記録――RQ-07》

《再接続――準備中》

「……何だ、これ」

蓮は息を呑んだ。

次の瞬間、文字は消えた。

景色も元に戻っている。

木葉が心配そうに顔を覗き込んだ。

「蓮くん、大丈夫?」

「……ああ」

そう答えたものの、胸のざわめきは消えなかった。

姉の任務記録。

街の異常。

そして、自分自身に向けられた、正体不明の照合。

すべてが、少しずつ一本の線につながり始めている。

その線の先に何があるのか。

蓮には、まだ分からなかった。

*

放課後。

蓮とアリアは、エッジズからの緊急連絡を受け、指定された場所へ向かっていた。

集合場所は、斎苑市の中心部から少し離れた行政合同庁舎。

外観は、ごく普通の公共施設だった。

しかし、その地下には、断章関連の組織が共同で使用する会議区画が設けられている。

正面玄関を通り抜けた蓮は、隣を歩くアリアに目を向けた。

「……アリア」

「何?」

「今日の異常、どう思う?」

アリアは、すぐには答えなかった。

銀色の髪が、廊下の空調に揺れる。

彼女はしばらく考えたあと、静かに口を開いた。

「まだ、断定はできない」

「そっか」

「でも、私が知っている境界異常とは少し違う」

「違う?」

「これまで私が見てきた異常は、現実と断章が混ざり合うことで起きていた。存在しない景色が現れたり、物語の登場人物が現実に干渉したり……」

アリアは、前方を見つめた。

「でも、今回の話が本当なら、起きていることは逆なのかもしれない」

「逆?」

「現実が断章に引き寄せられているんじゃない。断章に記された内容に合わせて、現実のほうが変わっている」

蓮は足を止めかけた。

木葉と話していた仮説と同じだった。

「……そんなことが可能なのか?」

「分からない。私のいた世界でも、似た現象はあった。でも、完全に同じとは限らない」

アリアの表情が、わずかに曇った。

「ただ、一つだけ確かなことがある」

「何だ?」

「もし、本当に現実を書き換える力が動いているなら……その影響は、建物や道路だけでは済まない」

「人間の記憶も、か」

「そう」

アリアは頷いた。

「人間が何を覚えているのか。誰を知っているのか。何を正しいと思っているのか。そういうものまで変わる可能性がある」

蓮は、拳を握りしめた。

姉の顔が浮かぶ。

もし、誰かが歴史を書き換えたら。

天音が失踪した事実そのものが、消えてしまうかもしれない。

あるいは、姉が最初から存在しなかったことにされるかもしれない。

そんなことが許されるはずがない。

「……俺は、そんなことを認めない」

蓮の声に、アリアが目を向けた。

「蓮」

「誰かの都合で、過去も記憶も書き換えられるなんて……そんなの、絶対に間違ってる」

アリアは、彼を見つめた。

そして、わずかに頷いた。

「うん。だから、確かめよう」

「……ああ」

「何が起きているのか。誰が何をしようとしているのか。私たち自身の目で」

二人は、再び歩き始めた。

*

地下会議区画の扉が開いた。

中には、すでに数人の関係者が集まっていた。

エッジズからは神崎怜司。

レクイエム側からは、白妙天音とは別の職員たちが出席している。

会議室の正面には、大型の表示装置が設置されていた。

斎苑市の地図。

その上に、赤い点がいくつも表示されている。

異常が確認された地点だった。

「来たか、九条」

神崎が、蓮たちに声をかけた。

「今回の件について、説明を受ける。まずは状況を把握しておけ」

「はい」

蓮は頷いた。

会議室の奥では、黒いスーツを着た男性が資料を確認していた。

年齢は四十歳前後に見える。

背筋は伸び、表情には無駄な動きがない。

整った顔立ちだが、威圧するような雰囲気はなかった。

むしろ、穏やかで、落ち着いた印象を受ける。

彼は手元の資料を閉じると、ゆっくりと顔を上げた。

「初めまして。君が九条蓮くんか」

静かな声だった。

「私は黒神鷹真。断章管理機構《レクイエム》の研究部門に関わっている」

蓮は、男の顔を見つめた。

黒神鷹真。

今回の異常に関係する人物として、木葉の資料にも名前があった。

だが、詳細はほとんど分かっていない。

「……九条蓮です」

「氷室アリアさんだね。君についても、報告は受けている」

黒神は、アリアにも目を向けた。

「境界の向こう側から来た調査者。現実と断章の接触に関して、独自の知見を持っていると聞いている」

「……どこまで知っているんですか?」

アリアの声は、慎重だった。

「君がどこから来たのか、その世界で何が起きたのか。すべてを知っているわけではないよ」

黒神は穏やかに答えた。

「だが、君の観測記録には、今回の事象と似た反応が残されている。そうだろう?」

アリアは、答えなかった。

黒神は、その沈黙を責めることもなく、会議室の表示装置へ視線を戻した。

「まず、現状を説明しよう」

画面が切り替わる。

道路標識の写真。

古い新聞記事。

建物の登記情報。

それぞれの資料が、時系列に並べられていく。

「ここ数日、斎苑市内で記録の不一致が確認されている。初期段階では、情報機器の不具合や人為的な改ざんが疑われた」

黒神は、淡々と説明を続けた。

「しかし、調査を進めた結果、それだけでは説明できない現象が見つかった」

画面に、二枚の地図が表示された。

どちらも同じ地域を示している。

だが、道路の位置がわずかに違っていた。

「こちらは、現在の行政記録から作成された地図。もう一方は、複数の古い資料を照合して再構成した地図だ」

「……同じ場所なのに、道が違う」

蓮が呟く。

「そう。しかも、どちらか一方が単純な誤りだと断定できない」

黒神は頷いた。

「現在の地図は、現地の道路配置と一致している。古い資料から再構成した地図も、その資料が作られた当時の記録とは一致している。問題は、両者の間にあるはずの変化を、通常の記録から追跡できないことだ」

木葉から聞いた話と同じだった。

変更の履歴がない。

それなのに、結果だけが変わっている。

「これは、単なる記録の改ざんではない可能性がある」

黒神は言った。

「記録と現実の関係そのものに、何らかの変化が生じている」

会議室が静まり返った。

蓮は、黒神の言葉を聞きながら、その顔を観察していた。

この男は、異常を恐れていない。

少なくとも、表面上は。

むしろ、何かを確かめるように、慎重に状況を説明している。

「……黒神さん」

蓮は口を開いた。

「あなたは、この現象の原因を知っているんですか?」

黒神は、蓮を見た。

「原因の候補はいくつかある。だが、現時点で断定することはできない」

「じゃあ、何を調べているんですか?」

「記録が変わったのか。それとも、記録に合わせて現実が変化したのか。その違いを調べている」

黒神は、一拍置いた。

「もし後者なら、これは断章研究において、極めて重要な現象になる」

「重要……?」

「そうだ」

黒神の声には、わずかな熱が宿った。

「物語が人間の認識に影響を与えることは、これまでも知られていた。伝承が人々の価値観を変え、英雄譚が時代を動かし、ある人物の物語が社会のあり方を変えることもある」

彼は、表示装置の地図を見上げた。

「だが、もし物語の記述が、現実そのものに作用するとしたら?」

蓮は眉をひそめた。

「……どういう意味ですか?」

「例えば、ある街が存在したと記されている。そこに住む人々の記憶があり、建物の記録があり、歴史がある。その物語が十分な意味を持ち、現実と接続したとき、街そのものが成立する可能性はないだろうか」

「……」

「逆に言えば、街が存在しなかったという記述が、現実に強く作用したらどうなる?」

黒神は、静かに問いかけた。

「街は消えるのか。そこにいた人々の記憶はどうなるのか。あるいは、最初から別の歴史を持つ街へ変化するのか」

蓮の背筋に、冷たいものが走った。

消えた店。

変わった道路標識。

存在しないはずの所有者。

それらが、すべて一つの可能性につながっていく。

「……まさか」

蓮は、黒神を見つめた。

「誰かが、現実を書き換えているとでも言うんですか?」

黒神は、すぐには答えなかった。

そして、静かに言った。

「その可能性を、私は否定していない」

会議室の空気が、わずかに張り詰めた。

神崎が腕を組む。

「黒神。現時点では、原因も主体も不明だ。仮説を事実のように扱うべきではない」

「もちろんだ。だからこそ、調査が必要なのだよ」

黒神は神崎に視線を向け、再び蓮へ戻した。

「君は、断章の接続を断つ能力を持っていると聞いている」

「……はい」

「ならば、君自身の目で確かめてみるといい。今回の現象が、本当に断章と現実の接続によって起きているのかどうか」

黒神の言葉は、挑発というより、提案に聞こえた。

蓮は、その態度に戸惑った。

この男は、こちらを敵と決めつけていない。

それどころか、調査への参加を歓迎しているようにさえ見える。

しかし。

だからといって、信用できるとは限らない。

「……一つ、聞いてもいいですか」

「何だろう?」

「もし、本当に現実を書き換えることができるなら……あなたは、それを使うつもりなんですか?」

黒神の表情が、わずかに変わった。

ほんの一瞬。

しかし、その目の奥に、強い意志が浮かんだのを蓮は見逃さなかった。

「使うべきときが来れば、使うだろう」

「……!」

「もちろん、無制限に書き換えてよいとは考えていない。現実に介入する以上、その影響を受ける人々への責任が伴う」

黒神は、ゆっくりと歩き始めた。

「だが、考えてみてほしい。人間は、長い歴史の中で何度も選択を誤ってきた。戦争、災害、差別、貧困。避けられたかもしれない悲劇も、数え切れないほどある」

彼は、壁に映る地図を見つめた。

「もし、過去の選択を修正できるなら。失われた命を救い、取り返しのつかない悲劇を防げるなら。それでも、我々は何もせずに見過ごすべきなのだろうか」

蓮は、言葉を失った。

黒神の言葉は、理解できないものではなかった。

もし、自分にその力があったら。

もし、過去を変えることで、姉がいなくなったあの日を変えられるのなら。

もし、天音が今も普通の生活を送っている世界を作れるのなら。

その可能性を、完全に拒絶できるだろうか。

胸の奥が、痛んだ。

黒神は、そんな蓮の迷いを見透かしたように、静かに続けた。

「変化を恐れることは自然なことだ。今あるものを守りたいと思うのも、当然だろう」

彼は、穏やかに微笑んだ。

「だが、現状を守ることが、常に正しいとは限らない」

「……それでも」

蓮は、ようやく声を出した。

「だからって、誰かが勝手に決めていいことじゃない」

黒神は、黙って蓮を見つめた。

「過去を変えたら、救われる人がいるかもしれない。悲劇をなかったことにできるかもしれない。それは分かります」

蓮は拳を握った。

「でも、そこに生きている人たちはどうなるんですか。自分が覚えていることを、勝手に変えられたら? 大切な人との思い出が、最初からなかったことにされたら?」

姉の声が、胸の奥でよみがえる。

――……蓮。

――逃げて。

「その人が、何を大切にしていたのか。何を選んだのか。何を守ろうとしたのか。そういうものまで、書き換えられてしまうかもしれない」

蓮は、黒神を見据えた。

「俺は、それを救済だとは思えません」

会議室に、静寂が落ちた。

黒神はしばらく何も言わなかった。

やがて、小さく息を吐いた。

「なるほど。君は、物語に生きる者の意思を重視するのだな」

「……当たり前です」

「だが、すべての人間が、自分の物語を自由に選べるわけではない」

黒神の声は、先ほどよりも低くなっていた。

「生まれた環境。時代。社会。本人にはどうすることもできない事情によって、選択肢を奪われる人間もいる。彼らに対して、ただ自分の物語を生きろと言うだけで、本当に救いになるのだろうか」

蓮は答えられなかった。

黒神の言葉には、確かに一理あった。

選択できること自体が、すべての人間に平等に与えられているわけではない。

望まない運命を背負わされる者もいる。

何を選んでも失うものがある者もいる。

もし、そうした人々を救う方法があるのなら。

それを最初から否定することも、また違うのかもしれない。

しかし。

「……だからこそ」

蓮は、ゆっくりと口を開いた。

「その人が何を望んでいるのか、確かめる必要があるんじゃないですか」

黒神の目が、わずかに細くなった。

「確かめる?」

「誰かを救うためだと言って、本人の意思を無視したら、それは結局、別の誰かがその人の人生を決めることになる」

蓮は言った。

「選択肢を増やすことと、選択を奪うことは違うはずです」

黒神は、しばらく蓮を見つめていた。

やがて、静かに笑った。

「興味深い考えだ」

その笑みには、嘲りも怒りもなかった。

むしろ、目の前の少年に対する純粋な興味が感じられた。

「君が、どこまでその考えを貫けるのか。見てみたいものだ」

黒神は、会議室の出口へ向かった。

その途中で、ふと足を止める。

「一つ、忠告しておこう」

振り返った彼の表情から、穏やかさが消えていた。

「世界が書き換えられるとき、最も危険なのは、何が変わったのかを誰も覚えていないことだ」

蓮は、息を呑んだ。

「変化に気づかなければ、失ったことさえ分からない。自分が何を奪われたのかも、誰に奪われたのかも分からない」

黒神は、再び歩き出した。

「だからこそ、私は研究を進める。書き換えの仕組みを理解し、制御するために」

扉が開く。

黒神は、最後にこう告げた。

「物語とは、世界を変えるために存在する」

その言葉を残し、彼は会議室を出ていった。

蓮は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

黒神の考えを、すべて否定することはできなかった。

彼の言うとおり、世界には変えるべきものがあるのかもしれない。

救えるはずの命。

防げるはずの悲劇。

誰かが変えなければ、永遠に繰り返される苦しみ。

それでも。

そのために、別の誰かの記憶や人生を奪っていい理由にはならない。

「……蓮」

アリアが、隣から声をかけた。

「大丈夫?」

「……ああ」

蓮は、ゆっくりと息を吐いた。

「ただ、思っていたのと違った」

「黒神のこと?」

「うん。もっと分かりやすい悪人なのかと思ってた」

アリアは、少しだけ目を伏せた。

「本当に危険な考えは、いつも悪意から生まれるとは限らないよ」

「……」

「誰かを救いたい。世界をよくしたい。そういう願いがあるからこそ、他人の意思を無視してしまうこともある」

アリアの声には、どこか実感がこもっていた。

「私のいた世界でも、似たようなことがあった」

蓮は彼女を見た。

「……アリアの世界でも?」

「うん。でも、今はまだ詳しく話せない」

アリアは、申し訳なさそうに笑った。

「ごめんね」

「いや。話せるときでいい」

蓮は頷いた。

「ただ、一つだけ聞かせてくれ」

「何?」

「もし、本当に世界を書き換える力があるなら……アリアは、使うべきだと思うか?」

アリアは、すぐには答えなかった。

しばらく考えたあと、静かに口を開く。

「……私は、まだ答えを出せていない」

「そっか」

「でも、一つだけ決めていることがある」

彼女は、まっすぐに蓮を見つめた。

「誰かが書き換えた世界を、何も知らずに正しいと思い込むことだけは、したくない」

蓮は、その言葉を胸に刻んだ。

自分たちが何を知らないのか。

何を覚えていないのか。

何が、すでに書き換えられてしまったのか。

それを確かめなければ、何も始まらない。

*

会議が終わったあと。

蓮は、地下会議区画の廊下を一人で歩いていた。

アリアは神崎に呼び止められ、境界異常に関する追加の聞き取りを受けている。

蓮は、先ほどの資料をもう一度確認しようと、共有端末の前で立ち止まった。

画面には、斎苑市の異常地点が表示されている。

赤い点。

道路標識。

新聞記事。

登記記録。

どれも、今すぐ世界が崩壊するような異常には見えない。

しかし、その一つひとつが、確かに何かを示していた。

現実は、少しずつ変わり始めている。

蓮は、画面の端に表示された関連記録を開いた。

そこには、通常の資料とは異なる分類番号が記されていた。

《関連記録――RQ-07》

蓮の心臓が、強く打った。

「……またか」

記録を開こうとした瞬間、アクセス権限を示す表示が現れた。

《閲覧権限――制限中》

《対象記録――極秘任務管理番号 RQ-07》

《関連情報――一部照合可能》

その下に、短い記述が残されていた。

《対象断章――《原初の頁》》

《接続状態――再検出》

《保護対象――判定不能》

蓮は息を止めた。

姉の任務記録と、今回の異常。

やはり、何かがつながっている。

だが、具体的な関係は分からない。

《原初の頁》とは何なのか。

なぜ、それが現実の書き換えと関係しているのか。

そして、天音が守ろうとした《保護対象》は誰なのか。

「……姉さん」

蓮は、小さく呟いた。

そのとき。

端末の画面が、一瞬だけ暗くなった。

すぐに復帰する。

しかし、表示内容が変わっていた。

《照合対象――九条蓮》

《関連記録――RQ-07》

《接続反応――確認》

そして、最後に。

《記録の不一致を検出》

蓮は、思わず画面に手を伸ばした。

「……俺のことまで、調べてるのか?」

返事はない。

端末は、何事もなかったかのように通常画面へ戻っていた。

背後から、足音が聞こえた。

「蓮くん?」

振り返ると、木葉が立っていた。

「どうしたの? 難しい顔して」

「……いや」

蓮は、一度だけ画面を振り返った。

そこには、もう何も表示されていない。

「ちょっと、気になる記録があって」

「またRQ-07?」

「……ああ」

木葉は、表情を引き締めた。

「私も、もう少し調べてみる。今回の異常と天音さんの任務、別々に考えないほうがよさそうだね」

「そうだな」

蓮は頷いた。

そして、右手を見つめる。

そこには、何の文字も浮かんでいなかった。

それでも、確かに感じていた。

自分の知らないところで、何かが進んでいる。

街の記録が変わる。

人々の認識が変わる。

そして、姉が残した謎が、今の世界にまで影響を及ぼしている。

黒神鷹真は、物語を書き換えることで世界を変えようとしている。

その思想が、どこまで正しいのか。

彼が何を知っているのか。

蓮には、まだ分からない。

だが、一つだけ確かなことがあった。

誰かが書き換えた物語の中で、何も知らずに生きるつもりはない。

自分が覚えているものを。

姉が守ろうとしたものを。

そして、この世界で生きている人々の選択を。

簡単に、なかったことにはさせない。

蓮は、静かに拳を握った。

まだ、何も始まっていない。

そう思っていた。

しかし、斎苑市のどこかでは、すでに新たな記録が生まれ始めていた。

誰も知らない名前。

存在したはずのない建物。

そして、昨日まで確かに存在していたものが、今日には失われている世界。

その変化は、まだ小さい。

けれど、やがて街全体を覆い尽くすほど大きくなるかもしれない。

物語が書き換えられる。

現実が、それに従って変わっていく。

そして、その変化に気づく者さえ、少しずつ減っていく。

蓮はまだ知らない。

この日の小さな異常が、斎苑市全体を巻き込む事件の始まりだったことを。

そして、黒神鷹真との出会いが、自分自身の信じる物語を問い直す戦いの始まりだったことを。

ただ一つ。

右手の奥に残った微かな熱だけが、静かに告げていた。

――記録は、まだ終わっていない。

――物語は、すでに動き始めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

-オリジナル小説, ミステリー・ホラー