異世界

『転生したら魔王の秘書でした』第6部:王位継承編

目次

第6部 王位継承編

第1章:新たなる試練の幕開け

 

魔王一家の人物像

■アーク・ヴァルツ(魔王・父)

  • 王としての威厳と、家族を想う父としての優しさを両立。

  • 政務と愛情、責務と個人の間で静かにバランスを取り続ける。

  • 子供たちには「強さとは孤独ではなく、支え合うこと」を教えている。

  • ルシアにとっては“目標であり師”、アレイドにとっては“理性的な理解者”。

■ミカ・エストレーラ(王妃兼秘書・母)

  • 「秘書・王妃・母」という三重の顔を持つ。

  • 高い知性と記憶力、調整力を武器に政務をこなす。

  • 子供たちへの愛情深く、特に心理的な支えとして家族をまとめる。

  • 自身も努力型で、家族に「完璧じゃなくていい、支え合えばいい」と諭す姿が印象的。

■ルシア・エストレーラ(長男・第一子)

名前:ルシア(Lucia Estrella)

地位:第一王子。

  • 正義感が強く、幼少期から「守る責任」を意識している。

  • 責任感が強すぎて、自分を追い込む傾向がある。

  • 幼少期のアリア脱走事件で、兄としての責任感と葛藤を経験。

  • 将来的に前線指揮官や王の後継者の資質があるが、精神的にはまだ柔らかい面も残る。

  • 親から魅力、責任感、優しさを受け継ぎ「守る責任」を意識する存在。(心)

■アレイド・エストレーラ(次男・第二子)

名前:アレイド・エストレーラ(Alaid Estrella)

地位:第二王子。演算魔術と戦略の天才。

  • 冷静で論理的。観察と分析、そして「誰かを支えること」に特化した性格。

  • 魔術演算や戦況解析の才能があり、王族の中でも特殊な立ち位置。

  • 「自分は王にはなれないが、王を支える翼になれる」と自覚するまでに成長。

  • 家族への思いは深いが、前に出るよりも後方支援型。

  • アレイドは全能力は最高水準も「知恵」を得意とする。(知)

■アリア・エストレーラ(長女・第三子)

名前:アリア・エストレーラ(Aria Estrella)

地位:後方支援的

      • 純粋で自由な心を持つ。家族への愛情が行動の原動力。

      • 幼少期は「母に花冠を贈りたい」という気持ちで城を脱走するなど、行動力もあり。

      • 周囲を自然と笑顔にさせる存在であり、家族にとって“癒し”の象徴。

      • 天真爛漫さと自由さが物語の中心軸になる予感。

      • 魔力は父親の魔王をしのぐ力が有り、全魔法を使えるが火を最も得意とする。(力)

 

3人の性格付け等ガイド

ルシア(長男・兄)

  • 性格:落ち着きと包容力。父母の魅力を引き継ぎ、人を導く視点を持つ。

  • 口調:理知的で落ち着いた男性口調。語尾は「~だ」「~だな」「~だろう」など。弟妹にはやや柔らかめ。

  • 成長傾向:リーダーとしての重みが増すが、時々兄としての茶目っ気も見せる。

アレイド(次男・弟)

  • 性格:そつなく何でもこなす万能型。分析力・先読み力があり、言葉は端的で冗談も交える。

  • 口調:やや軽口混じりの男性口調。「~だな」「~だろ」「~じゃないか」などカジュアル。

  • 成長傾向:責任感が増し、軽口の裏に深い思慮を感じさせる場面が出てくる。

アリア(長女・末っ子)

  • 性格:感情表現がストレートで子供っぽい面を残すが、芯は強くなってきている。炎の制御ができるようになり、守る力への意識が芽生えている。

  • 口調:やや砕けた話し方。兄たちにはため口。「~だよ」「~なんだから」「~するもん」など、感情が出ると子供っぽくなる。

  • 成長傾向:大人びた言い回しも時折混ざるようになり、場面によって語調が変化。


1-1:秋の王宮、静かな変化

秋は、王都を柔らかく包み込むようにやってきた。
王宮の庭園は紅葉に染まり、楓や銀杏の葉が黄金色と朱色のグラデーションを作っている。吹き抜ける風は夏の熱気を完全に払い、薄く冷えた空気を頬に残す。その涼しさに、宮廷の長い廊下を歩く人々の歩幅は、自然とゆったりしたものになっていた。

しかし――その静けさの奥底に、ごく微かな「変化の種」が芽吹いていることに、まだほとんどの者は気づいていなかった。

朝靄の残る早朝。王宮の西翼、上階の一室ではルシアが窓辺に腰掛け、湯気の立つ紅茶に口をつけていた。
白磁のカップ越しに見える中庭は、赤と黄の落ち葉で彩られている。机の上には政務資料と地図。彼女の指先はページをめくるたび、紙の角を優しく撫でた。

「……税率、やっぱり西部領はもう少し緩めた方が良さそうね」
小声の独り言。朝の光を受けた瞳は穏やかだが、思考は既に政治の海を泳いでいた。

ノックの音がして、侍女が入る。
「おはようございます、ルシア様。本日はお父上のご予定に会議が入っておりますので――」
「ありがとう。午前中は執務室で記録整理をするわ」
にこやかに答えながらも、ルシアの耳は外の風の音を拾っていた。少し冷たく、どこか落ち着かない風だった。

一方、王宮北翼の訓練場ではアレイドが片膝をつき、剣の刃を布で拭っていた。
朝露で濡れた地面に淡い靄が漂う中、彼の動きは迷いがなく、手入れというよりも儀式のような規則正しさがあった。

「……よし」
刃を鞘に収めると、アレイドは木剣を手に取り、素振りを始める。ひと振りごとに靄が切り裂かれ、冷たい空気が腕を走った。
訓練場の隅で若い兵士が見とれていたが、アレイドは気づかないふりをして動作を続ける。

「昨日より……重心が少し甘いな」
独りごち、次の一振りで力強く足を踏み込む。乾いた音が朝の空気に響いた。

そして、東翼の奥、魔術演習場ではアリアが杖を握って立っていた。
彼女の前方には、拳大の炎球がふわりと浮かんでいる。炎は以前のように荒々しく燃え上がることなく、柔らかく脈動していた。

「……深呼吸、して……」
吐息とともに、炎球は少し小さくなり、光も穏やかになる。
「よし、もう一度」
杖先を軽く振り、今度は炎を横に流す。まるで水のように、滑らかに空中を移動した。

「アリア様、最近……炎、優しくなりましたね」
演習場の端で見ていた若い魔術師見習いがぽつりと言った。
アリアは少し驚き、そして小さく笑った。
「……そう? なら、嬉しい」
ほんの数ヶ月前まで「暴走姫」などと陰で呼ばれていた自分が、今こうして炎を制御できている――その事実が胸に温かく広がった。

午前の陽が少し高くなる頃、三人は別々の用事を終えて中庭に向かうことになった。
赤と金の葉が舞い落ちる中、先に来ていたルシアがベンチに座っていると、アレイドが姿を現す。
「おはよう、お兄さん」
「おはよう。朝から稽古?」
「ああ。お兄さんは相変わらず紙と数字か?」
「それが私の戦場よ」
二人が笑い合ったその時、反対側からアリアが駆けてきた。

「おはよー! あ、二人とも来てたんだ」
「珍しいな。訓練場から直行か?」とアレイド。
「うん。ちょっと休憩。……あ、ルシアお兄さん、炎、優しくなったって褒められた」
アリアが嬉しそうに報告すると、ルシアが頬を緩めた。
「そう……見てみたいね、その“優しい炎”」
「じゃあ今度、演習見に来て」
アリアの声は自然と弾んでいた。

短い会話の合間にも、三人の視線は時折交差し、互いの力や立場を意識する微妙な空気が流れた。
その奥底に、まだ誰も明確な言葉にしていない「次の段階への予感」が潜んでいた。

昼前、王宮の食堂には、秋の野菜をふんだんに使った温かなスープの香りが漂っていた。
長いテーブルの端に腰掛けたルシアは、匙を口に運びながら視線を遠くにやった。
窓越しに見えるのは、訓練場へと続く石畳の道。そこを歩く兵士や使用人の足取りに、彼女はある変化を感じ取っていた。

「……なんだか、みんな急ぎ足ね」
「気のせいじゃないと思う」
向かいに座ったアレイドが、パンをかじりながら短く答える。
「父上も、このところ外部との会談が増えている。政務の空気が、少し……前と違う」
「アレイドまでそう感じているなら、やっぱりそうなのね」
二人の間に一瞬の沈黙が落ちた。
そこへ、湯気を纏ったままアリアがやって来る。
「何の話?」
「王宮の空気が少し変わってきた、って話」
「ふーん……私はよく分かんないけど。でも、最近訓練で“実戦想定”が増えてきたかな」
「実戦想定……」
ルシアが呟いたその言葉は、食堂の温かさとは別の冷たい余韻を三人の間に残した。

午後、三人はそれぞれの予定へと散った。
ルシアは執務室で地方領主との書簡に目を通し、アレイドは戦術資料の閲覧室にこもり、アリアは魔術演習場で炎の流し方を繰り返し練習する。

それぞれの背後には、見えない形で新たな動きが始まっていた。
ルシアの机上には、いつもよりも多い外交案件が積まれていた。
アレイドの資料には、北方防衛線の再編案が密かに挟まれていた。
アリアの訓練場では、王都以外の若手魔術師が見学に来ていた。

夕暮れ時、三人は偶然、城壁沿いの遊歩道で再び顔を合わせた。
沈みかけた陽が西の空を黄金色に染め、影を長く伸ばす。

アレイドがふと笑って肩をすくめた。
「やれやれ……アリア、また熱くなってるな。少しは肩の力を抜けよ」
「……うるさいな、アレイドこそ、いつも余裕ぶって」
「余裕じゃないさ。必要だからそうしてるだけだ。君はまだ、自分の炎の“持ち方”を試してる段階なんだろ?」
「……っ!」
その言葉にアリアはむっと顔を背けた。けれど、否定はできない。

ルシアがそのやり取りを横で聞き、やんわりと笑う。
「お前たち、相変わらずだな。まぁ、どちらもいい刺激になってるようで、兄としては安心だ」
「兄さんはいつもそうやって見てるだけで……」アリアが口を尖らせると、ルシアは苦笑しながら、
「見てるだけじゃないさ。必要な時はちゃんと動く。お前たち二人は、そう簡単には見捨てられないからな」
そう言って、軽く二人の頭に手を置いた。

アリアは一瞬だけ兄の手の温もりに驚き、そのまま目を伏せた。
アレイドは、そんな二人をちらりと見て、小さくため息をついた。
「……まったく。こういう時だけ兄さんらしい顔をするんだからな」
「お前もいずれ、そうなる日が来るかもな」
ルシアのその返しに、アレイドはほんのわずか口元を緩めた。

彼らの後ろで、紅葉が風に揺れ、はらはらと落ちていく。
まるで、色鮮やかな葉が舞い落ちたあとに、新しい芽吹きが訪れることを予告するかのように。

その夜、王宮全体に柔らかな静けさが満ちた。
けれど、その静けさの中で、確かに何かが動き始めていた。
遠く、城門を抜ける馬車の音。
見張り台で交わされる短い合図。
廊下の隅に置かれた、まだ開封されていない封書。

――秋の王宮は、美しく、そして少しだけざわめいていた。
それは兄妹三人の未来へ続く道の、最初のきっかけとなる小さな風だった。

 

 

 

1-2:旅立ちの気配とそれぞれの選択

季節は秋へと向かい、王宮を囲む森は金と赤の色彩をまといはじめていた。
朝の冷たい空気を吸い込みながら歩くと、胸の奥まで澄んだ風が入り込み、どこか遠くへと行きたくなる衝動が湧いてくる。

その日、三人の兄妹は、珍しく朝食の席に全員揃っていた。
ルシアは既に政務服の上着を羽織り、アレイドは軽装ながら腰には短剣を差している。アリアはまだ訓練着のまま、片手でパンをかじりながら紅茶を飲んでいた。

「今日はそれぞれ予定が詰まっているな」
アレイドが、テーブルに置かれた予定表を横目で見ながら呟いた。
「あなたも同じじゃない」ルシアが静かに笑う。「戦術本部への呼び出しなんて、そうそうないでしょう?」
「まあ、確かにな。……姉さんは?」
「政務訓練。領主との実地交渉があるわ」
「……固いな」アリアが口を尖らせる。「私は、治安演習に混ざって街の巡回をするよ。動きっぱなしの一日になるかも」

こうして聞くと、三人それぞれの道筋が、少しずつ違う方向へと伸びていくのが見えてくる。
食堂の窓から差し込む朝日が、その道筋をやわらかく照らしているように思えた。

午前、ルシアは執務室で、地方領主と顔を合わせていた。
目の前の老人は、長年一族の領土を治めてきた人物で、王宮との距離感を慎重に保ってきたタイプだ。
しかし、今日のルシアは一歩も引かなかった。
「領地の民の声を直接聞く場を設けましょう。それが信頼への第一歩です」
凛とした声と落ち着いた笑み。その背後には、父アークの威厳と母ミカの温かさが確かに宿っている。

一方、アレイドは戦術本部の会議室にいた。
壁一面に広がる地図。赤と青の駒が、複雑な動線を描いている。
「ここ、迂回路にして敵の後衛を削る案は?」
彼の提案に、年上の将校たちが目を見張る。
「……短時間でそこまで見抜くとは。やはり君の分析力は侮れん」
アレイドは軽く肩を竦めて笑った。
「状況が見えれば、答えは自然と出ます」
その表情は、自信と余裕を滲ませつつも、驕りはない。

アリアは城下町の南側、狭い路地を巡回していた。
治安演習といえども、街の空気は生きていて、予想外のことが起こる。
角を曲がった瞬間、荷車が傾き、積まれた木箱が倒れそうになる――
「っ……!」
アリアは反射的に手を伸ばし、小さな炎を発生させて風を生み、木箱を元の位置に押し戻した。
「助かったよ、お嬢さん!」と商人が頭を下げる。
その一言に、胸の奥が温かくなる。
(……守るための炎。やっと、少しは使いこなせてきたかな)

夕刻、王宮のテラスで三人は偶然再会した。
夕焼けが城壁の向こうまで広がり、紅葉の森を黄金色に染めている。

「ええ。でも、きっとこれからもっと濃くなる」
ルシアは窓の外、遠くの街並みに視線を向けながら、淡く微笑んだ。
その横顔は、いつも通り穏やかだが、瞳の奥には確かな決意が宿っている。

「そうだね……。でも、不思議と怖くないや」
アリアは両手を腰に当て、少し子供っぽい笑顔を見せる。
「だって“別れ”じゃないもん。“旅立ち”だよね?」

「そういう言い方、悪くないな」
アレイドが口元を緩めて頷いた。
「俺たちは、それぞれの場所で前に進むだけだ」

その言葉にルシアも笑みを返す。
「――そうだな。だからこそ、ここでの時間を無駄にはできない」

三人の間に、秋の澄んだ空気と同じくらい透き通った沈黙が流れた。
それは名残惜しさよりも、これから始まる日々への期待を孕んだ静けさだった。

その瞬間、三人の胸の中に、確かに同じ灯がともっていた。

ルシアは軽く息を吐き、ベンチの背にもたれた。
「それに……俺は、この半年でお前たちの強さをよく見せてもらった。どこへ行っても、やっていけるはずだ」
その声音は兄としての誇らしさと、少しの寂しさが入り混じっていた。

「強さって……アレイドもでしょ?」
アリアは半ばむくれたように言って、すぐに笑いに変えた。
「私、あんたのそういう“何でもそつなくこなす”ところ、けっこう尊敬してるんだから」

「ほう、それは意外だな」
アレイドが目を細めて笑い、軽く肩をすくめる。
「でも、お前が真っすぐ突っ込むからこそ、俺たちが助けられる場面もあった。……これからも、その火は消すなよ」

「……うん」
アリアはほんの少し頬を赤らめ、短く答えた。

ルシアは二人を見渡し、わずかに目を細めた。
「俺たち三人、行く先は違うが――目指すものは同じだ。国のため、人のため、そして……自分のため」

「そういうの、悪くないな」
アレイドが再び頷くと、アリアも小さく拳を握る。
「よし。じゃあ、またいつか同じ場所で腕試しできるように、頑張らなきゃね」

その時、冷たい風が木々を揺らし、落ち葉がひらりと三人の間を舞い抜けた。
秋の匂いとともに、それぞれの胸に新しい季節の始まりを告げていた。

やがて鐘の音が遠くで鳴り、日暮れが近いことを知らせる。
三人は同じ方向へ歩き出しながらも、視線の先にはそれぞれの道が見えていた。

1-3:ミカとアーク、親としての対話

夜更けの王宮は、昼間の賑わいをまるで嘘のように静めていた。
廊下を照らす灯火は柔らかく揺れ、長い影を床に落とす。その奥――王家の私室に続く小さな応接間には、紅茶の香りがふんわりと満ちていた。

窓辺に立つアークは、背を向けたまま外の庭を見ている。月明かりに照らされた横顔は、相変わらず感情を大きく表には出さないが、その眼差しはどこか遠くを見ていた。
ソファに腰掛けるミカは、湯気の立つカップを両手で包み込み、静かに口を開く。

「……今日は、みんなの顔が少し違っていたわね」

アークは振り返らずに、低い声で応じる。

「違っていた、か。――ああ、そうだな。
目つきが変わった。どれも、子どもというより……“これからの顔”になってきた」

ミカは小さく笑った。
「それは……嬉しくもあり、寂しくもあるわね」

「お前はそういう時、必ず“寂しい”を先に言う」
アークが少しだけ口元を緩めた。

「だって、本当にそう思うんですもの」
ミカは視線を落とし、紅茶をひと口啜る。
「この六か月で、三人とも大きくなった。
ルシアは……あの子らしい優しさに、ようやく自信が宿ってきたわ。人の前に立つことをためらわなくなった」

「ああ。あいつは……俺が何も言わなくても、人を動かせる。指示ではなく、信頼でな」
アークの声は珍しく柔らかかった。

「アレイドは相変わらず器用ね。そつなくこなすだけじゃなく、先を読んで動けるようになった。
あの子の“軽さ”は、時に誰かの心を救うのよ」

「それも分かっててやってる。……あいつ、意外と計算高い」
アークは小さく鼻で笑った。
「ただ、そこに温かさがある。あれは俺にも真似できない」

しばし沈黙が落ちる。
ミカはアークの横顔を見つめ、少し声を落として言った。

「そして……アリア。あの子は、一番危うかった」

「危うかった、じゃなくて……危ういままだ」
アークは振り返り、真剣な眼差しで言葉を続ける。
「炎は制御できるようになった。だが、あの力は――状況次第でまた牙を剥く。本人がどう在りたいか、それを決めるまではな」

「ええ、そうね」
ミカはゆっくり頷く。
「でも、今日のあの子を見て……“守るために燃やす”という気持ちが、確かに芽生えていると感じたの。
あれは、あの子が自分で掴んだ答えだと思う」

アークは何も言わなかった。けれど、わずかに目を細めたその表情は、同意を示していた。

「……私たちは、もう導き手ではないわ」
ミカの声は穏やかだが、胸の奥に響く力があった。
「けれど……背を預けられる存在でありたい。三人が振り返った時、そこにいてくれると信じられる背中でありたいの」

アークはゆっくりと歩み寄り、ミカの前に立つ。
「そして必要なら……背中を押してやるだけだ」

「……そうね」
二人の視線が、静かに絡み合う。

窓の外、月明かりに照らされた庭では、風が秋の匂いを運んでいた。
変わりゆく季節とともに、子どもたちの時間もまた前へと進んでいく――。

会話が一段落すると、二人は自然と廊下へ足を向けた。
夜の王宮は、昼の華やぎが嘘のようにしんと静まり返っている。遠くで警備兵の足音が規則正しく響くほかは、ただ秋の夜風が窓を揺らす音だけが伴奏だった。

まずはルシアの部屋の前で立ち止まる。
扉の隙間から漏れる灯りの中、机に向かい書類を広げている姿があった。眉を寄せ、細やかな字で何かを書き込んでいる。
その手元には、父譲りの几帳面さと母譲りの温かさが同居していた。

ミカは小さく微笑む。「……あの子は、もう立派に一人で立っているわ」
アークは頷く。「ああ。ただし、人前では背筋を張っても、夜くらいは肩の力を抜けるようにしてやらんとな」
扉は開けず、ただその姿を目に焼き付けてから二人は静かにその場を離れた。

次にアレイドの部屋。
扉越しに、何やら小さな笑い声が漏れてくる。覗けば、机の上に広げられた地図と駒、そして真新しい戦術書。だがその横には、姉弟への小さな土産袋が三つ。
彼は地図を眺めながら駒を動かし、ひとりごとのように作戦を呟いては小さく笑っていた。

アークがぽつりとつぶやく。「……あいつは、何をやらせてもそれなりに形にする。だが、誰かのために動くとき、本当の力を出す」
ミカは柔らかく息をつく。「だからこそ、支える人が必要なのね」
互いに目を合わせ、ほんの一瞬だけ笑みを交わすと、また足を進める。

最後はアリアの部屋。
扉の下からは、炎のような橙色の光がわずかに漏れている。そっと覗けば、ベッドの端に腰かけ、小さな炎を手のひらに浮かべていた。
その炎は、以前のような荒々しさはなく、安定した光を放っている。アリアはその炎を見つめながら、何かを小さく呟いた――「守るために、燃えるんだ」
その声は、両親の耳には届かないほどかすかだったが、不思議と意味だけは伝わってきた。

ミカはそっと胸に手を当て、アークを見上げる。
「……あの子、もう泣かないわ」
アークは短く「そうだな」とだけ言った。その声には、確かな誇りが滲んでいた。

こうして三人の部屋を巡り終えた二人は、再び静かな廊下を歩く。
背中越しに感じるのは、確かに子どもたちの成長と、それぞれが選び取る未来の気配。
そして――親としての自分たちの役目が、ゆっくりと次の形へと変わっていくことを、互いに言葉を交わさずとも理解していた。

廊下の端に差しかかったとき、ミカがふと立ち止まる。
「アーク……ありがとう」
アークは片眉を上げる。「何の礼だ」
「……こうして、三人を一緒に見守ってくれること」
アークは短く鼻を鳴らし、「礼を言うのはまだ早い」とだけ言って歩き出す。

その背を見送りながら、ミカは微笑む。
――まだ、背中を押す時ではない。けれど、その瞬間は、そう遠くないのかもしれない。

月明かりに照らされた二人の影は、廊下の先へと並んで伸びていった。

 

 

1-4:兄妹それぞれの夜明け

夜が明け、東の空が薄紅に染まりはじめた。
王宮の庭には、秋の朝特有の澄んだ冷気が漂い、朝露を含んだ草が一面に輝いている。
小鳥の鳴き声と、城下町から届くパンを焼く香ばしい匂い――その全てが、新しい一日の始まりを告げていた。

最初に起きてきたのはルシアだった。
白いシャツの袖を軽くまくり、髪を後ろで束ねると、そのまま窓辺に立つ。まだ眠りから覚めきらない瞳で庭を見下ろし、ゆっくり深呼吸をした。
「……今日からだな」
自分に言い聞かせるように呟く。
政務訓練に加えて、王都郊外での統治実地――父アークの補佐役として任地に赴く初日だ。
緊張はある。けれど、それ以上に胸を満たすのは、不思議な期待感だった。

背後から控えめなノックが響いた。
「兄上、もう起きてます?」
アレイドの声だ。
「入れ」
扉が開くと、軽装のジャケット姿のアレイドが顔を覗かせた。
「やっぱりもう起きてると思ったよ。……その顔、もう戦場に行く兵士みたいだな」
「これから行くのは戦場じゃなくて民の暮らす町だ」
「でも、戦略も判断も必要だろ? そういう意味じゃ似たようなもんさ」
軽口を叩きながらも、アレイドの瞳はどこか真剣だった。

「お前は?」ルシアが問う。
「今日から戦術本部の予備班。最初は資料整理や状況分析だけど……まあ、現場に出る日も近いだろうな」
その口調には自信と同時に、少しの不安が滲む。
「お互い、学ぶことは山ほどあるな」
「そうだな」
二人は短く笑い合い、朝の空気の中に言葉を溶かした。

やがて、別の方向から駆け足で近づく足音。
「おはようっ!」
勢いよくアリアが顔を出した。寝癖を手ぐしで整えながらも、すでに腰には訓練用の短剣と魔術刻印のついた小さな護符が下げられている。
「今日から治安演習部隊だって? 張り切ってるな」アレイドが笑う。
「当然! 今度は暴走しないから安心して見てていいよ」
アリアは胸を張って言うが、その目は少し照れくさそうだ。
「……それ、兄さんやアリアが言うより説得力あるのかな」アレイドがからかう。
「うるさい!」とアリアは頬を膨らませるが、すぐに笑顔に戻る。

こうして三人は、揃って朝食の間へ向かった。
廊下を歩きながら、窓の外の街並みがそれぞれの視界に映る。
ルシアは「守るべき人々の暮らし」を、アレイドは「まだ見ぬ戦局の変化」を、アリアは「試される自分の力」を――それぞれ心に描いていた。

朝食の席にはすでにミカがいて、温かいパンとスープを用意していた。
「おはよう。……今日からは、もう“いつもの朝”じゃなくなるわね」
その言葉に三人は顔を見合わせる。
ルシアが穏やかに微笑む。「けれど、帰る場所は変わらない」
アレイドはパンをちぎりながら「旅立ちってやつだな」と口にし、アリアはスープを飲み干してから「だったら、思いっきり行ってくる!」と宣言する。

ミカはそんな子どもたちを見渡し、目を細めた。
「……それぞれの朝を、大切にね」
短い言葉だが、そこには深い祈りと信頼が込められていた。

食事を終えた三人は、それぞれの部屋へ戻り、出発の支度に取りかかった。
ルシアは薄灰色のマントを肩に掛け、腰には細身の剣を佩く。鏡に映る自分の姿を一度見て、背筋を伸ばした。
「……父さんみたいな顔になってるかな」
小さくつぶやき、口元に微笑を浮かべると、手早く荷をまとめて扉を開けた。

廊下の先で、アレイドが腕を組んで待っていた。
「やっと来たか。俺、こう見えて準備早いんだぜ」
「知ってる。けど、兄としては妹を先に送り出してやるべきじゃないか?」
わざと真面目に言うルシアに、アレイドは苦笑しながら肩をすくめた。
「いやいや、俺は妹より先に行って、道が安全かどうか確かめるタイプだから」
「……口だけは達者だな」
二人がそんな軽口を交わしていると、遠くから慌ただしい足音が響く。

「お待たせっ!」
アリアが駆けてくる。赤い外套が朝日にきらめき、その瞳には期待と闘志が混ざった光が宿っていた。
「おいおい、走るなよ。出発前に転んだら格好つかないだろ」アレイドが苦笑混じりに言う。
「だいじょーぶだって! 私、今日は絶好調だから!」
「……その絶好調が暴走に変わらなきゃいいけどな」
アレイドのぼやきに、アリアは舌を出して笑った。

三人は正門前に並び立った。
門の外には、それぞれの任地へ向かう馬車や兵士たちが待機している。
ルシアの前には政務官の一団、アレイドには戦術本部の若い将校たち、そしてアリアには治安部隊の仲間たちがいた。

しばしの沈黙。
アリアがふいに言った。
「……なんか、胸が変な感じ。わくわくとドキドキがごちゃ混ぜ」
「普通だよ」アレイドが軽く笑う。「大事なのは、その混ざった感じを持ったまま進むことだ」
「兄さんは?」アリアがルシアを見上げる。
「俺か? ……まあ、ちょっとは緊張してる。でも、面白そうって気持ちのほうが勝ってるな」
ルシアは空を見上げた。高く澄んだ秋空が、どこまでも広がっている。

ルシアは一歩前に出て、二人を見渡した。
「どこにいても、俺たちは兄妹だ。困ったら……帰ってくればいい」
それは兄としての穏やかな、しかし力強い言葉だった。
「うん!」アリアが即座に返事をする。
「そうだな」アレイドも短く頷いた。

三人は互いに視線を交わし、ほんのわずかな笑みを共有した。
そして――それぞれの足で、それぞれの道へと踏み出す。
背後に広がる王宮の白壁が朝日に染まり、まるで新しい時代を祝福するように輝いていた。

 

1-5:灯火の行方

秋の夕暮れ。王宮の高い尖塔の影が長く延び、橙から群青へと空の色が移り変わっていく。中庭では訓練を終えた兵士たちが道具を片づけ、談笑しながらそれぞれの宿舎へと戻っていく。
アリアはその光景を、訓練場の端に腰を下ろして眺めていた。額にはまだ汗が滲み、胸の奥には小さな熱が残っている。だが、それは以前のような暴走の余熱ではなく、整えられた灯火の温もりだった。

「今日もやり切ったな」
声をかけてきたのはアレイドだ。軽口の響きの中に、さりげない労いが混じっている。
「……まだ全然。動きにムダが多いって教官に言われたし」
「それ、言われるってことは伸びしろがあるってことだぞ。褒め言葉だ」
「兄さんは何でも褒め言葉にするんだから」
アリアは笑って肩をすくめた。

少し離れたところでは、ルシアが部下らしき若手兵士と話し込んでいた。姿勢は崩さず、穏やかな笑みを浮かべ、しかし要所では鋭く指示を出している。父譲りの落ち着きと母譲りの包容力。その背中は、見ているだけで不思議と安心感を与える。

「兄さん、ああやってもう“人を動かす側”になってるよな」
「まあ、あいつはそういう役回りが似合う」アレイドは片手をポケットに突っ込み、軽く顎でルシアを示す。「俺はあそこまでまとめ役にはならないけど、横で動きを支えるのは嫌いじゃない」
「……私は?」
「おまえは――」アレイドはわざと間を置き、にやりと笑った。「火力担当だろ」
「それだけ?」
「いや、それが一番重要なんだって」

アリアはむっとした顔をしながらも、否定しなかった。炎は自分の核だ。それを否定する気はない。だが、もう壊すためだけには使わないと決めている。

「ねえ、兄さん」
「ん?」
「私たち、これからそれぞれ違う場所に行くじゃない? ……ちょっとだけ、怖い」
その言葉は、彼女がずっと胸の奥にしまっていた本音だった。
アレイドは少し視線を逸らし、沈黙した。
「正直、俺もな。けどさ――怖さを共有できる相手がいるなら、そんなに悪くない」
「共有……」
「そう。離れてても、たまに思い出すだけで“ああ、あいつも頑張ってる”って思えるだろ」
アリアはその言葉を胸の中で反芻した。炎が、ほんの少しだけ強く灯った気がする。

やがてルシアがこちらに歩み寄ってきた。
「そろそろ戻るか。夕食の時間だ」
「うん」アリアは立ち上がる。
「そうだな」アレイドも軽く伸びをした。

三人は並んで歩き出す。足音が石畳に小さく響き、夕闇がゆっくりと王宮を包み込んでいく。

夕食の席は、いつものように家族とごく近しい者たちだけで囲む穏やかな時間だった。大きな長卓の上には、秋の収穫を祝う料理が並び、香ばしい匂いが漂う。
ミカが焼きたてのパンを切り分け、アークが静かにスープを注ぐ。その動きは、王と王妃であることを忘れさせるほど自然で、温かな家庭の一場面を形作っていた。

「今日の訓練、見てたわよ」ミカがアリアに微笑む。「前よりも、動きが落ち着いてきたわ」
「ほんと?」アリアは思わず背筋を伸ばす。
「ええ。それに……炎の色が柔らかくなった」
「色?」
アークがパンを口に運びながら、短く頷く。「力の揺らぎが減った、ということだ」
「……そっか」アリアは照れくさそうに笑い、スープに視線を落とした。

ルシアはアレイドに視線を向ける。「王都の戦術本部に呼ばれたそうだな」
「ああ。正式な発表はまだだけど、近いうちに出るだろう」
「……緊張してるか?」ルシアの問いは短いが、温かみがある。
「まあ、ちょっとな。でも面白そうって気持ちのほうが勝ってる」アレイドは笑った。
その軽口に、アリアもくすりと笑う。

「三人とも、それぞれの道を歩き出すのね」ミカが少し遠くを見るような目で呟いた。
「まだ始まりだ」アークの声は低く、しかし揺るぎない。
その言葉に、食卓の空気が静かに引き締まる。

食後、三兄妹は自然と同じ方向へと歩き出していた。行き着いたのは王宮のバルコニー。夜風が少し冷たく、月明かりが石の手すりを銀色に照らしている。

「これから、もっと大変になるんだろうな」アレイドがぽつりと漏らす。
「……でも、きっと大丈夫だよ」アリアは夜空を見上げながら言った。「離れてても、ちゃんと繋がってる」
「その通りだ」ルシアが頷く。「だからこそ、それぞれの場所で最善を尽くす」

三人は言葉を交わすことなく、しばし夜空を仰いだ。無数の星々が瞬き、その光がまるで未来を示すかのように降り注ぐ。

――この中から、誰かが必ず“継ぐ”日が来る。
その思いは、三人とも声には出さずとも、胸の奥で確かに共有していた。

 

第2章 動き出す盤面

2-1:王都の風、辺境の声

秋の王都は、澄んだ空気の中に冷たさと甘い香りが混ざっていた。市場には栗や干し果物が並び、通りを歩く人々の服は、夏の軽装から暖色の厚手へと変わりつつある。だが、王宮の奥深くに漂う空気は、市井の賑わいとは別の色を帯びていた。

――政務訓練の日だ。

ルシアは、重厚な扉の前で深く息を整えた。父であるアークの横顔や、母ミカの落ち着いた声が脳裏をよぎる。彼はもう、ただの“王の子”ではない。王国の未来を担う者として、議場に座る責任がある。

「……よし」

扉を押すと、厚い絨毯の敷かれた会議室が広がった。円形の長卓の周囲には、王国の重臣たちが既に席に着いており、その視線が一斉にルシアへ向く。彼は堂々と歩み寄り、定められた席に腰を下ろした。

「本日の議題は、交易計画の改訂と国境防衛線の調整についてです」

進行役の宰相が低く響く声で告げる。羊皮紙がめくられ、数字や地図が広げられる。ルシアは耳を傾け、必要な箇所では短く意見を挟む。父から受け継いだ魅力と母から受け継いだ温和さ――それは議論の場でも、相手を否定せずに自分の考えを通す力となっていた。

「北方交易の関税を緩和すれば、冬季物資の流通は確保できますが……その分、国庫収入が減ります」

財務官の懸念に対し、ルシアは資料を指で押さえながら口を開く。

「短期的な収入減は避けられませんが、流通量が安定すれば長期では税収増につながります。さらに、北方諸国との関係改善にも寄与します。今の状況では“信頼”の方が、貨幣よりも価値があります」

ざわ、と小さな波が議場を走る。賛同の頷きもあれば、渋い表情もある。

「……さすがはアーク陛下の御子息だな」
誰かが小声でつぶやくのが聞こえた。ルシアは反応せず、次の議題に視線を移す。

会議が進む中、南方辺境の村からの報告書が読み上げられた。内容は一見すると些細なもの――家畜の減少、小麦の発芽不良、夜間に聞こえる不明な音。直接的な脅威ではないが、報告書の端に走り書きされた一文が、ルシアの心を引っかけた。

――森の奥で光が揺れた。あれは焚き火か、それとも……。

「この報告、詳細を確認できますか?」
ルシアが問いかけると、書記官が少し驚いたように顔を上げた。

「はい、殿下。ですが現地では特に被害や失踪は報告されておりませんので……」

「被害が出てからでは遅い。些細な兆しほど、早く対処すべきです」
その声には、父譲りの確信があった。重臣たちが再びざわつく。

「殿下、視察を検討されますか?」
「ええ。ただし公にはせず、調査隊として少人数で」

その提案に、宰相が頷く。

「承知しました。信頼できる人員を手配します」

会議はその後も続き、夕刻にようやく閉会した。廊下に出たルシアは、窓から差し込む斜陽を浴びながら、胸の奥に小さなざわめきを感じていた。

(……光。焚き火ならいい。でも、もし別の何かなら……)

秋の王都の風は心地よかったが、その奥底に冷たい予感が混じっていた。

王宮の西側、訓練場の端にある小さな中庭。夕暮れ時になると、ここには三兄妹が自然と集まることが多かった。

ルシアが歩み寄ると、すでにアレイドが腰掛けており、短剣の手入れをしていた。彼は気配を察して顔を上げ、片眉を上げる。

「おかえり。今日の会議、長かったな」
「長くなって当然だよ。南方から、ちょっと気になる報告があってね」

アレイドは短剣を置き、軽く身を乗り出す。
「また山賊? それとも魔物の類?」
「直接的な被害はない。ただ、森の奥で光が揺れたらしい。焚き火かもしれないけど……気配が妙なんだ」

その時、背後から明るい声が響いた。
「なんの話?」
アリアが木剣を肩に担ぎながら現れた。訓練帰りのせいか、額に汗が光っている。

「南方辺境の報告だよ」ルシアが説明すると、アリアは興味深そうに目を細めた。
「光……? 火かもしれないってこと?」
「可能性は高い。だけど、あの辺りは夜間に人が入らないはずだ」

アレイドが腕を組む。
「だから兄さんは視察に行くつもりってわけか。……俺も行く」
「いや、アレイドは王都で戦術本部の訓練があるだろ」
「ふん。何とでもなるさ。それに、兄さんひとりに任せたら心配だ」

その軽口に、ルシアは苦笑した。
「心配してくれるのはありがたいけど、調査隊は少人数で動く方がいい。今回は俺と、信頼できる数名で行くつもりだ」

アリアが木剣をくるりと回して肩に戻す。
「じゃあ、あたしはどうせ留守番ってことね」
「そうは言ってない。ただ、現地が安全と分かってからでも――」
「……そういうときほど危ないんだよ」アリアが小さくつぶやいた。

沈黙が落ちる。彼女の瞳には、父アークをも凌ぐ炎の気配が揺らいでいた。だがその強さは、まだ本人すら完全には制御できていない。

「……わかった。とにかく詳しい情報が入ったら、すぐに知らせる」
ルシアはそう言い、二人を順に見た。
「これは王国全体のことになるかもしれない。俺たちがそれぞれの場所で動くにしても、互いの背中は預け合えるようにしておこう」

アレイドが短く笑う。
「もちろん。兄弟ってのは、そういうもんだろ」
アリアも頷き、唇にかすかな笑みを浮かべた。
「じゃあ、あたしも準備しておく。何が来てもいいように」

その瞬間、遠くで城の鐘が鳴った。夜を告げる深い音が、王都の空に響き渡る。
三人はそれぞれの思惑を胸に、中庭を後にした。

――その夜、南方辺境の空に再び光が揺れた。
だが、それを見た者はまだ報告を上げていない。

 

2-2:それぞれの立場、それぞれの視線

翌朝、王宮の執務棟は早くから慌ただしかった。
南方辺境での「光の目撃」について、調査隊の編成が決まったのだ。隊長はルシア。副隊長は王国警備団の熟練士官が務めることになったが、実質的な指揮はルシアが握る。

執務室の長机の上には、南方地図が広げられていた。森の奥に小さく赤い印がつけられ、その周辺には既知の村落や旧道が描き込まれている。

「……ここが光のあった地点。周囲十リーグは人の往来がほとんどない」
ルシアが地図を指し示すと、横にいた士官がうなずく。
「森の地形は入り組んでおり、昼間でも暗い箇所が多い。夜間行動は推奨できません」
「だからこそ、昼に接近して、夜の気配を確かめる。無理はしない。ただ……もしも人為的なものなら、放置はできない」

そのやり取りを、部屋の隅からアレイドが腕を組んで聞いていた。
「ずいぶん慎重だな、兄さん」
ルシアはちらりと弟を見る。
「当たり前だ。辺境の不安定さは、王都とは別の意味で危険なんだ」
「わかってるさ。でも、あんたが慎重になればなるほど、俺は逆に行きたくなるんだよな」
口調は軽いが、アレイドの瞳は冗談ではないことを物語っていた。

ルシアは短くため息をつく。
「……お前の戦術眼は頼りになる。でも今回は――」
「どうせ『残れ』って言うんだろ?」
「――ああ。戦術本部での訓練は、今お前にしかできない役割がある。俺が辺境で動く間、王都の動きを抑えてくれ」
その言葉に、アレイドは一瞬だけ黙り込むと、苦笑を浮かべた。
「……やっぱ、兄さんは甘くないな」
「甘くできる状況じゃないからな」

その時、扉が勢いよく開いた。
「ルシア兄さん!」
アリアが駆け込んできた。息を切らせ、頬は紅潮している。
「聞いたよ! 南方に行くんでしょ? あたしも行く!」

「……落ち着け、アリア」
ルシアが低い声で制するが、彼女は引かない。
「だって“光”なんでしょ? もし火の魔力と関係があるなら、あたしがいたほうがいいに決まってる!」
「気持ちは分かる。でも、これは調査だ。戦闘が目的じゃない」
「だからこそ! 兄さんだって、危ないかもしれないって思ってるから調べるんじゃないの?」
アリアは真っ直ぐな目で兄を見つめる。

アレイドがその間に口を挟む。
「俺は留守番って言われたけど、アリアはどうするつもりだ?」
「行くに決まってる」
「ほらな兄さん、やっぱりこうなる」
ルシアはこめかみに手を当てた。

「……わかった。だが条件がある。途中までは護衛隊と行動し、現地の状況を確認してから判断する。それまで勝手な行動は一切しない。それが守れないなら、連れてはいけない」
アリアは一瞬ためらったが、やがて大きくうなずく。
「わかった。約束する」

そのやり取りを見ながら、アレイドはぼそりと呟いた。
「……結局、俺が王都を守る役回りか」
「悪いが、そういうことだ」
ルシアは弟の肩を軽く叩き、地図を畳んだ。
「お前がいれば、何か起きてもすぐに対応できる。それは俺にとって何よりの安心だ」

アレイドは皮肉めいた笑みを浮かべながらも、その目には誇りが宿っていた。

ルシアは執務室を出ると、その足で軍務棟の倉庫へ向かった。出発は明朝だが、今夜中に必要物資を確認しておく必要がある。
廊下の先、夕陽が窓を朱く染め、床石に長い影を落としていた。
(南方……父が昔、討伐に向かったときも、こんな光だっただろうか)
一瞬、記憶にないはずの映像が脳裏をかすめたが、すぐに振り払う。今は感傷よりも、確実な準備だ。

倉庫では副隊長となる士官が待っていた。
「兄上、こちらに遠征用の武具と保存食、そして医療箱を」
「ありがとう。……補給は三日分、現地の村落で追加できるだろうが、念のため五日に延長しよう」
「了解です」

無駄のない指示を出すルシアの姿は、もう完全に指揮官だった。

そのころアレイドは、王都警備本部の執務室にいた。
「南方への遠征で兵力が一時的に減ります。残された部隊はどう動くべきでしょう?」と副官が問う。
「南門と東門の監視を二倍に。あと、魔術通信の試験運用を本格稼働させろ。万一兄さんたちと連絡が途絶えても、他経路で繋げるように」
言葉は軽くとも、的確さは揺るがない。
「……やはり、アレイド殿が本部に残って正解ですな」副官が小声で漏らすと、アレイドは肩を竦めた。
「褒め言葉として受け取っとくよ」

一方、アリアは自室で荷物をまとめていた。
ベッドの上には軽装の防具、旅用の外套、そして小さな革袋――中には魔力を増幅するための結晶石が入っている。
ふと扉が開き、母ミカが入ってきた。
「……やっぱり、行くのね」
「うん。兄さんが心配だし、それに……もし“光”が魔力と関係あるなら、あたしの力が役に立つはず」
ミカは微笑んだが、その目には母としての複雑な色が浮かんでいた。
「アリア。忘れないで。あなたの力は、ただ強いだけじゃなく、人を守るためにあるのよ」
「わかってる。……だから、ちゃんと使う」
その答えに、ミカは静かにうなずき、娘の髪を撫でた。

夜。
出発前の三兄妹が、中庭の片隅に集まった。月明かりが石畳を淡く照らし、木々の間を涼しい風が抜けていく。
「兄さん、明日はいよいよだな」アレイドが口火を切る。
「お前は王都を頼む」ルシアが簡潔に応える。
「任せとけ。もし何かあったら、全力で抑える」
アリアは両手を腰に当てて言った。
「あたしは兄さんと一緒に行くけど、約束は守るから」
「……それが一番大事だ」ルシアは柔らかく笑う。

三人は一瞬黙り込み、互いの顔を見合った。
ルシアが右手を差し出す。
「――全員、生きて戻る。それが条件だ」
アレイドとアリアが順に手を重ねる。
「もちろん」
「うん、絶対」

短いが、確かな誓いだった。
その瞬間、三人の間に流れる空気が、どこか以前よりも凛として感じられた。

翌朝、東門を抜ける騎馬隊の先頭にはルシアとアリアの姿があった。
城壁の上から、その背をアレイドが静かに見送っていた。
(……さあ、こっちも準備万端にしないとな)
小さく息を吐き、踵を返す。その背は、王都を守る者としての覚悟に満ちていた。

 

2-3:南方への道、王都の影

秋の朝は、空気が張り詰めている。
東門を抜けた騎馬隊は、吐息の白を曳きながら南へと進んでいた。先頭にはルシア、すぐ後ろにアリア。そのさらに後方に護衛と物資を積んだ馬車が続く。

「兄さん、思ったより静かだね」
馬上でアリアが声をかける。
「まだ王都の近くだ。賊や魔獣は滅多に出ない」
「……でも、空気が違う気がする」
ルシアはちらりと妹を見た。その瞳は、遠くの山脈よりさらに奥を見透かすようだった。
「何か感じるのか」
「うーん……火の気配、かな。でも弱い。たぶん、もっと先」
「なら警戒を強めよう」
ルシアは後方の副官に手信号を送り、周囲の警備を強化させた。

一方その頃、王都の警備本部ではアレイドが地図の上に小さな駒を置いていた。
「……南方へ向かう兄さんたちの進行は予定通り。問題はこっちだな」
副官が首を傾げる。
「北東方面ですか?」
「ああ。昨日から商人の出入りが不自然に減ってる。しかも街道沿いの村で物資不足が出てるらしい」
「偶然では?」
「そう思いたいけどな……“同時”ってのが嫌なんだよ」
アレイドは軽口混じりの声を少し落とし、眉をひそめた。
「南と北東、両方に動きがあれば王都の対応は分散する。敵がいるなら、その隙を突くには十分だ」
副官は無言でうなずき、書簡を持って部屋を出ていった。

ルシアたちは昼前に小さな村に到着した。
村長が出迎え、暖かい茶を振る舞ってくれる。
「旅の方々、よくぞお越しくださいました。最近、このあたりは妙なことが多くて……」
ルシアが穏やかな口調で促す。
「妙なこと、とは?」
「夜になると、南の森で光が走るんです。稲妻のような、でも赤い光。しかも音がしない」
アリアが椅子から身を乗り出す。
「赤い光……炎、じゃないの?」
「炎なら、煙や熱があるはずですが、それが全くないんですよ」
ルシアは短く息を吸った。
「……道中は森を避け、迂回する。夜営も距離を取ろう」
「了解!」アリアは返事をしながらも、目の奥に興味の火を灯していた。

王都。
アレイドは王城の高台から市街を見下ろしていた。
(……風向きが変わってる)
遠くに見える市門の近くで、見慣れぬ荷車が二台、検問を通過していく。その動きはゆっくりだが、妙に周囲を気にしている。
隣に立つ警備隊長が呟く。
「商隊にしては荷が少ないな」
「隊長、あれは追わせてくれ。……もし空振りでも、確認する価値はある」
「承知」
命令が飛び、影のような追跡部隊が動き出した。

午後、ルシアたちは迂回路を進み、川辺で休憩を取っていた。
馬の水を飲ませ、簡易の昼食をとる。アリアは足を川に浸しながら空を見上げた。
「こういうの、嫌いじゃないな」
「遠征が?」ルシアが問い返す。
「うん。面倒なことも多いけど、景色が変わると気持ちも変わるし……それに兄さんと一緒だし」
ルシアは苦笑しつつ、妹の言葉に小さくうなずいた。
「俺もだ。ただ――今回は何か、普通じゃない気がする」
「だよね」
アリアは真剣な目で頷いた。
「じゃあ、あたしはその“普通じゃない”を、ちゃんと見つける」
「頼りにしてる」

そのやり取りの直後、森の奥から一瞬、赤い閃光が走った――。

森の奥で閃いた赤光は、まるで空気を震わせるように消えた。
「兄さん、今の見たよね!」
アリアは馬を跳ねさせ、鞍の上で身を乗り出す。
「ああ。全員、停止!」
ルシアの声に騎馬隊が止まる。
「副官、偵察を二組。森の入り口までだ、深入りはするな」
「はっ!」
命令を受けた騎兵たちが駆けていく。

アリアは歯を噛みしめていた。
「……私なら分かる。あの光、ただの自然現象じゃない」
「そう言うと思った」ルシアが苦笑する。
「でも焦るな。俺たちの目的は“現象の解明”じゃない。――まずは村人を守ることだ」
「わかってる。けど……胸が騒ぐの」
ルシアは妹の横顔を見つめ、ふっと息を吐いた。
「父上に似てるな。危険に向かってでも、真実を見極めようとする」
「えへへ……褒められてるんだよね?」
「半分はな」
そう答える兄の声に、アリアは思わず笑みをこぼした。だが瞳の奥は、決して笑ってはいなかった。

その夜。野営の焚き火が静かに揺れる。
偵察兵の報告は「異常なし」だったが、アリアは眠れずにいた。
焚き火の赤を見つめながら呟く。
「違う……もっと奥。もっと深いところに、何かがいる」
すると背後からルシアの声。
「――眠れないか」
「兄さんも?」
「指揮官は、眠りが浅くなるものさ」
焚き火越しに兄妹の視線が重なった。
「俺が守る。だから無理に追わなくていい」
「ううん、私も守る。だって……それが私の炎だから」
ルシアは一瞬言葉を失い、やがて小さく頷いた。
「……頼もしいな」

その同じ夜、王都ではアレイドが机に広げた地図を睨んでいた。
追跡隊が戻り、荷車の中から大量の武器が見つかったという報告が届いたのだ。
「やっぱり……外からの持ち込みか」
彼は書簡を取り、すぐに執務長官へ伝令を飛ばした。
副官が問う。
「殿下、これは南方での動きと関係が?」
「可能性は高い。もし敵が同時に仕掛けてきたら……王都と南方、二つの戦線を強いられる」
アレイドは声を潜めた。
「兄さんと妹がいる南方を“囮”にされるなんて、絶対に許さない」
その瞳は鋭く光っていた。軽口を叩く時の彼ではない、未来を先読みする戦術家の表情だった。

深夜。
森の奥で再び閃光が走った。今度は長く、まるで空に文字を刻むような赤い帯。
遠見の番兵が叫ぶ。
「ルシア殿下! 南の森に異常! 光が――」
報告が終わる前に、アリアは既に立ち上がっていた。
「兄さん、行かせて!」
「アリア!」
その声に妹は振り返る。
「約束したでしょ。“守る”って。私の炎はもう迷わない!」
ルシアは一拍置き、短く頷いた。
「……なら、俺も共に行こう。副官! 部隊は防衛線を築け。村には絶対手を出させるな!」
「はっ!」

二人の兄妹は、夜の森へと駆け出していった。
その背中を見送りながら兵たちはざわめいた。
「まるで……殿下方の炎と風が、並んで走っているようだ」
焚き火が大きくはぜ、空へと火の粉を散らした。

王都。アレイドは窓辺に立ち、南の空を見ていた。
「……兄さん、アリア。どうか無事で」
その願いの裏に、冷静な計算が潜んでいた。
「だがもしこれが仕組まれた同時攻撃なら……俺は、俺の場所で決着をつける」
胸の奥でひそやかに誓う。
――三人の兄妹が、それぞれの夜に、自分の道を選び始めていた。

 

2-4 森に灯るもの、王都に渦巻く策

南方の森は、夜の帳に深く包まれていた。
月明かりも届かぬ木々の間を、ルシアとアリアは松明を片手に駆けていく。
だが不思議なことに、松明の火はあまり役に立たなかった。森の奥から漏れる「赤光」が、周囲を異様な明るさで照らし出していたからだ。

「……やっぱり、ただの自然現象じゃない」
アリアが声を潜める。火を感じ取る者だけが知る震えが、彼女の胸を突き抜けていた。
兄ルシアは剣の柄に手を添え、慎重に辺りをうかがった。
「気を抜くな。俺たち二人きりだ。何が出ても対応できるように」
「うん。でも、ね……心臓が、すごく熱いの」
「……お前の“炎”が反応してるのか」
アリアは黙って頷く。

やがて木々が開け、小さな広場に出た。そこには地面を舐めるように赤い紋様が浮かび上がっていた。まるで誰かが炎で描いた巨大な陣。
「……魔法陣、だな」
ルシアが息を呑む。
アリアはじっと陣を見つめた。
「この紋様……どこかで……」
「知ってるのか?」
「ううん、知らない。でも、感じるの。“呼んでる”って」

その瞬間、陣の中央から火柱が立ち昇った。
二人は反射的に後ろへ跳ぶ。
「来るぞ!」
「ええ!」
炎の中から、影が形を成していく。獣か、人か、それとも――。
アリアの掌に小さな焔が宿る。
「兄さん……私、行くね」
「待て。まずは様子を――」
だが炎は意思を持つように彼女の方へ流れ込み、アリアの焔と共鳴するかのように揺らめいた。
「……ああ、そういうことか」
ルシアは苦く笑い、剣を抜く。
「もう止められないな。なら、俺も一緒に燃えるしかない」

一方その頃、王都の戦術本部。
アレイドは作戦図を前に立っていた。
報告を終えた斥候が退出すると、部屋には彼と数名の参謀だけが残る。
「南方で不審な光……。殿下、これはただの噂では済まないかと」
「分かってる」アレイドは顎に手を当てた。
「問題は、これが“偶然”か“必然”か、だ」
「必然、とは?」
「……南方で兄さんとアリアが動いているのを、敵が知らないはずがない。もし狙い撃ちなら、王都にも別の手が打たれているはずだ」

参謀たちは一瞬息を呑む。
「では、殿下のお考えは……?」
「俺たちは“ここ”を死守する。南方で何があろうと、王都を揺るがせば国は瓦解する」
その声音には、一切の迷いがなかった。

しかし、心の奥では別の声が囁いていた。
(兄さん……アリア……。危険に踏み込んでいるんだろうな。だが、信じるしかない。俺がすべきことは――)

「全軍に告ぐ!」
アレイドは高らかに言った。
「城門と主要街道の警備を二重に。荷車一台、旅人一人でも怪しければ徹底的に調べろ! 王都を、民を、何があっても守る!」
その姿は、父アークを思わせる堂々たるものだった。参謀たちも胸を張り、声を揃える。
「はっ!」

南方の森。
赤い炎から現れたのは、獣のような姿をした魔導の幻影だった。
「グォォォ……」
咆哮と同時に地面が震える。
ルシアが前に出て剣を構える。
「アリア! 下がれ!」
「嫌! 私も戦う!」
「駄目だ! お前の炎が奴に引き寄せられてる。……制御できなくなる!」
「でも、逃げない! ――兄さんだって分かってるでしょ。この炎は、壊すためじゃない!」
アリアの焔が大きく広がる。
ルシアは舌打ちし、だが次の瞬間には笑った。
「まったく……父上と母上にそっくりだな。分かった。――なら、並んで戦え!」
「うん!」

二人の兄妹が並び立つと、赤い陣の炎がさらに燃え上がった。
戦いの幕が、いま開こうとしていた。

赤い魔法陣の中心から生まれた獣の幻影は、二人を睨み据えると咆哮した。
その声は森を揺らし、鳥たちを一斉に飛び立たせる。

「行くぞ、アリア!」
「うん、兄さん!」

ルシアは剣を振り下ろし、光の斬撃で獣の爪を受け止める。その隙を狙って、アリアが両手を広げた。
瞬間、彼女の周囲に炎が花のように咲き乱れる。
「燃えろ……でも、壊さないで!」
祈るような言葉と共に、炎は獣を取り囲む壁となった。

「制御……できてるのか?」
ルシアが驚く。アリアは必死に汗を流しながらも、炎を一点に収束させていく。
「まだ……分からない。でもね、私の炎は、ただの破壊じゃない。“生きるもの”を守るための力だって……分かるの!」
その言葉にルシアは深く頷いた。
「なら信じる。――俺が切り拓く! お前は仕上げろ!」

剣と炎が交錯する。
ルシアの剣が幻影の足を断ち、アリアの炎がその裂け目に流れ込む。
轟音と共に獣は悲鳴を上げ、やがて赤光と共に霧散していった。

静寂。
二人は荒い息を整えながらも、互いに顔を見合わせて笑った。
「やったね、兄さん」
「ああ……けど、これは始まりにすぎない」
赤い魔法陣の残滓はまだ地面に揺らめき、何かを告げるように消えていった。

王都。
アレイドは夜更けの警備を見回っていた。
そのとき、城門の警備兵が慌ただしく駆け込んでくる。
「殿下! 荷馬車の一団が検問を突破しようと!」
「……やはり来たか」
アレイドは即座に走り出した。

城門前では数人の黒装束が兵士を押しのけて進もうとしていた。
「止まれ!」
アレイドの声が夜空に響く。
黒装束たちは一瞬怯むが、すぐに刃を抜いた。
「邪魔するなら……消えてもらう!」

「やれるものならやってみろ」
アレイドの瞳が鋭く光る。
次の瞬間、彼の動きは風のように速かった。
剣を抜くことすらせず、相手の動きを読み切り、拳と足さばきだけで二人を地面に叩き伏せる。
「嘘だろ……!」
「たった一人で……!」

残りの黒装束たちは恐怖に駆られ、荷馬車を捨てて逃げ出した。
アレイドは兵に命じる。
「追うな。荷馬車を調べろ」
幕を剥いだ瞬間、中から現れたのは――大量の火薬樽と見慣れぬ魔導器だった。

「……やはり。王都を揺るがすつもりだったか」
アレイドは低く息を吐いた。
「兄さんたちが森で戦ってる今、俺はここを守る。それが俺の役目だ」

南方の森と王都。
離れた二つの場所で、兄妹たちはそれぞれ戦いを終えようとしていた。

赤い光の余韻を見つめるルシアとアリア。
火薬樽を前に静かに剣を納めるアレイド。

三人の胸の奥に同じものが芽生えていた。
――これは試練だ。
――そして、この先には必ず「継承」が待っている。

森に残る赤い残光は、まるで彼らの未来を示すかのように、夜空へと溶けていった。

2-5:赤光の余韻、家族の眼差し

南方の森。
赤い光が消え去ったあとには、しんとした夜の静寂が広がっていた。
木々の枝にはまだ煤が残り、焦げた匂いが漂っている。

「……やっと、終わったのかな」
アリアが肩で息をしながらつぶやいた。髪の先が炎に焦げ、頬には煤の跡が残っている。

「いや、まだ“終わり”じゃない」
ルシアは剣を収めながらも周囲に目を配った。
「これは試験にすぎない。……けど、今日のお前の炎は、確かに変わってた」

「兄さん……」
アリアは目を瞬かせ、照れたように笑う。
「壊すだけじゃなくて、守るために燃やしたの、分かった?」

「ああ。前のままなら俺も止める必要があったかもしれない。でも――」
ルシアは真っ直ぐ妹を見つめる。
「今のお前なら、一緒に戦える。俺はそう思った」

その言葉にアリアの胸は熱くなった。
汗と涙が混じり、視界がにじむ。

「……ありがとう、兄さん。私、ちゃんと前に進めてるかな」
「進んでるさ。お前が炎を制御できるようになった。それは父さんや母さんに胸を張って言えることだ」

アリアは大きく息を吐き、夜空を仰いだ。
「うん。……帰ったら、絶対に報告する」

一方その頃。
王都の執務室。

アークは机に広げた地図を見つめていた。
報告役の兵が駆け込む。
「アーク様! 王都西門での騒動、アレイド殿下が制圧されました!」
「無事か」
「はい。敵を数名捕らえ、荷馬車に積まれていた火薬樽も押収しました」

報告を聞いたアークは静かに頷いた。
「そうか……。アレイドらしいな」
彼の表情は厳しさを崩さないが、その瞳の奥には小さな誇りが宿っていた。

そこへミカが入ってきた。
「アーク、顔が少し和らいでいるわね」
「……そう見えるか」
「ええ。あなたのことだから、本当は嬉しいんでしょう?」

アークはしばし沈黙し、やがて小さく息を吐いた。
「子どもたちが、自分の役割を果たし始めている。それを嬉しいと感じるのは……当然のことだ」

「でも同時に、心配もしているのでしょう?」
ミカの言葉に、アークは視線を落とした。
「そうだな。彼らが歩む道は、我々以上に険しいものになるだろう」

「それでも……選ばなければならないのね。自分たちの“焔”を」
「――ああ」

二人の間に沈黙が落ちる。
しかしその沈黙は不安ではなく、深い理解と覚悟に満ちたものだった。

再び森。
ルシアとアリアは森の小道を歩いていた。
月明かりが木々の隙間から差し込み、彼らの影を長く伸ばしている。

「兄さん……さっきの戦い、ちょっと怖かった」
「そうか?」
「うん。でもね、怖いのに動けた。昔の私ならきっと、怖さで暴走して……全部焼き尽くしてたと思う」

ルシアは少し微笑む。
「なら、やっぱり成長してる。……父さんが言ってた。“本当の強さは、恐怖を知ってもなお歩くことだ”って」

アリアはその言葉を反芻するように繰り返した。
「……恐怖を知っても、歩くこと」

彼女の瞳に、新しい光が宿り始めていた。

 

森を抜け、王都への帰路に着いたルシアとアリア。
街灯の火が見え始めたころ、後方から軽快な足音が近づいてきた。

「やっぱりこっちにいたか」
現れたのはアレイドだった。鎧に煤を付け、額にわずかな汗を残している。
「二人とも、無事でよかった」

「アレイド兄さん!」
アリアの顔がぱっと明るくなる。
「聞いたよ、西門の件。あれも兄さんが……」

「大げさに言うなよ。ちょっとした頭脳戦だ」
アレイドは肩をすくめたが、どこか誇らしげでもあった。
「でも、お前の炎も派手に目立ってたみたいだな。王都の空が一瞬だけ赤く染まったって、兵が騒いでたぞ」

アリアは顔を真っ赤にして両手を振る。
「ち、違うの! 暴走したんじゃなくて、ちゃんと制御して……!」

その慌てぶりに、ルシアとアレイドは同時に笑った。
「分かってるさ。……だから俺も安心した」
アレイドの声はいつになく柔らかかった。

「俺たち、少しずつだけど“変わってる”よな」
ルシアが呟いた。
「昔は三人で集まれば必ず喧嘩になってたのに、今は――」

「今は、お互いを見て笑える」
アリアが小さく言葉を継ぐ。

三人の影が月明かりに並び、少しずつ王都の城壁へと近づいていった。

その夜。王宮のバルコニー。
遠くの街の明かりを眺めながら、アークとミカは並んで立っていた。

「……あの子たち、今日は大きな一歩を踏み出したわね」
ミカが静かに言う。
「アリアの炎は、もう恐れるべきものじゃない。ルシアは仲間を導く力を見せ、アレイドは誰よりも冷静に場を収めた」

アークは腕を組み、夜空を見上げた。
「俺たちが若い頃には、あの年齢でそこまで出来はしなかった。……そう考えると、誇らしい反面、妙に心細くもある」

「親としての役目が終わりに近づいているから?」
「そうかもしれん。俺たちはもう導き手ではなくなる。だが――」

アークはミカの方に視線を移し、口調を少し緩めた。
「必要なら背中を押す。そういう存在でありたい」

ミカはふっと微笑んだ。
「あなたもやっと“父親の顔”をするようになったわね」

アークは小さく鼻を鳴らし、言葉を返さなかった。
だがその沈黙は否定ではなく、確かな肯定を含んでいた。

同じ夜。
三兄妹は城の中庭に腰を下ろし、それぞれの杯に葡萄水を注ぎ合っていた。

「なんか……今日のこと、夢みたいだな」
アリアが夜空を見上げながら言う。
「炎を出すたびに、誰かが傷つくんじゃないかってずっと怖かったのに。今は――違う」

「違うって?」ルシアが促す。
「怖いのは同じ。でも、その怖さごと受け止めて、燃やせた。……兄さんたちが一緒にいてくれたから、そう思えたんだ」

その言葉に、アレイドは目を細める。
「へえ。やっと素直になったじゃないか」

「う、うるさい!」
アリアは頬を膨らませたが、すぐに笑顔に戻る。
「でもね、本当にありがとう」

ルシアはゆっくりと杯を掲げた。
「俺たち三人、それぞれ違うけど――同じ焔を継いでる。今日、そのことを改めて感じた」

アレイドも杯を合わせる。
「継ぐべきものは一つじゃない。……けど、俺たちの血に流れてるものは確かだ」

アリアも杯を掲げ、三つの音が夜に重なった。
その響きは小さいが、確かな誓いの始まりを告げていた。

バルコニーの上から、その姿を見ていたアークとミカ。
「見て、アーク。三人とも笑っているわ」
「……ああ。あれが、俺たちが守ってきた未来だ」

ミカは寄り添いながら小さく呟いた。
「継承の時は近いわね」
「――ああ。どの焔が未来を照らすかは、もう俺たちが決めることじゃない」

二人の瞳に映るのは、笑い合う三つの影。
その姿はまるで、まだ小さかった日々の残像のようでもあり、これから訪れる大いなる未来の予兆のようでもあった。

 

第3章:それぞれの舞台、それぞれの試練

3-1:政務の檜舞台 ― ルシアの初陣

王都に秋風が吹き抜ける頃、ルシアはついに「その場」に立つことになった。
父アークに代わって、王宮の政務会議へ出席する。――まだ見習い、まだ若き第一王子に過ぎないはずだ。だが周囲の視線は容赦なく彼を「後継の影」と見なし、試すように注がれていた。

「……深呼吸をして、胸を張ればいい」
扉の前で足を止めたルシアの耳に、母ミカの声が思い出のように響く。

「お前ならできるさ。無理に父の真似をするな。お前にはお前の言葉がある」
それは父アークが昨夜、短く残した言葉。

重厚な扉が開かれる。議場の中には、地方領主たち、軍務卿、財務卿、そして老練な重臣たちがずらりと並んでいた。
息を呑む空気のなか、ルシアは一歩、また一歩と歩みを進め、父の代行として用意された席に腰を下ろす。

「……第一王子ルシア殿下、ご着席にあらせられる」
侍従が告げると、会議は始まった。

「さて、まずは北方領の収穫報告からだ」
農政卿が報告を読み上げ、議場に硬質な声が響く。数字と税率が飛び交い、現場の事情と王都の要求が衝突する。

「今年は天候不順で収穫が落ちました。それに兵糧の備蓄を優先せねば、領民が冬を越せません!」
「だが税を減免すれば王都の財源が枯れる!」
「均衡を保つためには、どこかが犠牲にならねばならぬ!」

声が高ぶり、互いに譲らぬ領主たち。
ルシアはしばらく黙っていた。若い自分が口を出しても、軽んじられるのは目に見えている。だが――その時。

「殿下は、どう思われますか?」
鋭い目をした老臣が、試すように問いかけた。

議場が一斉に静まる。
すべての視線がルシアに注がれた。

「……私が、ですか」
ルシアは一拍置き、ゆっくりと立ち上がった。心臓は高鳴っているが、不思議と怖さはなかった。

「北方の冬が厳しいのは、ここにいる誰もが知っています。収穫が少ないなら、領民に税を強いることはできません」

「しかし殿下、それでは王都が立ち行かぬ」
「財の流れを止めれば、兵の食も尽きますぞ!」

声が飛ぶ。
だがルシアは笑みを浮かべ、言葉を続けた。

「では、問います。――王都に暮らす人々と、北方の民と、どちらがより厳しい冬を迎えるでしょう?」

一瞬、議場が言葉を失った。

「王都は交易で補えます。温暖な地方から物資を引く道もある。しかし北方は雪に閉ざされる。王都の一部が倹約することで、千の命が救えるなら……それが“王国”の名にふさわしい形だと、私は思います」

ざわめきが広がる。若き王子の言葉に、老練な者たちが顔を見合わせた。

「……殿下、それは理想論に過ぎぬのでは」
別の重臣が低く言う。

「理想を語れぬなら、王家は要らない」
ルシアはきっぱりと答えた。

「現場の声を聞き、全体の均衡を守るのが政務です。けれど、均衡のために命を軽んじるのは、私は違うと思う。……父ならどうするか、母ならどう語るか、私は知っています。だから、私の口からも言いましょう。――王都が我慢を学ぶ時期なのです」

静寂が訪れた。

「……ふむ」
最初に笑ったのは、北方領の領主だった。

「若いが、確かに王の血を継ぐ者の言葉だ」
「殿下の意見に、私は賛同する」

数名の領主が頷き、空気が変わっていく。反対の声もあったが、次第に「試す場」から「聞く場」へと議場の空気が傾いていった。

ルシアは深く息を吐き、そっと腰を下ろした。
緊張の汗が背を伝っている。だが、胸の奥には確かな手応えがあった。

「……よくやったな」
小声で隣に座る書記官が囁いた。

「まだ始まったばかりです」
ルシアは微笑んで答える。
「けれど――きっとここから、もっと濃くなるのでしょう」

会議は進み、議題は財政から軍備、さらには外交へと移っていった。
硬直した空気のなかで、ルシアは耳を澄ませ、時折口を開いた。最初の発言で注がれた視線は依然として重い。だが、その重さを飲み込みながら、彼は思った。

(言葉一つで、人の心は動く。……父や母は、これを幾度となく繰り返してきたんだ)

「殿下、交易路の安全確保には軍の増派が不可欠です。だが、それでは他の防衛線が薄くなる」
軍務卿が渋い顔をする。

「戦力を分ければ、どちらも守れなくなる恐れがある」
「しかし放置すれば商人が逃げ、財政に穴があく!」

議場はまたも荒れ模様になった。
ルシアはしばらく考え込み、ふと口元をほころばせる。

「では……両方を守る方法を考えましょう」

「両方を? そんな都合のいい――」
誰かが鼻で笑った。

だがルシアは怯まず、落ち着いた声で続ける。

「王都に詰めている近衛や予備兵を、短期で交代させてはいかがでしょう。商路を守る部隊を交代制で派遣すれば、各地の防備も極端に薄くならずに済みます。商人たちにとっても“常に兵がいる”ことが安心につながるでしょう」

「……なるほど」
「一時的な出費はあるが、長期的には安定か」
「予備兵に実戦経験を積ませることもできる」

議場に肯定的な声が広がっていく。

その時、ルシアは何気なく笑って言った。

「それに……兵たちも、たまには王都を離れて風にあたったほうが、いい気分転換になるかもしれませんね」

一瞬、場に笑いがこぼれた。重苦しい空気が和らぎ、険しかった表情にほのかな緩みが生まれる。

「殿下……なかなかの采配でございますな」
「若いのに、よく人心を掴む」

重臣たちが口々に感想を漏らし、空気が変わっていく。
ルシアはその変化を敏感に感じ取りながら、内心で深く息を吐いた。

(……緊張はまだある。でも、言葉で場を変えられるなら……怖くはない)

会議が終わる頃、北方領の老領主がゆっくりと立ち上がり、ルシアに近づいてきた。

「殿下。初めての政務にしては、大したものだ。わしも長く生きておるが、あの若さで人の顔色を和らげられる者を、そうは見たことがない」

「ありがとうございます。ですが……私はまだ、父や母の足元にも及びません」
ルシアは頭を下げた。

老領主はにやりと笑い、肩を軽く叩いた。
「足元に及ぶ必要はない。殿下は殿下の歩幅で進めばよい。それがやがて――王国を動かす力となる」

その言葉に、ルシアははっとした。
父や母の背を追うのではなく、自分の言葉で人を導く。それこそが、自分に課せられた道――。

会議が終わり、廊下に出ると、待っていたのはアレイドだった。

「お疲れ、兄さん」
軽やかな口調で声をかけ、ルシアの肩に手を置く。

「見てたのか」
「もちろん。王都の戦術本部に行く前に、ちょっとだけ覗いてやろうと思ってさ」
アレイドは笑いながらも、少しだけ真剣な瞳をしていた。

「……堂々としてたよ。さすが兄さんだ」

ルシアは苦笑し、肩をすくめる。
「堂々としてたように見えたなら、成功かな。内心は、汗だくだったんだ」

「それでいいんだろ。怖さを抱えたままでも前に立てる。それが本物の胆力ってやつじゃない?」

その言葉に、ルシアは目を瞬き、それから小さく笑った。
「……ありがとう。アレイド」

遠くで鐘が鳴り、秋の空気が王宮に流れ込む。
ルシアは窓から見える空を仰いだ。
重責と不安、そして確かな希望。

(政務の道は、まだ始まったばかりだ。……けれど、今日の一歩を忘れなければ、きっと前に進める)

彼の胸に灯ったのは、父から受け継いだ“責任”と、母から受け継いだ“優しさ”の火。
そしてそれは、確かに未来へと繋がっていくものだった。

3-2:戦術本部の洗礼 ― アレイドの適応

王都の中心部、巨大な石造りの塔の一角に戦術本部はあった。王国全土の軍勢や防衛線を管轄する中枢。そこに並ぶのは歴戦の将軍、練達の魔術師、そして冷徹な書記官たち。
その場に初めて足を踏み入れたアレイドは、思わず口笛を吹きそうになるのをこらえた。

(……うわあ、空気が重い。兄さんの政務会議も張り詰めてたけど、こっちはもっとだな。戦場の匂いが充満してる)

革靴が石床を打つ音すら響くほどの沈黙のなか、彼は迷いなく歩を進めた。
彼の前で立ち止まったのは、白髪交じりの厳つい将校――参謀長ヴァルクだった。

「お前がアーク殿の次子、アレイド殿下か」
「はい。お世話になります」
アレイドは軽く会釈した。緊張を表に出さぬその態度に、ヴァルクはわずかに目を細める。

「初日から口を挟む気はあるか?」
「もちろん。……ただし、外すかもしれませんが」
にやりと笑うアレイドに、参謀たちがざわめいた。若造の無鉄砲か、それとも――。

すぐに会議は始まった。
机の上に広げられた地図には、北境からの侵入路と補給路が赤く線を引かれている。偵察兵が持ち帰った報告によれば、国境近くで魔物の活動が活発化しているという。

「補給線を守りつつ、村落を避難させねばならん。しかし兵力には限りがある」
「守りを厚くすれば進軍は遅れる。遅れれば、冬の凍結に間に合わん」

将官たちの声が飛び交う。
アレイドは椅子に腰を下ろしたまま、指先で机を軽く叩きながら聞いていた。

(……要は、守りたいものが多すぎて動けなくなってるってことか。補給線、村人、兵士の消耗……どこかで取捨選択しないと)

やがて、参謀の一人が苛立った声をあげた。
「殿下。ご意見を伺いたい。無論、戯言であれば即刻却下するが」

アレイドは微笑を浮かべ、立ち上がった。
「では、戯言にならないよう頑張りますね」

彼は地図に歩み寄り、指で赤線をなぞった。

「補給路を一本に絞ればいいと思います。安全な村落の道を選び、そこを重点的に守る。代わりに、他の補給線は思い切って捨てる」

「なに……?」
「そんな愚策があるか!」

すぐに反発の声があがる。
しかしアレイドは慌てず、さらりと続けた。

「ただし、捨てた補給線は完全に放棄するんじゃない。目立つ偽の補給物資を配置して“おとり”にするんです。敵や魔物がそちらに群がれば、本命の補給路は守りやすくなる」

「…………」
参謀たちが口をつぐむ。

アレイドは両手を広げ、軽い調子で言葉を繋いだ。
「全部を守るのは無理。でも全部を活かす方法なら、あるかもしれない。僕らがすべきは“守るか捨てるか”じゃなくて、“どう利用するか”じゃないでしょうか」

その瞬間、場の空気がわずかに変わった。誰もが否定しきれず、思案顔を浮かべる。

ヴァルク参謀長が口を開いた。
「……理屈は通っている。だが、偽補給の準備には余計な労力もかかる」

「ええ。でも、本命の補給が無事に届くなら、その労力は“安い買い物”ですよ」
アレイドは軽く肩をすくめる。

その姿に、ある参謀が苦笑を漏らした。
「若いが……柔らかい頭を持っておられる」
「いや、柔らかすぎて危ういところもあるぞ」

笑いと警戒が入り混じった空気。だが確かに、彼らの目はアレイドを“単なる新参”とは見ていなかった。

会議後、廊下でヴァルクが声をかけた。
「殿下、今日の進言は……悪くなかった」

「褒め言葉として受け取ります」
「だが覚えておけ。戦術は紙の上では成り立つが、実戦では常に崩れる。その時に立ち直れるかどうか――それが真価だ」

アレイドは真剣な顔で頷いた。
「はい。僕は失敗も全部、次に繋げるつもりですから」

参謀長はわずかに目を細め、その背を見送った。

その夜、アレイドは自室でひとり呟いた。
「……戦術本部の洗礼、ってやつか。兄さんが“人の心”で場を動かしたなら、僕は“柔軟さ”で突破するしかない」

窓の外に星が瞬く。
彼は胸の奥に、熱ではなく冷静な火種のような決意を抱いた。

(俺の役割は、万能であること。どんな状況でも対応し、失敗すら次に変える。それがきっと、兄さんやアリアを支える力になる)

彼の瞳は、迷いなく未来を見据えていた。

 

数日後。
アレイドは早速、小規模ながら重要な任務に組み込まれることになった。北境の森にて、補給路の一部を守りつつ、囮として配置した物資が正しく“餌”の役割を果たすかを確認する作戦である。

「殿下、現場指揮は副将のカムイが取ります。殿下には随行し、判断を補佐していただく」
「了解です。……僕が足手まといにならなければいいですけどね」
アレイドは軽口を叩くが、目の奥は真剣だった。

森の奥。
夜の冷気が漂う中、焚き火を消した野営地で緊張感が走る。
アレイドは双眼鏡を片手に、囮物資を置いた谷間を見下ろしていた。

「……来るな。魔物だ。狼型か?」
「数は十……いや十五。想定より多いぞ!」

斥候の報告に、兵士たちがざわめく。
副将カムイが即座に号令を飛ばした。
「迎撃部隊、囮の物資から敵を引き離せ! 殿下、いかがなされますか!」

カムイの視線がアレイドに突き刺さる。
まだ若い王子に指揮を仰ぐことなど本来は考えられない。だが、これは“戦術本部の洗礼”でもある。

アレイドはわずかに考え、口を開いた。
「囮物資はあえて守らなくていい。逆に“守りに来る”ように見せかけて兵を散らすんだ」

「どういう意味だ?」
「敵は、兵が必死に守ろうとする場所を“本命”だと考える。だから一部の兵だけが囮に駆け寄れば、敵はそこに集中する。その隙に別動隊で背後を突く」

兵士たちが息をのむ。
カムイは目を細めてから、短く命じた。
「……よし、試してみろ! 迎撃班、三人だけ囮を守れ! 残りは背後に回れ!」

やがて魔物の群れが谷間に雪崩れ込んできた。
数で劣る三人の兵士が懸命に防御姿勢を取ると、群れはまさしくそこに引き寄せられていった。

「――今だ!」
カムイの号令と同時に、背後から矢の雨が降る。
魔物たちは驚愕の咆哮を上げ、混乱に陥った。

アレイドは息を詰め、手の中の短剣を握った。
もし策が外れれば、自分も前に出る覚悟だった。
だが――結果は明白だった。

魔物の群れは二手から挟撃され、わずか十分も経たぬうちに森に屍をさらすこととなった。

戦闘後。
兵士たちが勝利の息をつきながらアレイドを振り返る。
その目には、尊敬と驚きが入り混じっていた。

「殿下、見事な読みでした」
「いや……あれは半分は賭けでしたよ。敵が“賢すぎなければ”うまくいくと思っただけです」
アレイドは苦笑しつつ肩をすくめた。

だが兵士のひとりが、真剣に言葉を返す。
「賭けを賭けのままで終わらせず、勝ちに変えたのは殿下の力です」

アレイドは目を伏せ、そしてわずかに笑った。
「……ありがとうございます。けど僕は、まだ兄さんやアリアには遠く及ばないですよ」

王都に戻った夜、戦術本部の会議室。
ヴァルク参謀長は作戦報告を聞き終えると、アレイドを真っ直ぐに見た。

「殿下。机上の空論は試練を経て現実となった。……だが忘れるな、次は必ずまた違う困難が来る」

「はい。だから僕は、何度でも柔らかく変わります。硬く折れるより、しなやかに曲がって、また立ち直る。僕の強みは、そこだと思いますから」

静かな言葉だったが、そこには確かな芯があった。
参謀長は思わず苦笑を浮かべた。
「まったく……万能というのは、時に最も厄介だな」

その夜、アレイドは自室の机に向かい、日誌を記した。

――戦術本部の洗礼を受けた。
――僕は突出した才能はない。けれど、どの場でも臆さず立つことができる。
――それが“僕らしい武器”なのだと思う。

ペンを置き、窓の外に目をやる。
遠くに見える王城の塔、そのさらに向こうには、兄ルシアも、妹アリアも、それぞれの戦いをしている。

「俺も負けないさ」
小さな声でつぶやいた。
それは誰に向けた言葉でもなく、自らへの誓いだった。

 

 

3-3:火と共にある者 ― アリアの治安演習

秋風が市街の路地をすり抜け、乾いた木の葉を転がしていく。
その街の一角に、王宮から派遣された治安部隊の演習陣が集結していた。武装は最小限、しかし一糸乱れぬ規律をもって整列している。その中に――赤い髪を揺らす少女の姿があった。

アリア。
彼女は今、若手育成部隊の一員として“市街治安演習”に臨もうとしていた。

「殿下。準備はよろしいですか」
隊長格の壮年の兵が問いかける。

「はい。……えっと、緊張してないって言えば嘘になるけど、大丈夫。炎は――裏切らないから」
アリアは小さく拳を握り、笑顔を返した。

その言葉に兵士たちがどこか安堵の表情を見せる。
まだ年若い王女が共に立つことで緊張が増すかと思いきや、むしろその“素直さ”が心を和らげていた。

演習の目的は、街に潜む模擬的な暴徒役を鎮圧すること。
だが単なる力任せの制圧ではない。市民を傷つけず、秩序を守りながら動くことが求められる。

「――つまり、火力で吹き飛ばすわけにはいかないってことね」
アリアは小さく呟いた。

彼女の火魔法は、いまや父をもしのぐ規模を見せることがある。
だが同時に、その力は常に“加減”と“制御”を求められる。
火は守りにもなれば、破壊にもなる。

それが今日の彼女に課せられた試練だった。

市街区の模擬演習開始を告げる鐘が鳴る。
兵士たちは散開し、アリアは前線に立った。

「暴徒が東の路地に出た! 十名ほど!」
「市民役が逃げ遅れているぞ!」

情報が飛び交う。
アリアは即座に走り出した。

「こっちは任せて! ……火の精霊よ、私の手を導いて!」

掌に宿した炎がふっと灯る。
しかしその輝きは戦場の焔ではなく、まるで灯火のように柔らかい。

アリアは火の弾を暴徒役の足元に落とし、土煙と熱気で彼らの動きを封じた。
決して焼かない。だが威圧するには十分だ。

「ひっ……!」
暴徒役の兵士たちは思わず後退する。

「市民役の人たち! こっちに!」
アリアは笑顔で手を差し伸べ、逃げ遅れた役の男女を誘導する。

作戦が進む中、彼女は仲間の兵士たちと合流した。
「殿下、すごい……あの火の使い方……」
「俺たちより冷静じゃないか」

「冷静っていうより……怖いんだよ」
アリアは照れくさそうに笑った。
「火を出すのって、怖い。でも怖いから、ちゃんと考える。そうしたら、きっと燃やさなくても済むんだって……」

兵士たちは目を見合わせ、彼女の言葉に重みを感じ取った。
炎を恐れず、しかし決して侮らない。
それは幼い少女が成長しつつある証だった。

市街地の模擬演習は、順調に進んでいるように見えた。
だが――突然の報告が走る。

「西の広場で騒乱発生! 暴徒役が予定外の動き! 市民役が取り囲まれている!」

予定外。
つまり“想定を超えた事態”だ。訓練であっても、臨機応変さを試すために仕組まれることがある。
兵士たちがざわついた。

「どうする!? 間に合わないぞ!」
「広場は狭い、下手に突っ込めば市民役を巻き込む!」

アリアは迷わず前へ出た。
「私が行きます!」

「殿下!? 危険です!」
「大丈夫! 火は……私が守るために使える!」

その言葉には確かな決意があった。

西の広場。
暴徒役の兵士たちが市民役を囲み、混乱に拍車をかけていた。
アリアは全力で駆けつけ、中央に飛び込む。

「みんな、下がって!」
地面に手をかざし、炎を走らせる。

ぱっと鮮やかな火線が描かれ、市民役と暴徒役の間に“赤い壁”が生まれた。
だが燃やすのではない。まるで守護の結界のように炎は立ち上がり、誰も越えられぬ境界を作った。

「……こんな使い方、できるんだ」
市民役の少女が震えながら見上げる。

「大丈夫。これは“守る炎”だから」
アリアはにっこり笑って答えた。

しかし暴徒役も黙ってはいない。
「火に怯むな! 突っ込め!」

一人が無理に突破しようとした瞬間、炎は形を変えた。
まるで生き物のように彼の足元を縛り、前へ進めなくする。
熱いが、焼かない。
怒りを和らげ、ただ“立ち止まらせる”力。

それは、以前のアリアなら決してできなかった制御だった。

「殿下、どうやって……!」
「怖がってるからだよ」
アリアは小さく呟いた。
「炎が暴れるのが怖い。だから……ちゃんと話しかける。『燃やさないで、守って』って。……それだけ」

周囲の兵士たちは言葉を失った。
それは単なる技術ではなく、炎との対話。
火を恐れ、そして愛する者だけができる業。

やがて状況は収束し、演習終了の合図が鳴る。
市民役たちは無事救出され、暴徒役も制圧された。

広場の片隅で、アリアは大きく息を吐いた。
「ふぅ……終わった……」

「殿下!」
駆け寄ってきた兵士が深々と頭を下げる。
「本当に……ありがとうございました。あの炎がなければ、きっと取り返しがつきませんでした」

アリアは少し照れたように笑う。
「私、昔は……火を出すと、全部壊しちゃうんだって思ってた。でも……違った。炎は、ちゃんと守ってくれる。……私が、そう願えば」

その声は幼い響きを残しながらも、どこか大人びていた。

夜。
演習を終え、王宮に戻る馬車の中でアリアは窓の外を眺めていた。
街の灯火が遠ざかり、夜空の星が輝く。

「……私、火と一緒に生きていくんだ」
ぽつりと独り言を落とす。
「壊すためじゃない。守るために……“火と共にある者”として」

その瞳は、もう迷いの色を宿してはいなかった。

 

3-4:兄妹を結ぶ炎の噂

アリアの治安演習から二日後。
王都には早くもその話が広まっていた。

「火の姫君、炎で市民を救う」
「壊すのではなく、守るための炎を使った」

兵士たちが噂し、市井の人々までもが語り合う。
王宮の廊下を歩く侍従や文官の耳にも、その言葉は何度も届いた。

政務棟の執務室。
ルシアは机に積まれた文書から顔を上げた。
窓辺で控えていた副官が、言いにくそうに口を開く。

「殿下……妹君の演習での活躍、王都で大きな評判になっております」

「そうか……」
ルシアは小さく息を吐き、微笑を浮かべる。
「噂は早いな。まあ、あの子にとっては何よりの証明だ」

副官は少し驚いた顔をした。
「叱責されるのではなく……お喜びになるのですか?」

「もちろんだよ。……アリアはずっと、自分の炎に怯えてきた。だが今は違う。あの炎を“誰かを守るため”に使えるようになった。兄として、嬉しくないはずがない」

穏やかな声音だったが、その瞳には強い光が宿っていた。
副官は思わず背筋を伸ばした。

その夜。
戦術本部の食堂で、アレイドは仲間と夕食を取っていた。
いつもは冗談混じりで場を盛り上げる彼が、その日は珍しく真剣な顔をしていた。

「なあ、聞いたか? アリア殿下の演習の話」
「おうよ。炎で市民役を囲ったってやつだろ? 守りの炎なんて、前代未聞だぜ」

仲間たちが口々に語る。
アレイドは少し間を置いてから、ふっと笑った。

「……さすがだな。あいつらしい」

「誇らしいだろ? 妹君だし」
「いや、誇らしいってより……負けてられないって感じかな」

軽く肩をすくめるが、目は笑っていなかった。
内に燃える競争心を抑えきれない。

――ルシア兄さんは政務で頭角を現し、アリアは炎を制御し始めた。
なら、自分はどうだ?
戦術本部で通用するのか? 本当に、この兄妹の中で立っていられるのか?

食器の音や仲間の笑い声が遠のいていく。
アレイドは胸の奥で、自分自身への問いと向き合っていた。

同じ頃。
アリアは自室の窓辺に座り、街の灯を眺めていた。
兄たちの噂を耳にしたことはなかったが――なぜか、胸が温かくなる。

「兄さんたちも、きっと頑張ってるんだろうな……」

ぽつりと呟いた声が夜空に溶けていく。
炎を灯す指先を胸の前にかざす。
小さな火は揺れ、彼女の瞳に映る。

「私も……もっと強くならなきゃ」

その夜は、不思議な夢を見た。
兄二人と並んで歩く夢。
だが道は三つに分かれ、それぞれ違う方向へ続いていた。
振り返れば、互いの姿は見えなくなる――それでも。

夢の中でアリアは、笑って手を振った。

翌朝、王宮の広間には小さな熱気が漂っていた。
アリアは訓練用の軽装に身を包み、廊下を歩きながら、先日の演習を思い返していた。
自分の炎が、初めて「守るため」に働いたこと――その瞬間の手応えが、まだ手に残っているように感じられた。

「ふぅ……本当に、あの時は怖かったけど……」
小さく息を吐き、拳を握る。
胸の奥で、炎が小さくも力強く揺れる。

廊下の角を曲がると、ちょうどルシアが待っていた。
「おはよう、アリア」
長兄であるルシアの声は、穏やかだが芯のある響き。

「おはよう、兄さん」
アリアは少し照れくさそうに頭を下げた。

「昨日の話は聞いたぞ。守る炎……悪くなかったな」
ルシアは軽く微笑む。
「お前らしいというか……強くなったのが、こうして伝わってくる」

アリアの頬が熱くなる。
嬉しさと同時に、胸の奥で小さな緊張が芽生えた。
「ありがとう……兄さん。でも、まだまだなの。私……もっと、上手くなりたい」

ルシアは頷く。
「その意欲は、忘れずに持ち続けろ。お前の炎は、誰かを守るために燃えるものだ。それを心に置いていれば……」
そう言って、視線を遠くの庭へ向ける。
「きっと、どんな未来でも役立つ」

その直後、戦術本部からの通信が届く。
アレイドの声だ。
「妹、手を抜くなよ。俺も昨日の話は耳にした。面白そうだが、俺も負けてられないな」

アリアは思わず笑う。
「兄さん……そういう軽口、心配になっちゃうじゃない」
でも心の中では、少しだけ頼もしさを感じていた。

「まあ、心配してくれるなら……許してやる」
そう答えると、アレイドの笑い声が通信越しに響く。
互いに言葉少なでも、確かに通じ合った。

午後。演習の余波で市民役の子供たちが王宮周辺での簡単な体験学習に訪れていた。
アリアはその補助として、炎を使わず手際よく案内役を務める。
小さな手を取り、注意を促しながらも、以前のような焦燥感はない。

「ほら、ここは滑りやすいから気をつけてね」
子供たちが安全に通れるように目を光らせるアリア。
兄や姉の言葉を思い出しながら、自分の炎の力を制御するために身につけた慎重さを実感する。

ふと、子供たちの一人がつまずきかけた瞬間、アリアは瞬時に手を伸ばし抱きかかえる。
「大丈夫、怖くないよ」
その一瞬で、炎の力ではなく、自分の手で守ることの大切さを噛み締めた。

遠くで見守っていたルシアとアレイドも、その動作に気づく。
ルシアは小さく息を呑み、アレイドは軽く笑いながら頷いた。

「……妹、やるな」
アレイドの言葉に、ルシアも頷く。
「ええ。本当に、あの炎を心から“守る力”として使えるようになったわね」

夕刻。王宮のバルコニーで三人が並ぶ。
夕陽が街を染め、炎のように赤く輝く。
互いに言葉は少なかったが、目が語る。

アリアは胸の前で小さく炎を灯す。
「……私の炎、兄さんたちにも見えるかな」
ルシアは微笑み、アレイドは軽く手を挙げて答える。

その瞬間、三人の間に静かな絆が生まれる。
競い合い、支え合い、それぞれの道を歩むための力がここに確かにあることを、互いに感じ取った。

そして、夜の王都の空に星が瞬く頃。
アリアは心の中で誓う。

「私の炎は、これからも迷わない。誰かを守るために――燃えるんだ」

その言葉は風に溶け、兄妹の胸に優しく届く。
継承の兆しは、すでにここにあった。

3-5:兄妹の夜明けと継承の影

東の空がまだ群青の気配を残している黎明の時。
王宮の高台からは街がゆっくりと目を覚ましていく様子が見える。石畳の道を渡る風は冷たく、しかしどこか新しい息吹を含んでいた。

ルシアは、まだ眠りの名残を抱えた王宮の廊下を歩いていた。
政務の初陣を果たして以来、彼の瞳には以前よりも強い光が宿っている。民を思い、国を支えるという責任の重みが、確かにその肩に乗っていた。

広間に出ると、そこにはすでにアレイドが待っていた。
彼は簡素な訓練服姿で、背伸びをしていた。
「お、兄さん。やっぱり早いな」
軽口を叩く声には、どこか緊張を紛らわせようとする響きが混じっている。

ルシアは口元をわずかに緩めて答える。
「お前こそ、珍しいな。夜明け前にここに来るなんて」
「はは、まあな。昨日の戦術本部で、少し思うところがあってさ。俺だって……兄妹に遅れを取るわけにはいかない」

二人のやり取りの最中、足音が近づいてきた。
アリアだった。寝癖を結わえ直したばかりの髪を揺らしながら、軽装の外套を羽織っている。

「……やっぱり、二人とも起きてたのね」
アリアは小さく笑いながら近づいてきた。
「私だけが寝坊したら、ちょっと悔しいところだった」

「妹が一番に来ると思ったんだけどな」
アレイドが肩をすくめると、アリアは頬をふくらませて睨んだ。
「なによそれ! ……でも、うん、ちょっと寝坊しかけた」
言い終えて自分でも笑い出す。

三人は自然と窓際に並び、東の空を眺めた。
まだ淡い光しか届いていないが、夜が確かに退き、朝が押し寄せてくる。

ルシアがぽつりと呟く。
「……こうして三人で夜明けを迎えるのは、久しぶりだな」
「そうだね」
アリアが応じる。
「でも、前と違って……もう私たちは、ただ遊ぶだけの兄妹じゃない」

その言葉に、アレイドも笑う。
「妙に大人びたこと言うな。まあ、確かにそうだ。俺たち、それぞれに居場所があって、役目がある」
軽い調子ながらも、その声音には真剣さがにじむ。

ルシアは深く息を吸い込み、視線を街へと向けた。
「俺は政務に出た。国の仕組みを整え、民を守る責任を背負った。……父や母がやってきたことの重みを、少しずつ理解してきている」

アレイドが目を細める。
「そうか。兄さんはもう完全に“未来の王”って感じだな」
「からかうな」
ルシアは苦笑する。
「だが、お前もだろう。戦術本部に入ったと聞いた。どうだ、洗礼は」

「まあ……キツいな。でも、面白い」
アレイドは腕を組み、少し視線を宙に漂わせる。
「先を読むこと、駒をどう動かすか。俺の性に合ってる。でも同時に、失敗すれば誰かが傷つく。――その重みを、毎日噛み締めてる」

ルシアが静かに頷く。
「それを口にできるだけでも、お前は十分に適応してるさ」

アリアは二人のやり取りを聞きながら、自分の胸に手を当てた。
「……私は、まだ演習や訓練ばかり。でも、昨日……子供を守れた。あの瞬間、自分の炎がやっと意味を持った気がしたの」
言葉を選ぶように、ゆっくり吐き出す。
「守るために燃える。――それを、私は忘れたくない」

ルシアはアリアに向けて柔らかく微笑んだ。
「忘れるな。それが、お前の強さだ」

アレイドも口を挟む。
「そうそう。俺と兄さんは頭で考えることが多いけど……お前の炎は、もっと真っ直ぐでいい」

「真っ直ぐ、か……」
アリアは小さく笑い、窓の外へ視線を投げる。
朝日が少しずつ地平を染め始めていた。

その光の中で、三人はしばらく無言のまま立ち尽くした。
言葉はいらなかった。ただそれぞれの背負うものが違っても、心は繋がっている――そんな確信があった。

空がようやく朱に染まり、王都を包む光が石畳を黄金色に照らし出した。
街が動き始め、兵士の号令、商人の声、子供たちの笑い声が、夜の静寂を押しのけるように広がっていく。

三人はしばし無言でその景色を眺めていた。
最初に口を開いたのはルシアだった。

「……父上も母上も、きっと同じ景色を見てきたんだろうな」

アリアが顔を向ける。
「同じ景色?」

「夜明けだ。――国の始まりを象徴する景色。父上は戦いの最中にも、母上は政務の合間にも、きっと何度もこれを見ていた。未来を思い描きながら」

その声には、わずかな緊張と決意が混じっていた。
アレイドは口元を歪めて笑う。
「なるほど。つまり、俺たちも同じ立場に近づきつつある、ってことか」

「……そうね」
アリアが頷く。
「私たちが見ているのは、もう子供の頃の“朝焼けのきれいさ”じゃない。未来のための……はじまり」

その瞬間、三人の間に静かな沈黙が落ちた。
誰もが気づいていた。――この先、三人のうちの誰かが「継承」を背負うのだと。

アレイドがわざと軽い調子で言う。
「まあ、俺たちの中で一番“王らしい”のは兄さんだな。堅実だし、民に慕われるタイプだ」

「おい……」
ルシアは苦笑した。
「それはお前の冗談か、本心か」

「半分冗談、半分本心」
アレイドは肩をすくめる。
「でもさ、俺は別に王にならなくてもいい。戦術でも研究でも、やれることはあるから」

その言葉にアリアが首をかしげる。
「じゃあ……私?」

「違う。お前は……炎だ」
アレイドは真剣な眼差しで妹を見る。
「燃え盛って道を切り開く。でも、その火が誰かを導く灯火にもなる。……お前は戦乱の時代なら、誰よりも頼もしいだろうな」

アリアは一瞬言葉を失った。
自分の中の炎がどう見られているのか――改めて胸に響いた。

「……じゃあ、私は今はまだ“灯火”でいればいいのね」
小さな声で呟き、そして笑う。
「でも、それなら胸を張れるわ。兄さんたちの隣で燃える光として」

ルシアは二人を見つめ、深く頷いた。
「継承が誰になるかなんて、今は決めることじゃない。……大事なのは、それぞれが力を伸ばし、未来を支え合えるかどうかだ」

アレイドが拳を軽く突き出した。
「じゃあ、約束しよう。誰が継ごうと――俺たちは互いを支える。背を預けられる兄妹でいよう」

アリアがにっと笑って拳を合わせる。
「いいわね。それなら安心して燃えられる」

最後にルシアが、自分の拳を重ねた。
「約束だ。俺たちは、三人で一つの未来を築く」

その瞬間、東の空からまばゆい陽光が差し込み、三人を包み込んだ。
その光は祝福のようでもあり、これから試練を告げる予兆のようでもあった。

――兄妹の夜明けは、同時に継承の影を孕んでいた。
彼らはまだ知らない。
やがて訪れる決断の時に、この約束がどれほどの意味を持つのかを。

第4章 日常の静謐と揺らぎ

4-1:穏やかな朝 ― 王宮の庭にて

季節は秋へと深まり、王宮の庭園には金色の朝日が柔らかく差し込んでいた。白い石畳に落ちる木々の影は涼しげで、夏の熱気を払いのけるように澄んだ風が吹き抜けていく。
六か月に及ぶ訓練や演習を経て、それぞれの持ち場を担い始めた兄妹たちは、久しぶりに同じ時間を共にすることになっていた。

「……ここに集まるのも、なんだか懐かしいね」
最初に口を開いたのはルシアだった。深い紺色の上衣に金の飾緒を結んだ姿は、もう以前の無邪気な少年の面影よりも「政務を担う若者」の影が濃くなっている。けれど、口調はまだ優しく、庭園に差し込む光のように穏やかだ。

「懐かしいって……ついこの間まで、毎日のように顔を合わせてただろ?」
アレイドが軽口を叩きながら、石のベンチに腰を下ろした。次兄である彼は、いつものように少し気の抜けた笑みを浮かべている。だが戦術本部に通うようになってから、その眼差しには以前よりも鋭さが宿るようになっていた。

「……私は、やっぱり久しぶりって思うな」
アリアが小さく呟いた。赤い髪を風になびかせながら、彼女は兄たちの隣に立つ。制服の袖口から覗く腕には、訓練でついた小さな傷跡が残っていた。彼女の炎はますます強くなっていたが、それを誇示することはなくなった。ただ、そこに立っているだけで周囲の空気を変えるほどの存在感を帯びている。

――幼いころ、三人でよく遊んだ庭。
鬼ごっこをしたり、ミカに叱られたり、アークの剣の真似事をして転んだり。
それらの思い出が、秋風に乗ってふと蘇る。

「ふふ、思い出すね。あのとき、アリアが噴水の中に落っこちたこと」
ルシアが目を細めて笑うと、アリアは「やめてよ!」と慌てて声を上げた。

「兄さん、それ今言わなくてもいいじゃない! 子供の頃の話でしょ!」
「子供の頃って言っても、三年前くらいだよな。俺は今でも鮮明に覚えてるぞ」
アレイドがニヤリと笑い、わざとからかうように言葉を継ぐ。
「『きゃー冷たい! お魚が一緒に泳いでるー!』って叫んでたアリアの顔、最高だった」

「だからやめろってば!」
アリアは頬を膨らませて兄たちを睨んだが、すぐに苦笑に変わる。
「……ほんと、二人とも昔から変わらないよね」

「変わった部分もあるさ」
ルシアが少し真面目な声音で返す。
「俺は政務の場に出るようになって、民の声を直接聞くことも増えた。……重さを知ったよ」

「俺も。本部の連中は曲者ばっかりだしな。数字や理屈で戦を語るやつ、現場を知らないやつ、逆に血気盛んなやつ。調整役が必要って痛感してる」
アレイドの口調には、軽さと同時に確かな自負が混ざっていた。

「私も……」
アリアが胸に手を当て、少し言葉を選ぶように続ける。
「治安演習で、子供たちを守った。あのとき、自分の炎が怖がられるんじゃなくて、感謝されて……。なんだか不思議だった」

三人はしばし黙り込んだ。
それぞれが歩み始めた道は違う。だが今、同じ庭に立ち、同じ空気を吸い、同じ時間を過ごしている。
その事実が、言葉以上の力で三人を結び付けていた。

「……なんか、前よりずっと“大人”になった気がするな」
アレイドがぽつりと呟いた。
「俺たち、こんなふうに真面目に将来のこと話す日が来るなんて思ってなかった」

「そうだね」
ルシアが小さく頷く。
「でも、大人になるってことは、同時に責任を背負うってことだ。……まだ怖いよ」

「兄さんが怖いなんて言うなんて、ちょっと意外」
アリアが目を丸くして見つめる。

「怖くないわけないだろ」
ルシアは苦笑する。
「民の笑顔も、訴えも、全部を抱えて未来を選ばなきゃならない。……その重さに、押し潰されそうになることだってある」

「でも兄さんは、ちゃんとやれるよ」
アリアが真っ直ぐに言葉を返す。その瞳には、炎のような確信が宿っていた。
「私が言うんだから間違いない。だって兄さん、ずっと優しいもの」

「……それ、兄さんや俺が言うより説得力あるな」
アレイドが苦笑混じりに口を挟む。

「うるさい!」
アリアは頬を膨らませるが、すぐにまた笑顔に戻った。

そのやりとりに、秋風がそっと揺れる。
三人の心に去来しているのは――確かに成長の手応えと、これから訪れる未知の試練への予感だった。

「……ねえ」
ふと、アリアが空を見上げながら口を開いた。
「こんなふうに三人で集まれるのって、これからどんどん少なくなっていくのかな」

「かもな」
アレイドが頷く。
「俺たち、それぞれの場所で役割を担うようになった。いつでも顔を合わせられるわけじゃない」

「でも……」ルシアが言葉を継いだ。
「会えなくても、繋がりはなくならない。そうだろ?」

「……うん」
アリアが少し安心したように笑う。
「兄さんがそう言うなら、そうなんだろうね」

彼女の声はどこか幼さを残していたが、瞳の奥には確かな決意が宿っていた。

「それにさ」アレイドが片眉を上げて笑う。
「もし俺たちの誰かが迷ったら、残りの二人が引っ張ればいい。……そういう役割分担ってのも悪くないだろ?」

「引っ張る、か。アレイド、お前が言うと妙に軽く聞こえるな」
ルシアが苦笑すると、アレイドは肩をすくめた。

「実際、俺は軽くやるさ。そのほうがいい時もある」

「……そういうところ、羨ましい」
ルシアが小さく呟いた。

「俺もだよ」
アリアが真剣な顔で言う。
「私、いつも力を出すときに全力で、全部を燃やしてしまいそうになる。兄さんみたいに落ち着けなくて、アレイドみたいに器用でもなくて……。でも、だからこそ守れるものもあるのかな」

「そうだ」
ルシアが即座に答える。
「アリア、お前の炎は人を救うためにある。……それを忘れなければ大丈夫だ」

「……うん」
アリアは拳を握りしめ、こくりと頷いた。

そのやりとりを見ながら、アレイドはふと視線を遠くへ投げた。王宮の城壁の向こうに広がる街、そこに息づく数え切れないほどの人々。
「……俺たちが背負ってるものって、でかいよな」

「え?」アリアが首を傾げる。
「今さら?」

「いや、改めて思っただけさ」
アレイドは苦笑する。
「政務で民を導くルシア。炎で守ろうとするアリア。俺はその間で調整したり、戦術を考えたり。……三人それぞれが違う役目を持ってる」

「まるで、一つの体の“心臓”“頭脳”“腕”って感じだな」
ルシアが静かに言った。

「それなら、私は腕だね!」
アリアが胸を張って答える。

「おいおい、暴れる腕ってやつか?」
アレイドが茶化すと、アリアはまた頬を膨らませる。

「暴れない! ……守るための腕!」

「はいはい、わかってる」
アレイドが笑って受け流す。その緩やかな空気に、ルシアも思わず笑みを漏らした。

――そうして三人の会話は、次第に未来の話へと向かっていった。

「兄さんは、これからどうしたい?」
アリアが不意に尋ねる。

「俺か?」
ルシアは少し考え、真剣な眼差しを二人に向ける。
「……民の声を聞き続けたい。どんなに忙しくても、どんな立場になっても。それが俺の役目だと思う」

「アレイドは?」

「俺は……そうだな」
アレイドは少し笑ってから、真顔に戻った。
「先の戦を未然に防ぐこと。犠牲を減らすこと。……戦術本部にいるのはそのためだ。俺は剣よりも、頭で戦う」

「ふふ、らしいね」
ルシアが頷いた。

「アリアは?」
今度はアレイドが問いかける。

「私は……」
アリアは炎色の瞳を揺らしながら答える。
「強くなりたい。怖がられるんじゃなく、信じてもらえるくらいに。私の力を、誰かを救うものにしたい」

「……それでいい」
ルシアが優しく言う。
「三人とも違うけど、同じ方向を見てる。……きっとそれで十分だ」

朝の光はさらに強く差し込み、三人の姿を照らしていた。
庭園に響く笑い声と誓いのような言葉。
それは確かに「日常」の一幕であったが――その奥には、これから訪れる試練と「継承」の影が静かに忍び寄っていることを、三人はまだ知らなかった。

 

4-2:兄と妹たち ― 家族の夕餉

その日の夕暮れ、王宮の大食堂には、久しぶりに家族全員の姿がそろっていた。
長い演習と政務、訓練に追われていた兄妹三人が、父アークと母ミカと同じ食卓につくのは、数ヶ月ぶりのことだった。

広間に灯された燭台の光が黄金色に揺れ、豪奢でありながらもどこか家庭的な温もりを漂わせている。
食卓の中央には、香ばしい焼き肉や香草の効いたスープ、山盛りの野菜料理が並び、家族を迎えるように湯気を立てていた。

「こんなに静かに食卓に座れるのも、しばらくぶりね」
ミカが微笑みながら口を開いた。
「あなたたちが揃うと、なんだか空気がにぎやかになるわ」

「そりゃあ、俺とアリアがいれば自然と騒がしくなるからな」
アレイドが笑いながら言うと、すかさずアリアが頬を膨らませる。

「ちょっと! 私だって静かな時はあるもん!」

「へえ? いつ?」
アレイドが肩をすくめて挑発すると、アリアは勢いよく指を突きつけた。

「寝てる時!」

その答えに、思わず食卓全員が吹き出した。
「それは静かというより、意識がないだけだな」
ルシアが笑いを堪えきれずに言うと、アリアは「むーっ!」とさらに膨れてしまう。

「……相変わらずだな」
父アークが愉快そうに言葉を挟んだ。
「だが、それでいい。笑い声がある食卓ほど、国にとって幸せなものはない」

その声音は穏やかであったが、どこか遠くを見ているような深みがあった。
アリアはその言葉を聞いて、少しだけ表情を和らげる。

「父さん、そう言ってくれるのは嬉しいけど……本当に、そんなふうに思ってる?」

「もちろんだ」
アークは頷き、杯を掲げる。
「国は剣や政で守られるだけではない。家族のような温もりを保てるかどうか……そこに未来が懸かっている」

その言葉に、兄妹三人は一瞬だけ黙り込んだ。
ルシアは真剣な眼差しを向け、アレイドは静かに考えるように視線を落とし、アリアは唇を噛んだ。

――未来。
その一言が、確かに彼らの胸に響いていた。

「ほら、そんなに堅くならなくてもいいのよ」
ミカがやさしい声で空気を和ませる。
「今日くらいは、訓練や政務の話を忘れて、家族として過ごしましょう?」

「そうだね」
ルシアが微笑んだ。
「こうして父さんと母さんと食卓を囲むと、幼い頃のことを思い出すよ」

「幼い頃って……ルシア兄さん、まだ俺たちに比べれば十分若いだろ」
アレイドが笑いながら茶化すと、ルシアは苦笑で返した。

「若いけど、それでも昔のことを思い出すんだよ。庭で遊んだこととか、母さんに叱られたこととか」

「叱られたっていうと、アリアが一番多かったんじゃない?」
アレイドが横目で妹を見ると、アリアは「えっ?」と目を丸くしてから慌てて抗議した。

「な、なんで私!? アレイドだってよくやらかしてたでしょ!」

「俺は要領がいいからな。叱られる前に逃げる」

「ずるいっ!」
アリアが憤慨する姿に、またもや笑いが広がる。

ミカはそのやり取りを見つめながら、目を細めた。
「……あなたたち、本当に仲がいいわね」

「まあな」
アレイドが肩をすくめて笑う。
「喧嘩もするけど、結局こうして同じ食卓に戻ってくる。……そういうの、悪くない」

「そうね。悪くないわ」
ミカの声は穏やかで、どこか寂しげでもあった。
その表情を見て、アークはそっと彼女の手を握った。

「……時が流れているんだ」
アークが静かに口を開く。
「子どもたちは成長し、それぞれの道を歩き始めている。いずれ、この食卓も“いつも通り”ではなくなるだろう」

その言葉に、兄妹三人の胸にふっと影が落ちる。
彼らは笑い合っていた手を止め、未来の気配を改めて意識した。

「でも」
アークは続けた。
「どんなに離れていても、家族の絆は変わらない。――それを忘れなければ、きっと乗り越えられる」

その響きは、まるで宣誓のように力強かった。
三人の心に、確かな灯がともるのを感じた。

「父さん」
ルシアが静かに口を開いた。
「俺たちは……いずれ国を背負うことになる。その時、家族の絆を忘れないことが一番大切だと、今の言葉で改めて感じたよ」

「そうだな」
アレイドが頷く。
「けど同時に、俺たち自身がその絆を試されることになるんだろうな。どんな状況でも、互いを信じきれるか……」

「信じるよ」
アリアが強い口調で言った。
「私は、兄さんたちを絶対に裏切らない。……例え火の中でも」

「火はお前の専門だろ」
アレイドが笑い、アリアが「そこ!? そこ突っ込む!?」と叫ぶ。
再び食卓に笑いが広がるが、笑いの奥にそれぞれの胸中の重みが残っていた。

「……アリア」
ルシアが穏やかに口を挟んだ。
「その強さは誇っていい。ただ、時に自分を縛ることもある。だからこそ、支え合うんだ」

「兄さん……」
アリアは視線を落とし、少し照れくさそうに呟いた。
「……わかった」

「いい兄だな、ルシアは」
アークが感慨深げに笑った。
「アレイドはどうだ? お前は二人をどう見ている」

「ん?」
アレイドはパンをちぎりながら軽く肩を竦めた。
「二人とも真面目すぎて、見てるとこっちが疲れるくらいだ。だから俺は、ちょっと緩いくらいで丁度いい。……まあ、そのぶん損な役回りも引き受けることになるんだろうけど」

「損な役回り?」
アリアが首をかしげる。

「ほら、板挟みとかさ。兄としても弟としても、どっちに転んでも突っ込まれるのは俺だからな」

「確かに」
ルシアが微笑みながら頷く。
「でも、それはお前にしかできない役割でもある。誰かが緩衝材になってくれるからこそ、俺たちは全力で前に出られるんだ」

「……兄さんまでそんな真面目に言うなよ」
アレイドは頭をかきながら照れ隠しをした。

その姿を見て、アークとミカは穏やかに視線を交わした。
――この子たちは、もうすぐ自分たちの手を離れていくのだ。
その思いは寂しさであり、同時に誇らしさでもあった。

「ねえ、母さん」
アリアが唐突に言った。
「私、まだまだ子ども扱いされることも多いけど……こうして家族でいると、大人に近づいてる気がする」

「そうね」
ミカは微笑んだ。
「でも、大人になるってことは、自分で選んだ道に責任を持つこと。――そして、それでも迷った時に戻れる場所があるのが“家族”よ」

「戻れる場所……」
アリアはその言葉を心の中で繰り返し、胸に刻んだ。

ふと、食堂の窓から吹き込む夜風が、揺れる燭火を小さく震わせた。
炎の影が揺らぐように、家族の笑いの奥には言葉にできない予感が潜んでいた。

「父さん」
ルシアが再び口を開いた。
「未来は、俺たちに委ねられるんだろう?」

「そうだ」
アークは力強く頷いた。
「未来は常に“次の世代”のものだ。だが、決して孤独に戦うものではない。お前たちには互いがいる。そして――俺とミカも、いつでも後ろにいる」

その言葉は、子どもたちの胸に深く刻まれた。
ルシアは静かに頷き、アレイドは少し口元を緩め、アリアは真剣に父の瞳を見返した。

――笑いの裏に、確かな不安の影がある。
それでも、この食卓の温もりがある限り、乗り越えられる。
そう信じられる夜だった。

食後、食卓を離れるとき、三人はそれぞれの胸に小さな決意を抱いていた。
次に訪れる試練は、きっとこの温もりを試すものになるだろう。

 

 

4-3:民の声 ― 市場を歩くルシア

王宮の政務に慣れはじめたとはいえ、机上の書類や評議の議論だけでは見えぬものがある。
それを教えたのは他ならぬアークであり、また宰相や家臣たちでもあった。

「人を治めるには、人の目線に立て。遠くから数字を眺めるだけでは“国”は見えん。だが、同じ地平に立ったとき、初めて“民”が見える」

その父の言葉を胸に、ルシアは従者を伴い、王都の市場へと足を運んでいた。

秋風が香る朝。石畳を照らす陽光に、露店の色とりどりの布や果物が鮮やかに映えていた。
声を張り上げる商人、値切る客、駆け回る子供たち。――その全てが、政務の議場では決して感じられない「生きた息吹」だった。

「殿下……お気をつけて」
控えめに告げる護衛の言葉を、ルシアは笑みで受け流した。

「大丈夫だよ。今日は“王子”じゃなくて、一人の男として歩いてみたい」

そう言って軽く外套を羽織り、周囲に過剰な威圧を与えぬよう配慮する。
――だが、彼の存在感は隠しようがなかった。

「……あれ? あの方……」
「ひょっとして、王子殿下じゃないか?」

市場の一角で誰かが気づくと、瞬く間にざわめきが広がる。
ルシアは気後れすることなく、穏やかに人々へ頭を下げた。

「今日は皆の暮らしを知りたくて来たんだ。どうか、普段通りに話を聞かせてほしい」

その姿勢に、人々の緊張がわずかに解ける。

「殿下! ぜひうちのパンを!」
「いやいや、魚も見ていってくだせぇ!」

賑やかな声に囲まれ、ルシアは笑いながら露店を一つひとつ覗き込んだ。
ふっくらと焼き上がった黒パンを手に取れば、パン職人の男が胸を張る。

「今年は麦の出来が良くてな。こうして殿下に食べてもらえるなんざ、光栄なこった!」

「ありがとう。こういう声を聞けるのが一番嬉しいよ」

そう言って齧ったパンの温かみに、ルシアの胸がじんとした。
――書簡や報告書の「豊作」の二文字より、この笑顔のほうが何倍も重い。

次に足を止めたのは、織物を並べる老女の店だった。

「殿下のお召し物には及びませんが……この布は丈夫で、庶民にはありがたい品でして」

「いや、とても綺麗だよ」
ルシアは指で布をなぞり、素直にそう告げた。
「俺も……こういう布を着てみたいな。皆と同じように」

その言葉に、老女は驚いたように目を丸くし、やがてほころぶ。

「殿下は……本当にお優しい」

周囲からも「次代の王子様だ」「やっぱりお父上に似てるな」と囁きが漏れた。
ルシアの耳に届くその響きは、ただの称賛ではなく、重みを持って胸に刻まれた。

その時、小さな子供が駆け寄ってきた。まだ五つか六つほどの少年だ。

「あの……王子さま!」
「ん?」ルシアがしゃがみ込むと、少年は真剣な瞳で言った。
「ぼくのお父ちゃん、お仕事なくって……お母ちゃん困ってる。どうしたらいい?」

その問いに、ルシアは一瞬言葉を失った。
周囲も息を呑み、静まり返る。

――政務で耳にする数字や失業率の報告。けれど、こうして“顔”を持つ声として向けられると、全く違う重みを伴う。

「……君のお父さんに伝えてくれ」
ルシアは静かに応えた。
「必ず、働ける場所を用意する。国が、俺たちが、皆の力を必要としてるって」

「ほんとに?」
「ああ、約束する」

少年の瞳がぱっと輝いた。

「ありがとう! 王子さま、大好き!」

その小さな手がルシアの手をぎゅっと握った。
胸の奥で、何かが熱く揺れ動く。

――これが、“王としての責務”なのだ。
数字ではなく、誰かの笑顔と涙を背負うということ。

立ち上がったルシアは、群衆に向かってしっかりと声を上げた。

「皆、聞いてほしい。俺は、ただ“王子”としてではなく、皆と同じ地に立つ者として、この国を守りたい。笑顔を守るために――力を尽くす」

その言葉に、市場が大きく沸いた。
拍手、歓声、そして涙交じりの声。

「次代の王子様だ!」
「頼もしい……!」

その瞬間、ルシアは初めて自覚した。
――自分は、やがて「王」になるのだと。

歓声と拍手に包まれる中、ルシアはほんの少し照れくさそうに頭を下げた。
しかし胸の奥では、先ほどの子どもの言葉がずっと響き続けていた。

――「どうしたらいい?」
その問いは単なる訴えではない。未来を託す声だった。

護衛のひとりが小声で囁いた。
「殿下……お気を悪くなさらぬで。あの子も必死で……」

「いや、いいんだ」ルシアは首を振った。
「むしろ俺が、ああいう声を忘れかけていたのかもしれない。書類や報告書ばかりに目を向けて、本当の“声”を見ていなかった」

従者が安堵の息を漏らす。
だがその視線の奥に、ひそかな敬意が宿っていることを、ルシアは気づいていた。

歩みを進めると、果物を売る若い母親が声をかけてきた。
「殿下……よろしければ、これを」
差し出されたのは真っ赤に熟れたリンゴ。

「いや、買わせてくれ」ルシアは笑って銅貨を渡した。
「こうして買うことで、皆の暮らしにちゃんと力を注ぎたいから」

母親は驚いた顔をし、次の瞬間、涙ぐんで言った。
「……ありがとう存じます。殿下がいてくださるなら、きっとこの国は……」

ルシアは受け取ったリンゴを掲げて笑みを返す。
「俺だけの力じゃない。皆の力があってこそ、この国は成り立つ。……忘れないでくれ」

その言葉は市場の人々に静かに広がり、やがてざわめきは温かな波のように広がった。

市場の中央広場。石造りの噴水の周りに、いつの間にか人々が集まっていた。
露店の主、買い物客、子どもから老人まで。誰もが一様にルシアを見つめる。

ルシアは一瞬、息をのんだ。
――この場、この視線。その重みは、評議の場で十人の重鎮を相手にするよりも強かった。

それでも逃げなかった。
父が教えた「王の背中」を、ほんの少しでも見せたかったからだ。

「皆……俺はまだ未熟だ。至らぬことも多い。だけど――」
ルシアは言葉を探しながらも、胸の内から自然にあふれる思いを紡いだ。
「俺は“王子”ではなく、一人の人間として、皆と共に笑いたい。苦しみを分け合い、喜びを分かち合いたい。……それが、俺にとっての王であることの意味だと思う」

沈黙。
だがそれは冷たい沈黙ではなく、言葉を胸に落とし込むための静けさだった。

やがて、一人の老人が杖をつきながら声を上げた。
「殿下……どうかその志を、忘れんでくだされ。わしらは王を“遠い玉座の人”としてでなく、“共に生きる人”として望んでおるのです」

ルシアは深く頷いた。
「忘れない。必ず、ここで見た光景を心に刻む」

その瞬間、再び市場は拍手に包まれた。

視察を終え、馬車に戻ったとき、従者が問いかけてきた。
「殿下……今日のご感想は?」

ルシアは窓の外に広がる市場を見つめ、静かに答えた。
「思っていた以上に重いな。けど、不思議と怖くはない。……むしろ、やっと“自分の居場所”を知った気がする」

従者は小さく目を見開き、やがて微笑んだ。
「――殿下は、やはり次代を担うお方です」

ルシアは頷き、拳を膝の上で握りしめた。
浮かぶのは人々の笑顔。子どもの真剣な瞳。老人の声。母親の涙。

――これこそが、俺が守るべきもの。

そして初めて、彼は心の中で自らに言葉を与えた。

「俺は……王になる」

馬車が石畳を進む音が響く。
その揺れの中で、ルシアの決意は揺らぐことなく深く刻まれていた。

遠く王宮の塔から、秋の夕日が傾きはじめていた。
市場で浴びた歓声と声援は、彼を縛る鎖ではない。
――それはむしろ、彼の背を押す温かな風だった。

4-4:研究室の迷宮 ― アレイドの探求

戦術本部での訓練が一区切りした午後、アレイドは一人で王都の中央区に足を向けていた。
石畳の街路を抜けた先に、黒い尖塔を戴いた建物が姿を現す。そこが王立魔術研究院――俗に「知の迷宮」と呼ばれる場所である。

「ふうん……噂に違わず、立派なもんだな」
外観を見上げたアレイドは、思わず口笛を吹いた。戦術図や作戦会議の堅苦しい空気とは違い、ここは魔術と理論を愛する者たちの巣窟。
入口の扉を押して中に入ると、鼻をくすぐるのは羊皮紙と薬草の混ざった匂い。壁一面の書架に、大小の魔導具が所狭しと並んでいた。

「おや……君は、戦術本部の若い将校だな」
白髪混じりの研究員が声をかけてきた。
「どうしてここに?」

「ちょっと寄り道さ。……まあ、戦術にばかり頭を使ってると固くなるからね。たまには別の角度からものを見たくなる」

軽口めいた答えに、研究員は目を細めて笑った。
「面白い若者だ。だがここは寄り道で済むような場所ではないぞ」

「なら、なおさら楽しみだ」
アレイドは軽く肩をすくめた。

案内された先の研究室には、複数の術者が魔法陣の計算や実験に没頭していた。
青白い光を放つ水晶、浮遊する羊皮紙、絡み合う魔力の糸。どれも戦術本部では目にすることのない光景だ。

「ほう……これは高位の陣式か?」
アレイドは机に広げられた複雑な図面に目を止めた。

「君、読めるのか?」研究員が驚きの声をあげる。
「これは第三魔術理論を基盤とした新式陣だ。戦術家には理解できまいと思っていたが」

「いや、俺は専門家じゃない。ただ……線と線の繋がりを見れば、流れの意図くらいは分かる。これは“火”の拡散を防ぎ、逆に一点に収束させる構造だろ?」

「……!」
研究員たちは一斉に彼に注目した。
「正解だ。戦術本部の若造に見抜かれるとは……」

アレイドは肩をすくめ、軽く笑った。
「ただの推測だよ。でも、理屈ってのは結局“繋がり”だから。戦術図と魔法陣、似たようなもんさ」

その言葉に、場がざわめいた。彼の自然な理解力は、専門家たちでさえ驚くほど鋭い。

奥の実験場では、若い術者が失敗を繰り返していた。火球の制御が効かず、炎が暴発して煙を巻き上げる。
「くそっ……またか!」

「落ち着け。魔力の流れが乱れている」研究員が声を飛ばすが、若者は焦りで手元が狂い続けていた。

アレイドが歩み寄り、さらりと言った。
「力を出すんじゃなくて、抜け道をつくるんだ。魔力は押さえ込むより、逃がす方が安定する」

「な、何だって?」

半信半疑で彼の言葉を試すと、炎はするりと収束し、手のひらで小さく燃えるだけになった。

「おお……!」若者は目を輝かせる。
「どうしてそんなことが分かったんですか?」

「どうしてって……」アレイドは少し考え、笑った。
「水路を塞げば溢れる。逃がせば流れる。それと同じだろ」

研究室がざわめき、幾人かが低く囁いた。
「……やはり噂通りだな。あの次男坊、もし次代を背負うなら“理と知の王”になるかもしれん」

その言葉を耳にしたアレイドは、心の奥が微かにざわめいた。
軽口でごまかそうと口を開く。
「王とか大げさな。俺はただ、頭の中で線が繋がるだけさ」

だがその声は、ほんの少し震えていた。

奥の書庫に入ったとき、彼は一冊の古びた書物に目を奪われた。
背表紙には「継承と支配」とだけ刻まれている。

「……継承、か」
無意識に手を伸ばし、ページをめくる。そこには歴代の王たちが、どのようにして“選ばれた”かが記されていた。

血筋、能力、そして“民の声”。
選ばれることは、ただ生まれや力に拠るものではなく、時代が求めるものに導かれる――そう記されていた。

「選ばれる……俺が?」
思わず小さく呟く。
その瞬間、胸の奥に鈍いざわめきが広がった。

戦術本部での訓練。研究室での驚き。人々の囁き。
それらすべてが一つの方向を指し示しているように思えてならなかった。

アレイドは本を閉じ、長く息を吐いた。
「……ま、考えすぎだろ」
そう言いながらも、心の奥のざわめきは消えなかった。

「万能型」――。
幼いころから誰よりも器用に何でもこなした自分。
けれど、それは“万能”であるがゆえに、逆に自分の道を曖昧にしてしまう。

「兄さんは……優しさと導きで人を惹きつける。妹は……火の力で皆を圧倒する。じゃあ、俺は何者だ?」

問いは答えを返さず、ただ書庫の静寂に溶けていった。

夕刻に差しかかる頃、研究室の一角では熱を帯びた討論が繰り広げられていた。
机の上に広げられたのは、複雑な魔術陣の新規理論だ。若手と老練の研究者が意見をぶつけ合い、互いに譲らず声を荒らげる。

「だから! この数値では魔力の流入が暴発する!」
「いや、理論上は安定しているはずだ!」

その場に偶然居合わせたアレイドは、少し困った顔をして彼らを見つめていた。
「えーっと……俺が口出しするのも変かもしれないけど」

「ほう、戦術家殿。異論でも?」老練の研究者が眉をひそめる。

「いや、ただ……この数値じゃなくて“配置”の問題じゃないか? 角度をずらしてやれば、流れは自然に落ち着く」

「配置、だと?」
「ほら、こうだよ」

アレイドは紙とペンを取り上げ、素早く線を描いた。
一同が身を乗り出す。修正された陣は、まるで絡まっていた糸が解けたかのようにすっきりしていた。

「……!」若手研究者が目を見開いた。
「確かに……このほうが数値に無理がない!」

「はは、やっぱり。算盤弾くより、絵で見たほうが早いだろ」
アレイドは軽口を叩きながらも、内心で冷や汗をかいていた。
(……なんで俺は、こんなことまで分かっちまうんだ?)

周囲からは感嘆の声が漏れる。
「理論と戦術、双方の視点を持っている……」
「もし彼が次代を担えば、“理と知”の時代が訪れるかもしれんな」

アレイドは苦笑しつつ、わざと肩をすくめた。
「やめてくれよ、その“次代”ってやつ。俺はただの器用貧乏さ。兄貴や妹みたいに分かりやすい強みもないんだから」

そう口にしても、内心のざわめきは強まるばかりだった。

研究室を後にした帰り道、夕暮れの街を歩きながらアレイドは空を見上げた。
朱に染まった雲が流れていく。
「……俺は、何者になるんだろうな」

その呟きに、後ろから声が返ってきた。
「お前はもう、何者かになりつつある」

振り返ると、そこに立っていたのは父アークだった。
「父上……」

「研究室に行ったと聞いて、様子を見に来た。どうだった?」

「どうって……まあ、面白かったよ。戦術本部じゃ見られない光景だし。けど……」
アレイドは言葉を濁す。

アークはじっと息子を見つめ、静かに言った。
「お前は“万能”だ。それは時に弱点でもある。だが、時代が必要とするとき――万能である者が、誰よりも強い支柱になる」

「……支柱、か」
アレイドは視線を逸らした。
「兄さんやアリアみたいに“これだ”って武器がないと、不安になるんだよ。俺は結局、何でも器用にこなして、でも突出してない。ただそれだけの奴なんじゃないかって」

アークは笑みを浮かべた。
「突出していないからこそ、まとめられる。器用にこなすからこそ、人を導ける。お前はそういう性質を持っている」

その言葉は、まっすぐにアレイドの胸を射抜いた。

夜、部屋に戻ったアレイドは机に突っ伏したまま、しばらく動けなかった。
研究室での囁き。父の言葉。
そして自分の中に芽生え始めた“予感”。

「もし……もし俺が選ばれるとしたら」
唇が震える。
「俺は……笑っていられるのか?」

答えは返ってこない。
ただ窓の外で、夜風が木々を揺らしていた。

その夜、王都の空に赤い星が瞬いた。
古の伝承に曰く――赤い星は「変革の兆し」。
誰が継承するか、その行方はまだ誰にも分からない。
だが、アレイドの胸には確かに、逃れられぬ“影”が刻まれていた。

 

4-5:炎と子供たち ― アリアの護衛演習

秋の陽はやわらかく、王都の大通りに長い影を落としていた。
その影の中を、紅のマントを揺らして歩く少女がいた。アリアだ。
今回の任務は、治安演習の一環として孤児院の護衛に就くこと。大規模な戦闘でもなければ華やかな式典でもない――だが、王都の子供たちにとっては大きな意味を持つ一日だった。

「ここが孤児院……」
煉瓦造りの小さな建物の前に立ち、アリアは息をついた。
中からは子供たちの賑やかな声が響いてくる。走り回る音、笑い声、時折泣き声。
そのすべてが、この場所の日常だった。

「お、お姉ちゃんだ!」
門を開けた途端、数人の子供たちが飛び出してきた。アリアの赤髪を見て目を輝かせる。
「ほんとに火を使うの?」「剣より強いの?」「お化けもやっつけられる?」

矢継ぎ早の質問に、アリアは思わずたじろいだ。
「え、えっと……火は使えるけど、お化けは……出たら考える!」
軽口を叩くと、子供たちは大きな声で笑った。

その笑顔に、アリアの胸は少しだけ温かくなる。
(守るって……こういうことなんだな)

演習は、孤児院の周辺を巡回し、不審者や危険を未然に防ぐというものだった。
街の治安兵が一緒に同行していたが、主役はあくまで「次代の候補」であるアリアだ。

「アリア様、こちら側の路地は少し暗いので……」
治安兵が報告をするが、アリアはそれを制した。
「私が見る。子供たちがよく遊びに行く場所なんでしょう?」

その路地に足を踏み入れると、案の定、浮浪者の男が隠れるように座り込んでいた。
子供たちが怖がって近寄らなくなった、という噂の元凶だ。

「あなた、ここで何をしているの?」
アリアが問いかけると、男はぎょっとして立ち上がる。
「お、王女殿下……! い、いや、俺は別に……」

言葉が詰まる。だがアリアは追い立てるような口調はしなかった。
「ここは子供たちの遊び場。あなたに行き場がないなら、他の施設を紹介するわ。……でも、ここは退いて」

静かだが揺るぎない声音に、男は観念したように肩を落とした。
「わ、分かりました……」
治安兵が引き取っていく後ろ姿を見届けながら、アリアは小さく息を吐いた。

「……火で脅す必要なんてなかった」
自分の力に頼らなくても、人は動く。そう気づいた瞬間、胸の奥で何かが変わった気がした。

その夜。孤児院の庭で、子供たちがアリアを取り囲んでいた。
「炎を見せて!」「すごいやつ!」「怖くないやつ!」

アリアは少し考えてから、手のひらに小さな火球を灯した。
ぱっと橙の光が広がり、子供たちの顔を照らす。
「わあ……!」
その目は恐怖ではなく、憧れと好奇心に満ちていた。

「火はね、怖いものでもあるけど……あったかいものでもあるの」
アリアは火を操りながら、優しく語りかけた。
「ご飯を作るとき、寒い夜を照らすとき、人を守るとき……炎は、みんなを助けるんだよ」

一人の少女がぽつりと言った。
「……お姉ちゃん、あたしたちのこと守ってくれるの?」

その問いに、アリアは驚いた顔をした。
そしてゆっくりと、少女の目を見つめ、頷いた。
「うん。絶対に守る」

少女は破顔し、アリアのマントをぎゅっと握った。
「じゃあ……あたし、お姉ちゃんのこと大好き!」

周りの子供たちも「ぼくも!」「わたしも!」と口々に叫ぶ。
アリアは戸惑いながらも、その声のひとつひとつを受け止めた。

(……私、こんなふうに慕われる日が来るなんて思わなかった)
胸の奥で、熱い炎が静かに灯っていく。

夜空を仰ぎながら、アリアは自分の手のひらに残る温もりを確かめた。
炎はただの武器ではない。
人を守り、導く光にもなれる。

「……私の炎は、未来を照らすためにあるんだ」

その呟きは、秋風に乗って孤児院の屋根の向こうへ消えていった。

その夜、孤児院の子供たちは興奮して眠りにつけず、何度もアリアのもとへやって来た。
「お姉ちゃん、怖い夢見たら、火で追い払ってくれる?」
「今度は大きい火で、空に鳥を飛ばして!」
「でも、火って触ったら熱いんでしょ?」

問いかける声は不安と好奇心の入り混じったもの。
アリアは一人ひとりの目を覗き込み、ゆっくり答えた。

「そうだよ。火は熱いし、油断すれば人を傷つける。でもね……上手に扱えば、暗闇を照らす灯りにもなるんだ」

そう言いながら彼女は指先で小さな炎を灯し、それを蝶の形に変えた。
ひらひらと夜空を舞う火の蝶に、子供たちは息を呑んだ。

「……きれい」
「怖くない……あったかい」

その言葉を聞いたとき、アリアの胸の奥で何かが音を立ててほどけていく。
力を誇示するのではなく、守るために示す。
その違いを、彼女は確かに感じ取っていた。

やがて孤児院の院長がアリアのもとにやってきた。
「今日は本当にありがとうございました。子供たちにとって、あなたはもう“憧れ”になっています」

アリアは肩をすくめて微笑んだ。
「憧れだなんて……私はまだ未熟者です。でも……」
視線を子供たちへ向ける。
マントを掴んで離さない子、小さな火を真似て手を振る子――その姿に、自然と笑みがこぼれた。
「……導いてあげられる存在になりたい。そう思いました」

院長は深く頷いた。
「その想いこそが、力よりも大切なのです」

翌朝。護衛演習の終了を告げる鐘が鳴ると、孤児院の前には小さな人だかりができていた。
市場の人々、近隣の住民、そして子供たち。皆がアリアを見送ろうと集まっていたのだ。

「お姉ちゃん、また来てね!」
「絶対守ってよ!」
「火のお姉ちゃん、がんばって!」

口々に叫ぶ声が重なり、アリアは思わず胸が熱くなる。
頬を少し紅潮させ、彼女は大きく右手を振った。
「うん! 私は――必ず、みんなを守る!」

その言葉は誓いとなり、人々の胸に深く刻まれた。

王宮へ戻る道すがら、アリアは一人呟いた。
「……私はずっと、自分の炎を力としてしか見てこなかった。でも……」
思い浮かぶのは、昨夜の火の蝶に見入る子供たちの顔。
「炎は、未来を照らす光にもなれる」

その瞬間、背筋にひやりとした感覚が走る。
まるで炎の奥底に、まだ自分でも知らない“もうひとつの可能性”が潜んでいるかのように。

(導く存在……。兄さんやアレイド兄様とは違うやり方で、私はきっと……)

紅の瞳に宿った決意は、子供たちの憧れの言葉を超え、次代を担う自覚へと変わりつつあった。

その夜。王宮の窓辺でアリアは炎を灯し、ぼんやりと見つめていた。
そこへアレイドが姿を現す。
「また火遊びか?」
からかうような声に、アリアは頬を膨らませる。
「遊びじゃない! 私は……子供たちに誓ったの」
「誓い?」

アリアは真剣な眼差しで兄を見た。
「私はこの炎で、人を守るって。導くって」

アレイドはしばし黙り、やがて微笑んだ。
「……悪くないな。お前らしい誓いだ」
そう言って窓の外を見やる。
「けどな、アリア。導くってのは楽じゃない。守るってのは、自分の炎で自分を焼くことでもある」

その言葉に、アリアは一瞬口をつぐんだ。だが、炎を見つめ直し、静かに答えた。
「それでも、私は進む。だって、この炎は……未来を照らすためにあるから」

アレイドは目を細め、妹の背に重なる炎の光を見つめた。
(……やっぱり、こいつの炎はただの力じゃない。いつか、この国の希望になる)

そして彼の沈黙の後ろで、アリアの炎は揺らめきながら、確かに夜を照らし続けていた。

4-6:静けさの裏で ― 不穏な兆し

王都の空は相変わらず穏やかで、夏を思わせる陽射しが石畳を照らしていた。市場には民の笑い声が響き、子供たちは追いかけっこをしている。王宮の回廊にも、心なしか柔らかな空気が漂っていた。

だが――その裏で、確かに何かが動き始めていた。

戦術本部の一室。
アレイドは地図を前に、将校たちとやり取りをしていた。

「国境の北方にて、盗賊団の動きが再び活発になっております。組織化の気配も見られるとの報告です」
「またか。春先に鎮圧したはずだろう?」アレイドが眉をひそめる。
「はい。ですが今回は武装が整い、統制も取れているようで……。背後に何者かがいるのではないかと」

室内の空気が重くなった。
アレイドはしばらく黙考し、軽口を封じた真剣な声音で言った。
「……盗賊が、急に兵のように動くはずがない。裏で糸を引いている者がいると見ていいな」

将校たちが頷く。
その場の一人が口を開いた。
「殿下、しかしこれはまだ推測の域を出ません。王都に混乱を与える前に、まずは密かに調査を」
「当然だ。俺が騒ぐ性格に見えるか?」
アレイドは小さく笑ったが、その瞳は冷えていた。

一方、ルシアは政務室で地方官からの報告を受けていた。
「南部の農村にて、ここ数週間で収穫の一部が行方不明になっております。小さな規模ではありますが、頻発しております」

ルシアは手元の書類を閉じ、静かに言った。
「盗難……にしては奇妙ですね。報告書によれば、被害はほとんど夜間に集中している」
「はい。ただの盗人ではない、という声も上がっております」

ルシアは目を細めた。
「民の暮らしに直接影響する事柄です。決して軽んじるわけにはいかない。――至急、警備を強化してください。小さな芽を摘むのは、早ければ早いほど良い」

その言葉に、官吏たちは安堵した表情を見せる。だが、ルシア自身の胸には、拭いきれない違和感が残っていた。
(小さな異変が、あちこちで……偶然とは思えない)

その頃、アリアは庭園での鍛錬を終え、汗を拭っていた。
そこへ護衛の騎士が駆け込んできた。
「姫様! ご報告が……」
「そんなに慌ててどうしたの?」
「はい、実は……先日の演習の際に出くわした不審者の件で。捕縛した者を取り調べましたところ、どうもただの賊ではない可能性が……」

アリアの目が鋭くなる。
「どういうこと?」
「組織的な訓練を受けている形跡があり、しかも国外の言葉を口走っていたとのことです」
「国外……」

アリアは手の中に炎を生じさせた。だがすぐに握り消す。
「……ただの偶然で済ませるわけにはいかないわね」

彼女の脳裏には、孤児院の子供たちの笑顔がよぎった。
(あの子たちを守るって誓ったのに……また、何かが迫っているの?)

その夜、王宮の食堂には兄妹三人が揃っていた。
食事を前に、珍しく言葉少なな空気が流れる。

「……どうしたの?」アリアが先に口を開いた。
「二人とも顔が暗いよ」

アレイドは苦笑した。
「お前に言われたくはないな。けど……まあ、どっちにしても“嫌な風”が吹き始めてる」
「嫌な風……?」

ルシアが静かに続けた。
「北も南も、小さな異変が重なっている。まだ誰も大きな問題だとは思っていない。けれど……私は、それを見過ごすことができない」

アリアは頷いた。
「……私も感じてる。不審者や賊、ただの偶然じゃない気がする」

三人の間に沈黙が落ちる。だがその沈黙は、不安を共有するからこそのものだった。

アレイドが口を開く。
「まあ、心配するのは俺たちの仕事かもしれないな。でも同時に……まだ何も起きてない。今はせめて、冷静に構えておくべきだ」
「そうね。過度に民を不安にさせる必要はないわ」ルシアが同意する。

しかし、三人の胸には確かなざわめきが生まれていた。

そのとき、廊下をゆっくりと歩く足音が聞こえてきた。
姿を現したのは、父アークだった。
「……やはり、気づいているようだな」

三人は顔を上げる。
「父上……」

アークは静かに笑みを浮かべながらも、その瞳は厳しかった。
「小さな兆しに気づけるのは、良いことだ。だが――それを掴んだとき、どう動くかが真の試練になる」

その言葉に、三人は背筋を伸ばした。

そしてアークは窓の外を見やり、低く呟く。
「平穏の裏には、必ず影がある。……次代を担う者たちよ、備えておけ」

アークの言葉が食堂に残る中、扉が音もなく開いた。
「――皆さん、随分と真剣な顔ですね」
入ってきたのはミカだった。穏やかな笑みを浮かべていたが、手に抱えた文書束がその場の空気を一変させる。

「母上、それは……?」ルシアが問いかける。
「はい。国外からの報せです。東方の国境地帯で、商人たちが相次いで行方不明になっていると」

アリアが息を呑んだ。
「まさか……それって、この前捕らえた不審者の件と……」
「直接の繋がりはまだ判明していません。でもね、偶然にしては重なりすぎているでしょう?」ミカは静かに言った。

アレイドが椅子に深く座り直す。
「北で盗賊、南で盗難、東で行方不明……。西にまで何か起きたら、もう偶然じゃ片づけられないな」
「冗談を言うところじゃないわよ」アリアが鋭く返す。
「冗談じゃないさ。ただ――こうして繋げて考えられる奴がいなきゃ、事態はもっと悪化する」アレイドは軽口を封じ、真剣な声音で続けた。

その夜更け。
兄妹はそれぞれ自室で眠りにつこうとしていた。だが心は落ち着かない。

ルシアは机に地図を広げたまま、窓辺で夜風に当たりながらつぶやいた。
「……民の笑顔を守ることが、どれほど難しいか。試されているのかもしれないな」

アレイドは書物の山に囲まれ、指先で地図上の印をなぞる。
「理屈じゃ割り切れないことばかりだな……。でも俺は、必ず理と知で答えを出す」

アリアはベッドに横たわりながら、瞳を閉じる。
「炎は……ただ燃やすためじゃない。守るために灯す。私が、その光で前を照らさなきゃ」

三人は互いに姿を見せないまま、それぞれが未来に向けて静かに誓いを立てていた。

翌朝。王都の広場では、子供たちの声が響き渡っていた。市は賑わい、音楽と笑いが溢れている。
だが、通りを歩く兵士の足音が、どこか硬い響きを残していた。

噂話が風に乗る。
「最近、北から来る商隊が減ったらしいぞ」
「南の村でも作物が消えるって……」
「いやいや、ただの作り話だろう」

誰もが表向きは笑い飛ばす。だが、人々の目の奥には確かに影が差していた。

王宮の塔の上。
アークは遠くを見つめていた。隣に立つミカが静かに口を開く。
「……子供たち、気づき始めていますね」
「ああ。いずれは避けられぬことだ。継承とは、ただ名を譲るだけではない」
アークの瞳が鋭く光る。
「影を見て、それでも歩む強さを持たねばならん」

ミカはうなずき、手を胸に当てる。
「彼らはきっと、選ばれた子たちです。けれど選ばれることは同時に――試されることでもある」

空には雲ひとつなかった。だが、その透明な青の奥に、確かに嵐の予感が潜んでいた。

その日、王都の鐘がゆっくりと鳴り響く。
誰もが日常を過ごしながらも、胸の奥に落ちた小さな不安の種を抱えたまま。

そして――その種は、次なる章で芽吹き、兄妹を試練へと導くことになる。

第5章:影の試練 ―宮廷の闇

5-1:囁かれる影 ― 密談の廊下

王宮の一角、執務棟へと続く長い廊下は、昼を過ぎると人影がまばらになる。
石造りの壁に掛けられた古の王の肖像画が、無言で訪れる者を見下ろしている。
ルシアは一枚の報告書を手に、その廊下をゆっくりと歩いていた。政務に携わり始めてまだ日は浅いが、すでに彼の日常には幾つもの書状や判が加わっていた。

「……父上が担ってきた責任の重みは、紙一枚から伝わってくるものだな」

独り言のように呟き、息を整える。父アークのように、迷いなく筆を入れる勇気をいつか持たねばならない。その思いを胸に歩を進めると、廊下の奥から小声が聞こえた。

「――それにしても、あの三人のうち、誰が次を担うのか……」
「表向きはまだ語られておらぬが、水面下では皆、動いているさ」

ルシアの足が止まった。
声の主は、大臣たち。王国の政を支える重鎮である二人だ。
廊下の曲がり角、厚い扉の陰から、密やかな会話が流れてくる。

「ルシア殿下は、確かに穏やかで民にも受けが良い。だが……」
「だが、戦に備える力となれば、アレイド殿下のほうが頼もしい」
「いやいや、火の力を持つアリア殿下こそ、この時代の混沌に備える存在ではないか」

ルシアの心臓が強く打った。
声を潜めていても、その言葉のひとつひとつがはっきり耳に届く。
兄妹を比べる声。優劣を語る響き。――それは避けては通れぬ議題でありながら、こうして陰で口にされると、不思議と胸を刺した。

(……そうか。いずれ、こうした声があちこちで囁かれることになるのだな)

思わず拳を握りしめるが、深く息を吸う。
感情で動けば、父の背中に届くことはない。
耳を澄ませれば、大臣たちはさらに言葉を重ねていた。

「王宮に漂う空気はすでに揺らぎ始めている。次代の“光”を早く定めねば、影はますます肥大化する」
「……されど、三人はいずれも才を備えている。決め手に欠けるのが実情だ」
「ならば、我らが推す声を強めるべきではないか?」

推す声――。その一言に、ルシアの眉が動いた。
次代を巡る議論は、理想や信念だけでなく、人の利や派閥の思惑に絡め取られてゆく。
父が「表だけでなく裏も見よ」と語った意味を、改めて実感した瞬間だった。

心の奥にざわめきが広がる。
だが、そこで足を止めて聞き続けるだけでは何も変わらない。
ルシアは胸に手を置き、静かに決意する。

(逃げるな。もし自分の名が囁かれるなら、その場に立ち、顔を上げて応じるべきだ)

ルシアは扉の陰から一歩、石畳に靴音を響かせて進み出た。
廊下の奥にいた二人の大臣が、驚いたように目を見開く。

「……ル、ルシア殿下」
「お聞きに、なられておりましたか」

緊張が走る。空気は固く凍りついた。
ルシアは報告書を胸に抱えたまま、穏やかに微笑んだ。

「ええ。少し、耳に入りました」

その声は柔らかく、しかし揺るぎないものだった。
大臣たちが言葉を失う中、ルシアはさらに歩を進め、彼らの真正面に立った。

大臣たちの視線は落ち着かず、互いに視線を交わす。
ルシアは一瞬その動きを見守り、やがて口を開いた。

「正直に言えば……耳にした言葉は、私の胸を揺らしました」

自らの感情を隠さず、それでいて怒気は見せない。
若き王子の声は、廊下の石壁に静かに響いた。

「兄妹を比べ、優劣を語るのは、時に必要なことかもしれません。ですが――それが“陰での密談”として語られるなら、民も兵も、やがて不安を覚えるでしょう」

「……っ」大臣の一人が息をのむ。

「私は、ルシアという名で呼ばれていますが、決して一人ではありません。兄妹はそれぞれに道を歩んでいます。アレイドは冷静に先を読み、アリアは誰よりも熱く未来を切り拓こうとしている。私は……二人と共に、父と母から教えを受けています」

ルシアはゆっくりと視線を合わせた。
彼の眼差しは柔らかく、しかし曇りはない。

「それを“誰が勝るか”という秤で測るのではなく、“どうすれば三人で国を支え合えるか”――そう考えることこそ、今この国に必要なのではないでしょうか」

沈黙。
大臣たちは顔を見合わせた。やがて一人が、絞り出すように口を開いた。

「……殿下のお言葉は、理に適っております。ですが、宮廷には、どうしても……派の力が働くものでして」

「ええ、承知しています」ルシアはすぐに頷いた。「それぞれの立場や意図があることを、私は否定しません。ただ――その意図のために兄妹を争わせるのは、どうか避けていただきたい」

彼は微笑を浮かべながら、報告書を掲げて見せた。

「王家の子として、私が欲しいのは“力を合わせる礎”です。ですから皆様には、その土台を共に築いていただきたい」

言葉は穏やかで、相手を追い詰めない。
しかし、否応なく心に響く“重み”があった。

大臣たちは、頭を垂れた。

「……恐れ入りました、殿下」
「軽々しく言葉を交わしたこと、お詫びいたします」

ルシアは首を振る。

「謝罪は要りません。ただ、次に語られるときは、ぜひ正面から。廊下の陰ではなく、光の下で」

そう言って、柔らかな笑みを添えた。
大臣たちは安堵の息を漏らし、深々と頭を下げる。

その場を後にしたルシアは、廊下を歩きながら小さく呟いた。

「……やはり、影は常に寄り添うものだな。けれど……光もまた、共にある」

拳を強く握ることはせず、ただ胸の奥に静かな炎を灯す。
兄妹の名が囁かれた密談を、平和的に収めたことで、彼はひとつの“覚悟”を得た。

王としての未来は、まだ遠い。だが――その歩みは確かに始まっている。

 

5-2:見えざる刃 ― アレイドの先手

戦術本部の会議室を出たアレイドは、書簡の束を片手に廊下を歩いていた。
石畳を踏む靴音が、規則正しく響く。だが、耳に届くその音に、わずかな“乱れ”が混じっている気がした。

「……おかしいな」
アレイドは小声で呟き、歩みを緩める。

戦術本部の建物は整然としており、兵士や書記官の動きにも無駄はない。
だが、今、彼の視界に入る人々の挙動――書簡を抱えた兵士の視線の泳ぎ、廊下の角に一瞬映った影の消え方。
細かな違和感が重なり合い、心の奥で警鐘を鳴らしていた。

(視線を避けるのが早すぎる……。兵士なら、殿下とすれ違うときは一礼を欠かさないはずだ)

足を止め、壁に寄りかかるふりをしながら、アレイドは書簡をめくる。
だが視線は紙面ではなく、周囲をさりげなく観察していた。

その瞬間、背後から足音。
振り返ると、兵装を整えた兵士が一人、廊下を横切ろうとしていた。

「おい、君」
アレイドが声を掛けると、兵士は一瞬わずかに身を硬くした。

「……はい、殿下」
「君、所属はどこだ? 徽章が見当たらないな」

兵士は口を噤む。
アレイドは軽く笑い、書簡を閉じた。

「答えられないか。……なら、いい」

その言葉と同時に、一歩踏み込み、相手の腕を掴む。
兵士が短剣を抜こうとした刹那――アレイドの膝が鋭く相手の腹部を撃ち抜いた。

「ぐっ……!」

短剣が床に落ち、金属音が廊下に響く。
アレイドは冷静に兵士を壁へ押し付け、鋭い眼差しを向けた。

「暗殺の訓練を受けているな。……だが、未熟だ。俺に気取られる時点で」

兵士の顔から血の気が引く。
その瞬間、廊下の先で別の気配――二つ、三つ。

(……なるほど、こいつ一人じゃないな)

アレイドは心の中で息を整える。
目の前の刺客を抑え込みながらも、視線を廊下の奥へと向ける。

「出てこい。無駄な真似はやめろ。――俺は、全部見えている」

静かな声。だが、その言葉には揺るぎない自信が宿っていた。

石柱の影から、覆面をした二人の男が姿を現した。
短剣を逆手に握り、低い声を漏らす。

「……気づかれていたか」
「殿下、やはり只者ではないな」

アレイドは口元をわずかに緩めた。

「お世辞はいい。――どうやら、本気で俺を消す気だったようだな」

緊張が廊下に走る。
アレイドは短く息を吐き、手を放すと同時に倒れかけた刺客を前へ突き飛ばした。

その体を避けるように残る二人が動いた瞬間、アレイドはすでに次の一手を読んでいた。

廊下の空気が一瞬にして張り詰めた。
覆面の二人は、同時に弧を描くように左右へ散り、挟撃の態勢を取る。

「数で押すつもりか……」
アレイドは呟き、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。

彼の頭の中には、相手の動きのシミュレーションがいくつも瞬時に展開されていた。
(右が陽動。左が本命。だが二人同時に仕掛けるなら――互いの間合いに死角が生まれる)

次の瞬間、覆面の男が右から突き出すように短剣を繰り出した。
アレイドは一歩引き、空いた左腕で男の手首を絡め取る。
そのまま体を捻り、男の腕を軸にして背後へと投げ飛ばす。

床に叩きつけられた衝撃音。
だが同時に、左側から別の男が低く滑り込み、アレイドの足元を狙う。

「そこだ!」

アレイドは躊躇なく足を振り上げ、床板を強く蹴った。
石畳に響いた乾いた音。
ほんのわずかな振動で、滑り込もうとした男の体勢が崩れた。

「……!」

その隙を逃さず、アレイドは手にした短剣を逆手に構え、相手の喉元に刃を突きつける。

「……動くな」

静かな声。
だが、刺客は震えるほどの圧力を感じ取っていた。

廊下には、倒れ込んだ三人の男の息遣いと、アレイドの落ち着いた呼吸音だけが響く。

「お前たちの狙いは……俺じゃないな」
アレイドの声は低く鋭い。
「――本命は、兄か。あるいは……父上か」

その問いに、覆面の一人が苦悶の表情を浮かべた。
答えようとした口を、仲間がすかさず塞ぐ。

「口を割るな!」

その叫びが廊下に響いた瞬間――廊下の外から兵士たちの駆ける音が迫った。
アレイドが事前に控えの近衛に「不審な動きがあれば合図を送れ」と伝えていたからだ。

すぐさま駆けつけた近衛兵たちが刺客たちを取り押さえる。
アレイドは腕を組み、彼らの様子を冷静に見つめていた。

「……やはり、“影”はもう動き始めているんだな」

呟いた言葉に、兵士の一人が振り向く。
「殿下、どうなさいますか?」

アレイドは深く息をつき、表情を引き締めた。

「ひとまず地下牢に。尋問は父上の許可を得てからだ。……ただし、今夜中に裏で揺さぶりが来るだろう。警戒を怠るな」

「はっ!」

兵たちが刺客を引き立てていく。
残された廊下に、アレイドは一人、しばらく立ち尽くしていた。

やがて小さく笑みを浮かべる。
「……俺も、まだ甘いな」

先回りし、罠を見抜き、相手を封じた。
それでも胸の奥には、得体の知れない重みが沈んでいた。

(影に潜む者は、一度現れただけで終わらない。……むしろ、ここからが本番だ)

アレイドは視線を遠くに向けた。
兄と妹、そして父と母。
守るべきものは多い。
だがその重みを、彼は確かに自分の肩に背負う覚悟を固め始めていた。

「俺は……“万能型”なんて呼ばれるだけじゃ終わらない。――必ず、選んでみせる」

その声は誰に向けられたものでもなく、静かな廊下に溶けていった。

5-3:火と罠 ― アリアの脱出

夕暮れの王都は、柔らかな赤い光に包まれていた。
孤児院の中庭で子供たちと遊び、笑顔に囲まれた余韻がまだ胸に残っている。
その温かさを感じながら、アリアは護衛の兵と共に帰路についた。

「本日の視察、お疲れさまでした」
前を歩く若い兵士が振り返り、柔らかく頭を下げる。
整った顔立ちだが、どこかぎこちない笑みだった。

「うん。……でも、子供たち、元気でよかった。あの子――リタ、だったかな。すごく笑顔が可愛かった」
アリアは小さく笑った。
孤児院で出会った小さな少女の姿が頭に浮かぶ。自分の裾を掴んで離さなかった手の温もりも。

「殿下は……やはりお優しいですね」
兵士がそう口にした瞬間、わずかに声が震えていた。

アリアは気づく。
(……何か、妙だ)

だが次の瞬間には、兵士は再び笑顔を作り直し、歩みを進める。
「こちらの道を通れば、王城に戻るのも早いかと」

示されたのは、石畳の大通りから少し外れた細い道だった。
アリアは首を傾げる。
「こんな裏道、通ったことないけど……?」

「ええ。ですが安全です。市井の人目も避けられますので」

言葉自体に不自然さはない。
だが兵士の背中から伝わる気配は、なぜか冷たい。

アリアは心の奥で火の流れを感じ取ろうとした。
彼女の魔力は周囲の空気や熱の動きを敏感に拾う。
その感覚が告げていた――ここには、どこか淀んだ気配がある。

(……嫌な予感がする)

だが、孤児院の子供たちの前で交わした「また来るね」という約束を胸に、アリアは一歩を踏み出した。
恐れに従うより、真実を確かめたい。

道は次第に狭く、石壁に囲まれた路地裏へと変わっていった。
人影はなく、空気は重い。
やがて兵士は古びた建物の地下口を指し示した。

「この先を抜ければ、近道になります」

地下口の扉が軋んで開かれる。
そこから吹き上がる空気は冷たく、湿っていた。

「……地下?」
アリアは眉をひそめる。

「ご安心ください。自分もご一緒しますので」

その言葉に、わずかに苛立ちが走る。
だが、問い詰めるより先に足は踏み込んでしまっていた。
石段を下りたその瞬間――背後で重い音が響く。

バタン。

扉が閉ざされ、錠が掛けられた。

「……っ!」

アリアは振り返り、扉に駆け寄る。
力いっぱい押しても、びくともしない。
冷たい石の壁に囲まれた地下。灯りはわずかに揺れる松明の炎だけ。

「……やっぱり」
アリアの瞳に火が宿る。
「最初から罠だったのね」

その瞬間、耳に不気味な音が届いた。
地下の奥から、カチリと金属が噛み合うような音。
そして、空気の中に漂う違和感――油の匂い。

「……爆薬」

アリアの呼吸が浅くなる。
火を灯す者である彼女にとって、それは最も危険な状況だった。
一瞬でも制御を誤れば、爆発が地下を呑み込み、自分も塵と化す。

だが恐怖に飲まれる代わりに、アリアは静かに瞳を閉じた。
孤児院で見た子供たちの笑顔が、胸に灯る。
(……あの子たちに、もう一度会うんだ。だから――ここで終わるわけにはいかない)

ゆっくりと両手を広げ、空気を感じ取る。
火の魔力は彼女の内で燃え盛るが、同時に制御の炎でもあった。

「私の火は……破壊するためだけじゃない。道を切り開くためにある」

囁く声と共に、アリアの掌に小さな火が宿る。
それは炎というより、光の粒のように静かで温かい。
周囲の油に火を移さぬよう、呼吸を整え、細心の注意で力を抑え込む。

そして――彼女は地下の壁の一部に狙いを定めた。
そこは石造りだが、わずかに隙間が走る。
火を集め、熱で膨張させ、石を裂く。

――パキン。

小さな音が響き、壁に亀裂が走った。

「……もう少し!」

全身の魔力を指先に集め、彼女は最後の一撃を放った。

眩い閃光。
だが爆発ではなく、制御された一点突破の熱。

壁の一部が崩れ落ち、外の空気が流れ込んできた。

アリアは咳き込みながらも、その隙間を駆け抜ける。

「……ふうっ!」

外の冷たい夜気を吸い込んだ瞬間、胸に広がったのは生の感覚だった。
だが背後で足音が響く。

「逃がすな!」

地下口にいた兵士――いや、刺客たちが追いすがる。
アリアは振り返り、瞳を燃やした。

「……今度は私の番よ」

小さく囁くと、その手に灯した炎が揺らめき、夜闇を照らし始めた。

「殿下を生かして帰すな!」
背後から響く叫び声とともに、複数の足音が迫ってくる。

アリアは振り返り、両手を広げた。
炎が掌に灯り、夜風に揺れる。
その輝きは怒りの焔ではなく、道を照らす光。

「……あんたたちなんかに、私の未来も子供たちの笑顔も壊させない!」

駆け寄る影に向け、アリアは地を這う炎を走らせた。
爆ぜることなく、まるで蛇のように地面を舐め、追っ手たちの足元で炎の壁を立ち上げる。
刺客たちは慌てて後退し、その一瞬の隙がアリアに逃げ道を与えた。

だが追撃は止まらない。
狭い路地を駆け抜けると、次の角から別の兵が現れ、槍を構えて立ち塞がった。

「そこまでだ、アリア殿下」

顔に見覚えがある。孤児院の案内を務めた役人だ。
今は目が冷たく、もはや「忠義」の色はない。

「……やっぱり、あんたが黒幕だったのね」
「黒幕だと? 違う。ただ、変わらぬ権力を望む者の一人にすぎん」

役人は冷笑を浮かべる。
「次代を選ぶ騒ぎに巻き込まれたくはないのだ。――君がいる限り、力で道を切り拓くと信じる者たちが増える。それが面倒なのだよ」

その言葉に、アリアの胸が熱くなる。
「力を恐れるからって、弱き者を罠にかけて殺そうとするの? そんな卑怯な大人、絶対に許さない!」

「言葉など、未来を決めはしない!」

役人が槍を振り下ろす。
アリアは瞬時に炎を集中させ、その槍の穂先を焼き払い、赤熱化させた。
悲鳴をあげて槍を取り落とす役人。

「……未来を決めるのは、言葉でも剣でもない」
アリアの炎が周囲を照らし、路地の石壁に影を描く。
「――私たちがどう生きて、どう護るか。それだけよ!」

役人は怯え、後ずさる。だがアリアはその腕を掴み、強く睨み据えた。
「あなたの仕業、全部話してもらうわ」

燃え盛る炎の熱に包まれながら、役人の抵抗は萎んでいった。

しばらくして、駆け付けた正規兵たちに役人は引き渡された。
アリアは深く息を吐き、額の汗を拭った。

「殿下、ご無事で!」
「ええ……でも、私が迂闊だった。人を信じるのは大事だけど、疑う強さも持たないと」

アリアの声はかすかに震えていた。だがその瞳は迷いを失っていない。

彼女は立ち止まり、夜空を見上げた。
黒雲の隙間から覗く星々が、炎のように瞬いている。

(火は、破壊の力じゃない。未来を照らす光……)

孤児院の子供たちの笑顔が脳裏に蘇る。
その笑顔を護るために、この火を燃やし続けると――アリアは胸に誓った。

王城に戻ったアリアを、兄たちは迎えた。
ルシアは安堵の息を吐き、アレイドはからかうように言った。

「全く……お前は火事より火種を呼び寄せるな」
「うるさい! でも……もう大丈夫」

そう答えるアリアの瞳には、確かな強さが宿っていた。

――その夜、王都の闇に潜む陰謀の一端は暴かれた。
だがそれは同時に、宮廷に広がる「見えぬ闇」がさらに深いことを示す兆しでもあった。

炎は闇を裂く。
だがその光が届かぬ影は、まだ王城の奥底に潜み続けていた。

5-4:揺らぐ宮廷 ― 長兄と妃の視座

王都の夜は、外から見れば華やかで穏やかに見える。だが城の中では、火急の報せが絶え間なく行き交い、静寂はいつも不穏なざわめきに塗り替えられていた。

国王アークは私室の窓辺に立ち、街を見下ろしていた。夜の灯火は美しい。だがそれは、嵐の前の灯のようにも見える。

「……アリアが襲撃を受けたそうだな」
静かな声に応えたのは、傍らに立つミカだった。彼女の眼差しには動揺があったが、それ以上に確固たる冷静さが宿っている。

「はい。幸い、殿下ご自身の炎によって切り抜けられました。ですが、兵の中に共犯者がいたことは……重い事実です」
「内部にまで影が伸びている、ということか」

アークの声は低く、硬い。
彼は王としての重責を担ってきた男だ。だが今、その表情には一人の父としての苦悩も滲んでいた。

「子供たちが、それぞれ“影”に触れ始めている。……避けられぬこととはいえ、まだ早いと思っていたのだがな」

ミカはそっと視線を落とし、両手を組んだ。
「陛下。避けて通れるものではありません。彼らはすでに、王家の名と血に縛られているのです」

「わかっている」
アークは目を閉じる。
「だが、父としては……彼らにもう少しだけ、平穏を与えてやりたかった」

その時、扉が叩かれた。
「陛下、失礼いたします」
現れたのは近衛長だった。顔色は険しい。

「何があった」
「はい。今宵、密かに宮廷の一部で大臣らの集会があった模様です。……“次代の座”をめぐる不穏な言葉が飛び交ったと」

アークは眉をひそめた。
「やはり来たか」

ミカは一歩前へ進み、静かに問う。
「どなたが中心ですか」
「未だ明確には掴めておりません。ただ……“影の後ろ盾”を受けているとの噂もあります」

アークは沈黙した。
「影」とは、この王都に根付く地下の勢力を指す隠語だ。古くから権力の隙間を食らい、誰も正体を掴めぬまま、しかし確実に存在感を持ってきた。

その後、近衛長が去った部屋に静寂が戻る。
アークは椅子に腰を下ろし、額を押さえた。

「……ルシアも、アレイドも、アリアも、それぞれの場で影に触れた。だがこれは偶然ではない。何者かが仕組み、意図的に試している」

ミカは小さく頷いた。
「影は、必ず次代の座に揺さぶりをかけるでしょう。候補が揃う今こそ、もっとも暗躍しやすい時期ですから」

アークはミカを見やり、静かに言った。
「お前はどう思う。子らのうち、誰が最も影に呑まれやすい」

一瞬、空気が張り詰めた。
ミカは目を伏せ、ゆっくり言葉を選ぶように答えた。

「ルシア殿下は人の声を信じます。その強さは同時に、裏切りに弱い。アレイド殿下は見抜き、先手を打てますが……彼自身、影に魅せられる可能性があります。アリア殿下は純粋すぎます。炎で照らすことはできても、時にその光が人を焼きかねません」

アークは苦く笑った。
「つまり……三人とも、危ういということか」
「ですが、同時に――三人とも“強さ”を持っています」
ミカの声は揺らがなかった。
「それを信じてこそ、王家の未来は繋がるのです」

アークはしばし黙し、やがて小さく頷いた。
「……ならば、我ら大人がどう動くかだな」

夜は深まり、ふたりはさらに話を続けた。
だがその陰で――王城の廊下の暗がりには、また別の影が潜んでいた。

「……なるほど。やはり揺れ始めたか」
囁く声。
王の間で交わされた言葉の断片は、闇の中に溶け、どこかへと運ばれていった。

宮廷の影は、すでに静かに動き出していたのだ。

翌日。
王城の一角、普段は使われぬ小広間に数名の貴族が集っていた。窓は重い帳で覆われ、灯火の明かりだけが揺れている。

「……昨日の件、ご存じか」
「アリア殿下が罠に嵌められた、という噂ならば」
「影の仕業だろう。だが問題は、そこに兵が加担していたという事実だ」

低い声で交わされる囁き。
そこに漂うのは恐れではなく――期待だった。

「いずれは次代が定まる。ならば、早いうちに流れを作っておくのが賢明というもの」
「ルシア殿下は温厚だが、あまりに人を信じすぎる。扱いやすい、と見る向きもある」
「アレイド殿下は厄介だ。戦略も魔術も、何でも見抜く目を持つ。……影に狙われて当然だろう」
「アリア殿下は激情の炎。王座には不向きだが、駒にはなるかもしれん」

言葉の刃が、子らの未来を勝手に切り刻む。
その場の誰も、罪悪感を口にすることはなかった。

――その様子を、暗がりからひとつの影が見ていた。
フードを深くかぶった使者が、気配を殺して壁に寄りかかる。

(……なるほど。やはり彼らも揺れている)

彼は一歩も動かず、ただ耳を澄ませ続ける。

一方、同じ城内。
アークとミカは、別の形でその「会合」の情報を受け取っていた。
密偵が差し出した報告書には、会合に出席していた大臣や貴族の名が列挙されている。

「……やはり、表で忠義を語りながら、裏で駆け引きをしているか」
アークは眉を寄せる。

ミカは報告書を手に取り、淡々と読み上げる。
「彼らはまだ“誰を担ぐか”決めていません。ですが、その揺れこそが危うい。影にとっては、入り込む隙です」

「このまま放置すれば……兄妹の誰かが、影と結びついたと囁かれることになるな」
「陛下。それは即ち“王家そのものの信頼”が崩れることを意味します」

アークはしばし沈黙し、やがて決意を込めた声で言った。
「……子供たちには知らせぬ。まだ早い」

だがミカは静かに首を振った。
「いいえ、陛下。彼らはすでに自らの足で影に触れました。知らぬままでは、逆に呑まれます」

アークは彼女を見つめ、ため息をついた。
「……そうかもしれんな。だが、どう伝えるべきか」

ミカは迷いなく答えた。
「“王家の未来は影に狙われている”。それだけで十分です。詳細を告げずとも、三人は自ら考えます」

アークの口元にわずかな苦笑が浮かぶ。
「……母は強いな」
「父が迷う時は、母が背を押す。それだけのことです」

短いやり取りだったが、その裏に重い覚悟があった。

夜更け。
宮廷の奥でまた別のささやきが交わされていた。

「……動きはどうだ」
「既に、殿下方はそれぞれ試されつつあります」
「良い。強ければ利用し、弱ければ潰せ」

冷たい声が、蝋燭の炎を揺らした。
影の者たちは決して一枚岩ではない。だが彼らの共通の目的は――“揺らぎを生むこと”。

やがてその渦の中心に、兄妹三人は立たされる。
それを知る者はまだ、王と妃のほかにはいなかった。

その夜。
アークはひとり執務机に向かい、羽根ペンを走らせていた。
書き記しているのは、子らに宛てた短い手紙だった。

『影は必ず王家を試す。だがその時、己を見失うな。
ルシア、アレイド、アリア――お前たちが選ぶ道が、未来を定める。』

書き終えたその手紙を封じ、アークは深く息を吐いた。
そして窓の外を見やる。王都の灯火は、今も揺れている。

「……どうか、この揺らぎを越えられる強さを」

誰にともなく呟いた祈りは、夜の静寂に吸い込まれていった。

その時、また一つ――見えざる影が、城壁を越えて忍び寄っていた。
それは、兄妹たちが次に直面する「試練」の前触れにほかならなかった。

 

5-5:影を越える覚悟

夜の王宮。
食堂の喧騒も、広間の音楽もすでに止み、今はただ松明の灯が静かに揺れるだけだった。

その静けさを破るように、王の私室に三人の兄妹が呼び出された。
ルシア、アレイド、アリア――それぞれの瞳には驚きと緊張が混ざっている。

「父上、こんな夜更けに……」
ルシアが慎重に口を開いた。

「うむ。すまぬな。だが今夜は、どうしても伝えておかねばならんことがある」
アークの声は低く、だが一言一言に重みがあった。

側に控えるミカもまた、真剣な面持ちで三人を見つめている。

「……皆も薄々感じているだろう。お前たちが政務や任務に携わるようになってから、ただの学びや訓練では済まぬ“影”が、確かに周囲にあることを」

その言葉に、アレイドが眉を上げた。
「……影、ってのはつまり……あの妙に動きの早い刺客や、裏でこそこそ動いてる連中のことか」

アークは頷いた。
「そうだ。王家に仇なす者、野心を抱く者、外から忍び込む者……呼び方は様々だが、総じて“影”と呼んでよい。彼らは王座を狙い、揺さぶろうとしている」

アリアが唇をきゅっと結び、声を上げる。
「じゃあ、この前わたしが嵌められたあれも……」
「そうだ。お前たち一人一人が、既に“試されている”。それが事実だ」

兄妹の胸に重い沈黙が落ちた。

ルシアはしばし俯き、やがて静かに顔を上げる。
「……つまり、僕たちが狙われる理由は“次代”にあるのですね」

「その通りだ」
アークの目が鋭く光る。
「お前たちの誰が王座を継ごうとも、その道は平坦ではない。影は必ず、揺さぶりに来る。試すように、あるいは壊すために」

アレイドが肩を竦めた。
「ずいぶんと物騒な通過儀礼だな。……でもまあ、そういう連中がいるなら、こっちも腹を括るしかないか」

「軽口で済ませられることじゃない」
ミカが厳しく言葉を挟む。
「影は“子供だから”と見逃してはくれません。容赦なく牙を剥きます。それを忘れないことです」

アリアは拳を握りしめ、強い声で返した。
「怖くなんかない! わたしは……わたしは、炎でみんなを守る!」

その勢いに、アークはわずかに目を細める。
「その覚悟は尊い。だが炎は、守るために使うべきだ。怒りや憎しみで燃やしてはならぬ」

アリアは頷いたが、その胸には確かに熱が燃えていた。

一方、ルシアは父の言葉を噛み締め、静かに息を整える。
「……僕は、恐怖を煽られても揺るがぬ人でありたい。民を安心させ、皆を導ける王に」

アークは、誇らしげに長男を見つめる。
「それができれば、どれほどの影もお前を倒せはせぬ」

アレイドは椅子に身を預け、軽く笑った。
「……となると、俺の役割は“相手の手を先に読むこと”だな。理や知識じゃなく、命懸けで。正直、胃が痛くなる話だけど……まあ、やるしかない」

「お前にはそれができる」
アークは迷いなく言い切った。

兄妹三人の目が、同じ一点で交わる。
――影を越えるため、それぞれが決意を胸に刻む瞬間だった。

「……以上が、今日伝えたかったことだ」
アークは立ち上がり、子らを見回した。
「お前たちはこれからも迷うだろう。だがその迷いが、人を導く力になる。決して恐れるな」

重い会議が終わり、兄妹たちはそれぞれの部屋へと戻っていった。

――夜更け。

兄妹たちはそれぞれの部屋に戻った。
同じ宮殿の中にありながら、その心に響いていたのは先ほど父から告げられた「影」という言葉だった。

ルシアの部屋

机の上に積まれた政務の書類。まだ若い指が、震えずにその紙を整えていく。
だが胸の奥では、確かなざわめきが広がっていた。

「……影。僕たちの未来を試す者たち」

ルシアは静かに呟いた。
思い出すのは、昼間市場で交わした民の笑顔。
彼らは無邪気に「次代の王子様」と呼び、手を振ってくれた。

「守らなければならないのは、あの笑顔だ」

彼は深く息を吸い込み、窓辺に立った。
外には銀の月が輝き、夜の王都を淡く照らしている。

「僕は争いを選ばない。けれど争いを避けるために、強くあらねばならないんだ」
その声は、誰に聞かせるでもなく夜気に消えていく。

アレイドの部屋

アレイドは机に肘をつき、蝋燭の炎を眺めていた。
昼間、廊下の視線ひとつで暗殺を察知した自分の感覚。――だが、今回は運が良かっただけかもしれない。

「……もし次は読み違えたら、俺は終わりだ」

笑みを浮かべながらも、その心は重かった。
理論や戦術、魔術の知識――万能型を自称してきた。
だが、影はそんな“学び”だけでは越えられない。命を懸ける現実がそこにある。

「……怖いな」
正直に吐き出す。

それでもすぐに唇を吊り上げる。
「でもまあ……怖いってことは、生きる意味をまだ失っちゃいないってことだろ」

アレイドは立ち上がり、窓を押し開ける。
夜風が頬を撫で、月がその顔を照らした。

「いいぜ、やってやる。影だろうが何だろうが、先手で叩き潰す」

アリアの部屋

ベッドの上に膝を抱えていたアリアは、炎の小さな灯を指先に揺らしていた。
赤い光は彼女の瞳を映し、まるで心そのものを形にしているようだった。

「……罠に嵌められて、怖かった。ほんとに、怖かった」

誰もいない部屋で、初めて弱音を吐く。
けれど同時に思い出す――孤児院の子供たちが、自分を見上げて呼んだ声を。
「お姉ちゃんみたい」――その言葉。

「わたし……炎でみんなを守れるって思ったの。だから……」

炎をぱっと開き、光のように広げる。
それは破壊の火ではなく、夜を温める光だった。

「わたしは導く光になる。怖さを抱えてても……絶対に、守る」

そう言って立ち上がり、窓を開ける。
夜空に輝く月が、彼女の瞳に映った。

同じ月の下で

ルシアも、アレイドも、アリアも――
別々の部屋で、それぞれの窓辺に立ち、同じ月を見ていた。

互いの声は届かない。
だが三人の心は、確かに同じ願いに向かっていた。

――影を越え、未来を守る。

その覚悟は、夜の静寂と銀の月に刻み込まれていった。

 

5-6:囁く黒幕

王宮の奥、灯火の届かぬ一角。
普段は使われぬ会議室のさらに奥にある隠し扉の向こうで、ひとつの影が深く腰を下ろしていた。

机の上に置かれた蝋燭は一本きり。
その光すら覆い隠すように、仮面を被った数人が沈黙の中に佇んでいる。

「……三人とも、芽を出し始めたな」

低い声が空気を震わせた。
主と思しき影の人物が、ゆっくりと視線をめぐらす。
ルシア、アレイド、アリア――三人の名を呼ばずとも、そこに集う者たちの脳裏には同じ顔が浮かんでいた。

「長兄は人をまとめる力を見せた。廊下で密談を制し、言葉で大臣らを縛った。……まるで“父”の若き日を彷彿とさせる」

「次兄は……」別の影が続けた。
「殺意の影を察知し、未然に摘み取った。理と知だけでなく、実戦にも適応し始めたな。あの年であの嗅覚……やはり油断ならん」

最後に、女性らしき影が笑みを含む声で囁いた。
「末妹は……火を抱えて生き延びた。罠を潜り抜け、自らの炎を“光”へと変えようとした。――あの子が最も危うく、そして最も希望を孕んでいる」

しばし沈黙。
蝋燭の炎が揺れ、仮面の奥の眼が次々と月光のように光る。

「だが――まだ未熟」
主の影が、はっきりと告げた。
「彼らに“継承”を語るには早すぎる。だからこそ、試すのだ。我らの望む形に育つのか、それとも潰えるのか」

「試す……?」
一人の仮面がわずかに傾いた。

「ああ。これまでは小さな仕掛けに過ぎん。密談を流したのも、暗殺者を忍ばせたのも、末妹を地下に誘ったのも……全ては“触れ”にすぎん」

別の影が忍び笑う。
「では次は――“打つ”ということか」

仮面の奥で頷きが連なる。
その場に集う者たちは、王家の血筋に“試練”を課すことを楽しんでいるかのようだった。

重苦しい沈黙のあと、主の影が再び口を開いた。

「継承とは、血を継ぐだけではない。選ばれるに値する力を示さねばならぬ。……あの三人の誰が“影”を越え、光へと至るか。我らは見極めねばならん」

「しかし――」と別の仮面の影が反論する。
「もし全員が育ちきればどうする? 争いが避けられぬではないか」

「争わせればよい」
冷徹な声が遮った。
「王座は一つ。継承の道に立つなら、兄妹であろうと互いに爪を研ぎ、牙を剥かねばならぬ。それが“国”というものだ」

「……ふふ、冷酷だな」
女性の影が笑う。
「だが、血筋の者たちが成長しきったとき――その器が本物なら、たとえ争いを越えようとも、新しい“時代”を切り拓く。そういうことかしら」

「いずれにせよ、我らは仕掛け続ける」
主の影が机に指を打ちつけ、蝋燭の炎が震えた。
「宮廷の闇も、外の国境も、民の不安も――すべてが彼らを試す“舞台”になる。甘さに溺れる者は退け、影を恐れる者は沈む。……それを乗り越えた者のみが、次代を名乗る資格を持つ」

その場の全員が頷いた。
それは忠誠の誓いではなく、冷たい合意。
王家の三人を育てるのではない。追い詰め、削り、選別するのだ。

「……見ているがいい」
主の影が立ち上がり、背を向ける。
「月は三人を等しく照らしている。だが、影は常にその隣にある。
――継承を巡る影の試練は、まだ始まったばかりだ」

蝋燭の炎がふっと消える。
その瞬間、闇はさらに濃くなり、宮廷全体を覆い尽くすかのようだった。

同じ夜――ルシアも、アレイドも、アリアも、それぞれの窓から月を見上げていた。
しかし、その月の下に広がる影の深さを、まだ知る由もなかった。

 

 

第6章:試練編 ― 揺らぐ光と影

6-1:揺らぐ民心 ― ルシアの選択

王宮の政庁。朝の光が差し込む会議の間には、長い楕円の卓が据えられ、その周囲を取り巻くようにして重臣たちが座っていた。空気は張り詰めており、紙の擦れる音や筆の走る気配がやけに大きく響く。

その中央席には、まだ若い王子――ルシアが静かに腰掛けていた。父王の姿はなく、臨時の政務を任されたのは彼だった。

「――税の徴収に関してですが、今年の収穫は平年を下回っております。王都へ運ばれる物資も例年の七割程度。地方は不満を募らせております」

まず報告の声が上がったのは財務卿だった。細い指先で文書を持ち上げながら、眉間に皺を寄せている。

「それは流通を担う輸送卿の怠慢であろう」
隣の席から即座に反論が飛んだ。「地方への回し方が悪いから王都に不足が出ているのだ。税率は据え置きだというのに、民からは悲鳴ばかりだ」

「な、なんだと。農地の減収は天候不順が原因だ! 責められる筋合いはない!」

怒声が会議室を揺らす。互いに矢を向け合うように非難の応酬が続き、場の空気は次第に険悪さを増していく。

ルシアは黙って彼らを見渡していた。
彼の瞳は淡い青色を帯び、怒りよりも静けさを湛えている。だが心の奥では、微かな苛立ちが膨らんでいた。

――肝心なのは、責任の所在ではない。民が苦しんでいる、その現実だ。

しかし重臣たちはそれを直視しようとせず、互いに非をなすりつけ合うばかりだった。

「……もうよい」
低いがはっきりとした声でルシアが口を開いた。
その瞬間、言い争っていた大臣たちの声がぴたりと止まる。

「互いを責めることで、飢えた民の腹が満ちるのですか? 言葉で投げられた矢は、民の空腹を和らげてはくれません」

場に重たい沈黙が落ちた。
年長の大臣の一人が、やや侮蔑を含んだ目を向ける。

「……若き殿下は理想を仰る。しかし理想だけで国は動かせませぬぞ。民は待ってはくれません」

「理想、ですか」ルシアは穏やかに返した。「ですが、今必要なのは理想を掲げることではなく、皆が手を取り合うことです。物資が不足しているなら、王都の備蓄を開放してもよい。地方に余裕のある領から融通してもらうこともできるはずです」

「し、しかし、それでは王都の食糧が――」

「王都だけが満たされ、周辺が飢える。そのような構図が、どれほど民の心を離れさせるか。皆も理解しているはずです」

ルシアの声は強くはない。だが不思議と胸に響く温かさを持っていた。
彼は一人一人と目を合わせながら、静かに言葉を紡ぐ。

「私は若輩です。けれど、父王が常々申しておりました。『王座とは高みにあらず、民のただ中に在るものだ』と。今こそ、それを示すべきときです」

――その瞬間だった。会議の隅に控えていた小姓が、僅かに肩をすくめ、誰かと目配せするのをルシアは見逃さなかった。

(……噂が広められているな)

「若き王子は無力だ」という言葉。
彼の耳には、ここ数日でちらほらと届き始めていた。今まさに、会議場の外でそれが囁かれているのだろう。

ルシアは表情を崩さずに心を決めた。
彼は敢えて微笑み、卓を叩いた。

「ならば、証明いたしましょう。王子が無力かどうか――皆と共に策を練り、実行してみせます」

大臣たちがざわめく。年長者の一人が、咳払いをして言った。

「……殿下は本気で?」

「ええ。私は一人ではありません。皆と共に歩みます。どうか、この場を“責任の押しつけ合い”ではなく、“解決のための知恵の場”にしていただきたい」

――静けさ。
やがて、誰かがため息をつき、次いで別の者が小さくうなずいた。

「……仕方あるまい。では、各地の備蓄の数字をもう一度洗い出しましょう」

「王都の備蓄の放出については……条件付きであれば可能かと」

空気がわずかに変わる。
重苦しい対立の場が、少しずつ協力の色を帯びていく。

ルシアは胸の内で小さく息を吐いた。だが同時に、心の奥では自問が生まれていた。

――これでいいのだろうか。
ただ善良であるだけで、人はついてくるのか?
甘さと見られれば、影はその隙を突くのではないか?

彼は笑みを保ちながら、静かに己に問いかけ続けていた。

(信頼を得るには……どうすればいい? 民の心を掴むには、ただ言葉を並べるだけでは足りないはずだ。耳を傾け、共に歩む。その姿を示さなければ)

まだ答えははっきりしない。
だが、この場を凌いだことは確かだった。

――それは同時に、次なる試練の予兆でもあった。

会議の後、ルシアはひとり部屋に戻ることなく、そのまま宮殿の中庭を抜けて城門へと歩み出た。
護衛の騎士が慌てて付き従う。

「殿下、どちらへ?」

「民のもとへ。……会議の机上では分からぬことがある。言葉を尽くすより、まず耳を傾けよう」

騎士たちは目を見合わせたが、それ以上は止めなかった。彼の瞳にある決意が、言葉以上に揺るぎなく思えたからだ。

――

王都の市場。
昼を過ぎ、商人や職人、買い物に訪れる人々の声で賑わっているはずの場所だったが、どこか陰りがあった。露店の棚に並ぶ穀物は少なく、干し肉の値も普段より高い。人々の笑い声も、どこか乾いていた。

ルシアが姿を現すと、最初は誰も気付かなかった。だが護衛の姿に気づいた少年が目を見張り、次第に人だかりが広がっていく。

「……あれは……王子殿下では?」

「本当に……?」

「なぜ市場に……?」

ざわめきが起こる中、ルシアは立ち止まり、微笑みを浮かべて言った。

「皆に会いに来ました。……今日の暮らしの声を、私に聞かせてほしい」

その一言で、場の空気が一変した。
最初は戸惑っていた人々も、次第に不満や苦労を口にし始める。

「殿下……税が重いのです。収穫が減っているのに、納める量は変わらず……」

「私ら商人も困っております。王都に持ち込む品が減り、値を上げざるを得ない。だが、値を上げれば買う人が減る」

「子供たちに腹いっぱい食べさせられないんです……殿下、どうか……」

次々と注がれる声に、ルシアはただ黙って耳を傾けた。眉をひそめる者もいれば、涙を浮かべる者もいた。
護衛の騎士は口を挟もうとしたが、ルシアは手で制した。

「どうか、続けてください。私の耳は皆のためにあります」

やがて沈黙が訪れた。
誰もが「言ってよかったのか」と戸惑う中、ルシアはゆっくりと口を開いた。

「皆の声、確かに聞きました。……会議の席で、私は“備蓄の開放”を提案しました。だが数字や条件の話ばかりで、民の顔は見えなかった。……今日、皆の声を聞いて、はっきりと分かりました」

ルシアは歩み出て、ひとりの老女の前に膝をついた。
皺だらけの手が、震えて小さな籠を抱えている。

「国は数字で動くものではありません。人が生きるためにあるのです。……王都も地方も、飢えることなく支え合えるように。私はその姿を必ず形にしてみせます」

老女の目に涙が浮かび、震える声でつぶやいた。
「……次代の……王子様……」

その言葉は、周囲の人々の胸を打った。
「王子様が……」「私たちを見てくださっている……」と、ざわめきが感謝の声へと変わっていく。

護衛の騎士が、感嘆のように息を吐いた。
「殿下……」

ルシアは立ち上がり、群衆に向けて深く頭を下げた。

「どうか信じてください。私は無力かもしれません。ですが、無関心ではありません。皆と共に、歩んでゆきます」

――その夜。
宮廷に戻ったルシアは、自室でひとり窓辺に立っていた。
月の光が静かに差し込み、昼の市場での声が耳に蘇る。

(私は……善良であるだけでは足りない。民と共に歩み、共に立つ姿を示さねばならない。信頼は、言葉ではなく行いで築くものだ)

外では風が木々を揺らし、遠くの鐘が鳴った。
その音に重なるように、宮廷の奥で小さな囁きが生まれる。

「王子は民の前に立った……だが、その理想は脆い。……いずれ、現実の影に試されることになるだろう」

誰の声か分からない。
だがルシアには、それが確かに迫り来る“試練”の前触れであることを、直感的に感じ取っていた。

彼は拳を握りしめ、月に向かって小さくつぶやいた。

「――揺らぐ心を、必ず繋ぎとめてみせる。民を信じ、民に信じられる王へ……」

月光は静かに彼を照らし、その影は次第に確かさを増していった。

――こうして、ルシアの“選択”は、まだ始まったばかりだった。

6-2:揺れる刃 ― アレイドの決断

戦術本部の演習場。
石造りの広間の床には木製の模型が並べられ、地図を模した砂盤の上には赤と青の駒が置かれていた。
今日の課題は「国境付近での急襲対応」。だが、アレイドは開始早々に違和感を覚えていた。

「……情報が粗すぎるな。敵の数も、補給線の位置も、妙にあいまいだ」

隣で駒を動かしていた若い副官が苦笑する。
「殿下、演習ですから。あえて不確定要素を残すのも狙いでしょう」

「不確定と不自然は違う。……これは、誰かがわざと仕組んでるな」

鋭い視線を砂盤に落とすアレイド。
彼の勘は、これまで幾度となく戦術会議を救ってきた。だが今回は、さらに強いざわめきが胸を満たしていた。

演習が始まると、部隊を模した駒が次々と進められる。
アレイドは指揮役として、各班に指示を出した。

「第二区、南の丘を制圧。第三班は遅れるな、補給路を確保しろ。……よし、進め」

だが次の瞬間、報告役の兵が慌てた様子で駆け込んできた。

「報告! 第三区隊が待ち伏せを受け、孤立しました!」

「なに……?」
アレイドは鋭く眉をひそめる。

砂盤を見ると、確かに駒が孤立していた。だが、それは与えられた情報通りに進んだ結果だった。
「敵はこの位置にはいないはずでは……」と副官が声を漏らす。

アレイドは低く呟いた。
「……やはり仕組まれていたか」

演習でありながら、隊の“敗北”は士気を下げる。ましてや仲間の名誉にも関わる。
副官が不安げに問う。
「殿下、救援を出しますか? ですが予定通り進めば、中央突破が可能です。ここで救援に割けば、全体の勝利条件が崩れます……」

会場が静まり返る。
若き王子の決断を、全員が注視していた。

アレイドは唇を引き結び、砂盤を睨みつけた。
目の前には二つの選択肢。
「計画通りに進め、孤立した仲間を切り捨てる」か。
「救援に動き、全体の勝利を危うくする」か。

(……これは、ただの演習じゃない。俺を試している。誰かが“判断”を見ている)

胸の奥で冷たいものが広がる。
同時に、孤立した仲間の顔が脳裏に浮かんだ。彼らは無力ではない。だが、情報を誤魔化された以上、彼らに非はない。切り捨てるなど、到底受け入れられなかった。

アレイドは短く息を吐き、手を砂盤に伸ばした。

「――救援を出す。だがそのままでは全体が崩れる。……即興で布陣を立て直す。いいか、聞け!」

指先が駒を弾き、戦線が組み替えられていく。
副官たちは目を見開いた。

「殿下……そんな迂回策を……?」

「敵は待ち伏せに兵を割いた。ならば中央は薄い。救援を出しつつ、同時に中央を突き破る。二手を同時に動かすには危険もあるが……“全部守るため”にはそれしかない」

声は低く、だが揺るぎなかった。
周囲の兵たちは一瞬迷ったが、やがて頷き、駒を動かし始めた。

――そのとき。
会場の片隅で、誰かが小さく笑う声がした。
アレイドは気づいたが、あえて振り返らなかった。

(俺が動くたび、誰かの仕組んだ“策”を潰すことになる。……だが、それが影に潜む者を暴く唯一の道でもある)

砂盤の上で駒が進み、演習の空気は一変していった。

――

アレイドの指示で、砂盤の駒は一気に組み替えられていった。
救援隊は孤立した第三区へ、主力は中央突破へ。矛盾する二つの行動を同時に進める策――成功すれば全軍を救い、失敗すれば全滅に等しい危険な賭け。

副官の一人が声を震わせる。
「殿下、本当に両立できるのでしょうか……? 無理に二つを抱えれば、どちらも失うことに……」

アレイドは迷いを見せず答えた。
「失う可能性があるなら、最初から二つを選ぶしかない。――すべてを護るために戦術はあるんだ」

短い言葉に、不思議と兵たちは息を飲んだ。
冷徹ではなく、理想を掲げながら現実を見据えた声。若き王子の指揮に、全員の意識が一つにまとまっていく。

――演習は続く。

報告兵が次々と駆け込む。
「救援部隊、敵の待ち伏せに突入! しかし突破口を開きつつあります!」
「中央部隊、敵防衛線を破りつつ進軍中!」

砂盤の上では、赤と青の駒がせめぎ合い、息詰まる攻防が展開されていった。
だがアレイドは冷静に全体を見渡していた。

(救援部隊は時間を稼いでいる。中央は――敵の兵力が散っている。やはりな。仕組んだ者は“孤立を見捨てる”俺を想定していた。全軍で突破させ、仲間を犠牲にする判断……それを俺に迫りたかったんだ)

心の奥に、鋭い痛みが走った。
「もし俺が冷徹に勝利を選んでいたら……彼らは“殿下は冷酷だ”と噂を流したはずだ。だが俺が救援を選んだことで、逆に彼らの筋書きは崩れる」

アレイドは駒を一つ前に押し出した。
「よし、救援部隊と中央部隊をここで合流させる。孤立は解消、同時に敵を挟み込む形になる。――一気に畳みかけろ!」

兵たちが声を揃えた。
「応!」

砂盤の上で駒が重なり合い、やがて勝敗は決した。
全軍は勝利条件を満たし、孤立していた仲間も守られたのだ。

場に一瞬の静寂が流れ――次いで拍手が広がった。
「……殿下の即興策で、全員が生き残った……!」
「無謀ではなかった……本当にやり遂げたのだ……!」

アレイドは腕を組み、拍手に軽く応じるだけだった。だが胸の奥では冷たい汗が流れていた。

(……あぶなかった。ほんの一手違えば、全滅していた。これが“影に潜む者”の狙いか。俺を動揺させ、判断を誤らせる……)

その時、耳の端で囁くような声がした。
「――若き王子は万能か。だが、見抜き続けられるかな?」

アレイドは反射的に振り返った。
しかしそこには、ただの観覧役の将校たちしかいない。
だが確かに聞こえたのだ。“試す声”が。

副官が声を掛けた。
「殿下……? どうかされましたか」

アレイドは視線を戻し、わずかに笑みを作った。
「いや、何でもない。ただ――今日で確信した。戦場も宮廷も同じだ。敵は剣を振るわずとも、策を仕掛けてくる」

副官は息を呑む。
「……それでも殿下は、皆を護る道を選ぶのですね」

アレイドは答えた。
「護ることは前提だ。だが――それだけじゃない。“仕組む者”を見抜き、先手を打たなきゃ、未来は奪われる。俺は……影に潜む刃を、見抜き続ける覚悟を持たねばならない」

その言葉は、己への誓いのように響いた。

演習場の外へ出ると、夜の空気が冷たく頬を撫でた。
空には雲間から覗く月が浮かんでいる。

アレイドはしばしその光を見上げ、静かに呟いた。
「兄上、妹よ……俺は、俺のやり方で影を斬る。たとえ誰が仕組もうと――必ず」

月光が彼の横顔を照らす。
それは、若き王子が背負う「決断の刃」を映し出しているかのようだった。

6-3:紅の火と孤立 ― アリアの試練

秋の空が低く垂れこめる市街。演習の名目で集められた人々の中に、少しずつざわめきが生まれていた。建物の影に潜む兵たちは警戒態勢を整え、だが街の民は騒ぎの意味を理解せず、ただ不安を募らせる。アリアは孤児院の子どもたちと共に歩きながら、その空気の重さを感じていた。

「……こんなに怖がるとは思わなかった」アリアは小声で独り言のようにつぶやく。

傍らの少年が不安そうに目を逸らす。

「大丈夫……姉さんがついてるから」

アリアは微笑んだ。口元は柔らかくても、瞳の奥に炎のような光が灯っている。

演習の開始とともに、群衆は混乱の兆しを見せ始めた。突如として駆け出す人々、叫び声、割れた陶器の音。火を扱う能力者として、アリアは瞬時に状況を見極める。だが胸の奥で、かつてない恐怖がざわめいた。

「炎……怖がられる……」

ある中年の商人が小声で仲間に告げる。「あの子……怪物じゃないか?」

その言葉が耳に届いた瞬間、アリアの心はぎくりと跳ねた。火を使う自分が、単なる力の象徴ではなく、恐怖の存在と見なされる現実。孤児たちは彼女の手をしっかり握り、信頼を示す。

「みんな……守る、私が守る……!」

アリアは一度深呼吸をすると、手を前に掲げ、炎を静かに、しかし確実に制御する。燃え盛る火ではなく、温かく揺れる灯火として。群衆の目に映るのは、破壊の象徴ではなく、導きの光だった。

「逃げろ、でも怪我はするな!」彼女の声が群衆の耳に届く。小さな火の光が人々を包み込むように広がり、恐怖が次第に和らぐ。しかし、心の奥の痛みは消えない。

「やっぱり……私の力は、まだ怖がられるんだ……」

孤児たちが彼女の後ろに集まり、安心した表情を見せる。だがアリアは自らの炎に問いかける。力は守るためのものだ。それを示すことで、人々を恐れさせずに導くことは可能か。試される覚悟は、想像以上に重かった。

「火は……力じゃない……光……導くための光……」

再び炎を手のひらで揺らす。灯火の光は静かに揺れ、夜の空気を温める。アリアの決意は固まった。だが視線の端に、まだざわめく影がある。完全に群衆を制御したわけではない。

「怖がられる覚悟……それも導く者として必要なんだ」

アリアの声に、孤児たちは目を丸くする。まだ小さな彼らにとって、姉の炎は単なる魔力以上の存在になりつつあった。勇気と温かさ、導きの象徴として。

その瞬間、背後で足音が静かに響く。演習の担当者か、それとも別の影か――。アリアは振り返らず、前方の群衆に目を向ける。炎を灯す手は微動だにせず、視線は確かに群衆の中心を射抜く。

「逃げろ、でも怪我はさせない」

声の強さに、群衆の動きはさらに落ち着く。人々は互いに目を合わせ、混乱の中でも秩序を保ち始める。アリアは小さく息をつき、心の中で呟いた。

「私……導く者としてやっていけるのかな……」

胸に残る痛みは、恐怖ではなく責任の重さに変わりつつあった。これまでの訓練では、炎は単に戦力として扱うものだった。しかし今、炎は人を導く光としての役割を求められている。

炎を灯す手を微動だにさせず、アリアは群衆の中心に立つ。だが、安心してはいられない。市街地の奥から、かすかな物音――不自然な足音や衣擦れの音――が混じり始めた。単なる混乱ではない。誰かが意図的に事態を煽ろうとしている。

「……罠……?」

孤児たちの手を握りしめながら、アリアは慎重に視線を巡らせる。炎を揺らすことなく、火の光は温かく、しかし力強く周囲を照らす。

「皆、私の声を聞いて……落ち着いて!」

群衆のざわめきは依然残るが、アリアの声には確かな指導力があった。炎がただの魔力ではなく、秩序を作る象徴になりつつあることを、彼女自身も理解する。

だが次の瞬間、一人の小役人が群衆の間に現れ、手元の装置を操作する。爆発や混乱を誘うための仕掛けだ。アリアの目にそれが映ると、瞬時に判断が下る。

「離れろ!」

手を大きく振り、炎を渦巻くように操作する。小さな火の光が障壁となり、装置に近づく者を遠ざける。同時に炎の光が路地を照らし、孤児たちはその光に導かれるように安全な場所へと避難する。

「姉さん……すごい……!」

孤児の一人が目を輝かせて呟く。アリアは微笑む余裕を見せるが、心の奥では冷や汗をかいていた。炎を制御するのは簡単ではない。力を誤れば、導く光ではなく破壊となる。

「力……だけじゃ駄目……光でなければ」

思考を研ぎ澄ませ、炎を小さく、鋭く、だが柔らかく制御する。破壊ではなく、道を切り開く光として。小役人は動きを封じられ、仕掛けた罠は無力化された。アリアはその場に駆け寄り、彼を捕らえる。

「なぜ……こんなことを?」

小役人は俯き、言葉を濁す。だがアリアは問い詰めるより、群衆と孤児たちの安全を優先する。炎は光、導くための光。彼女は力を「支配するもの」ではなく、「守るもの」として再認識した。

群衆のざわめきが次第に収まり、アリアの周囲には静けさが戻る。人々は恐れを抱きつつも、彼女の炎に安心を覚えた。その視線には畏怖と憧れが混ざる。

「導く者は、恐れられることも覚悟しなければ……」

孤児たちが笑顔を見せ、アリアは小さく頷く。胸に残る痛みは、恐怖や怒りではなく、自らの役目の重みを感じる証だった。炎は破壊の象徴ではなく、未来を照らす光になり得る。その確信が、アリアをさらに強くする。

夜が深まり、市街地に星の光が差し込む頃、アリアは孤児たちとともに孤立した建物の屋上に立つ。風が頬を撫で、街のざわめきは遠ざかる。炎の残り火が揺れ、静かに夜を照らす。

「私……導く光になれる……」

心の中で自分に誓う。炎は力ではなく、道を示す光。導く者としての覚悟が、確かに胸の奥で燃え広がる。孤児たちの手を握りしめ、微笑む。彼らの笑顔こそ、アリアが守るべき未来の象徴だった。

だが、その背後には未だ見えぬ影がある。誰かがこの試練を観察し、次の一手を用意しているかもしれない。アリアは振り返らず、夜空を見上げる。月明かりの下、彼女の炎は赤く、静かに燃え続ける。

「どんな試練が来ても……私は、この光を守る」

胸に抱く覚悟は、孤独な夜を越えて強さに変わる。導く光としての自覚が、試練の果てに芽生えた瞬間だった。

6-4:影の糸 ― 黒幕の仕掛け

王都の夜は、昼間の喧騒を忘れさせるほど静まり返っていた。しかし、その静けさは、空虚な安息ではなく、何かが潜む予感に満ちていた。

王宮の奥深く、アークとミカは書庫に集まり、日中の報告書を読み解いていた。単なる資料整理のはずだったが、二人の間には張り詰めた空気が漂う。

「アーク……これ、偶然じゃないと思う」ミカが資料の一枚を指差す。そこには、最近の民の不満や物資不足の報告、兵の不祥事の詳細が並んでいた。

「うん……それぞれ独立した出来事に見えるけど、時期や関係者を見ると、何か共通の意図がある気がする」アークが眉をひそめる。

「そう……。誰かが、私たち兄妹の動きを試しているのかもしれないわ」

ミカの言葉に、アークは静かに頷いた。だが、確証はない。ただ、事件の裏には計算された糸が張り巡らされていることを感じるだけだった。

その糸は、兄妹の一挙手一投足を観察するように繋がっていた。ルシアが民心をまとめ、アレイドが戦術を読み解き、アリアが炎で導く光を示す。そのすべてが、見えない手のひらで試されるように配置されている。

「つまり……私たちが動くたびに、反応が計算されているのか」アークの声は低く、しかし確信を帯びていた。

「でも、真相はまだ掴めない……」ミカがため息をつく。「黒幕は、私たちの前に姿を現さず、影で糸を引いている……」

アークは視線を遠くに向けた。王宮の壁の向こう、街の雑踏の奥、民衆のざわめき……すべてがつながる可能性を秘めている。小さな不祥事や混乱も、偶然ではなく、意図的に仕組まれているのだと直感する。

「兄妹たちは、知らず知らずに試されている。私たちの役目は……見守るだけでは済まないかもしれないな」アークの言葉には、責任と覚悟がにじんでいた。

その夜、王都の闇には小さな異変が点在していた。市場では物資の不足が噂され、兵営では一部の兵が不正に手を染め、民の間には不満がくすぶる。どれも単独では小さな問題に過ぎないが、背後には見えぬ手が潜んでいることを、アークとミカは薄々感じ取る。

一方、兄妹たちの動きもまた、試練に絡め取られていく。ルシアは民心の揺らぎに対処し、アレイドは戦術演習での混乱を察知し、アリアは市街での暴動に立ち向かう。そのどれもが、黒幕にとっては次の判断材料であり、導きの糸を確認するための仕掛けだった。

「私たち……ただの日常を送っているつもりでも、見られている……」ミカは唇を噛む。

「でも、避けることはできない。影に導かれるままではなく、私たち自身の判断で動くしかない」アークが言い切る。

その言葉に、ミカは小さく頷いた。影に試される日々の中で、兄妹は自らの力を確認し、試練に向き合う覚悟を固めていた。だが、それはまだ序章に過ぎない。黒幕の糸は、より複雑で巧妙に張り巡らされているのだ。

夜風が王都の街を吹き抜ける。静かな闇の中で、兄妹のそれぞれの部屋の窓には、月光が差し込み、彼らを包む。しかしその光の先には、未だ姿を見せぬ黒幕が、次の一手を練っている――。

翌朝、王都は昨日の静けさとは違う、微妙なざわめきで目覚めた。市場には物資不足の噂がちらほらと広がり、兵営では小規模な不祥事が報告される。これらはいずれも小さな問題に見えたが、アークは瞬時にその背後に共通の意図を読み取った。

「……これは単なる偶然じゃないな」アークは独り言のように呟く。

アークは深く息をつき、机の書類に目を落としたまま、声を低くした。
「……確かに、あちこちで異変が起きている。だが、それを繋げて考える者は少ない」

ミカは隣で資料を広げながら慎重に言った。
「アーク、昨日の夜の報告と照らし合わせると、全て繋がっている可能性があります。民の不満、兵の不祥事、物資の偏り……あの三人を試すための布石かもしれません」

アークは資料に手を伸ばすが、指先で触れるだけで紙をめくることはしなかった。
「そうか……この動きは、計画的だと?」
「ええ。偶発的な混乱ではない。誰かが影から糸を引いている」

アークは軽く眉をひそめる。
「影の存在……三人の子どもたちを試す者か」

ミカは隣で資料を広げながら慎重に言った。
「可能性は高いです。長男のルシアは民心を掌握する力、次男のアレイドは戦略眼、次女のアリアは圧倒的な魔力。いずれも、私たちの目に見える以上の潜在能力を秘めています」

アークは資料に手を伸ばすが、指先で触れるだけで紙をめくることはしなかった。
「……俺が見守るだけでは足りない。試練はこれから本格化する。三人は、これまでのように平穏な日常の中では学べない」

ミカはうなずき、机に資料を置きながら静かに言った。
「そうですね。だからこそ、私たちも背中を支え続ける必要があります。でも、彼ら自身が答えを見つけることも許さなければ……」

アークは短く息を吐き、わずかに笑みを浮かべた。
「そうだな。背中を押すのは必要だが、答えは自分で掴む。俺も、そろそろ……影に触れる覚悟を決めねば」

ミカは書類を片手に、少しだけ顔を上げた。
「アーク……何を考えているのですか?」
「……ああ、今はまだ言葉にする時ではない。だが、この先の展開によっては、影と正面から対峙することになる」

二人の間に短い沈黙が流れた。机の上の資料が微かに揺れる音だけが響く。
「三人を守るには、まず我々が動かねばならない。しかし、同時に……彼ら自身に試練を超えさせる」

アークは拳を軽く握り、机に置いた。
「影の糸は、もう見えている。だが、切るには慎重さが必要だ。間違えば、子どもたちの成長を奪い、俺たちの国を混乱に陥れる」

ミカは深くうなずく。
「覚悟はできています。アーク、あなたと共に、この先を見届けます」

アークは微かに笑みを返し、資料をまとめ始める。
「よし。まずは、影の糸の流れを追い、試練を把握することだ。三人の動きと、各地の異変を同時に見守る」

ミカは静かにため息をついた。
「……影はまだ完全に姿を現していません。これからが本当の試練ですね」

アークは窓の外を見上げ、夜の静けさに耳を傾けた。月明かりの下で、王都の街並みが影と光を交錯させて揺れている。
「……この国の平穏を守るのも、試練を超えさせるのも、全て俺たちの責任だ。だが、三人には必ず光を見つけさせる」

ミカはそっと肩越しに資料を置き、アークの横顔を見つめた。
「……影が蠢く中で、三人の成長を見守るのは、思った以上に厳しい試練になりそうですね」

アークは短くうなずく。
「……そうだな。だが、俺たちが諦めるわけにはいかない。影の糸を断つのも、彼らを導くのも、俺の役目だ」

机の上の資料は夜の明かりに照らされ、影を落としていた。
その影の奥で、まだ見えぬ黒幕の存在が静かに微笑む。
三人の兄妹を試す糸は、確かに動き始めている。
そして、王都の夜は、ただ静かに、次の嵐の到来を待っていた。

 

6-5:兄妹の集い ― 影の前での誓い

夜の王宮。窓の外には満月が煌々と輝き、冷たい風が薄いカーテンを揺らしていた。
ルシアは机の前に座り、今日一日の政務と市街視察の報告をまとめていた。
アレイドは魔術研究室での調査資料を持ち込み、机の隅に広げる。
アリアは火の演習で疲れを見せながらも、穏やかに席に着いた。

久しぶりに三人が顔を揃えた夜――自然と重い沈黙が部屋を包む。
しかし、それは不安の沈黙ではなく、互いの存在を確認する静けさだった。

アリアが小さく口を開く。
「……今日の演習、みんな大変だったよね。でも、なんとかやりきれた」
炎の残り香を帯びた髪をかき上げながら、次女は窓の外を見やった。

アレイドは軽く笑みを浮かべ、椅子に肘をつきながら言った。
「俺にとっては、いつものことって感じかな。でも、見ていて面白かったのは……火の制御の細かさ、そして群衆の反応だな」
その言葉には、分析者としての冷静さだけでなく、兄として妹を気遣う温かさも滲んでいた。

ルシアは穏やかに頷き、二人を見やった。
「皆、それぞれの道で必死に戦っている。それぞれの試練が、今日という日を形作ったのね」

アリアは少し首をかしげ、瞳を輝かせた。
「でも……私、力を出すたびに、怖がられることもあるの」
その声には、幼さと責任感が混ざった微妙な緊張があった。

ルシアは彼を長男として、兄として自然に落ち着かせるように言った。
「怖がられるのは当然。だって君の力は――人を守る光であると同時に、扱い方を誤れば恐怖にもなる」
その言葉に、アリアは少しほっとした表情を見せる。

アレイドは軽口を混ぜながらも、真剣に付け加えた。
「でも、俺は見抜く。誰が影を仕掛けても、誰が罠を張っても――必ず気づく」
言葉の端々には、兄として、万能型としての決意が滲んでいた。

ルシアは深呼吸をして、二人に視線を向ける。
「私たちは、皆で民を守る。それが私たちの道――王として、そして兄妹としての誓い」

アリアが小さく微笑み、炎の光に頬を染めながら言った。
「力は光に変えられる――そう、私たちなら、導く光として使えるはず」

そのとき、王宮の外に微かな影が差す。
風に乗って、何者かの存在を感じさせる――まだ遠いが、確実に迫っている黒い気配。

アレイドは窓を見上げ、拳を軽く握った。
「……まだ、試練は終わっていないな」

ルシアも目を細め、月明かりに映る自らの影を見つめる。
「ええ。これからも、私たちは――一緒に立ち向かう」

アリアは力強く頷き、炎の残滓が揺れる手を握りしめた。
「私も、負けない。光になるために、全力を尽くす」

風が一瞬止まり、部屋の空気が張り詰める。
兄妹三人は、それぞれの思いを胸に、同じ月を見上げていた。
目には光が宿り、胸には覚悟が満ちている――だが、背後では、まだ誰も知らない影が静かに動き出していた。

部屋の静寂の中、ルシアは改めて深く息をつき、言葉を選ぶように口を開いた。
「私は――民を守るために、耳を傾け、共に歩む王になる。決して一人で背負うのではなく、皆と共に」
その瞳には揺るぎない決意が宿り、長男としての責任感がにじみ出ていた。

アレイドは机に手をつき、やや前のめりになって言った。
「俺は、理と知だけではなく――命を懸けても影を見抜く。誰が策略を巡らせても、必ず気づく。そうでなければ、兄として、そして王子として無力だ」
軽口を混ぜた口調ではあるが、言葉の一つ一つに重みがあり、背中には戦術官としての誇りと覚悟が見えた。

アリアは小さく拳を握り、瞳に炎のような光を宿す。
「私も――力は破壊じゃなく、導く光になる。怖れられることもあるけれど、守るべきもののために燃えるの。それが私の使命」
炎を象徴するその言葉は、幼くとも確かな覚悟の証であり、力をどう使うかの自覚を示していた。

ルシアは微笑み、二人に視線を戻す。
「三人で、民を守り、影に立ち向かう。力を合わせれば、どんな困難も乗り越えられる」

アレイドが少し肩をすくめて笑う。
「まあ、光だけじゃ影は切れないかもしれないけど、俺たちならなんとかなるだろ」
その軽口に、アリアも思わず笑顔を返した。部屋の空気は少し和らぐ。

しかし、窓の外では黒い影が微かに揺れ、月明かりの下で静かに動く。
その存在はまだ遠い――だが確実に、兄妹の前に立ちはだかる時を待っている。

ミカの声が、控えめながらも室内に響く。
「アーク様……皆の決意、確かに届いています。ですが、外の状況は依然として予断を許しません。影はまだ、形を見せてはいませんが、動き始めています」

アークは軽く眉をひそめ、窓の外に視線を向ける。
「……なるほど。三人の子どもたちを試す影か。仕掛けた者の意図は未だ不明だが、確かに力の芽を測ろうとしているようだ」

ルシアが穏やかに、しかし確信を持って言った。
「私たちは、決して一人ではない。互いを信じ、助け合い、民を守る。それだけが、私たちの道」

アレイドは拳を軽く握り、窓の月を見上げる。
「兄上、姉上……いや、アリア。俺たちは――俺たち自身のやり方で影を斬る。誰が仕掛けようと、必ず」

アリアは力強く頷く。
「私も――怖れずに導く光を掲げる。力は道を切り開くための光になる」

窓の外で、黒幕の存在はじっと兄妹を観察している。微かな足音も、風に紛れて近づきつつある。
影はまだ姿を現さないが、その目的は明白だ――三人の力と覚悟を計り、次なる試練を準備している。

ルシアは静かに視線を窓の月へ向ける。
「夜は深いけれど、私たちの決意は闇に負けない。光を信じて進もう」

三人はそれぞれの部屋の窓から同じ月を見上げ、心の中で互いに誓う。
――影の試練は、まだ始まったばかり。だが、三人の覚悟と信頼は既に結ばれ、どんな闇にも立ち向かう光となる。

夜風が再び部屋を吹き抜け、窓辺の炎や書類を揺らす。
そして、その揺れの中に、黒幕の冷たい視線だけが、静かに息を潜めているのだった。

 

6-6:囁く黒幕

宮廷の奥深く、誰も踏み入れぬ書庫の影に、一つの存在が静かに佇んでいた。
高い書棚の間を、ろうそくの揺らめく光が不規則に照らす。黒衣の人物の視線は、離れた宮殿の窓に揃った三つの光――ルシア、アレイド、アリアの部屋の明かり――に向けられていた。

「……なるほど、三人の子どもたちの力は、思った以上に育っているようだ」
低く、冷たい声が書庫の壁に反響する。慎重に歩みながら、黒幕は小さな巻物を取り出し、そこに描かれた記録を指でなぞる。民心の動揺、兵の不祥事、孤児院周辺の騒動――すべては計算され、導かれた結果だった。

「この影の試練――彼らの覚悟を試すには十分だ」
黒幕は微かに口元を吊り上げ、満足げに笑う。しかしその眼差しは冷酷で、慈しみなど微塵もない。
「だが……まだ完全ではない。次の段階で、真の選別を行う。民心を掌握し、力を制する者のみが、この国の未来を担うのだ」

彼は巻物を畳み、床に立てかける。足音一つ立てず、宮廷の奥深くに消える影の中で、計画は着々と進行していた。
「……光と影が交錯する時、真に選ばれる者が姿を現す」

その声は、遠くの月明かりの中で、三人の兄妹が知らぬうちに聞き届けるような、微かな響きにも思えた。

翌朝、王宮の廊下に微かなざわめきが広がる。
情報屋からの報せ、物資管理官の不手際、兵士の小さな不祥事――一見無関係に見える出来事が、黒幕の計算のもとで次第に一つの糸に結びついていく。

ミカは執務室で資料を広げ、アークに向かって穏やかに告げる。
「アーク様、これらの一連の出来事……全て繋がる可能性があります。民の不満、兵の不祥事、物資の偏り。三人を試すための布石かもしれません」

アークは書類に目を落とし、眉をひそめる。
「影の存在……三人の子どもたちを試す者か。誰かが仕組んでいることは間違いない」
彼の口調は冷静だが、内心では警戒の色が濃くなる。長年の統治経験が、わずかな異常も見逃さない。

ミカはさらに指摘する。
「彼らに直接危害が及ぶ前に、動きを封じる必要があります。ですが……正体は未だ不明。隠れた糸を探るしかありません」

その言葉を聞きながら、アークは深く息をつき、窓の外を見つめる。
「……子どもたちは、すでに試練の中にいる。だが、影が何を狙うのか、完全には見えない。警戒しつつも、彼らの成長を見守るしかない」

廊下の向こうでは、宮廷の奥に潜む黒幕が、影の中で微笑む。
「次代を巡る試練――この三人が本当に力を揃えるかどうか、楽しみだ」
その思惑は深く、複雑で、王族の誰も気づかぬまま、宮廷の秩序の裏で着々と進行していた。

兄妹はまだ無邪気な光を持ちつつ、日々の試練に立ち向かう。
だが、影の糸は確実に絡みつき、次の大きな章――試練の本格化への導線を形作っていく。

窓の月明かりの下、兄妹三人がそれぞれの場所で決意を新たにする一方、黒幕の目は常に宮廷全体を覆い尽くしていた。
――継承を巡る影は、まだ始まったばかり。

 

 

 

第7章:試練編・本格化

7-1:揺れる民心 ― ルシアの実践試練

王都の中心広場は、いつもの穏やかな朝の空気を失っていた。冬の曇り空の下、農民や職人たちがひしめき合い、ざわめきが怒号に変わりつつある。物資不足、税の偏り、兵の横暴――あらゆる不満が、今日この場に集約しているかのようだった。

「王子はどこにいる! 俺たちの話を聞くって言っていたじゃないか!」
「税を納めてるのに、子どものパンもないんだぞ!」
「役人は贅沢してるのに、我々は飢えている!」

怒りを帯びた声が、石畳を震わせるように響く。ルシアは護衛を連れて広場の端に立ち、目の前の光景を黙って見つめていた。王宮で見る地図や報告書の数字とは違う、生身の生活の重み。彼の心臓が、重い鼓動を打つ。

「……来てしまったか、現実の波が」

隣に控える補佐官が、小声で問う。「殿下、兵を増やして退散させますか?」

ルシアは静かに首を振った。「いや、今ここで力を見せれば、恐怖と不信を植え付けるだけだ。彼らは敵じゃない……僕たちが守るべき民だ」

彼は深く息を吸い込み、広場の中央に歩み出た。騒ぎの中心に身を置くと、群衆の視線が一斉に集まり、ざわめきが一瞬だけ静まる。だがその沈黙は、嵐の前触れのようでもあった。

「ルシア王子だ……」
「来たぞ、若い王子が」
「こんな時に顔を出すとは、見物だな」

その声色に、好意と疑念が混じっているのをルシアは感じ取る。彼は視線を一人ひとりに移し、胸の奥に言葉を探した。

「みなさん、私はルシア・ヴァルツ。王国の第一王子です。今日は、あなたがたの声を直接聞くためにここに来ました」

最前列の男が叫ぶ。「声を聞く? もう何度も聞かせてやった! そのたびに約束は反故にされ、俺たちの暮らしは悪くなるばかりだ!」

続いて女性の叫び。「あなたは善良かもしれない。でも善良なだけの王子に、何ができる!」

その言葉は、鋭い矢のようにルシアの胸を刺した。彼はほんの一瞬、瞳を伏せる。だが、顔を上げたときには瞳の奥に静かな光が宿っていた。

「……善良なだけでは、足りない。僕も、そう思います」

群衆がざわつく。王子が自らその言葉を認めるとは思わなかったのだろう。ルシアは一歩前に出て、低く、しかしはっきりと続けた。

「王族として、善意を持つことは当然です。でも、善意だけでは暮らしを守れない。だから私は、今日ここであなたがたの言葉を聞き、必ず行動に移します。約束します」

最前列の青年が、腕を組みながら疑いの目を向ける。「どうやって行動に移す? 言うだけなら誰でもできる」

ルシアは即答した。「まず、物資の偏りを是正します。三日以内に、王都外縁の村にも支援隊を出す手配をします。責任者の名はここで公表します。兵の不祥事は調査し、処罰を明らかにします」

人々の視線が揺れた。まだ不満も恐れも消えてはいない。だが、ルシアが数字や命令ではなく具体策と期日を口にしたことで、空気がわずかに変わった。

「本当にできるのか……?」
「三日で支援隊だと? そんなことが……」
「……でも、目を逸らさずに言ったな」

補佐官が横で囁く。「殿下、言い切ってしまって大丈夫ですか?」

ルシアは小さく頷いた。「約束を守れなければ、僕の責任だ。今ここで逃げれば、この王国はもっと深い闇に落ちる」

彼は再び群衆に向き直り、手を胸に当てた。「民の声を聞くとは、耳を傾けることだけじゃない。共に立つことです。どうか、私にその機会をください」

沈黙の後、群衆の後方から年配の男が声をあげた。「……三日だな。三日で支援隊が来なかったら、お前の顔を忘れないぞ」

ルシアは深く頭を下げた。「はい、忘れなくて構いません。約束は、行動で証明します」

そのとき、雲間からわずかに光が差し込み、広場の石畳を淡く照らした。誰かがその光を見上げ、ため息のような声を漏らした。

「……あの王子、目だけは嘘をついていない」

ルシアは人々の視線を受け止めながら、胸の奥で小さく呟いた。「――善意だけでは足りない。けれど、善意を捨ててしまえば、この手は誰も救えない」

その言葉は、まだ彼自身の心への問いかけでもあった。

人々の声を背に、ルシアは王宮へ戻った。馬車の中、窓に映る己の顔が蒼白であることに気づく。額には冷や汗、胸には重いもの。約束をした。三日以内に支援隊を出すと。あの場で逃げれば、民心は決定的に離れた。だが約束は、王子としての自分を追い詰めるものでもある。

「善意だけでは、統治できない……その通りだな」

独り言のように呟くと、向かいに座っていた補佐官が小さく頷いた。「殿下、先ほどのご発言、諸大臣たちにどう説明なさいますか?」

「説明ではない、説得だ」ルシアは息を整え、目を閉じた。「民を守るということは、彼らの生活を数字や命令で動かすことではなく、一緒に背負うことだと父上に教わった。今はそれを、僕自身のやり方で示すときだ」

王宮に着くや否や、彼は執務室に駆け込む。待ち構えていた大臣たちが一斉に立ち上がり、口々に詰め寄る。

「殿下! 三日で支援隊を出すと民衆に約束なさったそうですが、そんなことは不可能ですぞ!」
「物資の仕分けには許可と検査が必要です、軍備も足りません!」
「そんな勝手な約束をされては、われわれの権威が……」

彼らの声は非難と恐怖と保身が入り混じった嵐だった。だがルシアはその真ん中に立ち、静かに両手を上げた。

「静かにしてください」

その声は大きくない。だが、これまでのルシアにはなかった芯の強さがあった。部屋のざわめきが徐々に収まる。

「私は王子として、民に約束をしました。それは、あなた方を無視したものではありません。民が飢えれば、王国は滅びる。民が我々を信じなければ、どんな制度も無意味になる。――今こそ、私たちが一枚岩にならなければなりません」

年長の大臣が、半ば試すように問う。「殿下、物資をどこから捻出なさるおつもりか?」

ルシアは即答した。「倉庫の在庫を開示し、優先順位を再編します。軍用の備蓄の一部も転用する。短期的には痛みを伴いますが、長期的には民心が安定することで徴税も回復する」

別の官僚が眉をひそめる。「軍備の弱体化は危険ですぞ」

「危険を承知で、今は民を救う。それが王子としての私の決断です」

短い沈黙。やがて年長の大臣が重く頷いた。「……承知いたしました。殿下の決断に従いましょう。ただし、三日という期限内に結果を出せなければ、責任は――」

「私が負います」ルシアはその言葉を遮った。「全て、私が」

その場にいた全員が驚いた顔でルシアを見つめた。これまで優しいだけの王子だと評されていた青年が、今は決意の炎を宿している。

会議の後、執務室に一人残ったルシアは、机に両手をつき、深く息を吐いた。身体は疲労で震えている。だが、その震えの奥に、今までになかった確かなものがある。

「善意だけでは、統治できない。けれど、善意を失わずに決断できる王にならなければ……」

窓の外、夕暮れの空にうっすらと月が浮かび始めていた。民衆が見上げるのと同じ月だ。
彼はその光を見上げ、胸の奥で静かに誓った。

「父上……母上……僕は逃げません。人の声を聞くということが、どれほど重いものか知ったから。今度は、選び、決め、そして守り抜く王子になります」

その瞳には、かつての少年の柔らかさと、新たな王の覚悟が同居していた。

 

7-2:揺れる刃 ― アレイドの戦略試練

戦術本部の緊張は、もはや限界まで張り詰めていた。
壁に掛けられた大地図の上では、赤と青の駒が複雑に絡み合い、瞬く間に形を変えてゆく。演習のはずだった戦局は、もはや単なる訓練の枠を超え、実戦に近い切迫感を帯びていた。

「――斥候隊が全滅? 誤報ではないのか」
「いえ、報告は三系統から同時に……しかし情報が一致し過ぎています。逆に不自然です」
「つまり、誰かがこちらに“そう思わせたい”ということか……」

副官が青ざめた顔で報告を続ける。
アレイドは目を細め、机上の地図から視線を外し、低い声で呟いた。

「この配置……まるで“罠に嵌れ”と言っているようだな」

その瞬間、別の伝令が駆け込んできた。

「アレイド殿下! 補給線が断たれました! 後方の倉庫が火の手を――」

会議室にどよめきが走った。
アレイドは両手を机に置き、深く息を吸い込み、そして声を張り上げる。

「――落ち着け! これは試練だ、想定外ではない!」

将校たちが息を呑む。
アレイドは矢継ぎ早に指示を飛ばした。

「第一中隊は右翼に回れ、敵がいる“と見せかけて”いる地点を踏むな。
第二中隊は補給線に向かえ。倉庫の火は、風向きを読んで延焼を防げ。
第三中隊は敵の伏兵を探るのではなく、逆に“こちらが伏兵である”と思わせろ!」

部屋の空気が一瞬で変わる。
副官が思わず呟いた。

「殿下……そんな即興で本当に……?」

「やるしかない。これは“戦”ではなく“策”との勝負だ。策を策で潰す覚悟がなければ、次代は継げない」

その声には、確かな決意が宿っていた。

現場。
アレイドは自ら馬に跨り、現地へ出ていた。風が強く、砂塵が舞う中、彼の視線は常に周囲を捉え、先を読む。

「敵影は見えない……だが、必ずいる」
副官が震える声で尋ねる。
「殿下、なぜ分かるのですか」

「匂いだよ。戦の匂いじゃない、誰かの“意図”の匂いだ。あの夜、兄上――いや、アーク様の執務室で見た資料の通り、物資の偏り、兵の不祥事、民の不満……すべて“同じ影”が仕組んでいる。戦場にもその手が及んでいる」

アレイドはさらに声を低くし、馬を止めた。

「これ以上、奴らの思惑に乗るわけにはいかない。
俺が、読み切って、潰す」

夕刻、戦術本部に戻ったアレイドの顔には疲労の色が濃かった。
しかし、彼の目は静かな光を宿していた。
副官が恐る恐る報告する。

「……殿下の指示通りに動いた結果、被害は最小限に抑えられました。伏兵も姿を現し、偽情報の発信元も――」

「まだだ。偽情報は“末端”に過ぎない。
本当に潰すべきは、その上――“囁く黒幕”だ」

アレイドは拳を握りしめた。
胸の奥で、冷たい炎が燃えていた。

「次は、奴らの先を行く。先読みし、決断し、勝つ。
民を、兵を、仲間を守るために。
そして、俺自身が“影”に呑まれないために」

その誓いは、誰に向けたものでもなく、自らへの刃であった。

彼は静かに立ち上がり、地図の上の赤い駒を一つ、音を立てて動かした。
まるで、その手の先に潜む“影”の輪郭をなぞるかのように。

夜が更け、戦術本部の明かりだけが灯っていた。
疲弊した将校たちが一人、また一人と下がっていく中、アレイドはまだ地図を睨んでいた。
副官が控えめに声を掛ける。

「……殿下、少しお休みください。もう二晩徹夜です」

「眠る時間があれば、考える。相手は“影”だ。姿を見せない分、こちらが眠っている間に仕掛けてくる」

短い返答。副官はそれ以上言葉を差し挟めなかった。

アレイドは地図に視線を落としたまま、低く呟く。

「……これは戦術演習のはずだった。だが今や“策謀”との戦いだ。
誰かが兵を試し、俺を試し、兄上……アーク様までも試そうとしている」

紙に描かれた線のひとつを指でなぞりながら、彼はつぶやきを続ける。

「補給線、民心、兵の不祥事……すべて繋がっている。
“囁く黒幕”が、継承を揺さぶろうとしている。
――なら、こちらも策を用いて先を取る」

瞳に、鋭い光が宿った。

翌朝。
戦術本部に新たな報告が入る。敵側がこちらの動きを誤認して混乱し、伏兵が早まって動き出したという。

「殿下、罠が逆に発動しました。敵の混乱でこちらの被害はほぼゼロです!」

副官の声が弾む。
だがアレイドは微笑まず、淡々と頷いた。

「これで一歩目だ。だが影は、まだこちらを観察している。
俺たちの“反応”を測っている」

彼は立ち上がり、将校たちを見渡した。

「この先は、もっと苛烈になる。即興の対応だけでなく、誰かの先を読み切る“覚悟”が必要だ。
俺がその矢面に立つ。
諸君は、守るべきものを見失うな」

その声には、静かながら重い力があった。
将校たちは姿勢を正し、一斉に頷いた。

夜、ひとり執務机に向かうアレイド。
蝋燭の灯が揺れ、その影が壁に大きく映る。
手元には、演習で得られたすべての報告と、兄妹からの私信が積まれている。

「……ルシアは民の声に向き合っている。アリアは光を示そうとしている。
俺は……影を見抜き、潰す。
誰かが仕掛けた“試練”であろうとも、必ず突破する」

独り言は次第に誓いへと変わる。

「この刃は、揺れない。
影に呑まれず、影を切り裂く刃となる。
次代を守るために――」

彼は机に置いた剣の柄に手を置き、静かに目を閉じた。
その刃先が、まだ姿を見せぬ黒幕へと向けられているかのように。

外では風が強まり、遠くで雷鳴が響いた。
まるで次なる嵐を告げるかのように。

影はまだ囁いている。
だが、その囁きの奥で、アレイドの決意は一層固くなっていった。
“囁く黒幕”“宮廷に潜む黒幕”“継承を巡る影”――
その輪郭は、いよいよ明確になりつつあった。

 

7-3:紅の火と孤立 ― アリアの魔力試練

市街地の中心、孤児院の視察は予定通りに進んでいた。
古びた石造りの建物の前で、アリアは孤児たちに囲まれながら笑顔を浮かべていた。子どもたちは最初こそ緊張していたが、彼女の柔らかな声に少しずつ心を開いていく。

「お姉ちゃん、これ見て!」
「きれいな石、拾ったの」

小さな手が差し出すガラス片を、アリアは慎重に受け取った。
微笑むその瞳の奥に、わずかな疲労の影が宿っている。最近、王都の空気がどこか重い。物資の滞り、兵士たちの不祥事、そして不穏な噂。――その影は、ここ孤児院にも忍び寄っていた。

外から、低い怒声が聞こえた。
「税を返せ!」「子どもばかり優遇するな!」
「魔女を呼ぶな、火の娘を追い出せ!」

アリアははっとして玄関口に向かう。窓の外に、すでに数十人の市民が集まり、手に石や棒を持つ者までいる。彼女の姿を見つけた瞬間、ざわめきが広がった。

「出てきたぞ、あの娘だ」「火を操る魔女だ」
「子どもを楯にしてるんだ!」

胸の奥で、ざわりと熱が走る。
なぜ……どうしてこんなことに。わたしは、ただ守りに来ただけなのに。

案内役の兵士が慌てて駆け寄る。「アリア様、お下がりください! 危険です」
「いえ、私が話します。子どもたちを守らなきゃ」

孤児たちは彼女の裾を握り、怯えた目で外を見ている。アリアはそっと手を添え、できるだけ穏やかな笑みを浮かべた。

「大丈夫。お姉ちゃんがいるからね」

だが玄関口に一歩踏み出した瞬間、怒声はさらに大きくなった。
「魔女を追い出せ!」「火で焼き払われるぞ!」

その言葉に胸が締めつけられる。
自分の力が、こんなにも恐れられている。助けるための力のはずが、彼らにとっては脅威でしかない。

背後で孤児の一人がすすり泣く。「……アリアお姉ちゃん、こわいよ」
彼女は振り返り、ぎゅっとその子の手を握った。

「大丈夫。絶対に誰にも傷つけさせない」

そのとき、外から石が投げ込まれ、窓ガラスが砕け散った。
アリアの肩越しに、赤い光がちらつく。――彼女の魔力が、感情に呼応して反応し始めているのだ。

だめ、抑えなきゃ。怒りの炎じゃなく、守るための光に……

アリアは深呼吸し、掌を胸に当てた。だが恐怖と緊張が交錯し、魔力の制御は難しい。孤立感がじわじわと押し寄せる。

「お姉ちゃんは……怪物じゃないよね?」
孤児のつぶやきが、胸の奥に深く突き刺さった。

その瞬間、アリアははっきりと悟った。
これはただの暴動じゃない。私自身への試練だ。力が何のためにあるのか、どう使うべきか……その答えを今、示さなければ。

アリアは顔を上げ、玄関先に立ち、両手をゆっくり広げた。
彼女の赤い髪が風に揺れ、瞳の奥に炎が宿る。群衆の視線が一斉に集まった。

――ここからが、彼女の本当の試練の始まりだった。

「やめて……! その子に近寄らないで!」
アリアは思わず叫んでいた。肩をすくめた孤児の少女の周りに、怒号が渦を巻いている。民衆の視線は恐怖と混乱に濁り、誰もが自分の身を守ろうと叫び合っている。

――怖がっているのは、わたしじゃない。彼らのほうだ。

掌の奥に、赤い光がちらついた。炎が呼応するように熱を帯びる。彼女が呼吸を荒くすれば、その息のたびに周囲の空気が震え、民の恐怖をさらにあおってしまう。

「魔女だ」「怪物だ」「火を放つぞ、逃げろ!」
「違う……私は!」

アリアの声は叫びにも似ていたが、群衆には届かない。むしろ恐怖を増幅させるだけだった。彼女は深く息を吸い、目を閉じた。

破壊じゃない、光……父も母も、兄たちも、そう教えてくれたじゃない。

指先を静かに合わせ、胸元に炎を集める。燃え盛る赤ではなく、朝焼けのような淡い紅色へと変わっていく。周囲の温度が和らぎ、煙の匂いが消えていく。

「見て、これは攻撃のためじゃないの。道を照らすための光です」

アリアは、炎のかたまりを高く掲げた。ゆらめく光は子どもたちの影を伸ばし、群衆の顔を優しく照らす。人々の怒声が、徐々に止んでいく。

孤児の少女が小さく手を伸ばした。「……きれい」
アリアは微笑んで、その手を握った。

「怖がらせてごめんなさい。あなたたちを守りたかっただけなの」

沈黙の中、誰かがぽつりと呟いた。「……魔女じゃない。あの子は守ろうとしてる」
別の男が頷き、女が子どもを抱き寄せる。さっきまでの罵声が、今度は安堵のため息に変わった。

アリアの胸の奥に、熱いものが込み上げる。涙かもしれない、悔しさかもしれない。だが、彼女はそれを飲み込み、まっすぐ前を見た。

「力は破壊にもなるけれど、道を切り開く光にもなる。……私は、その光になる」

自分に言い聞かせるように、静かな声で宣言した。周囲の人々はその言葉をはっきりと聞き、誰もが息をのんだ。

やがて兵士たちが到着し、暴動の鎮圧を引き継いだ。アリアは孤児たちを安全な場所へ送り出すと、瓦礫の上に一人腰を下ろした。
手の中でまだ暖かい光が揺れている。それは彼女の覚悟の証のようだった。

恐れられること、それは導く者の宿命かもしれない。でも、恐れを超えて、信じてもらえる光にならなきゃ――

遠く、夕暮れの空に一番星が輝きはじめる。アリアはその光を見上げ、深く息を吸った。孤独はまだ重い。だが、胸の奥で小さな炎が静かに燃えている。それはもう、ただの火ではなかった。

 

 

7-4:影の糸 ― 黒幕の仕掛けと兄弟の連携

夜明け前の城内は、ひときわ重苦しい沈黙に包まれていた。冷たい石壁を伝う湿り気が、まるで目に見えない糸のように部屋の隅々まで張り巡らされている。アレイドはその「糸」に指先を触れるような感覚を覚え、戦術本部の窓辺に立ち尽くしていた。

「……物資の配分表、また書き換えられているな」
彼は机に置かれた帳簿をめくりながら呟いた。昨夜確認したばかりの記録と微妙に数値が違う。表向きは“補給遅延”という説明がついているが、兵士たちの士気をじわりと削ぐような動きに、意図を感じざるをえなかった。

「兄上……いや、ルシア兄上。これは偶然ではありませんね」
アレイドは低く呟いた。書類の山に視線を落としたまま、手元のペンが小さく震える。
そのとき背後の扉がきしむ音がして、ルシアが入ってきた。淡い金髪を揺らしながら、彼は静かに机の上の書類を見下ろした。

「……また厄介なものを見つけたな、アレイド」
低い声に、兄としての威厳と迷いが同居している。

「俺の方にも同じ報告が来ている。民衆への食糧配給が急に減って、孤児院への支援金も止められた。市街での不満と暴動……全部つながっている」
ルシアの声は低いが、芯のある響きを帯びていた。

「戦場と街。二つの“試練”が同時に仕組まれている。黒幕は俺たちを分断し、疲弊させようとしている……そう見える」
「ええ、誰かが兵士たちだけじゃなく、俺たち兄妹の絆を試そうとしているみたいね」

アレイドは深く息を吸い、ルシアの目を見た。夜のランプに照らされたその瞳には、怒りよりも決意が宿っている。

「兄上、あの夜アーク様の執務室で見た資料を覚えていますか」
「もちろん。物資の偏り、兵の不祥事、民の不満……全部“同じ影”が動かしている」
「その影が、今も俺たちの足元に糸を張っている。足をとられたら終わりだ」

ルシアは机の端に腰をおろし、指先で帳簿の角をトントンと叩いた。
「黒幕が誰であれ、彼らは私たちの反応を見て楽しんでいるのよ。動揺するか、疑心暗鬼に陥るか、力に頼るか……」

「だが俺たちは、その“糸”を断つ」
アレイドは静かにそう告げ、地図の上に赤い印をつけていった。物資の流れ、暴動発生地点、そして兵の配置。点と点が結ばれるたび、複雑な模様が浮かび上がってくる。

「……見えたか?」
ルシアの声がわずかに震えた。
「ええ、黒幕の“網”です。中心はまだ霞んでいるが、糸の張り方に癖がある。きっと内部の人間、それも上層部に近い誰か」

ルシアは眉を寄せた。
「じゃあ、俺たちが疑わなければならないのは――」
「名を出すのはまだ早い。だが、確信に近い感触はある。……この“影”は戦術だけじゃなく、人心操作にも長けている」

兄弟はしばし無言になった。外では夜明け前の風が木々を揺らし、かすかな笛のような音を立てている。まるで黒幕の囁きのように。

「兄上」
先に口を開いたのはアレイドだった。
「あなたは街の不満の鎮静に向かってください。俺は戦術本部で兵の再配置と情報統制にあたる。お互いの試練を共有し、情報を繋げれば、この“影”の手を逆に炙り出せるはずだ」

ルシアは短く息を吐き、頷いた。
「俺たちに必要なのは“連携”。……あの孤児院視察で、アリアがどんな目に遭っているかも気がかりだし」

「……アリアも、孤児院で民と向き合っている。彼女のところにも同じ影が伸びているかもしれない」
「ああ。だからこそ、俺たちで先に手を打たなければならない」
兄の声は低く、しかし決意に満ちていた。

ルシアは立ち上がり、アレイドの肩に手を置いた。
「アレイド、あなたの即興戦術と、私の民心掌握。二つを合わせれば、影に潜むものの狙いを外せるかもしれない」

「そう願いたいですね、兄上」
ほんの一瞬、アレイドの表情が和らいだ。
「いや、願うだけじゃない。動くんです。俺たちでこの城を守る」

外がわずかに明るくなり、石壁に差し込む光が兄妹を照らした。糸のような影の中で、二人は確かに繋がっていた。

厚い帳簿と報告書の山を前に、アレイドは黙り込んだ。無言のうちに羽ペンを走らせるその手元を、ルシアが横から覗き込む。

「……ここも、同じ印がついているな」
「ええ。物資の搬入経路をわざと遠回りにし、途中で兵士を差し替えている。名目上は“効率化”ですが、実態は混乱の温床です」
「民の不満、兵の不祥事、物資の偏り……全部が一つの線に繋がっている」

アレイドは指で地図上の赤線をなぞり、静かに言葉を重ねた。

「“影”が、俺たちを試している……そうとしか思えません」
「俺たちを?」ルシアの声が低くなる。「王位継承を巡る動きか……それとも父上を揺さぶるためか」
「どちらにせよ、兄妹それぞれの弱点を突かれているのは確かです」

ルシアは深く息を吐き、拳を握りしめた。窓から差し込む陽光が、淡い金髪に柔らかな輝きを与える。しかしその目は、戦場で鍛えられた兵士のように冷たい光を帯びていた。

「……民の前に立つ俺の姿勢も問われている。アリアは孤児院で民と向き合い、炎の力を光に変えようとしている。お前は戦術で影を見抜こうとしている」
「兄上……俺たち、いつの間にか同じ敵の前に立たされているんですね」

しばしの沈黙。書類を閉じたアレイドは、静かに立ち上がった。胸の奥に広がる焦燥と決意を押し殺しながら、兄を見据える。

「善意だけでは足りない。影を断つためには、先に相手を読む覚悟が必要です」
「……ああ。お前が策を読むなら、俺は民を守る。互いの力を合わせるしかないな」

ルシアは右手を差し出した。迷いのない動作だった。アレイドはその手をしっかりと握り返す。

「兄上、俺は影の糸を必ず見抜きます」
「俺も必ず民を守る。そのために、お前とアリアを守り抜く」

短く、だが確かな約束が交わされた瞬間、部屋の奥で風が微かに揺れ、ろうそくの炎がふっと揺らめいた。まるで誰かが聞き耳を立てているかのように。

アレイドは視線を横に送り、眉間に皺を寄せる。

「……感じますか、兄上」
「誰かが見ているな」
二人の声は低く重なった。黒幕の正体は未だ掴めない。しかし、兄妹が一つの覚悟で結ばれた今、その糸を断つための第一歩が始まろうとしていた。

──そして、遠く離れたどこかの闇の中で、ひとりの影が静かに笑みを浮かべていた。

 

7-5:兄妹の誓い ― 力を繋ぐ決意

王城の奥、朝の光が高い窓から射し込む一室。大理石の床に長い影を落とし、中央の円卓にはまだ湯気の立つ茶器が並べられている。そこは兄妹三人のためだけに用意された、非公式の会議の間だった。

最初に現れたのはルシアだった。淡い金髪を肩に流し、軍服のまま椅子に腰を下ろす。視線はまだ戦場にいるかのように鋭いが、その目には疲労よりも決意の色が濃く宿っている。

「……久しぶりだな、こうして三人揃うのは」
ルシアの声は低く落ち着いていた。

次に入ってきたのはアレイドだ。黒い上衣に書類を抱え、足取りは急ぎながらも整っている。兄に一礼し、席に着くと小さく息を吐いた。

「兄上、アリア……お互い顔を合わせる時間もなく、試練ばかりでしたね」

最後に姿を見せたのはアリアだった。深紅の外套を纏い、胸元には孤児たちが編んだ小さな護符を下げている。彼女は二人を見て、少しだけ緊張した笑みを浮かべた。

「……ごめんなさい、遅くなりました。孤児院から直接戻ってきたの」

部屋に静寂が訪れる。三人とも、ここに至るまでの重さを感じていた。先に口を開いたのはルシアだった。

「民心の揺れが、いよいよ現実になった。抗議や混乱の中で、俺はただ善意だけでは立てないと痛感したよ。耳を傾け、決断し、責任を負う姿勢を示さねばならない。……そう学んだ」

その言葉にアレイドが頷く。

「俺も同じです。戦術本部で仕組まれた演習、意図的な誤情報……仲間を救うか計画を優先するかの板挟みに立たされました。先読みと決断、そして誰かの策を潰す覚悟――それを身につけなければと思った」

アリアは両手を膝に置き、静かに視線を落とした。

「私も……市街の暴動で“怪物”って呼ばれた。孤児たちに守られながら、自分の力がどれだけ恐れられているか、突き付けられた。でも炎は破壊だけじゃない。光として人を導ける。そう信じて、示すしかないと思ったの」

ルシアがそっと微笑む。兄の表情に柔らかさが戻ったのは久しぶりだった。

「……三人とも、それぞれの場所で試されていたのだな」

アレイドが視線を窓に向ける。薄雲の切れ間から青い光が射し込んで、三人の間に三つの影を落とす。

「兄上、アリア……俺たちは今、“影”に見られている。誰かが、俺たちを、父上を、そしてこの国を試している」

アリアはその言葉に小さく身を震わせたが、すぐに顔を上げた。

「試されているのなら……私たちが示せばいい。どんな力も、導きに変えられるって」

ルシアは深く頷き、低い声で応えた。

「民を守るために冷静であれ、と自分に言い聞かせてきた。だが今、俺はそれ以上のものを求められている気がする。……二人と共に進むことだ」

アレイドが微笑んだ。硬い笑みだったが、確かな決意の色を帯びている。

「影を見抜く力、戦略で守る覚悟……それを兄上と妹に預けたい。三人で、力を繋ぐんです」

その言葉にアリアはゆっくりと頷いた。炎のような髪が、光を受けて赤く輝いた。

「私も、恐れを導きに変える誓いを立てます。光を掲げ、道を示すために」

小さな部屋に、三人の誓いの言葉が重なっていく。

──まだ黒幕の姿は見えない。だが、兄妹の胸の奥に芽生えた覚悟は、次代の風を呼ぶものになりつつあった。

 

沈黙が一瞬、広間を満たした。三人の吐く息が、同じリズムで揺れる。
その静けさの中で、ルシアがそっと手を差し出した。

「……この手を取って。私たちは、ここからもう一度、始めなきゃいけないわ」

アレイドが目を細め、少し照れくさそうに笑った。

「兄上のこういうところ、昔から変わらないな。手を差し出すときはいつも、もう覚悟を決めている顔をしている」

ルシアは微笑む。
「お前も、あの戦場で、俺を守るために何度も立ち上がった。だからこそ、俺はまだここにいる」

アリアが二人の間にそっと歩み寄り、自分の手を重ねた。

「ねえ、二人とも……私、怖いことはいっぱいあるけど、もう逃げたくない。炎は怖いものじゃなくて、光にもなれるって分かったから」

彼女の掌に宿る小さな炎が、淡い光だけを放ち、三人の手を優しく包んだ。
それはまるで誓いの灯火のようだった。

「俺たちは……これから、何と戦うことになるんだろうな」
アレイドが低く呟く。その声には、未来を見据える冷たい鋭さと、仲間を想う温かさが同居していた。

「まだ“それ”は形を持っていない。けれど、民を苦しめる糸の先に必ず“誰か”がいる」
ルシアの瞳が細く光る。

「影の糸……」アリアが口にした。
「兄さんが言ってた、あの“糸”のことだね。あれはきっと、私たち三人じゃなきゃ切れないものなんだ」

アレイドが頷く。
「そうだ。剣だけじゃ断ち切れない。姉上の冷静な導き、アリアの炎の光、そして俺の影を見抜く目――そのすべてが揃って、初めて届く場所がある」

「届く場所……?」
アリアが首を傾げると、アレイドは少しだけ口元に笑みを浮かべた。

「まだ遠い。けれど、その“遠さ”こそが、俺たちに準備する時間をくれる。だから焦らず、でも怯まず、進もう」

ルシアがゆっくりと頷く。
「ええ。俺たちはもう“兄妹”というだけじゃなく、“共に立つ者”なのだから」

その言葉は、三人をひとつの陣に組み込む合図のようだった。

誓いを交わしたあと、三人はしばらく手を離さなかった。
炎の灯火が、ゆらゆらと天井へ昇っていく。
その淡い光の中に、ふとアリアは小さな影を見た。
それは鳥のような形をして、闇の奥へと飛び去っていった。

「……今の、見えた?」
アリアが息を呑む。

「ああ、感じた」
ルシアが目を細める。
「影はもう、こちらを見ている」

アレイドは剣の柄に軽く手を添えた。
「奴らはまだ名乗らない。なら、こちらも焦らず、こちらの“舞台”へ引きずり出すまでだ」

「そのとき、私の炎を光に変えて……」
アリアの声は決意に満ちていた。
「恐れじゃなく、導きとして、みんなを照らす」

「そして俺が、影の向こう側を暴いてやる」
アレイドが静かに言う。

「俺は、民を守りながら、二人を支える。決して独りでは戦わせない」
ルシアが応じる。

三人の視線が交わった瞬間、重なった誓いが、ひとつの“形”を持つように胸の奥で響いた。

やがて、炎の灯火が消えたとき、そこにはひと筋の冷たい風が吹き抜けた。
その風の中に、誰も聞いたことのない囁き声が紛れ込んでいた。

『ようやく、駒が揃ったか……だが、盤上はまだ広い』

どこからともなく聞こえた声に、三人は同時に顔を上げた。
しかし広間には自分たちしかいない。

「……今のは?」
アリアが震える声で尋ねる。

「分からない。でも、確かに聞こえた」
ルシアの表情が引き締まる。

「影が動いた。俺たちの誓いに、反応したんだ」
アレイドの瞳が鋭く光る。

遠くで雷鳴が轟いた。まるで物語の幕が次の章へ進む合図のように。

そして、三人は再び立ち上がる。
誓いの灯火は消えても、胸の奥に宿った決意は消えない。
それぞれの力を繋ぎ、まだ見ぬ黒幕に立ち向かうために。

「行こう。道は長いけれど、俺たちなら歩ける」
ルシアが言う。

「ああ、必ず辿り着いてみせる」
アレイドが頷く。

「一緒にね」
アリアが笑った。

その笑顔は、恐れを超えて光へと変わりつつあった。

こうして兄妹の誓いは、新たな物語の扉を押し開いた。
影の奥で笑う黒幕の気配を残したまま、世界は静かに次の章へと移ろっていく――。

 

7-6:潜む黒幕と次代への影

闇は深いほど、形を持たない。
それは目には映らず、音にもならず、ただ世界のひずみの奥で囁くだけだ。
その闇の中、ひとつの影がうずくまっていた。

長衣をまとったその人物の顔は、フードに隠れて見えない。
だが、その唇だけが、薄い笑みを形づくっている。
周囲には、無数の糸のような光が絡み合い、まるで大きな織機のように複雑な模様を描いていた。
糸は王都の民衆、兵士、物資、そして兄妹たちの心にまで伸びている。

「……やはり動いたな、あの三人」
低くくぐもった声が、闇の奥に吸い込まれていく。

影は指先をひとつ動かした。糸の先に微かな揺らぎが走り、遠く離れた市場で起きるはずの小さな騒乱の幻影が浮かび上がった。

「試練はまだ序の口。あれで“絆”などと口にするには、まだ甘い」
唇が笑みを深くする。

闇の中から別の声が響いた。
それは、黒幕に仕える者か、あるいは黒幕が作り出した幻影か。

「彼らは、我らの計画を嗅ぎつけ始めました。ご命令を……」

黒幕は首を横に振る。
「急くな。狩りは獲物が油断したときにこそ愉しい。今はまだ、糸を張り巡らせる時だ」

「しかし、三人は予想以上に早く成長しています」

「それこそ望むところよ」
黒幕の声は、蛇のように冷たくも、どこか陶酔していた。
「強くなければ壊し甲斐がない。導くふりをして、深い谷へ誘う――それが“試練”の本質だ」

糸がひときわ明るく光り、兄妹三人の姿が小さな幻灯のように浮かぶ。
ルシアの冷静な導き、アレイドの鋭い目、アリアの炎の光……。
それらが織り合わさると、まるで新しい模様の布のように広がっていく。

「美しい……」
黒幕の声は甘やかに低く響く。
「だが、その布にはまだ“ほころび”がある。私の糸はそこを狙う」

再び指先が動く。別の糸がぴん、と弾かれ、遠く離れた国境地帯の地図が浮かび上がった。
そこに赤い点が幾つも瞬いている。

「次なる“試練”の舞台は整えた。兄妹よ、お前たちの絆とやら、今度こそ試してやろう」

闇の奥から笑い声が響く。
それは大地の奥から湧き上がるようでいて、風のようにどこまでも流れていく。

闇の織機のような光の糸の間に、別の影が現れた。黒い鳥のような形をした幻獣が羽ばたき、黒幕の肩にとまる。瞳だけが赤く光り、まるで遠い国々の情報を運ぶ伝書のようだ。

「報告します、主(あるじ)……王都南部の市場で、再び小さな騒乱が起きました。兵が介入しましたが、民の不満はまだくすぶっております」

「よろしい。火はくすぶらせてこそ大きくなる」
黒幕は指先で幻獣のくちばしを撫でた。
「恐れを煽れ、怒りを散らせ、憎しみを肥やせ。試練の土壌が豊かでなければ、芽は出ない」

「ですが、三人は……ルシア殿下は民を落ち着かせ、アレイド殿下は兵を守り、アリア殿下は炎を光に変えようとしています。彼らは互いの試練を通じて、糸を断とうとしています」

黒幕はふっと笑った。
「それでいい。試練は刃だ。刃は研がれてこそ輝く。私はただ、研ぐための砥石を置くだけだ」

闇の奥で、幾本もの糸が複雑に絡み、結び目を増やしていく。遠くの国境、地下の貴族たち、宮廷に潜む間者……糸は隠された網の目となり、王国全体を包み込むように広がっていく。

「“次代”こそ、私の糸を受け継ぐ器だ」
黒幕の声は囁きに近い。
「血筋も、名誉も、光も影も関係ない。真に“王”たるものが誰かを、私が決める。試練はそのための遊戯だ」

闇の壁面に、兄妹三人の姿がふたたび浮かび上がる。ルシアが民の中で膝をついて話を聞く姿、アレイドが地図の上で戦術を練り直す姿、アリアが孤児院で子どもを抱きかかえる姿。

「光に惹かれる者ほど、影を落としやすい。……さあ、どこまで持つか、見せてもらおうか」

黒幕の背後で、さらに別の人物の輪郭が揺らいだ。男か女か、老か若いかすら判別できない、仮面をつけた存在だ。その者がひざまずき、低い声で問う。

「次の一手は、いつ打たれますか」

「もう打ってある」
黒幕はゆっくりと立ち上がる。長衣の裾が、波のように闇を揺らした。
「試練は始まったばかりだ。だが、次でようやく“激化”の幕が上がる。彼らの絆が真か偽か、次で決まる」

仮面の者は身を震わせた。「……了解しました、主」

黒幕は糸をひとつ、指先で切った。ぴん、と高い音が鳴り、地図の赤い点がひとつ消える。同時に別の場所で新たな赤い光が灯った。

「舞台は整えた。民も兵も、そして兄妹も、すべて“駒”だ。だが、その中で“王”になれる者がいるなら、見せてみろ。私はそれを壊し、あるいは作り変える」

闇の奥から、笑い声がふたたび響き渡った。それは、次章「試練編・激化」への序曲のように、低く、長く、王都の地の底にしみこんでいく。

糸はまだ張り巡らされている。
試練は、ほんの始まりに過ぎない。

 

 

第8章:最終課題 ―未来への提案

8-1:王国評議会 ― 最終試練の幕開け

王宮の中央、天蓋のように高くそびえる天井からは、幾筋もの陽光が差し込み、金と瑠璃のモザイクで飾られた壁面がきらめいていた。ここは王国最大の評議会場――“千柱の間”と呼ばれる、王国の命運を決する場所である。
長大な楕円形の石造りのホールには、円卓を囲むようにして各地の代表が座り、ざわめきと緊張が空気を満たしていた。議員、貴族、将軍、魔術師、学匠、聖職者……王国の知と力のすべてがここに集結している。

その中央に、三人の若者が並んで立っていた。
長兄ルシア・グランディールは濃紺の儀礼服に身を包み、背筋をぴんと伸ばして落ち着いた眼差しを向けている。
その隣に立つのはアレイド。剣士として鍛えた体躯の奥に、未だ荒削りながらも確かな覚悟の光を宿す青年だ。
末妹アリアは白銀の髪飾りを揺らし、両手を胸の前で重ねるようにして緊張を隠そうとしていた。

「――王家の後継者たちよ」
議長席に座る白髭の宰相が、低く響く声で告げた。
「そなたら三人に課す最後の試練はただひとつ。この評議会の場で“王国の未来像”を示し、その説得力と実行力を証明することだ」

ホールにざわめきが走る。
「王国の未来像だと……?」「実質的な統治方針を問うのか」などの声が、貴族や将軍たちの席から洩れる。
宰相は杖で床を軽く叩いた。
「沈黙を。――三人よ、ここに集う者は皆、そなたらの言葉に耳を傾けるだろう。勇気と智慧を持って語るがよい」

ルシアが一歩前へ出た。
「……畏れながら、ルシア・グランディールがお答え申し上げます」
その声音は落ち着き、空気を引き締める力があった。
「この国は長きにわたり、血統と領地に基づく統治を続けてきました。しかし、今や周辺諸国との交易、技術、文化は激変しつつあります。旧来の秩序を守るだけでは国は立ちゆかぬ……私は、まず“結束”を重んじます。領土や身分を越え、王国全土を一体化する行政と法を整備し、民の声を汲み上げる議会制度をさらに拡充させるべきだと考えます」

議場のあちこちから、抑えた息遣いが聞こえる。
「法の拡充か……」「貴族の権益をどうするつもりだ」
ルシアは淡く笑みを浮かべた。
「貴族の皆さまの役割は、これまで以上に重要になります。私が申し上げるのは“削る”ことではなく、“共に築く”ことです。各地の統治経験、軍事力、資金力、文化を持ち寄っていただきたい。王国を支える柱として」

貴族席の奥から、一人の若い貴族が立ち上がる。
「言葉だけでは甘い! 法の名のもとに貴族の権利が奪われぬ保証はあるのか?」
ルシアはゆっくりと彼に視線を向け、淡々と答えた。
「保証は、共に制度を作り上げることにあります。王家が独断で決めるのではなく、議会が審議し、承認し、そして民が納得する形にする。私はその“仕組み”を整えるつもりです」

重厚な空気の中、ルシアはさらに一歩踏み出し、静かに頭を下げた。
「この国を変えるのは、一人の王ではなく、ここにいるすべての人々です。――その第一歩を、私に歩ませてください」

その言葉に、アレイドは無意識に息を呑んだ。
(兄さん……やっぱりすごい……)
しかし同時に、胸の奥で熱いものがこみ上げてくる。自分もただ見ているだけではない――。

宰相が再び杖を鳴らした。
「次に、アレイドよ。そなたの考えを述べよ」

アレイドは拳を握りしめ、ゆっくりと前に出た。
評議会の空気は重い。軍の将軍たちの鋭い視線、魔術師たちの冷徹なまなざし、貴族たちの探るような笑み。喉が乾く。しかし、それでも言わねばならない。

「……私はアレイド・グランディール。剣と盾を持つ者として、この国に必要なのは“守る力”だと考えます」
彼は言葉を探しながら続けた。
「近年、隣国との摩擦が増えています。交易路、資源、そして民の移動……どれも一歩間違えば戦の火種になる。平和を保つために、強い防衛体制と同時に、相互理解のための交流を推し進めなければならない」

将軍の一人が低く笑う。
「交流など、理想論だ」
アレイドはその声に負けず、視線を返した。
「理想だからこそ、今、行動しなければならないんです。剣を抜く前にできることがあるはずだ。兵の教育、領民との連携、災害や飢饉の際に軍が援助する仕組み――“国を守る”ことは戦うことだけじゃない。私はそれを形にしたい」

その言葉に、将軍たちの間にわずかな沈黙が落ちる。
「……災害時の援助か」「民と兵を結ぶ……か」
アレイドは胸の奥に灯るものを確かめるように、最後に強く言い切った。
「王国の剣は、民を脅すためではなく、民を守るためにあるべきです」

アリアがその背を見つめ、ふっと微笑んだ。
(アレイド……あの人、こんなふうに自分の言葉で話せるんだ……)
だが同時に、彼女自身の胸にも緊張の波が押し寄せていた。
(次は、私の番……)

高座の上、宰相がゆっくりと視線を向ける。
「最後に、アリアよ。そなたの未来像を語れ」

場内の視線が一斉に彼女へと注がれる。
アリアは一歩を踏み出そうとしたが、足先がわずかに震えた。
その瞬間、頭の奥に微かな気配がよぎる。
――遠く、評議会場の外。影のような存在が、彼女たち三人を見守るように佇んでいる。
黒い外套に身を包み、顔を覆う仮面。
その視線が、まるで闇の中から糸を引くように三人へ注がれているのを、アリアは直感で感じ取っていた。

(あれは……誰? ずっと、見られている気がする……)
彼女の胸の奥に、不穏なざわめきが広がる。
しかし同時に、兄たちの言葉が脳裏に響いていた。
(“この国を共に築く”“民を守る”……私が示すべき未来は――)

アリアはそっと息を吸い込み、口を開いた。

アリアは胸の奥でひとつ息を整え、足元の揺らぎを抑えるように静かに立ち上がった。
陽光に白金の髪が淡く輝き、その小さな肩に場内の視線が一斉に集まる。
宰相も、将軍も、魔術師も、そして背後に座る貴族たちも、息を呑むようにその姿を見守っていた。

「……わたし、アリア・グランディールが申し上げます」
その声は震えていたが、澄んでいて、ホールの隅々まで届く。
「兄のルシアが“結束”を、アレイドが“守る力”を語りました。わたしは、その二つの力を結ぶ“心”のあり方を申し上げたいと思います」

評議会の奥で、誰かが小さく咳払いする。
アリアは怯まず、続けた。
「王国は大きな家族のようなものです。法や剣だけでは、人は本当には結ばれません。文化、学び、癒やし……それを誰もが分かち合える場所をつくることが、わたしの考える未来です」

「文化、癒やし、か……?」
年老いた魔術師が目を細める。
「言葉は美しいが、実現は難しかろう」

アリアは一歩、前へ。
「難しいことだと、わたしも思います。でも、民の心が疲れてしまっては、どんな強い剣も、どんな立派な法も、国を守ることはできません」
彼女は視線を巡らせ、席の一人一人に目を合わせるように語りかけた。
「だからこそ、学校や療養院、芸術や技術を学ぶ場をもっと増やしたい。国の北から南まで、子どもも大人も平等に学べるように。病や戦で傷ついた人々が、安心して戻れる場所を作りたい」

その言葉に、思わずうなずく者が現れる。
「確かに、近年の戦で孤児が増えた……」「治療院の不足は深刻だ……」

アリアは胸に手を当てた。
「わたしは、誰も置き去りにしない国を目指します。兄が語った“仕組み”、アレイドが語った“守る力”と共に、その心を支える仕組みを築きたい。民が安心して笑い、子どもが未来を信じられる国に」

言葉を終えると、評議会の空気が変わっていた。
先ほどまでの探るような視線が、わずかに柔らかくなっている。
宰相は杖を鳴らし、低く告げた。
「……三人とも、よく語った。王国の未来像――その大きさと重さを、そなたらは承知の上でここに立っているのだな」

ルシアが一歩進み、兄妹三人が揃って頭を下げる。
「はい、宰相閣下。わたしたちは三人で、そして皆さまと共に、国の未来を築きたいと願っております」

その瞬間、どこからか微かな風が吹き込み、ホールの燭台の炎が揺らめいた。
アレイドは、ぞくりと背筋に冷たいものを感じる。
(……誰か、見ている)

視線の先、奥のバルコニーに、黒い外套を纏った人影が立っていた。
顔は仮面で覆われ、深い影の中に沈んでいる。
その人物は声を発することなく、ただじっと兄妹三人を見下ろしている。

アリアもまた、その気配に気づいていた。
(また……あの影……ずっと私たちを見ている……)
胸が早鐘のように打ち始める。しかし、彼女は兄たちの横に立ち続けた。

宰相が低く咳払いをし、場内に響くように宣言する。
「本日の審議はここまでとする。三人の後継者たちの“未来像”は、これより評議員たちが討議し、最終試練としての答えを出すこととなろう」
重厚な鐘の音が響き、評議会の幕が一時閉じられる。

兄妹は退出のためにゆっくりと歩き出した。
ルシアが小声で二人に言う。
「よくやった。二人とも、堂々としていたぞ」
アレイドは苦笑しながら答える。
「兄さんこそ……俺、途中で声が震えてた」
アリアは肩で息をしながら微笑んだ。
「でも、ちゃんと伝わったと思う……きっと」

三人が扉を抜けようとしたとき、背後から冷たい視線を感じた。
振り返ると、もうバルコニーには誰もいない。
黒い影は、まるで霧のように掻き消えていた。

その瞬間、アレイドの心に確信が生まれた。
(試練は……まだ始まったばかりだ。俺たちを見ている者がいる。何かが動いている――)

ホールの外、石造りの回廊を歩きながら、ルシアは小さく呟いた。
「これで“最終試練”は始まった。評議会は我々の言葉をどう受け止めるか……」
アレイドが問う。
「兄さん、あの影、気づいた?」
ルシアは目を細める。
「見えた。おそらく、評議会に潜む誰かの使いか……もしくは――」

アリアが足を止め、青い瞳を大きく見開いた。
「誰かが、私たちを試しているのね。表の評議会だけじゃなく、裏の力でも……」

三人は短くうなずき合った。
重く閉ざされた扉の向こうで、王国の命運を決する議論が始まろうとしている。
そしてその議論の陰で、もう一つの“影”が静かに動き出していた。

――王国評議会。最終試練の幕は、今まさに上がったばかりである。

8-2:ルシアの提案 ― 安定と包容の国家

王宮の評議会場は、静まり返っていた。
天井のステンドグラスから降り注ぐ光が、長いテーブルの上に模様を描き出している。
兄妹三人が横並びに座り、正面には宰相、重鎮の貴族たち、軍の将軍、魔術師評議員、そして各地の代議員が整然と並んでいる。
この空間のすべてが、王国の命運を握る「場」であった。

宰相がゆっくりと立ち上がり、低く響く声で告げる。
「最終課題。『王国の未来像を提示せよ』――まずは第一王子、ルシア殿下から」

場内にわずかなざわめきが広がる。
ルシアは静かに席を立ち、胸に手を置いた。
その動作ひとつで、張り詰めた空気がわずかに和らぐ。

「――お集まりいただいた評議員、貴族、将軍、そして各地の代表の皆さまに、まず感謝を申し上げます」
落ち着いた声が、ホール全体に響く。
「この度、我が王国に課された未来の課題は、わたしにとっても、皆さまにとっても重いものです。しかし、今こそ答えを示すときだと考えております」

ルシアはゆっくりと視線を巡らせる。
端正な顔立ちに、真剣さが宿っていた。
「わたしが掲げる未来像は――“安定と包容”の国家です」

ざわ、と小さな波紋が評議員席に広がった。
「安定と包容……?」
「理念は美しいが……」と誰かが囁く。

ルシアは、続けて明確な言葉で答えた。
「まず申し上げたいのは、善意だけでは統治できない、ということです。わたしは試練の中で、民の不安や混乱、抗議の現場に立ちました。そのとき、心から痛感しました。善意だけで現実は動かない、と」

評議員の何人かが、顔を上げる。
「……試練で学んだことを反映するのか」「実地経験を語っている……」

ルシアは頷き、三本指を立てた。
「そこでわたしは、この王国の未来像として、三つの柱を掲げます。
一つ、民の生活基盤の整備。
二つ、福祉と教育の充実。
三つ、治安と秩序の確立です」

彼は一歩、前に出た。
「生活基盤とは、道路・水路・通信などの公共基盤を整え、農村も都市も均等に恩恵を受けられるようにすること。
福祉と教育は、孤児や病者を含め、誰もが学び、暮らせる社会を目指すこと。
治安と秩序は、法を整備し、正しい裁きを迅速に行える仕組みを作ること――」

ルシアの声は低くも力強い。
その背後で、アレイドとアリアがじっと耳を傾けている。
評議員のひとりが、思わず口にした。
「……現実的だな」「地に足がついている」

ルシアは微かに笑みを浮かべた。
「わたしは理想だけを語るつもりはありません。現実を見て、必要なものを積み上げること。まず“安定”を作り、それから“包容”へとつなげること。それが、王国を強く優しい国にする道だと信じています」

そして、兄としての静かな眼差しで、評議員たちを見回す。
「包容とは、ただ甘やかすことではありません。多様な人々を受け入れ、能力を発揮できるようにすることです。王国の隅々まで目を配り、孤立する者を減らす。そうして初めて、人は国に信頼を寄せるようになるでしょう」

ざわめきが再び広がる。
「安定志向か……」「革新性に欠けるのでは……」「いや、堅実さも必要だ」
評議員たちが囁き合う声が、波のように会場を満たした。

ルシアはそれを正面から受け止め、ゆっくりと息を吐いた。
「皆さまのご意見も真摯に受け止めます。しかし、まずは“足元”を固めねばなりません。
民が不安を抱えたままでは、どんな政策も根づかない。だからこそ、まず安定を――」

その時、宰相が杖を軽く鳴らし、場を整えた。
「殿下。続きを」

ルシアは頷き、胸に手を置き直した。
「はい。……続きは、わたしの提案の具体策についてです」

彼の瞳がわずかに光を帯びる。
会場の空気が再び引き締まり、誰もが次の言葉を待っていた。

ルシアは、壇上の書見台に一冊の資料を置いた。
試練の現場で彼自身が記し続けた手帳だ。
表紙には、焦げ跡や雨染みが残っている。
「これは、わたしが各地を巡り、民の声を聞き、現場で見たものを記したものです。
抽象論ではなく、具体策を持ち帰ってきました」

彼は、ひとつ目の柱について、さらに踏み込んだ。
「生活基盤の整備には、農村部への道路と水路の改修、物流の安定が欠かせません。
試練の中でわたしは、物資が届かず飢えに苦しむ村を見ました。道がない、情報が届かない。それが不満と暴動を生んでいました。
ゆえに、王国全土に統一基準の道路・水路・魔導通信網を敷き、都市と地方の格差を縮めます」

評議員の一人が腕を組み、唸った。
「確かに物資不足は暴動の温床になる……だが莫大な予算が必要だ」
別の者が囁く。
「だが彼は試練で現場を見た。机上の空論ではない……」

ルシアは淡々と、しかし目に力を宿して続ける。
「二つ目の柱、福祉と教育の充実。
孤児院、施療院、学び舎……どれも場所によって差が大きい。
わたしは、孤児院視察の際に、アリアが群衆から恐れられる現場を共に見ました。あの恐怖と偏見は、無知と孤立から生まれていた。
だから、誰もが学び、誰もが治療を受けられる環境を整えることこそ、恐怖を減らす第一歩です」

アリアが、わずかに目を伏せ、唇を噛んだ。
評議員席の隅で、魔術師長老が頷く。
「知識と福祉は恐怖を薄める……確かに」

ルシアは三本指を下ろし、最後の柱を強調した。
「三つ目、治安と秩序。
正義は迅速に、透明に行われなければなりません。
軍と治安組織を分離し、暴力を抑制しつつも法を強化する。
不祥事を隠さず処分し、民と官の信頼を回復することが不可欠です。
この国に必要なのは恐怖ではなく、信頼による秩序です」

ホールがざわめいた。
「軍の分離だと……?」「法の透明性……」
「現実的だが、現状の権益を揺るがすぞ」

ルシアはそのざわめきを真っ直ぐに受け止めた。
「確かに、これは容易なことではありません。
しかし、わたしは試練の中で、善意だけでは秩序が守れないことを学びました。
だからこそ、制度と仕組みで“安定”を築き、“包容”を育むのです」

彼は、言葉を置くように一拍おき、最後の一文を低く響かせた。
「民が安心して暮らせる基盤を整え、恐怖や孤立を減らし、誰もが力を発揮できる国家――
それが、わたしルシアが掲げる『安定と包容の国家』です」

沈黙が会場を満たした。
やがて、評議員の一人がため息をつくように言った。
「……堅実だ。しかし革新性が足りぬのではないか」
別の者が囁く。
「だが、現場を見ての提案だ。机上の空論よりましだ」

ざわめきは賛否入り交じり、波のように広がっていった。
宰相が杖を鳴らし、会場を静める。
「殿下の提案、確かに承りました。次に……」

その瞬間、評議会場の高窓の影で、黒い羽根が一枚、ひらりと舞った。
誰にも気づかれないまま、影が揺れる。
遠くから、冷ややかな声が囁いた。
「ふふ……“安定と包容”か。甘美な言葉だ。だが試練はまだ終わらぬ。
彼らに次に見せるのは、選択の重さか、それとも――」

その声は、風にかき消されるように消えた。
ルシアはまだその視線に気づかぬまま、兄として、王子として、壇上に立っていた。

8-3:アレイドの提案 ― 強くしなやかな自立国家

玉座の間にも劣らぬ広さを誇る評議会場に、再び重厚な鐘の音が響いた。
「続いて、第二王子アレイド殿下──」
書記官の声に促され、アレイドはゆっくりと立ち上がった。深い紺の軍装に身を包み、整った姿勢のまま評議員たちを見渡す。その瞳は鋭くも静かで、長年の試練を経て培った覚悟を湛えていた。

彼は、まず深く一礼した。
「諸卿。私、アレイド・エストレーラは、これまでの試練で多くを学びました。
強さだけでは国を守れず、柔軟さだけでは国を導けない──その現実です」

その一言に、場がわずかにざわめく。
彼が自らの失敗や教訓を認める姿勢に、幾人かの老臣は眉を上げ、若い議員たちは身を乗り出した。

「私は、王国が“強くしなやかな自立国家”となるべきだと考えます。
それは単なる軍備増強でも、孤立した独立でもありません。
戦略・経済・外交──これら三本柱を一体として築き、外からの圧力にも内からの腐敗にも耐えうる国家です」

アレイドは手元の資料を開き、卓上に広げた。そこには各地の地図、交易路、軍備状況、人口推移が詳細に描かれている。

「まず、戦略。
敵の脅威を正しく見極め、必要な備えを整えること。
次に、経済。
自国の資源と技術を強化し、過度な依存を減らすこと。
そして、外交。
他国との関係を冷静かつ柔軟に結び、孤立せずに自立を貫くこと」

淡々と並べられる言葉に、評議員たちは次第に引き込まれていく。
アレイドの背後には、数々の実戦演習で得た知見と、策謀の現場で見抜いた“影”の存在があることを知る者は少ない。

「この三本柱を支えるのは、国家の情報力です」
彼は地図に指を滑らせ、いくつかの印を示した。
「これまで軍、行政、民間の情報はそれぞれ別に扱われ、互いに連携を欠いてきました。
その結果、危機の芽は見逃され、対処が後手に回る。
我々はこの現状を改めねばなりません」

評議会場の奥で、誰かが小さく息を呑んだ。
アレイドはその気配を感じつつ、さらに一歩踏み込んだ。

「私の提案の中核──それが“影を見抜く国家防衛システム”です。
軍事演習や策謀で得た洞察を、王国全体の力へと昇華する試み。
そのための機関として、新たに“戦略局”を設立したいと考えます」

その言葉に、場がどよめいた。
「戦略局……?」「新しい統合機関か……」
囁き交わす声が幾つも重なる。
アレイドはそれを正面から受け止め、落ち着いた声で続けた──

アレイドの声が一瞬落ち着きを取り戻すと、評議会場は静まり返った。彼の前に置かれた一枚の地図──そこには、王国全土と周辺諸国、そして海路・交易路・軍備配置までが記されている。長年の訓練と策謀の中で培った洞察が、いま一つの形となって示されようとしていた。

「我が提案の核心は、ただ強大な軍を持つことではありません。強さにしなやかさを併せ持つこと……それこそが、未来を生き抜く国家の条件です」

淡々とした口調の裏に、内なる決意がにじんでいる。
評議員たちはそれぞれメモを取りながら、アレイドの次の言葉を待った。

「戦略・経済・外交──これらを個別に考えるのではなく、相互に補完し合う体系として築くべきです。
例えば、軍事演習で得られた情報を行政にも還元し、外交の交渉材料に活かす。農業・商業・魔術技術開発にも同様に情報を共有することで、国全体が一つの有機体として機能するのです」

アレイドは地図上に手を滑らせ、幾つかの赤い点を示した。

「その要となるのが、新たに設立する『戦略局』です。
軍・行政・民からの情報を一元管理し、危機の芽を早期に察知、抑制する。
これは過剰な監視を意味するものではなく、国家全体の“視覚”を広げる試みです」

評議会場にざわめきが走る。
「攻めの発想だ」「時代を先取りしている」と評価する声がある一方、
「権限が集中し過ぎるのでは」「市民を縛る網になるのでは」と懸念する声も混じった。

アレイドはその反応を見越していたかのように、穏やかに続けた。

「評議員の皆様、確かに力は誤れば暴力となります。しかし、情報の欠如こそが国家を盲目にし、民を危険に晒すのです。
この戦略局は、独裁の道具ではなく“透明性”を重視します。監査機構を併設し、権限の乱用を防ぐ仕組みも同時に設ける所存です」

彼は一歩下がり、兄のルシアと妹のアリアに視線を送った。
その瞳には、試練で共に学んだ記憶が宿っている。

「私たちは影の存在を知りました。見えぬ脅威を放置した結果、どれほど多くの民が傷ついたか……。
だからこそ、国は影を見抜き、光を当てる力を持たねばなりません。
それが“強くしなやかな自立国家”の礎であると、私は信じます」

言葉を締めくくると、彼は静かに頭を下げた。
評議員たちの間に重い沈黙が落ち、次第に感情の入り混じった囁きが広がる。

「若いが……よく考えている」
「しかし監視が強すぎるのではないか」
「だが、この混乱の時代には必要かもしれぬ……」

アレイドはそのすべてを背中で受け止めながら、椅子に腰を下ろした。
心の奥では、あの黒幕の“影”がどこかでこの提案を聞いているかもしれないという感覚が、微かに疼いている。

(この国は、もう同じ過ちを繰り返さない……たとえ私がその矢面に立つことになっても)

彼の拳は机の下で、静かに固く握られていた。
そして次に立ち上がるのは、炎のような瞳をした妹、アリアの番だった。

 

 

8-4:アリアの提案 ― 情熱と絆で守る未来

評議会場に、アリアの靴音が響いた。年齢はまだ若く、兄たちに比べれば経験も少ない。しかしその瞳には、これまでの試練で見た光景――市街での暴動、孤児院で浴びた「怪物」という罵声、そして恐怖の中で見えた子どもたちの瞳――が刻み込まれている。
兄のルシアが落ち着いた政策を語り、アレイドが戦略的国家像を描いた後、会場は一瞬ざわめき、そして静まり返った。三人目の提案者に、誰もが視線を注いでいる。

ゆっくりと深呼吸したアリアは、炎色の髪を後ろでまとめ、両の手を胸の前で組んだ。
「……皆さま。私、アリア・エストレーラがここにお話しするのは、ただの夢ではありません。試練の中で学んだ、現実の光です」

その声は澄んでいて、どこか鈴の音のような響きを持っていた。
「私は、火を最も得意とする者です。炎は破壊もすれば、温もりも与えます。暴動の中で私はその二面性に晒され、恐れられ、孤立し、それでも子どもたちの手を取って守りました。あのとき、私は確信しました――力は、破壊ではなく光に変えられると」

評議員たちの間に、かすかなざわめきが走る。
「光に変えられる、だと……?」
「理想論かもしれん」
「だが、あの若さでよく言う……」

アリアはひるまなかった。瞳を真っ直ぐにし、次の言葉を紡ぐ。
「私が提案する未来像は、魔術の発展と文化の振興、そして孤児や弱者の保護、社会的絆の強化を柱に据えたものです。恐れから壁を築くのではなく、絆で繋ぎ、導く国家。それこそが、次代に残すべきものだと信じています」

議場の片隅で、ひとりの老評議員が眉を上げた。
「文化振興……魔術と同列に語るか」
「弱者の保護はともかく、どうやって国力を維持するつもりだ?」
別の評議員が、半ば感嘆、半ば疑念の入り混じった声でつぶやいた。
「“恐れられるのではなく導く”……若いな。しかし、象徴的な政策はあるのか?」

アリアは頷き、前に一歩進み出た。
「あります。たとえば――火の祭礼の開催です。これまで“危険な力”として遠ざけられてきた炎や魔力を、人々が共に体験し、祝祭の光として楽しむ。火を恐怖ではなく、再生と希望の象徴として示す行事です。そしてもう一つ、魔力教育改革。子どもの頃から魔力を安全に扱い、共存する術を学ぶことで、恐れと偏見を減らしていくのです」

その瞬間、評議員席から一人が声を上げた。
「……火の祭礼? 危険ではないのか?」
アリアは目を逸らさずに応える。
「危険です。だからこそ、適切な教育と管理が必要です。私は恐れられることを拒みません。むしろその恐れを受け止め、光に変える。それが私の役割だと思っています」

会場に緊張と興味が交錯する空気が流れた。
老評議員が小さく呟く。
「理念は美しい……だが、実現性は……」

アリアは微笑んだ。
「“理念は美しいが実現性は?”――それは、私自身が最初に自分に問うたことです。だからこそ、ここに具体策をお持ちしました」

そう言って彼女は、次々と巻物を広げ、魔力教育改革の概要、火の祭礼の段階的導入計画、孤児や弱者の保護政策の仕組みを示していく。
彼女の指先から、ほのかな光が溢れ、巻物の上に小さな魔法陣が浮かび上がった。赤ではなく、柔らかな金色の光。それは“炎”というより“灯”だった。

アリアは最後に、静かに言葉を落とした。
「私は、恐れられるだけの“力”にはなりません。導く光となることを、ここに誓います」

その場にいた誰もが、年若い王女の真剣な眼差しに引き込まれていた。

評議の間に、アリアの声が澄んだ鐘のように響いた。
「力は人を縛る鎖にもなりますが、光として人を導く道しるべにもなります。私たちが選ぶべきは後者です」

彼女は一歩前に出て、掲げた指先を静かに降ろした。
「そのために――火の祭礼を提案します。闇と恐怖を象徴する炎ではなく、共に囲み、祝うための炎です。魔術師も民も、同じ火を囲んで未来を語る夜を」

ざわめきが起きる。重鎮の一人が眉をひそめた。
「理想は美しい。しかし、実現性はどうだ? 孤児を保護し、教育し、文化を興すなど、費用も人員もかかる」

アリアは目を逸らさずに微笑んだ。
「ですから、魔力教育の改革を同時に行います。子どもたちが持つ潜在力を早期に発見し、社会に還元できる仕組みをつくるのです。弱者保護は、未来の力の育成でもあります」

彼女は壇上に小さな模型を置いた。祭礼会場の縮図だ。
炎の周りには市民と魔術師が輪になっている。
「これは象徴に過ぎません。でも、象徴は力を持ちます。恐怖ではなく信頼の象徴を、私たち自身の手で創りましょう」

老練の評議員が腕を組み、低く唸った。
「……理念だけではないな。仕組みと象徴の両方か」

別の議員が頷き、囁く。
「火の祭礼……市民の間でも受け入れられるかもしれん」

アリアは深く一礼した。
「私たちが築くべき未来は、誰かを恐れさせるものではなく、誰かに手を差し伸べるものです。力は、光に変えられる。どうか、この未来を共に描かせてください」

静まり返った議場に、誰かが小さく拍手を送った。
その音が伝播するように、次第にざわめきが賛同の囁きへと変わっていく。
理念はまだ種に過ぎない。しかし、その種が確かに土に触れた瞬間だった。
静まり返った議場の奥で、背筋の伸びた初老の評議員がゆっくりと立ち上がった。
胸元には古い紋章のバッジが光る。民政局を長く率いてきたエルドラン評議員だ。
彼は、この場にいる誰もが一目置くキーパーソンだった。

「……アリア殿下」
低く落ち着いた声が響く。
「あなたの言う“光”の力は美しい。だが、われわれは現実の予算と治安を背負っている。祭礼にせよ教育改革にせよ、計画通りにいかねば逆に不満を生み、暴徒を誘発する恐れもある。――その点はどう考える?」

場内がまたざわつく。痛いところを突かれた質問だったが、アリアは怯まなかった。
彼女は一歩前に進み、評議員の瞳を真っ直ぐに見返す。

「エルドラン評議員、ご指摘はもっともです。ですから、火の祭礼はまず王都の一地区で試験的に行い、その成果を検証した上で拡大します。魔力教育改革も、既存の孤児院・学舎と連携して、段階的に移行していきます」

言葉を区切り、さらに踏み込んだ。
「私は夢物語を語っているつもりはありません。今ある仕組みと人材を活かしながら、新しい価値観を芽生えさせる。そのための“最初の一歩”を、ここで踏み出したいのです」

エルドランは腕を組み、しばし沈思した後、静かに頷いた。
「……段階的実施、か。そう聞くと現実味がある。民政局としても、試験運用の予算と人員調整には協力できるかもしれん」

その瞬間、他の評議員たちが一斉に顔を見合わせる。
長年、慎重派の重鎮として知られていたエルドランが、初めて“支援”を口にしたのだ。

アリアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。私は、この国の未来に情熱を注ぐ全ての人と手を携えたい。恐れられるのではなく、導き、支え合う国を創るために」

エルドランは微笑を浮かべ、かすかに手を上げた。
「若い情熱も、現実的な足取りも、どちらも必要だ。諸君、我々も考えを改める時かもしれんぞ」

拍手がひとり、またひとりと起こり、議場の空気が確かに変わっていく。
理念は、現実の協力者を得て、ようやく動き出そうとしていた。

 

8-5:交錯する三つの未来 ― 決断の保留

王宮最大の評議会場。
煌びやかなシャンデリアの光が、ざわめきに揺れる空気を照らしていた。
ルシア、アレイド、アリア――三人の王子王女の提案は、確かに評議員たちの心を揺さぶった。
だが、揺さぶられたがゆえに、議場は賛否で真っ二つに割れていた。

「やはり、第一王子ルシア殿下の案こそ王国に相応しい。民政、治安、教育……堅実かつ安定しておる!」
年配の貴族が杖を突きながら声を張る。

「いや、安定だけでは停滞だ。次代を拓くにはアレイド殿下の“戦略局”こそ必須。あれは革新だ!」
軍部の将校が机を叩き、唾を飛ばす。

「両者は現実的だが……だが、我らが目を向けねばならぬのは民心だ。アリア殿下の“光の国づくり”が、真に人を結び付ける!」
文化振興に携わる学匠が、興奮気味に立ち上がる。

声が交錯し、議場は嵐のごとき混乱に包まれていった。
――堅実か、革新か、情熱か。
三つの未来像は、どれも魅力的であり、同時に不安を孕んでいた。

玉座の背後の高みに設けられた暗がりから、冷たい視線がその様子を見下ろしていた。
「ふむ……三者三様、互いに譲らず。差異が深まれば深まるほど、裂け目もまた深くなる」
誰にも気づかれぬ黒幕の独白が、闇に溶けて消える。

――その裂け目を利用するのは、容易い。

一方、議場中央では議論がさらに熱を帯びていた。

「ルシア殿下の案は確かに安定的だが、今の時代に革新を欠くのは致命的!」
「いや、アレイド殿下の“情報一元化”など、過剰統制の温床だ!」
「アリア殿下の情熱は眩しい。だが、理念で国は回らんのだ!」
「いや、民心を束ねる力がなければ、どれほど制度を整えても砂上の楼閣だ!」

言葉が飛び交い、椅子が軋み、机が叩かれる。
三人の兄妹は、互いの提案を抱えながらその光景を見守っていた。

ルシアは眉間に皺を寄せ、冷静に議論の流れを測ろうとする。
アレイドは鋭い眼差しで、誰が敵か味方かを既に分類していた。
アリアは胸の前で拳を握り、まだ震える声で「届いてほしい」と願っていた。

――だが、評議会は容易に結論を出せない。
三人の未来像は、それぞれに真実を含みすぎていた。

「……静粛に!」
議長役の老評議員が、杖を床に強く打ちつけた。
その音は、混沌に沈みかけた議場を一瞬で正気に戻すほどの重さを帯びていた。

「諸君、熱心な討論は結構。しかし、我らは今日ただちに決断を下すために集ったのではない」
老評議員は白髭を揺らしながら、ゆっくりと三人の兄妹を見渡した。

「ルシア殿下の“安定”、アレイド殿下の“戦略”、アリア殿下の“情熱”。いずれも王国にとって欠かせぬ柱である。だが――今ここで一つを選べば、他を斬り捨てることになる」

重苦しい沈黙が落ちた。
兄妹三人の心臓が、それぞれの胸で大きく脈打つ。

「よって、本評議会は結論を保留する」
「なっ……!」
驚きの声が走ったが、老評議員はさらに言葉を続けた。

「三つの未来像が互いに補い合うのか、それとも対立し合うのか――それを試す“追加の試練”を課すべきだ」

「追加の……試練……」
ルシアが低く呟く。
アレイドは目を細め、「なるほど、そう来るか」と苦く笑った。
アリアは唇を結び、震える声で言葉を押し出す。
「つまり……わたしたちに、もう一度“未来を証明しろ”というのですね」

評議員たちはざわめきながらも、その提案に次々と頷きを見せていった。
「三人の力を確かめるにふさわしい」
「保留が最も公正だ」
「真に導く者は、試練を超えてこそ分かる」

議場全体が一つの結論へと収束していく。

その瞬間――
高みに潜む影が、愉悦の笑みを深めた。
「良い……まさに望んだ展開だ。差異が深まり、試練が重なれば重なるほど……彼らの絆は削られ、そして私の望む舞台へ近づく」

誰も気づかぬその笑い声が、闇に溶けて消えた。

議場中央では、三人の兄妹が互いを見つめ合っていた。
ルシアは深く息を吐き、弟妹に静かな声を投げかける。
「どうやら、まだ終わりではないようだ」

アレイドは苦笑を浮かべながらも、目は鋭いままだった。
「試練を与えるのは結構だ。だが……その裏に“誰かの意図”があるとすれば、俺は必ず暴き出す」

アリアは胸に手を当て、燃える瞳で二人を見つめる。
「なら……一緒に超えましょう。三人で。どんな影に試されても」

三つの未来は交錯し、まだ一つには定まらない。
だが、その交錯こそが次なる試練への道標だった。

――こうして、評議会の結論は保留され、兄妹の前に新たな試練の扉が開かれた。

8-6:黒幕の笑み ― 次なる舞台へ

闇の回廊に、足音は一つ。
王城の最奥、誰も近づかぬ古き塔の上で、仮面の人物はひとり、評議会での一幕を振り返っていた。

「三つの未来案……それぞれが、この王国を形づくる可能性を孕んでいる」

低く湿った声が、石壁に反響する。
仮面の奥で、瞳がかすかに揺れた。愉悦か、あるいは冷笑か。

「分裂か、融合か――あの兄妹と彼らの同志が、どちらを選ぶか。それを見極めるまでは、まだ盤を閉じるわけにはいかぬ」

机上には羊皮紙の地図。王都を中心に、軍、交易路、辺境の要塞に印が記されている。
その指先は、ときに城内の評議会議場へ、ときに外縁の森の奥へと移動し、まるで両方に根を張る者であるかのように動いた。

「内から腐らせるのも、外から侵すのも……どちらも容易い。だが――私は両方に在る」

その言葉は独白に過ぎぬのか、それとも誰かに向けた告白なのか。
仮面の人物の立ち居振る舞いには、宮廷の作法を心得た滑らかさがある。だが、その纏う外套は、国外の密偵や異端の教団を思わせる異質な布地であった。

「ふふ……正体を問う暇も与えず、盤上の駒を踊らせるだけでよい」

窓から差し込む月光が、仮面を照らす。そこに刻まれた文様は王国古来の紋章に似て、だが明らかに歪んでいた。
それは「内か外か」を判別する者の目を惑わせる仕掛けだった。

「試練はまだ終わらない。むしろここからが本番だ」

糸を操るように、仮面の人物は指先を動かす。
見えぬ糸は闇の中で震え、次なる舞台を指し示す。
王城の華やかな広間か、それとも血と煙の漂う戦場か――どちらにせよ、兄妹たちを待つのは“真の試練”。

その瞬間、仮面の奥で細い笑みが広がった。
それは人間のものにしては冷たく、異形のものにしてはあまりに理知的だった。

「さあ、踊れ。王国の未来を賭けて。私はただ、結末を刈り取るだけだ」

塔の窓が風に軋む。
仮面の人物の姿は、闇と同化するように掻き消えた。

残されたのは、王国の中枢に潜むのか、外部から侵す影なのか――誰も知り得ないという不穏さだけだった。

 

 

第9章:試練の迷宮 ― 真価を問うもの

 

9-1:評議会の決断 ― 新たなる試練

王城の評議の間は、今なお緊張の余韻に包まれていた。
長男ルシアの「軍略と統治」、次男アレイドの「戦略局による情報と防衛」、長女アリアの「絆と文化による未来」。
三者三様の提案は、議場にいる誰もが予期せぬほどの波紋を生み出し、賛否の声が交錯していた。

巨大な円卓の上に置かれた古びた金の槌が、重々しく打ち下ろされる。
「――静粛に!」
議長格の老臣マルケンが声を張る。その背は年老いてなお真っすぐで、白髪の髭は威厳を帯びて揺れた。

「三人の王子王女よ。それぞれの案は雄大であり、また深い思索に裏打ちされておる。しかし……いずれも一国の未来を決定づけるには未だ実証が足りぬ」

ざわめきが再び起こる。
一部の評議員は頷き、別の者は不満げに眉をひそめた。

ルシアが一歩前に進み、低く息を吐く。
「実証……と仰るのですか? ならば軍を動かし、国境の守りを――」

だがマルケンは手を上げて制した。
「急いてはならぬ。剣を振るうだけが国の証明ではない」

続いてアレイドが冷静に口を開く。
「では、我らの理念をどう確かめると? 戦略局の設立は時間を要します。机上の議論を続けるだけでは、答えは永遠に出ません」

アリアが声を重ねる。
「……民は待ってくれません。弱き者を護るため、明日を信じるため、いま光を示さねば――」

三人の訴えを遮るように、別の評議員が立ち上がった。
細身で鋭い眼差しを持つ、財務卿エルドランである。

「だからこそ、試すのだ」

その声に、議場の空気が張り詰める。

「口で語るは容易い。しかし未来を担う者に求められるのは、言葉を超えた行動だ。――古来より伝わる“迷宮の試練”。それこそが、この王国において真に価値ある指標となろう」

「迷宮」という言葉が放たれた瞬間、数人の評議員がざわめき、若い騎士たちの背筋が震えた。

ルシアが眉をひそめる。
「……迷宮だと?」

エルドランは頷いた。
「そうだ。王都の地下深くに封じられた古代王国の遺産。“選ばれし者”のみが挑むことを許されるという伝承が残されている。そこにこそ、軍略、知略、そして人心を動かす力――三つが同時に試される場がある」

マルケンがゆっくりと立ち上がり、低く宣言した。
「評議の結論は一つ。三人の案は拮抗している。ならば、兄妹そろってこの試練に臨め。己が掲げた理念を迷宮にて示し、証明せよ。三案は互いに相容れぬか、それとも融合し得るか――そこで答えを見出すのだ」

議場が大きく揺れた。
賛成と驚き、そして恐れが入り混じる。

アレイドが目を細める。
「……なるほど。つまり、試練を通じて“選別”するわけか」

アリアは唇を噛みしめる。
「試練……それは危険なものなのでしょう? ただの儀式ではない」

老臣マルケンの声が重く響く。
「そうだ。古代より、迷宮は挑む者の力と心を削り、時に命すら奪う。だが、その果てにこそ“王国を導く力”が宿ると伝えられておる」

その言葉に、場内に緊張が走った。
兄妹の提案が「未来の理念」から「命を懸けた試練」へと変貌してゆく瞬間だった。

静まり返った議場の空気を破ったのは、誰あろう第一王子ルシアの低く、だが揺るぎない声だった。
「……承知しました。評議会の御前で定められた試練、我ら兄妹、受けて立ちましょう」

兄としての矜持が、その言葉の端々ににじむ。
アリアが思わず顔を向けた。
「ルシア兄様……」

アレイドが冷ややかに口を挟む。
「軽々しく受けるものではないぞ。あの迷宮はただの遺跡ではない。魔力の瘴気が満ち、幻惑と罠が待ち構える……文献によれば、百年前に挑んだ王族ですら帰らぬ者があった」

ルシアは真っ直ぐに弟の瞳を見返す。
「だからこそだ、アレイド。危険だからこそ、俺たちが挑まねばならない。民に未来を示すとは、口先の理想ではなく命を懸けて証明することだろう」

言葉を聞いたアリアが、やや震えながらも小さく笑んだ。
「ならば……私も共に行きます。だって、三人の未来は分かたれるためのものじゃない。互いを補ってこそ意味があるはずだから」

議場のあちこちでざわめきが起こる。
「協働か?」「互いを競わせるのではなく?」――意見が飛び交う。

すると、財務卿エルドランが椅子を鳴らして立ち上がった。
「評議会よ。彼らを試すのは“分裂”ではなく“融合”であるべきだ。三案は確かに異なるが、王国の未来は一つしかない。――ならばこそ、三人には共に挑ませるべきだろう」

老臣マルケンも頷き、重々しく言葉を継いだ。
「決まりだ。三人よ、試練に挑むのは兄妹揃って。互いの未来像をぶつけ合うのではなく、迷宮の深奥でそれを示し、試し、そして……一つの道に織り上げよ」

その瞬間、兄妹三人は互いに視線を交わした。
――ルシアは「民を包む盾」としての安定を。
――アレイドは「影を制御する頭脳」としての自立を。
――アリアは「心を照らす炎」としての絆を。

三つの理念は、互いに衝突しながらも、確かに補い合える。
だがそれを実証するには、迷宮という試練を超えねばならない。

アレイドが小さく皮肉めいた笑みを浮かべた。
「協働、か……。俺の知略を、お前たちが乱さなければいいが」

ルシアは真顔で応じる。
「ならば互いを信じろ。俺も、お前を信じる」

アリアが両手を胸に当て、祈るように言葉を添える。
「三人でなら、どんな闇だって超えられるはずよ」

その言葉に、議場の空気が一瞬だけ柔らいだ。
だが――その片隅、影の奥でひそやかに笑む仮面の人物がいたことに、誰も気づかなかった。

仮面の奥からこぼれる呟き。
「……そうだ、協働せよ。だが果たして、お前たちの“絆”が迷宮の闇を超えられるかな? 分裂するか、融合するか――見届けるとしよう」

闇の笑みは、すでに次なる舞台を整えていた。

 

 

9-2:封印の扉 ― 古代王国の遺産

――灰色の空の下、王都の外れにそびえる断崖の谷。
その中心に、時間に忘れられたかのようにそびえ立つ石門があった。
高さおよそ十メートル。古代文字が刻まれた巨岩が二枚の翼のように閉ざされ、表面には淡い青の紋章が脈打つ。

ルシアは息を呑み、その前に立った。
「これが……“封印の扉”か。想像していたよりも、ずっと重い気配だな」

アリアが炎の魔力を抑えきれず、指先に小さな光をともす。
「生きてるみたい……この扉、呼吸してる。まるで、私たちを見てるみたい」

アレイドは冷静に周囲を観察し、掌を地にかざした。
薄く魔力の糸が地面を這い、石壁に刻まれた古代紋章と共鳴する。
「……やはり。古代エストリア文明の封印術式だな。魔力構造は三層――封印、幻影、そして“選別”の回路が組まれている」

その説明に、同行していた導師ヴェルナーが頷いた。
「さすがはアレイド殿。よく見抜かれた。この迷宮は、王国が建つより遥か昔、古代の賢者たちが“未来を測るため”に築いたと伝えられておる。
選ばれし者にしか、その心臓部――“叡智の間”へは到達できぬ」

アリアが首をかしげる。
「未来を……測る?」

老導師は深くうなずき、杖を突きながら語った。
「うむ。この地の言葉で“アーク・メイデン”――直訳すれば『運命を映す迷宮』。
入る者の心を写し、力と絆、そして“真意”を試す。古代の賢者はこう記しておる。
『心が裂けた者は影に呑まれ、心が結ばれた者は光を継ぐ』……とな」

沈黙が三人の間を流れた。
ルシアがゆっくりと剣の柄に手を置く。
「つまり……俺たちの“未来像”そのものが、この迷宮で試されるということか」

アレイドは軽く肩をすくめ、皮肉めいた口調で応じた。
「未来を映す、ね。まるで皮肉だな。俺たち三人は、異なる未来を描いたばかりだ。
それが“試される”となれば……迷宮の罠は、ただの石や魔物ではないかもしれん」

アリアは拳を握った。
「でも、だからこそ乗り越えなきゃ。だってこの試練は、みんなの未来のためにあるんだもの」

導師ヴェルナーが穏やかに微笑んだ。
「若き王子王女よ。その志こそが、封印を解く鍵となろう。
だが――決して忘れるな。この迷宮は“試す”のではなく、“映す”のだ。
己の心の奥にある影、それとどう向き合うかで、すべてが決まる」

その言葉に、ルシアは静かにうなずいた。
「己の影か……」
瞼の裏に、過去の光景がよぎる。
民の抗議、血に濡れた広場、そして――“善意だけでは統治できない”と悟った日の重さ。

一方で、アレイドは記憶の中で誰かの笑い声を思い出していた。
あの夜、演習を狂わせた“影の策”。
見えない誰かが自分たちを“観察していた”という確信。
――まるで、今日この場に至ることまで読まれていたかのようだ。

不意に、冷たい風が吹き抜ける。
封印の扉に刻まれた紋章が一瞬だけ強く輝き、微かな囁きが響いた。
それは人の声のようであり、古代語の残響のようでもあった。

『来タレ……継グ者……ソノ心ヲ、我ニ示セ……』

アリアが一歩、前に出た。
「今、扉が――呼んでる」

その瞬間、導師たちがざわめき、学者の一人が叫んだ。
「封印の反応が出た! 王族の血にしか反応しないはずだ!」

アリアの体から、炎の魔力がふわりと立ち上がる。
アレイドとルシアが同時に駆け寄り、彼女の肩を支えた。
光と炎が渦を巻き、巨大な石門の紋章が回転を始める。

ヴェルナーが声を張り上げた。
「始まるぞ……封印の扉が、三つの“意志”に応えたのだ!」

地面が震え、石が鳴動する。
ルシアが剣を抜き、兄としての声を上げた。
「アリア、アレイド――いくぞ。これが俺たちの“未来への扉”だ!」

そして、光が爆ぜた。

――封印が、開かれた。

重々しい石の扉が、ゆっくりと地鳴りを立てて開いていった。
長い年月、誰の手も触れぬまま眠っていた空間が、初めて外の空気を吸い込むように息づいた。

内部から溢れ出す光は、炎でも魔力でもない。――それはまるで、時の流れそのものが輝きとして形を成したような、淡い金の粒子。
誰もが息を呑み、その場に立ち尽くした。

リオネルが一歩踏み出し、呟いた。
「……ここが、かつて“創世の王”が最後に残したという試練の地……」
隣でレイシアが肩を震わせながら頷く。
「記録でしか知らなかった……でも、本当にあったのね。『アール=セリアの迷宮』……」

導師セラフィが杖を地に突き、静かに祈るように言葉を継ぐ。
「この迷宮は、古代の王が“後継者”を選ぶために造った。力でも、血筋でもなく、“真の叡智”を持つ者を見出すために――」

その声に、若き評議員ロイドが息を詰めた。
「……つまり、王国の未来を担うのは……この試練を越えた者というわけだな」
「その通りです」
セラフィが頷く。
「三者が持ち寄った未来の構想――それをこの迷宮が試すのです。理念が虚であれば、迷宮は拒み、真実があれば道が拓かれる」

扉の前に立つ三人――リオネル、レイシア、アラン。
彼らの背後には、それぞれの仲間たちが控えていた。
戦士団の面々、学者、商人、技術者……王国の縮図のような顔ぶれが、互いの陣営を越えてここに並ぶ。

その光景を見つめながら、老学者オルフェンが低く呟いた。
「これは試練であると同時に、統合の儀式でもあるのかもしれんな……。分断されし王国が、再び一つになるための……」

しかし、彼の言葉にレイシアが首を振った。
「でも、“一つになる”って簡単に言うけれど……それぞれの理想は違う。
わたしたちが信じる“王国”の形も……同じではない」

その言葉に、静かに応じたのはアランだった。
「それでも――兄妹として、民として、共に進むしかない。今は“正解”より、“答えを探す覚悟”が問われているんだ」

短い沈黙。
リオネルは、扉の奥を見つめながらゆっくりと拳を握りしめた。
「俺たちは、ただ未来を選ぶだけじゃない。……ここで、“過去の罪”と“今の矛盾”に、決着をつけるんだ」

その声には、迷宮の闇の奥に眠る“何か”への確信があった。

――その時、導師セラフィの瞳が細められる。
「……感じますか? この気配を」
冷たい風が、封印の奥から流れ出した。

まるで千年の眠りを妨げられた“存在”が、目を覚ますような圧力。
アランが剣の柄に手をかけ、周囲を見渡す。
「……この空気……生きてる……?」
レイシアが光の杖を構える。
「迷宮そのものが“意思”を持ってるのね……まるで、私たちを見てるように……」

セラフィが頷き、言葉を絞り出す。
「“見ている”のです。かつての王も、そしてこの迷宮も。
この国が真に未来へ進めるか――それを、見極めるために」

扉の前に立つ三人が、互いに視線を交わした。
かつて争った、理想と理想の狭間。
だが今は、その違いこそが試される時だった。

リオネルが先に、一歩を踏み出した。
「行こう。――これが、俺たちの“答え探し”の始まりだ」
アランが無言で続き、レイシアも深く息を吸い込んで後を追った。

重い石扉の向こう、淡い光の霧が彼らを包み込む。
やがて扉は、再び静かに閉ざされた。

――外に残された評議員たちは、しばし沈黙していた。

ロイドが小さく呟く。
「……彼らが戻るとき、この国は変わっているかもしれないな」
セラフィが頷きながら、空を見上げる。
「ええ……けれど、それが“破滅”か“再生”かは、まだ誰にもわかりません」

そして――
誰も気づかなかった。

王都の遠く離れた塔の上から、その光景を見下ろす“仮面の影”の存在に。
白磁のような仮面に刻まれた、細い亀裂。
そこから漏れる光は、迷宮の輝きと酷似していた。

「始まったか……“真の継承の儀”が」
低く、くぐもった声が、風に溶けて消える。

「さあ、彼らの“未来”がどちらを選ぶのか――見せてもらおうじゃないか。
統合か、崩壊か。
それとも……“第三の道”か」

仮面の人物は、王宮の尖塔から視線を逸らし、手の中の“古代の王印”に指を滑らせた。
その指先が、わずかに笑う。

「この王国が、まだ“私の計画のうち”にあるなら……次の幕は、そう遠くない」

夜風が吹き抜ける中、仮面の人物のローブが闇に溶けていった。
――そして、迷宮の中では、既に最初の光が彼らを試そうとしていた。

 

9-3:迷宮の試練 ― 力と知恵と心

迷宮の門が閉じられた瞬間、空気が一変した。
壁は脈動し、まるで生き物の体内に入り込んだかのように、淡い青光が鼓動している。
ルシア、アレイド、アリアの三人は、互いに短くうなずき合い、進むべき通路を見定めた。

「……三つの道がある。力、知恵、心――」
壁に刻まれた古代文字を読み取ったのはアレイドだった。
彼の声は冷静で、しかし内には高ぶるものがあった。

「つまり、俺たち三人それぞれに“課せられた試練”ってことか」
アリアが指を鳴らすと、通路の一つが赤く輝く。
「力、ね。望むところだわ」
炎のような瞳がきらりと光る。

「待って、アリア」
ルシアが呼び止める。
「この迷宮は“魔王選定の儀”でもある。力だけじゃ突破できない」
「分かってる。でも――力は私の言葉だよ、兄さん」
アリアは微笑んだ。炎のような気迫の奥に、彼女なりの覚悟が見えた。

それぞれの道へと足を踏み入れた瞬間、光の柱が立ち上がり、三人の姿は別々の空間に引き裂かれた。

アリア ― 力の試練

赤い空間。
熱風が吹き荒れ、地面には黒鉄の砂が散らばる。
遠くには巨大な影――灼熱の巨人が立っていた。

「これが……“力”を試す存在、ね」
アリアは両手を広げる。空気が震え、無数の魔法陣が展開する。

「来なさい、“火の理(ことわり)”」

その声に応じ、足元から紅蓮の火柱が立ち上る。
巨人が吠えた。地鳴りのような咆哮。
だがアリアは一歩も引かず、片手を高く掲げた。

「炎に焼かれる覚悟がなければ、炎を制する資格はない!」

魔王の血を継ぐ娘。彼女の周囲に、十重二十重の魔法陣が咲き誇る。
巨人が拳を振り下ろすと、空間が歪み、衝撃波が走った。

アリアはその拳を真正面から受け止め、炎の翼を広げて立ち向かう。
彼女の魔力が爆発するたび、赤い空はさらに輝きを増した。

だが、次の瞬間。
巨人の影が、彼女の姿へと変わった。

「……私?」

鏡写しのアリアが、同じ構えで立っていた。
それは“力”そのもの――自らの暴走する魔力を具現化したもの。

「力とは、他者を焼くためのものではない。
守るためにこそ、燃やせるか?」

幻影が問いかけた。
アリアは息を呑む。
父の言葉、兄の笑顔、母の微笑みが脳裏に浮かぶ。

「私は……守る。私の炎は、誰かを包むためにある!」

次の瞬間、アリアの両手に光が宿る。
灼熱の火炎は黄金に変わり、暴走する幻影を包み込んだ。
炎は穏やかに収束し、赤の空間は静寂に満たされる。

その中心で、アリアはひとり立っていた。
「これが……“力の意味”。分かった気がする」
炎の中で、少女の瞳は優しく輝いていた。

アレイド ― 知恵の試練

一方、アレイドの前に広がっていたのは、白と黒の石畳が無限に続く空間だった。
宙に浮かぶ光の文字、複雑な紋章。
足元には「答えのない問い」が刻まれている。

「……論理迷宮(ロジック・ラビリンス)か」
アレイドは呟き、指先で文字をなぞった。

次の瞬間、無数の声が響く。

『真理とは何か?』『正義とは何か?』『選ぶとは何か?』

「哲学の試練か。面白い」
アレイドは微笑む。
だがその笑みは、すぐに凍りついた。

空間の奥から、もう一人のアレイドが現れた。
彼の分身――冷徹な表情で、同じ言葉を繰り返す。

「知識とは力だ。だが、力は時に命を奪う」

「……俺の迷いを映すつもりか」
アレイドは眉をひそめた。
思考と理性を信じてきた自分。しかし時に、その冷静さが人を傷つけたこともある。

「正しい答えを選ぶことが、いつも正しいとは限らない」

その言葉に、幻影のアレイドが微笑む。
「では、答えを捨てるか?」

「いや――“答えを探し続ける”ことを選ぶ」

アレイドの瞳が静かに燃える。
次の瞬間、迷宮全体の文字が光を放ち、無限の方程式が一つの解に収束していった。

白と黒の道は一つになり、静寂が訪れる。
アレイドは息を吐き、前へ進んだ。

「知は、支配ではなく理解のためにある。
……兄さん、アリア、もうすぐ合流だ」

――静寂。

世界が音を失った。
アリアの炎も、アレイドの理も届かないその場所に、ルシアは一人立っていた。

足元には鏡のような水面。
頭上には、空でも地でもない灰色の空間。
そこに在るのは、己の呼吸と心音だけ。

「ここが……“心”の試練、か」
ルシアは小さく呟いた。

その瞬間、水面が波紋を広げ、揺らめく光が形を取った。
――母ミカの姿だった。

「ルシア……あなたは、誰のために剣を握るの?」

柔らかく、しかし胸の奥を貫く声。
ルシアの唇が震える。
問いかけられるまでもなく、その言葉は彼の“核心”を突いていた。

「俺は……この国を守るため。父と母、そして……弟と妹を守るために」

そう答えると、ミカの幻影は静かに微笑んだ。
「守るだけでいいの?」

「……え?」

「あなたの“心”は、いつも他人のためにしか動いていない。
優しさは強さでもあるけど、時に“自分”を見失うの」

その言葉に、ルシアは目を伏せた。
幼い頃から、「長男だから」「王の子だから」と教えられてきた。
責任。義務。期待。
それが彼の軸であり、呪縛でもあった。

水面が再び波打ち、今度は――父・アークの姿が現れる。
「力も知も、最後に導くのは“心”だ。
だが、心を持つ者ほど、他者の痛みに沈む」

「父上……」

「お前は誰かのために剣を振るうが、
本当に必要なのは――自分のために剣を抜く“覚悟”だ」

その声は雷のように響いた。
ルシアは、胸の奥にずっとしまい込んできた“恐れ”に気づいた。

自分のために戦えば、誰かを傷つけるかもしれない。
だからいつも、“守る”ことに逃げていたのだ。

「……俺は……」
声が震える。

その時、周囲の水面が黒く染まった。
そこに映るのは――アリアが炎に包まれ、アレイドが崩れ落ちる光景。

「やめろッ!」
ルシアが叫ぶと、幻影の声が応えた。

「見ろ、ルシア。お前が“守れなかった”世界だ」

心がえぐられるような痛み。
しかし、彼は目を逸らさなかった。
それが、自分の弱さであり、恐怖の象徴だと知っていたから。

握りしめた拳が震える。
「俺は……もう逃げない。守るだけじゃなく、“進む”ために戦う!」

その瞬間、彼の足元から光が溢れ出す。
心の闇を切り裂くように、光の剣が彼の手に宿った。
穏やかな金色の輝き――それは“愛”と“意志”の融合だった。

ミカの幻影が微笑む。
「それが、あなたの“心の剣”。自分を赦し、他者を導く力よ」

水面が光に包まれ、ルシアの視界が真白に染まった。

――そして再び、三人の姿がひとつの広間に集った。

それぞれが、自らの試練を越えた者の目をしていた。
アリアは炎を抑え、穏やかに息を吐く。
アレイドは冷静なまなざしを向けながら、ルシアの手の中の光を見つめた。

「兄さん……その剣」
「“心の剣”だ。たぶん、俺たち三人の“絆”を象徴するものだと思う」

ルシアが静かに微笑むと、アリアが拳を握った。
「じゃあ、次は三人で進もう。迷宮の出口は、きっとその先にある」

アレイドが頷く。
「……だが、警戒は解くな。何かがこの試練を“書き換えている”。
ここまでの構造、あまりにも人工的すぎる」

その瞬間、空間が軋んだ。
壁が裂け、黒い霧が吹き出す。

「来たな……!」
アリアが身構えた瞬間、黒霧の中から“声”が響いた。

『よくここまで来たね、王の子らよ。だが――試練はまだ終わらぬ』

低く、冷たい囁き。
アレイドが瞬時に解析魔法を展開する。
「これは……誰かの精神干渉だ。外部から、迷宮の制御を……!」

黒霧が渦を巻き、やがて一つの影が形を成した。
その姿は、彼らの“かつての仲間”――
王国軍の将校、〈リュゼ〉の姿をしていた。

「まさか……!」
アリアが目を見開く。

「リュゼ……あなた、どうしてここに?」

影のリュゼは笑った。だがその笑みは、人のものではなかった。
「お前たちの“成長”を見届けるためだよ。
……いや、正確には、“この国の未来”を試すためにな」

「試す?」
ルシアが一歩踏み出す。
その足元に、黒い亀裂が走った。

「まさか……“試練そのもの”が、改変されている……?」
アレイドが目を細めた。
冷たい声が応える。
「正解だ。お前たちの父、魔王アークが築いたこの迷宮――
それは、かつて“王を選ぶ装置”だった。
だが今は、“王を排除するための罠”に変わっている」

ルシアの瞳が鋭く光る。
「誰がそんなことを――!」

「答えを知りたければ、先に進め」
黒霧のリュゼが消えると同時に、三つの道が再び現れた。

アリアが苛立たしげに叫ぶ。
「また分断!? ふざけんなッ!」

ルシアは静かに剣を構える。
「いや――今度は違う。三人で“ひとつの道”を作るんだ」

ルシアの光の剣が地面を貫く。
その光が分かたれた三つの道を包み込み、一本の大きな橋となってつながる。
アレイドが驚愕の息を漏らした。
「心の力が……構造そのものを再構成している……!」

アリアが笑う。
「さすが兄さん。じゃあ――一緒に行こう!」

三人は手を取り合い、光の橋を駆け抜けた。

闇が裂け、炎が咆哮し、幻が彼らを試す。
だが三人の心は一つだった。

力(アリア)が道を切り開き、
知(アレイド)が罠を解析し、
心(ルシア)が全てを繋ぎ止める。

その連携は、まるで一つの意志が具現化したようだった。

やがて、彼らは迷宮の最深部へと辿り着いた。
そこには――三つの扉が待っていた。

一つは、紅の光を放つ〈戦の扉〉。
一つは、蒼の輝きを帯びた〈知の扉〉。
そして、最後の一つは、金色に煌めく〈心の扉〉。

扉の上には古代文字が刻まれている。
アレイドが声に出して読む。

「“選べ。道は一つ。だが、未来は三つ。”」

アリアが息を呑んだ。
「まさか……これが――」
「“選択の扉”……か」

ルシアが呟く。
迷宮全体が、微かに振動している。
まるで、この選択こそが“真の試練”であることを告げているように。

静寂の中、三人は互いの顔を見合わせた。
そして――ルシアが、深く息を吸い込んだ。

「行こう。どんな未来でも、俺たちが選んで、掴み取る」

その言葉に、アリアとアレイドがうなずいた。

彼らの足元に光が集まり、扉の紋章が輝く。
次の瞬間――
三つの扉が同時に開き、まばゆい光が三人を包み込んだ。

――そして、静かな風が吹いた。

迷宮の外、夜明けの光が差し込む廃墟の中に、三人の姿があった。
それぞれの肩に刻まれた光の紋章が、柔らかく輝いている。

ルシアが剣を地に突き立て、微笑んだ。
「これで……“試練”は終わりだ」

アリアが息を吐き、アレイドが天を仰ぐ。
それぞれが、自分の中の“答え”を見つけていた。

だが、その瞬間――遠くの闇の中で、声が響いた。

『――盤は整った。次は、“選ばれる者”の番だ』

黒い影が微かに笑う。
その笑みが、次なる災いの序章であることを、まだ誰も知らなかった。

 

9-4:交錯する陰謀 ― 仕組まれた罠

――迷宮第七層。
重く湿った空気が、魔力の層を歪ませていた。壁に刻まれた古代文字が、まるで呼吸するように赤く明滅する。

「……違う。これ、自然な反応じゃない」
アレイドが眉をひそめ、魔術式を展開する。演算陣の光が指先を走り、壁面をなぞった。

「“試練の迷宮”は、王家の加護のもとに保たれてるはずだろ?」とルシアが言う。「お前の言う“違和感”って、どういう意味だ?」

「迷宮の魔力構造が――誰かの手で書き換えられてる。試練そのものが、改変されてるんだよ」

その一言に、空気が張りつめた。
ルシアは剣の柄に手を置き、反射的に周囲を見渡す。静寂の奥で、金属が擦れるような低い音が響いた。

「改変? 誰がそんなことを――」

「外部の侵入は無理だよ。つまり……内部から」
アレイドの声が低くなる。「僕らを試している“誰か”が、最初から仕組んでたんだ」

アリアが一歩、兄たちの間に踏み出した。
金色の髪が揺れ、炎の魔力が微かに滲む。

「そんなの……ズルだよ。試練って、力と心を見せるためのものでしょ? 誰かが細工したら、意味ないじゃない!」

子供っぽい言葉。しかし、その瞳には確かな怒りが宿っていた。
ルシアは小さく息を吐くと、妹の肩に手を置く。

「……そうだな。だが、今は感情より冷静さが必要だ。罠だと分かってるなら、抜け出せる道もあるはずだろ?」

「理屈は正しいけど……問題は、その罠の“狙い”だな」
アレイドが再び魔法陣を広げる。「これは単なる障害じゃない。俺たちの動きを“誘導”してる」

「誘導……?」

「ああ。見ての通り、魔力の流れが三方向に分かれてる。まるで――“三人を分断する”ように。」

ルシアの瞳が鋭くなる。
まるで、仕組まれたかのように三つの道が、ゆっくりと開き始めていた。

「待って、ルシア兄さま! 行っちゃダメだよ!」
アリアが声を上げた瞬間、床が崩れ落ちるように裂けた。彼女は咄嗟に魔力を展開し、炎の翼で身体を支える。
しかし、ルシアとアレイドの姿が、爆ぜる光の中に飲み込まれていった。

「ルシア――っ!!」

アリアの叫びが、迷宮全体に響いた。
瞬間、炎の奔流が壁を焦がし、空気が震える。彼女の感情がそのまま魔力に変換され、制御を失いかけた。

「アリア! 落ち着け!」
光の向こうから、アレイドの声が響く。「君の魔力が暴走したら、この階層ごと崩れる!」

「でも――ルシア兄さまが!」

「兄さんなら……絶対に無事だ!」
アレイドの声は静かだったが、そこに確信があった。
魔力の演算式を即座に組み替え、彼は空間干渉を遮断する結界を張る。壁の魔法陣が共鳴し、炎の揺らぎがゆっくりと鎮まっていく。

アリアは震える唇を噛み、深く息を吸った。
「……ごめん。わたし、焦ってた」

「いいさ。君の感情は悪くない。問題は、誰が“この状況”を作ったかだ」

アレイドの瞳が冷たく光る。
迷宮の構造解析結果が、彼の視界に映し出された。

「外部干渉痕跡――発見。……やっぱり、誰かが“迷宮システム”を操作してる。しかも――王家の紋章鍵を使って」

「王家の……鍵?」
アリアの瞳が揺れた。「じゃあ、それって――」

「内部の人間しか使えない。つまり、俺たちの誰かを――“囮”にしてる可能性が高い」

その瞬間、空間が再び歪む。
今度は、アレイドの足元から黒い魔法陣が浮かび上がった。

「アレイドっ!」
アリアが駆け寄ろうとするが、強烈な重力が彼女を押し戻す。アレイドは冷静に構文を展開しながら、淡々と呟く。

「……なるほど。“僕”が囮ってわけか」

苦笑とも、覚悟ともつかない表情。
アリアの炎が再び燃え上がり、結界を溶かす勢いで輝いた。

「ふざけないでよ! そんなの、誰が許すもんか!!」

「落ち着け、アリア!」
ルシアの声が――響いた。
崩れた壁の向こうから、盾を構えた姿が現れる。
炎の光を背に受け、彼は静かに歩み出た。

「誰も囮になんてさせない。兄として、そして王の後継者として――俺が“全員”を守る」

その声に、アリアの炎が揺らぎを止めた。
アレイドの口元に、安堵にも似た笑みが浮かぶ。

「まったく……兄さんらしいよ。理屈より先に体が動くんだから」

「お前が難しく考えすぎなんだよ」
ルシアが短く笑う。「罠を仕掛けた奴がいるなら――突破して、正体を暴くまでだ」

彼の背後に、光の紋章が浮かび上がる。
“王家の加護”が、彼の意思に反応して輝いた。

だが、その光の中――
アレイドは、僅かに顔を曇らせた。

「……兄さん。気をつけて。相手は“内部の者”だ。僕たちのことを、全部知ってる」

ルシアは短くうなずく。
その瞳に、炎と影と光、三つの色が宿っていた。

「分かってる。だが――俺たちも、もう“子供”じゃない」

その言葉に、アリアが微笑んだ。
「うん……そうだね。家族で、乗り越えよう」

しかし、彼らの知らぬところで。
迷宮の奥深く――一つの瞳が、静かに彼らを見つめていた。
黒い魔力の残滓を纏いながら、その“観察者”は呟く。

「ようやく気づいたか、エストレーラの子らよ。だが、試練はまだ――終わらぬ」

闇が、再び揺らめいた。

―――続く。

夜。
グランフォル王国の使節団が滞在する迎賓館には、ひっそりとした闇が降りていた。
魔王軍秘書・ナナオは帳簿を閉じ、静かに息を吐いた。

「……おかしい。伝達経路のどこかで情報が漏れている」

昼間の会談で交わされた“非公開合意文”が、わずか数時間で街の商人の耳に届いていた。
偶然とは思えない早さだった。

「やはり気づいていたか」

背後から響く声。
アークが現れ、静かに窓辺に立つ。その傍らには、もう三つの影がいた。

――セレン、ユーリ、ラッカ。
かつてミカが育てた秘書候補たち。今はそれぞれの部署を束ねる中核官僚だ。

「情報庁の照合では、通信印章の改ざんは二度行われていました」
セレンが淡々と告げる。銀灰色の髪が月光を反射する。
「最初は王都経由、次は……誰かが内部から“鍵”を持ち出している可能性があります」

「内部、ってのは……俺たちの誰かが裏切ってるってことか?」
ラッカが苦々しく呟く。
「市民局経由の通信線も洗ったが、記録が途中で消えてやがる」

「……おそらく、“影の手”は王都だけではない」
ユーリが低く言い、指先で地図を示した。
「エルフ領でも似たような妨害工作が報告されてる。まるで誰かが、意図的に外交を壊そうとしている」

沈黙が落ちる。
そのとき、外から短い笛の音――異常発見の合図が鳴った。
ナナオは立ち上がり、アークと共に駆け出す。
セレンたち三人もそれぞれの役割を果たすように動いた。

「セレン、通信封鎖。外部の連絡線をすべて遮断して」
「了解。監査局に記録を転送します」
「ラッカ、城下の巡回兵に非常信号。避難経路の確保を」
「わかった。……ったく、こういうときに限って夜勤かよ!」
「ユーリは外交館側を頼む。万一、使節団に危害が及べば大事だ」
「了解。信頼は一夜で壊れる、だからこそ守るんだな……ミカ先生なら、そう言うだろう」

その言葉にナナオは、ふと立ち止まり、微笑を浮かべた。
――“先生”。
そう、彼らの中でミカはいまだに生きている。理想も、方法も、信念も。

裏庭に出た瞬間、黒い影が壁を越えようとしていた。
「待ちなさい!」
ナナオの叫びと同時に、アークの魔力が閃く。
紫電の鎖が走り、影の足を絡め取る。

影は苦悶しながらも、不気味に笑った。
「……“秩序の鍵”は、もう渡された。止めることはできぬ」
その言葉を残して、黒い霧となり消滅する。

アークが残骸を拾い上げた。
「……これは、古代の“封印術式”。禁忌の型だ」

「まさか、“彼ら”が動いている……?」
ユーリの表情が一瞬で硬くなる。
セレンは震える手で記録帳を閉じた。
ラッカは拳を握りしめ、夜空を睨んだ。
「……だったら、俺たちはもう、見てるだけじゃねぇ。守る側だ」

ナナオは静かにうなずいた。
「はい。――“先生の改革”を、ここで終わらせるわけにはいきません」

月光の下、四人の瞳が交わる。
その中心に、アークの低い声が響いた。

「これより、“影の調査局”を再編する。セレン、君が記録指揮官だ」
「承知しました」
「ユーリ、外部協議を統括。ラッカ、市民情報を掌握せよ」
「了解っ」「任せろ」

その夜、黒い鴉が城を飛び立った。
宛名は――「聖光教国枢機卿宛」。

そしてその瞬間、ミカの教え子たちは、知らぬうちに“次の戦いの主役”へと歩み出していた。

9-5:外交危機に挑む ― 外交危機の勃発と三人の動き

翌朝、魔王城の空は不気味な赤に染まっていた。
朝靄の中、鐘が三度鳴る。――これは「外交危機」の報を示す合図。

ナナオは、執務室の扉を開け放った。
そこではアークが、各国から届いた緊急報告書を並べていた。
机の上には、三つの印章。――グランフォル王国、エルフ連合、ドワーフ鉱山国家。

「……三国同時に、通商条約の一時停止を宣言してきた」
アークの低い声が、室内の空気を張り詰めさせた。

「原因は、“契約文書の改ざん”です。魔王側の署名欄が、偽造されていたと」
セレンの報告は冷静だが、声の奥に焦りが滲む。
「昨日の夜に侵入した者の残留魔力と、文書の封印式が一致。内部犯行の可能性が高いです」

「つまり――魔王城の中に、敵がいるってことだな」
ラッカが椅子を蹴って立ち上がる。
「くそ、昨日の段階で完全封鎖したはずなのに……!」

「焦るな」
アークが短く制する。
「問題は“どこで誰が”、ではない。――“何のために”だ」

その言葉に、場が一瞬静まる。
やがてユーリが、外交報告書を手に立ち上がった。
「……“三国同時”というのが引っかかります。偶然じゃない。
特にドワーフ国からは、“聖光教国からの通達”を経ての宣言だと明記されています」

「聖光教国……」
ナナオの心臓が小さく跳ねた。
それは、過去に魔王軍と最も激しく対立した国。
そして、ミカがかつて“対話の扉”を開こうとし、果たせなかった場所だった。

「ミカ様が……もし今ここにおられたら、何と言うでしょうね」
セレンが、ほんのわずかに目を伏せた。
その横顔に、ナナオは一瞬だけかつてのミカの面影を見た。

「きっと言うよ」
ユーリが微笑を浮かべる。
「“恐れずに事実を見ろ。真実は必ず、言葉の裏にある”ってね」

「だな。――俺たちが止めるんだ、次の戦争を」
ラッカの拳が、机を軽く叩く。
その熱に呼応するように、ナナオは一歩前に出た。

「……はい。では、行動を分担します」
机上に展開された地図の上で、ナナオの指がすばやく走る。
「セレン、内部監査と記録追跡を継続。文書改ざんの“痕跡魔力”を分析して」
「了解。法務局と連携し、署名魔力の照合に入ります」

「ユーリ、エルフとドワーフ代表に先行通達。公式回答を待たず、外交ルートを維持して」
「了解。直接交渉に出ます。エルフ領代表アステルとは旧知ですから、説得の余地はあります」

「ラッカ、都市局経由で市民層の動向を監視。扇動や流言の兆候を見逃さないで」
「任せろ。下町の空気が変わればすぐわかる。
……“戦争の足音”は、まず民衆の噂から始まるもんだ」

アークが静かに立ち上がった。
「ナナオ。お前は、私と共に“聖光教国”への特使として出る。
――これは、王としてではなく、“秘書の娘”としての使命だ」

ナナオは、息をのんだ。
ミカが果たせなかった交渉。
そして今、弟子たちが再びその意思をつなごうとしている。

「……承知しました。秘書長の理想を、次代へ繋ぎます」
「いい答えだ」
アークの表情がわずかに柔らいだ。
その瞳には、どこか父としての温もりが宿っていた。

「さあ、動け。これは“改革”の第二幕だ」
その一言で、部屋の空気が再び動き出した。

セレンは羽ペンを走らせ、記録魔法を起動。
ユーリは外套を翻し、外交通信局へ。
ラッカは警備隊を率いて街へと駆け出していく。

――そしてナナオは、静かに胸の中で呟いた。
「今度こそ、言葉で争いを止めてみせる」

――魔王城、議事堂第零会議室。
重厚な扉が静かに閉ざされ、魔族・人族・獣人の旗が並ぶ円卓の中心に、沈黙が落ちていた。

ナナオは中央の水晶端末を操作し、通信映像を投影する。そこには混乱する国境地帯の映像。
エルフ族とドワーフの間で勃発した、武力衝突の余波だった。

「報告を整理します。――国境付近の採掘権問題が再燃。グランフォル王国が派兵し、エルフ評議会が抗議を表明。現地時間であと二十四時間以内に、全面交戦の危険が。」

ナナオの声は冷静だったが、目の奥には緊迫が走る。

「……これが、“あの”古い条約の裂け目か。」

低い声で呟いたのは、セレン・アリステリア。
行政庁長官となった彼女は、依然として銀灰の髪を一糸乱さずまとめ、机上には整然とした三冊の記録簿が並ぶ。

「過去にミカ様が締結された『統一友好条約』――その補足協定が、今まさに解釈の分岐点に立たされています。」

「皮肉だな」ラッカが腕を組んで笑う。「あの頃のオレらが夜なべして書いた文書が、今になって爆弾になるとはな。」

「冗談を言っている場合ではありませんよ、ラッカ局長。」セレンが冷ややかに返す。

「でもよ、焦っても仕方ねえ。現地の声を聞かねえ限り、本当の原因は見えねえんだ。」

その時、通信機のランプが点滅する。ユーリ・マルケスが立ち上がった。
彼は現地大使館とのリアルタイム通信を開くと、魔力波の乱れを調整しながら報告を受ける。

「――敵意の火種は、両国民の不信感です。経済より“心”の問題。放っておけば、和平どころか憎悪が連鎖する。」

ユーリの言葉に、ナナオが小さく頷いた。
そして静かに言う。

「……では、ミカ様にご報告を。」

その名が出た瞬間、場の空気が引き締まる。
数瞬の後、扉が開き、王妃にして秘書長――ミカが姿を現した。

柔らかな光が差し込み、白衣に似た王妃の礼装が揺れる。
彼女の手には、あの日と変わらぬ羽根ペン。だがその瞳には、かつてよりも深い慈悲と確信が宿っていた。

「皆、よくやりました。」

その声は穏やかだが、誰よりも強い。
ナナオは頭を垂れ、セレンは即座に報告書を差し出した。

「情勢は悪化傾向です。――ですが、三局協議の枠を使えば、まだ間に合います。」

ミカは三人を見回すと、静かに頷いた。

「セレン、外交記録と条約条文の再検証を。
ユーリ、直接現地へ。対話の糸を、今すぐ繋ぎなさい。
ラッカ、市民避難と物資輸送の手配を。恐怖を放置すれば、戦火より速く民が崩れます。」

「了解です!」

三人が同時に敬礼した瞬間、ミカは小さく息を吐き――ナナオへと視線を向ける。

「ナナオ、あなたは私の代わりに、全体の調整を。」

「……はい、ミカ様。」

ミカは微笑んだ。

「“次代の秘書”の器、見せてごらんなさい。」

ナナオの瞳が、決意の光で燃える。
その背後では、かつての教え子たち――セレン、ユーリ、ラッカが立ち上がり、それぞれの持ち場へ向かって走り出した。

――外交危機の影が忍び寄る中、
“次代の魔王秘書”と“初代の三人”の絆が、再び歴史を動かそうとしていた。

9-6:崩壊する迷宮 ― 母と子の決断

迷宮最深部。
光と影が交錯する静寂の空間に、三人の若き王子王女が立っていた。
――ルシア・エストレーラ、アレイド・エストレーラ、アリア・エストレーラ。

三つの扉が彼らの前に現れていた。
黄金、蒼碧、そして紅蓮。
それぞれの扉の上には、古代語で刻まれた言葉が淡く輝いている。

『王は孤独の先に立つ者』
『王は世界を繋ぐ者』
『王は心を照らす者』

アリアが息を呑む。「……これが、“選択の扉”……?」

アレイドが拳を握りしめた。「選べってことか……どの未来を、誰が歩むか。」

ルシアは黙って扉を見つめていた。
彼の瞳には迷いも恐れもなかったが、その沈黙の奥には――母の声が、確かにあった。

(選択とは、犠牲を伴う勇気のことよ……ルシア。)

あの日、母ミカがそう語った。
迷宮はただの試練ではない。“王家の血”が持つ本質――世界を導く意志を測るためのもの。
三つの扉は、それぞれの未来の象徴。
そして、どれか一つを選べば他の道は崩壊する。

「兄さん……」アリアが振り返った。
その頬には、微かな涙が光っている。
「私……みんなで帰りたい。」

「俺もだ。」アレイドが低く言った。「でも、このままじゃ全員が道を失う。」

沈黙。
やがてルシアがゆっくりと前へ進む。

「――なら、俺が進もう。」

「兄さん!?」アリアが叫ぶ。

「俺が“孤独の扉”を選ぶ。王の道を行くのは、長子である俺の責務だ。」

その背に、アレイドが一歩近づく。

「待てよ、兄貴。そんな顔で“責務”なんて言うな。母上なら、そんな決め方を望まねぇ。」

ルシアが立ち止まる。その名を聞いた瞬間、心の奥で何かが揺らいだ。
――母の笑顔。
幼いころ、寝物語で語ってくれた言葉。

「王は一人では立てない。
けれど、誰かが最初に立たねば、世界は動かない。」

その意味を今、痛いほど理解していた。

アリアが兄たちの間に進み出る。

「だったら……三人で行こう。扉が一つでも、道は三つにできる。」

「そんなことできるのか?」アレイドが眉をひそめる。

「やってみなきゃ分からない。」
アリアの声は震えていたが、その瞳は母と同じ光を宿していた。

その瞬間――迷宮全体が、低い唸りを上げた。
天井がひび割れ、光の粒子が宙に舞う。
「崩壊が始まった!?」アレイドが叫ぶ。

ルシアが振り向き、ふたりの手を強く握った。

「だったら――“一緒に行く”って、世界に証明しよう。」

三人の手が重なった瞬間、
黄金、蒼碧、紅蓮の光が融合し、眩い白光となって迷宮全体を包み込む。
石壁が溶け、床が消え、虚空の中に、三人の姿だけが浮かび上がった。

『選択は一つではない。
絆こそが未来を創る。』

古代語の声が響くと同時に、迷宮の崩壊は停止。
その代わりに三つの扉が一つへと融合し、巨大な「鏡の門」が現れた。
そこには――魔王城の映像が映し出されていた。

ミカがいた。

議事堂の中心、世界地図を背に立つ母。
彼女の周囲では、ナナオやセレンたちが外交交渉の危機に立ち向かっている。
その様子が、まるで別世界の出来事のように映し出されていた。

「母上……!」アリアが声を上げる。

その瞬間、鏡の中でミカが顔を上げ、まっすぐに微笑んだ。
――まるで、彼らの声が届いたかのように。

「あなたたちなら、きっと選べる。
“ひとつの未来”ではなく、“共に生きる道”を。」

その言葉と同時に、迷宮の光が溢れ、三人は光の奔流に包まれた。

* * *

――魔王城、同刻。

報告を受けたミカは静かに瞳を閉じた。
周囲では外交危機が山場を迎えていたが、彼女の胸の奥では別の鼓動が鳴っていた。

「……ルシア、アレイド、アリア……。」

微かに唇が震える。
そして目を開き、世界会議の壇上へと進み出た。

「――私は王妃ミカ・エストレーラ。
我が子らが“未来を共に選んだ”ように、我らもまた、共に歩む道を選びましょう。」

その言葉に、各国の代表たちが息を呑む。
静寂の後、ひとり、またひとりと頭を垂れた。
ナナオは胸に手を当て、ミカの背を見つめながら小さく呟く。

「……これが、“母なる秘書”の力……。」

やがて迷宮の崩壊が収束し、三人の王子王女が光と共に現実へ帰還した瞬間、
遠く王都上空に、白い光柱が立ち上った。

それは、
“王位継承の儀”が完了したことを告げる――希望の光。

そして同時に、
母と子、王と民、過去と未来がひとつに繋がった瞬間でもあった。

 

9-7:再誓の国 ― 新時代の幕開け

――夜明け前の魔王城。
崩壊した迷宮の光柱が消えた後、王都は静寂に包まれていた。
だが、その静けさは終わりの音ではなく、“始まりの息吹”であった。

王城の最上階、円形会議室。
まだ朝日も差さぬ薄闇の中で、ミカ・エストレーラは椅子に腰かけていた。
その傍らに、長子ルシア・エストレーラが跪く。

「……戻りました、母上。」

ミカは彼の肩に手を置き、微笑んだ。
「おかえりなさい、ルシア。――よく、全員で帰ってきたわね。」

その言葉に、扉の奥で控えていた二人の影が現れる。
アレイドとアリア。
彼らの服にはまだ迷宮の光が残り、淡く輝いていた。

「危うく全員消し飛ぶところだったけどね。」アレイドが苦笑した。
「アリアが“無茶”を言い出すからさ。」

「む、無茶じゃないもん!」アリアが頬をふくらませる。
「“一緒に行こう”って言っただけだよ。それに――成功したし!」

兄妹のやり取りに、ミカは小さく笑みを漏らした。
その笑みには、懐かしさと誇りが混じっていた。
(ああ……やっぱり、あなたたちは私とアークの子ね。)

ルシアが立ち上がり、母の前に跪いたまま頭を下げる。

「母上……あの迷宮の“試練”は、私たちに“王位”を決めさせるものではありませんでした。
あれは、“王の定義”を問い直すもの――そう感じました。」

「ええ。」ミカは静かにうなずく。
「“王”とは、支配者でも血統でもない。“民と未来を共に選ぶ者”。
その答えを見つけたあなたたちに……私が言うことは、もう何もないわ。」

その言葉に、アレイドが息を呑んだ。
「母上、それは……王位を、私たち三人で?」

「ええ。王国は、ひとつの王冠では治められない。
時代は分かたれ、価値観も異なる。
だから――“三柱の王”として立ちなさい。」

「三柱……!」
アリアの瞳が輝いた。
「三人で王様になるってこと!?」

「正確には、三つの『柱』ね。」ミカは微笑を深める。
「ルシア――“心の王”。民を導く象徴として。
アレイド――“知の王”。政策と世界の理を読み解く者として。
アリア――“力の王”。人々を守る意志の象徴として。」

ルシアが静かに胸に手を当てた。
「……それが、私たちの“再誓の国”の始まり、ということですね。」

「そうよ。」
ミカは立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。
黎明の光が彼女の金の髪を照らし出し、薄闇の中に浮かぶ姿は、まるで古の神話に描かれた“黎明の女神”のようだった。

「――新時代は、血ではなく誓いで繋がる。
その証として、今日この日を“再誓の日”と名付けましょう。」

* * *

魔王城・大広間。
各国の代表、そして外交秘書官たちが揃う。
前回の外交危機を乗り越えたばかりの重苦しい空気の中、
ミカの言葉が響いた。

「我が国は“魔王国”の名を改め、“再誓の国《ノーヴァ・ヴェルデ》”として再出発します。」

その瞬間、ざわめきが起きる。
ドワーフ代表が低く唸った。「再誓……とは、何を誓うのだ?」

ミカは一歩前に出て答える。

「“争わぬ誓い”――ではありません。
“再び共に立つ誓い”です。
我々は、過去を否定するのではなく、乗り越えることで新たな道を創るのです。」

沈黙の中、ユーリ・マルケスが立ち上がった。
外交部見習いとしての立場を超え、その声は堂々としていた。

「……ならば、我ら外交官もまた、再誓に賛同します。
たとえ異種であろうと、心が交わる国を築くために。」

彼の言葉に、隣のセレン・アリステリアが静かに頷く。
「記録いたします――“再誓の国、成立”と。」

ラッカ・フェルミナが笑いながら加わった。
「記録ばっかじゃ退屈だぜ? 俺たち現場組も、“再誓の街づくり”に乗り出すとしようか!」

笑いが広がった。
けれど、その中心でミカは静かに息を吸い込む。
そして、玉座の横に立つアーク・ヴァルツ――魔王の手を取った。

「アーク。あなたの時代から続いた戦いの歴史、今ここで終わらせましょう。
私たちが築いたものは、争いの果てではなく、“共に在る未来”です。」

アークは静かに微笑み、ミカの手を包んだ。
「……ああ、ミカ。
俺は“破壊の王”と呼ばれ続けてきたが――これからは、“継承の父”でいい。」

その言葉に、場内の空気が震えた。
誰もが理解した。
この夫婦こそが、時代を変えた“根”なのだと。

ルシア、アレイド、アリアが前に進み出る。
三人は膝をつき、同時に手を重ねた。

「我ら三柱、ここに誓う。」

ルシア:「心をもって導く。」
アレイド:「知をもって繋ぐ。」
アリア:「力をもって守る。」

三つの声が重なり、天井の紋章が光を放つ。
やがてその光が窓を突き抜け、夜明けの空へと昇っていった。

「――これが、“再誓の国”の始まりだ。」
アークの声が厳かに響いた。

拍手が広がる。
涙を拭う者、胸に手を当てる者。
それぞれが、“新しい国”の始まりを確かに感じ取っていた。

だが――その裏で、ミカは静かに眉を寄せた。
視線の先、議事堂の隅に立つ一人の青年――ナナオ。
彼は、何かを隠すように拳を握りしめていた。

ミカの心に、小さな不安がよぎる。
(……あの子、何かを感じ取っている?)

朝日が差し込み、光と影が混ざり合う中、
“再誓”の宣言は、ゆっくりと新しい時代の扉を開けていった。

* * *

夜明けの光が、ゆっくりと魔王城の尖塔を照らし出していった。
長い試練と混乱の夜を経て、国は再び息を吹き返そうとしていた。

焦げた大地に新たな草が芽吹くように、各地では再建の動きが始まっている。
倒壊した街を修復するドワーフの槌音、
癒しの魔法を施すエルフたちの光、
そして――それを見守りながら指示を出す、三人の若き王子王女の姿があった。

「兄上、ここの避難民、もう全員移送終わったよ!」
アリアが走り寄りながら、報告書を掲げた。
まだ肩には包帯が巻かれている。だが、その瞳は炎のように強く輝いていた。

「よくやった、アリア。」
ルシアは微笑み、手元の地図に印をつけた。
「この区域が片付けば、次は水路の再整備だ。アレイド、技術班の状況は?」

「順調だ。だけど――」
アレイドが空を見上げる。
朝焼けの中、黒く焦げた雲がまだ薄く残っていた。
「“迷宮の瘴気”が、完全には消えていない。あれは人の心にも影を落とす。
……油断すれば、また同じことが起こるかもしれない。」

「うん……」
ルシアは深くうなずいた。
「だからこそ、この国は“再誓”する。
父上と母上の理想――“力は守るために、炎は照らすために”。
俺たちが、それを次の時代へつなぐ。」

その頃、王城最上階の執務室では。

ミカは大きな窓辺に立ち、ゆっくりとカーテンを開いた。
風が頬を撫で、外の喧騒が遠くに聞こえる。
机の上には、焦げ跡のついた封筒――かつて彼女が迷宮に置き去りにした“誓書”があった。

「……やっぱり、戻ってきたのね。」

柔らかく微笑む彼女の背後で、扉が静かに開く。
入ってきたのは、黒衣の男――魔王アークだった。
その表情には、長い戦いを終えた者の静かな疲労と安堵が宿っている。

「おまえが残した言葉……子どもたちは、ちゃんと受け取った。」
「そう。なら、もう“試練”は終わりね。」
「いや。」アークは首を振る。
「彼らにとっては、ここからが本当の始まりだ。」

二人の間に、しばし沈黙が流れる。
ミカはゆっくりと振り返り、真っすぐにアークを見つめた。

「アーク……あなた、少し顔が優しくなったわ。」
「そうか?」
「ええ。……昔より、“父親”の顔をしてるもの。」

アークは苦笑し、ミカの隣に立った。
眼下に広がる街――再建の光が幾筋も灯っている。
「この国は、我々だけのものではない。彼らが築く“次の王国”だ。
我々はただ……その礎になるだけだ。」

「礎、ね。」
ミカは少し寂しげに微笑んだ。
「でも、あなたがいれば大丈夫。私は――」

言いかけた言葉を、アークがそっと手で止めた。
「おまえも、まだ“王妃”であり“秘書”だ。
終わりなんて、まだずっと先の話だ。」

その言葉に、ミカの頬がふっと緩む。
二人の間に差し込む光が、やがて一つの影を作った。
――それは、まるで新たな未来の輪郭のようだった。

その日の午後、王都の中央広場には多くの民が集まっていた。
壇上に立つルシアは、深紅の王衣をまとい、堂々と宣言する。

「我らは、再び誓う!
この“再誓の国”は、恐怖や支配の上に築かれぬ。
すべての種族、すべての命が――共に生きる国とする!」

群衆から、歓声が湧き上がる。
アレイドは隣で静かに微笑み、アリアはその声に思わず涙ぐんだ。

「兄上……父上と母上の理想、叶うかな?」
「叶えるんだよ、アリア。」
ルシアが力強く言った。
「俺たちが、“未来を照らす炎”になるんだ。」

空に掲げた三人の手が重なり、白い光が溢れ出す。
その光は王都を包み、遠くの山々や森、海の向こうまでも届いた。

それは、長き闇を越えたこの国が――
再び、希望の名のもとに歩み出した瞬間だった。

夜。
静まり返った王城の回廊を、ミカは一人歩いていた。
窓の外では、満月が白く輝いている。

「……みんな、よく頑張ったわね。」
独り言のように呟きながら、彼女は手帳を開く。
そこには一行、古い文字が書かれていた。

“焔は継がれ、志は未来へ。”

ミカはそっとペンを取り、その下に書き加えた。

“そして――母は、子に託す。”

小さな灯火が、窓辺の花を照らす。
その光の中、彼女の横顔は穏やかで、どこか少女のようでもあった。

――こうして、王位継承の試練は終わりを告げ、
魔王国は“再誓の国”として、新たな時代の幕を開けた。

焔は静かに、しかし確かに――次代へと受け継がれていく。

 🌕第10章:新王戴冠 ― 炎と誓いの祭典

10-1 戴冠の前夜 ― 静寂と誓い

魔王城の最上階――王座の間。

厚い石壁に囲まれた空間は、夜気と炎のゆらめきだけが支配していた。
天井から吊られた燭台の火が、黄金の王座の背を照らし出す。
その座に腰をかけているのは、まだ若き青年――ルシア・エストレーラ。

明日の朝、彼はこの国の正式な王として戴冠する。
“再誓の国《ノーヴァ・ヴェルデ》”初代国王として。

しかし、彼の表情は誇りよりも静謐(せいひつ)だった。
両手の指先を組み、瞳を閉じたまま、炎の音だけを聴いている。

「……炎が、静かだ。」

その独り言は、まるで祈りのように響いた。

この国を包む“焔の加護”――それは代々、王の魂に宿る力。
明日の戴冠式では、その焔が正式に彼へと受け継がれる。

けれどルシアの心にあるのは、“王になる”という歓喜ではなかった。
むしろ、“王として生き続けねばならない”という責務の重さ。
それを痛いほど理解していた。

そんな彼のもとに、静かな足音が近づいた。

「……起きていると思っていたわ。」

声の主は、金の髪を持つ女性――ミカ・エストレーラ。
王妃であり、かつて魔王の秘書として世界を動かした女。
彼女は息子の姿を見つめながら、ふっと微笑んだ。

「王座に座るあなたを見たのは初めてね。」

「……まだ実感がありません。座ってみても、ただの椅子にしか思えない。」

「それでいいのよ。」

ミカはゆっくりと歩み寄り、王座のそばの机に手を置いた。
古びた羽ペンと帳簿が整然と並ぶ――それはミカがずっと使ってきた執務机だった。

「“王座”は象徴。座る者の心が王でなければ、ただの石の椅子にすぎないわ。」

「……母上は、いつから“王のそばに立つ人”になろうと思われたのですか?」

「さあ、いつだったかしらね。」
「気がつけば、アークの隣にいて、彼の夢を現実に変える仕事をしていた。
けれど、王妃になる前も、秘書になる前も、私はただ――」
「“誰かの理想を守る人”でありたかったの。」

ルシアは黙って母の横顔を見た。
柔らかな炎に照らされたミカの瞳には、戦いと希望の記憶が静かに揺れている。

「……母上。僕は“守る”ことに、迷いがありました。」

「ええ、知っているわ。」

「守るために犠牲を出すことも、命を懸けることも――それが本当に正しいのかと。」

「それが、あなたの優しさ。だけど、もう一つ覚えておきなさい。」

ミカはそっとルシアの胸に手を置く。

「王とは、“選ばれる者”ではなく、“選び続ける者”。」
「正しさを探し続け、迷いながらも進む――その姿こそ、民を導く力になるの。」

「……選び続ける、者……。」

ルシアは呟き、ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥で何かが灯るように、微かな熱が生まれていく。

「母上。僕はこの焔を、誓いの証として受け継ぎます。
父上、そしてあなたのように、民を導くために。」

ミカは穏やかに頷いた。
そして、扉の向こうから重々しい足音が響いた。

「――やはり、ここにいたか。」

低く、しかし優しい声。
姿を現したのは、黒衣の魔王――アーク・ヴァルツ。

その背には、長年の戦いと統治の重みが刻まれている。
けれど、今の彼の表情には、王ではなく“父”の温もりがあった。

「ルシア。明日からはお前がこの国の焔を継ぐ。だが――それは“命令”ではない。」

アークは掌を掲げ、そこに浮かび上がる紅の紋章。
まるで生き物のように燃え上がる“焔の印章”が、空気を震わせた。

「これは、我が魂の象徴。“焔の王冠”を受け継ぐ者に授ける証だ。」

ルシアは膝をつき、深く頭を垂れる。
アークはその額に指をかざし、静かに呟いた。

「この焔を、お前の心に刻め。
力ではなく、信念として。――それが王の証だ。」

一瞬、紅蓮の光がルシアの身体を包み込む。
その瞳が、まるで夜明け前の炎のように赤く輝いた。

「……あたたかい。」

「焔はお前を焼かない。お前の“覚悟”を見たからだ。」

アークは微笑み、肩に手を置いた。

「私はもう、この国を導く立場ではない。
これからは、お前たちの時代だ。――ミカと共にな。」

「はい、父上。」

その瞬間、王座の間の炎が一斉に強く燃え上がる。
三人の影が、ひとつの炎に重なって揺れた。

ミカはその光景を見つめながら、静かに息をつく。

「……アーク。こうして見ると、やっぱりあなたに似ているわ。」

「そうか? 私はむしろ、お前に似ていると思うがな。」

「ふふ、どちらでもいいわ。きっと“いい王”になる。」

ルシアは微笑んだ。
だが、その背後では別の場所――王城の南塔で、アレイドとアリアが夜空を見上げていた。

夜風が、静かに塔の外壁を撫でていた。
王城南塔――その最上階の回廊に、二つの影が並んで立っている。

アレイド・エストレーラと、妹のアリア・エストレーラ。
明日、兄ルシアが正式に“新王”となるその夜、
二人は眠れずに夜空を見上げていた。

「……兄上、いよいよ明日ですね。」

「ああ。」
「けれど、まだ実感がないんだ。
ルシアが“王冠を戴く”なんてな……。子供の頃、俺たちで木の枝を王冠にして遊んでたのが、つい昨日のことのようだ。」

アリアは小さく笑った。

「あの頃のルシア兄さまは、枝を頭に乗せて“これが王冠だ”って言いながら、転んで泣いてましたね。」

「ああ、泥だらけになってな。……でも、あの笑顔のまま、明日を迎えてほしい。」

アレイドはふと真剣な表情に変わる。
その横顔に、アリアは小さく息を呑んだ。
彼の目には、憂いと決意の炎がともっている。

「兄上……何か、心に引っかかっているのですか?」

「ああ。俺は、“剣”で生きてきた。戦場に立ち、命を奪い、国を護るために血を流してきた。
でも――これからの時代、剣だけでは国を導けない。」

アリアはその言葉を静かに受け止めた。
夜空の星々が二人の間で瞬く。

「兄上が剣を置くとは思いません。でも、剣を振るう理由を“誰かのため”に選べるなら……それも、きっと導きの形です。」

「……アリア。」

「私は兄上の剣が好きです。誰かを守るためにだけ振るわれる、その優しい刃が。」

アリアの声は、かすかに震えていた。
それは妹としての想いだけでなく、一人の女性としての“敬愛”でもあった。

アレイドはしばし沈黙した後、ふっと息を漏らす。

「ありがとう、アリア。……お前は本当に、母上に似ているな。」

「えっ?」

「人の痛みを感じながらも、笑って支えるところが。」

アリアの頬が、夜の灯にわずかに赤く染まった。
そして、そっと手を握りしめる。

「私も、兄さまも、そしてルシア兄さまも――同じ焔を受け継いでいます。
誰かのために燃える焔。それを絶やさないことが、私たちの使命です。」

「……ああ。」

二人は、しばらく黙って星空を見上げていた。
風が塔を渡り、遠く鐘楼の鐘が静かに響く。
夜明けが近い。

やがて、空がわずかに白み始めた頃。
三人は――天上庭園に集っていた。

朝露を含んだ花々が、黎明の光を浴びて輝く。
王城の頂にあるその庭は、かつてアークとミカが“国の始まり”を誓った場所でもあった。

ルシアは深紅の外套をまとい、焔の紋章を胸に輝かせていた。
アレイドは剣士の礼装に身を包み、アリアは白金の衣を纏う。
それぞれの立場を示す装い――だが、今はただ、三人の兄妹として向き合っている。

「……この場所で誓うのは、二度目ですね。」

とアリアが微笑んだ。
ルシアも頷く。

「あのときは、戦火の中だった。
今度は、未来のために――。」

アレイドが一歩前に出て、兄を見据える。

「ルシア。これからはお前が“王”だ。俺はその剣となり、お前の前に立つ盾となる。」

「……アレイド兄上。あなたの剣は、誰よりも頼もしい。
でも、どうか一人で戦わないでください。国を導くのは、皆の力で。」

アレイドの口元がわずかに緩む。

「ああ、分かっている。今度は“共に戦う”。それが俺たちの時代だ。」

アリアもまた、兄たちに一歩近づいた。
その手には、花弁を編んだ冠がある。
かつて三人で作った“約束の花冠”の再現――新しい誓いの象徴だった。

「ルシア兄さま、アレイド兄さま。
私はこの国の声を聴き、光を紡ぐ“賢者”として生きます。
どうか二人とも――決して孤独にならないでください。」

ルシアはそっと花冠を受け取り、炎の紋章の上に掲げた。

「この焔は、一人の力では燃え続けられない。
あなたたちがいるから、僕は“王”になれる。」

アレイドとアリアは同時に頷いた。
そして三人は、右手を重ね合わせる。

「――共に、この国を導く。」

その声が重なった瞬間、空が一気に紅く染まった。
夜明けの光と焔の紋章が共鳴し、天上庭園を包む。
まるで、大地そのものが新たな時代の誕生を祝福しているかのようだった。

風が吹き抜け、花弁が舞い上がる。
その中で、ルシアはそっと目を閉じ、静かに微笑む。

「母上……父上……。
僕たちは、あなたたちの誓いを受け継ぎます。」

遠く、鐘楼の鐘が再び鳴った。
新たな朝の到来を告げる音――“戴冠の日”の始まり。

そして、王城の尖塔に昇る陽光が、王座の間の炎を再び灯す。
それは、ルシアの中で燃え続ける“王の焔”が、確かに息づいている証だった。

10-2 新王戴冠 ― 炎の王、誕生

朝の鐘が、王都中に鳴り響いた。
それは“夜明けの鐘”――新しい王の誕生を告げる音。

王都セレスティア。
中央広場には、国中から集まった民たちの波が溢れていた。
空は青く澄み渡り、雲ひとつない。
神々が祝福するような完璧な天候だった。

広場の中央には、黄金と白の幕が張られた戴冠の壇。
その周囲を取り囲むように、各種族の代表、隣国の使節、そして魔導評議会、聖堂連合の高司祭までもが列席している。
彼らの目の前――炎の王家《エストレーラ》の三兄妹が並んでいた。

「……いよいよだな。」

アレイドが低く呟いた。
隣でアリアが深呼吸をして、ぎゅっと両手を握りしめる。

「緊張してるの? アレイド兄さま。」

「少しな。……だが、誇らしい。」

「うん。私も。」

ふと、アリアが笑った。
その笑顔は太陽のように明るく、朝の光の中で揺れる紅の髪を照らす。
二人の視線の先――壇の中央には、まだ“王冠”が置かれていなかった。

そこに、荘厳な足音が響く。

ミカ・エストレーラ。

深紅の衣を纏い、金糸の刺繍がきらめく。
その姿は秘書官でありながらも、王国を象徴する“調律者”の風格を放っていた。
彼女はゆっくりと壇上に上がり、澄んだ声で告げる。

「――今ここに、“再誓の国《ノーヴァ・ヴェルデ》”の王を戴冠する。」

群衆が静まり返った。
ミカの言葉のひとつひとつが、空気そのものを引き締めていく。

続いて、壇上にもうひとりの人物が現れる。
黒衣の長衣をまとい、肩には銀の紋章。
アーク・エストレーラ。

彼は静かに壇の中央に進み出ると、背後の聖火台に手をかざした。
その瞬間、炎が轟き上がる。
深紅から黄金、そして蒼炎へ――。

観衆の間からざわめきが起こる。

「――これが、“焔の王冠”の炎……!」

伝説と呼ばれた儀式の再現。
“焔の王冠”とは、かつて魔王アークが戦乱を終わらせた象徴であり、
その炎が新たな王を選び、試すと伝えられていた。

アークは聖火台の前に立ち、厳かに口を開く。

「この炎は、王の心を映す鏡。
邪心あれば焼き、真心あれば抱く。
我が血を継ぎし者――ルシア・エストレーラ、前へ。」

広場全体が静まり返る。
ひとりの青年が壇上に歩み出た。

ルシア・エストレーラ。

白と紅を基調にした王衣、肩には黄金のマント。
その歩みは決して速くない。
だが、確かで、迷いがない。
群衆が自然と道を開ける。
まるで“運命”そのものが彼を導くかのように。

壇上へと上がるルシアの姿に、アリアは胸の前で手を組んだ。
アレイドは無言で頷き、兄の背を見つめる。

(兄上……あなたが、王になる時が来たんだ。)

アークが手を上げ、炎の中から王冠を取り出す。
それは、炎そのものが形を成したような冠。
金属ではない。
焔の意志が、王の証として結晶化したものだった。

「我が息子ルシア。
この焔を継ぐ覚悟はあるか。」

ルシアはまっすぐに父を見つめた。
その瞳の奥には、恐れではなく、穏やかな炎が灯っていた。

「はい。
この国の未来のため、そして――皆の誓いのために。」

ミカが壇の下から小さく微笑む。
その眼差しには、母としての誇りと、秘書としての静かな信頼があった。

「では――その証を、受け継げ。」

アークが両手で王冠を掲げると、聖火台の炎が一斉に渦を巻いた。
風が吹き抜け、空気が震える。
群衆が息を呑む中、炎の冠が宙に浮かび、ルシアの頭上へとゆっくりと降りていく。

その瞬間――

轟音。
炎が爆ぜ、白金の光が迸った。

「ルシア兄さん!!」
アリアの叫びが響く。

だがルシアは動かない。
炎に包まれながらも、その瞳はまっすぐ前を向いていた。

「……僕は、逃げない。」

両の掌を広げ、炎を受け止める。
その手のひらに宿るのは、“民の願い”と“国の未来”。

「この炎は、恐れではなく希望の証だ。」

アークが目を細める。
ミカも唇に指を当て、小さく頷いた。

炎が、形を変える。
その紅が徐々に淡く――やがて白金の光へと変わっていく。

群衆が、息を呑んだ。
アリアの目に涙が溢れ、アレイドは剣を胸に掲げた。

「兄上……!」

白金の炎が、ゆっくりとルシアの身体を包み、やがて消える。
残されたのは、淡く輝く“焔の王冠”。
それが、確かにルシアの頭上に輝いていた。

白金の光が、天へと昇っていく。
それはただの光ではなかった。
誓いの焔《ヴェルデ・フレア》――国を結ぶ意志の象徴。

炎の柱が王都の上空を貫き、光が雲を裂いた。
遠く離れた地方都市、戦で荒れた村、再建中の鉱山都市――
そのすべての地で、人々が空を見上げた。

「見て! 王都の空が光ってる!」
「……新しい王が、誕生されたのだ。」

老いも若きも、エルフも獣人も、魔族も人間も、
誰もがその光に手を伸ばした。
それは“国”という概念を超えた、一つの“希望”だった。

やがて光が静まり、広場に風が吹き抜けた。
金と白の粒子が舞い、空気は透明な輝きを帯びている。
その中心に――新王、ルシア・エストレーラの姿があった。

その背後に広がる炎は、もはや熱ではなく“祈り”だった。
彼の髪に映る光は黎明の金、
その瞳は、静かな深紅。

アークがゆっくりと歩み寄り、片膝をつく。
ミカもまた、その隣で静かに頭を垂れた。

「ルシア・エストレーラ。」
アークの声が響く。
「今この時をもって、お前を“再誓の国”の王として認めよう。」

ルシアは深く頷き、両手を胸の前で組む。

「……父上、母上。
あなた方の導きと、この国に生きるすべての人々の願いに、感謝します。」

ミカが一歩進み、澄んだ声で宣言する。

「ここに、“焔の王”ルシア・エストレーラの戴冠を告げる!」

その瞬間、鐘が鳴り響いた。
第一の鐘が王都に、第二の鐘が辺境に、第三の鐘が空を渡っていく。
まるで世界そのものが祝福しているかのように。

群衆が一斉に歓声を上げた。

「万歳! ルシア王万歳!」
「新たな時代に、光あれ!」

花びらが空から舞い降りる。
王都全体が、祝福の嵐に包まれていた。

その喧騒の中で、アリアが兄の前に進み出る。
目に涙を浮かべ、微笑みながら膝をついた。

「お兄さま……いえ、陛下。
私は“守護聖女アリア・エストレーラ”として、この国の人々を守ります。
あなたのために、そして――この国の未来のために。」

ルシアは静かに頷き、アリアの手を取る。

「ありがとう、アリア。
その炎のような優しさがあれば、きっと誰も孤独にはならない。」

次に、アレイドが進み出る。
彼は淡い笑みを浮かべ、形式ばらずに頭を下げた。

「兄上、俺は“戦略宰相アレイド・エストレーラ”として、あなたの翼になる。
理と剣、両方で国を支える。
あなたが迷う時は、必ず横で答えを導く。」

「頼りにしている。」
ルシアは微笑んだ。
「君の知恵は、いつだって皆を救ってきた。」

三人が向かい合う。
そして、ミカが静かに口を開く。

「――この瞬間を、忘れないで。
王冠は一人がかぶるものだけれど、
“誓い”は三人で結んだものよ。」

アークもまた、その隣で厳かに言葉を添える。

「国とは、力で成すものではない。
信じる心と支える絆、それがあって初めて王は立てる。
……ルシア、アレイド、アリア。
これからの“再誓の国”を、お前たちの手で導け。」

三人が同時に頭を垂れる。

「はい、父上。」

群衆の歓声の中で、ルシアはゆっくりと壇上に立ち、王冠に手を添えた。
その声は、静かでありながらも、確かな響きを持っていた。

「――我、ルシア・エストレーラは、“再誓の国ノーヴァ・ヴェルデ”の王として宣言する。
この国は、血ではなく誓いによって結ばれる。
民の涙を癒し、怒りを理解し、希望を分かち合う。
誰もが声を上げ、未来を選べる国を、ここに築く。」

その言葉に、広場全体が再び静まり――
次の瞬間、歓喜の波が爆発した。

「陛下万歳!!」
「再誓の国、永遠なれ!!」

ミカはそっと目を閉じた。
その頬に光の粒が落ちる。
涙――ではなく、祝福の光だった。

隣でアークが小さく呟く。

「……あの子は、もう“私たちの影”ではないな。」

「ええ。」ミカが微笑んだ。
「――彼自身の光よ。」

その日、王都の空に立ち上った白金の焔は、
三日三晩、消えることはなかった。

民はそれを「誓炎《セリア・ルーメ》」と呼び、
後の世まで、“再誓の国の始まり”として語り継ぐこととなる。

そして、ルシアの治世が始まる。
――焔の王、ルシア・エストレーラの時代が。

10-3 三柱の誓約 ― 王と宰相と聖女

戴冠式の喧騒がようやく落ち着き、
王都は静かな余韻に包まれていた。

夕刻――。
王城の最上階、天上会議室《セレスティア》。
かつてアークとミカが国家の未来を練り上げたこの部屋に、
いまは新しい三つの影が座していた。

中央にルシア。
右手にアレイド。
左手にアリア。

初めて“国の柱”としてこの場に座り、
三人は互いの表情を確認しあうように目を合わせた。

静寂を破ったのはルシアだった。

「……二人とも。まずは、改めて礼を言わせてくれ。」

ルシアはゆっくりと椅子から立ち上がり、
兄妹に向けて深く頭を下げた。

アレイドは慌てて立ち上がる。

「兄上、陛下に頭を下げられては我々が困ります。」

アリアも両手をぶんぶん振った。

「そうよ! お兄さまは王様で、私たちは支える側なんだから!」

ルシアは少し照れたように微笑む。

「わかっている。でも……今日の戴冠式。
あの炎を受け止められたのは、二人がいてくれたからだ。」

「ルシア……」
アリアの表情が柔らかくなる。

アレイドは腕を組んだ。

「兄上は炎を受け止めたのではなく、炎が兄上を選んだのです。
……それだけの器を、兄上はもう備えている。」

ルシアは、少し俯いた。
だがその肩は、迷いではなく覚悟で静かに震えていた。

「――ありがとう。 それでも、私は王として“最初の言葉”を二人に伝えたい。」

アレイドとアリアは姿勢を正す。

ルシアは胸に手を当て、静かに宣言した。

「私は、一人で王にはならない。三人で国を導く。“心”と“知”と“守護”――

三柱が揃ってこそ、再誓の国は成り立つ。」

この一言が、三人の関係を決定的に形作った。

アリアが両手で胸を押さえる。

「……お兄さま。それって……つまり私たちと一緒に……?」

「ああ。 アリア、お前はこの国の“守り手”だ。 民の心に寄り添えるのは、お前が一番だ。」

アリアの瞳が潤む。

アレイドにも視線が向けられる。

「アレイド。君の知恵と冷静さは、この国の羅針盤になる。 私には見えない未来を、君には読める。」

アレイドは目を見開き――
次の瞬間、かすかに唇が震えた。

「……兄上、そんな言葉を聞けば、私はもう退けません。」

三人は円卓を囲むように席に戻る。
その瞬間、新体制は正式に始動した。

最初に口を開いたのは、アレイドだった。

彼は机上の書類を手に取り、淡々と語り始めた。

「兄上。戴冠の余韻に浸っている暇はありません。」

「……わかってるよ。」
ルシアは苦笑した。

アレイドは続ける。

「まずは“国境線の治安回復”です。
迷宮崩壊の影響で、魔力の流れが乱れています。
これを放置すれば、魔獣の活性化が進むでしょう。」

アリアは眉をひそめた。

「え……そんなにすぐ影響が出るの?」

「ええ、姉上。 迷宮は大地の循環そのもの。 崩壊は“洪水”に等しいのです。」

アリアは思わず息をのむ。

アレイドは兄へ向き直った。

「兄上、国境沿いには“魔法障壁再構築部隊”を送りましょう。戦力は多くなくていい。 ただ、最も重要なのは指揮官です。」

ルシアは小さく微笑んだ。

「君が行く気だね?」

アレイドの表情は変わらない。

「もちろんです。 “戦略宰相”が最初にすべきは、戦場の現状把握。
机の上だけでは何も生まれません。」

ルシアが頷く。

「……頼む。君の目と耳が必要だ。」

アレイドの瞳が強く輝いた。

「兄上の命なら、命を懸けて遂行します。」

その言葉には、重い誓いが宿っていた。

次にアリアが挙手をする。

「あの……私からも話していい?」

アレイドが頷き、ルシアも柔らかく微笑んだ。

アリアは胸元の聖印をそっと握りしめる。

「私は、“再誓の国”で一番最初に行くべき場所があるの。」

ルシアは静かに問う。

「どこだろう?」

アリアは、迷いなく答えた。

「――被災した村々。迷宮の崩壊で苦しんでいる人たちの所よ。」

アレイドが目を細める。

「アリアらしい答え。だが危険も多い。」

「わかってる。
でも、私……皆の泣き声を、そのままにしておきたくない。」

彼女は震える拳を握った。

「“守護聖女”って呼ばれるなら、
一番に行かなきゃいけないのは困ってる人の元でしょ?」

ルシアの胸は熱くなった。

「アリア……君の優しさは、この国の柱そのものだ。」

アリアの頬が赤くなる。

「えへへ……褒められると照れる。」

アレイドが少し微笑した。

「アリア。
あなたの行動は必ず国の象徴になります。
気をつけて、そして……誇りを持って。」

アリアはしっかりと頷く。

ルシアは円卓の中央に手を置いた。

「……さて。二人の意志は受け取った。」

アレイドとアリアも手を伸ばす。

三人の手が重なった。

「“再誓の国ノーヴァ・ヴェルデ”を―― 三人で導こう。」

アリアの目が輝く。

「うん! 皆で未来を作ろう!」

アレイドは静かに微笑む。

「それが、兄上――陛下の望む国ですから。」

ルシアは深呼吸し、はっきりと宣言した。

**「私が“心”となる。

アレイドは“知”となる。
アリアは“守護”となる。
――三柱の名のもとに、新しい時代を始めよう。」**

その瞬間――
天上会議室の上空に、淡い光の紋章が浮かび上がった。

三つの星が連なる“三誓星《トリア・ステラ》”。
それは新たな王朝の象徴となった。

天上議場を満たしていた沈黙は、ルシアの言葉によってゆっくりとほどけていった。
その中心で、三人は円卓を囲み、ついに真正面から向き合う。

アレイドが口を開いた。
「兄上……違うな。いや、これからは“陛下”と呼ぶべきなのかもしれないけど」
「呼び方は好きにすればいい。お前は、俺にとってただの弟だ」
「……それを聞いて、ほっとした」

アレイドは苦笑しつつも、その瞳は真剣だった。
「僕は……兄上の影になる覚悟はもう決まってる。影であり、刃であり、盾にもなる。兄上が光を照らすなら、僕は光の届かない場所を掃除する」
「……アレイド」
「でも、ひとつだけ分かってほしい。僕は兄上を“盲信する臣下”になりたいわけじゃない。僕は――兄の歩む道が正しいと証明し続ける宰相でありたい」

ルシアは目を伏せ、ゆっくりと息を吸った。
「……分かった。それでこそお前だ。俺は、お前に従属を望んだことは一度もない。俺の背中を押してくれる“頭脳”であってほしい。それが、お前の武器だから」
「……そんなふうに言われると、頑張るしかなくなるよ」
アレイドは照れ隠しのように肩をすくめたが、その表情には確かな誇りがあった。

 

次にアリアが静かに歩み出る。
その足取りは柔らかく、しかし揺るぎない覚悟を纏っていた。

「ルシア様……少しだけ、昔話をしてもいいですか?」
「もちろんだ」
「わたし、小さいころ……あなたが泣いていたのを見たことがあるんです」
「え?」
ルシアが驚いた声を漏らす。

アリアは微笑んだ。
「覚えていませんよね。でも、あなたは“妹と弟が、自分のせいで苦労するのが嫌だ”と言って泣いていたのです。子どものくせに、自分の責任だと……」

「……そんなことがあったか」
「あります。わたしは、それをずっと覚えていました」

アリアは一歩近づく。

「だから……新しい“王”になったあなたが、ひとりで背負おうとしている時、必ず分かるんです。昔と同じ顔をするから」
「……アリア……」

彼女は胸に手を添えた。
「わたしは聖女として、この国を癒します。でも……癒すのは国だけではありません。あなたの心も、です」
「……そんな大役を、任せていいのか?」
「いいんです。だって――」

アリアは涙を光らせ、まっすぐにルシアを見た。
「わたしは“王を愛する聖女”でありたい。国のためにでも、役目のためにでもなく……あなたを守りたいと願うアリアでいたい」

その言葉は、議場の空気を確かに震わせた。

ルシアは黙っていたが、やがて深く息を吐き、アリアの手をそっととった。
「……お前がいてくれて、俺は本当に救われる」

 

そして三人は円卓の中央に立ち、手を重ねる。
アレイドが言う。
「兄上。これで本当に、三人なんだね」

アリアも続く。
「三本の柱は、どれが欠けても倒れてしまいます。だから……離れません」

ルシアは二人の手を握り返した。

「俺は――ひとりで王になるつもりはない。三人で、エストレーラを導く」
「うん」
「はい」

三人の声が重なる。
すると、議場に刻まれた古代の紋章が淡く光を帯びはじめた。まるで“三柱の誓い”が国そのものに受け入れられたかのように。

「……これは?」アレイドが声を上げる。
「この議場は、かつて三賢者が国を治めた時代に作られたと聞いたことがあります」アリアが静かに答える。
「なるほど……だから三柱か」ルシアが呟く。

 

光はやがて三人の胸に吸い込まれていく。
それぞれの心に、違う輝きが灯った。

ルシアには――烈火のように燃える決意。
アレイドには――闇をも切り裂く冷静な知略。
アリアには――あらゆる傷を包む慈愛の光。

それはまるで、新王と宰相と聖女に与えられた新たな“祝福”のようだった。

「これが……俺たちの始まりだ」ルシアは言った。
「最強の三柱だね」アレイドが笑う。
「はい。必ず、この国を……」アリアが続ける。

三人は同時に宣言した。

「――導いてみせる。エストレーラを」

その誓いは、古い天上議場の壁に響き渡り、やがて王国全土へと広がる未来の始まりを静かに告げた。

10-4 三代統一評議会 ― 新政の始動

魔王城・統一評議の間。
天井まで届く黒曜石の円柱、壁に刻まれた古文書の紋――
かつてアークが軍議を開いた厳格な会議場は、
今日、新たな“国政の中心” へと生まれ変わっていた。

重厚な扉が開く。

先頭を歩むのは、戴冠から数日――
まだ若き新王でありながら、すでに王の風格を漂わせ始めた ルシア・エストレーラ。

続いて、深い蒼の軍装を纏った次男、
戦略宰相 アレイド・エストレーラ。

そのすぐ後ろには、白炎を象徴する純白の法衣が揺れ、
民と前線をつなぐ守護聖女としての自覚を得た末妹、
アリア・エストレーラ。

三兄妹が横に並んだ瞬間、
集まっていた大臣・各種族代表・外交団の息が揃って止まる。

新時代の象徴――三代の継承者たち。

ミカはすでに議長席に立ち、静かに微笑んだ。

「――それでは、三代統一評議会(トリニティ・カウンシル)を始めます」

透き通る声が響き、場の空気が張りつめる。

 

ミカ
「最初の議題は――“再誓の国ノーヴァ・ヴェルデの根幹方針”についてです。」

ルシアは深く頷き、立ち上がる。

ルシア
「本日より、我が国は“魔王国”ではなく――
誓いによって結ばれた連合国家として再出発します。
名目上の王は私ですが、実際の統治権は三柱で分担します。」

ざわめきが広がる。

老練な文官が問う。

文官
「陛下……つまり、王権の一極集中は行わず、
権力を“家族内で三分割”する、と?」

ルシア
「はい。しかし“分裂”ではありません」

アレイドが続ける。

アレイド
「我ら三人はそれぞれ違う役割を持ちますが――
目的はただ一つ、“国を前に進める”ことです。
兄の決断を補い、時に抑え、時に押し出す。
そうした三位一体の政治体制を作るのです」

アリア
「喧嘩はしないよ!……たぶん、しないようにがんばる!」

会場に小さな笑いが生まれ、緊張が少し和らぐ。

ミカ
「民には、血ではなく“選択と責務”で繋がれた政治体制であることを明示します。
三柱は“王族”ではなく、“三つの柱”として国を支える。
――これが新政の第一歩です。」

アーク
「皆、覚悟はできているか?」

三兄妹
「「「はい!」」」

 

アレイドが立ち、机に複雑な地図を広げた。

アレイド
「次の議題――六国協調体制の構築です。
我々はこれまで、魔王国を中心に独立した軍事圏として存在してきました。
しかしこれからは、獣人国・エルフ領・ドワーフ連邦・人間連合王国、
そして新たに海洋国家リュミエラを含め――
“六国共同体”を提案します」

獣人代表
「六国共同体……まるで一つの巨大国家のようだな」

エルフ賢者
「魔王国が盟主となるのか?」

アレイド
「いいえ。盟主は置きません」

会場が驚きに包まれる。

アレイド
「兄が王でも、我らが中心でもない。
六国は“対等”とします。
国境を越える問題――魔物、疫病、貧困、交易、環境破壊――
これらは一国では解決できません」

アリアが手を挙げ、勢いよく立つ。

アリア
「それに……もし誰かが独裁しようとしたら、
私が“守護聖女の権限”で止めちゃうもん!」

ドワーフ代表
「聖女殿は頼もしすぎるわい……!」

アレイド
「六国は“協調評議会”で集まり、
各国の問題を共有し、互いに支援し合う。
これが次の時代の外交です」

ミカ
「六国協調体制の可否を、代表の皆様にお聞きします」

沈黙。
しかしその沈黙は――拒絶ではなく、重い判断のための時間だった。

やがて獣人国代表がゆっくりと立ち上がる。

獣人代表
「……我ら獣人国、参加を承諾しよう。
ルシア殿、アレイド殿、アリア殿。
そしてミカ殿、アーク殿。
あなた方の誓いと覚悟、確かに受け取った」

その一言を皮切りに――
エルフ、ドワーフ、人間連合、海洋リュミエラも次々に賛同の意思を示した。

ミカ
「――六国協調体制、成立です」

議場が静かに揺れた。

 

ミカ
「次の議題は、国内政策の再編です。
我が国は、迷宮崩壊・内政の不安定化・魔力資源の枯渇……
様々な問題を抱えています。
これを“再建”と“未来”の二本柱で立て直します」

ルシア
「“再建”は僕が率い、“未来”は弟と妹が進めます」

アレイド
「まず“再建”だが――
魔力炉の補修と流通網の再構築が急務だ。
必要なら、僕は獣人国の技師を招聘する手配をする」

アリア
「被災地支援は私に任せて!
聖女としての“白炎の祝福”は、治癒と浄化に使えるから。
民の心を安心させるのも、私の大事なお仕事!」

ルシア
「そして“未来”。
僕たち三人は、ノーヴァ・ヴェルデの未来を“教育”と“開発”で作っていきます」

アレイド
「学校制度の再整備、魔技術の安全基準、魔法と科学の共同開発研究所……手をつけることは山ほどあるな」

アリア
「でもね、兄さん。いっぱいあっても――わたしたち、三人でやるんだよ?大丈夫だよ!」

ルシア
「……ああ。三人なら、できる」

三兄妹の視線が交わり、力強く頷き合う。

ミカとアークはその姿を見つめ、微笑んだ。

ミカ
(――これが、新時代を作る“柱”たち)

アーク
(世界は、もう変わり始めているな……)

空気が満ちてゆく。
新政の始動――その鼓動は、議場全体に広がっていった。

 

議場に、緊張が再び満ちていく。

ミカが軽く鐘を鳴らすと、空気が一段と引き締まった。

ミカ
「――では、“予算と国力再建”に関する議題に入ります」

アレイドがゆっくりと立ち上がる。
その表情は、冷静で、揺るぎなく、凛としていた。

アレイド
「まず前提として、現在の国家予算は“赤字”だ。
迷宮崩壊による損害、王都の一部壊滅、
魔力炉の停止に伴う経済縮小――どれも深刻だ」

議場にざわめき。

ドワーフ代表
「やはり……。しかし、どれほど悪いのだ?」

アレイドは手元の魔導スクリーンに数字を表示させた。
魔法文字で浮かぶ赤い数値群に、場が凍りつく。

文官たち
「(赤字幅……これは……)」

アレイド
「――結論から言う。
“このままでは、三年以内に国庫は破綻する”。」

議場全体が揺れた。

アリア
「そんな……! どうしてそこまで……?」

アレイド
「迷宮は“表経済と裏経済”をどちらも支えていた。
その両方が崩れたからだよ、アリア」

アリア
「そっか……迷宮って観光だけじゃなかったんだね……」

アレイド
「そう。魔力供給、資源抽出、国際交易路……
どれも迷宮という“根幹システム”の上に構築されていた」

ルシア
「復旧は可能だよね?」

アレイド
「もちろん。ただし――莫大な費用がかかる」

ルシア
「……財源は?」

ミカが前に出る。

ミカ
「そのために、今日は各国代表に集まっていただきました。
“六国協調体制”の第一歩は――
共同出資基金《コレクティブ・フレイム》の設立です」

獣人代表
「共同出資……つまり、我々が資金援助を行う、ということか?」

アレイド
「正確には――六国全てが互いに“出資しあう”仕組みです。
特定の国を援助するためではなく、
六国全体の安定を守るための基金」

エルフ賢者
「……負担はどうなる?」

アレイド
「人口・輸出力・魔術資源量に応じて、負荷が公平になるよう設定します。
もちろん、自国の負担が過剰になることはありません」

アリア
「わたし、言いたいことがある!」

全員の視線がアリアに向く。

アリア
「六国って、今までずっと“警戒しあってた”でしょ?
でもね、わたしたちは迷宮の中で――
“誰かを信じなきゃ生き残れない”って学んだの。
国だって、同じじゃない?」

エルフ代表が息を呑む。

アリア
「お金を出し合うのって、怖いよね。
裏切られたらどうしようって思うよね。
でも――
信じるって、最初は“怖いまま飛び込むこと”だよ。
その一歩が、未来を作るんだよ!」

静寂。
だがその静寂は、冷たいものではなかった。

獣人国代表
「……聖女殿の言葉、胸にしみたわい。
確かに、わしら獣人も“狩り”では仲間を信じねば死ぬ」

エルフ賢者
「信頼の最初の一歩……か。
聖女殿は、言葉の炎を持っているようだ」

アリア
「ほ、褒められると……ちょっと照れる……!」

アレイドが苦笑しながら言う。

アレイド
「ともあれ――基金の設立は“六国全体の生存”の要です。
ご検討をお願いします」

各国代表が互いに視線を交わし……
やがて、一つずつ頷いた。

ミカ
「――よろしいですね?
では、“共同出資基金《コレクティブ・フレイム》”の設立を可決します」

議場が静かに揺れる。
六国の未来を繋ぐ第一歩が、ここに踏み出された。

ところが、次の議題で空気が一変した。

ミカ
「次は――“魔導兵器規制法”についてです」

ルシア
「魔導兵器……?」

ミカ
「そう。迷宮崩壊の混乱の中で、多くの武器が密売されている。
このままでは国境紛争が起きかねない」

エルフ代表
「魔導兵器は我らの領域でも問題になっている」

ドワーフ代表
「性能が上がりすぎて、扱いを誤れば国が一つ消し飛ぶわい」

アレイド
「だからこそ、“規制”が必要だ。
だが――ここで意見が割れている」

アリア
「割れてるって……?」

アレイド
「“完全禁止”を求める派と、
“国防のための最低限の保持は認めるべき”という派だ」

獣人代表
「完全禁止すれば密輸が増える。
だから最低限は必要だろう」

エルフ賢者
「いや、使用を認めれば暴走は避けられぬ」

議場が一気に騒がしくなる。

ミカ
「――静粛に」

静けさが戻る。

ミカ
「この問題は、王による裁定が必要です。
ルシア、あなたが決断してください」

場の空気が張りつめた。

ルシアはゆっくりと立ち上がる。
手が震えている――しかし、その目は揺れていなかった。

ルシア
「……僕の意見を述べます。
魔導兵器は――“完全禁止”でも“完全許可”でもいけない」

代表者たち
「……?」

ルシア
「魔導兵器は“管理と責任”があれば、
脅威ではなく抑止力になります」

アレイド
「兄さん……?」

ルシア
「六国共同体で共同の管理機構を設立し、
魔導兵器を一括管理する。
国ごとに持たせるから争いが生まれる。
なら――“六国全員のもの”にすればいい」

議場がどよめく。

エルフ賢者
「六国共同管理……!?」

ドワーフ代表
「なんと大胆な……!」

ミカは静かに微笑む。

ミカ
「“管理された力は、守る力になる”――
それが、あなたの炎なのね」

ルシア
「……はい。
僕は争いを恐れません。
でも、争わせる道は選びません。
この国が“誓いの国”なら――
他国とも誓いを交わせるはずです」

アリア
「兄さん……!」

アレイド
「……兄さんらしいな」

アレイドが静かに笑う。
尊敬と誇りが混じった柔らかな笑み。

ミカ
「では、採決に入ります。
“魔導兵器共同管理機構(ユニオン・バスティオン)”の設立に賛成の方は――」

代表者たちがゆっくり手を挙げていく。

全会一致。

ミカ
「――可決です」

議場全体に、温かな息がふっと流れた。

ミカが三兄妹に向き直る。

ミカ
「では、最後に。
本日の決議内容を政令として公布します。
三柱――前へ」

ルシア、アレイド、アリアが立ち上がり、
壇上に並ぶ。

光を帯びた契約書が宙に浮かぶ。

ミカ
「この政令は、“再誓の国ノーヴァ・ヴェルデ”を形作る礎。
三人の署名によって、はじめて発効します」

ルシアが真っ先にペンを取り――
しっかりと筆を走らせる。

『ルシア=エストレーラ』

アレイド
「兄さん、字が震えてるぞ」

ルシア
「し、仕方ないだろ……責任重大なんだから……!」

アリア
「じゃあ、つぎ私ね!」

アリアも大きく、元気いっぱいの字で書き込む。

『アリア=エストレーラ』

アレイド
「最後は僕だな」

静かに、美しく、迷いのない筆致。

『アレイド=エストレーラ』

三つの署名が重なった瞬間――
契約書が白金の光に包まれ、空へと昇っていく。

ミカ
「ここに――
“新政ノーヴァ・ヴェルデ”始動を宣言します」

アーク
「よくやった。三人とも」

ルシア
「……これが、僕らの第一歩です」

アレイド
「いや、兄さん。
これは“終わり”じゃない。始まりだ」

アリア
「うん! これからもっと忙しくなるよ!
でも三人でやれば、大丈夫!」

三兄妹が手を重ねる。

ルシア
「――誓おう」

アレイド
「この国の未来に――」

アリア
「わたしたちの炎を!!」

その声は議場全体に響き、
そして新時代の幕開けを宣言する鐘が――
高らかに鳴り響いた。

 

【10-5 焔は未来へ ― 母と子、そして新たな旅立ち】

・祭典の夜。王都に花火と炎の灯が灯される。
民が歌い、笑い、再誓の宴が開かれる。
・ルシアは城のバルコニーで静かに夜空を見上げる。
→ 胸の中に聞こえる母の声:「これで本当に、あなたの時代よ。」
・ミカとアークの静かな語らい。
「私たちの“物語”は、もう次のページに進むのね。」
「そうだ。――そして、彼らがその続きを紡ぐ。」
・ラストシーン:ルシア・アレイド・アリアが並び立ち、
朝日の中で新時代の旗を掲げる。
> “焔は消えず、未来を照らす”
――魔王国、真の統一王国として新時代の幕が上がる。

 

 

 

 

第7章へ

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第7章は、
①新たな敵(第3部前に考案していた敵)
■ ヴァル=ゼク(登場予定/異界の王)
種族:異界存在/“奈落界”の支配者
特徴:
・「破壊による創造」を掲げる存在。神の不在で次元の裂け目から現れる。
・「世界の定義」「生存の意味」を問う存在に。
②魔王と秘書の後継者達の恋愛事情や諸問題を解決していくストーリー
③新魔王の秘書として又もや現在世界から転生する人が出現。
例:一条悠真(転生してミカ)の後輩の人が過労死などで転生してくる。
男性か女性かはお任せします。可愛い後輩で悠真になついていた
能力は成長とともに悠真の後釜として任されるほどの実力を発揮。
悠真が亡くなった後にその会社の後釜としてポストに就くが悠真と同じく酷使される。
第3部:秘書研修編『未来を継ぐ者たち』のミカの秘書候補3名
と切磋琢磨してミカのポストである秘書の座を誰かが引き継ぐ。
一条悠真(転生してミカ)の後輩が、魔王の秘書としてなる場合
タイトル回収。その後、第8部があるならその後輩が主人公へ。第8部がなく第7部で終了ならEND

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